「隠し剣 鬼の爪」

  The Hidden Blade

 (2004/11/08)


  

今回のマクラ

 え〜と、実はこれを書いているのは現在8月5日。この映画の公開は10月30日とかで、おそらくこの感想文のアップもそれ以降になると思うから、3ヶ月ぐらい先の話になるわけだ。だから多少話はふやけてしまっているかもしれないことをご承知いただきたい。

 何でそんなに早く書いているのだ…と言われば、僕はこの映画をある人のご好意で見ることが出来たわけ。昨日8月4日に行われた、この映画の完成試写に連れて行ってもらったんだよね。ただし重ねて言えば、それは別に僕がエライ訳でも何でもなくて、たまたま人に招かれて出かけて行っただけ。別に僕が呼ばれた訳じゃないから、自慢出来ることではないのだ。ギョーカイ人でもない僕一人ノコノコ出かけて行ったところで、誰も鼻も引っかけないからね(笑)。

 そんなおのぼりさんの僕だが、今回の試写会にはちょっと驚いてしまった。

 元々この国際フォーラムの試写会は派手なものが多い。それにしたって今回のコレはスゴかった。まぁ、そりゃそうだろう。前作「たそがれ清兵衛」(2002)のヒットがあるからね。しかも予想外にアメリカのアカデミー賞外国語映画賞にもノミネートだ。これは受賞は逃したものの、ノミネート自体が「泥の川」以来22年ぶりというから驚いた。それって快挙なんだろうか、それともそんなに長くお呼びでなかったということを情けないと思うべきなのか(笑)。

 ともかくこの映画、かなりの期待作であることは言うまでもないよね。

 

見る前の予想

 え〜と、毎度毎度言うのがだんだん億劫になってきたけど、これを言わないと先に進まないから、まずは最初に申し上げる。

 僕はどちらかと言えば外国映画を愛好する人間で、だから日本映画についてはいささか手薄なところがある。実際見ている本数たるやお寒い限りだ。実はこの山田監督の前作「たそがれ清兵衛」ですらちゃんとは見ていない。もちろん他の山田監督の作品だって、“あのシリーズ”の旧作何本かやそれ以外の作品をテレビでチラチラと見た事しかない。実は劇場でちゃんと見たことはないんじゃないだろうか?

 まぁハッキリ本音を言えば「見りゃいい」ってもんでもないと思うし、それだけでイバるのもどうかと思うんだけど、僕の立場でそれを言ったらオシマイ。ともかく見てないよりは見てる方が発言権があるのは確かだ。だからその点については白状しておかねばなるまい。

 そんな訳で、あまり偉そうな事は言えないんだけどね。それでも山田監督やら「たそがれ清兵衛」やらを取り巻く雰囲気ぐらいは知っているつもりだ。以下はそんな人間が書いたゴタクだと思って読んでいただきたい。

 今回の作品、「たそがれ清兵衛」のヒットを受けての第二弾…という雰囲気が濃厚なのは間違いないだろう。そもそも山田洋次の時代劇そのものが「たそがれ清兵衛」で初めてだったんだからね。それまでは現代劇ばかりだった。それが「清兵衛」が当たったら、またしても時代劇。

 原作はまたまた藤沢周平だし、続編ではないものの気持ちとしては「柳の下にドジョウが〜」の類と思うのが自然だ。まぁ、山田洋次ってその前にあの世界最長のシリーズ映画を抱えていたんだから、このくらい別に目くじら立てる事でもないか。

 でも周囲ではまたまた大ヒット、再度アカデミー賞にチャレンジ…って雰囲気で力入ってるんだろうけど、果たしてどうなんだろうか。やっぱり二回目ってのは何かと鮮度は落ちてるみたいな気がするし、「あの夢をもう一度」ったってそうはうまくいくわけじゃない。山田氏自身、かつて「幸福の黄色いハンカチ」(1977)で大当たりをとって高倉健主演・北海道シリーズ第二弾…とつくった「遙かなる山の呼び声」(1980)が、作品の出来はともかく興業も評判もいささか寒かったということを経験しているはず。だからそのへんは冷静に構えているとは思うんだけどね。でも試写会を見る限りじゃ周囲は加熱してるし、今度はオスカーとらないと…なんて勝手にエキサイトしているかもしれない。だとしたら山田監督もお気の毒だ。

 ともあれ、やっぱり映画を撮れば面白く仕上げる山田監督のこと、この作品だって最低でも「それなり」には出来上がっているはず。

 それと、個人的には今回主演する永瀬正敏にも期待した。

 前の「清兵衛」の場合、僕の腰が退けたのにはそれなりの理由があった。その一つには、何となく「サラリーマンの悲哀」みたいなものが作品に漂って、それが中年オヤジの客に受けてるんじゃないか…という懸念もあったわけ。実際、マスコミには当たった理由をそう分析する奴もいたしね。

 そういうムードが漂ってくると、主演の真田広之にすらスタミナ・ドリンク「ゼナ」のCMでバリバリ仕事するサラリーマンのイメージが想起されてしまう。映画館に行って、「全国のお父さん、頑張って!」みたいな気分にさせられたらかなわん…いや、勝手にサラリーマンの応援歌と勘違いして、テメエのキズなめてるオヤジどもがウヨウヨしてたら気持ちが悪い…。オレは、自己正当化するオヤジほど醜いものはないと思っているんだよね。自分がオヤジだからこそオヤジはキライ。

 まぁ、実際にはそんな事はないだろうと百も承知。それでも…そんな一方的な先入観を勝手に抱いて、足が遠のいたところもあるんだよね。

 だけど…永瀬だったら、さすがにそうはならないはずだ。

 何て言ったって、ついこの前ELECTRIC DRAGON 80000Vをやったばかりの男なんだよ(笑)。ジム・ジャームッシュの映画にだって出た男だ。「全国のお父さん!」なんてゼッタイに言うわけないよ。サラリーマンに気持ちよく自己憐憫なんか、させてくれる訳がない。

 それと…今時の永瀬のポジションに、ちょっと疑問を持ったりもしているのだ。

 テレビでやってた「濱マイク」…あの無残な自己満足にはガッカリした。やりたいようにやってて本人と取り巻きやお仲間は楽しいんだろうが、アノ程度の事がやりたい事だったのかねぇ? オレは寂しかったよ。そして、コイツってしたいようにさせちゃダメだと思った。

 この人って監督さえいい人につけば、きっといい味出してくれるはずだ。それが山田洋次とくれば、相手にとって不足はあるまい。そういや、かつて「息子」(1991)でもイイ味出してたじゃないか。だから今回もきっとやってくれるのではないか。

 僕はそのくらいの「期待」でスクリーンに向かったんだね。

 

あらすじ

 幕末の頃、ここは東北にある海坂藩。今まさに一人の藩士が、海坂藩の江戸屋敷へ向かうために旅立とうとしていた。その男・小澤征悦を見送る男が二人。友人の永瀬正敏と吉岡秀隆だ。特に永瀬と小澤は、かつて同じ師に剣を習って腕を磨きあった仲。そんな小澤の旅立ちを見送りながら、永瀬は何とも説明のつかないイヤな予感を感じる。

 永瀬のもう一人の友人・吉岡は、彼の妹・田畑智子を見初めて嫁にもらいたいと言う。そんな吉岡の申し出に、永瀬と田畑の母親・倍賞千恵子は恐縮しごくだ。何せこの家は三十石のペーペー侍どまり。元々はそれなりの家柄だったが、永瀬・田畑の父がある不祥事で詰め腹を切らされてからは、一介の貧乏藩士に成り下がってしまった。

 それでもこの家は母親・倍賞と奉公に来ている百姓娘・松たか子のおかげで、小さいながらも楽しい団らんの時を持っていた。松たか子はまだ幼い頃からこの家に奉公に来ており、永瀬とは幼なじみのような仲だ。

 やがて田畑は吉岡の家に嫁ぎ、たか子も油問屋の伊勢屋への縁談がまとまった。そんな折り、母親・倍賞は病いで倒れて世を去った。こうして永瀬の家は、火が消えたように寂しくなっていった…。

 それから三年…。

 ある雪の日、永瀬が町を通りかかったところ、久々に松たか子の姿を見つけた。懐かしさからついつい近づいていった永瀬は、そのたか子のあまりにやつれた容貌に驚く。聞けば最近病いに伏せていたとのこと。それにしたって弱々しげ、寂しげなその様子に、永瀬は心を痛めずにはいられない。大きな油問屋に嫁いで幸せになったとばかり思っていたのに…。

 それからと言うもの、どうしても松たか子の事が気になってばかりの永瀬。藩では江戸から教官がやって来て、西洋の兵法やら大砲・鉄砲の扱いの教練が始まったが、そんなものにはまったく身が入らない。周囲ではいつまでも嫁をもらわぬ永瀬にアレコレ口を出したが、当の永瀬自身は気にもしない。もっとも永瀬は「男所帯にウジがわく」を地でいって、何とも年々薄汚れていたのだが…。

 そんな永瀬があの松たか子の近況を聞いたのは、母親・倍賞の法事の際に帰郷した田畑の口からだった。またしても病いに倒れて何ヶ月も寝ている、出入りする者の話では朝から晩までコキ使われていた、何しろ姑の扱いがあまりに惨い…どれもこれも聞くに耐えない話ばかり。これにはさすがに永瀬もキレた。吉岡や田畑が止めるのも聞かず、いきり立って当の油問屋・伊勢屋に乗り込んだ。

 だが、伊勢屋のおかみ光本幸子もさる者。「アレはうちの嫁」とばかりに、いかに侍の言う事でも聞けぬと、面会を求める永瀬を突っぱねる。しかし永瀬もここは退けない。おかみの言う事など無視してズカズカと店の中へと踏み込んで行くと、奥の暗く小さな部屋に寝かされている松たか子を見つけた。こうなれば、もうここに置いておくわけにはいかぬ。永瀬は松たか子を背負うと店から連れ出し、おかみには「離縁状を用意しろ」と言い渡して立ち去った。

 こうして松たか子は永瀬の家に戻った。やがて見舞いと手伝いのために彼女の妹もやって来て、いつしか彼の家はかつての華やぎを取り戻し始めた

 そんな折りもおり、永瀬の耳に吉岡からとんでもない知らせが舞い込んできた。海坂藩の江戸屋敷で、謀反の企みが発覚したのだ。

 しかし幕府に事の次第を知られてはマズイ。そこで関係者はすべて闇から闇に葬られた。ただし首謀者にはさらに厳罰が…切腹も許されずに秘かにこの海坂藩に戻され、山奥の牢に一生閉じこめられるという「郷入り」という惨い刑だ。そして謀反の首謀者こそ、永瀬たちの友人…小澤征悦だった。

 イヤな予感が的中してしまった…。

 案の定、永瀬は家老の緒形拳と大目付の小林稔侍に呼び出され、小澤の件であれこれ詮索される。それもそのはず。先にも述べたように、かつて永瀬と小澤は同じ剣指南役に師事していた。

 この師は、彼らの流派の奥義である隠し剣「鬼の爪」を永瀬だけに伝え、それがキッカケで小澤は師から離れた。藩の御前試合で永瀬は小澤と剣を交える機会があったが、その時には永瀬の勝ちで終わっていた。だが、永瀬は知っていた。あれが真剣だったら自分がやられていた、と…。

 そんな永瀬と小澤ではあったが、友人としての交流は続いていた。それだけに、永瀬は謀反の共謀者として疑われる可能性があったのだ。

 そんな永瀬に、家老の緒形は無茶な話を持ちかける。他に小澤と親しい人物の名を挙げろ…と言い出したのだ。だが、そんな事が永瀬に出来るわけもない。相手が家老であると言えども、ついつい一言返さずにはいられない。「そんなことは侍のやるべきことではありません!」

 これには家老の緒形もご機嫌を損ね、激怒のあまり永瀬を突き飛ばす。

 割を食った永瀬は胸の中で何かをつぶやきながら、ここは我慢とグッと怒りを胸に納めた。武士だから我慢しなければならない事もある、だが武士だからこそ我慢できないこともある…。

 さらに永瀬に追い打ちをかけるように、よくない評判が飛び交ってもいた。永瀬が商人の家から連れ帰った松たか子を、愛人として一緒に暮らしていると言うのだ。そんな言葉を友人の吉岡までが口走るのを聞いて、憤りを隠せない永瀬。だがそんな評判が自分の妹・田畑まで傷つけていると知り、さすがの永瀬も捨て置くわけにはいかなくなった。

 次の休日、永瀬は松たか子を海辺へと誘う。すっかり楽しい気分に浸った松たか子に、永瀬は心を鬼にして「実家へ帰れ」と言い渡す。命の恩人の永瀬のお世話をしたい…と言うたか子ではあったが、永瀬の気持ちは固まっていた。引き留めたいのは山々だが、ここは彼女を帰すより他なかった。

 「これはオレの命令だ」

 こうして、永瀬の家はまた寂しくなった。

 ところがそんな折り、またしても事件が起こった。山奥の牢に繋がれていた小澤が脱獄したのだ。しかも家老・緒形にあてた置き手紙もあった。「斬って斬って、一人でも多く斬って殺しまくってやる…」

 永瀬が家老・緒形に再び呼び出されたのは、それから間もなくの事。小澤は人質を取ってある百姓家に立て籠もっており、周囲を鉄砲隊で包囲していた。事がこじれれば多くの人間が犠牲になるが、出来るだけ犠牲は払いたくない。そして藩の中で小澤と拮抗する剣の使い手は、永瀬以外他にはいない。

 「私に友人を斬れと言うのですか?」

 だが、それより道がない。小澤を斬る事が自らの疑いを晴らす方法だとまで言われた。永瀬は苦渋の末に、小澤を斬る役目を受け入れる事になった。かくして言い渡された決行の日は翌日の朝…。

 だが永瀬には、友人を斬るという以外にも悩みがあった。そもそも彼には小澤に勝てる自信がなかった。そんな彼がやってきたのは、今は侍の世界から退いて生きているかつての師・田中泯の家だった。

 「いつかはオマエたちが戦う日が来ると思っていた」

 師は淡々と受け止めると、永瀬に捨て身の技を伝授する。それは一旦「戦意喪失」と見せかけて敵に背中を見せ、突っ込んで来た相手を一撃の下に仕留める…というものだ。これはこの流派の奥義・隠し剣「鬼の爪」とは違う。あくまで「戦い」のための奥の手だ。

 だが一つ間違えば自分の方が危ない。永瀬はそんな両刃の剣の技を使いこなせるかどうか、まったく自信はなかった。

 そんな戦いを翌朝に控えた晩のこと、永瀬の家に一人の女が訪ねてくる。それは小澤の妻・高島礼子だった。彼女は夫=小澤の命乞いにやって来たのだが、無論永瀬にはそれを受け入れる術はない。事が始まったら、彼らの間には命の取り合いしかあるまい。それでも必死な高島は、ついには色仕掛けまで使って永瀬に迫る。永瀬はそんな高島を何とか拒絶したものの、今度は彼女は家老・緒形に頼み込むと言い出す。そんな高島に何をやってもムダだと言い聞かせた永瀬は、何とかかんとか彼女にお引き取り願うのだった。

 そしてついに、自らの手で友人を討つ朝がやって来る…。

 

見た後での感想

 いやぁ、そもそも前作の「たそがれ清兵衛」を見てもいないくせに、今回何となく鮮度が落ちるのでは…とか聞いた風な事を言ったのが恥ずかしくなるよ。

 面白い。そして、厚みがある。

 どんな素人が見たって、丹誠込めてつくった丁寧さやら、手の込んだつくり込み方が伺えるだろう。本当に素晴らしい。見事だ。そして映画のワンカット、ワンカットに分厚いボリュームがある。カメラやら装置やら衣装やら何やら…細かい工夫と努力の跡が感じられるよね。本当に感心してしまった。「たそがれ清兵衛」もそうだったのかどうかは分からないし、だとしたら見た人にとっては「何を今さら驚いているのか」と言われそうだが、ともかくこの画面一つひとつの「情報量」の濃さには圧倒されてしまう。ちゃんと手をかけてつくった映画ってのは見ていても違うんだよね。まったく見え方が違う。

 映画のお話の運びたるや、実に淡々としたものでしかない。それでも2時間以上という長丁場がまったくダレない。それは話術の巧みさもあるが、こうした「情報量」というかディティールの凝り方によってもたらされたものじゃないか。それってうまくは言えないが、最近ではケビン・コスナーが監督した西部劇ワイルド・レンジ/最後の銃撃にも感じたものだ。ディティールで見せてしまう丁重さ。

 もっとも「ワイルド・レンジ」のディティール重視って、おそらくは「七人の侍」などの黒澤映画からヒントを得たものだろうと思う。日常のリアリティを徹底追求する作り方だよね。だとすると…この山田時代劇の丁重さって、巡り巡って黒澤譲りなのかもしれない。かつて黒澤明が「八月の狂詩曲<ラプソディー>」(1991)を松竹で撮った際に、山田洋次がその撮影現場を訪れて見学していた様子がメイキングに収められていた。あの当時、山田監督はかなり黒澤組の撮影に入り浸っていた様子みたいなんだよね。ひょっとして山田洋次はあの時に、「黒澤マジック」の何たるかをいくらかでも手に入れていたのだろうか。

 まぁ、映画でのディティールの凝り方ってのが黒澤の専売特許だとは言わないが、ともかくこの映画にはそんな細部の楽しみが溢れている。

 そしてもう一つ「ワイルド・レンジ」との共通点を言えば、この映画には“イマドキ”スッカリ見られなくなった、人の流儀というものが取り上げられている。損得勘定ではなく、人間としての流儀。これが非常に見応えのあるところなんだよね。

 さらに面白いなと思うところは、この映画の時代背景が幕末であるところだ。古いしきたりと新しい空気がどこか混在しているあたりが、この映画の面白さでもあるんだよね。

 主人公も他の登場人物も封建社会の枠の中に入れられて、なかなか身動きが出来なくなっている。これはどんな時代劇でも大なり小なりあること。それに対して反旗は翻さないまでも、主人公は彼なりに人としてのスジは通そうとする。

 ところがこんな封建社会もホコロビが出ていて、いずれは西欧の合理主義が取って代わろうとそこまで来ているという設定だ。最初はヘロヘロだった藩士たちが、映画の最後にはちゃんと西洋の兵法に従っている様子は象徴的だろう。何だかラストサムライ」のパロディにも見えてくるけどね(笑)。

 考えてみると、ここで謀反の罪に問われた主人公の友人も象徴的存在だ。

 彼が江戸屋敷付きになって謀反に手を染めたというのは、少なからず江戸に吹き始めていた新時代の風に触れてのことだろう。現に彼は藩の腐敗した体質を批判してもいた。その志や良し。だが結局は暴力に訴え、最後には「斬って斬って斬りまくる」とテロ的な発想しか出てこない。これではあまりにも不毛だろう。それは実利的ではあるが何が味気ない、西欧の兵法にも通じるところがあるんじゃないだろうか?

 勝てばいい、目的さえ果たせばいいというのは、合理的かもしれないが人の道としてはいささか疑問が残る。実にささやかでさりげなくではあるが、ここではそんな問題提起もチラついてくる。

 封建社会はナンセンスだ。だが、それにとって代わろうとする西欧合理主義は、それでまた何かを人に強いて、何かを奪っていくに違いない。そんな人を縛っていくダブル・スタンダードの手かせ足かせが、ここでは分かりやすく押しつけがましくなく、あくまで静かに描かれているんだよね。その向こう側には、西欧合理主義を中途半端なカタチで自分のモノにしてしまった「今のこの国」の姿まで透けて見える仕掛けだ。

 この映画ではこうしたアレコレが、「ありがち」でワンパターンな西欧合理主義批判やら武士道賛美には陥らず、一定の冷静さと距離を持って見つめられているところが新鮮だし、見ていて好感が持てる。

 主人公をはじめ市井の人々の性根の優しさや善良さの描き方も、まるっきり押しつけがましさがない。だから見ている僕らも、身構えず反発を覚えずに受け入れられる。ここがこの作品の実に新鮮で、かつ優れたところなんだよね。

 そして…だからこそ、山田洋次は間違いなく「たそがれ清兵衛」の二番煎じと言われる事を承知しながら、今回の時代劇をつくったのではないだろうか?

 

「男はつらいよ」後を迷走した山田洋次の結論

 実際のところあれだけ長きに渡って「男はつらいよ」を撮って来た山田監督は、シリーズが「寅次郎紅の花」(1995)で終わりを告げた時に、ホッとしたと同時に途方に暮れたんじゃないだろうか? あれだけの商業的成功作をこれからつくれるだろうか…という不安もあっただろう。と、同時に、新たに創作のモチベーションになる何か、自分の作品として発表するに足るべき何かと出会えるのだろうか?…と、ものすごい不安に苛まれていたのではないかと思うんだよね。結局「釣りバカ日誌」シリーズの脚本をつくる合間に、「学校」「II」(1996)だとか「III」(1998)だとかあれこれつくってはみたものの、何となくツボにハマらない感じがあったんじゃないか? それは商業的に成功しないとかいうこととは別問題で…だ。日本映画を見ないし知らない僕のようなハンパな映画ファンですら、何となくそんな感じを察してしまったよ。

 それを解消するすべをやっと見つけたのが、あの「たそがれ清兵衛」…つまりは時代劇だったということではないだろうか?

 今回の作品を見る限りでは、時代劇って思いの外、山田洋次の体質に合っている気がする。って、「たそがれ清兵衛」をすでに見ている人からは、「オマエ、バカか」って言われそうだけどね(笑)。でも、それに尽きると思うよ。

 元々、山田氏は市井の人々の哀感やら善意を描く事に長けている監督だった。…というより、それしか描きたいと思っていないんじゃないだろうか? すべての作品を見た訳ではないが、おそらくそういうイメージがあると思うよ。

 だけど、それが現代ではそろそろ描けなくなった…それが「男はつらいよ」シリーズ終結後の山田洋次の課題だったのではないかと思うんだよね。

 だってイマドキの殺伐とした世の中では、市井の人々の哀感やら善意やら、誇りや心意気やらってものは、どう考えたってリアリティを失っている。なくなった…とまではいかないが、それをリアルに描くのは困難だ。しかもこう言っては何だが、「もういい歳」の山田監督には現代世相をリアルに扱うのはそろそろキツいだろう。だとすると、そこでヘタに善意だの心意気だのを描こうものなら、思いっきり現実と剥離することは免れない。これはどだい無理な相談なのだ。

 見てもいないくせに言っては何だが、「学校」のいくつ目…だとか「虹をつかむ男」(1996)だとかが何ともズレたイメージを一般に与えるのは、そういった事じゃないかと思えるんだよね。見れば確かに素晴らしいのかもしれない。「学校」なんちゃらとか「虹をつかむ男」あたりは未見の僕には、少なくともそうとしか言えない。だけど残念ながらそれらの作品は、ごく限られた山田ワールドのシンパにしか到達しないんじゃないか?

 善良だが貧しく報われない人々を前向きに肯定して描く…どうも「学校」あたりの作品には、そういうイメージしか湧いてこない。実際は違うのかもしれないが、山田シンパ以外はそう思っていると思うよ。それって有り難いお話ではあるけど、何となく説教臭くはあるよね。実物はどうか知らないが、何となく「貧しさ=善良さ」みたいな、昔の左翼プロパガンダみたいな雰囲気も漂ってくる。そうなっちゃうと、みんなどうしたって退くんだよね。「学校」が定時制の高校を舞台にしているあたりも、そんな雰囲気が漂うではないか。おそらくはそこでは、教育批判が行われ、社会批判が行われ、学歴社会やら拝金主義や大企業偏重主義も叩かれるだろう。そういう雰囲気がプンプンする。それって何となくお説教臭くて押しつけがましく感じられないか?

 無論そこはそれ山田監督だから、ちゃんと面白くうまくはつくるだろう。だが面白く出来た実際の作品にたどり着く前に、一般の観客は労働組合か日教組か共産党のアジビラみたいな事前イメージで近寄らなくなる。まぁキツい言い方をすれば、「偽善」っぽく見えそうな気がしてくるんだよね。それでもソコソコお客が来たのは、おそらくは長年「男はつらいよ」で培ってきた山田監督の信用があったればこそ…だろう。

 それもこれも…そういう善良さや正しさって、今の世の中ではリアリティを持ちにくいからだと思うんだよね。

 そんな山田作品の中でも、なぜ「男はつらいよ」シリーズがごく近年に至るまでその例外であり続けたか…と言えば、それは多くの人が共有出来た一種の「ユートピア」を創り上げていたからだろう。葛飾柴又…それは実在の場所ではあるが、実際のところは映画に描かれたような場所ではあるまい。それこそほとんどSFみたいな、架空の場所に近いイメージになってしまっているんじゃないか? そこではおそらく何十年も前に、時計が止まったままの状態に違いない。オイオイ、それってまるでウォン・カーウァイの「2046じゃないかって(笑)? キムタクは寅さんだったのか(笑)?

 そう。「男がつらいよ」シリーズが説得力を持ち続けたもう一つの理由…それは渥美清演じる「寅さん」という、まったくもって傍迷惑な男が中心に座っていたからだ。

 この男、勤勉でもなければマジメでもない、悪気はないけど決して善良だとも言えない。信念もポリシーも微塵もない。こんな奴が身近にいたら本当に困る。時には実にイヤな事も平気で人に言う。決して「いい人」じゃないんだよ。で、こいつが中心にデンと座ってるから、作品が偽善には見えなくなるのだ。後年は大分老い込んで物わかりがよくなっちゃったけど、少なくともシリーズ途中まではそうだった。決して「楽しい男」じゃないんだよね。

 実は“善良を絵に描いた”ような山田作品には、これら「男はつらいよ」シリーズと前作にあたる「たそがれ清兵衛」の他にも、幅広い支持を得られた例外がある。これまたすべてを見ている訳ではないが…との言い訳をさせてもらった上で挙げてみると、例えば前述の「幸福の黄色いハンカチ」がそうだ。さらには「息子」もヒットしたし評判も良かったよね。自分の知る限りの山田作品でも、世間での受け入れられ方と興行的な成功の仕方の両面で、この二作はちょっと抜きん出た存在であるように僕は感じているんだよね。実際、一般の人々にとってのイメージもそうなんじゃないか?

 僕はこの二作に、一種の共通性があるように思うんだよ。

 それは…どちらも“いかにも山田作品に出そう”「善良そう」な俳優が主演していないこと。

 だって、「幸福の黄色いハンカチ」高倉健だよ。当時の健さんと言ったら、ついこないだまで網走で牢屋を脱走したり、背中に彫り物背負ってドス振り回したりしていた人だ。そこに桃井かおりとくる。これまた当時は“シラケ女優”の最右翼と言われた人。ナマイキでブーたれまくっているような女だ。身持ちも思いっきり悪そう。全然、善良でも何でもない。ついでに言えばこの作品で役者として初登場の武田鉄矢も、ホントは「金八先生」なんかじゃなかった。ハンパな若造が歌うたってるいいかげんなイメージだった(笑)。

 あるいは「息子」だ。三國連太郎は、今でこそ「釣りバカ」のスーさんを人が良さそうな顔してやってるが、かつては「復讐するは我にあり」(1979)のセガレの嫁に手を出す危ない義父とか、思いっきりヤバいムードを漂わせていた。ホントはいつハマちゃんを海に突き落として殺しても、まったくおかしくない男なのだ(笑)。「息子」でも自分のセガレが嫁にしたい…と連れてきたろうあの娘・和久井恵美を、いつ手込めにしても不思議ではない。いや、そうしない方がおかしかった。そして、その息子役には永瀬正敏だ。ジム・ジャームッシュの「ミステリー・トレイン」(1989)にまで出ちゃったクセ者。これまたおおよそ「善良」とは言いかねる。

 ところが、こうした「善良」イメージとは程遠い役者を起用すると、山田作品はスケール・アップする。リアリティが増す。こうなれば山田監督の映画話術は抜群にうまいから、多くの人々に支持されるのだろう。

 ところが…現代劇でも上記の「不良性感度が強い」役者たちを使えばまだまだイケる山田作品だが、実際には彼らのような役者を持って来れる題材は限られてくる。人々の善意やら正しさやらって価値観を現代劇で撮ろうとする時、必ずしも中小企業労働者とか定時制高校とかばかりが題材じゃないはず…とは疑問に思うが、どういうわけだか山田洋次にはこういう発想しか出てこないんだよね。そうであってもいいけど、そうでなくてもいいんじゃないか?…とは思うんだけどね。どうしても山田監督と現代のリアリティとは、どこかで決定的にスレ違ってしまう。

 そんな山田洋次が試行錯誤、悩みと迷いのあげくに掴んだのが、「時代劇」という新たな分野なのだろう。

 それは当然現代ではないから、現代的リアリティはハナっからなくていい。元々丁寧にディティールに凝るタチだから、むしろ「まんま」撮れてしまう現代劇より、時代劇の方が画面にリッチな分厚さが漂う。手をかけた形跡が観客にも分かる。

 おまけに山田監督が描きたいと思っているのは、本来我々が持っていた美徳のようなもの。いずれも時代劇の登場人物なら持っているのが当然。それを偽善などと言う者はいない。何しろ我々のこの国は、僕らが子どもの頃には家にカギをかけてなくても無事だった。人口一千万を超えた首都・東京にしてそうだった。「安全管理」がなってない…なんて昨今の聞いた風な屁理屈の方が本当はナンセンス。世の中が昔みたいに安全なら、「安全管理」なんかしなくても構わなかったのだ。まして時代劇の頃なら「善良」で当たり前。「善良」である事こそが、むしろ「リアリティ」だ。こんなに山田ワールドにハマる設定はないのではないか?

 おまけに時代劇ならば、それまでの山田作品には欠けていたアクション、サスペンスも描ける。それがピリッと隠し味になって、作品全体の緊張感を高められる。これは映画の面白さからも商業的要請からもプラスだろう。あるいは山田洋次の胸の内に秘められていた、黒澤映画への憧憬がカタチになったかもしれないね。

 元々山田監督には、時代劇を撮りたいという願望があったらしい。確か三船敏郎と渥美清共演の時代劇企画が立ち上がって、記者発表まで行われた事があったと聞く。ここでは三船起用…というあたりで、山田監督の黒澤映画への傾倒を伺える点にご注目いただきたい。ともかくその三船・渥美共演企画は頓挫したものの、その後も時代劇への夢は持ち続けていたようだ。確か「幸福の黄色いハンカチ」直後には、高倉健主演で長屋モノ時代劇を撮る話もあったはずと記憶している。

 こうした「夢の企画」を見ても分かる通り、三船、健さん…と主役には“山田作品らしからぬ”顔が並ぶ。こと時代劇ともなると、“山田作品らしい”善良イメージ役者ばかり使うわけにはいかないのだ。「たそがれ清兵衛」に元アクション俳優だった真田広之を起用したのも、おそらくはそんな理由からだろう。そして、それが山田作品に新たな可能性を注入する事も、おそらく折り込み済みだったはずだ。

 さらにどうしても社会批判的な味付けをしたがる山田洋次だが、それらもひとたび時代劇のフィルターを通して描くと元々のナマ臭さが抜けていく。一般の人々を退かせてしまう、労働組合のアジビラ臭も消えてしまうという利点があるのだ。これは大きい。

 かくして時代劇を撮るという事は、山田作品の持つ要素をすべてプラスに転じさせてしまう。おそらくは山田監督自身がこれに気づいたに違いない。だからこそ、今回も時代劇の制作を熱望したのだと思うよ。

 それにしても永瀬正敏の見事なサムライぶりには驚いた。実直な日本人像を見事に体現していて、久しぶりにいいと思ったもんね。テレビの濱マイクとか本人は楽しいんだろうけど、ハッキリ言って自己満足にしか見えなかった。あれと比べると雲泥の差だよね。すごく強そうでもカッコよくもないからこそ、この映画のヒーローにはピッタリだ。

 意外だったのは松たか子で、見る前はハッキリ言って東北の百姓娘では浮いちゃってるだろうと観念していた。確かに最初は違和感アリアリで、どう考えてもヤマザキパンでも食ってそうだったが(笑)、途中からちゃんとそれらしく見えてきたから意外や意外。いや、百姓娘…としてのリアリティはハッキリ言ってほとんどない。だけど彼女の本来の顔は、どこか古風な日本娘の顔だと気づいたんだよね。しかもどこか鈍くさい…(笑)。ズバリ言って「深み」のなさすら「ウブ」っぽく見える。そんな事は今まで考えてみた事もないから、僕はかなり驚いたよ。

 もっと驚いたのは松たか子の妹役で出てきた女の子で、この子の名前は分からないんだけど、あまりの達者ぶりと「それ」っぽさにビックリ仰天。こりゃスゴイ子が現れたと慌てた。たぶん知らないのは僕だけだろうが(笑)。山田洋次監督がどこから連れてきたか知らないが、この子はいずれ目立つ存在になるんじゃないだろうか?

 今回リアルなのは登場人物の日常だけじゃなくて、殺陣に至るまで一貫してる。クライマックスの主人公と友人の戦いなど、本当にドキドキしてしまった。実に見応えがあったよね。

 しかも見ている僕らの意表を思いっきり突いた、アッと驚く見せ場さえある。これには二度ビックリ、三度ビックリだ。なるほど、こういう事だったか…と脚本の妙にうならせながら、緊迫したサスペンスも楽しめる何度もオイシイ充実ぶりだ。山田監督が、こんなケレン味たっぷりな趣向を見せたのも嬉しかったね。

 ベタホメに見えるかもしれないけど、実際そう言いたくもなる充実ぶりなんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 劇中で主人公は甲斐性なしと決めつけられ、「いい歳して嫁ももらわず」とボロクソ言われてる。正直言って僕もそうだから、このあたりはシャレにならなかったし身につまされた(笑)。彼の気持ちが分かったよ。もっともこっちは甲斐性がないから、嫁にするはずだった女に逃げられたんだけどね(笑)。だけど…こう言っては何だが、不向きな女だったらむしろいて欲しくなんかない…というのも本音。彼の言動はいちいち正しい。あれこそがリアリティだ(笑)。

 ところで今回のこの映画、終盤は三段階のヤマ場でどんどんど〜んと締めくくる。そこで次々とカタルシスを与えて観客を楽しい気分にさせてくれる。さすがに老練な山田洋次は、ここでも娯楽映画の基本をちゃんと見せてくれるんだよね。決してお客をイヤ〜な中途半端な気分で放り出さない。

 しかも途中に西洋式軍事教練やらを挿入して、ちょっとした笑いを織り込むのも忘れない。お話はシリアスでも、ちゃんとユーモアを忘れていないのだ。その手つきを見ていると、やっぱり山田洋次の基本って昔のアメリカ映画にあるんじゃないかと思ったりもするんだよね。それはあえて念のために言わせてもらえば、ブッシュのアメリカなどではない。純朴で理想と可能性とを秘めた、かつての善良なるアメリカだ。

 特に今回の作品には、今まで以上にアメリカ映画色を強めた印象が濃厚だ。

 それを強く感じたのはエンディング…サムライとしての地位を捨てた主人公=永瀬正敏が、実家に帰した百姓娘=松たか子に求婚する長回しのワンショットだ。

 ここはカメラが土手の上の二人をぐる〜りと回り込んでとらえながら、やりとりの一部始終を見せていく手の込んだ場面。それだけでも見応えのあるショットだ。この場面で「仕方ありません」と松たか子がユーモラスに求婚を承諾し、チョ〜ンと拍子木が打たれたように映画は終わる。その幕切れの鮮やかさそれ自体も、何かとダラダラ終わらせるどこぞの映画らしくない、まるでアメリカ映画みたいなイキの良さだ。だが、僕が言いたいのはそんな事じゃない。

 そこで永瀬の主人公が告げるのは、彼が蝦夷=北海道へ行く…ということだ。

 山田作品で北海道…と言えば、思い出していただきたい。あの高倉健主演の二作「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」が、いずれも北海道を舞台にしたことを。

 前者「黄色いハンカチ」は、元々がアメリカ作家ピート・ハミルのショート・ストーリーを元にしたアメリカの話。もちろん映画のスタイルも、アメリカ映画風のロード・ムービーだ。そして後者「山の呼び声」は、あの「シェーン」を焼き直したようなお話だった。ハッキリと西部劇の痕跡が認められる作品なのだ。

 山田洋次にとって北海道とは、広大な未開の地、新しい世界、遙かな可能性…というアメリカのイメージではないか?

 ならばこの「隠し剣 鬼の爪」が、どこか黒澤時代劇の臭いを放つのも当然だ。黒澤時代劇の向こう側には西部劇が見える。そこにはアメリカの広大な大地が広がっている。さらにヤボを承知であえて言わせてもらえば、黒澤時代劇を体現した俳優=三船敏郎が山田作品に出た唯一の作品こそ、北海道を舞台にした「男はつらいよ」シリーズ「知床慕情」(1987)ではないか。ここで円環は見事にキッチリと閉じる。

 みなさんはゲッタウェイという作品をご存じだろうか。僕が見ているのはスティーブ・マックイーン、アリ・マックグロー主演のサム・ペキンパー監督によるオリジナル版(1972)。その後、アレック・ボールドウィンとキム・ベイシンガー主演で一度リメイク(1994)もされている。その「ゲッタウェイ」の幕切れが、アメリカ映画的に実に象徴的なのだ。

 ここでは主人公の犯罪者夫婦が、見事に法の網の目をくぐり抜けて国境の彼方・メキシコへと脱出してしまう…。

 犯罪がペイしてしまう…という事の是非についてはここで云々しないが、これは国境の彼方へ行こうと思えば行ける、元から遙かなる未開の土地を持っている…という感覚が基本にあるからこそ、自然に発想出来るエンディングなのだろう。そして、「チャンス」というものが信じられる国だけが持てる楽観主義だ。映画史的に別の例を挙げるならば、スネに傷を持つカップルをまんまと逃がしてやる駅馬車(1939)のエンディングを引き合いに出してもいい。同じ国境を面した外界を持っていても、ヨーロッパではこの感覚は持ち得まい。ましてや日本ではあるはずもない。人はその狭苦しい運命から逃れられない…とばかり、貧乏くさい話に終始するだけだ。

 だが、広大な土地と可能性の広がるアメリカならば、人は狭苦しい運命から幸福に向かってゲッタウェイ出来るはず…。

 アメリカっていうと今日びロクなイメージがない。嘆かわしい事にアメリカのイズムは、いまや歪んだカタチでしか行使されていない。だけど本来のアメリカが持っていた純朴な理想やら、アメリカ映画が持っていた健全な善良さ、自由闊達さ…は、本当ならとても得難い素晴らしい資質だと思う。ブッシュみたいな山ザルやネオコンやキリスト教原理主義者たちに汚されるのは極めて腹立たしいよ。僕はそれらをこよなく愛してきたんだからね。子供の頃から、僕はそれらと共にあった。僕が映画を好きになった理由の多くは、まさにそこにある。

 僕がアメリカ映画を好きだと言う時、そこにはフランク・キャプラやジョン・フォードから1970年代の心意気溢れる作品群といった…現在では本家ハリウッドが忘れかけているようなスジの通った映画の数々がイメージされている。そしてこの山田洋次作品には、そんな往年のアメリカ映画の味わいが確実に活きているのだ。

 情けないことに…そんなアメリカ映画のスピリットを活かしきれるのは、いまや「スウィングガールズ」やらこの「隠し剣 鬼の爪」などの日本映画、そして韓国映画などなど。ハリウッドでそれを実践しているのも、「ヘルボーイ」を撮ったメキシコ人のギレルモ・デル・トロ…外国人ばっかりだ。ハリウッドもアメリカ人も一体何をやっているのだ。恥ずかしいとは思わないのか。だって、アメリカ映画の素晴らしさはまだ死んでいない。こうやって使えばちゃんと出来るんだからね。

 本来ならば古色蒼然とした日本の汚点=封建主義に押しつぶされるであろう主人公カップル。それを山田洋次の手で見事に救い出させたのは、そんなかつての…そして今は失われてしまった…アメリカ映画本来の豊かな輝きに違いないのだ。

 

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME