「春夏秋冬そして春」

  Spring, Summer, Fall, Winter...and Spring

 (2004/11/29)


  

見る前の予想

 韓国の異才キム・ギドク監督の新作…と、分かった風な事を言ってお茶を濁すのもいかがなものか。実は僕はこれまで、キム・ギドクの映画を一本も見ていない。韓国映画は割と優先的に見てきたつもりだし、それでなくてもキム・ギドクの映画は、「魚と寝る女」(1999)、「悪い男」(2002)…と、何かと話題を撒いてもきた。それなのに一本も見ていないとは、いささか奇異に感じる人も少なくないかもしれない。ただ、どうも今までのこの人の映画って、僕には受け入れがたいところがあったんだよね。

 まず「魚と寝る女」は、何ともイタイ映画だと聞いて怯えきってしまった。僕は本当にイタイ映画ってダメなんだよね。根性なしと言われようと何だろうとダメなものはダメ。貧血になりそうになる。この映画はイタイと評判を聞いた段階でパスだった。

 次の「悪い男」は…と言えば、「傑作」との世評も高かったにも関わらず、これまた僕は敬遠する結果となった。…というのも、ヤクザの男が女子大生を娼婦に突き落とす話…とくるからねぇ。

 実際のところ、ミウ=ミウ主演のフランス映画「夜よ、さようなら」(1979)など、同趣向の映画がなかった訳ではない。それらは抵抗なく見れたのだが、今回のコレはいけなかった。理由は…この映画が紹介される際に、“女を堕とす男”の「純愛」を描く…なる奇妙なレトリックが散見されたこと。

 こんな個人的事情をここで持ち出されても困るだろうが、僕は子供の頃から他人に理不尽な扱いを受けて、非常に苦境に立たされた事がしばしばあった。それだけに、「他者を突き落とす人物」にはシンパシーを持ちにくい。しかも…他者をメチャクチャな目に遭わせたあげくに、「これがオレの“純愛”」などと落とした当人に開き直られちゃ、落とされた方だって浮かばれまい。冗談じゃねえよって気がする。

 実際はそんな単純な映画じゃないだろう。それなりに説得力もあるんだろう。素晴らしい出来なんだろうという気はする。僕だって映画を見れば感心してしまうのかもしれない。きっとイイ映画に決まっている。でもねぇ…。

 実は先日、小学校のクラス会に久しぶりに顔を出した。そこで本当に何十年ぶりかで、当時の僕に辛酸をなめさせたヤツと顔を合わせた。やっぱり忘れていても思い出しちゃうんだよね。あのイジメの嵐にあっていた時には、本気でどうにかなっちゃいそうなくらい追いつめられたよ。ところが僕を追いつめた当人は…大人になっちゃえばチャラという事なのだろう。「イジメをするヤツってのは自分を表現するのがヘタなんだ」…などと笑ってしゃべっていた。これには僕はその場でブチギレそうになったよ。もう少しで部屋のテーブルひっくり返しそうなくらい激怒した。抑えて周りに悟られないようにするのがやっとだったよ。かくもナメた事を言う当人も当人だが、それを笑って容認している周りの連中も周りの連中。結局そのくらい「鈍感」って事なのだ。何とか血圧を整えて、その場を去るのがやっとだったよ。

 事ほどさように世間の人間にデリカシーがないのならば、その「デリカシーのなさ」ゆえにこの映画がつくられ、高く評価されていないという保証はない。そんなものを見せられたら精神衛生上よろしくないに決まっている。

 まさかそれほど世間の映画ファンに見る目がないとは思えないものの…さりとて「そうでない」という確信も持てず、三十六計逃げるにしかず…で、この映画もパスしてしまった。

 そんな訳で、世評の高さとは裏腹に、僕はキム・ギドクの映画を見る機会をことごとく失ってきたわけだ。

 そこへ今回の新作。

 人里離れた山の中の池に、ポッカリと浮かぶお寺のお話。どうもイタイ事もなければ、他人を突き落としたヤツが開き直る趣向もなさそうだ。これならやっとこ安心して見られるか。

