「ターミナル」

  The Terminal

 (2004/12/27)


  

今回のマクラ

 大体どこの誰でも、空港なんて所は「通過するための場所」。だから空港施設に目を留めて、じっくり見るなんて事はないだろう。

 いたってせいぜい数時間でしかない。一度離れたら二度と戻らないかもしれない。戻ったところで、またほんのわずかな時間で離れる。次に戻ってくるのは何年後か分からない。大半の人々にとって「空港」とはそんな所だ。

 僕は子供の頃から飛行機が好きで、航空関係の仕事に就いた事もある。航空業界の印刷物をつくっていた事もある。それでも、空港そのものにはそれほど行った事はないし、その場にいた時間も長い訳ではない。それは…基本的に空港とは「中継地点」でしかないからだろう。

 そんな僕も、たまたま一時期ある地方空港に頻繁に通う事があった。その時には、その空港についていやでも詳しくなったよね。

 もちろんその時は、同時に東京の羽田空港にも何度も足を運ぶ事になっているんだけど、何しろ羽田はデカ過ぎる。それと比べれば、たとえ大きくとも地方空港は自分の目が届く範囲内の大きさだ。何度も足を運ぶ機会があれば、どうしたって自然といろいろ詳しくなってくる。

 僕がその空港に通っていたのはおよそ3年間。その間はほぼ毎月その空港を利用していたんだから、詳しくもなるはずだ。どこにどんな店がある、トイレはどこで買いたいモノはどこで手に入る、近道はこちらで交通手段への道はこっち…。そう考えてみると、空港ってのは大概のモノがあってそれを手に入れる事が出来る、ちょっとした街みたいなものなんだよね。そうなるとだんだん妙に居心地がよくなって来る。

 元々僕は飛行機好きだから、空港だって大好き。それはラブ・アクチュアリー感想文に書いた通りだ。そこへ居心地がよくなるとくれば、何となく空港にいる事が楽しくなってくる。実際の話、空港がもっと自宅に間近でもっと気楽に行けるのなら、休日のたびに空港の喫茶店でお茶を飲みたいくらいだ。だから僕は毎月の旅の目的の他にも、「空港にいる」という楽しみが出来たんだよね。

 ある時など、東京へ帰るために空港に着いたとたん、吹雪で全便が欠航。旅客ターミナルで乗客たちがみんな途方に暮れる…という状況が起きた。外はもう夜。雪はとてもじゃないが止みそうにない。フライトが再開するにしても明日の話だろう。これから一体どうしよう…? その時たったの一瞬ではあるが、僕はチラッと嬉しく思ったんだよね。

 こりゃいいや、好都合だ、これで空港で一晩明かせる…。

 僕以外の誰であってもそんな事を嬉しくは思わないだろうし、やろうと思う人もいないだろう。だけど僕は、空港ターミナルで一晩明かすのも悪くないんじゃないか…と思ったんだよね。もちろん「マトモな人」なら空港内で寝泊まりなどしない。そんな事したくもない。ちゃんと個室に泊まりたいし、椅子などで寝たくはないだろう。そんな事を好む人間にも思われたくないはずだ。

 だけど「非常事態」ならば仕方あるまい。「仕方なく」空港で一泊したっておかしくはないはずだ。そうしている人間を見ても、誰も笑わないし咎めもしまい。たまたまアクシデントのおかげで、大手を振ってそれをやれるチャンスが巡ってきたのだ。ここは堂々と大好きな空港で夜を明かすのも悪くないんじゃないか…。

 結局この時は、僕は「マトモな人」のフリがしたくて市内に戻り、ビジネスホテルを見つけてそこに泊まった。それで別のお楽しみもあったから、まぁそれはそれで良かったのだが…。

 それでも正直に言うと、「なぜあの時、空港で泊まらなかったのか」…それがいまだに悔やまれてならないんだよね。

 

見る前の予想

 この映画のウワサは、大分以前から耳にしていた。スティーブン・スピルバーグの最新作が空港ターミナルを舞台にした話である…ということ。早速同種の映画を2本ほど想起したが、それらについては後ほど述べるとして…僕はその映画をものすごく期待したんだよね。

 激突!からスピルバーグをリアル・タイムで追い続けて来た僕だからこそ、この映画は大いに気になる。詳しくはこれも後に譲るが、ともかく紆余曲折あったスピルバーグが…久々、本当に何十年ぶりかぐらいにスカッと晴れやかな映画を撮ったと思えたのが、前作キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンだったからだ。

 スピルバーグという名前について回る「イベント・ムービー」やら「メガ・ヒット映画」でもない。揶揄される時に必ず言われるSFX多用映画でもピーター・パン・シンドローム映画でもない。シリアス映画のコロモはかぶせてあるが、どうにも人間洞察に乏しいイビツな作品群とも違う。人間の喜怒哀楽にストレートに訴える、シャレたユーモアで綴られた映画。それでいてスピルバーグらしいハッタリもたっぷり。いやぁ、この映画は大いに楽しめたよね。久々に彼の「復活」を感じた。スピルバーグのファンを自認する人なら(映画ファンと言われる人間で、そんな人が今でもいるかどうか極めて怪しいが)誰しも、この映画を長年の渇きを癒す一作…と狂喜したはずだ。

 だから僕はスピルバーグに、この後もこの路線を期待したんだよね

 またどうせ彼の事だから、大味で無茶なイベント・ムービーもつくるんだろう。大上段から振りかぶったようなシリアス映画もつくるんだろう。だけど正直言って、僕はもうその手のスピルバーグ映画をあまり見たいとは思わない。肩の力の抜けた、円熟味のある作品こそ見てみたい。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を見た今なら、彼にはそれが出来るはず…とハッキリ言えるのだ。

 元々僕が大好きな空港を舞台にした作品…この新作「ターミナル」こそ、そんな僕の期待するスピルバーグ作品なのではないか?

 

あらすじ

 世界有数の大都会ニューヨークの表玄関、ジョン・F・ケネディ国際空港。今日もこの大空港に、喧噪の一日が始まった。早速ミッキーマウスのトレーナーに身を固めた、中国からの偽造パスポートの一団が捕らえられる。そんな中、東欧の小国から到着したばかりのこの男も、入国審査で引っかかってしまう。

 その男はクラコウジアなる国からやって来たトム・ハンクス。英語もロクにしゃべれない彼は、警備員バリー・シャバカ・ヘンリーの前に連れてこられても、まったく事情が飲み込めていない。警備局主任スタンリー・トゥッチからもアレコレ言われるが、まるで分からない。ハンクスはただ、自分がニューヨークの土を踏めると信じて疑わない。これにはトゥッチも大いに苦り切る。彼は何とかハンクスに空港から出ていけない事を理解させ、パスポートと帰りのチケットを取り上げたあげく「許可が出るまでここで待つように」…と言い渡す。

 こうして何枚かの食券やテレフォンカード、そして空港警備局からの呼び出し用のポケベルを渡されたあげく、空港ターミナルに放り出される。そんな状態で、英語もロクに解さないこの男に何が出来よう? 案の定、ハンクスは何が何だか分からないまま呆然と立ちつくすだけだ。

 ところがそんな時、ターミナル内に設置されたテレビが国際ニュースを映し出す

 何とハンクスの祖国クラコウジアでクーデターが勃発。政権が転覆してしまったというのだ。だから今のハンクスには国がないのも同然。今までのパスポートは使用できず、手持ちのお金も使えない。アメリカに入国も出来ないし帰国も出来ない。事ここに及んで、ハンクスは自らが落ち込んだ状況をようやく把握した

 そんなこんなのパニックの中で、もらった食券もなくしてしまう。途方に暮れたハンクスは、現在改装中のターミナルの片隅に寝床を見つけるより他はない。何が入ってるのか古びたピーナッツの缶を後生大事に抱え、ハンクスは寝心地の悪い寝床で眠りに就いた。

