「2046」

  2046

 (2004/11/08)


  

見る前の予想

 ダラダラといつまでも続く撮影。中断に次ぐ中断に、当初出演予定だった役者がいなくなったり、あるはずだった役がなくなったり。そして並み居るアジア映画のスターたちの中に、何が悲しくての日本のキムタク起用…。ウォン・カーウァイの新作を巡る話題ってのはこんなところではないだろうか? 何だかロクな話題はなかった気がする。

 もちろん僕だって、近年のウォン・カーウァイの動向にはあまりイイ印象を持ってない。

 最初は「天使の涙」(1995)ではないかな、疑問を感じたのは。これってワンパターンじゃないか? そして「ブエノスアイレス」(1997)で決定的になった。どう考えてもこれは愚作だ。カンヌが何と言おうとオレは認めない(笑)。でも、映画マスコミも映画ファンもこの頃は大絶賛だったよね。

 いつの頃からだろうか、ウォン・カーウァイがダメだとみんなから言われ始めたのは。

 実は「ブエノスアイレス」に続く花様年華(2000)は、ウォン・カーウァイの立ち直りを感じさせる作品だった。だが日本の映画ファンたちにはウォン・カーウァイはウケなくなってきたのか、いつの間にやら罵倒と冷笑の嵐。僕はそれはちょっと違うんじゃないかな…と思ったりもしたのだ。

 ただ、確かに「花様年華」で終盤にアンコールワットの遺跡なんか出てくるあたりは、一体なぜアンコールワットなのか?…と、その必然性に疑問も湧いては来たんだけどね。あのアンコールワットは意味があるのだろうか…?

 そしてこの「2046」の話題だ。またしてもダラダラやってて完成しないって話。元々豪華と言えば豪華、ハッキリ言えば無駄に豪華とも思えるオールスター・キャストとか、今回なぜか近未来SF話だとか…キムタク起用だけでなく不安材料は山ほどあった。大丈夫なのか、この映画は?

 カンヌに出品されたのだから、どうやら完成するし公開もされるらしい。…そう分かってからもキムタク出番撮り足しだとか、訳の分からない話が錯綜する。どうなっちゃってるの?

 ともかく予告編を見ると、確かに未来都市に弾丸列車みたいなのが走っているCG映像が出てくる。近未来SFであるのは間違いないらしい。だとすると…前にロスト・メモリーズ感想文にも書いたように、アジア映画の歴史の中ではSF映画ってすごくマレだった。まして香港など皆無に近い。もしこの「2046」が本当にSF映画だとすると、それって北京原人の逆襲」(1977)以来の香港SF映画って事になるんじゃないだろうか(笑)? すると…今回のキムタク起用は「北京原人〜」における日本特撮スタッフ起用へのオマージュか(笑)?

 いやぁ…もうこうやって笑い話にする以外、この映画の話題は出来ない感じだった。何となくヤバそうで。

 だってそこに出てくる未来都市CG映像って、何だか押井守のイノセンス(2004)みたいな中華趣味の未来都市ではないか。あの「ブレードランナー」(1982)以来毎度お馴染みのやつ。何だかそれってやけに凡庸なイメージだよな。

 それよりもっと気になったのは、主役らしいトニー・レオンの扮装だ。

 あれれ? これって「花様年華」の彼の役だろうか? どう考えても何十年も前のスーツ姿。頭はポマードべったり。よくよく見れば女たちのドレスも年代ものだし、髪もヘアースプレーでガチガチに固めてる感じだ。

 おいおい、ひょっとしてこれって「花様年華」の続編…ってなオチじゃないだろうな(笑)?

 こりゃシャレにならないぜ。そうなってみると、「特別出演」でほんの何十秒かの出番を見せるというマギー・チャンの存在も怪しい。

 一体どうなってるんだこれは。どうもイヤな予感がするよ。

 

あらすじ

 それは近未来。「2046」は巨大なネットワークが張り巡らされた未来都市。人々は失われた記憶を取り戻すため、そんな「2046」をめざす。そこでは時が止まったままだと言われているから。だが真偽のほどは誰にも分からない。誰も「2046」から戻ったヤツがいないから。唯一この私…木村拓哉を除いては…。

 「2046」からはそう簡単に逃れられない。木村は奇妙な弾丸列車に乗って旅しているが、旅には終わりがないかのようだ…。

 一方、新聞記者の私…トニー・レオンは、ある女の記憶を振り払えずにいた。それは1960年代のことだ。私は彼女…コン・リーに別れを告げに行ったものの、ついこう誘わずにはいられなかった。

 「オレと一緒に行かないか?」

 だが、彼女は応じない。あのシンガポールでの一夜、それが彼女との別れとなってしまった。

 ショーガールのカリーナ・ラウも思い出の女の一人だ。久しぶりに出会った彼女は、私の事を覚えていなかった。彼女ともシンガポールではいろいろあった。そんな昔話に花を咲かせた夜、彼女は泥酔してしまう。私はラウをホテルの彼女の部屋「2046」号室へと送っていき、そのまま黙って帰った。

 次にホテルのラウの部屋を訪ねると、彼女はそこを引き払ったばかりだと言う。私トニー・レオンはホテルの支配人ワン・シェンに、空き部屋になったラウの部屋を貸りたいと申し出た。彼女の部屋のナンバー「2046」がなぜか気に入ったからだ。だが部屋は改装しなければならないとかで、私は最初隣の「2047」号室に入る事になった。結局面倒くさくてそのまま「2047」号室に居座る事になったのだが…。

 実は部屋の改装には訳があった。カリーナ・ラウは部屋を引き払ったのではなく、そこで刺されて殺されたのだった。それは彼女の年下の恋人チャン・チェンの仕業だった。

 「2047」号室を根城にして、私の新生活が始まった。記者だけでは食えずに、生活のために何でも書いた。エロ小説まで書いた。そして夜は女たちと一晩だけの関係を結ぶ。飲んで遊んでヤッて…堕落した日々が続く。

 このホテル「東方飯店」の支配人ワン・シェンには、二人の娘がいた。そのうち上の娘フェイ・ウォンは、毎日毎日日本語をブツブツとつぶやいている。彼女の恋人は日本人の木村拓哉だ。だが親父ワン・シェンは、日本人との仲を認めない。泣く泣く別れさせられるフェイ・ウォン。だが木村は香港を離れるにあたって、フェイ・ウォンの事がどうしても諦めきれなかった。

 「オレと一緒に行かないか?」

 だが、フェイ・ウォンは木村に返事をしなかった。木村は黙って彼女の前から去って行く。フェイ・ウォンは心労が祟って病いに倒れてしまった。

 支配人ワン・シェンの次女ドン・ジエはと言えば、やたら早熟で色気づいて私トニー・レオンをも誘惑しようとするほど。結局、男と手に手をとって家を出てしまった。

 退院して家であるホテルに戻って来たフェイ・ウォンは、今でも決して木村を忘れてはいない。彼女の日本語のつぶやきはその証拠だ。

 そんな彼らは、そっくりそのまま私トニー・レオンが書き始めた近未来SF小説「2046」に登場している。木村は「2046」から戻ってきた唯一の男として、弾丸列車の長く退屈な旅をしている。その他列車の乗員・乗客には、私の見知ってきた人々ばかり。車掌はホテル支配人のワン・シェンだし、接客アンドロイドにはカリーナ・ラウやフェイ・ウォンもいる…。

 そんなある日、「2046」号室に新しい住人が入った。

 それは、どう見ても水商売の女チャン・ツィイー。私トニー・レオンのワルダチなどは、彼女を「世話してくれ」と頼み込んでくるほど。私も仲立ちしてやると軽口を叩く。まぁ、どうせカネで何とでもなる女だ。

 そのうちどこか男心をそそるこのツィイーを、私はどうしても落としたくなった。そうなれば、そのための手練手管には長けているつもりだ。ちょうど付き合っている男との仲が暗礁に乗り上げた事もあり、私はツィイーの心の透き間に忍び込んだ。「君とはそういう関係を望んでいない。飲み友達になろう

 だが、それが飲み友達にとどまる訳もない。結局一線を越えてしまう。ツィイーもその気になってくる。それが私トニー・レオンには気が重かった。私はウキウキと気持ちを高揚させるツィイーにクギを刺すように、一夜を共にした後でカネを差し出した

 たちまちツィイーの表情が凍り付く。だがさすがに泣き言は言わなかった。「これからもこの値段でね」

 爛れた関係は続いたが、そこからは一歩も先に進まない。そのうちツィイーはかつての男とヨリを戻し、このホテルから出ていった。時折どこかで顔を合わせる事はあっても、お互いが他人行儀な態度で目をそらすだけ…。

 そんなツィイーも、私の小説「2046」の中に生きている。

 そのうち私トニー・レオンは、ホテル支配人の長女フェイ・ウォンと一種の「共犯関係」を持つようになった。彼女と日本の木村との手紙のやりとりを、父親にバレないように仲立ちしてやるようになったからだ。そのうちフェイ・ウォンは、私の仕事上の助手にもなった。フェイ・ウォンには意外な文才があったのだ。

 そのうちに、私トニー・レオンは少しづつフェイ・ウォンに情が移ってくる。ある時など、フェイ・ウォンの気を惹こうとしてみた事もあるが、彼女にその気はなかった。

 いまだに木村への想いをつのらせるそんなフェイ・ウォン…そんな彼女に、私はある女との事を思い出す。愛し合いながらも実ることのなかった、あのマギー・チャンとの関係を…。

 クリスマス・イブの夜。私トニー・レオンはフェイ・ウォンを食事に誘う。そこでそれとなく木村との仲を聞いてみるが…彼女は進展を期待出来ない関係を諦めかけていた。もう手紙のやりとりもやめたと言う。

 そんなフェイ・ウォンに、勤めている新聞社から国際電話をかけさせる私トニー・レオン。大声を上げて嬉しそうな彼女を見ながら、私は自分がサンタにでもなったような気持ちになっていた。

 だが、私に和みや喜びを与えてくれるものは、何もなかった…。

 その頃私は自分の小説の中に、フェイ・ウォンと木村を登場させていた。私はそれを戯れに、「2047」と名付けた。話は基本的に変わらない。弾丸列車を舞台にした未来の物語だ。木村のキャラも同じ。…だが私は書き進むうちに、木村は木村自身と言うよりも、私トニー・レオンの分身のような気がしていた。

 列車での長い旅、その寂しさを癒すためにいる接客アンドロイド。寒く凍える列車内の時間を耐えるために、乗客たちは相手を見つけて抱き合う。だがここには木村の他に乗客はいない。木村は思わずアンドロイドのフェイ・ウォンを抱いた。だが、車掌のワン・シェンはそんな木村に警告する。

 「アンドロイドを愛してはいけませんぞ」

 それでもどんどんフェイ・ウォン・アンドロイドに魅せられていく木村。なぜならアンドロイドはかつての「あの女」にソックリだったから。彼女が自分を本当に愛していたかどうか、このアンドロイドなら答えてくれるかもしれない。そんな木村は、アンドロイドの内面を呼び覚まそうと言葉を告げる。

 「オレの秘密を教えてあげる。オレと一緒に行かないか?

 だが何の反応も返ってこない。アンドロイドを愛するのは不毛だ。ここのアンドロイドは疲弊して、おかしくても笑うのは一時間後、悲しくても涙を流すのは翌日だ。木村がどんなにアンドロイドに働きかけても、何の反応も返ってこない。諦めて彼が立ち去っても、アンドロイドは気づかない。何時間経っても、何十時間経っても、何百時間経っても気づかない…。

 やがてフェイ・ウォンは日本へと発った。そして、あの木村と結婚したと言う。

 恋愛は、すべてタイミングだ。私が関わった女たちとの関係も、あの時、あの場所でなければ結果は違っていたのだろうか?

 あのシンガポールでの日々、バクチに溺れて借金をかさみ続けていた時に知り合った女ギャンブラーのコン・リーを思い出す。彼女は私を助けて借金を取り戻してくれた。そして…たった一度の口づけだけで別れた。彼女の過去も知らぬままだ。私トニー・レオンはコン・リーに告げた。「過去が吹っ切れたらオレを訪ねてくれ」

 「過去が吹っ切れたら」…何の事はない、それは私自身の事だったのだ。私こそが過去に囚われてきた。忘れようとしても忘れられなかった。コン・リー…そして後にやつれた姿で再会したチャン・ツィイー、そしてもちろん「あの忘れ得ぬ女」マギー・チャンも…。

 

ウォン・カーウァイ「巨匠伝説」を改めて検証する

 まずはここまでのウォン・カーウァイの軌跡を、もう一度おさらいしてみよう。

 とりあえず、今みたいな「巨匠」然とした認められ方をしたのは、おそらく「欲望の翼」からだろうね。1960年を舞台にした青春群像劇。あのむせ返るような切ない思いは今でも忘れられない。僕もこの映画は大好きだ。

 実はすでにこの時点でウォン・カーウァイの「巨匠伝説」は生まれていて、予算もスケジュールもメチャメチャだったと言う話。試写会場で上映しているそばから編集していた…なんて、どう考えてもウソ(笑)の「伝説」までまことしやかに伝えられたのだから、相当だったんだろうね。

 その舞台裏のムチャクチャさの片鱗は、確かに完成作品にも残っている。「欲望の翼」の映画の最後には、それまでまったく劇中に出てきていないキャラクター=トニー・レオンがいきなり登場。タキシードを着込んでおめかしして部屋を出るという、何だか訳の分からないワン・シーンが出てくるんだよね。そして、これで唐突に映画自体が終わってしまう(笑)。普通のドラマトゥルギーで言えば「アレは一体何だ?」となるはずの、破綻した終わり方をしているんだよ。

 そもそも「欲望の翼」は二部構成だったらしく、実は撮影を終えたのはその一部までだったとか、あるいは単に映画の半分だけが撮り終わっていたとか…ともかく当初の構想の途中までであったのは確からしい。ところがそこで予算も時間もなくなって、結局そこで切り上げて完成って事になったらしい。だから本当だったらトニー・レオンの活躍の場も、後半部分にあったというわけだ。

 そりゃちょっと無茶だろう。

 普通だったらそれって映画になってない。ムチャクチャな話だ。どう考えても破綻している。実際にトニー・レオンが意味もなくワン・シーン出てくるだけで変だ。

 ところが…その「前半だけ」で十分イイんだよねぇ、困ったことに。一応…というか十二分に面白く見れるしお話としても終わっている。僕なんか「これは傑作だ」と思っちゃったよ。っていうか、今でもそう思っている。そうなると問題はあの変なトニー・レオンの出番だけど、これはこれでなぜかゾクゾクするほどカッコいいわけ。あれを見ちゃうとあれなしの「欲望の翼」は考えられない。理屈に合わない事を言っているとは思うよ。でも、実際にそうだから仕方がないんだよね。

 ただ、これはウォン・カーウァイにとって、かなり苦痛を伴う出来事だったと思うんだよね。

 いくら周囲からは認められても、彼としては映画を途中で終わりにさせられたんだからね。それっておそらくウナ重を食べていて、最初は白いご飯から食べていって最後にウナギを食べようと残していたら、いきなりお重を取り上げられちゃった感じじゃないか(笑)? あるいは風呂で頭を洗っていたらお湯が止まっちゃったりしたような(笑)。イヤだねぇ、考えただけでイヤだ。

 そもそもスケジュールがグチャグチャになって、予算も底を突いてくるって状況からしてツラかったはず。僕がウォン・カーウァイなら、次はこうなるまい…と心に誓うだろうね。

 ところが次に撮った武侠映画(…こう言うと香港映画マニアからは抗議が殺到するだろうが、少なくとも武侠映画らしきモノ)である「楽園の瑕」(1994)が、またまた大混乱にみまわれる。映画としては僕は嫌いじゃない。「欲望の翼」の切ない群像劇が、時代劇の世界にそのままスライドしてきたようで悪くないと思う。だけど、本国じゃスカッとしない武侠映画…お高くとまってお上品にすました時代劇とサンザン。そもそも時代劇にしただけ現場も混乱の度を増して、さらにウォン・カーウァイは疲労困憊しちゃったはずだと思うんだよね。

 こうなると、「もうちょっと気楽に映画を撮ったっていいよな」と思う気持ちも分かる。お友達を呼んで気楽にこぢんまりとした映画を撮る。脚本も…どうせ書いたってボロボロになってしまうんだ。ならば最初から書かなくたっていい。カメラは元々うまいクリストファー・ドイルだから何とでもなる。こうして撮った「恋する惑星」(1994)が大成功しちゃったのが運の尽きだった。

 僕もこの映画はスゴいと思った。ある意味でイマドキ大流行の「ジャンル越境」映画の先駆の一本とも言えるからね。本当にそう言えるのは、これとジャン=ジャック・ベネックスの「ディーバ」(1981)だけだろう。

 だが、それって「たまたま」だった可能性が高い。即興ですべてを「せーの!」でやってみて、偶然うまくいっちゃっただけって気がする。まぁ、ウォン・カーウァイだって才能はあるし、ドイルのカメラも見事ではある。出ている出演者も魅力的だ。それは放っておいてもある程度のモノにはなるのかもしれない。そこに「恋する惑星」の時には、多分に偶然が味方をした。そして「傑作」に化けた。周りも何かとホメちぎってくれた。

 こうなると…バカバカしくってコツコツ脚本を書く気がしなくなるじゃないか。

 ウォン・カーウァイが元々脚本家上がりなのに、どうして脚本書くのをやめちゃったのか…って疑問を、僕は疑問とは思わない。至極当然なことだ。あれは脚本家だからこそ思ったはずだ。コツコツ書いていたのがバカらしくなったからだ。書く人間だからこそのドッチラケだ。

 こうなると次もこれでいこうと思ったはず。かくしてまるっきり似たような「天使の涙」が出来上がる。ウォン・カーウァイの勝利の方程式はこうだ。まずは適当にウケそうな設定を建てたら、後は全部アドリブ。キャラクターの描き込みとかは出来ないから、最初からキャラが立っているスターを使う。カメラはドイルだからカッチョよく絵にしてくれる。内容空疎でも「もつ」に違いない。これで何とかなる。

 で、何とかなってしまった。僕はこのあたりから「おかしいな」と思っていたが、少なくとも世間はこれを受け入れた。

 次にカーウァイが撮った「ブエノスアイレス」では、これをさらに徹底させた。南米アルゼンチンの風情のある町並み、そこにイイ男二人を並べて、ドイルのカメラで撮っただけでサマになる。バックにはタンゴ流しておけば、中味なんかどうでもいいじゃないか。

 それが途中で主演スター二人のスケジュールが怪しくなったのか、なぜか最後はトニー・レオン一人のお話になって、彼が台湾に行って屋台みたいなところでショボく終わるエンディング(笑)。何なんだ、これは?

 さすがにこれはウォン・カーウァイも、誰かに何か言われたのではないか? いいかげんマジメにやれって。

 「花様年華」の登場は、このような経緯から必然だった。聞くところによれば、またしても構成はグチャグチャだったと言う。だけど、最初からコンストラクションをまったく建てずに、あのような映画が構築できるはずはない。どうせムダになる…と思っていても、さすがにウォン・カーウァイは今度ばかりは構成を建てたに違いないのだ。それが功を奏したか…「花様年華」はちゃんとキッチリした映画に仕上がったんだよね。そして「欲望の翼」のやるせなさも戻ってきた。

 まぁ製作過程がユルユルだったのは仕方のない事かもしれない。何しろメリハリの利いた物語というものがない。それでもこの映画が素晴らしいのは、「追憶」の痛み、苦さ、儚さ、淡さが「映画」として描かれているからだ。

 まぁ、見た時にはあの意味のなさそうなアンコールワットに多少の疑問は残ったものの、だいぶウォン・カーウァイは立ち直りを見せたと思ったんだよね。完全復調とはいかずとも、かなり戻ってきたんじゃないか。

 そして今度の「2046」…。

 

「虚勢と未練」の恥ずかしさがかえって好感を呼ぶ

 まずハッキリ言うけど、意外なほど良かったよ

 僕も一時期ウォン・カーウァイをボロクソ言ってたし、おかしいと思っていた。そのうち、いつの間にか映画ファンの間ではウォン・カーウァイをボロクソに言うのがお約束みたいになってきたけどね(笑)。で、「2046」だってヤバいかなと思っていたよ。

 だけど実物に接したら、これはかなりな作品だと思ったよ。コレを「ブエノスアイレス」あたりと同じに扱うのは、僕はちょいと違うのではないかと思う。それはちょっと気の毒って気がするんだよね。行きがかり上ケナしてしまったとかいうのは、やめにしようではないか。

 キムタク出演ってだけでバカにするって向きもあるみたいだが、それもどうかなぁ。キムタクがヘボならケナせばいい。だが、自分はミーハーではないという証明のためにケナすなんて、愚の骨頂ではないか。そんな事は「映画」とは関係ない。僕には彼がジャマにはならなかった。別にイイとは思わなかったが、キズとも思わない。どうでもよかった。それだけの事だ。

 さて、言うべき事を言ったから作品自体の話にいこう。

 まず、例の凡庸な未来イメージだけど…この映画はそもそも近未来SF映画などではなかった

 それは主人公トニー・レオンが自身の気持ちを託した「作品」として出てくるだけだ。だからむしろ、そこでの未来イメージは陳腐なほうがいい。リアルな「未来」が出てきたらシャレにならない。それでいいのだ。

 ただ1960年代の作家のイメージする未来があの「ブレードランナー」風かと言うと、ちょっと疑問には感じちゃうんだけどね(笑)。たぶん、ウォン・カーウァイってSFがまるで分かっていないんだろう。まぁ、陳腐さ凡庸さの理由についてだけはとりあえず納得出来たよ。

 そして…これって「花様年華」の続編らしいってのは…何と半分は当たっていた(笑)!

 なるほどマギー・チャンが特別出演しているわけだ。この映画はどう考えても「花様年華」を引きずっている。劇中コン・リーが自分を「スー・リーチェン」と名乗るが、これがトニー・レオンのかつての女と同じ名と聞いて、僕は「アレレ?」と思わずにいられなかった。案の定、前作「花様年華」でのマギー・チャンの名は「スー・リーチェン」だ。で、この「2046」があのマギー・チャンとの関係が破綻してからの話と考えれば、確かにすべてツジツマが合う。

 それどころか…実は家に帰って調べてみたら、「欲望の翼」のマギー・チャンも同じ名前だったんだねぇ。僕はスッカリ忘れていたよ。これには驚いてしまった。

 実は僕が「欲望の翼」を当たってみたのは、「2046」に出てくるカリーナ・ラウの役どころが何となく「欲望の翼」のソレに似ている気がしたからだ。すると案の定、役名まで「ミミ」という同じ名ではないか。それでついでにふとマギー・チャンの役名を調べてみたらドンピシャ。ここへ来て、僕はようやくウォン・カーウァイの構想に漠然とながら思い当たったんだね。

 実は「2046」ってのは「花様年華」にも出てきた部屋のナンバーだったらしいが、それは情けないがまだ確認できてない。でも、ありそうな話だ。それに何より「2046」の劇中SF小説でキムタクが語る話こそ、「花様年華」に出てくる例のアンコールワットでのエピソードではないか(笑)。

 もし秘密を持っていたら、山に行って穴の空いた木を見つけるんだ。その穴に秘密をしゃべって、後は穴を塞げばいい…。

 「欲望の翼」、「花様年華」、そして「2046」は、それぞれが続編と言うより一種のスパイラル状態とでも言うべき世界を構築している。一つの宇宙というかパラレルワールドというか、同じ世界のような違うような…ともかく何かの世界観を共有して存在している。ある意味では今は亡きクシシュトフ・キェシロフスキの「デカローグ」(1988)とか「トリコロール」三部作(1993〜1994)あたりをも思わせる、壮大な登場人物相互乗り入れ物語。ま…それとはちょっと違うかな。ともかく、これらは何と1960年代を舞台にした壮大な三部作だったのだ。これにはまったく気づかなかった。情けないがこれは白状したい。

 そして…そうなってくると、これらが「脚本なし」に行き当たりバッタリでつくられたはずもない。スタッフや役者には見せずとも、絶対に自分ではコンストラクションを作り上げていたはずだ。どんどん変更に変更を重ねたとしても、絶対に確固たるベースはあったはず。なるほど、見応えがあるわけだよね。

 そしてそこで描かれているのは、またしても「追憶」の痛み、苦さ、儚さ、淡さ…だ。それだけ。

 「追憶」だから多少脈絡がなくなってもいる。順番もメチャメチャなら、ディティールがちょっとづつ狂って来たりもする。同じ時の出来事であるはずのコン・リーのエピソードが、映画の最初の頃に出てくる時と最後の頃に出てくる時で、微妙に変わっている事にお気づきだろうか?

 また映画の最初の頃で再会を果たしたカリーナ・ラウが死んでしまっているのに、最後の頃でまた再会している事にも注目しよう。脈絡がない。一貫していない。だが、それが人間の思考だし記憶だしイメージというものだ。そんな淡く儚くいいかげんなものだ。放っておけばおぼろげになってしまう。

 だから、人は「2046」をめざすのだ。

 そんな過去のオブセッションなど、消せるものなら消し去りたいと思うかもしれない。だが、薄れたりあやしくなっては来ても、決して「消え」はしない。いつまでも人を縛り続ける。ならば、それを振り返りたいと思っても、今度は頭の中でおぼろげに混濁してしまう。

 トニー・レオンは何かとそれらを忘れたいと思いながら、結局忘れる事が出来ない。それで多くの女と関わりながら、その愛を実らせる事が出来ない。実らなかった愛は、やはり「屍」のようになって心に残る。そうやって「愛の屍」だけがどんどん溜まっていく…。

 今回の映画の中心に主人公が書くSF小説が出てくるのは、だから単なる思いつきではない。

 実は「花様年華」の時から、映画は「追憶」そのものだった。だが、観客にはそれが普通のリアルなドラマと受け取られ、思ったような届き方をしなかった…ウォン・カーウァイはそう思っていたのではないか。実はかく言う僕も最初はそうだった。

 ディティールも怪しくなって、自分に都合のいい「つくり」も混じってしまったけれど、妙に強烈で心から離れない「追憶」…そういう映画として見てあげないと、「花様年華」はカッコつけた1960年代ファッション・カタログと化してしまう。まぁ、ウォン・カーウァイには多分にそういう要素もあるから自業自得とも言えるが(笑)、おそらく彼は「これは“追憶”の物語なんですよ」と観客にハッキリ分からせたかったのではないか。そうした前作「花様年華」の反省も含めて、今回は中心に主人公が書く近未来SF小説が置かれる。

 「追憶」はどこか薄れていく、どこか強調されていく、どこか変わっていく…それイコール「創作」ではないか。僕らは知らず知らずのうちに、記憶を自分の都合のいいカタチで、あるいは思い違いで、かくありたかったという切なさで、あるいは記憶そのものの減退で変えていってしまう。そうなった時、記憶は真実のコピーではなく「創作」となっているはずだ。

 そんな「創作」の一番分かりやすいカタチが、「物語」=「小説」だろう。中でも最も「作り話」っぽいモノ、イマジネーションを駆使するモノが「SF」ではないか。その中でも最も「追憶」の対極にあるのは「近未来」…。

 だから「2046」に近未来SF小説が出てくるのは、決して思いつきではない。これまたどうしようもない「必然」だ。

 だが、物語の折々に1960年代の香港の動乱みたいな記録映像が挟まるのは、一体いかなる理由からなんだろうか? そもそもあの暴動の記録映像は何を意味しているのか? 残念ながら香港事情に疎い僕には分からないが、1960年代後半という背景からみて、当時世界的に巻き起こっていた政治的なムーブメントや学園紛争などは何となく想起されないでもない。あの暴動映像もそれらと呼応するモノだったのだろうか? これは何とも僕には分からない。ただ「追憶」には、そうした当時の出来事的な要素も絡むよね。そういう象徴として出した可能性はある。

 そういやウォン・カーウァイ自身、「2046」には香港が中国に返還されて50年後という意味がある云々…てなことをコメントしている。まぁ、この人の場合は多分にカッコつけの部分もあるように思えるし(笑)、あまり言うこと全部を真に受けてもどうかとは思うが…それでもあの記録映像、そして三作一貫しての1960年代へのオブセッションと、何やらかなりの思い入れを感じるよね。僕は今ちょうどショウ・ブラザースの香港映画香港ノクターン(1967)あたりにちょうどハマってることもあって、何となく1960年代の香港ってやつが気になって仕方がない。

 そして同じ世界を共有する三部作の中で、同じようなエピソードを執拗に繰り返し繰り返し描いているあたり、ウォン・カーウァイの並々ならぬこの物語への執念を思わせる。彼は一体何故に、これほど執拗に同じ物語を語ろうとしたのか?

 一つには、この物語に何か個人的な思い入れがあるって事だね。

 そこにはおそらく「スー・リーチェン」って女が絡んでいると見るのが自然だろう。ウォン・カーウァイの過去の女との関わり…それも不幸な結末を迎えた思い出が、彼にこれをつくらせたのではないか? まったく憶測の域を出ないが、そもそも男が女のことでグチグチといつまでも戯れ言を繰り返しているとしたら、まずはそれしかないだろう(笑)。

 そもそも主人公トニー・レオンが作家=クリエイターってところからして、これはどう見たって作者の分身だ。しかも劇中の「作家」トニー・レオン自身に独白させているではないか。自作SF小説「2046」の主人公=キムタクは「自分の分身」だ…って。アレって完全に、トニー・レオンはウォン・カーウァイの分身だって言ってるようなモノだ。完全に観客に白状してるも同然なんだよね。

 そんな自分の分身をトニー・レオンみたいな「イイ男」にやらせたってあたりが、何とも「男の切ない願望」を思わせて痛々しいよ(笑)。しかも全編トニー・レオンがとにかくモテモテ(笑)。すがるチャン・ツィイーを振り払い、カネで片をつけようとするあたりの悪い男ぶりたるや…ハッキリ言わせてもらうけど、ウォン・カーウァイの「正体見たり」って感じだった。本音が見えたぜって感じ。

 きっとヤツは、自分でもこんな風にカッコつけたかったんだろうね(笑)

 誓って言うけど、本当に女にあんな態度が出来るヤツならこんな映画はつくらないし、「自分の分身」にもそんなことをやらせない。むしろ自己を誠実な男として描きたがるはずだ。自分をこれほど「モテモテの偽悪者」として描きたがるということは、おそらくその正反対だったはず。まったく女に相手にされなかったか、女にボロクソにコケにされたかどっちかだ(笑)。泣いてすがってプライドがズタズタになったかもしれない。カネを絞り取られるだけ取られたかもしれない。素っ裸でベッドから蹴り出されたかもしれない。ここまでキメキメでええカッコしいだと、こりゃどう見たって「虚勢」だと分かる。大体がウォン・カーウァイのツラでモテるわけがないよ(笑)。モテないからモテたい。トニー・レオンになりたい。エラい監督として、モテるトニー・レオンをコキ使いたい…。

 まぁ、それこそが先に述べたような…「追憶」は「創作」であるって事だろう。そこでは「事実」が「かくありたかった」自分のカタチで美化される事もある。それが実現できる場所こそ、「2046」なのだ。

 「2046」…それはウォン・カーウァイの映画のことだ(笑)。

 そして、それが「創作」で「虚勢」だと言うことは、当のウォン・カーウァイ自身が作中で告白している。なぜなら現実の1960年代香港でのキムタクやトニー・レオンよりSF小説「2046」でのキムタクの方が、何だかんだとカッコつけてるもんね。実際は香港娘フェイ・ウォンが諦めきれずセッセと手紙を送りつけてるキムタクとか、チャン・ツィイーと性欲に溺れてグチャグチャなトニー・レオンとか、てんで情けない男たちなのだ。しかもトニー・レオンなんか、ついつい寂しさにフェイ・ウォンにまで手を出そうとして相手にされなかったりする(笑)。現実のウォン・カーウァイよりカッコいいはずのトニー・レオンですら、やっぱりそれなりに情けない。一番カッコいいのは虚構中の虚構…アンドロイドを諦めてカッチョよく毅然と去っていSF小説でのキムタクだ。付け加えれば、一番カッコ悪いのがたぶん現実のウォン・カーウァイである事は、今さら言うまでもない(笑)。

 ここでカーウァイは、ハッキリと「現実」と「虚構」では落差があるよ…と言っている。ズバリ、ヤツはこう言ってるのだ。「オレは本当はトニー・レオンみたいにモテてない」…。誰もそんな事思ってないって(笑)。…さらにその一方で、「現実」「虚構」問わず一貫している事もあるのだ。

 それは、昔別れた女にウジウジと未練タラタラなこと(笑)。

 で、そんな情けない本音をええカッコしいで隠して、余計に自意識過剰でブザマな姿をさらしてるウォン・カーウァイの「みっともなさ」がかいま見えたから、僕は今回の映画にかなり親近感を覚えたんだよね。あのキメたつもりのサングラスすら恥ずかしい(笑)。いつものカッコつけの裏側が見えた。…というか、彼はそんな「みっともなさ」を自覚してるし、それをあえて見せてもいいと思っているはずだ。そんなボロを見せる気になったのなら許せるかな…と(笑)。

 だが、執拗に同じ物語を語ろうとした理由はそれだけじゃないと思う。確かにモチベーションとしては大きいだろうが、それがこれほど根深くなってしまったのには、また別の理由があるはずだ。それは「創作者」としての欲求に根ざした事なんじゃないか?

 僕はむしろ、それは「欲望の翼」での不完全燃焼な終わり方が原因だと思うんだよね。

 本当なら二部作か、少なくともちゃんとした結末を付けて終わるはずだった「欲望の翼」。だが不本意ながらあんな中断したカタチで終わってしまった。その無念はずっとウォン・カーウァイの中に残り続けたはずだ。

 だが、もし単に中断しただけなら、彼だってあそこでブツッと終わっての「完成」「公開」を認めなかったはずだ。そもそもあんなカタチには出来上がるまい。

 おそらくウォン・カーウァイ自身も、あの時には当初自分が考えていた終わり方では物語が収まりそうもない…と気づいたのではないか。

 その段階ではどうやって収めるかの妙案もない。そもそも膨れるだけふくれた構想をどうするかの見通しも立たない。それで放り出してしまったというのが真相ではなかろうか。

 自分の目指すところには自力で到達出来ない。そんな思いは「楽園の瑕」でさらに強くなる。僕はこれも今なら「欲望の翼」の敗者復活戦映画だと思えるんだよね。現代劇ならば複雑すぎるコンセプトも、時代劇=寓話なら言い切れるはず…そう思ってやってみたのが甘かった。現場はもっと泥沼化して、さすがにウォン・カーウァイもこのプランを投げざるを得なかった。

 彼の場合、ある程度作品を放り出しても見れるものになってしまう…という映像感覚なり映画のスタイルなり、それを支えるドイルのカメラなり、趣旨に賛同するスターなりというものを持っていたのが幸運だったろうし、同時に不幸でもあったろう。

 こうして「恋する惑星」「天使の涙」「ブエノスアイレス」…と、彼なりの「逃避」を続けていたのは先に述べた通り。だが、結局ウォン・カーウァイはどこか満たされなかったはずだ。

 あるいは「逃避」の果てに、何らかの打開策を見いだしたのかもしれない。

 あるいは行き当たりバッタリの映画づくりをトコトンやってみて、コンストラクションの建て方とその崩し方の配分を見極めたのかもしれない。

 そんなプロセスを通過した上で、ウォン・カーウァイは「欲望の翼」の失われた後半部分を再構築する構想として、「花様年華」「2046」の二作を立て続けに製作した。その中で「花様年華」が比較的カチッと組み立てられている印象を与え、今回の「2046」が割とルーズな感じに出来上がっているのは、打開策を振り子の極端から極端へと移行しながら探っていこうとする試みが製作中も進行していたからではないだろうか。

 今回現場がアレコレと変更を重ねて、編集が二転三転していったのも無理はない。脈絡のなさ…そうした「追憶」そのものを映像化しようとしたんだからね

 

見た後の付け足し

 ただし…それでも疑問が湧かない訳ではない

 例えばこの映画でのチャン・チェンとかドン・ジエの使い方など、ハッキリ言って空費としか思えない。もうちょっと何とかなったのではないか。

 いい映画だとは思う。僕は好きだし、三部作構成を知った今では、大変な構想だったと正直感心もする。だがこの作品をつくるために、これだけのアジア圏の大スターを総動員し、何千万ドルかかけて数年の月日を費やさねばならなかった。

 正直言って、それほどの作品だろうか?

 いささか酷ではあるが、そのリスクを払ってまでつくる映画だったのかと言えば疑問が残らないでもない。そうなると、もうちょっと作り方なり考える余地があったのでは…とも、正直思ってしまうんだよね。だってコレって実はものすごくパーソナルで、小ぢんまりとしたお話だからね。一人の男の胸の内だけに限られた、およそ個人的なちっちゃいちっちゃい話。

 もっともウォン・カーウァイは、あれだけのリスクをかけてもつくる価値があると思ったからこそやったのだろう。そしてそれは、「2046」が発表され三部作構想が明らかになった今だからこそ…僕もヘタに否定できないと思うんだよね。

 そして彼には、何が何でも「欲望の翼」から引っ張ってきた世界を描ききる必要があった。

 そのオブセッションが何なのか…今のところ僕にはそれが分からないままだが、今回のトニー・レオン演じる主人公の胸の内だけはかなり共感したよ。だって、僕は本当にあのセリフを口にした事があるからね。

 「オレと一緒に行かないか?」

 だから僕には、この映画のすべてがシャレになってない。キレイなだけの内容空疎な映画だという意見には、いつだってこの僕が反論に立ってもいい。なぜなら、ここには僕が「ホンモノだ」と思う事が描かれているからね。

 「恋愛は、すべてタイミングだ。私が関わった女たちとの関係も、あの時、あの場所でなければ結果は違っていたのだろうか…?」

 

 

 

 

 

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