 ただし、それまで何かとスキャンダラスな題材を好んで取り上げて来た映画作家が突然それをやめれば、いろいろ毀誉褒貶があるのが常。何だか大物になっちゃって上品になって偉そうになっちゃったんじゃないか…などと、下衆の勘ぐりやら批判がアレコレ出てきそうだ。海外向けのエキゾチシズムやオリエンタル・ムードを売ったと思われるかもしれない。実際この映画はドイツ資本が入っているとの事だから、そう思われても仕方がないところだ。

 いかにも何か言われそうではないか、今までの「アレ」こそが「人間の真実」を鋭く描いているんであって、今回の「コレ」はお高くとまったお上品な骨董品、外人受けを狙ったシロモノだ…と。半可通の映画好きが聞いた風な理屈を言ってくるのが、手に取るように分かる。

 まぁ、そうなると…さしずめこの映画からようやくキム・ギドク作品を見る事が出来た僕も、同様の批判にさらされる事になるのだろうか。これで僕がこの映画を気に入ったなら、なおさらそう言われそうだ。

 …と、まぁ何とも憂鬱なアレコレに思いをはせながら、この映画を見に行くハメになったんだけどね。ただ、今回はどうしても…どんなケチがつこうとこの映画を見たかった。

 それは、山奥の池に浮かぶ寺…という抜群の発想の絵柄を見たかったからだ。

 

あらすじ

 春。

 緑深い山の奥に、あくまで澄み切った水を湛える池があった。そしてその中心には、水の上に忽然と浮かぶ古寺があるではないか。

 寺には二人の人物がいた。一人は老和尚(オ・ヨンス)、もう一人はまだ幼い小坊主(キム・ジョンホ)。この二人きりの静かな暮らしだ。

 ある日、和尚はボートで岸へと向かう事にする。小坊主も薬草を採りに行く…とボートに乗り込む。和尚のボートの漕ぎ方を、見よう見まねで覚えようとする小坊主。

 やがて岸に着いたボートから小坊主は元気良く下りて、山の中へと入っていく。薬草を採っているうちに、小坊主に一匹のヘビが迫ってくる。だが小坊主は平気だ。ヘビを捕まえて、遠くへと放り投げてしまう。やがて時間が経って、小坊主は和尚と共にボートで浮き寺へと帰っていった。

 やがて別の日。小坊主はボートを一人で漕いで岸へと向かう。川に行って小魚を捕まえると、それに小石を糸でくくりつけて放す。小石を引きずりながら、苦しそうに泳ぐ小魚。また小坊主はカエルも捕まえ、それにも糸で小石をくくりつけた。これまた苦しそうに跳ねて去っていくカエル。さらに小坊主は、ヘビを捕まえてそれにも糸で石をくくりつける。苦しそうにうごめくヘビ。

 それらの姿を見て、小坊主は無邪気に笑っている。だが、その一部始終を和尚が見ていた。

 翌朝、小坊主が起きてみると、背中に縄で大きな石がくくりつけてあった。べそをかきそうな小坊主に、和尚は静かに言う。「どうかつらいか? 魚もカエルもヘビも、みんな苦しんでいるだろう」

 和尚は小坊主に、彼が石をくくりつけた生き物を助けるように告げた。それまでは石を背負っていろ…と。「もし三匹のうち一匹でも命がなかったなら、オマエは一生心に石を背負うのじゃ」

 ボートで岸に向かい、必死であの生き物たちを探す小坊主。小魚は…川底で死んでいた。カエルは、まだ生きていて助けてやることが出来た。ヘビは…血だらけになって死んでいた…。

 泣きじゃくる小坊主。その一部始終を和尚は黙って見ていた。

 夏。

 小坊主は年頃の若者僧(ソ・ジェギョン)になっていた。ある日、遠くの山道をとぼとぼ歩きながら母(キム・ジョンヨン)と娘(ハ・ヨジン)がやって来る。それを見た若者僧は、彼女たちを迎えに行く。娘はどこか具合が悪いようだ。二人は娘の養生のため、はるばるこの古寺を訪ねてきた。

 早速、和尚が祈祷する。母親が一心不乱に祈り続ける。それは夜まで続いた。翌朝、母親は娘をこの寺に置き、一人帰る事にする。和尚は言った。「これは気の病いです。心を癒せば身体も癒えるでしょう」