 翌日、懲りずに入国申請の列に加わるハンクスだが、女性係官のゾーイ・サルダナの態度は冷たい。用紙が違っているだの記入が漏れているだの、さんざ並び直させたあげくにパスポートがないからダメの一言。まぁ慇懃無礼かつ傲慢は、洋の東西を問わず役人のお約束。だがハンクスはじっと我慢の子だ。

 ところが、そんな彼をモニターテレビで見ながら、苦り切っている男がいた。それは空港警備局主任のトゥッチだ。「空港内で待て」とは言ったが、本当に待っているとは…。本来なら勝手に脱出して勝手に管轄外の役人に捕まって、勝手にこちらの手を煩わす事なく厄介払いされているはずなのに…。そんなテメエに都合のいい事ばかり考えていたトゥッチは、ここは一計を案じてハンクスを目の前から追いやる事に決めた。ハンクスを連れてきて、その小耳にヒソヒソ話。5分間だけ、正面玄関の警備がいなくなるゾ。その間だけは、アメリカがキミに門戸を開く…。

 だがハンクスはそんなワナには乗らなかった。玄関前でしばし考えた後、モニターカメラに宣言する。「僕は待つゾ!」

 これにはトゥッチも怒り心頭だ。

 そしてこのハンクスなる男、ただ途方に暮れて呆然としているだけの男ではなかった。食券がなければ、カネを稼がねばならぬ。空港内のカートを回収すると小銭が稼げる事を発見した彼は、あっちこっちのカートを回収しては小銭をゲット。たちまち結構なカネを手に入れ、念願のメシにありつくのだ。

 しかもガイドブックを見比べたりテレビを見たりしながら、少しづつ英語を覚えていく。言葉が出来るようになれば、やれる事も増えてくる。そして毎日懲りずに入国申請の列に加わる。そんなハンクスの飄々とした態度が、係官のサルダナには不思議で仕方がない。どうせ「入国拒否」のスタンプを押されると分かり切っているのに、何で毎日毎日平然と列に加わるのか?

 だがハンクスはまったく動じない。「キミは“入国許可”の赤いスタンプと“入国拒否”の緑のスタンプを持っている。だったら緑のスタンプが押される確率は五分五分じゃないか!

 そんなハンクスに感化されてか、サルダナの態度は徐々に軟化していく。ハンクスと交わす会話も、まるで日課のようになっていくのだ。

 その頃ハンクスには、一つの出会いがあった。その相手は、フライト・アテンダントのキャサリン・ゼタ=ジョーンズだ。彼女がツルツルに磨き上げられた床で転んだ際に、助け起こしたのがハンクスだ。ホンの偶然で巡り会った彼女に、ハンクスは忘れがたい好印象を抱く

 だが一方で、いつまでも出ていかないハンクスに業を煮やした警備局主任トゥッチは、ハンクスの生命線を断つ作戦に出た。新たに空港内に放置されたカートを回収する要員を配置し、ハンクスの収入源を断とうというのだ。絶対絶命、またしても食事をとれない状態になるハンクス。

 ところがそんなハンクスに、声をかけてくる者がいるから世の中分からない。それはフード・サービス係のディエゴ・ルナだ。「オレの頼みを聞いてくれよ。聞いてくれたらメシの不自由はさせないぜ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想その1

 スピルバーグがハリウッドのヒットメーカーと言われながらも、ここ20年ばかりスカッと抜けた作品をつくれていない事は、ファンならば誰しも感じていた事だろう。

 誰でも映画ファンとしてそれなりの事を言うようになると…まずはスピルバーグにケチをつけてもっともらしい顔をするのが常だった。だが、じゃあどこが悪いんだ…と聞いてみても、ちゃんとした答えを返してもらえる事は極めて少ない

 一番多いのが、カネをかけた映画で人間が描けてないとかSFXやCGばかり使っている…という答えだ。じゃあ聞きたいが、カネをかけてはいけないのか。SFXやCGを使っちゃいけないのか。問題はその使い方ではないのかね。

 あとはピーター・パン・シンドロームとか偽善だとか、そんな話ばっかりだ。そんな作品もあったろうが、そうじゃない作品もあっただろう。正直言って、オマエら岩波ホールで気が滅入りそうなどマイナーな映画だけ見てろ…と言いたくもなる。スピルバーグがダメ…という結論ありきで語っているのがミエミエ。どこがどう悪いのかをちゃんと説明できやしない。分かった上で言ってるならいいが、大半の人間には実際自分でもなぜだか分かっていない。単に「みんなが言ってるから」とか、「そう言えばイイこと言ってる気がする」ぐらいのものでしかない。とりあえずそう言っておけば「分かってる」映画ファンやマニアづら出来るとでも思っているんだろう。こんな奴らにケナされるスピルバーグもお気の毒だとは思っていた。

 そうは言っても実際この20年ばかりは、スピルバーグもこうしたゴタクを並べている連中の言い分を裏付けるような駄作ばかり連発していた。「結果的」に連中の言っている事が正しくなってしまって、こちらも弁護のしようがなかった。ホントにこの時期は悔しかったよね。

 そんな彼がA.I.で新生面を開拓し、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」で、本当に久しぶりに文句なく楽しい映画をつくってくれた。これからはスピルバーグ、どこか違ってくるんじゃないかと思ったんだよね。一皮むけたんじゃないか…と。

 だから…この「ターミナル」は、僕にとって待ちに待った作品だった。

 考えてみればスピルバーグのここ20年ばかりは、やることなすことスベってばかりだったよね。まずはSFXを多用した大作がことごとくスベった。「ジュラシック・パーク」もこの時期にしてはいい出来の方だったが、往年のノリを知っている者には物足りなかった。見る者を圧倒するはずの斬新なコンセプトやダイナミズムに欠けていた。ハッキリ言ってマンネリだったんだろうね。

 そもそも映画をつくる上で彼がめざしていたのは、マンガ的単純さだった。だからビジュアリストとして無類の力強さを手に入れる事が出来たのだ。だがそれを繰り返すうちに、彼自身が飽きてしまった。そこで変にシリアスな映画、シリアスな表現を…と試行錯誤をしていくうちに、彼は訳の分からない表現の迷路へと迷い込んでしまった。

 ではシリアス映画に徹してみよう…と手がけてみても、今度は意外なクソ真面目さが邪魔をする。清濁併せ呑むとか功罪相半ばとか…人生や世の中のグレー・ゾーンを分かっていないスピルバーグでは、シリアスな題材は一本調子な単純さにつながってしまう。でなければ、偽善やらおめでたさ…。

 結局本当に分かる事は「自分」のことだ。ならば「自分」を盛り込めばシリアス映画もつくれるのでは?…と「私」的な要素を拡大していくと、たちまち本来のそんな単純さが露骨に出てきて、誰にもついてこれない映画になってしまう。「フック」の無惨な出来映えは、まさしくそのせいだろう。彼の人間としての欠陥(…大変申し訳ないが、ここではあえてこう言わせてもらう)が映画をつくる上でのユニークな個性にもなっていたのだが、シリアスな映画づくりにはこれが思いっ切り災いする。彼の人生観や世界観は、あまりに単純に過ぎるのだ。その単純さこそが、彼の映画のビジュアル性を尋常ではなく研ぎ澄ませていたのだが…。

 そんな彼が他人の企画「A.I.」で一種の醒めた「客観性」を獲得し、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」で新たな次元に到達した。僕はそれを、スピルバーグ本来の「単純さ」を映画の「ジャンル性」に活かしたのだろう…と解釈した。映画の歴史の中で育まれてきた伝統…その偉大なるワン・パターンにこそ、スピルバーグの新たな活路があると思った。

 今回、まさしく「ターミナル」はそれだった。

 そもそも空港で立ち往生して、そこで暮らし始める人々…という題材は、決して目新しいものではない。ドイツのファイト・ヘルマー監督のゲート・トゥ・ヘヴン(2003)がそうだし、それに先だってジャン・ロシュフォール主演のフランス映画「パリ空港の人々」(1993)もあった。だから企画の良さは感じるものの、実はそう斬新なものでもないのだ。

 むしろここで語るべきは、スピルバーグの「語り口」だろう。

 実際の国際空港の「現実」に即した物語でもあり、確かに一種のリアリティは確保されている。そのためにロケと見誤るほどに精巧で巨大な空港ターミナルのセット(!)も建造している。このあたりヒットメーカー・スピルバーグの面目躍如とも言いたいところだ。

 こうして現実味ある映像が捕らえられているものの、主人公を演じるトム・ハンクスの芝居ぶりを見ればこの映画の狙いはハッキリしている。それは「現代のおとぎ話」だ。

 ハッキリ言ってここでのトム・ハンクスは、東欧からの訪問者をリアルに演じているとは言い難い。どちらかと言えば「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994)から、そのキャリアの初期を飾る「ビッグ」(1988)あたりの演技…人間のイノセンスを強調した役作りだ。徹頭徹尾、イマドキ考えにくいほどにピュアで善意の人間を造形している。それはハッキリ言って、リアルとは言えないだろう。

 そんなピュアな人間を中心に、みんなが感化されていく様子を描いていく。これは、だから「現代のおとぎ話」なのだ。決して「現実」として描いてはいない。

 そうなると…またぞろ「現実」を描いてないスピルバーグ…とか批判も飛んできそうだ。ここでハッキリさせておきたいが、「現実として描かない」のと「現実を描かない」ことは全く違う。

 実は、「現実」を単純化したものが「おとぎ話」だ。実は映画とは、どんな作品でも大なり小なり何かの「おとぎ話」なのだ。その度合いがいくらか違うだけだ。

 なぜなら映像表現とは、常に「抽象化」「単純化」「象徴化」という宿命を帯びているものだからだ。そんな映像表現の最たるものが「映画」というメディアなのだ。

 だが「映画」というメディアは、一方で写真の連続という「記録」の性質も帯びている。ゆえに一見リアルな外見を要求する。このあたりの相反する性質ゆえに、受け取る側が混乱してしまうんだよね。今回もあんなに見事にケネディ空港の状況を再現されたら、これを「リアル」表現だと思っても無理はないだろう。だがそれはビジュアル上の「外見」のものでしかない。

 今回のスピルバーグは、完全に「おとぎ話」を狙った。そしてそれに成功した。さらに彼はこれを「ジャンル映画」として制作することで、自らの持つ「単純性」を最大限に生かしたのだ。

 それは往年のフランク・キャプラの映画だ。

 現代アメリカの典型のような舞台に、明らかによそ者の「イノセント」な人間が現れる。最初に彼に襲いかかるのは、「現実主義」や「刹那主義」や「拝金主義」や「官僚主義」という現代アメリカの…そして全世界の典型的病巣。ところがこの「イノセント」な主人公は、その自らの純粋性と善性ですべてを変える。周囲の人々の心も感化してしまう。フランク・キャプラの映画とは、すべてこのようなコンセプトでつくられている。それはかつてアメリカ映画の良質な「基本」だった。

 スピルバーグは、今回明らかにキャプラを踏襲している。

 フランク・キャプラ“っぽい”映画という「典型」中の「典型」を狙う事で、彼は自らの映像の申し子としての能力をフルに活用した。振り返っていただきたい。今回の作品で、明らかにスピルバーグ作品とおぼしき典型的なカメラワークを目にしただろうか。段取りや演出を見いだしただろうか? いつもは「これみよがし」の演出やらカメラワークが目立つスピルバーグ映画ではないか。その演出手法がアニメに起因するものだということも、僕はE.T.感想文で触れていたはずだと思う。ところが、今回の彼の演出にはそんなギミックがない

 むしろ彼は今回、「フランク・キャプラ作品」という「ジャンル映画」に徹する事を自らに課したのだ。それは「A.I.」で、スタンリー・キューブリックの胸を借りた時とどこか似ている。

 しかもスピルバーグは、自らの「持ち味」を知り尽くしている。往年のハリウッドの巨匠たちと相通じる要素を多く持つスピルバーグは、その中でも自分はどんな作家たちの作品と最もシンクロするのか考えた事があるはずだ。そこで彼が気づいたのは…彼には徹底的なビジュアリストかシンプルなコンセプトを持つ作家こそが相応しいということ。人生のダーク・ゾーンやグレー・ゾーンに目を向けたり、デリケートな視点やニュアンスを持った作家…ビリー・ワイルダーやらハワード・ホークス、エルンスト・ルビッチやフレッド・ジンネマンではあり得ない。あくまでチャーリー・チャプリンジョン・フォードアルフレッド・ヒッチコックや…そして中でもフランク・キャプラこそが、自分の領域だと気づいていたに違いない。

 この映画はスピルバーグが自身の資質を見つめた上で、そこにジャストミートするように作り上げたが故に見事な作品となった。

 そこで描かれるテーマも、いかにもキャプラ作品に相応しいものだ。

 あまりに官僚主義的に「恐怖政治」を敷く警備局主任に対して、上司の局長が苦言を呈する。そこで発せられた言葉は、極めて象徴的だ。「アメリカの美点は、人間性重視と思いやりなんだ」

 笑いもふんだんにあり、ちょっとイイ話もたっぷり盛り込まれたこの映画。もちろん見ている間は大いに楽しませてくれる。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に次いでまたしても余裕のスピルバーグ演出が味わえる。だから小難しい事なんて、一切考えなくてもいい。だけど見ていれば、イヤでも観客にはテーマが伝わる。「これみよがし」でも「居丈高」でもないからこそ、それは素直に伝わるメッセージ…。

 「人種の坩堝=空港ターミナル」という最もアメリカ的状況を舞台にして描かれるのは、寛容さを欠いた現代アメリカ社会への断固とした異議申し立てなのだ。

 

見た後での感想その2

 というわけで大いに気に入ったこの「ターミナル」だが、だからと言ってこの映画が完璧な完成度を誇っているかと言えば…実はちょっと誤算がある。

 それはエンディングだ。

 主人公は意を決して空港から外へ出ていく。ところがそこで映画は終わらない。その後、彼の「目的」を果たしに行くところが描かれる。それを果たし終わったところで、映画はようやく終わる。

 実はこの映画の誤算は、描くべき事が主人公の空港からの脱出で終わってしまう…というところにある。

 その後に起きる事は、すでに事前に僕らには知らされている事だけだ。彼が何のためにアメリカに来て、なぜこんなにじっと待っているのかも知らされている。彼の空港脱出以後は、単にそれを絵で見せていくだけでしかない。ハッキリ言って何も「付加価値」も「意外性」もない、面白みのない時間なのだ。これはちょっといただけないよね。

 実際、アレをわざわざ描くとすると、主人公の旅の「目的」こそが映画にとって最重要で、それを描くために映画がここまで語られて来たという事になる。だが実際の映画は、決してそんな風につくられていない。この作品は、イノセントな人物が放り込まれた事で「空港」という疑似アメリカ的環境がどうなっていくか…を描いた映画のはずだ。ここですでに、この映画にとって何が一番重要か…がズレて来てしまっている。

 実際、主人公が大事にしている缶の中味が何で、何のために10ヶ月も空港内に我慢しているのか…それはこの映画にとってはさほど重要ではない。何もない訳にいかないから、便宜上語っただけだ。

 しかも、正直言ってこの映画で語られる主人公の旅の「目的」は、彼がこんな苦労をするほどの理由には到底思えない。それだけでも弱いのに、それをご丁寧にちゃんと絵で見せてしまったら…空港脱出以後の分かり切っている行動を見せてしまったら、なおさら身もフタもなくなってしまうではないか。

 ここは何とかターミナルを出た時点で、物語を終わらせる事は出来なかったか。あるいは主人公の旅の「目的」を、他の何かに変更する事は出来なかったのか。はたまた、いっそ旅の「目的」を最後まで伏せる事は出来なかったのか?

 これはおとぎ話なのだ。そこにクドクド分かり切った説明など要らないのではないか?

 

見た後の付け足し

 考えてみれば僕は、前述したある空港と東京との行き帰りを繰り返した時だけでなく、ここ10年ばかりずっと宙ぶらりんな時期を過ごしてきたような気がする。その宙ぶらりんさを解消したいと思いつつ、解消するための「何か」を待ち望んで、アッという間に10年の月日を空費してしまったように思える。

 映画中で主人公と親しくなるフライト・アテンダントは、見ている僕が思わずギョッとするような、実に意味深い言葉を発する。

 「人は誰でも待っているものよ」

 そうなのだ。本来ここは自分の居場所ではないと思いつつ、そこから出られずそこでじっと待っている。実は出られないのかもしれないのに、あくまでここは「仮の居場所」だと思い込んで…あるいはそう自分に言い聞かせて、ずっとその場で待っている。

 大事な事や楽しい事や「人生の果実」のようなものは、すべて本当に自分がいるべき場所に着いてから…と勝手に思い込んで、ただただ無為に本来の「居場所」へ行ける時を待っている。本当にやりたい事やるべき事も、今は「その時」ではない今は我慢だ…と自らに言い聞かせて、ズルズル先送りしている

 そんな中途半端で宙ぶらりんな状態で、大事な事は何一つ手に入れず手をつけず、本当は捕まえねばならないモノも「今は時期じゃない」と見逃し続けて…ただただムダに待って時間をつぶしてしまった。それはひょっとしたら、「待っている」ことを口実に、本当に「生きる」ことを放棄していたようにも思える。

 この映画が自分にとって痛かったのは、多分そこだ。

 この映画の主人公も、たしかに宙ぶらりんに待ち続けている。ただ、彼が僕と違うのは、「待っている」間も「生きる」ことを止めなかったことだ。

 本来の「居場所」ではあり得ないはずなのに、彼はそこで一歩も歩みを止めない。メシの糧を自力で得ようとして、知人をつくり、何と恋人まで得ようとする。彼女と付き合いたい…と熱望する事で、仕事を得ようとまでする。その間、彼は一切クサったりはしない。そんな無意味な事に時間と労力を費やさない。ただただその時点で自分に出来る最善を尽くして「生きる」事を止めない。それは「仮の居場所」においては、決してやる必要などないはずのことなのだ。

 だが、自分本来の「居場所」などというものは、本当にどこかに存在しているものだろうか?

 僕には最近それがとても怪しく思える。何かがあるはずだ、ここはその「中間地点」なのだ…と思い続け、自分の目の前にぶら下げられたそれなりの「果実」もすべて見逃してきた。だが、僕はいまだに「中間地点」から出られない。

 そもそも、ここは「中間地点」なのだろうか?

 もう遅いのかもしれないが、僕はこの「中間地点」を見直す時期に来ているのかもしれない。少なくともこの「中間地点」を、自分が「生きる」ための場所にすべきかもしれない。

 「待っている」にしても、ただ「待っている」だけでは空しすぎるではないか。

 

 

 

なお、この「ターミナル」については、2005年1月24日付の「五線譜のラブレター」感想文冒頭にて、僕なりの「改善案」をアップしております。併せてお読みいただければ嬉しいです。

 

 

 

 

 

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