「コニー&カーラ」

  Connie and Carla

 (2004/11/22)


  

見る前の予想

 「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」(2002)で一気に注目の人となったニア・ヴァルダロスと、「ミュリエルの結婚」(1994)の大成功でハリウッドでの活躍中のトニ・コレットが、自分をドラッグ・クイーンに偽らねばならなくなった売れないショーガールを演じる。この抜群の発想にまずシビれた。どう考えても面白くなるしかない。二人のご面相とキャラを考えたら、これがいかにドンピシャな企画か分かる。しかも売れないショーガールならば、アバの鈍くさい曲を歌い踊った「ミュリエルの結婚」のトニ・コレット独壇場ではないか。

 なのに…何が悲しくて都内ただ一館の公開。しかも一日の前半のみの上映(後半は「スウィングガールズ」に交代)。何でこんなに冷遇されているのだ?

 これは、「娯楽映画」好きならば見なくてはいけない映画だろう。

 

あらすじ

 幼なじみのコニーことニア・ヴァルダロスとカーラことトニ・コレットは、小学校の食堂でショーの真似事をして以来、ショービジネスの夢を追ってきた。だが、ウケないのもその小学校の初舞台以来。空港のラウンジのカフェ・テリアで、居眠りしたり飛行機の時間に気もそぞろな客相手に熱演する二人だが、これまたサッパリ受けない。まぁハッキリ言って二人のミュージカル・ショーはイマドキ時代遅れだ。なおかつヤボったい。

 二人が付き合っている男も、彼女たちのショーをまったく買ってない。特にヴァルダロスのお相手(もっとも今は別れているのだが)などは、「いつまで夢ばかり見ているんだ」と、まるっきり無意味扱いだ。

 それでも白粉と汗とスポットライトに魅せられ、二人は今日もステージに立つ。今日も今日とて二人のお仲間である店長に支えられ、彼の店でちょっとしたショー・タイムを受け持っているのだ。

 ところがそこに見るからに怪しげな男たちが現れる。気になったヴァルダロスとコレットはこの男たちの後をコッソリ追っていく。やがてこの男たちは例の店長を駐車場へと追いつめ、何やら厳しく問いつめた。すると…何とこの店長はこの男たちの扱っているドラッグをくすねた事、それをヴァルダロスとコレットのバッグに隠した事を白状するではないか。

 そこにたまたまやって来た警官に助けを求めた店長。これで無事だとホッとするや、この警官もグルで撃ち殺されてしまう。これにはさすがに悲鳴を上げてしまうヴァルダロスとコレット。

 さぁ、男たちはドラッグ取引の一部始終は聞かれるわ、殺人は目撃されるわ…で、二人を大人しく帰す訳にはいかない。当然の事ながら血相を変えて追ってくる。大慌てで逃げ出した二人は、お相手の男たちも振り切ってクルマで住み慣れた田舎町を後にした。

 だが、どこに行こう? ニューヨーク?…バレバレだろう。ラスベガス?…狭すぎる。悪者たちがまったく想像もつかない場所に逃げなきゃダメだ。

 そうだ。ちゃんとした劇場なんかない、文化の果つる場所…ロサンゼルスしかない!

 こうして二人は、一路ロサンゼルスへとやって来た。だが当然の事ながら、どこにも二人が立てる舞台なんかない。仕方なく慣れぬ手つきでエステサロンで働き始めるが、勝手な事をやって速攻でクビ。さすがに気持ちが落ち込んできた二人は、ここは憂さ晴らし…と、飲んで踊ってすべて忘れる事にした。

 そんなこんなで店で大ハシャギで踊っていた二人だが…いきなり隣の男二人の客が、抱き合ってキスするのを見て愕然。それだけではない。今頃気づくとは血の巡りが悪いが、客も男ばかり…女と見えていたのも、すべて女装の男たちではないか。ありゃりゃりゃ…知らず知らずのうちに、二人はゲイ・パブに紛れ込んでいたのだ

 そして始まるショー・タイム。ギラギラ・ギトギトにメイクした女装のショー・ガールたちが、派手派手に歌い踊るショーは…すべて口パク

 それでもこのショー・タイムに出たがる「ドラッグクイーン」たちは後を絶たない。それを見ていたヴァルダロスには、たちまちピンとひらめいた。彼女はその思いつきをコレットに話すと、ビックリする彼女を無理矢理押し切ってしまう。「大丈夫よ、歌って踊れるのよ!」