 こうして和尚と若者僧に、娘を加えた暮らしが始まった。

 ちょっとした折りに、彼女への好意を示すようになった若者僧。彼女もそんな彼を好ましく思った。だが、ふとした時に彼女の着替えを見てしまったり、眠っている彼女の身体に触れてしまったり…で、若者僧の心は大いに揺れる。彼女と一緒に岸へ行き、川辺で水遊びをする若者僧。彼に大人しく身体を触れさせているかと思えば、次の瞬間には突き飛ばす。そんな娘にすっかり思いを乱される若者僧だった。

 ある日、ムチャクチャに若さを爆発させるかのようにボートを漕ぐかと思えば、水の中に飛び込む若者僧。心配してのぞき込んだ娘を、若者僧が水へと引っ張り込んだ。

 やがて二人はボートで岸へと向かい、川辺で激しく抱き合う。

 こうなるともう若い二人は止まらない。夜中、和尚の目を盗んで抱き合い、昼間は騒がしくジャレ合う。そしてまた夜…二人はそっと寺を抜け出して、ボートの中で交わった。

 和尚が翌朝起き出すと、ボートが寺のそばまで漂ってくる。見ると、中にはハダカの二人が眠っているではないか。和尚はボートの船底の栓を抜いた。どんどん水が入ってくるボート。二人は慌てて目を覚ました。

 結局、和尚の前でうなだれて謝るしかない二人。結局、和尚は娘の身体が治った事もあって、彼女を親元へと帰す事にした。これには断腸の思いの若者僧。だが和尚は無表情にこう告げるだけだ。「欲望は執着を生み、執着は殺意を生むだけだ」

 こうして娘と引き裂かれた若者僧。彼は自分を納得させようとしたものの、やはり思い切る事は出来なかった。翌朝、まだ眠っている和尚を横目に、彼は石仏を抱えて浮き寺を出ていった…。

 秋。

 紅葉に包まれる山。あの浮き寺に、まだ和尚は一人で暮らしていた。パンを食べている和尚は、ふとそれを包んでいた新聞紙に目を留める。「三十代の男が妻を刺殺し逃走」

 それを見た和尚は、何やら物思いに耽る。

 やがて浮き寺の池を望む門に、一人の無精ヒゲの男が辿り着く。それはかつてこの浮き寺を去った若者僧のなれの果て(キム・ヨンミン)だった。

 やがてそれを察したかのように、和尚がボートで彼を迎えに来る。「大きくなったのう」

 こうして浮き寺に男を迎えた和尚。男はかつて持ち去った石仏を寺に戻した。だが、あくまで殺伐とした表情の男に、和尚は淡々と尋ねる。「どうも俗世はツラいらしいな。一体何がツラい?」

 「私を愛していると言っていたのに、彼女は別の男に…」

 「手にしたものはいつか失う」

 だが男はいまだに怒りを抱え込んでいた。殺した妻も含めて、自分にひどい仕打ちをした人々を許せなかった。そして怒りを叩き付けるように、床にナイフを突き立てた。そのナイフには…ベットリと血がこびりついていた。

 やがて目と鼻と口に「閉」と字を書いた紙を貼り付け、自ら死を選ぼうとする男。だが苦しくてうめき声を上げてしまう。そこに和尚がやって来ると、いきなり棒で男を打ち据えた。「愚か者め、いいかげん目を覚ませ!」

 こうして一喝され痛めつけられた男は、やがて血染めのナイフで自分の髪を切り始める。その頃和尚は浮き寺に連れてきたネコの尾を墨に浸し、寺の前の床にゆっくりと字を書き始める。髪を切り終えた男が僧衣を着て出てくると、和尚はまだ床に字を書き続けていた。それは経の文字だった。

 「この文字をすべてナイフで切り刻んで、怒りを静めなさい」

 男はナイフで墨の文字をなぞるように彫っていく。簡単にキレイには彫れない。根気と力の要る作業だ。だが黙々と彫っていく。

 そこに…例の池の門に二人の男が現れた。ハッと身構える男。しかし和尚は冷静そのもので、ボートを漕いで男たちを迎えに行く。男たちは案の定、彼を追ってきた刑事だ。浮き寺にボートが近づくや否や、二人の刑事は銃を構えて怒鳴る。「ナイフを捨てろ!」

