「僕の彼女を紹介します」

  Windstruck

 (2004/12/27)


  

見る前の予想

 好きになれないという人も大勢いる事は承知の上で、それでも僕は猟奇的な彼女(2001)を見た時の圧倒的な感動を忘れる事が出来ない。

 あの映画に惹かれたのはかなり個人的な事情があった事は間違いないが、それでも僕は大好きで気に入っていると言わずにいられない。しかも、後にクァク・ジェヨン監督の次作ラブストーリー(2003)を見るにつけ、この人のただならぬ「愚鈍なまでの直球ストレート」への執念に惹かれた事は間違いないように思った。原題「クラシック」そのものの…イマドキ「時代遅れ」とも扱われてしまいそうな「直球ストレート」

 だが「ラブストーリー」はそこに賛同は出来るものの、その一方で薄ら寒さを感じさせなくもなかった。「時代遅れ」でなくて、それが人間の基本的感情なんだ…という志は分かるのだが、文字通り「時代遅れ」に成り下がっちゃってる部分も少なからず散見出来た。すごく微妙なバランスの上にかろうじて成り立っている作品に見えたんだよね。で、クァク・ジェヨン監督の次の作品は、この路線でいくとキツいだろうな…とも思った。

 そんな彼の新作「僕の彼女を紹介します」が、何と「猟奇的」のヒロイン=チョン・ジヒョンを起用したものだ…と聞いて、嬉しい反面イヤ〜な予感もしたんだよね

 それはファンとしては、あの「猟奇的」の楽しさや感激を再び味わいたい。だが「好評に応えての第二弾」というシロモノほど、結果が空しくなるものはないのだ。しかもヒロインは正義感が強いが向こう見ずで無茶な婦人警官で、「彼」との出会いは無理矢理の誤認逮捕だった…と来ると、誰がどうしたって「猟奇的」ヒロインの焼き直しと思わずにはいられない。

 実はもっとイヤな予感が広がったのは、この映画の予告編を見た時だった。

 ボブ・ディランの「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」が流れて、涙を流すヒロインが大写しになって…こりゃいかん、こりゃマズイ。何でマズイかは後で詳しく述べるとして、僕はちょっと辟易して来ちゃったんだよね。

 時は2004年も暮れ。世はまさに「韓流ブーム」の真っ直中。人工的で見た目はキレイな「純愛」が溢れかえって飽和状態。韓国映画も日本映画も、何かと言えば恋人や嫁さんが死ぬ話ばかり。何でそんなに純愛で泣きたいのか。そんなに現実には愛がないのか。そこにアリみたいに群がる人々にも…申し訳ないが少々腰が退けそうだ。いつからそう決まったのか分からないが、韓国映画というと「純愛」かホラー(笑)…ってのも何だか納得できない。おまけにどこかの中心で何かを叫ぼうという輩ばっかり。別に中心じゃなくたっていいだろうし、何もいちいち叫ばなくたっていいだろう。この押しつけがましさは一体何なのだ。

 純愛純愛って、愛も優しさもカケラもなさそうな連中が何を血迷っているのか。たまには愛なんてお題目を掲げないような、爛れたカラダだけのラブストーリーとか出来ないものか(笑)。大体が泣け泣けって言われたって、立て立てって言われてナニが立たなくなるようなものだ。濡れてもいないのに入れられたら痛いだけだろうが。こちとらそんなに器用に出来てないんだよ。

 …と、こちらの見るモチベーションは思いっ切り冷却しっぱなし。「紹介します」って…別に紹介してくれなくて結構!…ぐらいに冷え切っていた(笑)。

 それでも…「猟奇的」のあの監督とヒロインの最新作となれば、やっぱり気になるし見たくはなるんだよね。

 万が一、一億分の一でも予想がハズれる事だってあるだろう?

 

あらすじ

 大都会ソウルの美しい夜景。だが、そのビル群の一角…中でも一際高い高層ビルのてっぺんに、一人の若い女の子が佇んでいるのを気づく人はいなかった。

 彼女の名はチョン・ジヒョン。今、彼女はその目に涙をいっぱいに溜めて、ビルの屋上から遙か下に目がけてダイブした!

 さて、彼女がそんな事になるまでの経緯とは…?

 それは、ある日のソウル市の昼下がりに端を発する。雑踏の中を突っ走る男二人。後ろからはオバチャンの叫び声が飛んでくる。「泥棒〜っ! 私のバッグを返せ〜っ!」

 今まさにバッグを盗んで逃走中の男を、もう一人の若い男チャン・ヒョクが追いかけて取り押さえようとしていた。だがオバチャンの叫び声を、一人の若い女が聞きつけたのが運の尽き。その女こそ、例のチョン・ジヒョンだ。

 彼女は正義感ムキ出しで犯人を追跡…したつもりが、なぜか善意で真犯人を追いかけてるチャン・ヒョクを「犯人」だと思い込んだからタチが悪い。様子が変だとチャン・ヒョクが気づいた時には手遅れ。チョン・ジヒョンはチャン・ヒョクにしがみついたあげくボコボコにして、警察署まで引きずって行くではないか。

 ちなみに彼女は、本日は非番の婦人警官

 警察署に引っ張られて完全に犯人扱いのチャン・ヒョクだったが、どうも周りの警官たちが半信半疑風の態度をとっているところを見ると、こうした彼女の行動は今に始まった事ではないようだ。何しろ被害者のオバチャン自体が納得しきれてない様子。そのうちチャン・ヒョクが語った「犯人の特徴」から似顔絵が描かれるに至って、さすがのチョン・ジヒョンも風向きが変わった事を感じずにはいられない。

 ともかく諸般の状況から見て無罪放免。ようやくホッとして警察署から出てくるチャン・ヒョクだ。だが彼が捕まった横町に入ったところで、例の盗まれたオバチャンのバッグを見つけてしまう。すると何とも間の悪い事に、またしてもあの婦人警官チョン・ジヒョンがつけ回しているではないか。こうしてまたまたチョン・ジヒョンに捕まって、警察署に逆戻りのチャン・ヒョク。ところが一足先に、ひったくり犯は警察署で御用になっていた…。

 こうしてようやく正真正銘の無罪放免となったチャン・ヒョクだが、この二度の誤認逮捕にはさすがの彼もいささかキレた。平然とその場から立ち去ろうとするチョン・ジヒョンに、怒りの言葉をかけずにいられない。「おい、“ごめん”ぐらい言え!

 だがチョン・ジヒョンはまるでこたえてない。「アンタの名前を“ごめん”に代えるなら、そう言ってあげるわよ」

 この不敵な言い草には、ただただ憮然とするしかないチャン・ヒョクであった。

 そんなチャン・ヒョクは女子校の教師。ある夜、警官と組んで非行防止の夜回りをする事になり、あの警察署へとやって来る。ところが物事の巡り合わせとは悪い方悪い方へと回っていくもの。組むことになった警官は、またしてもあの無謀婦人警官チョン・ジヒョンだったからたまらない。

 まずは夜の街をヤニくってツルんで歩く男子高校生たちをブチのめし、さらには麻薬取引?…とおぼしき怪しげな男を追跡。そんな事のために来てる訳でない…と腰が退けたチャン・ヒョクまで、無理矢理手錠でつながれて付き合わされてしまう。

 すると…怪しげな男が入っていったのは、人けのない廃工場だ。早速銃を構えてチョン・ジヒョン(とチャン・ヒョク)が中へと入っていくと、「いかにも」の黒服のギャング集団がワンサカ。今まさに取り引きが行われようとしているところだ。

 そんな場面に銃構えた婦人警官が入ってくれば、一触即発になるに決まってる。ただし…確かに一触即発になるにはなったが、風向きはいささか予想と違った。「誰が警察を呼んだ?」と取り引きの双方がお互いに疑心暗鬼になったため、ギャングたちがお互いに銃を向けてにらみ合い状態。誰も婦人警官(と手錠でつながれた男)の事など気にかけてる余裕がない。ところがまことに心憎いタイミングで、二人の背後の重たい金属の扉が閉じたからたまらない。

 バ〜〜〜〜ン!

 さぁ一斉に始まる銃撃戦。辺り構わず銃弾が飛び交い、ギャングたちは双方を攻撃して自滅。そこに警官隊も急襲して、とりあえずその場は鎮圧された。すると最初チョン・ジヒョンが追っていた怪しい男が、憤って彼女を罵るではないか。「オマエのおかげでオレの芸術的な捜査がパーだ!」

 何とあの男はおとり捜査官だった。これにはさすがにマズかった…と、スゴスゴその場を引き上げるチョン・ジヒョン(とチャン・ヒョク)だった。

 そんなこんなで警察署に戻ってきたチョン・ジヒョンとチャン・ヒョク。カギを手に入れて手錠をはずそうと思っていたが、なぜかカギが見つからない。どうしたものか…と思案しているところに、招かれざる客が現れるではないか。

 先刻チョン・ジヒョンがブチのめした不良高校生は、どうも議員の息子だったらしい。その議員というのが、ガラの悪そうな男どもを引き連れているような下劣男。早速手下を引き連れて、息子の仇をとりに乗り込んで来たわけ。議員風を吹かせて言いたい放題。じっとこらえるチョン・ジヒョンの頬を、調子こいて二発三発ひっぱたくに至って…。

 普段は大人しいチャン・ヒョクがいきなりキレた!

 チョン・ジヒョンの拳銃を奪うと、いきなり議員の頭を狙って脅しまくるからたまらない。おまけに「殺人・放火・強姦」の前科三犯とのウソ八百で、議員と手下に土下座させるわ謝罪させるわ…ビビりまくった議員たちは、慌てて警察署を逃げ出すに至った。

 これで一気に心が通い合うチョン・ジヒョンとチャン・ヒョク。

 ある日、チャン・ヒョクの勤める女子校に、授業の真っ最中に乗り込んでいくチョン・ジヒョン。彼女は手弁当を持参すると、面食らうチャン・ヒョクを横目に女生徒たちの前で堂々「恋人宣言」をするのだった…。 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想その1

 まず、この映画を見始めてまいっちゃったのが、ヒロインの登場の仕方だった。

 警官が誤認逮捕ってのもマズければ、その後の態度もマズい。あげく自分でハッキリ「謝らない」と言い切る始末。これにはさすがにいかがなもんだろうと呆れ果てた。ハッキリ言って、このヒロインを好きになれそうもなかったんだよね。ハチャメチャで奔放なおかしさを狙っているんだろうが、まったく笑えない。楽しくなれないからねぇ。

 そもそも宣伝では、ヒロインの設定って「猟奇的」と似て非なるモノとの触れ込みだが…。

 ハッキリ言って「二番煎じ」

 どこが違うのか分からない。どう見たって「二番煎じ」以外の何者でもないだろう。それも、なまじっか「婦人警官」なんて権力背負っているだけにタチが悪い。単なるムチャクチャな女子大生の邪気のない言動ってレベルじゃ、もはや済まされないではないか。

 それから起きるハチャメチャぶりも、「猟奇的」では三枚目な「彼」チャ・テヒョンがコミカルに受け止めてくれていたからもってた部分もある。だが今回の「彼」チャン・ヒョクってのは、中途半端に二枚目ってところがこれまた弱い。これではこのヒロインを笑えったって無理だ。

 こりゃあ最初っからこのザマではどうしようもないな…と思い始めた矢先、ちょっとばっかし気分が変わる場面が出てきた。

 麻薬取引現場に乗り込んだ二人…の図。

 絶体絶命の状況になるかと思えば、何と二人を無視してギャングたちがにらみ合い。あげくの果てに双方自滅の銃撃戦というバカバカしさ。ここに至って、僕もようやく頭のネジを切り替えるに至った。

 そうか…これは「マンガそのもの」の映画なんだ。

 確かに「マンガみたい」な映画ってのはザラにある。「マンガみたい」な設定や物語展開もある。だけど「マンガそのもの」ってのはそれとは若干異なる。それは設定が突拍子もないだけでなく、きっと“描き方も違う”のだ。

 僕はここまで見ていて、どこか「猟奇的」みたいに「ハジケてるけど現実と地続き」のお話を想定していた。…というか、大半の映画ってのは普通そうだからね。ところがこの映画は、あまり現実とはお構いなしに話が進んでいくみたいなのだ。そもそも、誤認逮捕がアレで済むわけはないだろう。非行防止の夜回りをするような場所のすぐそばで、大がかりな麻薬取引なんかやらないだろう。ましていくら無謀な警官でも、ど素人を手錠でつないでそこに連れては行かないだろう。議員の頭に銃を突きつけて、ただで済むはずもないだろう。確かにそうだよ、もっと早く気づくはずだった。

 そう思って見始めたとたん、この映画は「何となくノレないでもない映画」へと変わったんだよね。

 

見た後での感想その2

 二人の仲が深まっていったり、ズッコケ捜査の場面が出てきたり…それも「マンガそのもの映画」と見ればおかしくはない。ただ、ちょっとだけ引っかかる部分は依然としてあった。

 それはまず、ヒロインの過去みたいなモノがチラッと出てくるあたりだ。

 双子の姉がいて、その彼女が命を落とす…というエピソードって、この映画に必要なんだろうか? それが彼女をあれほどの無謀な婦人警官にした…って訳にも思えないし。あまり意味があるようには思えない。まずはここでガクッと来た。

 それ以外にも、かなり唐突に出てくる「伏線」とも言えない数々の要素

 二人がクルマで旅に出てからまず気になったのは、「彼」チャン・ヒョクが草原でいきなり言い出すこの発言だ。

 「僕は前世では風だった」

 一体何を言い出すのか(笑)? オレがこんな台詞をいきなり付き合ってた女に言ったなら、あの女はその後どれくらいその言葉を引き合いに出してオレをバカにしただろうか…想像するだに恐ろしい(笑)。そもそも、何でそんな話になったのだ。あまりに唐突過ぎるし、それを聞いて平然としているチョン・ジヒョンの反応も不気味だ。

 さらに奇妙なエピソードは続く。これまた唐突に出てくるお姫様と王子様の話。最初は「猟奇的」にいくつも挿入されていた、「マトリックス」風SFアクションとか時代劇とか…あんな趣向かと思いきや、これが最後にはマジも大マジ。亡くなった王子が、霊として49日目に戻ってくるというお話になるんだよね。

 ヨーロッパ風の話なのに演じてるのが韓国人のチョン・ジヒョンとチャン・ヒョクというのも、最初はコッケイ味を狙ったんだろうと思っていたのだが、まさかマジな展開になるとは思わなかった。実は奇妙な事はもう一つあって、そもそも「四十九日」なんて発想は東洋のソレだろう。一体これは何なのだ?

 ともかく…この「前世は風」と「四十九日」のエピソードは、出し方も唐突なら引っ込め方も唐突。違和感アリアリ。これは後々で伏線になるとは知りつつも、こんな取って付けたようなシロモノでは伏線とは言わない。こうも露骨では、もはや「伏線」ではないだろう。それは電線か導火線ってところだ(笑)。

 そう、導火線だ。しかも、もはや爆弾の在処は知れている。

 こんなムチャクチャな「マンガ」映画、命がいくつあっても足りないような状況を自らつくってるヒロインの映画で、「彼」が「僕の前世」云々なんて言うだろうか? ヒロインが「四十九日」がどうのなんて言うだろうか? こいつらとても死なんか意識しているはずがない。ところが、ここで無理矢理観客には「死」のイメージが植え付けられる。

 そして昨今巷で大流行な「純愛」には、「死」は必携アイテムだ。

 実は、予告編を見て「マズイ」と思った理由もそこにある。ガンガン流れているのは、ボブ・ディランの「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」だ。

 ハッキリ言ってこの曲、知られているには知られているが、「風に吹かれて」とか「ライク・ア・ローリング・ストーン」とか「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」とか、あまたあるディランの歌の中で突出して有名というわけではない。およそディランと縁がなさそうな、この映画にわざわざ流すには不似合いな曲なのだ。そして昨今この曲が脚光を浴びたのは、ミニシアターでヒットしたあるドイツ映画でのこと。その名もノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(1997)だ…。

 この映画の主人公二人は、映画の最初から限りある命を宣告されている。彼らがタイムリミットいっぱいまで、どこでどう行動するかが描かれていく。

 この曲を映画で今のこの時に使用するという事は、少なからずドイツ映画「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」を意識しているに違いない。その使い方の無神経さが少々恥ずかしい…何だか「あの映画に使っててイイからこっちでも使おう」ってレベルの発想って気がするではないか。しかもこれを使う事によって、最初っから映画に「死」のイメージを纏わそうというのがミエミエではないか。

 だから問題はハッキリしてくる。ヒロインか「彼」か、死ぬのはこのどっちかだ。冒頭で涙流してヒロインが自殺を図ろうとしているということは、死ぬのは「彼」に違いない

 こうなると、映画は「彼」の死までのカウントダウンをしているだけになってしまう。物語がすべて「彼」を死なせるためにだけ機能してしまう。何だかそれもイヤな感じなんだよね。

 

見た後での感想その3

 案の定、激しい雨が降り出し、悪天候の中を二人がクルマを走らせる…となってくると、いよいよ「おいでなすったな」…というシラけた気分になってくる。映画はここが盛り上げどころなんだろうが、こっちの胸の中は盛り下がる。岩山が崩れ始め大きな岩が道路にバンバン転がり落ちてくるあたりの、CGまで使っての趣向の大げさぶりが…な〜んだか「ファイトーッ!いっぱぁーつ!」のリポビタンDのテレビCFみたいにも見えて、なおさら感興が削がれる。で、思った通りにクルマが川に転落するや、「やれやれ」…と苦笑すらこみ上げてくる始末だ。

 ところが…これがフェイントなんだよね

 何とコレは「引っかけ」なわけ。それにしては「彼」が息を吹き返すまでの泣かせどころが、あまりに長すぎやしないか? さんざっぱらコッテリ泣かせようとしていたあの演出は何だったの?…という気もしないでもないが、とにかく「彼」は生き残ってしまう

 ところがコレがまたタチが悪くて、実はここで「彼」を助けた事の方が本当のフェイント。一端は油断させておいて、次にまたドド〜ンと落っことすという展開だ。何だそれは一体?

 劇中でヒロインも図らずも口に出して言ってるけど、それじゃ「何のために助けたのか分からない」じゃないか!

 それもヒロインが「彼」を殺したかのような…実はそれもちょっとした誤解と運命のイタズラなんだが…何とも後味の悪い展開。おまけにそれが後々何かの伏線になる訳でもないあざとさ。そもそも…そこに「彼」がいる事自体が本来だったらありえない展開だ。

 ありえねー!

 これに比べれば「カンフーハッスル」なんて100倍あり得る展開だ。ここで「彼」をブチ殺すためだけに、一度彼が捜査現場に迷い込むエピソードを挿入したのか。それってあまりにあざとすぎやしないか。

 

見た後での感想その4

 かくして世をはかなんだヒロインが、ビルから飛び降りて「彼」の後を追おうとする…この映画の冒頭部分へと戻っていく。

 何だか妙に展開が早いな…と思っていると、ここでとんだジャマが入ったから驚いた。家出したガキが絡む意表を突いたエピソードの挿入だ。

 またしてもフェイント!

 しかもここでチェンジ・オブ・ペースを図ったにも関わらず、ヒロインは再度飛び降り自殺を試みる。すると…今度はまさしく驚くべき展開になって、彼女は見事に助かってしまうではないか

 ありえねー!

 ハッキリ言って、これをマトモにやったらどうしようもなかった。間違いなく劇場内失笑苦笑の渦になってしまっただろう。ところが…完全にではないまでも、ある程度まで映画は何とか持ちこたえているではないか。これはほとんど奇跡に近いよ。普通なら爆笑モノになりかねないこの展開がなぜ持ちこたえられたか…と言えば、途中でフェイント=家出したガキのふざけたエピソードを挟んだからだ。これは実に巧みだよね。

 1回目のフェイントは僕に違和感しか与えなかったけど、実はよくよく考えると「死」をイメージさせる「前世は風」とか「四十九日」などのあんまりな発言と「彼」の実際の死との間に挟まる事によって、そのわざとらしさをいくらかでも中和する働きがあった。そして2回目のフェイントは、思いっ切り深刻になったお話とモロに「マンガ」すぎる展開との間に挟まる事によって、両者の巨大な落差を埋める働きをしていたのだ。あの家出少年のエピソードなしには、あれほど無茶な「マンガ」すぎる展開は耐えられなかっただろう。

 いや…実際のところ見ている側としては、例え家出少年のエピソードがあっても「ありゃ何だ?」と一言言いたいところなんだけどね(笑)。

 

見た後での感想その5

 実はこの映画の「ありゃ何だ?」はそれにとどまらない。実は映画全編に流れる音楽についても、かなりビックリさせられたりするのだ。

 アメリカのオールディーズが流れたかと思えば、前述のボブ・ディラン「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」(ただしオリジナルのディランのバージョンではない)…そしてなぜかX JAPAN! いきなり日本語の歌が聞こえて来た時の衝撃は…ちょっと忘れがたいよ。何をどう驚いているんだって? だってこれは韓国映画なんだよ。とてもじゃないが、韓国映画から日本語の歌なんて聴けるとは思ってなかったからね。ちょっと前までホントにそんな状態だった。これは個人的には感慨深かったよね。

 ただ、それが良かったかどうか…は別問題だ。

 普通こういう時にはこう言うのが定石なんだろう。…あちこちから集めてきた別々の音源が、まるで違和感なく収まっていて見事だ。アキ・カウリスマキの過去のない男でも日本語の歌が使われていたが、あれと同様まったく見事に画面と溶け込んでいる…。

 ありえねー!

 ごめん、今書いたのは全部ウソだ。まったく収まってなんかいやしない。メチャクチャ違和感ありすぎ。全然しっくりなんか来ない。X JAPANなんか日本語だ…ってだけでも取ってつけたようだ。近頃既成曲を使った映画が増えているが、こんなに映画に溶け込んでいないのも珍しい

 エリック・サティの「ジムノペディ」も使われているが、それが一番有名でそれしか知らないからじゃないか(笑)? ハッキリ言って、聞いてて少々恥ずかしかったよ。そういや前作「ラブストーリー」でも、何の臆面もなくパッヘルベルのカノン流してたっけ(笑)。まぁ、いい曲だって言えばいい曲だけど…。

 一体どうやったらこんなに悪趣味な選曲が出来るのだ?

 

見た後での感想その6

 先に述べた2度のフェイントとその前後に限らず、この映画ではエピソードごとに映画の中の気分がガラッと変わる。メチャメチャにナンセンスなギャグ映画として捕らえるべきか、親しみの湧く恋愛映画として捕らえるべきか、ロマンティック・ファンタジーとして捕らえるべきか、超自然的なパワーを描いた作品として捕らえるべきか…これは見ている側がその都度自分の考えを軌道修正して見ていかねばならない映画なのだ。

 そのあたりをうまく言えないのだが、ギア・チェンジをするような要領で気分を変えて見ていく。5段変速か6段変速か分からないが、とにかくそういうギアの変更を観客に要求する映画みたいなんだよね。そうでないと、ビルの屋上から飛び降りようとしていた切羽詰まったようなヒロインの表情と、その直後の家出したガキどもへの彼女のコミカルな態度の落差が理解出来ない。人物の感情の動きとして、本当だったら「普通の映画」ではほとんどありえない変化なのだ。

 実は僕は、前述したビルから飛び降りて助かったヒロインの描写を見ていて、先日東京国際映画祭で見た中国映画恋愛中のパオペイを思い出した。この映画にも、何とも似たような「ありえねー」描写が出てくるんだよね。そしてアレも見ていて「この映画ってどう捕らえればいいのか?」…と、しばらく理解に苦しむような映画だった。まぁ、ジャン=ジャック・ベネックスの「ディーバ」(1981)あたりから派生した、一種の「ジャンル越境」映画の一環だろうと僕は解釈したのだが…ともかくそれがあまりうまくいってるとは言い難い作品だった。

 では「僕の彼女を紹介します」がそのような「ジャンル越境」映画=いわゆる「何でもアリ」映画なのか…と言えば、そんな「高尚なモノ」を狙っているフシも見受けられない(笑)。一体何なのだ、このムチャクチャぶりは?

 

見た後での感想その7

 ムチャクチャぶりはその後もさらにパワーアップして、石原プロの刑事テレビドラマみたいに荒唐無稽な見せ場があるかと思えば、妙にロマンティックさを強調した趣向もあり、さらにはヒロインが命を落としかかる思いっ切り深刻な展開もある。何が何だか分からない。気持ちをどっちにシフトしていいのか迷う。

 だが、それでも何となく…自分の気持ちが一方向へと収束させられていっている事に気づき始めるのだ。

 それは、ヒロインの「彼」を思う一途な想いだ。

 他の要素はコロコロ変わるし意味不明に使い捨てられるモノも多い。十二分に活かされている要素ばかりでもないと思えるのだが、どうもこのヒロインの想いだけは一貫しているように思える。何しろ他がチャカチャカと目まぐるしく入れ替わり立ち替わり状態だから、なおさらこのヒロインの想いだけは不変のモノとして感じられる。それが自らを死に至らしめようと思ったり、いつまでも後ろ向きになっていたり…と「負」の方向に向かう事もしばしばだが、ともかく想い続けている気持ちはホンモノだと強調されるのだ。

 おやおや?…いよいよこのあたりが着地どころかな?

 それにしたってこの物語、一体どう終わらせるのか…僕が何とも落ち着かない気分になってきたその時、いきなり不意を付いて「ソレ」は襲いかかって来るではないか!

 思い出の写真と来たか!

 長い長い年月を経ての「縁」の物語となると、ピーター・チャン監督の香港映画「ラヴソング」(1996)を思い出す。あるいは因果話に修学旅行も絡めると、つい先日の金城武主演ターンレフト・ターンライト(2002)も想起される。しかし、今回のコレにはいきなりアッパーカットを食らったよ。

 マ、マズイ…!

 そこにすかさず…思ってもいなかったダメ押しのエンディングだ!

 ええええっ? 汚ねえ〜。いきなりこんな「禁じ手」を使うとは。だが、それが妙に気にならない。不思議に腹も立たない。しかもそれまで腑に落ちなかった一切合切が、この幕切れでどうでも良くなってしまったのだ。そして映画もそのままストンと終わってしまう。

 不出来な映画だとは分かっている。なのに、最後にちゃんと持って行かれてしまったんだよなぁ。

 何段変速かでギア・チェンジを繰り返してきたこの映画、それが最後の最後でいきなり究極のトップに2段階で跳ね上がったような力業の展開…。

 一体何だったのだ、あれは? 夢でも見ていたのか?

 

見た後での感想その8

 見終わった後、しばし呆然となる事請け合いのこの映画。むしろ伝統的な映画のセオリーで考えると、絶対その範疇に収まらないのがこの作品だ。

 確かに映画のセオリーで考えるとそうだ。では、映画以外のセオリーで考えたらどうだ?

 先に僕は、ありえない描写の事を「マンガ」と言った。

 「マンガみたい」ではなく「マンガそのもの」。実はこのあたりのエピソードごとの繋がりにこそ、「マンガそのもの」たる所以があるのではないか。それも日本で言えば…戦後少年マンガを支えて来たオーソドックスなストーリー・マンガの伝統でない。どっちかと言えば元々は「少女マンガ」から派生してきた手法だ。

 例えば従来よりの少女マンガでは、基本的にヒロインなどの主要登場人物がシリアスに描かれていても、ある時には甘ったるく背景に花々が描かれるような描写が許される。またある時には、いきなり顔がガラッと変貌してコミカルなギャグマンガのそれになったり、あるいはカラダが二等身から三等身に縮んだりする。それでもマンガ全体としては、あくまでギャグマンガではなかったりするのだ。一つのお話の中で、スタイルが不節操に二転三転する

 これが伝統的な少年マンガではこうはいかない。例えばかつての「あしたのジョー」や「巨人の星」で、主人公がいきなりお茶目なギャグは飛ばさない。実はこうした手法をシリアスな少年マンガで実行していた例外もあるにはあるが、それは手塚治虫か石森章太郎などごく一部の作家だけだった。それも、非常に限られたカタチで用いられた。

 ただし…実は現在では少年マンガ(というものが存在しているのかどうか疑問だが)も、同様の手法をとる事が多いようだ。それは…たぶん少年マンガのヒロインの顔が少女マンガのそれに酷似し始め、恋愛がその題材となってきた頃だろう…と僕は踏んでいるが、少年マンガの「少女化」が今回の話題ではないからコレについては別の機会に譲る。

 だとすると…この映画を仮に「少女マンガの恋愛モノ」だと考えるなら、この展開はアリではないか?

 「少女マンガ」だったなら、確かにそれでもいい。「小さな幸せ」を描いたラブコメ風な場面があってもいい、ナンセンス・ギャグが出てきてもいい、石原プロ刑事ドラマ風の荒唐無稽アクションがあってもいい、夢の中にしか出てこないような奇跡のファンタジーがあってもいい…。この映画と同じストーリー、同じ展開があったとしても、読者はさほど違和感を感じないのではないか? いや、それは単に「ありがちなモノ」でしかないだろう。

 そして証拠も確信もないのだが、韓国と日本では極めて類似したマンガ文化を持っているように思える。

 そもそもの国同士の近さ、他の文化的要素の近さから言っても、両国のマンガ文化が似てくるのは道理というものだろう。ならば韓国に「少女マンガ」があったっていいはずだ。韓国映画が「少女マンガ」化した作品を生み出しても、何らおかしくはないと思う。

 ただし基本的に映像のリアリズム志向である映画の場合、本当の「マンガ」ほどに派手な振幅で映像スタイルを変えるのは困難だ。それをやるにはハナッから映像をいじって、「キューティー・ハニー」みたいな事をしなければならないだろう。だが、それをやったらやったで、まるっきり別の映画になりはしないか?

 場面によって主人公をお目目に星キラキラにしたり背景にお花を散りばめたり、あるいは三等身にしたり鼻水を垂らしたり…そんな「マンガ」特有で許されるスタイル変更を、映画ではどうやって見せればいいのか。

 これは正解かどうかは分からないが…あの雑多なサウンドトラックこそが、そんな試行錯誤の産物のように思える。

 どう考えても違和感アリアリな音楽使用で、その都度「ここで雰囲気変わりますよ」と伝えているのかもしれない。あるいはそこまでは無理にしても、ともかく“この映画のルールではバラバラなスタイル共存がアリなのだ”…と見る者に伝える意味はあるだろう。後は「硬軟自在」で芝居できるチョン・ジヒョンに一任して強行突破だ。

 そもそも…僕は奇妙な事に気づいていたのだ。それは劇中でヒロインが語る、「四十九日」に関するおとぎ話のくだり。思いっ切りヨーロッパ風のお姫様と王子様のおとぎ話なのに、なぜか「四十九日」のお話というのも奇妙と言えば奇妙だ。だが最も奇妙なのは、その幕切れを飾る音楽…。

 どこからともなく朝鮮の伝統楽器の音色が聞こえて来るではないか。

 およそヨーロッパの宮廷衣装が似合わない韓国俳優で演じているのも変なのだが、それはそれ…コミカルな効果を狙っていたと言えば言えないでもない。だが実際には、このおとぎ話にはシリアスな伏線が仕込まれていた。違和感はすでにそこから始まっているのだ。さらに、何でここに朝鮮楽器が使われているのか?

 ゴッタ煮感覚も程がある。…というより、これは単に「無神経」だけではこうはならないだろう。

 考えてもみてくれ。何しろわざわざ見ている人間を一瞬醒めさせるとしか思えない、日本のX JAPANまでがブチ込まれているのだ。それって、前述のカウリスマキ作品での日本語の歌の使用とはまるっきり問題が違う。この国の映画で日本語の歌が流れるというのは、センスとかそういう事とは全く次元の違う問題なのだ。

 似たような曲なら掃いて捨てるほどあるはず。あれは絶対に「わざと」だよね。

 

見た後での感想その9

 仮にこの映画のいろいろの特徴が、ある種の「映画の少女マンガ化」を狙ったモノだとすると、いろいろな奇妙な点がとりあえず説明づけられる。まったくの正解ではないかもしれないが、ある程度近いところは突いてるんじゃないかと思うんだよね。ただ…だとすると一番大きな疑問が残る。

 なぜ、この映画を「少女マンガ」スタイルでつくらねばならなかったのか?

 そのあたりの事情は、僕自身が「ラブストーリー」感想文で書いた事と、微妙に関係してくるかもしれない。

 そもそもこの映画の監督クァク・ジェヨンという人、昨今の韓国映画に溢れかえる「新人」ではないというところがポイントだ。実は韓国映画界は1980年代にニューウェーブを巻き起こして、さまざまな意欲的若手を輩出した。だがその動きも1990年代には沈静化。1990末以降に今の韓国映画の新しい動きが出てきた時には、社会全体も映画界の様子も映画観客も、さらには映画そのものもすっかり様相が一変していた。僕らは今、その一変してから後…「シュリ」以降の韓国映画を見ているわけだ。その延長線上に、今の「韓流」ブームもある。

 それからは、一時あれだけ勢いのあった「ニューウェーブ」の作家たちもスッカリ「過去の人」扱い。作品はほとんど日本には来なくなったし、そもそも本国でも作品発表機会が極端に少なくなった。そういう一連の動きとは無縁に作品をコンスタントに発表しているのは、「シバジ」(1986)、「風の丘を越えて/西便制」(1993)、「春香伝」(2000)などのイム・グォンテク監督ぐらいしかいない。

 クァク・ジェヨン監督は、1980年代末期にデビューした…どちらかと言えば「ニューウェーブ末期」の映画監督という事になる。

 で、やっぱり他の監督たちと同じく、2001年の「猟奇的な彼女」を撮るまで7〜8年のブランクを余儀なくされていたようだ。「猟奇的」は彼にとって起死回生の一作だった訳だよね。この成功を引っ提げた彼は、次に満を持して「ラブストーリー」を発表したわけだ。

 そんな彼の持ち味は古典的とも言える「純粋な感情の発露」だということを、僕は「ラブストーリー」感想文でクドクドと語ったはずだ。何しろクァク・ジェヨン監督自身、あの映画の原題を「クラシック」とする事で、それを明らかに宣言している。「ラブストーリー」は「猟奇的」の大成功によって実現した作品だ。ならばそこでのクァク・ジェヨンの発言力は、前作より格段に増しているに違いない。つまり「ラブストーリー」は「猟奇的」よりも、クァク・ジェヨン本人の意図に近い作品ということになる。

 「クラシック」とは基本であり純粋性だ。これ抜きには本当に観客の心を動かす事は出来ない。クァク・ジェヨンはそう思っていたし、僕もそれは本当に正しいだろうと思うんだよね。

 ただ、イマドキこれだけ表現が氾濫してしまうと、そんな「基本」もそのままストレートに出す訳にはいかない。それでは芸がなさ過ぎる。すでにコロモが色褪せて陳腐化してしまっているからだ。「クラシック」とはベタで泥臭くて時代遅れって事でもあるからね。

 案の定、「ラブストーリー」はエポック・メイキングな「猟奇的」ほどには作品的に成功しなかったように思う。好きな映画でよく出来ているとは思うが、時代の産物としての「映画」の鮮度の点では「猟奇的」に一歩も二歩も譲っている気がした。やりたいようにやったクァク・ジェヨンとしては、これは少なからず憂慮すべき問題だったと思うんだよね。

 そもそも、なぜ「ラブストーリー」は「猟奇的」より失速してしまったのか?

 それはクァク・ジェヨンが根本的にどのような映画作家なのか…という事に関わってくると思う。さらには、「猟奇的」の成功要因を自分でどのように捕らえたか…にも関わってくるはずだ。

 元々がクァク・ジェヨンは、「基本」と「純粋性」を重んじる映画作家のはずだ。沈黙前の作品がどのようなモノだったか確かめる術がないので何とも言えないのだが、より自分の意図通りにつくったであろう「ラブストーリー」が「クラシック」な作品だった事からして、彼の元々のやりたい事は明らかな気がする。

 ところで久々に沈黙を破って大成功を得た「猟奇的」は、インターネット小説を題材にしたモノだった。インターネットだから新しい…と思うほど僕も単純ではないが、それでも何がしかのアップトゥデートさはあったのではないだろうか? 少なくともクァク・ジェヨンの方法論から一番抜け落ちがちな、「時代の気分」や「リアリティ」はそこにあったと思う。逆にそんなイマドキ「ネット小説」に欠けてしまいがちなのは、「基本」であり「純粋性」…すなわち「クラシック」だ。「猟奇的」はこのネット小説とクァク・ジェヨンの両者がお互いを補完し合いながら生まれた、イマドキとクラシックの「理想的な結婚」みたいな作品だったと思えるんだよね。

 それまでの忍従の時を経ていきなり陽の当たる場所に躍り出たクァク・ジェヨンは、彼なりに「成功の方程式」を掴んだはずだ。イマドキとクラシックの合体…オレならばそれが出来る。

 次の「ラブストーリー」の構成を思い浮かべていただきたい。父母の代の純愛物語と、イマドキ・ギャルの恋愛話のパラレル構成。何とクァク・ジェヨンは律儀すぎる程に「イマドキとクラシックの合体」を行っているではないか。ところが…ここが盲点だった。

 両者を通して登場するヒロインが、やっぱりいささか古風な女の子だったんだよね。

 だからイマドキの恋愛話の方が、恐ろしくリアリティを欠いている。これは致命的だ。親の代の純愛話は、近年マレに見るほどツボにハマった出来映えで、見る者の涙を徹底的に絞りだす。ところが片方のイマドキ編が魅力に欠けるので、かなり感興を削がれてしまうのだ。古い話を撮らせれば抜群にうまいのに、イマドキ話はダメ…これにはクァク・ジェヨンもほとほと頭を痛めたのではないか。

 では、次に「イマドキとクラシックの合体」を考えた場合、果たしてどんな手を使えばいいのか?…ここからクァク・ジェヨンの模索が始まったはずだ。

 「映画の少女マンガ化」は、明らかにその回答のはずなんだよね。

 

見た後での感想その10

 まずはマンガ文化自体が…今でこそオトナだって読むとは言え、基本的に若い人のものだろう。中でも「少女マンガ」は感度の高い若い女の子を相手にしているだけに、そんな感覚を確実に備えているはずだ。中でも瞬間的にテイストが変わっていくという芸当は、クロスオーバーしてジャンルを越境する「時代の気分」と合っている。ラジオのチューナーをいじってどんどん選局していくような…いや、ズバリと言えばネットサーフィンの感覚に近いかもしれない。チャカチャカと風向きや瞬間風速が変わるタッチは、まさに現代性の先駆なのかもしれない。「少女マンガ」はそれらを先取りしていたのだ。

 だが一方で、「少女マンガ」はビックリするくらいピュアな感情も抱えている。どこか陳腐でガキっぽくてくだらないモノと揶揄されているのは、そこに意外なまでに「泥臭い」「古風」なモノが隠されているからだろう。つまりは…それは「クラシック」だ。

 「少女マンガ」…それこそがクァク・ジェヨンの求めているモノではないか!

 前作で落とし穴だったヒロインには、「猟奇的」はもちろん…悲劇的ホラーの4人の食卓(2003)をも通過したチョン・ジヒョンを再度起用する。彼女ならば現代性があって、しかも硬軟自在な演技を見せられるはずだ。映画のスタイルの瞬間的なギア・チェンジにも耐えられるに違いない。

 その結果、作品はどうなったのか?

 なるほど従来通りの映画セオリーから考えて、この映画の出来映えには大いに疑問が残る。構成上はハッキリ言ってメチャクチャだ。作劇上また映画文法の上で、「やってはいけない」と思われる事ばかりバンバンやらかしている。だが破綻しているように見えて、映画が失敗だったとは言い切れない。見終わった後の感慨が何とも捨てがたいのだ。それはクァク・ジェヨンの映画づくりの意図が、完全とは言えないまでもある程度達成できていたからなんだろう。それは「意味のある」メチャクチャだ。

 そして構成が破綻しながらも強烈な訴求力を持つという点では…僕が今年見てきた、さまざまな他の映画たちを思い起こさずにはいられない。

 何度も何度も同じ事を繰り返すようで申し訳ない。だが今年は本当にこうした映画が目立った。クエンティン・タランティーノのあのキル・ビルVol.1同Vol.2、チャン・イーモウのLOVERS/謀、石井克人の茶の味、是枝裕和の誰も知らない、ベルナルド・ベルトルッチのドリーマーズ、ソフィア・コッポラのロスト・イン・トランスレーション、マイケル・ウィンターボトムのCODE 46、宮崎駿のハウルの動く城…などなどなど。必ずしもそれを意図していた訳ではなく偶然そうなってしまったような、M・ナイト・シャマランのヴィレッジを引き合いに出してもいいかもしれない。

 これらはすべて意図もまちまちだし出来映えもバラバラなので、ひとくくりにするのは本当は良くないのかもしれない。志が高くてそうなったものばかりでもない。だが、あえて便宜上これらをとりあえず「破綻映画」と総称させてもらうとすれば、確かにこの「僕の彼女を紹介します」も今年の「破綻映画」の範疇に入れていいはずだ。

 成功しているとは言い難い。だが、その試みは注目に値する。何よりも、見ていて真に迫った事だけは確かなのだからね。

 

見た後の付け足し

 真に迫ってもいたし鳥肌も立った。この映画の幕切れには泣かされた。僕はあの手のエンディングにはめっぽう弱いのだ。

 実際クァク・ジェヨンも、最後のアレをやりたくてこの映画をつくったんだと思うよ。ここで言う最後の「アレ」とは写真が出てくるエピソードでもあるし、その直後の駅のホームでの驚きのカメオ出演も含めての「アレ」だ。

 僕はあのくだりも、決して単なる楽屋落ちやサービス・アトラクションじゃないと思っているんだよね。

 一見ちょっとしたおふざけに過ぎないと思える。だけどあの幕切れは、「猟奇的」「ラブストーリー」にも相通じるものがあるではないか。「スパイキッズ」のラストにあのスターが出てきたり、「花嫁はギャングスター」の最後にあのスターが出てきたり…というのとは、決定的に質が違う気がする。だって物語の根幹に関わる部分だからね。

 僕はあの場面を見て、何だか手塚治虫の「火の鳥」で、猿田彦が邪馬台国から地球滅亡の未来にかけて時空を超えて登場するのを思い出した。あるいはクシシュトフ・キエシロフスキの「デカローグ」10部作(1988)や「トリコロール」三部作(1993〜1994)で、登場人物がそれぞれのエピソードに相互乗り入れしているのを連想した。そこには必然があると思うんだよね。

 運命の奇妙さ、縁の不思議さを繰り返し訴えるクァク・ジェヨンなら、あのエピソードをおふざけでやったとは思えない。「猟奇的」チョン・ジヒョンのヒロイン再登板も、このエンディングが理由の一つである事は間違いない。それはクァク・ジェヨンにとって、絶対に譲れない一線だったはずだ。

 同じように、彼はあえて違和感を醸し出すX JAPANの楽曲使用にこだわった。さらには冒頭のソウル夜景の空撮にこだわった。実はソウルの夜間空撮って、これまで「空襲」(!)の危険を回避するために許可されなかったと言う。何とこの作品が初めての快挙らしいのだ。

 日本語の楽曲使用にソウル夜間空撮…今回クァク・ジェヨンが破ったバリアは、いずれもこんな「少女マンガ」映画とは落差のデカすぎる「戦後韓国のダーク・ゾーン」ばかりだ。そこには韓国の過去の苦くて痛い歴史がチラついている。でも、だからこそ彼はあえてやったのかもしれない。それは彼が、あくまで「クラシック」を信じているからではないか。

 「クラシック」…すなわちピュアな感情こそが、世の中をいい方向に変えるはずなのだから。

 

 

 

 

 

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