「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」

  Monsieur Ibrahim et les Fleur du Coran

 (2004/12/06)


  

見る前の予想

 映画館でチラシを見かけたのは、まだ夏の前のことじゃなかっただろうか。それからずっと心待ちにしていた映画だ。何しろ、すごくイイ話って予感がするではないか。

 そしてオマー・シャリフオーシャン・オブ・ファイヤーで久々に姿を見せていた彼は、ホンモノのスターの貫禄を漂わせていた。シャリフを見るためだけにでも、この映画が見たい。

 

あらすじ

 1960年代初頭のパリ裏町、スター通り。往来を娼婦たちが行き交い、さまざまな人種の人々がたむろする横町に、一人のユダヤ系の男の子がいた。それはモモことピエール・ブーランジェだ。

 しまり屋の父ジルベール・メルキと二人暮らしの彼は、そんな父にウンザリ。あれこれとうるさくてセコくてデリカシー・ゼロな父に、内心シラケきっている。母親は彼が幼少の頃に、兄を連れて家を出たと言う。父は何かとこの兄を引き合いに出して文句を言うので、それもブーランジェにとってはシャクのタネだ。

 そんな憂さを何かで晴らしたい。ブーランジェは幼い頃から父に小銭を貯めさせられていた貯金箱を壊して、その金で娼婦を買おうとする。父から命じられた小銭貯め、その金で女を買うというのが、ブーランジェには二重に憂さ晴らしに感じられたのか。そんな彼はジャラジャラと出てきた小銭を、向かいの食料品店で両替してもらう事にした。そこはアラブ人の老人が営んでいる小さな店だ。その店の主人イブラヒムことオマー・シャリフは、黙って小銭を両替してくれた。だがどこかその使い道を知っているかのような眼差しが、ブーランジェを少し当惑させる。あるいはあの眼差しは、彼がこの店に来るたびにちょっとした品をくすねているのを知っているかのようでもあった。

 ともかくブーランジェはこの金で念願の娼婦を買った。いっぱしの大人になったような充実感。やがて父が帰ってくると、食卓に置いたケーキを不思議がる。それにブーランジェは無表情に答えた。

 「今日は僕の誕生日だ」

 あの娼婦は、自分へのささやかなプレゼントだったのか。だが自分に関心がない父親に、もはや何の期待も持っていないブーランジェであった。

 あげくゲリ便で便所に籠もる父親。ブーランジェはまたまたあのアラブ人の店に、紙を買いに行くハメになる。ついでの駄賃として、また小物をくすねる事も忘れなかった。内心でこう自分に言い聞かせながら…いいさ、どうせアラブ人の店なんだ…。

 すると…なぜかシャリフおやじが彼に答えるではないか。「アラブ人じゃないぞ。黄金の三日月地帯の出だ」

 これにはブーランジェもビビる。なぜあいつ、僕の心が分かったんだ?

 次にシャリフおやじの店に行くと、おやじはブーランジェに説明してくれた。黄金の三日月地帯は、トルコからペルシャに及ぶ地域の事だ…と。そんなこんなしているうちに、店に行くたびに言葉を交わすようになるブーランジェとシャリフ。このおやじ、何ともユーモラスでありながら、独自の人生観を持っていた。そして常に口を突いて出る言葉…「コーランに書いてあるよ」

 ある日、ブルー街の界隈で映画撮影が行われる。それは金髪でバカっぽい大スター、イザベル・アジャーニが主役の映画だ。そして何と…撮影の合間にこのアジャーニが、シャリフの店に顔を見せたではないか。水を買いに来たアジャーニに、シャリフは法外な値段でふっかけた。これを見ていたブーランジェは、思わず「ぼったくりだ」とシャリフをからかった。そんなシャリフは、ケロリとした顔で答える。

 「君がくすねた分を取り戻さなくちゃね」

 おやじ全部お見通しだったのか。これにはブーランジェもビックリしてオドオド。だがシャリフは平然と言葉を続ける。「万引きならうちでやってくれ」

 シャリフはブーランジェのフトコロも、その胸の内も察していたのだ。そして家計を浮かすコツをいたずらっぽく教えてくれた。特にブーランジェが気に入ったのは、そうやって家計を浮かしながら父親の鼻もあかせるところだ。

 そんなこんなしているうちに、ブーランジェはどんどんシャリフ一流の人生哲学に惹かれていった。彼の宗派はイスラム教の中でも戒律より内面を重んじるスーフィー教だと言う。何かと型にハマった父親にウンザリするブーランジェには、それはすこぶる好ましく感じられた。何よりこんな事を調べるのに、本を熟読するなんて事自体が大きな変化だ。

 さらにシャリフは、ブーランジェに語る。「笑ってごらん、幸せになれるから」

 バカ言っちゃいけない、そんな事で幸せになれるなら苦労はない…内心チラリとそう思わないでもないブーランジェだったが、他ならぬシャリフの言った事だけにダマされたつもりでやってみた。するとどうだ!…学校の数学の時間に問題が出来ない時でも、取りつくシマのない娼婦を口説く時でも…「笑顔」は素晴らしい効果をあらわすではないか。ブーランジェはそんなシャリフにますます強く惹かれ、「笑顔」にも反応なしの父にますます失望をおぼえていった。

 やがて父親が仕事をクビになった。しかも有り金置いたまま、黙って家を出ていってしまった。ブーランジェは捨てられたのだ。

 だが、ブーランジェはその事をシャリフにも告げず、書斎に積まれた蔵書を売ったりして暮らしていた。ちょうど近所の女の子ローラ・ナイマルクと付き合い始めた事もあって、父の不在が開放感にも感じられるくらいだ。

 だが、楽しかったのもそこまで。ナイマルクは別の男の子に心を移してしまう。ショックを受けるブーランジェを、シャリフは優しく慰めてくれた。「彼女を愛する君の気持ちは永遠のものだよ」

 そしてさらに追い打ちをかけるように…自宅に警官が現れる。何と父親が鉄道事故で死亡したと言うのだ。それも、おそらく自殺であろう…と。あまりの事に動転したブーランジェは、慌ててシャリフに泣きついた。ブーランジェの気持ちを推し量ったシャリフは、遺体の確認やら埋葬やらを一切やってやるのだった。

 そんなある日、ブーランジェはシャリフに「養子にして」と頼み込む。するとシャリフは快諾してくれるではないか。しかも先の長い話かと思えば、明日でもいいと言う。早速お役所に届けを出しに行く二人。ところが洋の東西を問わぬお役所仕事。あちこちタライ回しにされたあげく、どうにもこうにもまったくラチがあかない。だがシャリフはここで驚異的な粘りを見せた。あっちこっちに出向いたあげく、ようやく一人の担当者に「ウイ」と言わせる事に成功した。まぁ、これが日本の無能役人ども相手では、100年かかっても無理かもしれないが…。

 やがてシャリフは、息子となったブーランジェを故郷へ連れて行く旅に出ようとする。そのために赤いスポーツカーも買った。ただし、それから運転を覚えるという主客転倒ぶりではあったが…。教習所で悪戦苦闘したあげく、シャリフは何とか免許も取得。こうしてブーランジェを赤いスポーツカーに乗せて、ヨーロッパ縦断の旅に出た

 スイス、アルバニア、ギリシャ、そしてトルコ…土地が違えば人々も違う。ギリシャ正教会やらカソリック教会、さらにはモスクやらトルコの不思議な旋回舞踊を見に行きながら、見聞を広げていくブーランジェ。

 そしていよいよ故郷の村を目前にして…シャリフはいきなりクルマを停めると、意外な言葉をブーランジェに告げた。

 「君はここで降りろ。すぐに戻ってくるから待っているんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 思った通りだ。この映画はすごく良かった。見ている間とても気持ちがいい映画だったし、心の底から楽しめた。見ていてイヤになるモノが、まったくと言っていいほど混入してなかった。

 もちろん主人公のトルコ人の老人とユダヤ少年の友情と愛情には、今の政治的な難問解決への祈りのようなものがある事は間違いない。だが、この映画はそんな「スローガン」みたいなモノは極力引っ込めている。一切出そうとはしていない。

 それだけでなく、この映画にはおよそ「強烈さ」みたいなモノが見られない。怒り、悲しみ、驚き…そういう激しい表現や強烈な感情の発露を、非常に注意深く避けているように見えるんだよね。

 例えば少年が置かれた状況…母親のいない殺伐とした暮らし、その残る父親にも捨てられ自殺される悲惨さ…さえも淡々と描く。これはかなり意識的に行っていると思うんだよね。

 こうした「強烈さ」の回避ってのは、まずはリアリティのために行われているように見える。ここで少年が「グレてやる〜」みたいに派手にポーズを見せていたら、どうしたってウソっぽいし、いわゆる「紋切り」型の月並み描写になってしまうだろう。そんな手垢の付きまくった描き方は、どうしたって見る者をシラケさせてしまうはずだ。

 そして傷つき苦しんでいるであろう少年の「痛み」をことさらに強調する事も、この映画に観客の感情を煽る事で「スローガン」をブチ上げるような、臭みやいやらしさをまとわりつかせる事になるだろう。

 そんな「ありがち」な「強烈さ」をチラつかせたら…この映画の最も重要な部分である「異人種異教徒間の融和」までが、いかにもウソくさくシラケるものになってしまう。折角それを出来る限り薄めて「プラカード」みたいにしないように心を砕いて来たのに、ここで安っぽい「強烈さ」を見せてしまってはブチ壊しだ。この映画の淡々とした語り口には、ちゃんとそれなりに必然性があるのだ。

 しかもこの映画ではお話全体を、一人の男の子の成長物語という「青春物語」のジャンルでスッポリと包んであるのが見事だ。

 実際に「青春映画」として見ると、実は定石過ぎるくらい定石を踏んでいる。「初体験」「初恋」に全編を彩る懐かしい「オールディーズ」! 「アメリカン・グラフィティ」からこのかた、一体どれくらい繰り返されたか分からないパターン…もはやいささか陳腐化したとも言える定番。それをこの映画では、むしろ積極的に利用するかのように踏襲している。それだって、「プラカード」やら「スローガン」から、出来るだけこの映画を遠ざけたいとする作者の意志だろう。

 だが…そんな消極性で映画全体を覆ってしまったら、普通だったらいささか弱い作品になってしまったかもしれない。「良心作」ではあるが粒が思いっ切り小さいというか、印象も薄い映画になりかねない。確かにこの映画は小品だし、描かれているお話もスケールの小さいモノだ。だが、映画全体まで小粒になったらシャレにならない。

 この映画は、そんな脆弱になりそうな部分をたった一点…オマー・シャリフ起用で強行突破したような作品だ。

 誰が何と言っても、オマー・シャリフが欧米社会にとって、中東そのものの「いいイメージ」を象徴する存在である事は否定できない。オマー・シャリフという大スターは、もはや一つのアイコンのようなものなのだ。そこにいるだけでいい伝説的な人物。

 しかもこのシャリフが実にいい。枯れている。余裕ありすぎというか肩の力抜けすぎというか、洗いざらしのシャツのようとでも言おうか。たぶん…実は彼は何もしていないし、何も演じてないんじゃないかと思うが(笑)…オマー・シャリフ・クラスのスターなら、そしてこの役柄を演じるのならば、むしろ小細工をしない方がいいのだ。ここにシャリフを連れてこようと考えた人は、すごくいいセンスをしているよね。というか、ここはシャリフしか持っていきようがない。それくらいこの映画でのシャリフはハマってる。千両役者という言葉がピッタリ来るような、素晴らしいボリューム感だ。もう「オマ様」と言った方がいいくらい(笑)。ビッグスター、オマー・シャリフの出演は確実にこの映画の「格」をグ〜ッと持ち上げている事は間違いない。そして彼のおかげで、この映画は単なる「良心作」などでなく堂々たる「娯楽作」に仕上がってもいる。見ていて楽しめる映画になっているのだ。

 僕なんかつい先日「オーシャン・オブ・ファイヤー」で久しぶりにオマー・シャリフの健在ぶりを見て、スッカリ嬉しくなってしまっていた。だけど実はアレって、この「イブラヒムおじさん」の延長線上にあったんだね。シャリフ復活の狼煙は、こっちの作品ですでに上がっていたのだ。

 対するユダヤ少年役ピエール・ブーランジェも、すごく利発的な顔をしていいんだよね。キレイな顔をしている。ひねくれたようなフテくされたような、こもったいやらしさが感じられない。そう言えばこの映画には、卑しい、汚らわしい、忌まわしいモノは一切出てこない。そういう嫌悪感を抱かせるモノは出てこない。そんなもので見る者を煽るようなマネは一切しないと、かなり決意の程が見られる徹底ぶりなんだよね。あえて善性だけで勝負しようとしている。これって実は、かえって難しい事なんだよね。

 驚いたのは、何の事はないチョイ役であのイザベル・アジャーニがゲスト出演しているところ。それもおバカなスター役。まったく事前に知らなかったので、これには嬉しくなってしまった。ただ、何でまた?…と僕は驚いたけど、考えてみたら彼女にはアルジェリア人の血が流れていたはずだよね。おそらくそのあたりから、この映画の題材にシンパシーを抱いての「友情出演」ではなかっただろうか。もっともそのおかげで、僕らはオマー・シャリフとイザベル・アジャーニのツー・ショットというビッグスターどおしの珍しい場面を目撃出来た。何だかトクしちゃった気がするよ。

 監督を務めたフランソワ・デュペイロンって一体誰だろうと思ったら、僕はこの人の作品をそれまで2本も見ていたんだよね。1本はジェラール・ドパルデューとカトリーヌ・ドヌーブという大スター共演作「夜のめぐり逢い」(1988)、そしてやはりドパルデュー主演による「ザ・マシーン/私の中の殺人者」(1994)だ。でも、この2本の名前を彼のフィルモグラフィーに見つけて、僕は「うへ〜」っと唸っちゃったんだよね。

 「夜のめぐり逢い」は高速のパーキングエリアだかドライブインだかを舞台に、亭主に置き去りにされた女ドヌーブが、クルマを修理していたドパルデューと知り合って何日かウダウダとやってる話。「ザ・マシーン」は人間の意識を交換する装置を開発した科学者ドパルデューが、精神異常者の心に関心を持って自分を実験台に異常者と意識交換を試みる。ところがドパルデューの肉体に入った異常者はそのままそこに居座り、ドパルデュー(の意識が入った異常者の肉体)が病院に閉じこめられてしまうというお話。これを読んだだけでも、何となく「ダメ」って事が分かっていただけるよね(笑)

 殊に後者の「ザ・マシーン」などはフランス映画にはマレなSF的題材だし、脇には僕のご贔屓ナタリー・バイも出ていて大いに期待した作品だったんだけど、どうしようもなくダメだった。言ってみれば「フェイス/オフ」(1997)の先駆をいってる題材だが、両者を並べてみれば「ザ・マシーン」のダメさはよりハッキリしてしまう。単に異常者と頭脳を交換するというだけの設定なら、肉体を乗っ取られるのは当たり前。賢い科学者のはずの主人公が、相当にアホって見えてしまうのは避けられないのだ(笑)。

 とにかく両者共に発展性のない話で、小難しい理屈を並べているけど何となく「オカシイよな」と思わせる設定の数々。大スターを起用した一流作品の構えを持っているのに、登場人物の言動は理解に苦しむモノばかり。…という、いかにも見ていて困っちゃう「ありがち」なフランス映画となっていた(笑)。批評とかじゃいつもホメているし「分かってる顔」した客でミニシアターは埋まってるけど、出来はどう考えてもバカ映画(笑)という典型的ヨーロッパ作品。もう見たのは大分前だから記憶も定かではないが、ともかく恐ろしくつまらない映画だったというのは確かだ。

 そんなデュペイロンが(笑)…今回は一体どうした事か?

 分かりやすい。面白い。登場人物の言動にスジが通っている。感情移入出来る。これは…まぁ映画としては至極当たり前の事なんだけど(笑)…一体全体どうした事か? 撮影初日に屁理屈ばかり並べていたところを、オマー・シャリフにスタジオの隅に連れて行かれてドツかれたか一喝でもされたのか(笑)? 根性叩き直されたのかヤキ入れられたのか。そうとでも思わないと、到底考えられない変身ぶり。これにはビックリしたよね。

 こいつも、コーランの教えでも読んだんじゃなかろうか(笑)?

 

見た後の付け足し

 この映画の終盤は、実は僕にもよく分からないところがある。老人が途中で少年をクルマから下ろして一人で故郷に向かったのは、自らの死期を何らかの方法で悟ったからなのだろうか? あの自動車事故は「事故」だったのだろうか?…実は情けない事に、そのへんがスッキリとは分からない。

 だが、作り手はあえてそれを語っていないようにも見える。終始一貫「強烈さ」を排除したこの映画…何とオマー・シャリフの最後ですら画面には控えめにしか出てこない。だから、そのあたりもあえて抑えてしまったのかもしれない。それはそれで、一つの見識かもしれないね。

 なぜなら…この映画の徹底的な控えめさ加減には、ちゃんと必然性があるからだ。

 そうした「強烈さ」…ある意味で予想がつきそうな「紋切り」型を終始一貫避け続け、じっとこらえにこらえ抑えに抑えた末に…この映画はラストに至ってようやく思いの丈を一気に吐き出すように、そのテーマをハッキリ提示するのだ。

 そのラストでは、大人になったユダヤ少年が老人の店を切り盛りしている。今では少年は、すっかり老人の化身のようだ。そしていつかの自分のような少年が現れる。すると大人になったユダヤ少年は、かつての老人と同じ愛情で彼に接するのだ。

 そしてエンディング・クレジット…いきなり始まったソウル・ミュージックの歌詞が、初めてこの映画のメッセージを口ずさむ。

 「なぜ僕らは一緒に生きていけないのか?」

 最後のメッセージを提示する時に至っても、「アメリカン・グラフィティ」スタイルの既成曲使用というさりげなさなのが微笑ましくもあるが、それでも言わんとしている事はこれ以上ない程にムキ出し。ある意味ではどんなプラカードやスローガンよりもストレートだ。だが最後の最後にさしかかっての「これ」だけに、そのインパクトは絶大なものがある。

 まぁ言ってしまえば、メッセージとしてはありきたりと言えばありきたり。みんな知ってるし分かってる。そんな分かり切っているけど出来ない事を、改めて説得する事ほど難しい事はない。だからこそこの映画は、今まで耐えに耐えていたんだよね。そのために「アメリカン・グラフィティ」スタイルも持ち出してきたし、伝説的な大スターのオマー・シャリフまで駆り出した。そしてラストの一発に賭けた

 それは抑えに抑え、我慢に我慢を重ねたがゆえの、値千金の一撃なんだよね。

 

 

 

 

 

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