 男もナイフを構えて、今にも飛びかからんばかりの勢いだ。だが、ここでまた和尚が一喝。

 「何をしている! 彫り続けなさい!」

 男は抵抗姿勢をやめ、また一心不乱に経を彫り始めた。唖然とする二人の刑事に、和尚は静かに頼み込んだ。「心を静めるための般若心経です。どうか最後まで彫らせてやってください」

 こうして一心不乱に経を彫る男を、二人の刑事もひたすら待つことになった。刑事たちは退屈しのぎに、池に浮かぶ空き缶を拳銃で撃ち始める。だが空き缶には当たらない。ところが和尚が黙って投げた石が、この空き缶に一撃で当たるではないか。これには刑事たちも大人しくせずにはいられない。

 夜になっても、ひたすら彫り続ける男。そのうちロウソクを目の前にかざしてやる刑事。

 そして翌朝、男は経を掘り終わって床に倒れていた。そんな男に、刑事が上着をかけてやる。やがて和尚は絵の具を取り出し、彫った字に色を塗り始めた。刑事たちもそれぞれ絵の具を塗り始める。こうして床に彫られた般若心経は、色とりどりの美しい文様となった。

 やがて刑事二人に連れられ、浮き寺を離れる事になる男。刑事たちは男に手錠をかけずに、一緒にボートに乗り込んだ。だが、なぜか漕いでも漕いでも進まない。和尚が別れのしるしに男に手を振ると、とたんにボートが進み出した。

 こうして男と刑事たちは、池から去っていった。

 すると、まるで和尚に操られているかのように、ボートが浮き寺まで戻ってくる。やがて和尚はボートにたくさんの薪を積み、その上に座りこむ。そして目と鼻と口に「閉」と字を書いた紙を貼り付けて、自ら命を絶った。するとロウソクの仕掛けが、自然に薪に火を付けた。こうして和尚の亡骸は、池に浮かぶボートの上で炎に包まれる。

 すると…ボートのそばから突然一匹のヘビが現れ、スイスイと池を泳いで浮き寺までたどり着くではないか。やがてヘビは寺の中に入り、和尚が脱いで置いた僧衣や履き物の上に身を横たえた…。

 冬。

 山は雪に閉ざされている。そこに、マフラーと毛糸の帽子を身につけた中年の男(キム・ギドク)がやって来る。彼は…刑事に連れられて去っていった、あの「男」だ。

 池は凍り付いており、浮き寺まで歩いて渡れるようになっていた。浮き寺に着くと、寺は廃墟になっていた。そして…まだあのヘビもいた。

 浮き寺のそばでは、あのボートが凍り漬けになっていた。氷を砕いた男は、そこから和尚の遺骨を探り当てる。氷で仏像を彫った男は、その額に穴を開けて遺骨を押し込み、滝の下に据え付けた。

 やがて男は、浮き寺の上で様々な鍛錬を続ける。さまざまな「カタ」を身につけ、跳躍し、日々身体を鍛え抜く。

 そんな浮き寺を訪ねて、一人の女が赤子を連れてやって来る。その顔は、スカーフですっぽりと覆い隠されていた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 韓国映画には、今までも数多くの仏教やら寺やら僧侶を扱った映画があった。僕がチラホラ見てきた中にも、イム・グォンテクの「曼陀羅」(1981)、「ハラギャティ」(1989)、ペ・ヨンギュンの「達磨はなぜ東へ行ったのか?」(1989)…などなど、いわゆる「仏教映画」と言われるジャンルが確かにあった。「仏教映画」というと抹香臭いが、まぁこういうジャンルって日本じゃほとんど見られないから、やっぱり特殊なモノではあろう。

 今回の映画って確かに寺と僧侶の話ではあるから、確かにその意味では「仏教映画」のカテゴリーに入る。だがどうもこの映画って、「仏教」について描いた映画じゃないように思うんだよね。

 そもそもキム・ギドクって人、「仏教」なんか知りもしないし関心もないんじゃないの?