 彼女が思いついたのは途方もないプランだった。女である彼女たちが、女装のドラッグクイーンになりきるというのだ。多少コテコテにメイクすればそれっぽく見える。キーを落として声を低くすればいい。あとはこのコテコテな雰囲気がモノを言う。

 さすがに楽屋で出番を待っていた時には、「バレて、またどうせブーイング」と弱気にもなったが、もう背に腹は代えられない。ここは勝負どころ…と、腹をくくってステージに立った。

 ところが…これがとにかくウケてしまった

 まずはこの手のドラッグクイーンの舞台にしては珍しく、「ナマの歌」を聞かせるのがアピールした。そして田舎ではただ時代遅れでヤボでしかなかった彼女たちのセンスが、大都会ロサンゼルスのゲイ・パブに持ってきたらキッチュなセンスに変貌。一番オシャレでヒップな感覚に化けてしまったのだ。彼女たちは一夜のうちにゲイの世界でのスター。彼女たちは、多額のギャラとあんなに求めても得られなかった熱い拍手を手に入れたのだった。

 やがて彼女たちのショーは大評判。連日連夜店は大にぎわいを見せ、ショーもどんどん大がかりになっていく。客もゲイだけでなく女たちやらノンケの男まで押し掛ける。彼女たちはショーだけでなく本音トークでもバカ受け。ゲイだけでなく女たちにも、彼女たちの激辛トークが炸裂する。「自分らしく生きなさいよ!」

 こんな絶賛の嵐と大盛況に、パブの店長もこの店をシアター・レストランとして生まれ変わらせる気になってきた。

 そのうちに、同じゲイ・パブで出会ったドラッグクイーンたちと親しくなる二人。その一人スティーブン・スピネラは、弟デビッド・ドゥカブニーとの仲に悩んでいた。かつて女装癖から両親に家を追い出された兄スピネラと、彼との関係を修復しようとする弟ドゥカブニー。そんなドゥカブニーは自らがゲイでない事から、どうしてもゲイの世界に抵抗を持っていた

 ところがヴァルダロスは、そんなドゥカブニーに惚れてしまったから話はややこしくなる。ドゥカブニーもヴァルダロスに心惹かれつつ、そんな自分に当惑せざるを得ない。愛しているのに自分を女と明かせないヴァルダロス。だが、正体を明かしたら命がない。しかもせっかく掴んだ成功もフイにしてしまうかもしれない。ドゥカブニーに心揺らぐヴァルダロスに、コレットも苛立ちを隠せない。コンビ結成して以来初めて揉める二人の仲。

 だがその頃、あの悪漢たちは彼女たちの居所を感づき始めていた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 とにかく素晴らしい発想の映画だ。見る前もそう思ったが、見た後はさらにその意を強くした。主演女優の一人ニア・ヴァルダロスは、出世作「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」の脚本を自ら書いて世に出た人。それだけ聞くと、まるで「ロッキー」(1976)でのシルベスター・スタローンみたいな印象を持ってしまうが、こと映画人としての才能はスタローンなどとは格段に違うようだ。今回の「コニー&カーラ」も彼女の脚本によるもの。この映画の成功はマイケル・レンベック監督の演出よりも、どちらかと言えば彼女が書いた抜群の発想の脚本によるものが大きい。

 確かにこの映画はオーストラリア映画の「プリシラ」(1994)とか「3人のエンジェル」(1995)とかの、「ドラッグクイーン」ものの楽しさが充満してはいる。彼ら(彼女ら)の悲喜こもごもが映画の魅力になってもいる。だが、この映画の面白さはこれらの作品とは少々趣を異にする。

 田舎で鈍くさくてヤボったいショーをやっていたウケない女性芸人二人組が、開き直ってロサンゼルスのゲイ文化に身を置いて芸を披露したら、これが意外にもキッチュと受け止められてウケちゃった…というアイディアこそが、何と言っても特に秀逸なのだ。すでに時代遅れと見なされているものを、テイストを変えて焼き直したらいきなりアップトゥデート。ズレてたモノを価値観を大きく違えた場に持ってきたら最先端…というのが、何よりおかしいではないか。

 そして、それまで居場所がなく浮かばれなかった二人が、ゲイ文化の中のショービズという新たな場を得て、大輪の「日陰」の花を咲かせるというのも嬉しい。彼女たちを取り巻くゲイの仲間たちの描き方も含めて、いい意味でのアメリカの「庶民映画」…市井の人たちを扱った娯楽映画の伝統を踏まえている。それこそ「ロッキー」の一作目とか…それこそ大昔のアーネスト・ボーグナイン主演のマーティ(1955)などにも相通じるような、社会の名もない人々への賛歌になっているんだよね。ちょっと前まではこういう心優しいアメリカ映画がたくさんあった。それが戻ってきたようで、僕には嬉しかったんだよね。

 しかもこの映画は、数々のミュージカルの抜粋みたいなアトラクションを見せていく事で、アメリカのショービズへの見事なオマージュにもなっている。いかにダメ芸人であったとしても、彼女たちがショーなしにはいられなかった性根が芸人としてアッパレではないか。そんな彼女たちの…いささか本意ではないカタチではあるが…ショーの成功は、見ている僕らまでワクワクさせる。

 面白いのは、彼女たち二人を捜索するためにアメリカ全土を探し回っていた悪漢が、さまざまなレストラン・シアターに顔を出しているうちにいつの間にかショービズ通、ミュージカル好きになっちゃっているところ。何しろこの男ときたら最後に警官に捕まりながらも、二人に「ショー良かったぜ!」と口走る事を止められない。この映画はそうしたショービジネスの賛歌でもあるのだ。

 しかもしかもこの映画は最後の最後に、ショービジネスの権化とも言うべき存在…ミュージカルのアイコンであるデビー・レイノルズを登場させる。レイノルズが二人と一緒に歌い踊るくだりは、まさしく至福の時と言える。見ている僕らも幸福感に包まれる。

 最近ずっとアメリカ映画には往年の良さが失われていったと嘆いていた僕だが、ここへ来てコラテラルエイプリルの七面鳥…と、そうした良さを取り戻した作品が細々ながら戻ってきた。今回の「コニー&カーラ」も、そうした傾向の一本と言っていい。

 それは前述したようにアメリカの「庶民映画」の良さを持っているし、アメリカのショービズ賛歌でもある。そもそも逃亡中に苦し紛れに性別を偽る…という趣向は、ジャック・レモンやトニー・カーティスがマリリン・モンローと共演した「お熱いのがお好き」(1959)のいただきではないか。その「男が女装」…をさらに「女装の男に扮する女」と一ひねりした趣向は、ジュリー・アンドリューズ主演の「ビクター/ビクトリア」(1992)から拝借したものに違いない。少なくとも、それだけはすぐに分かる。ニア・ヴァルダロス、なかなかに旧作を勉強しているクセモノなのだ。

 そしてここでのデビー・レイノルズ起用は…そうしたアメリカ映画伝統の味を、さらに強く感じさせるものでもある。それは…レイノルズが往年の大スターだから…というだけの意味ではない。そもそも彼女は単なるお楽しみのカメオ出演ではない。ここは彼女ぐらいの「格」のある存在…アイコン化するような人物でなければ務まらない役なのだ。

 

見た後の付け足し

 アメリカ娯楽映画の作劇術は、揺るぎないほどしっかりしたドラマトゥルギーによって支えられている。それは決して「行き当たりバッタリ」なモノではない。叩き上げられ鍛え抜かれた、話術の芸によって支えられているのだ。従来よりアメリカ娯楽映画はそういうモノだったし、それがある意味で映画の「スタンダード」だった。だからそれに反逆するにしろ、ワクをブチ破るにしろ、原点には常に「それ」があった。「革新」もまた、あくまで「基本」を熟知してのものだったのだ。

 最近ではそれを最も巧みに使った作品が、日本のスウィングガールズだ。実は近年のアメリカ映画が弱体化してきたのは、こうした「基本」をないがしろにしたせいという点も少なからずある。

 こうしたアメリカ娯楽映画の特徴は、とにかく視覚的であり具体的…ドラマの原動力になるものは、ハッキリと明快に分かるものであるべき…という作劇術だ。このへんをいいかげんにするから、かつてのアメリカ以外の国々の娯楽映画はいただけない出来になったりした。今ではそのアメリカ映画ですらダメになりつつある。実はこれって出来てるようで出来てないんだよね。

 それらの「ダメな例」を、最近の映画で挙げてみせようか

 まずはハリー・ポッター・シリーズ第一作、ハリー・ポッターと賢者の石(2001)。これはヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ感想文でも指摘した部分だが、映画の絶体絶命のヤマ場シーン。敵がポッターに取引を持ちかけるくだりだ。敵は彼が持っている「賢者の石」を渡せば、彼を両親に会わせると言う。この誘惑に危うく負けてしまいそうになるポッター。結局、ポッターはその誘惑を振り切り、見事に敵に勝つ。

 だが、この映画には致命的欠陥がある。どうしてポッターが誘惑を断ち切ったのか、どうして敵に勝てたのか…それを目に見えるカタチで、合理的に説明する描写がまったくない。ポッターが正義の子だからとか根性があったからとか、そういう理由ではあり得ない。少なくともそれは「映画」ではない。「正義」や「根性」は画面に映らないからね。原作ファンは「原作にはちゃんと書いてあった」とか言っているみたいだが、映画に出てこなければそんなものはクソの役にも立たない。つまり、これって映画としては出来損ないということなのだ。

 もう一つ…これは韓国映画だが、アメリカン・スタイルのサスペンス・アクション映画チューブ(2003)から、主人公と犯人の対決シーン。主人公の刑事は車外に投げ出されて絶体絶命。窓枠に何とか手を引っかけているが、今にも振り落とされそうだ。これでジャマ者がいなくなったと思った犯人は、何かと目障りだった刑事の協力者の女スリを殺そうとする。

 …とその時、いきなり刑事が元気回復。窓をブチ破って車内に飛び込み、犯人を一気にボコボコにする。

 これも見ていて納得出来ない。刑事はそんな劣勢に追い込まれていたのに、一体なぜ一気に勢いを取り戻したのか。映画はどうやら刑事の「思い」…かつて殺された刑事の恋人の姿と車内に倒れた女スリの姿が二重写しになり、それが刑事の奮起を促したこと…がその原因であると描きたいようだ。そう見える描写も行っている。まぁ、言いたいことは分からないでもない。

 だが、それまであれだけブチのめされて劣勢に回っていた刑事が、勢いを取り戻して攻勢に転じるには…それって十分な理由や原因になってないではないか。それこそ「根性」では理由にならない。何か犯人の隙を突くような出来事とか、強力な武器になるものを手に入れたとか、もっと合理的な理由が必要だろう。そうでないから、作品全体が何だかヘタクソな映画になっちゃっているんだよね。

 で、これでは良質な娯楽映画は出来ない。

 かつてアメリカが生んだ良質な娯楽映画の話術では、危機突破の場においても合理的で具体的で視覚的な何らかのファクターを要求する。無論、映画は…ことに娯楽映画は「おとぎ話」だし「ウソ話」だ。だがそうであっても…いや、むしろそうだからこそ…観客が無理なくノレるようなウソをつく必要があるのだ。それなしに、「根性」とか「正義感」とか「思い入れ」なんて訳の分からないものをドラマの原動力にすることは出来ない。あくまで「映画的」な意味…ではあるが、リアリティある理由や裏付けを必要とするのだ。

 ところが、そんなアメリカ映画の話術にもたった一つだけ例外がある。

 それは「ジョーカー」…劇中に万能で問答無用な、何らかの“オールマイティー・カード”を設定しておく事だ。

 これは誰が命名した名称でもない。僕が勝手に言っている事だ。だがアメリカ娯楽映画には、しばしばこうした「ジョーカー」的存在=オールマイティー・カードが顔を出す。それはしばしば「超自然的」存在であり、人知を超えた存在だ。それがドラマの中の「ここぞ」というところで力を発揮する。これさえあれば、多少の裏付けの乏しさや合理的な理由の欠如もオーケーとなってしまう。どんな劣勢も過酷な状況も跳ね返してしまう。そんな作劇上のユニークな「例外」だ。

 例えばベスト・キッド(1984)でのクライマックス、カラテ・トーナメントでの死闘シーン。主人公の少年は、敵の悪辣な手によって脚に致命的なダメージをくらった。立っていられないほどの激痛にうめく主人公は、とても敵の親玉との試合には耐えられそうにない。ところがその時、主人公にカラテを伝授したカラテ・マスターのミヤギは、何やら意味ありげに主人公の脚をさすり出す。すると…何と不思議な事に、脚の痛みが薄れていくではないか。その後、主人公が試合に圧勝した事は言うまでもない。

 あるいは「スター・ウォーズ」一作目(1977)、これもクライマックスのデス・スター攻撃場面。敵の激しい攻撃にさらされた反乱軍攻撃機は次々敗退。ルーク・スカイウォーカーは厳しい状況下で、単身デス・スター爆破を成功させねばならない。成功させねば逆に自分たちがやられてしまう。だが、デス・スターを爆破させるための爆弾投下は、針に糸を通すよりも至難の業だ。その時、ルークの耳にどこからともなく、何者かの声が聞こえてくる。それはダース・ベイダーに殺されたはずのジェダイ・マスター、オビ・ワンの声だ。「ルーク、フォースを使うのだ」…。これによってルークは不可能なはずの手動による爆弾投下を成し遂げ、見事にデス・スター爆破に成功する。

 いずれも、ストーリー展開こそアメリカ娯楽映画の典型中の典型。それに疑いをはさむ者などいまい。だがここに挙げた二作について言えば、「ここぞ」という場面で実に理屈に合わない事が起きている。もし僕が先に述べたように、娯楽映画の王道セオリーが“リアリティある理由や裏付けを必要とする”ものならば、これらはまるで当てはまらない。しかしアメリカ映画はしばしばこうした「例外」を設ける事があるのだ。僕はそれを「ジョーカー」と呼んでいる。

 ただし、それは常に一定の基準の上で行われる。「ジョーカー」…オールマイティー・カードには、ある決まったルールがある

 まず、それは常に絶体絶命の主人公自身ではない。主人公の脇に登場するキャラクターに限定される。主人公がオールマイティーである事は、決して許されないのだ(逆にオールマイティーであるはずの「スーパーマン」や「スパイダーマン」が、個人的に厳しいハンディを課せられている事をご想起いただきたい)。

 さらにそのキャラクターは、主人公を教え諭すような存在か主人公に崇められ見上げられる存在…年齢や経験を経た一種の「マスター」であることが求められる。そこには何がしかの「神秘性」すら宿っている事が多い。

 「ベスト・キッド」のミヤギは、アメリカ人からは奇妙に見える「ニッポン人」。しかも西洋合理主義では伺い知れない、カラテの奥義を極めた人物だ。何を考えているか分からないし、何が出来ても不思議ではない。「スター・ウォーズ」のオビ・ワンは、ルークの知らない世界をたっぷり見てきて、想像も出来ない経験をしてきたに違いない人物だ。しかも「フォース」の精神世界を熟知している。これまた、何が出来ても不思議ではない。

 彼らは常人ではない。

 年期が入った老練な経験者のみが持つ、余人には伺い知れないパワーといったものだけが、娯楽映画セオリーの「例外」として許されるのだ。

 さてこの応用編として、もう一本の例をご紹介する。それはティム・バートン監督の「エド・ウッド」(1994)だ。史上最低の監督、才能はからっきしないが熱意だけは人一倍の監督エドが、苦心惨憺何とか撮影にこぎ着けた新作。だが出資者の勝手な要求とブーイングで撮影は暗礁に乗り上げ、憮然としたエドは現場から逃げ出す。そんな彼は、フテくされて入ったバーで一人の男と出会う。何とそれは伝説的な映画作家…エド自身も尊敬してやまないカリスマのオーソン・ウェルズではないか。興奮に震えるエドに親しげに答えるウェルズ。聞けばウエルズもまた、スタジオの無理解や横暴に心を痛めていた。ウェルズは「同志」としてエドにアドバイスする。「自分の思った通りに映画をつくれ!」…かくして勇気百倍のエドは、撮影現場に戻って出資者たちを押し切るのだった。

 この作品自体は実話であり伝記だ。だがエドがウェルズと会ったというのは、明らかに創作に間違いない。だが、この「史上最低の監督」と「伝説の映画人」との邂逅の場面は、実に感動的だ。そして映画のテーマを言い表してもいる。

 そしてもっと大切なのは、この場面のウェルズこそが「ジョーカー」…オールマイティー・カードだと言うことだ。伝説的映画人ウェルズは、「マスター」であり神秘性すらあるズバ抜けた存在だ。日頃からエドの尊敬を勝ち得ていたウェルズは、まさに「ジョーカー」と呼ぶに相応しい存在なのだ。超カリスマを持ち、ある意味で「映画のアイコン」と化しているウェルズは、それゆえに「ジョーカー」の資格がある。

 娯楽映画本来のセオリーを思い起こせば、ここで主人公が誰かに何かを言われたぐらいでは、何ら状況は好転しないはずだ。ドラマというものが本来持つ性質が、それを許さない。もっと具体的で合理的な理由がなければ、主人公は救出できない。そんな無理が通ってしまうのは、たった一つの例外…「ジョーカー」がある時だけだ。

 偉大なカリスマ=ウェルズなら、そんな「ジョーカー」足り得る。ウェルズほどの男の言ったことだからこそ、主人公を奮起させ立ち直らせるパワーを持ち得る。少なくとも、観客にとってそれだけの説得力を持つのだ。

 この延長線上にはシンガポール映画フォーエバー・フィーバー(1998)での偽ジョン・トラボルタなども含まれるが、まぁ挙げていったらキリがない。ともかくこうした「実在の人物」でも、条件さえ満たしていれば十分「ジョーカー」になり得る。なぜなら、彼らは常人ではないからだ。

 …で、ようやく話はこの「コニー&カーラ」へと戻る。

 この作品の話のまとめ方を考えると、実はヒロイン二人組を殺し屋たちから無事に助けるのは大した問題ではない。一番困難なのは…「自分らしくあれ」と客たちに説いていたにも関わらず自らの姿を偽っていた彼女たちを、無事にハッピーエンドに導くこと。ウソはいずれバレなければならないが、その時にいかに軟着陸させて彼女たちを救い出すかが問題だ。せっかく掴んだスターの座も失わせず、ゲイの仲間たちやら客たちの好意と信頼も失わせずに終わらせる方法が難しいのだ。だが何をどう言っても、ウソをついてダマしていた事実は消えない。しかも、彼女たちを支持してきたゲイの連中の目は実に辛い。甘っちょろいエンディングにしたら、映画全体が破綻してしまう。さぁさぁ、どうする?

 実際に彼女たちが真相を告白した時、観客たちはブーイングを飛ばした。一人だけ女性観客が彼女たちの支持を訴えたが、それでもブーイングは止まらない。それはそうだ。それくらいで状況が一転したら、いくら何でもウソっぽすぎる。中でもゲイの観客の一人は、こう叫んで不満を訴える。「だって、彼女たち“男”じゃないのよ!」

 絶体絶命、万事窮す。

 だがこの映画は、ここで究極の「ジョーカー」を投入した。泣く子も黙るミュージカルの伝説的大スター、デビー・レイノルズだ。

 ここでレイノルズの「ジョーカー」の資格を点検しよう。彼女はミュージカルの古典的作品雨に唄えば(1952)のヒロインを演じ、MGM50周年メモリアル映画「ザッツ・エンタテインメント」(1974)で進行役の一人を務めるほどの、MGMミュージカルの権化…「マスター」だ。「ベスト・キッド」のミヤギがカラテの奥義に、「スター・ウォーズ」のオビ・ワンがフォースに通じているように、レイノルズもまたショービズのオモテも裏も知り尽くした人物だ。そしてエド・ウッドにとってのオーソン・ウェルズ同様、コニーとカーラの尊敬を集めている存在でもある。何より素晴らしいキャリアを誇る「大御所」だ。そんなレイノルズが出てきたら、どこの誰もが沈黙せざるを得ない。実際にレイノルズは前述の「だって、彼女たち“男”じゃないのよ!」…という言葉に対して、実に「マスター」らしい含蓄に満ちた言葉で応じるではないか。

 「今日び本当の“男”なんているの?」

 年齢を重ねて貫禄たっぷり、しかもエリザベス・テイラーに夫を奪われたりといった愛憎の限りも味わい尽くし、酸いも甘いも知り尽くしたレイノルズだからこそのこの発言。彼女はショービズに精通しているだけではない、「オトコとオンナ」について熟知している「マスター」でもあるのだ。

 だから、ここでのレイノルズは単にカメオ出演のサービス・アトラクションにとどまらない。どう考えても救出困難な状況のヒロインたちを、強引にも助け出してハッピーエンドに収めるための「最終兵器」として投入されている。

 なぜなら、彼女もまた常人ではないからだ。

 そして、それゆえ「アメリカ娯楽映画の定石」を見事に踏襲していると言える。これは、ちゃんと軌道計算をした上での軟着陸なのだ。

 ここの部分、いささか引用が長くて申し訳ない。だがここに挙げた要素だけでも分かるとおり、この映画は実にアメリカ映画…娯楽映画のセオリーを研究し尽くしている。実は、なかなか一筋縄ではいかない脚本だ。

 その意味で、ニア・ヴァルダロスの脚本の巧みさには舌を巻く。女優としてはもちろん脚本家としての彼女の今後も、大いに注目したいと思うんだよね。

 

 

 

 

 

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