「みんな誰かの愛しい人」

  Comme une Image (Look at Me)

 (2004/11/08)


  

見る前の予想

 待望のアニエス・ジャウイジャン=ピエール・バクリの新作。それだけで僕には十分だ。正確にはジャウイとバクリが共同で脚本を書き、ジャウイが監督して、ジャウイとバクリの両方ともが重要な役で出演する映画。ムッシュ・カステラの恋以来だから、まさしく待望。今の元気のないフランス映画で、本当に面白い映画を期待できるのはこの人たちだけかもしれない。今回もきっといい味だしてくれるものと期待してる。

 

あらすじ

 丸っこく太めの女の子マルリー・ベリは大作家ジャン=ピエール・バクリの娘。本人の悩みは深い。デブちんだからタクシーの運ちゃんからクラブの門番にまでナメられてる気がする。それが父親の名前を出したとたんに、みんなガラリと態度を変えるのはもっと気に入らない。その都度かなり傷つく。しかもそんな親父バクリの後妻ヴァージニー・デサルナは若くてスリムな美人とくるから、ベリのユウウツはさらに深くなる。しかも親父バクリはベリの事などまるで関心がないらしい。

 そんなベリが目下熱中していることは、声楽の練習だ。歌のコーチであるアニエス・ジャウイに従って熱心に練習するベリ。だが彼女は気づいていないものの、ジャウイは何となく彼女につれない

 実はジャウイは何となく彼女が体質的に合わない。自分に向かって「助けてくれ」とでも訴えてくるような眼差しが鬱陶しい。ならばレッスンを断ればいいのに、なかなかそれが出来ないのだ。

 そんなジャウイは売れない作家ローラン・グレヴィルを夫にしているが、現在のところ家計は丸ごとジャウイ持ち。グレヴィルはそんな自分を不甲斐なく思っていた。ジャウイや周囲の知人たちが彼の才能をホメても、真に受けるどころか悲観的に否定するばかり。同情される情けなさを嫌ってスネるだけ。徹底的ネクラ志向の彼だった。

 一方、デブちんベリに若い男カイン・ボーヒーザが近づいてくる。元々彼は具合が悪くなった時に、たまたまそこに居合わせたベリに介抱され、それを感謝して連絡してきたのだ。だが、そんな彼にベリはつれない。彼女には別の恋人がいたのだ。だがその男はその男で、ベリに何となく素っ気なく接している。

 さて歌のコーチのジャウイは自分の気持ちに正直にならねば…と思い直し、ベリからのレッスンの頼みを断ろうと思っていた。ところがそれを切り出す寸前、ベリが大作家バクリの娘と知らされ思いっ切り動転。芽が出ない自分の亭主の事も瞬間的に頭をよぎって、レッスン打ち切りを口に出せなくなった。

 そんなこんなで大作家バクリの知古を得た売れない作家グレヴィルは、いきなり新聞の書評で大注目を受ける。その日から立場が一転。それまで素っ気なかった連中までが手の平を返す。気が大きくなったグレヴィルは、今より大きい家に引っ越す事を決める

 当然彼に幸運をもたらしたバクリに呼ばれれば、セッセとどんな所にも顔を出す。親しい人間と家族を呼ぶ別荘の集いにも、ジャウイ同伴で呼ばれる事になった。

 ところがこの小旅行の直前に、ベリは例の恋人からフラれてしまう。そこで彼女は好意を寄せてくれたボーヒーザを代わりに誘うが、別荘に着くとすぐに元の恋人から連絡をもらって有頂天。別荘近くのパーティーに出席するから来いと言われて、チャッカリその気になってしまう。こんな別荘まで来たというのに、二階に上がってハシゴをハズされたような立場のボーヒーザは当然不機嫌になるが、そんな彼の気持ちをベリはまったく理解出来てない

 だが、やっぱり行くべきではなかった。誘われたパーティーでは最初こそ元カレにチヤホヤされたものの、結局カレが関心を持っているのはベリの父親バクリの方。それが証拠に元カレは別の女とイチャつくばかりだ。

 こうしてベリは何となくボーヒーザとくっついてしまう

 ところが彼女は心の底ではボーヒーザを信じていない。この男、ジャーナリストの卵とは言ってるが、まだまだとてもじゃないが食えない。だから大作家バクリの力を借りたいに違いない。そう思うと、ベリはボーヒーザの気持ちを心底信じられないのだ

 その頃ジャウイも複雑な気持ちになっていた。夫グレヴィルがバクリの前では自分の気持ちを殺しているのが、何となく気になり始めたのだ。

 そもそもバクリはVIPとしてのプレッシャーを周囲に常に与えていた。長年の友と称する男はほとんどパシリ状態だし、若い妻もみんなの前で頭っから罵倒する。気に入らないヤツは平気で侮辱する。どちらかと言えばガサツで無神経な男。そして夫グレヴィルは、そんなバクリの前では気に入らない事も黙ってしまう。そんな夫に対して、ジャウイはおぼろげながら疑問を感じるのを抑えきれない。あげくの果てに、チヤホヤされて愚劣なテレビ番組にまで出てしまう夫グレヴィル。

 だが、ジャウイも人の事は言えないのだ。長年の友人とちょっとした事で仲違いしたが、そうなるともう譲れない。風の便りでその友人が自分のことを「あの人は変わった」…と語っていたと聞くと、何とも複雑な思いを抱かずにはいられない。

 そして、ベリが自分に語った言葉。「父親の名前を出すと、みんなが手の平を返したように態度を変えるの。先生は違うけどね」…いや、どこに違いがあろう。まさにそれをやったのが他ならぬジャウイ自身ではないか。

 やがてそんな人間関係に、一石を投じるような事件が起きるのだが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 見るといつも身につまされ、「これってあるよな」…という実感に溢れた映画。アニエス・ジャウイとジャン=ピエール・バクリの映画って、いつもそうなんだよね。

 ともかくセドリック・クラピッシュが監督した「家族の気分」(1996)を見た時は衝撃だったからね。あれはジャウイとバクリが書いた戯曲の映画化だったけど、その面白さと実感ぶりには驚かされた。あの一作で、僕はこの二人をハッキリと記憶したわけだ。

 そしてもちろん、監督もジャウイが担当した「ムッシュ・カステラの恋」(1999)。これまた抜群の好感度で、誰もが共感出来る映画だったんじゃないだろうか。

 そんな彼らの新作と来れば、すごく期待がかかるよね

 で、彼らの従来の作品同様、主要登場人物の中に彼らも混じって出演している。相変わらず、誰が主役ともつかない人間群像劇だ。

 そんな集団劇というスタイル、「ありがち」な実感、さまざまな悲喜劇を織り交ぜて、一つの物語へと収束させていく手腕…どれをとってもチェーホフの戯曲を思わせるモノがあるのは、ジャウイ=バクリの作品を見てきた人だったら誰でも思いつくと思うよ。

 今回もうまいなと思ったのは、おそらく誰しも感じる感情の問題に目を向けているから。そんなジャウイ=バクリの今回のテーマは、「人間同士の力関係」の問題だ。

 およそ人間が複数いる時に、イーブンな力関係って事はあり得ない。理想は確かにイーブンであり平等なんだけど、友人であれ、恋人であれ、夫婦であれ…それが成し遂げられた試しはない。親子であっても、お互い等しく思い思われ、大切に思い思われする事はない。そこには必ず、微妙な力関係が生じてくるのだ。

 それは様々な理由から生じてくる。どっちがより相手を欲しているか…ズバリ言うと失いたくないかによっても生じてくる。

 例え「恋人」「夫婦」であったとしても、「別に相手を失っても構わない」というムードを言外に臭わせる人間はいる。そこまでいかずとも、「自分を曲げてまで相手と共にいたくはない」という雰囲気を、口にせずとも漂わせる人間はいる。そういう人間は自然と強気に出て相手に気を遣わないし、自分本位の言動をとるだろう。

 それに対して「相手とずっといたい」「失いたくない」と思う人間もいる。こちらはいつの間にか相手に合わせたり譲ったりを繰り返しているだろう。先に挙げたような「自分本位」の人間がカップリングするには、こういう相手でなければ関係を維持できまい。さもなければ関係が破綻してしまう。

 そうなると、おのずから力関係は出来上がってしまう。露骨にそれを出さないまでも、自然とどっちかが譲ったり媚びたりしてしまうものだ。あるいは知らず知らずにどっちかがどっちかに威張ったり無神経な態度をとったり、ナメた言動に出たりするかもしれない。それが極端に出なくても、微細なカタチで出てくる事はあるだろう。そういう事って無意識下で起きるものだからね。これはハッキリ言って必ずある。それがない人間関係などない。

 あとは、その人が生まれ持っているムードというものもある。この映画でも、ヒロインのデブちゃんの女の子は、タクシーの運ちゃんにまでナメられる「個性」を持っている。一方、彼女の父親である大作家は、同じ運ちゃんを思い切り罵倒して丁寧言葉をしゃべらせるまでに手なずける。これはどうしようもない資質というものだ。

 あるいは、後天的にその人に備わった社会的パワーによるものもある。売れない作家だった男は、大作家と付き合うようになって運が向いてくる。そうなると、大作家にキライなウサギ肉を振る舞われても文句を言えない。まったく逆らえない。実際にこの大作家にパシリのように尽くす「友人」もいる。先に挙げた売れない作家はこの「後天的パワー」を行使するタイプの典型で、売れ出したとたんに態度がデカくなるし無神経になる。

 悲しいかな、この世に平等などは絶対にない。どんな人間関係にもあり得ない。もしあなたに夫や妻がいるなら、あなたはその相手をバカにして下に見て隷属させているか、あるいはあなたが相手に媚びたり尽くしたり利用させられていたりしているはずだ。悪いけどそれらのうちどっちかでしかない。いささか極端な話ではあるが、大なり小なりその傾向がないはずはない。なぜなら、あなたは人間だからだ。人間は社会性の動物だからだ。そして人間に限らず生き物というものは、相手が自分より上か下かを見極めたがる。それによって相手に対する態度を決めている。これは仕方のない事なのだ。程度問題ではあるが、これは必ずある。

 そしてこうした力関係は巡り巡って、誰もが何らかのカタチで他人に君臨したり、あるいは隷属していたりする。得てして他人を支配している事には無自覚だが、自分が支配されている事は気になる。

 だから人は常に、どこか自分が他者から省みられてない気がしてならない。どこか軽視されている、どこかナメられている、どこか不当に評価されている、どこか無視され見下されている。…そんな気がする。

 この映画の一応のヒロインであるデブちゃんの女の子は、そんな僕らの気持ちを代弁する存在だ。彼女は年頃の女の子としては気にせざるを得ない「太め」で、なおかつ「有名人の娘」という二重苦を抱えている。彼女は僕らのやりきれなさの象徴だ。

 他にもこの映画の登場人物は、何らかのカタチでそんな「省みられないやりきれなさ」を抱いている。売れない作家は自分の甲斐性なしの情けなさから妻には引け目を感じているし、ホメてくれる人の声を素直に聞けない。また大作家の若い後妻は、その若さ美しさスリムさ故に義理の娘=デブちんの女の子の心を捕らえられず苦しんでいる。しかも常に亭主から人前でバカにされている気持ちがしている。見た目だけのバカと思われてる気がする。

 しかもこれっていうのは、常に「被害者」が被害者であり続けるわけではない。その良い例が例のデブちんの女の子で、彼女はこんなに自分が省みられてない事に憤っているのに、それがいかに不当な事であるか分かっているのに、自分に言い寄ってくる男に対しては実にシビアーにひどい事をする。それを何とも思っていない。また売れなかった作家もかつてはあれだけ無視され踏みつけにされる悲哀を噛みしめながら、自分が売れてくると平気で他者を踏みつける。人は自分が「強いられている」時だけ痛みを感じるが、自分が人に何かを「強いている」という自覚はまるでないのだ

 事ほどさように、人間というものは「力関係」の中で生きている

 この映画はそんな人間の「誰しも感じる思い」に目を付けて、またしても秀逸。実感に溢れてるし身につまされるし、今回も登場人物のほぼ全員に対して、何らかのシンパシーを持ってしまったよ。

 だから今回も傑作…と言いたいところだが…。

 確かに主人公たるデブちんの女の子には、何らかの解決がついて「いい感じ」のエンディングだ。人間はそれぞれの外面的な「属性」でもって評価される事が一番多い。それで「値踏み」される事が一番ありがちだ。だから、“実は自分はそんな「値踏み」で扱われていなかった”…とヒロインが悟る幕切れは、確かにハッピー・エンディングだとは言えよう。

 だけど…なぜか僕はせっかくのジャウイ=バクリ作品にも関わらず、何となくしっくりいかなかったんだよね

 というのは、今回ジャウイ=バクリが提示してきたテーマって、この結論では何ら解決されないからだ。とりあえず「ひとまずの結論」…ですらつかない。

 それというのも、この映画で描かれる「省みられないやりきれなさ」の理由が、一筋縄でいかないモノだからって事があるんだろうね。

 人の評価ってのは、必ずしも外面的な「属性」だけで決定されるわけではない。だからヒロインは確かに何とか救われたが、それだけで人間の「省みられないやりきれなさ」が解消される訳ではない。現にこの物語ではいろいろな「省みられないやりきれなさ」を抱える人々が登場するが、ヒロインのデブちん娘以外の彼らはいわば放置されたままになってしまうではないか。残念ながら「家族の気分」、「ムッシュ・カステラの恋」を見たときの幸福感は、ここには望めない。それこそ何だか放ったらかし…「省みられない」感じがしちゃうんだよね。ジャウイ=バクリ作品では今までもそのままにされてしまった人物はいたけれども、今回みたいにみんな放り出しちゃうのはなかったのではないか? 

 いつもジャウイ=バクリ作品では…人のやりきれなさには同情し、痛みには共感し、至らなさには冷ややかな視線を浴びせながらも、それらすべてが我々にありがちなものだと「実感」させてくれる。そして、決して人々を突き放しはしない。どこか暖かい共感を持って見つめている。そして、何らかの救いを与えてくれる。そこが彼らの作品の優れた点だったんだよね。

 ところが今回は、テーマなり物語がそこまで熟する前に放置してしまったみたいだ。そこらへんに、何かすごい違和感を感じてしまったんだよね

 相変わらず、目のつけどころはいいだけになおさら…。

 聞くところによれば、プライベートでもパートナーだったジャウイとバクリの関係は、これを最後に解消されてしまったと聞く。私的なつながりが、必ずしも仕事上の関係とリンクするどうかは分からない。だが彼らの場合、デリケートな人間感情を作品に常に実感込めて描き込んできた。それだけに…ひょっとしたら今回こうした私的な関係解消が、作品の創作上に与えた影響ってのも少なくないのではないか。

 とっても残念でならないけど、今回の作品の何となく途中で投げ出されちゃったような感じ、未成熟の段階で放り出されちゃったような感じって、そんな理由があっての事じゃないかと疑ってみたくもなるんだよね。

 

見た後の付け足し

 というわけで、名コンビのジャウイ=バクリによる作品発表は、ひょっとするとこれが最後になる可能性が高い。でも、僕はそれならその方がいいと思う。

 ヘタに「大人の関係」とやらで、創作のためだけにコンビを続けるような事はやって欲しくはない。他のパートナーシップならいざ知らず、彼らは人間誰しもが持つ「実感」を作品に込めてきた。それがそんな上辺だけの「大人の関係」とテクニック上だけの創作で、今後も維持できる訳はないはずだ。僕はそういうイカサマはやって欲しくないんだよ。

 いっそ別れちゃったのなら、もう一緒の創作活動なんて絶対にやめて欲しい。冷たい事を言うようだけど、ホントにそう思う。今回の作品での何とも納得できない不完全燃焼を見ると、僕は本気でそう思うんだよね。

 

 

 

 

 

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