 …というのは、この手の「仏教映画」では、大概が「破戒」が大きなヤマ場になる。煩悩を断つだの断てだの断てないだの…ってのが、物語上の大問題として出てくる。つまりそれって人間の「生き物」としての本能でもあり「罪」でもあるという…「切っても切れないモノ」な訳だから、この手の映画の中で最大のテーマになるんだろうね。人間であるが僧侶でもある者にとっての、最大の問題。

 だがこういう題材って、得てして何だか「やせ我慢」にしか見えなくなってしまう恐れがある。さすがに僕が先に挙げた三作あたりはそのへんうまく処理していて、そうは見えないように納得させてくれるけどね。特にイム・グォンテクの場合、「あえて野に下る」というか「卑俗に下ってこその求道精神」…というところがあるので、そのへん「やせ我慢」や「偽善」には陥っていかない。そのあたりはさすがだ。

 ところがこの映画では…おそらく「夏」の巻がそれに該当すると思うが、そもそも最初っからそういう「仏教の戒律」の引力圏から離脱しちゃってる。作り手は「破戒」を大問題とは見なしていない。

 無論、情を通じた二人を別れさせようとはするが、おそらく和尚はそれもムダだと悟っている。「これも定めであろう」…と和尚がつぶやくのは、二人を別れさせる事が「定め」という意味ではないのではないか。別れさせてもたぶん無理だろう…という「定め」だと悟っていたのではないか? あるいは…もっと先の事まで含めての、避けられぬ「定め」なのか? そう観客にも思わせるくらいに、「教え」を全うさせる気のなさそうな和尚なのだ。「破戒」が問題なのではない。坊主だからマズイのではない。もっと「人の業」のような…そして避けられないようなヤバさなのだ。

 これが「仏教映画」でない…と僕が考える根拠は、その設定にもある。

 人里離れた山奥の池に、これまた俗世間から隔絶したカタチでポッカリ浮かぶ古寺。池に浮かぶ寺なんてモノが本当にあるのだろうか? 奇妙なモノは他にも出てくる。寺の中に別にそこを通り抜けなくてもいいような扉が、わざわざこしらえてあるのも不思議だ。スカーフをすっぽりかぶって顔を隠した女ってのもリアリティがない。この映画に出てくる宗教的なモノなり行為なりってのも、本当にあるものかどうか極めて疑問だ。おまけに和尚の念力みたいに浮き寺やボートが水の上を動く。この映画はリアリズムでつくってないというのがアリアリ。

 そうなると、山奥の池の上の浮き寺という設定は、一種のミニマリズムとして見るべきだろう。そぎ落とせるだけそぎ落とした、ギリギリの設定。それは象徴でありアイコンだ。そこで描かれるのは抽象概念であり、一種のたとえ話…寓話だ。登場人物の名前を筆頭に、一切の固有名詞が登場しないのもそのためだ。

 そこまで抽象化したかったというのは、これをいつの時代、どこの国…もっと言えばどんな社会階層の人間とも確定しない、いつのどこの誰でも当てはまる「人間全般のお話」として…「人ごと」じゃない「アナタ自身の話」として見てもらいたいという事だろう。そのための…無菌室に隔離されたような「山奥の池の浮き寺」だろう。「浮き寺」という具体的アイコンが必要だったために「仏教」がチラついたが、別に「仏教映画」がつくりたかった訳ではあるまい。具体的なアイコンが必要だったのは、これが抽象概念を描くのが難しい「映画」というメディアを使った作品だからだ。

 そう考えてみると、これは人すべてに当てはまる「業」を描いた映画だと分かる。

 実は…それが分かりすぎる。人間がさまざまな罪業にまみれているなんて誰でも分かるし、一応みんな反省しているフリもする。そんな事をクドクド言ってる映画も腐るほどあった。正直言って冒頭の「春」の巻あたりではあまりに見え透いていて、僕はちょっとシラケちゃったんだよね。和尚の言い草もシラケる。人間は罪深い業を背負うものじゃぞ…。

 いきなり耳にタコの説教聞かされたみたいで、少々辟易したのが事実。ただ何しろ山奥の池と、そこに浮かぶ古寺のビジュアルが圧倒的に美しかった。そしてともかく発想としてすごく非凡だった。それで画面から目が離せなかったんだよね。多少言ってる事が分かり切った事で、シラジラしくても見てやろうかという気になった。それ以外にも、石を縛られた魚とかカエルとかヘビとか…そんな設定やら絵柄がいちいちミニマルの極致で、やっぱり目が離せない。それでついつい見ちゃうわけ。

 それにしても…浮き寺に限らず、ここに描かれたさまざまな宗教的なモノとか行為がひょっとしたらキム・ギドクのオリジナルな産物だとしたら、例のスカーフを顔にかぶせた女といい、「閉」と書いた紙を目・鼻・口に貼っての自害といい…何という発想の豊かさなんだろうね。これには驚いた。こういうビジュアルを撮ろうと思いついただけでスゴイ。誰にもマネ出来ないオリジナリティーだと思うよ。

 それはともかく、ビジュアルの力で画面に引きずられた僕だが…「夏」の巻、そして「秋」の巻あたりでグイグイ引き込まれてしまった。やむにやまれぬ思いで女に惹かれ、どうしようもなく肉欲に溺れ、自分では止められぬままに女と結ばれようとする。だがそれは実に移ろいやすいもので、そうなったら誰にも止めようがない。それに耐え難く許し難い痛みをおぼえるのも人間だ。時にそれで自らの怒りを抑えきれなくなる事もある。それもこれも…「そうなるしかない」んだよね。

 「これも定めであろう」

 そう、定めなのだ。人間の定めだ。僕もそうなったから分かる。苦しい思いもしたが、もうちょっと間違っていたら、気が触れたか犯罪を犯したか人を殺していた。あるいは自分自身を殺していた。少なくとも自分の人生をグチャグチャにした。マトモじゃないことは分かっているが、他に方法がなかった。その道を選択しない事も出来たが、そうせざるを得なかった。

 あれはねぇ…ホントに映画の通りだと思う

 「秋」の巻で和尚が男に般若心経を彫らせるのは、「宗教的」儀式というよりもトコトン根を詰めさせ、疲労困憊した末のスッキリ感というか、何だかスポーツによる「昇華」みたいな分かりやすさだ。そこで俗世間の垢にまみれた刑事までが純化されていくあたりは何とも微笑ましい。そう…この映画は何ともユーモラスなのだ。刑事が退屈しのぎに空き缶を拳銃で撃っていると、和尚が石を投げて一発で空き缶に命中させたりする。コレには刑事たちも唖然…というくだりはマジで笑えるよ。それに何しろ例の般若心経は、元々和尚が「ネコのシッポ」で書いたものなのだ(笑)!

 この豊かさ、この暖かさ。

 「秋」の巻の物語はまるでO・ヘンリーか誰かの短編小説みたいな、あるいは古き良きアメリカ映画のような、とてもユーモラスな人間味に溢れたエピソードなのだ。偉そうに高尚な哲学的メッセージを並べた映画などではない。これはちょっとした驚きだよ。

 

見た後の付け足し

 実は僕も分かったような事を言って、全部分かっている訳ではない。例えば主人公の男を警察に引き渡したあとで和尚が自ら命を絶つのはなぜか…とか、スカーフで顔を隠した女の意味は何か…とか、結構分からない事は多い

 それでも、この映画が人間が元々やむにやまれぬ「業」を背負って生きている事、そこからは避けられない事、その喜びやら哀しみを描いているというあたりは受け止められたつもりだ。

 男が例のスカーフの女の亡骸の顔を見た時、そこにはどんな顔があったのか。それは最後のエピソード「そして春」の巻…での、女が遺した男の子の顔を見れば分かるのではないか。そこでは、一番最初の「春」の巻で主人公の男の子時代を演じた子役が、再び小坊主を演じている。

 こうやって、人間の罪業は同じように未来永劫続いていく

 それでもジタバタのたうち回らねばならないのが人間だし、実際のところ僕もそうして生きてきた。いいかげん疲れているし、日暮れて道なお通し…の感も強い。今にも力尽きてしまいそうだが、ともかくここまでは生きてきた。気が付いてみれば、もう残り時間は少ない。今さら盛り返せない事も分かってきた。…今、僕が心から願うのは、もうただ安らぎだけだ。若い頃に夢見たり願ったりした輝かしさが手に入らないと分かった今…そして失ったものは取り戻せず傷ついたものは癒せないと分かった今、心から求めているのはそれだけ。せめてそれだけは、いつか手にしたいと思う。

 誰にもジャマされずに山奥の池の上に静かに佇む、小さな浮き寺のような安らぎだけは…。

 

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME