「スカイ・キャプテン
 /ワールド・オブ・トゥモロー」

  Sky Captain and the World of Tomorrow

 (2004/12/13)


  

見る前の予想

 この映画については予告編を見て知った。1930年代バリバリのニューヨーク。モノクロもどきに脱色したカラー映像。そこにロボット大襲来。そのロボットやら最新鋭のマシンの数々が、何とも「流線型」レトロなシロモノ。そして登場するヒーロー「スカイ・キャプテン」こと超ハンサム男ジュード・ロウ!

 CGを駆使してるのにウルトラ・レトロ。あり得なかった過去、過去から見た未来。このセンスの良さは何なのだ。大昔のSFパルプ・マガジンの絵柄がそのまま蘇ったみたいだ。もしこの予告編通りに映画全編が出来ているなら、それだけで傑作なのは間違いない。見るしかないだろう、SF好きならば。

 

あらすじ

 1939年のニューヨーク。ドイツが誇る巨大飛行船「ヒンデンブルグ三世」号が、この世界最大の都市の上空に現れた。

 乗客の中には、ある有名な科学者ジュリアン・キュリーが乗っていた。ところが彼は身の危険を感じて、カバンを乗員に託した。そのままキュリーが失踪したのは言うまでもない。

 「クロニクル」紙の特ダネ記者グウィネス・パルトロウは、この事件に注目した。というのも、ここ最近著名な科学者が次々姿を消していたからだ。しかも「ナゾの失踪事件」を記事にしたとたん、パルトロウ自身にタレ込みがあるではないか。編集長マイケル・ガンボンの心配をよそに、パルトロウはタレ込み相手の指定した「ラジオ・シティ・ミュージック・ホール」へと出かけていったのだが…。

 「ラジオ・シティ・ミュージック・ホール」では、目下「オズの魔法使」を上映中。ところが早速パルトロウに接触してくる者あり。この男、自らも知られた科学者トレバー・バクスターであると名乗るが、言ってる事が支離滅裂。自分たちは「ユニット・イレブン」に参加した科学者だが、その科学者たちが今回失踪した人々だと言う。そして元凶として「トーテンコフ」なる男の名前を挙げるが、「もう手遅れだ」とビビりまくって去っていく。当然パルトロウには何の事かサッパリ分からない。そこにいきなり空襲警報が!

 慌てて映画館を飛び出す人々。バクスターも姿を消してしまった。そして驚いた事に…。

 ニューヨーク上空に、無数の戦闘機の編隊が飛来してくるではないか!

 人々は大慌てで逃げまどう。だが特ダネ記者パルトロウとしては、ここで逃げている訳にはいかない。早速事件の渦中に飛び込むべく、逃げまどう人々と逆行して街中へと走っていく。

 すると…戦闘機と見えたものは、実は巨大ロボット。彼らはマンハッタン市街に着陸するや、いきなり地響きを立てて進軍を開始するではないか。クルマを踏みつぶし、警察の防衛戦を難なく突破。完全に街の中心部を制圧して、何やら奇妙な事を始めている。

 この様子を見ていたパルトロウは、高鳴る胸を押さえながらカメラのシャッターを切った。ところがウッカリとロボットの進軍の渦中に巻き込まれ、あわや巨大ロボットに踏みつぶされんとしていたちょうどその時…!

 「スカイ・キャプテン、スカイ・キャプテン、応答せよ!」

 いざと言う時に頼りになる男…スカイ・キャプテンことジュード・ロウが、愛機に乗ってニューヨーク上空に現れた! まずはロボット軍団に機銃掃射を浴びせたが、彼らの鋼鉄のボディはびくともしない。次にロープを張って行く手を遮ろうとしたが、これも難なく突破される。そこでさらに次の手…ロボット一体の足の部分に爆弾を発射、足をぶっ飛ばしてロボットたちを横転させた。これが危機一髪のパルトロウの命も救った。

 これがロボットたちに効いたのかどうか…突然どこからともなく何らかの命令が下ったごとく、ロボットたちは唐突に飛び去り、いずこかへと消えていった。

 勝ち誇るように飛ぶスカイ・キャプテンの愛機を見つめ、感慨深げなパルトロウ。そんな彼女の姿を、ジュード・ロウも窓から見つめていた。はてさてこの二人、いかなる因縁があるものやら…。

 ところで今回のロボット攻撃は、実はニューヨークに限った事ではなかった。パリ、ロンドン、モスクワ、東京…世界各地の大都市で、多種多様なロボットがさまざまな施設を狙って一斉に攻撃を開始したのだ。そこで世界各国の首脳は、スカイ・キャプテンことジュード・ロウたちに事件の捜査を依頼してきた。

 さて、自らの基地へと帰還したジュード・ロウは、捕獲した巨大ロボットの残骸を友人であり天才的技術者ジョバンニ・リビシに渡す。リビシもまたジュード・ロウに報告があった。実は彼は一連のロボット攻撃のおり、どこからともなく彼らをコントロールする電波が送られていたのをキャッチしていたのだ。この次にキャッチ出来たら、その発信源を特定できるかもしれない。

 ところが…そんなジュード・ロウの元を、あのパルトロウが訪れた。

 これには思わずシブい顔のジュード・ロウ。どうも二人は過去に恋人同士だったらしいが、南京で何やらトラブったようだ。それ以来、お互い気まずい気持ちを抱いたまま。今もジュード・ロウは彼女を信じてはいない。彼女も特ダネ記者の本性丸出しで、彼に食いついて離れない。パルトロウが科学者失踪事件の手がかりを持っているとなれば、無下に追い払う訳にもいくまい。

 実は今まで水面下でも、各地でさまざまなロボットによる攻撃事件が起きてはいたのだ。だがパニックを恐れてすべては伏せられたままだった。今回のニューヨーク襲撃では、ロボットたちはマンハッタン地下にある発電施設の機械を奪おうとしていたようだ。一体これらの事件は誰が、何のために行っているのか?

 さてジュード・ロウとパルトロウは手を組んで事件の真相を追う事になり、早速居所の分かったトレバー・バクスターのオフィスへと向かう。ところがそこには先客がいた。不思議な黒メガネ黒頭巾女バイ・リンが、何かを探しにやって来ていた。ジュード・ロウがこの女を取り押さえようとすると、逆に吹っ飛ばされるアリサマ。おまけにヤケに敏捷で、アッという間に姿を消してしまった。

 虫の息のバクスターを見つけだしたパルトロウは、彼から何やら二本の試験管を託される。バクスターいわく、「これが敵の手に渡ったら地球の破滅だ」

 だがパルトロウは特ダネ記者気質からか、この二本の試験管についてはジュード・ロウに黙っていた。

 そんな折りもおり、スカイ・キャプテンことジュード・ロウたちの基地に、新たな敵が襲ってきた。それは羽根をバタバタと鳥のように羽ばたかせて飛ぶ、何とも奇妙な戦闘機の一団だ。早速愛機に乗って迎え討つジュード・ロウ。チャッカリ後ろにはパルトロウも同乗だ。本音を言えばジュード・ロウとしては足手まといだが、手を組んだ以上乗せない訳にはいかない。かくして羽ばたき戦隊を叩くために出撃だ。

 だが敵はなかなかに手強い。しかも今回はコントロール電波の発信源を探らねばならない。基地は激しい攻撃を受けていたが、リビシは避難もせずに逆探知を続けていた。一方ロウとパルトロウを乗せた戦闘機も孤軍奮闘。マンハッタンを舞台に縦横無尽の戦いを繰り広げていた。

 かくして何とか敵をやっつけ基地に戻ってきたロウとパルトロウだが、基地は壊滅状態だった。リビシも何者かに連れ去られた後だ。これにはショックを隠せないジュード・ロウ。ところがリビシもさる者、ちゃんと発信源を特定し、その場所をロウたちに示してくれていた。彼は地図の切れっ端を印して、その場に残していたのだ。

 ロウとパルトロウは、早速戦闘機で出発した…敵の発信源、ネパールへ!

 

見た後での感想

 え〜と、僕の映画の感想文を長く読んでいる方…特に今年になってから読み始めた方なら、何となく毎度毎度のパターンをお気づきの事と思う。「これは面白そう」と思っていたら、「つまらなかった」。「あまり期待できない」と思っていたら、「すごく面白かった」。…あるいは「こんな映画」だと思っていたら、予想外に「あんな映画」だった…とか、ともかく映画って「予想通り」って事はあまりないんだよね。

 ところがこの映画は、非常にマレなケースだ。

 予告編見た時の通り。ほぼあのイメージのままだ。着想の勝利でもあるし、それを支える表現を実現できた技術の勝利でもある。

 ここで描かれる1939年が「実際にあった1939年」ではない事は、映画を見始めてすぐに分かる。1937年に事故で爆発し、その後は航空史から姿を消した「ヒンデンブルグ」号…しかもその「三世」号が現役バリバリに登場している事からも、作者の狙いは明らか。…というか、この「ヒンデンブルグ三世」号は観客に対する「宣言」であり「目配せ」なんだよね。

 ここからは「かくあるべきだった過去」の話…あるいは「過去から見た未来」の話だと。

 で、映画全編に、当時のセンスで描いたかのような「未来」像が散りばめられている。まるでフリッツ・ラングの「メトロポリス」(1926)みたいな雰囲気…流線型なレトロ・モダンのセンスやら、そのどこか「表現主義」を思わせる美学やら…で全編がつくられている。これが何とも懐かしくも新しい。先日、深夜のテレビで放映されていた「鉄人28号」のリメイク・アニメ・シリーズが、原作発表当時の昭和30年代の東京を舞台に描かれていたが、ちょうどそんな感じだ。…もっとも、あれってこの「スカイ・キャプテン」の存在を知って、まんまパクったのかもしれないが(笑)。

 映画全体もモノクロに限りなく近い色調の、脱色したカラーで描かれる。おまけに戦前のモノクロ・スタンダード映画のソフト・フォーカスな質感を再現だ。この凝りようには驚くよね。徹底ぶりに脱帽したくなる。また、こうした世界観の再現に、全編CGをふんだんに使用しているのは言うまでもない。

 だが、こうなっちゃうと…実はある一つの危険性も考えられなくもないのだ。

 そのウルトラ・レトロ・モダンな感覚、かつてのSFパルプ・マガジン風なイメージ、徹底的な戦前映画の画調…と来ると、それらを実現するために全面的にCGに頼らねばならなかった事も含めて、本来はあまり健康的な事には思えないはず。非常に「閉じた」テイストとでも言おうか、限りなく「後ろ向き」とでも言おうか…早い話が、「オタク」が一人でハシャイでるというイヤ〜な雰囲気を醸し出したはずだ。

 今回の作品で突如出現したケリー・コンランなる監督、まずは短編のデモ画面を自力でつくってプレゼンしたというあたり、ソウで出てきた二人組を連想させる。実はこの彼らにも、そんな「オタク」じみた脆弱さを感じないではなかった。ならばこのコンランも、その着想には脱帽しつつも「ちょっとなぁ」…と疑問を感じるところだろう。

 だが、出来上がった映画は意外なまでの清々しさだ。

 これが意外だ。普通はオタクな「閉じた」映画になるところなのに。どう考えても不健康で不健全な映画にとどまってしまうはずなのに、どうしてこの作品はそうはならなかったのか?

 

見た後の付け足し

 この映画の場合、そのレトロ・モダンの達成の仕方、SFパルプ・マガジン・イメージの実現の仕方、戦前モノクロ映画画質の再現の仕方…が見事なのももちろんだが…実は最も優れているのが俳優の選択だ。

 ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウ、そしてアンジェリーナ・ジョリー。

 ハッキリ言ってマンガなお話のマンガなキャラクター。だがこの三人はそれを実に忠実に再現し、見事に実体化している。その俳優選択の確かさと共に、演じきった俳優の力量にも脱帽したよ。

 そもそも「映画ファン」とか「批評家」という人種は、映画俳優の演技に対して往々にして誤解をしがちだ。文芸作品の映画化、舞台劇の映画化、あるいはカメラ長回しのアドリブ作品…などなどなどでの大熱演から逆に何もやってないがごときナチュラル演技が、大概は高く評価されがちだ。実際うまそうに見えるしね。

 だが、「典型」を寸分違わず再現すること…万人が期待する通りに、イメージを具体化して演じることこそ、最も難しく高い技術を要求されることではないのか?

 まして今回はセットもなく、ほとんどがブルーバックなどを背景に演じるという状況だったらしい。そのことの是非はともかく、それをやりおおせた俳優たちは素晴らしかったと思うよね。

 ジュード・ロウのテッカテカに光ってるようなヒーローぶりには驚いた。考えてみれば、イマドキこの人ぐらい「二枚目」と言える人もいない。逆にそれがアダとなって、イマドキの映画ではストレートにそれが出せなくなっていた。僕はロード・トゥ・パーディションあたりを見て、妙に「クサい」演技に染まってちっちゃくなっちゃうんじゃないかと警戒していたが、コールド・マウンテンと今回の作品でその心配もなくなった。「水もしたたるイイ男」を問答無用で演じられるのは、もはやこの男しかいない。「うまい」役者なんかクサるほどいるのだから、そっちを極めてスケールでっかいスターになってもらいたいよね。男の目から見たって文句のない「二枚目」。「マツケン・サンバ」だって似合いそうなロウ様(笑)だからこそ、チマッと「うまい役者」なんかになって欲しくはない。ジュード・ロウはこれでいいのだ。

 グウィネス・パルトロウはあまり好きな女優ではなかったが、今回は本当に感心した。愚かで生意気で可愛げのある女の役を、ピタッと正確に演じていて素晴らしい。これってバカにして言ってる訳ではない。今の女優さんはコレが出来ない。みんな自分を利口に見せる事しかしないバカ女優ばっかりだ。ただ「脱ぐ」だけにも「必然性」とか屁理屈つけたがるあたり、バカの最たるものだろう。ガタガタ言わず黙って「脱げ」と言いたい(笑)。それって自分がバカだからこそ利口に見せたいのか…まぁこれ以上文句を言っても仕方ないのだが、役者は「バカやれてナンボ」だよね。自分を偉そうに見せたいなら、役者を辞めてからにしろ。

 そういう意味では…トゥームレイダーといいコレといい、アンジェリーナ・ジョリーって分かってるねぇ。この人って本当にバカになりきっている(笑)。バカが出来る奴は賢いのだ。今回の主役三人は、誰もがバカに徹していて素晴らしいよ。また、彼らを選んだ側も実に分かってる。

 で、ここがこの映画の一番素晴らしいところだ。

 ビジュアル面でちゃんとした世界観を提示出来たのが、この映画の成功の原因なのは間違いないだろう。だが、それって実はこの映画の一番魅力的なところではない。

 ヒーローとヒロインとの、バカバカしくも愉快なやりとりを見ていただきたい。イマドキはすっかり見られなくなった、往年のハリウッド娯楽映画の軽妙洒脱な会話を彷彿とさせるではないか。確かに昨今の殺伐とした世相や日常では、この味は出せまい。やろうとしてみても、どこか寒くなるだけだろう。

 それゆえの…レトロ・モダン、SFパルプ・マガジン、戦前モノクロ映画画質イメージだったのか。

 僕はこの映画がこれほどビジュアルに凝りまくった映画で、「オタク」なこだわりに満ちた映画なのに、「閉じた」印象がないのを不思議に思ってたんだよね。で、ここに思い当たって「なるほど」と思った。

 この映画のコテコテなビジュアルも、それらはあくまで「かつての映画」の中に生きていた「軽妙洒脱な登場人物のやりとり」を再現せんがため…のものだった。つまり「題材」と「表現」が一致していた。あくまで「目的」のための「手段」でしかなかった。ここの点は、実に重要だよ。

 「オタク」映画が限りなく閉ざされているのは、彼らがこの部分を調子に乗って忘れてしまうからだ。彼らはしばしば「手段」を「目的」にしてしまう。あるいは両者を混同してしまう。だが「作品」というものは、あくまで「描きたいもの」があっての「表現」だろう。これを間違ってもらっては困る。残念ながら「ソウ」もこのへんを掴みかねてズッコケている。

 そんなこの映画の「生身の役者」へのこだわりは、カメオ出演として…何と今は亡きローレンス・オリビエを起用したやり方にハッキリ出ている。

 ただし僕がそう指摘すると、これには反論される方も少なくないかもしれない。いわく、今回のオリビエ起用こそがこの監督の「役者」軽視、ヒューマン・ファクター軽視…ビジュアルと技術に偏重した「オタク」志向の最たるモノではないか…と。

 確かにすでに亡くなったオリビエの過去のフィルムからデータを取り込み、それを画面上に再現して「出演」させた手つきは、そんなヒューマン・ファクター軽視の方向性を思わせなくもない。なぜなら…これをエスカレートさせていけば、サンプリングだけで映画が出来てしまう。亡くなった名優を起用して映画がつくれるし、過去の映画の改竄だって出来る。ズバリ言えば、生身の役者が要らなくなる。

 だがこの映画では、故オリビエ起用にあたって自らに一つの枷をハメた

 あくまでホログラム再生素材としてのみ、オリビエの映像を使ったのだ。それは映画の画面上でも、あくまで「イリュージョン」として見なされる。しかもその主はすでに死んでいたという設定。「実体」ではなく「ゴースト」だ…と執拗なまでに強調されるのだ。これは一体どう考えたらいいのか?

 つまりは、データのサンプリングはあくまで「ゴースト」でしかないということではないか。

 こうした使い方をする事によって、この映画は明らかに生身の役者とデータとの間に一線を画した。それらを混同はしないとあえて宣言した。無論この映画は「ゴースト」ではなく、あくまで「実体」の側に立つ。技術ではなく、ヒューマン・ファクターこそが重要だと認識しているのだ。

 そういう意味でこの「スカイ・キャプテン」は、同じCGを多用していてもポーラー・エクスプレスの極北に位置する作品だ。「ポーラー・エクスプレス」と違ってこの映画の作り手は、 少なくともここの部分だけは気づいていたからね。

 ドラマの中心には「人間」が必要だということを…。

 

 

 

 

 

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