「ハウルの動く城」

  Howl's Moving Castle

 (2004/12/13)


  

見る前の予想その1

 自慢じゃないが僕が国民的映画である宮崎アニメ童貞だった事は、千と千尋の神隠し(2001)の感想文に書いた通りだ。テレビあたりでチラチラ見た事はあっても、ちゃんと気合いを入れて見たことはなかった。なぜと言われても答えに窮する。タイミングとしか言いようがない。あと、強いて言うなれば宮崎駿その人の持っているイヤミな雰囲気。あんな男の映画なんか見たくないってのは正直な気持ちだろう。もちろん絶対見ないと誓いを立てた訳ではないが、宮崎アニメ以外にも見るものはある。僕の中で、宮崎アニメが最優先にはなってない…ということだったんだよね。

 だが実際に「千と千尋」を見れば、こりゃあ大変な作品だなぁ…と感心はした。その後、ルパン三世/カリオストロの城(1979)をDVDで見れば、これはもっと大変な作品だ…と驚きもした。それはそれ、マニアや長年のファンを自認する人々には、いくらでも言い分はあるだろう。やっぱり「トトロ」だ…だの、「ラピュタ」を見なきゃ…だの、言いたい事は山ほどあるだろう。だが、何を今さら…とバカにされようが何だろうが、見る機会も見る気もなかったんだし、ひとたび見たらこれが面白かったんだから仕方がない。例えば今あなたが1980年代の韓国映画「ディープ・ブルー・ナイト」を見て“韓流イケメン映画なんかよりずっとイイ”と発言しても、僕は「何を今さら」とは言わないし、あなたが今まで見なかった事を責めもしない。SF映画ならハマー・プロの「火星人地球大襲撃」を見なきゃ話にならない…とも言わない。映画鑑賞とはそんな個人的なもんだろう。人が偉そうにとやかく言う事ではないのだ。

 だから、その後アレを見ろコレを見ろ…と言われて、確かに見れば面白いんだろうなとは思ったけど、それ以降は僕の宮崎体験が増える事はなかった。

 確かに僕の中では、「次の宮崎作品が公開されたら見てもいいな」…と思うくらいの意識の変化はあった。そう思いながら、「千と千尋」の中にチラつく説教臭さに辟易してもいた。しかも、宮崎アニメを見てきた人から言わせればアレはマシな方…とのこと。僕がどこか宮崎アニメに腰が退けていたのは、そんなあたりが理由でもあったんだよね。

 ところが「千と千尋」はベルリン映画祭の金熊賞やらオスカーの長編アニメ賞やらを取って、宮崎アニメはすっかりハクがついてしまった。何となく僕にとって、敷居が高い作品になっちゃったんだよね。

 おまけに…いよいよ新作のウワサが流れてくると、どうも「反戦」テーマの作品らしいと言うではないか。げ〜っ、そりゃ最悪だ。

 そんな立派な作品、僕ごときに見せていただかなくて結構。そんな皮肉の一つも言いたくなるよ。

 

見る前の予想その2

 そもそも映画のテーマとして掲げられるもっともらしい「テーマ」の類でも、「反戦」テーマほどやっかいなものはないのではないか。

 確かに何かとキナ臭い雰囲気が立ちこめる昨今だ。いまや世界的注目を集める宮崎たるもの、ここで何かを言いたくなる気持ちも分からないでもない。

 だが、どうもそういう発想って…映画をいい方向に持っていかない方が多いように思う。

 「反戦映画」とやらの胡散臭さ、その成立の難しさについては、僕がターミネーター2感想文に書いた通りだ。まずは作り手と見る側が「戦争の当事者」としての自覚を持たない、火の見櫓の上に立って高みの見物をしているような映画になってしまっては、「反戦」テーマなんてチャンチャラおかしいシロモノでしかない。さも自分は関係ないような顔をして、どこかよその人に向かって偉そうに「戦争なんてしちゃダメ」なんてしたり顔で言うことほど意味のないモノはないのだ。

 結局それっていうのは、「反戦」と発言する人間とそれを受け止める人間にとっての「自己満足」でしかない。こんな「高邁」で「崇高」で「知的」で「正義」なメッセージを発信し、受け止める「ワタシ」って素晴らしい…っていう、どうにも鼻持ちならない思い上がりでしかない。

 本当はこういうメッセージを届かせねばならないのは、「反戦」メッセージに与しない人々…つまりは「好戦」的な人々や、あるいは「反戦」「好戦」どちらでもない浮動票的人々のはずだ。ところがこんな安易な「反戦」メッセージの発信では、「好戦」的人々も浮動票的人々も、どちらも退いてしまうに決まっている。良心と理性ある「反戦」的人々ですら、「こりゃいかがなものか」と腰が退けてくるかもしれない。ツルんでると見られたくないからね。喜んでいるのはシンパだけ。そんな空疎な「反戦」メッセージなら、むしろいっそない方がいいのだ。

 だから昨今のキナ臭い雰囲気も、僕はこうしたイカサマくさい「反戦」メッセージを不用意にまき散らしてきた、自称「反戦思想の持ち主」連中の仕業みたいなもんだと思っているんだよね。あまりに偽善とウソと自己満足にまみれた「反戦」メッセージが安易にバラまかれたり、くだらんイデオロギーやらテメエのバックには誰がついてるとか誰とツルんでるとかを表明するための道具に使われたりして、人々が心底それらにウンザリしたがゆえの結果…。もう「反戦」なんてヘドが出る、インチキ臭い、オトモダチだと思われたくない…と人々が思ってしまったからじゃないか?

 ところがここで「説教臭さ」の権化・宮崎アニメでそれを大々的にやられたらどうだ。その波及効果たるや、これまでの比ではない。いよいよとどめを刺すようなものではないか。映画そのものも救いようがなくなるよ。

 

見る前の予想その3

 大分前から予告編が劇場にかけられ、その豪華な声優陣が明らかになるにつれ…実は少々違和感も感じないではなかった。

 倍賞千恵子、美輪明宏、我修院達也などなどなど…豪華かつ異色の顔ぶれが揃ったオールスター・キャスト。その中でも一際目を惹くのは、キムタクこと木村拓哉の声の出演だ。折からウォン・カーウァイ2046への出演が話題になっていた時でもある。ただ、その「2046」への出演が何かと揶揄されていたように、この「ハウル」へのキムタク声の出演は、かなり意地悪い視線で見られていたように思われる。

 かく言う僕も、ちょっとどうかなぁ…と冷ややかな眼差しを投げかけていたのは事実だ。興業上の理由もあるんだろうが、キムタクねぇ…。

 それと同時に、そもそも声のオールスターを「いかがなものか」とする向きも多かったと思うんだよね。声優というのは、かなり専門的な職分だろう。それを、言わば「素人」にやらせていいものだろうか。そういえば「千と千尋」もすでに「オールスター」化してはいたが、今回は前作なんか比じゃない派手さではないか。多くの映画ファンがこうした宮崎アニメの方向性を疑問視するのは、確かに分かる。

 そもそも予告編でなかなかキムタクの声だけ出さない、もったいつけた宣伝の仕方からして「物欲しげ」ではないか。

 そんなこんなで、映画を見る前にスッカリ意地悪い気分になってはいたんだよね。

 実際に公開が始まっても、僕はなかなか重い腰を上げなかった。イマイチ見に行く気にならない。ただそんな中で、たった一つ僕にとって「好材料」と思える要素があった。

 それは、今回の映画が「分かりにくい」らしいということだ。

 これは当然「批判」として上がった声だ。何を言わんとしているのか分からない…ということだ。当然、見た人たちは、それを「良し」とはしていない。これはハッキリ言ってケナしだ。

 にも関わらず、僕は…ひょっとして「ハウル」っていいかも?…と思い始めた。それはごく単純な理由だが、結構確信に近いものでもあった

 そして僕は、いよいよ劇場に足を運ぶ決心をしたんだよね。

 

あらすじ

 いつかの時代、どこかの国での物語。ソフィー(倍賞千恵子)は、親が遺した帽子屋で働いている若い娘だ。街は何やら浮ついたような興奮に包まれている。それは折から近づいて来る戦争の足音のせいであろうか。いずれにせよそんな華やぎはソフィーとは無縁のものだ。

 店の女の子たちは、荒れ地から魔法使いハウルの「動く城」が現れたと騒いで大騒ぎ。四つ足で歩き煙を噴き上げるケッタイな「動く城」もさることながら、ハウルなる魔法使いもウワサの的。何でも美人の心臓を取って食うとかで、みんな怖がるやら喜ぶやら。だがそんな話も自分には無縁と、ソフィーはただただ愚直に帽子づくりを続けるだけだ。いずれにせよ…華やかさも驚きも素晴らしい出来事も、野暮な自分には似合わない…。

 そんなある日、ソフィーはたまたま妹と会うために歩いていると、最近街に目に付く兵隊のアンチャンたちに絡まれる。機転が利くわけではないソフィーは困惑するばかり。ところがそこに、奇妙な若者(木村拓哉)が現れた。彼は不思議な力で兵隊をどかしてしまうと、ソフィーを連れてどんどん歩き出した。ところが今度は気味の悪い真っ黒な連中が、あちこちから湧きだしてくるや二人に襲いかかって来るではないか。

 「ごめん、君を巻き込んでしまったね

 こう言い終わるや否や、若者はソフィーを抱きかかえて空中に飛び上がった。慌てふためくソフィーだが、若者は平然としたもの。いたずらっぽく微笑むと、ソフィーを目指す妹の元へと連れて行ってくれた。

 まるで夢のよう…ソフィーは驚くべき体験を妹に話す。妹はその若者が「ハウル」だったのではないか…と心配するが、ソフィーにはとても信じられない。「だって、ハウルって美人しか襲わないんでしょ?」

 若く可愛い自分の魅力を十二分に意識もしているし謳歌している妹に対して、親の遺した店に縛られて地味に暮らさざるを得ないように見える姉ソフィー。妹はそんな姉を見ていると、ついつい心配で何か言わずにいられない。だが実際のところ、ソフィーも自分の気持ちを分かりかねているのだ。

 だが事態は思わぬ展開を見せた。夜、ソフィーが店に独りぼっちのところを、奇妙に肥え太った老婦人がやって来る。ところがこの女は客ではなかった。人呼んで「荒れ地の魔女」(美輪明宏)。魔女はソフィーにいきなり脅しをかけてくる。「アタシと張り合おうなんてイイ根性してるじゃないの!」

 そして突然恐ろしい形相で襲いかかってきた…かと思えば、たちまち姿を消す荒れ地の魔女。

 だが、それこそが恐ろしい魔法だった。ソフィーは呪いをかけられ、90歳の老婆に姿を変えられてしまったのだ。これに気づいたソフィーは大慌て、でも落ち着かなければ、でも大慌て、でも落ち着かなければ…。

 結局このまま店にいる訳にはいかない。人に見つかったら説明出来ない。実際荒れ地の魔女の呪いは、彼女に事と次第を説明出来ないようにしていたのだ。かくしてソフィーは店を抜け出し、街から離れて荒れ地を目指す。とりあえず行けるのはそこしかない…。

 だが、いかんせん年寄りの身体。思うように動かない。杖のひとつも欲しいところ…と思っていると、ちょうど良さそうな棒が茂みから突きだしている。ところがそれを引っ張ってみると、それは一体のカカシだった。ならば仕方がない。ソフィーは杖を諦めて、カカシに別れを告げて出発しようとすると…何とカカシが彼女を追いかけて来て、どこからともなく杖をプレゼントするではないか。

 陽もどっぷりと暮れてきた。ならばダメで元々、ここはもう一度カカシの好意にすがるか…と、「ついでに宿も持ってきてくれないかねぇ?」と告げるソフィー。トシをとると図々しくなるね…とか言いながら、知らず知らずのうちに奇妙な自由を満喫している彼女だ。

 ところが…カカシは本当に宿を連れて来てしまったのだ! それも、事もあろうにハウルの「動く城」を!

 これにはビックリ仰天のソフィー。とかく悪いウワサのハウルだけに、本来ならこんな危ない橋は決して渡るまい。だが今さら背に腹は替えられない。それに老婆の心臓など取られる訳もない…と、妙にクソ度胸もついた。こうしてソフィーは、「動く城」の中に堂々と入り込んだ。

 薄暗い室内は、何とも雑然としていて薄汚れていた。何と汚い部屋…と思いながら、暖炉の火にあたるうちにうたた寝するソフィー。ところが、この火がクセモノだった。

 何と、火が口をきいた。この火の正体は、火の悪魔カルシファー(我修院達也)。ハウルとある契約を結んだため、この暖炉に縛られハウルのために働かされていると言うのだ。この「動く城」を動かしているのもカルシファーだと言う。「オレの契約の秘密を見つけてくれれば、オレは自由になれるんだ。そうしてくれたら、アンタの呪いを説いてやるよ

 そんなカルシファーの「取り引き」に堂々応じるソフィー。いつの間にこんな度胸がついたか知らないが、ソフィーはここに居座る事にした。

 そんな翌朝、眠っていたソフィーは、小さい少年の立てる物音で目が覚めた。この少年マルクル(神木隆之介)は、どうもハウルの助手を務めているらしい。部屋の扉が叩かれると、いきなり老人の顔をつけた頭巾をかぶって声色を変えた。「待たれよ…!」

 面白いのは、扉の取っ手の横のノブを回すと、扉の外の景色がクルクルと変わること。ある時は王国の首都の大通りに面していたり、ある時は港町の横町だったり、またある時は…例の荒れ地の「動く城」の扉であったり、この扉はそんなさまざまな場所に行ける不思議な扉なのだ。

 そしてマルクルはそんなさまざまな場所で、ハウルに用事のある人々の応対を任されている。扉を叩かれるたびに例の老人頭巾をかぶり、重々しくお約束のセリフを告げるのだ。「待たれよ…!」

 今朝も次々とハウル宛てのメッセージを託されるマルクル。だがその内容は、所変われど品変わらず。魔法使いも戦争に協力せよ…という「戦時下のお達し」ばっかりだ。

 そんなマルクルは何でここにソフィーがいるのか?…といぶかりはしたが、彼女が堂々と「家政婦として雇われた」と言い張るとそれ以上疑問は差し挟まなかった。しかも彼女が朝飯づくりにカルシファーの火を使おうとするや…マルクルは目をまん丸。気位の高いカルシファーは、本来ならハウル以外には使われない。ところが勢いづいたソフィーは、ハッタリかまして「取り引きの件をバラす」とカルシファーを脅すアリサマ。結局カルシファーはしぶしぶ朝飯づくりに協力せざるを得ない。これには生意気なマルクルも、ソフィーに一目置かずにいられなかった。

 そこへ先日の若者…魔法使いハウルが入ってくる。彼もまたソフィーがこの場にいる事を怪しみもしない。ただ気難しいカルシファーが彼女をこの城に入れ、火を使わせている事には「ただ者じゃない」と舌を巻いていた。しかもソフィーは、自分でも知らない間に荒れ地の魔女からの手紙を運ばされていた。ハウルが手紙をテーブルの上で広げると、パッと火花が散って奇妙なオ●ンコ・マークみたいな痕跡がテーブルに焼き付けられるではないか。確かに、げに忌まわしきはこのマーク(笑)。これぞ荒れ地の魔女の忌まわしき呪いか。そんなこんなで、つむじ風のようにまたしても去っていくハウル。

 最後のマルクルの懸念はソフィーが荒れ地の魔女の手先では?…という一点だったが、これも「荒れ地の魔女」という名前を聞くやソフィーが怒り爆発させるに及んで、疑いが雲散霧消した事は言うまでもない。むしろ怒りを思い起こされたソフィーは、その勢いに乗って汚い「動く城」の内部を一掃し始めた。ゴミを掃き捨て、ホコリを払い、城中を見違えるようにキレイにした。

 そんなソフィーも、「動く城」から見た壮観な風景に圧倒される。巨大な「動く城」に生命を吹き込むカルシファーの力に、ソフィーも素直に驚嘆の声を上げる。見ると、あのカカシも「動く城」と行動を共にしていた。ソフィーは生まれて初めて、心から解放された気分を味わっていたのだ。

 そして毎日毎日いずこかに出かけては、夜も更けてから疲れ切って「動く城」へと戻ってくるハウル。一体、彼は毎日何をしているのか?

 実は根っからの自由人ハウルは、あちこちで巻き起こる戦さが大嫌い。飛び交う空中軍艦を見ると、いつも舌打ちをするほど。かくして自分の身を巨大な鳥に変身させると、これらの軍艦のジャマをしているのだ。そしてグッタリ疲れて帰ってくる。カルシファーはそんなハウルの姿を見ると、いつか元の姿に戻れなくなってしまう…と心配したりもするのだが…。

 そんなある日、ハウルがバスルームに入るや、いきなり動転して飛び出してくる。見ると彼の美しい金髪が、どんどん色を変えていく。ソフィーがあまりの汚さに掃除してしまったため、バスルームのまじないがメチャクチャになったと言うのだ。髪の色が変わっていくハウルは嘆きに嘆く。「美しくなければ生きてる意味がないよ!」

 そしてヒューズが飛んだように意識を失うと、そのままその場でどよ〜んとスライム状態に身を溶けさせた。これにはソフィーもビックリ。だがマルクルは慌てはしたが、さほど驚いていないようだ。「前に失恋した時もこうだったよ」

 どうもウツ状態のハウルっていつもこうらしい。仕方なくマルクルに身体のスライムを洗い落とさせると、そのままベッドで休ませる事にした。

 落ち着きを取り戻したハウルは大人しくソフィーに話をするようになったが、元気がないのは前と同じ。実はハウルという若者、日頃の態度は尊大そのものだが、本当はすこぶる気が小さいらしい。身の回りを雑多なまじないの品で固めているのも、そんな臆病さの現れだった。そんな彼が「荒れ地の魔女」を恐れている事は言うまでもない。かつて若気の至りでチョッカイ出したのがマズかった…と、えらく殊勝なハウルではあった。

 そんな彼が怯えているのが、王様と王室付き魔法使いサリマンからの出頭命令。ヤリマンなら得意とするところだがサリマンは怖い。戦争などまっぴらゴメンのハウルは、当然王に協力してそれに荷担などしたくはない。だが、彼には契約があった。無下に断る事は出来ないのだ。

 だがソフィーが一言口添えしてくれれば…と、いきなり妙な事を思いつくハウル。彼女に自分の母親役を演じてもらって、王室付き魔法使いサリマンにこう一言いってもらえれば…。「こんなダメ息子では役に立ちません」

 事が思わぬ方向に転がってしまって、慌てふためくソフィー。だがハウルはこの思いつきにご機嫌大乗り気で、今さらやれないとも言えない。何かに姿を変えて見守ってあげる…などとハウルは調子のいい事を言ってはいるが、どうにもうまい事いきそうもないと感じるソフィー。ともかく、こうなったら乗りかかった船だ。ソフィーは扉を開けて首都の大通りへと出かけていく。

 すると…途中で出くわしたのは、思いもかけぬ人物。あの黒く気色悪い連中が担ぐ駕籠に悠然と乗り込んだ、荒れ地の魔女その人ではないか。「ハウルはお元気ぃ〜?」

 このおめでたい一言に、さすがのソフィーもキレる。聞けば荒れ地の魔女も、王宮に召還されていると言うではないか。何となく負けられない気になったソフィーは、荒れ地の魔女と張り合いながら先を急ぐ。ところがいつの間にかソフィーにまとわりつくように、パッとしない老いぼれ犬がウロウロ。

 「ちょっと、あなたハウルなの?」

 さぁ、そうなのかどうなのか。ともかくこのサエない犬がお供だ。すると王宮の手前まで来て、荒れ地の魔女の駕籠を担いでいた真っ黒人間がグンニャリしてしまうではないか。どうやらここからは自分で歩けということらしい。今や首の回りにも弛んだ肉塊をまとわらせている荒れ地の魔女は、仕方なく自分の巨体を揺すりながら王宮の階段を必死に上る

 片やスイスイと上れるはずのソフィーも、ハウルが化けているとおぼしき老犬が階段を上りかねてるとなれば、そのまま放っておくわけにもいくまい。仕方なく重い老犬をえっちらおっちら持ち上げ、荒れ地の魔女と息を切らせながら階段を上る。それにしてもこの階段、あまりと言えばあまりに高すぎる。何とかソフィーは上り切ったものの、荒れ地の魔女は滝のように大汗かいて死にそうな案配。これには荒れ地の魔女に怒り心頭だったソフィーも、いささか同情せずにはいられない。だが王宮の人間は誰も助けはしない。「来い」と呼んでおきながらこのあんまりな扱いに、ソフィーは少々王様とやらの常識を疑いたくなってしまう

 ともかく階段を上り終えたこの二人は、ようやく王宮の中へと通される。すると部屋の真ん中に椅子がたった一つ。汗だくで疲れ切った荒れ地の魔女は、たまらず椅子へと突進。巨体を狭い椅子に押し込んで、ようやく一息ついた気になった。…それがとんだワナだとも知らずに…。

 一方さらに奥へと通されたソフィーは、そこに一人の上品そうな老婦人が待ちかまえているのに気づく。それが王室付きの魔法使い、ほぼ政治の実権を握っているかのような王国VIP中のVIP…。

 ハウルがあれほど恐れていた人物、魔法使いサリマンその人(加藤治子)だった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まずは、ズバリ今回の作品について言わせていただきたい。僕はこの映画、「千と千尋」よりも好きだ。出来映え云々はどうか知らないが、こっちの方が僕には断然楽しめた

 何が楽しいと言っても…とにかく映画開巻まもなくの「動く城」が登場するショットから、いきなり破格のスペクタクル映像のつるべ打ち。こっちが屁理屈考える前に圧倒されてしまう。宮崎アニメを見慣れた人間なら驚くにあたらないと言うんだろうし、現に「千と千尋」でもふんだんに披露されてはいたが、改めてこの人の映像のスケール感には驚かされる。現在映画界広しと言えども、この映画ぐらい「スペクタクル映画」という名前に恥じない作品はないのではないか? 引き合いに出しては気の毒だが、ハッキリ言ってトロイでの戦闘シーンや軍船俯瞰シーンなんかよりも、こちらの方が画面が俄然デカく感じてしまう。見ている側の「快感」が違うのだ。

 しかもそんなスゴイ映像が、映画が始まってすぐに次から次へと惜しげもなく投入されるから、それだけでシビれてしまうんだよね。実はあの最初の数分間で、すでに「勝負あった」という気がしてしまう。 まぁ、これも「何をか言わんや」なんだろうが、それでもあえて言いたくなるほどの達成度なんだよね。

 そして今回は、特に「笑い」の要素が極めて顕著だ。

 クスクス、ウフフ…ぐらいから爆笑に至るまで、今回の映画にはかなりギャグが多いように感じる。些細な点から挙げていけば、ハウルの助手マルクルが老人の顔の頭巾をかぶって重々しい声色で「待たれよ…!」と言う、関西の漫才みたいにクドい繰り返しだけでも僕は笑えた。また王宮に登城しようとするソフィーと荒れ地の魔女が、息せき切って階段を上がっていくくだりのやりとりもかなりオカシイ。そもそも愚直すぎるくらいだったソフィーが、老婆になったとたんヤケに度胸が据わって図々しくなるのも笑えるではないか。そんな意味で、この映画は見ていて実に楽しい映画なんだよね。娯楽作品として抜群に質が高いのだ。「千と千尋」と比べても、敷居の低さが断然違うんじゃないだろうか。少なくとも観客を「楽しませよう」とする姿勢が格段に高いように思われる。

 面白いのは…もちろん荒れ地には魔女だの魔法使いがいて、空には飛ぶ軍艦が飛び交っているパラレル・ワールドみたいなヨーロッパの話だから当たり前なのかもしれないが、ここに出てくる登場人物の「これみよがしな点」のないこと。何しろヒロインのソフィーが呪いで老婆に変身させられても、本人意外にケロッとこの状況を受け入れてしまう。確かに当初は「落ち着かなきゃあ」…などと慌ててはいたが、その口ぶりの割には随分「落ち着いている」ように見える。これが韓国映画オールド・ボーイの主人公だったら、こんな程度じゃ済まないよね(笑)。オレの何十年かを返せ〜とかキレまくっているだろう。犯人だったらもっと悪くて、責任は自分にあっても「自分って何て可哀相」ってグジグジやってるだろう。あ〜、思い出しただけでもヘドが出そうだ。近頃の映画でそんなテメエ可愛さばかりの連中ばかり見てきたせいか、この「ハウル」の登場人物たちのオトナぶりと潔さは何だか好感持てるよ。

 不思議なのは彼女だけでなくて、火の悪魔カルシファーもハウルの助手マルクルも、「動く城」へのソフィーの出現をちっとも驚いていない事だ。そういう「紋切り」の描写は徹底的に削いで、どんどんお話は進んでいく。あくまでさりげなく「奇妙さ」が扱われるのだ。

 この姿勢は登場人物の喜怒哀楽の表現にも一貫して取られていて、ありがちな「怒りや悲しみ」がほとんど登場しない。あくまで淡々と…そしていささかユーモア含みで、お話は進んでいくのだ。

 これって…オマー・シャリフの大好演が光ったフランス映画イブラヒムおじさんとコーランの花たちのスタイルに、極めて酷似しているではないか。

 「イブラヒムおじさん」は見るからに「異人種異教徒間の融和」をうたい上げそうな題材で、実際のところ最終的にはイスラム老人とユダヤ少年との心の通い合いを描く「まさにそんなテーマ」の作品なのだが、見ている間はそれから想像されるような「紋切り」描写を徹底排除している。父親に捨てられても死なれても、主人公の少年は日本の青春ドラマみたいに「グレてやる〜」なんて叫んで外に飛び出したりしない(笑)。極めて淡々と…ある意味でドライにハードボイルドに、鼻白むワンパターン描写は出来るだけ避けて描かれていく。これは…言ってみれば「分かり切っているテーマ」を改めて見る者に訴求するにあたって、「またかよ」とシラケさせないように取られた賢明な作戦であったはずだ。今回の「ハウル」におけるドラマの描かれ方は、あたかも「イブラヒムおじさん」のスタイルと酷似しているかのようだ。

 そして…それが今回最も心配されていた“お説教臭く「反戦」を訴えるんじゃないか”…という懸念への、宮崎駿の一つの回答であるように思われる。

 ただし…物語の背後に常に「戦争」があって、それについて何か言いたい事は十分に分かる。ハウルは戦争に対して、何らかの抗議行動や実力行使を起こしている事も示唆される。そういう意味では結構「反戦」を露骨に出してるように見えておかしくない映画だ。それなのに、見ている側はなぜかそれをあまり感じない。むしろ「戦争」云々…の事はどうでも良かったんじゃないかとさえ思ってしまう。実際あれだけ背景に置いているのだから「どうでも良かった」はずはないのだが、それでも一見そう見えてもおかしくない仕上がりになっている。では、あれだけ露骨に「戦争」を置いておきながら、なぜこの映画はそんな風に見えるのだろうか?

 そもそも「反戦」映画というものは、そこで権力者に何かを無理強いされる民衆とか、上官に蹂躙される下っ端とか、軍隊に虐殺される市民とか、無駄死にしていく兵士とか、官憲に弾圧される抵抗者とか…そんな人物やエピソードの集積で描かれるのが相場だ。そこでは悲嘆や残虐非道や激怒やといったいささかヒューズの飛びそうな感情表現が連発されるだろう。それを「悪い」とは言わない。それで傑作となっている作品も数多くある。だが正直言って、それらってもはやなかなか斬新で新鮮なモノにはなり得ない。いくら「良心派」の人々が「斬新で新鮮でなくたって、真実はコレなんだ」と言い張ったところで、鮮度が落ちたものは「月並み」で「手垢のついた」もの…ズバリ言えば「陳腐」に成り下がらざるを得ない。「表現」とはそういう宿命を持ったものなのだ。無論そうしたハンディを何とか克服しながらも、こうした直接描写で「反戦」映画をつくっていく試みは続けられていくのだろう。だが、正直言ってそれらは、今さら「どう料理したってそう目新しいものにはならない」素材に限りなく近づいているのは否めないところだ。

 この映画では確かに背後に「戦争」が置かれていながら、そこで極力「悲嘆や残虐非道や激怒」といった紋切り表現を避けている。威丈高にふんぞり返る兵士もいなければ、憎々しげに振る舞う権力者も出ない、悲痛な表情で身を震わせる庶民も姿を見せない。わずかに開巻まもなくソフィーに絡んでくる兵士たちがいるだけだ。しかも彼らもハウルにこう評されているではないか。「許してやってください。奴らも決して悪い連中じゃないんです

 そういう「紋切り」描写を避けた理由は何なのだろう?

 もちろん先にも述べたように、それらが「陳腐」で「手垢がついた」ものになってしまっているからだろう。それはさらに、二つのニュアンスに分ける事が出来る。描写そのものがワンパターン化して、見る者を「またそれか」とウンザリさせる弊害。そしてもう一つ…描写のワンパターン化によって、単純な「色分け」に陥る危険性だ。軍人は「悪」、権力者は「悪」、踏みにじられる市民は「善」…もちろん見ているアナタがたは「善」の方ですよね…という、何とも奇妙な「線引き」。実は「戦争」では、観客が「悪」の側に荷担する可能性だってあるはずだ。踏みにじられている市民が、次の瞬間に罪もない兵士を殺しているかもしれない。悪辣な権力者に力を与えたのは、市民かもしれない。だが単純な「色分け」や「線引き」は、見る者にそうした冷静な思考を停止させる。観客は自分のことを「こんな戦争はいけないと思う善人」だと再確認して安心して家路に就く。あの「悪い奴ら」は、自分とは何の関係もないんだと思えてしまう。常に自分は安全地帯にいるままだ。これでは「反戦映画」なんぞというシロモノには、何の意味もないだろう。ハッキリ言って、そんなものない方がいいのだ

 「ハウル」はそうした直接描写を徹底的に避ける事で、空虚な偽善メッセージに陥る事から逃れようとしている。驚いた事に戦争そのものがどう行われているのか、その理由は何なのか…すら語っていない。だから見ている側は、これが「戦争」を扱った映画である事も忘れてしまうのだ。

 そんな戦争の構造自体を描かなかった理由は、僕にも分かる気がする。どこにも血が通っていないような、イデオロギー的発言やら政治的コメントになることを避けたからに違いない。どこか高い所から見下すように、「戦争はいけない」などと偉そうに語る愚かしさ。あるいは自分がどんな政治的ポジションにいて、どういうスタンスにいるかをアピールするだけの、自己顕示と自己正当化と自分を利口に見せるための空虚なステートメント。僕が今回一番やって欲しくなかったのは、実はこれだった。

 だが賢明なる宮崎駿は、今まであれだけ「説教臭さ」を振りまいていたにも関わらず、今回なぜか大きくハンドルを切って方向を変えた。そして「これみよがし」の描写や強烈で一方的な感情の発露で、観客を意図的に煽る事を全面的に放棄した。これは僕としてはまことに大歓迎だ。結果として、これほど愛すべきキャラクターとエピソードに満ちた作品が出来上がったんだからね。

 それは「悲嘆や残虐非道や激怒」といった感情のネガティブ要素を極力抑え、逆にポジティブ要素を前面に出そうとした結果だろう。ソフィーと荒れ地の魔女との経緯を見てみれば、その傾向が特に顕著だ。ソフィーを老婆に変えてしまった魔女への怒りや嘆きは最小限度に抑えられ、逆にソフィーが王宮の階段でヘバる魔女に同情をおぼえるあたりが描かれる。ただしソフィーを単なる善人と描かない(老犬に「アンタは信用しない」と言い続ける場面などにご注意いただきたい)ことによって、この描写が「偽善」に逸脱する事は注意深く避けられている。怒りや悲しみよりは、むしろ笑いと幸福と共感を…その点に関して、この映画の姿勢は常に一貫している。

 そういう意味で確かにこの映画は、厳密には「反戦」を描いたものでも、「戦争」を扱ったものでもないのかもしれない

 では、描こうとしているものは、本当は何だったのか?

 

人が「自由」であるという事の意味とは?

 この映画を見た誰もが気づき、かつ不思議に思うのは、呪いをかけられて老婆になったソフィーの心境の変化だろう。実は彼女は、老婆になってからの方がイキイキしている。図々しくもなり、度胸も据わる。物事もハッキリ言うし、やりたいようにやる。なるほど…彼女が荒れ地の魔女に泣き言恨み言を言わないのもスジだ。「呪い」は必ずしも悪いモノには見えないのだ。

 むしろ彼女は「呪い」以前の方が、よっぽど何かに「呪い」をかけられたようだった。冒頭近くの妹との会話に、それが最も顕著に現れている。「自分みたいな者」はハウルに襲われる訳がない…。

 ハウルが「美しくなければ生きてる意味がない」などと大げさに嘆くや、彼女は怒りを爆発させる。「私は美しかった時などないわ!」

 これは誰しも指摘する点だから言わずもがなとは思いつつ、大事な点なので改めて指摘しない訳にいかないのだが…ソフィーは「美しさ」のオブセッションに囚われていた。「美しく」ない自分はつまらない人間だと、自分で自分を牢獄に入れていた。つまらない人間だから、やりたい事だかどうだか分からないけど帽子屋をやるしかない。それが自分にはお似合いだ…。彼女は自分から「自由」を放棄していたのだ。

 で、この「自由」であること…とは、本作の最も重要なポイントであるように思う。

 ソフィーは王室付き魔法使いのサリマンの前で、ついつい声を荒げて言ってしまう。「ハウルに心がないですって?…あの人は自由でありたいだけ

 確かにハウルは自由人であろうとする。自由でありたいから、契約に縛られたくない。自由でいたいから、「動く城」の中で孤高を守っている。

 だがそんなハウルも、実は自由ではないのだ。それは、彼が契約に縛られている…という問題ではない。

 面白い事に、ハウルはサリマンを恐れている。恐れるがあまり、自分が直接行かずにソフィーに伝言してもらおうとセコい事を考える。だが結局ハウルは、後にサリマンの前にノコノコ姿を見せてしまうのだ。これにはソフィーも唖然とする。「それじゃ意味がないじゃないの!」

 だがハウルは平然と言ってのける。ソフィーがいると思うから行けた…と。彼は危ないから行けなかったのではない。行く「度胸」がなかったから行けなかっただけなのだ。彼もまた、臆病という名の牢獄の中にいる。決して真の自由人ではなかったのだ。

 それだけではない。この映画の登場人物は、みんな何らかのカタチで「自由」の身ではない。何もかも思うがままに見える荒れ地の魔女も、王宮を追い出されてから戻るに戻れなかった。やっとこ戻る許可を得ても、長い階段でダブついた肉体が彼女を蝕んでしまう。あげくその魔力をすべて奪われて、無力な老婆にされてしまう。

 だが、サリマンは荒れ地の魔女にこう告げるのだ。「本来の年齢に戻したのだ」…と。確かに無力にはなったものの、彼女は本来の姿に戻った時の方がずっと好ましい人物に見える。だとすれば、それまで「力」や「若さ」にこだわっていた時の方が、むしろ自由でなかったとは言えないだろうか?

 「動く城」のかまどに縛り付けられたカルシファーも、物言わぬカカシも、みな何かのオブセッションに縛られて「自由」ではない。こうまで「自由」でない人物たちばかりが登場すると、これは何かの暗喩であると思わざるを得ないだろう。しかも…特にソフィーとハウルに関しては、「自由」でない状態とは“自分の心がつくった牢獄”であるところが象徴的だ。

 そんなハウルが戦争を毛嫌いしジャマをするのも、彼が何よりも「自由」を尊ぶ人間だからではないか。

 「戦争」とは人を傷つけ人を虐げる…それだけで良くないのではない。戦争は、必ず人に何かを強いるものだ。国家と軍への服従を強いられる。破壊と略奪と殺戮を強いられる。そして何より…自らの人生を差し出す事を強いられる。人に「自由」を捨てさせるから良くないものなのだ。それも銃を突きつけたり、弾圧やら拷問やらで捨てさせるだけではない。しばしば自分から喜んで、陶酔の中で捨てさせるがゆえに罪深いのだ。

 実はソフィーやハウルの例をとるまでもなく、平時のうちから人間は、得てして自分で自分の「自由」を手放しているものだ。自分の心が自分にそうさせてしまう。そういう意味で、「戦争」とはその最も極まったカタチに違いない。

 なぜなら、「自由」とはあくまで心の問題だからだ。

 だからこの映画は、「戦争」の事を云々したい訳ではあるまい。仮にこの映画が「戦争」に対して何らかの異議申し立てをするものだとすれば、それは「自由」を損なうものの「象徴」として槍玉に挙げているだけだ…と見るべきだろう。人が愚かにも喜んで自ら「自由」を差し出してしまうような、悪しきモノの総体として忌み嫌われているのだ。マイケル・ムーアの華氏911の宣伝コピーではないが、まさに「それは自由が燃える温度」なのである。

 だがこの映画では、それを「悲嘆や残虐非道や激怒」の側から描いていない事が秀逸だ。

 何だかんだ言ってソフィーの「呪い」以降、登場人物たちは一人また一人と、少しづつ自らの自由を取り戻していく。取り戻していった「自由」の素晴らしさを大いにうたい上げる。それによって、逆に「自由」を損なわせるモノの忌まわしさをあぶり出していくのだ。

 そのおかげで、この映画は大げささや仰々しさから一番遠いところにたどり着けている。あくまで親しみやすく、人なつっこいばかりの「軽やかさ」だ。

 だが、それはかなり遠回りな道のりを選択した…という事でもある。なかなか言いたいことに到達していかない。直接ストレートには観客の胸に響いていかないかもしれない。

 しかもこの映画は他にもいろいろな暗喩に満ちていて、時々少々物語を見失うきらいがある。おそらく「分かりにくい」という批判はここから来ているのだろう。それは決して間違いではない。実際に分かりにくいのだ。

 まずはハウルの少年時代からの経緯がよく分からない。ハウルとサリマンとの契約もよく分からない。ハウルに「心」がないというのもよく分からない。先に挙げたように、戦争がどのようなものかも分からない。これは本当に分かりにくい。見ている僕の頭が悪いという事をさっ引いても、やっぱり分かりにくいつくりになっていると思えるんだよね。

 そして終盤にソフィーが「引っ越すわよ!」と言い出して以降の「動く城」崩壊から大団円に至るくだりは、明らかに観客がついていけなくなりそうな破綻ぶりを見せている。構成のバランスは絶対に崩れている。完成度という点で、確かに問題はあるだろう。

 だがこの映画に関して「分かりにくい」という事を、僕は決してマイナスだと思っていない。むしろ観客の想像や考えの余地を残しているという意味で、大いにプラスの要素だと思う。なぜなら物語が細部まで分からないからと言って、映画の内容そのものまでを見失うことはない。ならば多少の物語の見えなさなど、あってもまったく構わないではないか。それは観客各自に委ねられている…と、ここはそのように見るべきだろう。

 少なくとも、それは宮崎アニメ独特のあの悪癖…「説教臭さ」からは逃れている証拠だ。「説教臭さ」とはすなわち、分かり切っている事をクドクドと得意げに語ってくること、あるいは相手を見下したかのように偉そうに説き伏せてくること、自分の方が賢いと思い上がって一方的に述べてくること…だからね。観客の見方に委ねる…ということは、宮崎がそれらの態度をしなくなったと言うことだろう。それは明らかに、何より大きな進歩だと思うよ。やればできるじゃないか(笑)。

 そして「構成上の破綻」についても、僕は決して悪いと思っていない。なぜなら今年さまざまな映画の中で、そうした構成上の破綻を見てきたからだ。例えばLOVERS/謀茶の味ロスト・イン・トランスレーションキル・ビルVol.1同Vol.2、さらにCODE 46…などの作品では、それぞれ「構成上の破綻」という傾向が顕著だった。

 それらは破綻している代わりに、何かプラス・アルファを得ようとした映画だ。映像のテクニシャンがあえて熟知した話術を犠牲にしても、突出した訴求力を得ようとした結果だ。では、そこで得ようとしたものって一体何なのだろうか?

 それは…おそらく「軽み」ではないか?

 

見た後の付け足し

 この映画を見る前のもう一つの懸念は、もちろん「声のオールスター」。専門の「声優」ではない、知名度はあってもアニメの声のレコーディングに適しているかどうか分からない俳優陣の起用だ。その中でも…何より木村拓哉の起用は、前述のごとく最も一般の眉をひそめるところではあろう。

 だが今回の声優起用は、映画を損なうモノにはなっていない。それどころか、この映画に大きくプラス・アルファをもたらしているのではないか。例えて挙げれば、若い娘から90歳の老婆へと…振幅の極めて激しいにも関わらずソフトな印象を要求されるソフィーの役に、倍賞千恵子以外の誰を当てればいいのだろう? 少なくとも完成品の映画を見終わった時点では、他の人材を頭に浮かべるのは困難なはずだ。先に挙げたユーモア爆発の好場面…王宮の階段でのソフィーと荒れ地の魔女のやりとりなどは、倍賞千恵子と美輪明宏という意表を突いた顔合わせならではのおかしさではないか。

 そして僕が一番感心したのが、実は世間では何かと揶揄された木村拓哉の声だ。

 確かに見る前はあまり感心しなかったし、予告編でたった一言だけ聞いた時も「こりゃマズイんじゃないの?」と思った。ハッキリ言ってあまりうまいとは言えない声の演技ぶり…たった一言で判断するのも何だが、ダメだからこそ出さないのか…と要らぬ詮索までしてしまった。映画が公開されてからも、ホメている人はまったくいない。やっぱりダメかと思うよね。

 ところが…これは嬉しい誤算だった

 ハウルの尊大で傲慢で自信過剰なあたり、そしてそんな虚勢と裏腹の弱気が覗くあたり…何とも彼の声がピッタリ来ているのだ。もちろん、ハッキリ言って確かに声優としてはうまくはないのだろう。だが映画とは、必ずしも「うまければいい」ものではない。これは顔が出ようと声だけだろうと同じようだ。

 「2046」のキムタク出演には、「ジャマにはなってない」程度の消極的な肯定をした僕だったが、「ハウル」に関しては全面的に肯定する。…というか、この役は彼しかこれほどピタリと演じられないのではないか? 彼のどこか傲岸不遜な持ち味…そしていまだに残る青二才っぽさが、ハウルの自信たっぷりな登場の仕方に何とも絶妙にハマっているのだ。これは認めてあげないと気の毒だろう。

 もちろんアニメ・マニアや声優ファンなどは、「もっと適任者がいる」などとすぐに誰も知らないような声優の人名リストを何十も挙げる事が出来るだろう。だがこの際、そんなリストはご自分の棺にでも入れてもらって、あの世まで持っていっていただきたい。良かったものを良かったと素直に認められないくらいなら、僕は映画なんて見るのをやめるよ。僕は自分の目と耳を信じる。

 確かに声優を使わず知名度重視するような声の出演者のキャスティングには、問題もない訳ではないだろう。僕もそれだけ考えれば、いかがなものかと思う。宮崎駿が自分の名声に酔って、やりたい放題やっているようにも思えるしね。

 だが、実際にこうもハマってみると、文句を言う余地はない。それと…仮に知名度重視の結果だとしてもいいじゃないか。観客にスターの声で楽しんでもらうのもまた一興。そして…それはそれで別の見方も出来るような気がするんだよね。

 いかに「声のオールスター」と言えども、海外ではまったく知名度はない。ならば、それは完全に国内向けの発想であると言えるだろう。いまや「世界の宮崎」となったであろう彼でも、大いに日本国内のファンや国内市場を気にせずにはいられないのか

 そして、いまや「大家」となった宮崎ならば、自分の名前と才能だけで勝負も出来る…と考えるべきだろう。なのに、なぜ「キムタク」などの有名ブランドで固めずにいられなかったのか

 僕は今回のそんな宮崎の姿勢に、むしろ従来より言われがちだった「傲慢」「自信過剰」とは裏腹のモノを感じてしまうんだよね。そして今回何より僕が注目したのが…劇場パンフレットの内容だった。

 あの饒舌でいつも偉そうな宮崎が、何と“自らのコメント”をまったく寄せていないではないか!

 前の「千と千尋」の時など、あたかも特定の何者かにあてての皮肉をたっぷり効かせたかのようなコメントが、堂々とパンフレットに載せられていたはずだ。読んでてすごく気分が悪くなる文章だったけどね(笑)。おそらくこれまでの作品のパンフレットにだって、すべてにではないにせよ、大半にコメントを入れていたのではないか? 何となくそんな文言の数々が目に浮かぶよ。そもそも作者が見る者に「作品の狙い」を押しつけてどうする

 ところが今回、宮崎はそんな「作品の狙い」について、少なくとも一番やりがちなパンフレットというカタチでは一切沈黙したままではないか。

 そして作品自体にも、懸念されていた「メッセージ」など煽るような押しつけるようなものは一切混入していない。露骨なプラカードみたいなモノを入れていない。むしろ持ち前のスペクタクル性を前面に出して、ふんだんなユーモアで観客を楽しませる事に腐心している。宮崎は明らかにお客に笑ってもらいたがっているはずだ。

 巨匠の作品としてのもっともらしい重みより、むしろ楽しく面白く人なつっこい「軽み」をとったかのごときスタイル。得意技のスペクタクル映像も、最初から出し惜しみせずにたっぷりと見せつける。キャラクターの楽しさを増すためならば、なりふり構わず「キムタク」だって引っ張って来る。切符を買ってくれたお客さんに、スターの声で楽しんでもらう。そして映画の登場人物も、見ている観客でさえもみんなが幸福な気分になる、まるでどこか底が抜けちゃったようなハッピーエンド…。

 これは意外にも「謙虚な姿勢」とは言えないか?

 あのゴーマンを絵に描いたような宮崎を「謙虚」と言うのは、さすがに僕もいささか気が退ける(笑)。だがベルリンもカンヌもオスカーも制覇した、クリエイティブな世界での成功という成功はすべて我がモノにした宮崎にして、その頂点に立った直後の作品としてこの「ハウル」の内容は…やっぱり「謙虚」としか言えないだろう。

 本来だったら、今ならあの世界で彼に出来ない事はないはずだし、誰もが耳を傾けるはずだ。思った事は何でも出来るはずだろうし、怖いモノなどないはずだろう。

 怖いモノなどない…のだろうか?

 究極のパワーとポジションを得たということは、絶対の「自由」のように感じる。おそらく僕などは一生得る事もないだけに、想像もつかないのが正直なところだ。

 だがそれって、たぶん怖くて孤独なモノではないか。

 もはや誰も腹を割って文句を言ってくれない。オベンチャラしか聞かれない。間違った事をやっても、きっともう誰も止めてはくれないだろう。もはや下々の声もストレートには入って来ないし、自らも聞き取れなくなっているだろう。何より増長しきった自分の感覚が鈍っているはずだ。志の低下は如何ともし難いに違いない。

 クリエイターにとって、「何でもアリ」の状態ほど危険なモノはない。そして一人の人間にとっても、究極のパワーとポジションとは、何より恐ろしいモノに違いない。

 今までだったら、亡くなった手塚治虫へのイヤミや文句をネチネチ言っていてもよかっただろう。だが、頂点に立った今、それを宮崎が言ったらシャレにならない。今までは「偉そう」にしていたかったかもしれない。だから虚勢の一つも張っただろうし、もっともらしいコメントも口にした。だが、もうそんな必要はない。なぜなら、彼はもう十分すぎるほどに「偉い」からだ。

 むしろ、「偉すぎる」

 少なくとも、宮崎は今こそクリエイターとして一番危険な地点に差し掛かったと察知したのではないか。

 その時、究極のパワーとポジションは「自由」を約束しない。むしろ「自由」を損なうモノだと気づいたのかもしれない。なぜなら…「自由」とはあくまで心の問題だからだ。

 今一度、自分が絶対に手放してはいけない「自由」を取り戻すために、宮崎は新たに挑戦を開始したと考えるべきではないだろうか。それは今までで最も野心的で、かつ切実な試みのはずだ。それはあまりに重くなりすぎた自分のステータスを捨てていく、「自由」という「軽み」を取り戻すための挑戦だからだ。

 改めて「ハウル」の終盤部分を思い起こしていただきたい。あのアッケラカンとすべてがハッピーエンドにまっしぐらの幕切れ。その屈託のなさにも驚かされるが、最も注目すべきは火の悪魔カルシファーの言葉だ。

 ハウルと契約で縛られていたカルシファーは、最後に心臓を戻す事でハウルと切れる。これでカルシファーはどこへでも飛んでいけるはずだ。それを彼自身もずっと願っていたに違いない。ところが彼は一同の元に戻ってくると、こんな予想外の言葉を放つのだ。「おいらもみんなと一緒にいていいかい?」

 これはカルシファーが自ら自由を手放した訳ではない。彼はどこでも飛んでいけるのに、自ら「ここにいる」事を選択したのだ。もう彼は縛られていはいない。今後未来永劫において、彼を縛るものはない。それは、あくまで彼の「自由」な選択だ。もう賢明なるみなさんは、それが何を意味するかお分かりだろう。

 「自由」とは、決して目に見える現象ではない。好きなところにどこでも行けることではない。何でもかんでも思ったように出来る事や、その力を得る事を言うのではない。無論、偉そうな態度を好きなだけとれる事なんかでもないだろう。

 それは自分が「自由」を実感しているという、「心の状態」のことを意味するのである。

 

 

 

 

 

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