「シークレット・ウインドウ」

  Secret Window

 (2004/11/01)


  

見る前の予想

 毎度おなじみスティーブン・キングものである。

 ただし、実はスティーブン・キングの小説の映画化って、あまり成功作はないような気がする。僕自身指折り数えてみても、スタンリー・キューブリックの「シャイニング」(1980)、ロブ・ライナーの「ミザリー」(1990)、そしてもちろんブライアン・デパーマのキャリー(1976)ぐらいのものだろうか。いわゆる「感動大作もの」風の装いを持ったものは別にして、いかにもキングらしいホラー作品の成功作と言えば、ざっとこれくらいに限られてしまうだろう。しかもこのうち「シャイニング」に関しては、キング自身は気に入ってないらしい。まぁ、キング自身が監督した「地獄のデビル・トラック」(1986)のトホホな出来映えからして、あの人の映画センスというモノもかなり疑ってかかったほうがいいと思うけどね(笑)。

 ところで、今回は何と珍しい事に、クセ者スターのジョニー・デップが主演だと言う。あのジョニー・デップがスティーブン・キングもの。こんな「売れセン」映画に出てくるとは…。ハッキリ言って、この映画の興味はデップとキングの組み合わせに尽きるんじゃないか?

 

あらすじ

 雨の夜、一人の男がクルマのハンドルを握っている。思い詰めたような表情のその男ジョニー・デップは、心の中で何かをつぶやき続けていた…。

 戻れ、戻れ、そこからすぐに離れるんだ…。

 一旦は心の声に従って帰ろうとしたデップではあるが、結局またしても元の方向に引き返してしまう。戻った先はモーテル「レイクサイダー」。そこのフロントに乗り込んでカギを奪い取ると、目指す部屋へと一目散に乗り込んだ。

 部屋には、ベッドで愛を確かめ合う男女。ものすごい剣幕で飛び込んできたデップに、この男女も慌てふためく。部屋には怒号が渦巻いて…。

 それから、早や六ヶ月…。

 都会から離れた山の別荘に、あの男ジョニー・デップは隠れるように暮らしていた。彼は作家だ。だが開いたままのノートタイプのパソコンには、ずっと数行の文章が打ち込まれたまま。穴の空いたバスローブを平気で身につけたまま、デップはソファで居眠りを決め込んでいた。とにかくダルい。

 そんな彼の眠りを妨げたのは、激しく戸を叩く音だ。

 扉を開けると、前の前に立っていたのは黒い山高帽の男ジョン・タトゥーロ。この男、いきなりデップにこう言い放つから驚く。「オレの物語を盗んだな」

 「えっ?」当然の事ながらデップは戸惑った。それはそのはずだ。まるっきり身に覚えがない。ところが山高帽のタトゥーロは、デップが自分の書いた小説を盗作したと言って聞かない。ミシシッピーの田舎町で一人で書いた小説を、どこで見たのかデップが盗作したと言い張って一歩も退かないのだ。これにはさすがにデップもムッとした。

 読んでみろと差し出された原稿も、まるで見る気になれずに突っ返した。憮然としたデップは、「ふざけるな」とばかりに扉を閉ざしてしまう。

 しばらくして、タトゥーロがクルマで立ち去ったのを見計らって扉を開けてみると、目の前に「読め」とばかりに原稿が置いてあるではないか。冗談じゃない。デップはウンザリして原稿をそのままゴミ箱に放り込んだ。

 ウンザリすることばかり。妻のマリア・ベロとの別居以来、こんな状態がずっと続いている。そう…彼女の浮気を知って、その現場に乗り込んだのが六ヶ月前のあのモーテルでの出来事だ。

 やりきれない。掃除や身の回りの世話のために雇っているオバサンに同情されたような事を言われるのもイヤだ。

 ところがこのオバサン、他にも余計なお世話をしでかした。せっかくデップが捨てたタトゥーロの原稿を、ご丁寧に拾い上げてくれているではないか。そのおかげで、見たくもない原稿を読まねばならないハメになった。ますますウンザリ感が濃くなっていく。

 ところがこの原稿、読み始めたらウンザリどころではなかった。

 それは妻に愛想づかしされ別れ話を切り出された男が、そんな妻を殺そうと決意する物語。殺した後、埋める場所も決まってる。それは秘密の窓から見下ろせる場所…普段は見えない花壇の下だ。

 この小説…何と自分のかつての作品に、一部始終まるごと同じではないか

 その物語の元ネタも、デップは鮮烈に覚えていた。それはこの別荘にあった。棚を動かした時に偶然見つかった「秘密の窓」…その下に小さな花壇があるのに気づいた時、それをネタにして作品を書こうと決心したのだ。その時には、まだデップとベロの夫婦仲は円満そのものだった…。

 唖然呆然となったデップは、すっかり冷静さを失ってしまう。そこへ妻のマリア・ベロからの電話だ。

 正確に言えば、離婚を前提にすでに別居中の妻…だが。して今は離婚目前…。妻は二人が暮らしたあの美しい家に住み、自分はこの田舎の別荘でヒッソリ暮らすハメになっている。

 今さら覆水盆に返らずと分かってはいる。だが、このまま離婚に応じれば妻の思うツボ。どうせ妻は浮気相手だったティモシー・ハットンと再婚するつもりだろう。浮気をした妻のほうが、何もかも望み通りになるってのはどこかおかしいんじゃないのか? オレの方が一方的に何もかも失うってのは、どう考えても理不尽じゃないのか? デップは何もかも納得出来なかった。

 それなのに元・妻のベロは、電話でデップが心配だ…などとシラジラしい事を言う。オマエ一人でいい子になるのはやめろ。デップは冷たく皮肉な口調で応対して、電話を乱暴に切ってしまう。

 そんなデップの元に、翌日再びあのタトゥーロがやって来る。満足げな表情で「そっくりだったろ?」と言いながら…。さすがにデップは、タトゥーロがアレをいつ書いたのか確かめずにはいられなかった。すると、どう考えてもデップのほうが先に書いている。盗作したのはタトゥーロのほうではないか。

 だがタトゥーロも一歩も退く気はなさそうだ。デップの言葉を信用せず、彼の方が先だと証明するように迫る。雑誌に掲載されたのなら、それを見せろ。家から元の女房に言って送らせればいい。三日やるから、その間に送らせろ。もし言うとおりなら、オレはオマエの前から消えてやる…。

 だがデップは、わざわざ元・妻のもとに電話する気にはなれなかった。そこで電話線をはずしてフテ寝。気づいたら、日はとっくに沈んでいた。

 だが…なぜか扉が開けたままになっている…。

 慌てて家の外へ出てみると。扉の上に付けた電灯が壊されている。しかも…愛犬がドライバーで刺し殺されているではないか!

 真っ青になるデップの目の前に、あのタトゥーロのものと思われるメモが貼ってある。「あと三日だ、サツにはしゃべるな」

 とんでもない、ヤツは本気だ!

 さすがにビビるデップは、翌朝保安官事務所へと赴く。犬まで殺されたとなれば、もうシャレにはならない。だが所詮は田舎の保安官だから、どうもデップの言うことを真に受けていないようだ。おまけにどことなく頼りない。そこでデップはニューヨークまで足を伸ばし、古くから付き合いのある探偵チャールズ・S・ダットンに調査を依頼した。実はデップは売れっ子作家の有名税として、かつてもタチの悪いストーカーに悩まされた事があった。その時に活躍したのが、このダットンというわけ。

 その帰り、デップは元の自宅へ寄って、例の雑誌を手に入れようと思っていた。だが、ちょうど通りかかった時には妻ベロとその男ハットンが外出するところ。二人と顔を合わせたくなかったデップは、そのままクルマを停めてその場にじっとしているしかなかった。

 そんなこんなでデップが別荘に戻ってくると、あの探偵のダットンが早速調べにやって来ていた。とりあえず別荘の隅々まで見て安全を確認した後、クルマで帰っていったダットン。ところがタトゥーロはまたしてもデップの前に現れた。デップをさんざ脅したあげく、身の回りの人間にも危害を加えると言い出すからマイッタ。

 そんなこんなで疲労困憊のデップは、さすがにマズイ…と元・妻ベロに連絡する気になった。そこで切っていた電話線をつなぎ直すと、いきなり電話のベルが鳴り出すではないか。それも連絡しようとした当のベロからの電話だ。「どうして夜通し電話を切っておいたの!」

 やけに苛立ったような妻ベロの声。それもそのはず、何と昨日、妻ベロが住んでいたあの家が、放火によって全焼してしまったと言うではないか。

 度重なる異変…いよいよあのタトゥーロは、デップの身の回りの人間にまで牙をむき始めたのか? そしてタトゥーロの小説は、なぜデップの作品と似ていたのか? さらにデップはこの危機を、いかなる方法で回避していくのか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 今回ストーリーを書くに当たっては、一体どこまで書いていいものやら…と、いささか迷った。実際はこれって事態がエスカレートするホンの導入部に過ぎない。実はもうちょっと長く書いてもいいかなと思ったりしていた。

 それをここで切ったのには、当然の事ながら訳がある。要は、僕がこの映画を見た時に、かなり早い段階で「真相」に行き当たったからなんだよね。

 実際にナゾ解きとして考えると、このお話はある程度底が割れている。勘の悪い僕ですら早期に分かってしまったのだから、たぶんみなさんもすぐに察するはずと思うよ。だから、あまり長くはダラダラ引っ張らなかった。

 では、これってサスペンス・スリラーとしてつまらなかったのか?

 まぁ、その事についての結論は急ぐまい。その前にいくつか点検しておきたい事がある。まずは今回の主演者ジョニー・デップの事についてだ。

 そもそも、今回はなぜクセ者ジョニー・デップがメジャーなスティーブン・キング映画に主演したのか…が、まずはネタ割れの第一の要素とも言える。

 まぁ、それまではわざわざマイナー作品やらインディペンデント作品、さらにはヨーロッパの作品ばかり選んで、ハリウッド・メジャースタジオの作品には出ないみたいな雰囲気すら漂っていたジョニー・デップ。仮に出たとしても、最初っから屈折しっぱなしのティム・バートン監督作品と相場が決まっていた。

 そのかつての唯一の例外は、「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)やら「ブルー・サンダー」(1983)など娯楽映画の職人ジョン・バダムによる「ニック・オブ・タイム」(1995)ぐらいだろうか? ハリウッドのサスペンス・アクション映画への主演なんて、確かにジョニー・デップにしては珍しい。

 だが考えてみればあの主人公は、どこかひ弱な凡人の父親だ。タフガイでも頭脳派でもない。そういう臆病そうな男を主人公にしたサスペンス・アクション…という一点で、ジョニー・デップは何か彼の「クセ者」魂に火を付けられたのかもしれない。

 ところが今回は、そんなジョニー・デップの「クセ者」ぶりがどの程度のものか、いささか判断に苦しむ材料もあった。言うまでもない。ハリウッドのど真ん中もいいとこのディズニー映画、ジェリー・ブラッカイマー製作の“海賊映画”であるパイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち(2003)があったからだ。あれには驚いたよね。

 これは今後大きな方向転換があるのかもしれない。僕は正直言ってそう思っていた。そこへこのスティーブン・キング映画の登場だ。こりゃホントにジョニー・デップのメジャー大攻勢が始まるんじゃないかと思ったよ。マジメに映画の途中まではそう思っていた。

 ところがやっぱり…メジャー映画を選んでも、ジョニー・デップはジョニー・デップ。なるほど彼が何でこの役を選んだかが分かったよ。これはありきたりのスターはやりたがらない。だからデップはやりたかったんだな(笑)。…つまりはこれはそんな役で、だからそこに「真相」もあったというわけだ

 面白かったのは、やっぱり今回の物語の主人公が「作家」であったことだ。

 実はこれって、今年公開されたフランス出身の映画作家の最新作にも似たところがあるんだけど、作家…「クリエイター」ってのは、どこか自分の創造物に自分の気持ちを託しているところがあるんだよね。僕もヘボながら何か「創る」という行為をやってみた事があるから分かるけど、自分をどこか反映させる事なしに「創造物」はつくれない

 というのは…何か創造する時、まるっきり「無」から創り出すって事は人間には不可能だからだ。

 今回の映画でも、主人公ジョニー・デップは自分を脅かす存在である「シューター」という男(ジョン・タトゥーロ扮す)について、妻を寝取った男ティモシー・ハットンの作り出した架空の存在ではないかとまず疑い始める。ハットンが「テネシー」州の「シューター」ズ・ベイという街の出身である事が、テネシーと隣り合わせの「ミシシッピー」出身である「シューター」を創りあげた…と疑うわけだ。実際のところ元ネタは図星だったのだが、架空の存在を生んだのはデップ自身だった…というオチになってしまうのだが、ここには「創造」という行為に常に付きまとう問題…「創造の秘密」の一端が実は隠されているのだ。

 あるいは、「シューター」という名前そのものが「シュート・ハー」…「彼女を撃て」なる言葉から生まれて来ている事も同様だろう。

 かくも「創造」というモノは、根っこの部分に真実や事実がナシにはつくれないものなのか…。人はまるっきり「無」からは何も創り出せない、ウソ八百では何も生み出せないものなのだ。

 だからそこにはどうしても、何らかのカタチで「創造者」その人が関わってくる。その人物にまつわる何らかの要素や考えやら、見聞きして印象に残った何かが反映されてくる。得てしてそこには、自分の理想やら後悔やら代償行為やら…という「かくありたかった自分」なり、「自分が出来なかったことの実現」なりが託されている事も多いのだ。

 考えてみれば、スティーブン・キングにはこうした「作家」=「創造者」について書いた印象的な作品が少なくない気がする。映画化されているモノを考えてみても、作家が狂信的なファンに脅かされる「ミザリー」がまずあるし、「スタンド・バイ・ミー」(1986)は成長して作家になった男による少年時代への追想だ。「シャイニング」は作家そのものではないが作家志望の男が主人公だった。この作品で主人公の狂気を最も象徴的に表していたのが、彼が同じことわざを何度も何度もタイピングして「小説を書いている」気になっていたくだりだった事を想起していただきたい。今回の作品で主人公が家のあちこちに「シューター」の文字を彫り込んでいる描写は、ピタリとそれに符号してくるではないか。それもこれも、実は「創造者」による「創造の秘密」ってやつが、こうした本人の「隠された想い」の反映である事が多いからではないか。

 「隠されている」というのは、それが表に出すべきではない、出すには支障があるようなものであるからだろう。

 そしてここでは、「一歩踏み出せない」常識人デップの背中を押してやる存在として、彼が実現出来ない願望を叶えてくれる存在として…「シューター」タトゥーロが登場してくる。

 ズバリ言ってしまうと、この映画はサスペンス・スリラーとしてまったく怖くない。実は手に汗も握らせてくれない。そういうモノを期待したら、あまり面白みのない作品だ。そもそも衝撃の「真相」が早々に割れてしまうんだからね。

 そして元・妻の新しい男ティモシー・ハットンが、実に「安っぽい男」として描かれるあたりも疑問に思う。というのは、妻が次に選んだ男が「自分を凌駕するような男」である事こそ、主人公デップにとっての本当のダメージだろう。そして「普通の人々」(1980)で注目され、「タップス」(1981)、「Q&A」(1990)などを通過してきたハットンは、一貫して「誠実さ」を売り物にして出てきた俳優だ。ここでのハットン起用はまさにそうした個性を買われてのものであったはずだ。監督の演出ミスか本人の役の把握ミスかは分からないが、このあたりは明らかに作品として失敗していると断言できる。

 このあたり監督・脚本のデビッド・コープはどう考えていたのだろうか?

 パニック・ルーム(2002)などの脚本家であるコープの作品としては、やはりハラハラドキドキが期待されてしまうのは当然だ。だがこの映画は、もしかしたらそんな事を描こうとしてはいないのではないか?

 でなければ、ああもアッサリと底を割らないはずだ。もうちょっと思わせぶりに引っ張っただろう。作り手はそもそもナゾ解きやらビックリには興味がなかった…。ハッキリ言ってそう思うのはいささか買いかぶりかもしれないが、そう思って見るとこの映画は結構面白い。少なくともジョニー・デップはそう受け止めて演じているように思うんだよね

 「創造者」というもの、そして「創造の秘密」…というものが、いかに人が隠しておきたいデリケートな願望を暴き出してしまうものなのか。この映画の興味は、その一点に絞られているんだからね。

 

見た後の付け足し

 そんな訳で…「創造の秘密」を物語の核に置いたこの作品、僕はそこのところに興味を抱いて見たから、結構退屈しないで楽しんで見ていられた。そうでなければ、「怖くない」「つまらない」と言われてしまいそうな作品だよね。…というか、たぶん実際に「怖くない」し「つまらない」作品だと思う(笑)

 そして…僕がこの映画を面白く見たのは、すごく個人的な事情からかもしれない。

 僕にとっては、この主人公ジョニー・デップの陥る狂気がまるで人ごとではなかった

 クドクド説明するのは面倒くさい。まずはストーリー紹介に書いた事を、ここでもう一度繰り返させていただきたい。「今さら覆水盆に返らずと分かってはいる。だが、このまま離婚に応じれば妻の思うツボ。どうせ妻は浮気相手だったティモシー・ハットンと再婚するつもりだろう。浮気をした妻のほうが、何もかも望み通りになるってのはどこかおかしいんじゃないのか? オレの方が一方的に何もかも失うってのは、どう考えても理不尽じゃないのか? デップは何もかも納得出来なかった。」

 仕方がないと分かっちゃいる。だけど理不尽で納得いかない気持ちは抑えきれない。相手側などは自分の利害しか考えないだろうし、第三者も当事者の切実さなんて推し量る事などない。だからまったく「やられた」方は浮かばれないのだが、そんな気持ちを露わには出来ない。社会的にもプライド的にもそれは出来ない。それに、例え露わに出来たとしても、それで自分の気持ちを「晴らせる」訳でもないのだ。それでも精神のバランスを保っていくのは、かなり困難な事だよ。

 自分は何も悪いことをしていないのに、自分にとって理不尽な状況が身に降りかかってくる。おまけにもがけばもがくほど、まるで自分の方が間違っていておかしな事を言ったりやったりしているように見なされる。ダメージを食らった方が、謝罪すべき断罪されるべき存在のように位置づけられてしまう。どんどん真綿で首が絞まっていく。

 僕はこんな理不尽さをよく知っているから、まさに「人ごと」ではなかった。僕も本当にこのジョニー・デップと五十歩百歩だった。今でこそ落ち着いてはいるが、その渦中では人間はとても冷静なんかではいられない。理屈で言えば何とでも言えるが、当事者はそんな気持ちではいられっこないのだ。

 このあたりの事はモンスター感想文でもちょっと触れたけど、人間って本当に狂気の虜になっちゃうんだよね。普段の自分だったら到底考えないような事を考えたり、平時ではあり得ない言動を行ったりした。マトモじゃなかった。ハッキリ言って狂っていた。分かっていても、どうすることも出来なかったのだ。人間には、本当にそういう事があるんだよ。僕もそれを通過した今なら分かる。そして、無事に通過出来た自分はホントに幸運だった。それは単に「たまたま」幸運だった…それだけの事だったのだから。

 そういう意味で、この映画でのジョニー・デップの役作りは完璧だった。まさに、あれそのもの(笑)。マズイと思っていても逃れられない。自分が何をするか自分でも分からない。

 それ以上怖いことなんて世の中にあるか?

 それが分かる僕にとって、この映画が「怖くない」映画だとはちょっと言えないんだよね。

 

 

 

 

 

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