「エクソシスト・ビギニング」

  Exorcist the Beginning

 (2004/10/25)


  

見る前の予想

 あの「エクソシスト」にまたまた続編が出来ると聞いて、僕は正直言ってやめりゃいいのに…って思ったんだけどね。だって今さら何が悲しくて「エクソシスト」?

 実際のところ、一作目の「エクソシスト」(1973)から実に18年経ってから「エクソシスト3」(1990)が発表された時だって、「何で今頃?」…とビックリしたよね。それにはそれなりに事情もあったって後で分かったけど、ブームも何も冷め切った頃のこの第三作発表。日本では実に冷ややかな反応だったんだけど、アメリカでは当たったんだろうか?

 そして、いきなりの一作目のディレクターズ・カット版(2000)の公開。これまた、「何で今頃?」…と僕は驚いてしまった。もっとも当時はあれこれとディレクターズ・カット流行り。そんなこんなでのウィリアム・フリードキン直々の出馬による「ディレクターズ・カット」公開だったのだろう。しかも、これがまたソコソコ当たってしまったから恐ろしい。

 その意外な好評が、今回の新しい「エクソシスト」公開につながっているのは間違いない。しかもこれがアメリカで結構当たったらしいという話。「エクソシスト」ブランドはいまだに健在なのか?

 そういや撮影開始直前に監督のジョン・フランケンハイマーが亡くなったとか、縁起でもない話があったとも聞く。それでゴタゴタしたあげくの、最終的な監督がレニー・ハーリンというのも驚いた。ハーリンの「エクソシスト」? また何かブッ壊すか吹っ飛ばすんじゃないのか?

 ここはひとつ、ホラーの金看板を確かめるためにも見に行くしかないか。

 

あらすじ

 果てしない砂漠。一人の神父が茫然自失…という様子であてどなく彷徨っている。

 彼の佇む砂漠は、ただの砂漠ではない。四方八方に屍が散乱。それも、激しく戦って血まみれ、手足ブッタ切りの頭カチ割れ、目玉くり抜かれの内蔵ハミ出し状態。そこにカラスがたかっている。しかも…あぁ、何たることだ!

 見渡す限り…遙か彼方まで…逆さ十字に張り付けされた遺体が、砂漠に整然と立ち並んでいるではないか。それは間違いなく「反キリスト」の証だ! これは一体…?

 さて…舞台変わってここはエジプトはカイロの街。時は第二次大戦のキズもまだ癒えない1949年。「考古学者」メリンことステラン・スカルスゲールドは、ここで古美術を収集している怪しげな男ベン・クロスと落ち合う。するとクロスはメリン=スカルスゲールドに、おもむろに東アフリカで発見された紀元5世紀の教会の遺跡の話をする。だが、メリン=スカルスゲールドはこの話をいきなり制止した。5世紀にはその地域にキリスト教は伝えられていないはずだ…。

 だが、実際にあるから仕方がない。一切の反論は許さない(笑)。現地駐留のイギリス軍が、砂漠に埋もれたこの教会を発見した。

 そこでクロスの頼みとは…この教会遺跡からある彫像を見つけだし、秘かに自分に持ち帰って欲しいというのだ。そこでクロスは一例として、忌まわしい形相の化け物とも何ともつかない彫像を見せる。

 「教会」と来れば関心アリなはず…とクロスは言ってくるが、「考古学者」メリン=スカルスゲールドはあえて無関心を装った。そして、こう口に出すのも忘れない。「第一、私はもう“神父”ではないんだ…」

 それでもメリン=スカルスゲールドが興味津々なのは、クロスにスッカリ見透かされている。おまけにイギリス軍には発掘隊参加の根回しも済んでいる。…と、来れば、今さら拒む道理もあるまい。

 そんなメリン=スカルスゲールドは、しかししばしば悪夢に悩まされている身でもあった。それは雪の降るヨーロッパの街、ナチの軍曹が幼い少女の頭に向けて銃の引き金を引く。そして得意げに一言。

 「今日ここに神はいないぞ! メリン神父どの」

 さて、早速ケニアに赴いたメリン=スカルスゲールドは、ここで彼と同じく発掘隊に参加しにやって来た若い神父ジェームズ・ダーシーと合流する。ダーシー神父はメリン=スカルスゲールドの著書も読んで心酔。メリン=スカルスゲールドを「神父」と親しげに呼びかけるが、メリン=スカルスゲールドの方では「神父」扱いは迷惑らしい。呼ばれるたびに「今はただの考古学者だ」と繰り返すのみだ。

 彼らはすぐに砂漠の真っ直中にある寒村へと向かう。そこが今回の発掘現場だ。そこでイギリス軍が、現地の村人たちを使って大規模に発掘を行っている。

 だがこの村も、何やらいわくありげな場所らしい。村の片隅には何十もの十字架が地面に刺さっている。かつてこの村が疫病にあって、村人が全滅した時の墓地だと言うのだ。一体ここにいかなる災厄が降りかかったというのか?

 まずは、発掘現場で現場監督を行っているアラン・フォードというオヤジと顔を合わせるメリン=スカルスゲールド。このオヤジ、顔に何やら出来モノができて何とも見苦しい。そして、その場にもう一人現れたのは…現地で医療活動を行っている女医イザベラ・スコルプコだ。ところが例の出来モノだらけのフォードは、いきなりスコルプコにセクハラ発言して嫌われる始末。どうもこの地の人間関係は、あまりうまくいってないようだ。

 早速発掘現場へ乗り込むメリン=スカルスゲールド。話によれば教会の発掘は順調に進んでいる…はずなのに、いざ発掘した教会には誰も入りたがらない。一体なぜだ? 何があるのか? だがその理由はなぜか語られない。

 屋根の部分まで掘り出された教会を見て、メリン=スカルスゲールドは思わず感嘆の声を上げた。色鮮やかで風化の跡が見られない。まるで建設した後すぐに埋めてしまったかのようだ。一体この教会は何のためにあったのか?

 しかもメリン=スカルスゲールドが驚いた事には、発掘現場には真っ昼間からハイエナがウロウロしていた。なぜハイエナがこんな所に…?

 そんな折り、メリン=スカルスゲールドは発掘現場をウロチョロする一人の現地少年を見かける。その少年レミー・スウィーニーは発掘に興味があるのだろうか? メリン=スカルスゲールドはそんなスウィーニーに、発掘道具をひとつプレゼントするのだが…。

 そんなこんなしているうちに教会の天井の一部に穴を開け、そこから縄ばしごを下ろして中に入ることになる。メリン=スカルスゲールドは現地通訳の男アンドリュー・フレンチと共にゆっくりと下に降りていく。すると、そこに飛び入りであの若いダーシー神父も乗り込んで来たではないか。

 堂々たる教会の内部に圧倒されるメリン=スカルスゲールドとダーシー神父。だが二人が驚きの声を上げたのは、そんな事ではなかった。

 キリスト像が逆さになっている!

 何と十字架にかけられたキリストの像が、下を向けられた逆さの状態でつり下げられているのだ。それも天井からクサリで…。それは言うまでもない、「反キリスト」の印だ。

 何者かがこの教会に元々あったキリスト像を根本から折って、クサリで天井から逆さにつるしたに違いない。だとすると、メリン=スカルスゲールドたちより先にここに入った誰かだ。

 通訳のフレンチに問うてみると、どうも発掘後すぐにパトリック・オケインという学者がここに足を踏み入れているらしい。だがこの学者は今はここにいない。驚いた事に、「心の病」にかかってナイロビの病院送りになったと言うのだ。

 早速イヤ〜な予感に襲われたメリン=スカルスゲールドは、早速その学者オケインがいたテントへと向かう。するとそこには無数の殴り描きされたスケッチが残されていた。それらはまるで、カイロで古美術収集家クロスから見せられた、あの忌まわしい彫像の顔のようだ。

 そんな夜のこと。

 メリン=スカルスゲールドは「訳アリ」美女の女医のスコルプコと話しているうちに、ふとした事で彼女の過去を知る事になる。スコルプコの腕には、ナチスがユダヤ人収容所の囚人たちに彫った数字のイレズミがあったのだ。彼女もまた、あの戦争の犠牲者であった。

 スコルプコの父親は、ナチスに隠れてユダヤ人たちを匿っていたのだ。それがバレたおかげで、彼女の親も彼女自身も収容所送りになった。何とか奇跡的に生き延びたものの、あそこで味わった苦しみは経験した者でなければ分からない…。

 一方メリン=スカルスゲールドも、そんなスコルプコの告白を聞いて自らの過去を思い出していた。ヨーロッパの街、雪の降る日…ナチス軍人が幼い少女を撃ち殺した。さらに軍人は追い打ちをかけるように言う。

 「殺していい人間をオマエが決めろ。さもないとこの場の全員を殺す」

 追いつめられたメリン=スカルスゲールド「神父」は神に祈るが、そんな事をしても何も救われない。このままではナチス軍人が全員を殺してしまう。どうする事も出来なくなった神父は、狂気の中で一人また一人と指さし始める。それに従ってナチスは、一人また一人と撃ち殺す。まるで悪夢のような光景…。

 「今日ここに神はいないぞ! メリン神父どの」

 神などはいない。救いなどない。それをイヤが上にでも実感せざるを得なかったメリン=スカルスゲールドは、「神父」の職を捨てた…。

 その頃一同の宿舎の井戸のあたりで、あの現地少年スウィーニーと兄が些細な事でモメていた。スウィーニーがメリン=スカルスゲールドからもらった発掘道具を、兄が取り上げてイヤがらせしているのだ。最初は困った顔をして何とか取り戻そうとしていたスウィーニーだが、ある時ピキッとどこかキレたのか…表情が一変。すると…。

 どこからともなく飢えたハイエナが出てきた!

 外から一匹、井戸から一匹、さらにまた一匹…。出てきたハイエナは怯える兄を威嚇していたが、そのうち一斉に飛びかかっていった。

 もの凄いハイエナのうめき声と少年の悲鳴に、慌ててメリン=スカルスゲールド、ダーシー神父、女医のスコルプコが飛び出してくる。すると彼らの見ている前で、兄は数匹のハイエナに食いつかれているではないか。メリン=スカルスゲールドが発砲すると、ハイエナたちは兄を引きずっていったまま姿を消してしまう。そしてそばに立ちつくしていたスウィーニーは、突然気を失ってその場に倒れた。

 メリン=スカルスゲールドは唖然としながら話す。「見たか? あのハイエナたちは兄の方に襲いかかりながら…」

 その後をダーシー神父が引き継いだ。「…弟スウィーニーには見向きもしなかった

 さては弟スウィーニーの身に、何か忌まわしい事が起きているのだろうか?

 このような異変の原因を探るべく、ナイロビの病院に入院中の学者オケインを訪ねるメリン=スカルスゲールド。めざすオケインは個室をあてがわれており、入口に背を向けて部屋の奥に座っていた。周囲には描き殴られた怪しげなスケッチの数々。メリン=スカルスゲールドが部屋に入って来ても、まるっきり振り向こうとはしない。そんなオケインの足下にはタラタラッと血が…!

 驚くメリン=スカルスゲールドの方に向き直るオケイン。その胸はナチのカギ十字のカタチに傷つけられていた。そして聞き覚えのあるあの言葉…「今日ここに神はいないぞ! メリン神父どの」

 そう言うと、オケインは自分の首をガラスの破片でかき切って、その場で絶命した

 あまりの事にショックを受けるメリン=スカルスゲールド。そんな彼に、病院を切り盛りするデビッド・ブラッドリー神父は、「悪魔払い」の儀式について書いてあるローマの儀礼書を手渡す。「すでに神父ではない」と本を拒むメリン=スカルスゲールドだが、ブラッドリー神父は重ねてこう言った。「これからは心の支えが必要だよ」

 さてその頃、宿舎では女医のスコルプコが悪夢に苛まれていた。あげく顔に出来モノのフォードに言い寄られてげんなり。「どうしてあのメリンならいい顔するのに、オレはイヤがるんだ!」

 そんなフォードを何とかやり過ごしたスカルプコだが、病室で預かっているあのスウィーニー少年の事を考えると気が重い。少年の意識はまだ戻らず、その胸には何やら奇妙な爛れが出来ているからだ。

 そこへメリン=スカルスゲールドが戻ってくる。メリン=スカルスゲールドは女医スコルプコの過去を知ってから、彼女にある種の親近感を抱いていた。戦後結婚した夫に収容所で受けた仕打ちを告白したところ、夫との間に距離が出来てしまった…そんな幸薄いスコルプコに、思わず口づけしそうになるメリン=スカルスゲールド。ところがその瞬間…。

 ギギギギ〜〜〜〜ッ!

 何とスウィーティーが横たわっているベッドが、突然動き出したではないか。一体何だ? しかもいきなり妙なけいれんを始めた。この少年は何かに取り憑かれているのか?

 だがメリン=スカルスゲールドには気になる事があった。そこで彼は夜にも関わらず、あの教会の遺跡へと出かけて行く。

 実はメリン=スカルスゲールドは、病院にあったオケインのスケッチの中に気になるものを見つけていたのだった。例の逆さキリスト像の下に棺のようなモノがある。そこに、何やらあるらしいという勘が働いていたのだった。案の定、棺めいたモノのフタは力を入れると動き、中から空洞が現れた。そこには階段も刻みつけられており、下に降りられるようになっているではないか!

 ランプ片手に空洞を降りていくメリン=スカルスゲールドは、洞窟の入口で妙なものを発見する。それは何とも奇妙なカタチをした石像だ。

 メリン=スカルスゲールドはまだ知らないが、後年になって彼はこの石像と再会する事になる。それは忌まわしさの象徴…悪魔の化身「パズズ」の石像だったのだ!

 その石像の足下からわき上がるかのように現れて来たのが、無数のハエの大群。一体どうして現れたのか、何とかかんとかハエの大群を追い払うメリン=スカルスゲールド。

 ところがその頃、現地の住民が住む村ではとんでもない事が起きていた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前作までのおさらい

 さてここで、今までの「エクソシスト」作品についてちょっとだけおさらいを…。何しろ一作目からすでに30年も経っているシリーズだから、一応はそれをやらないと話が先に進まない。一作目のこぼれ話的なことは、「ディレクターズ・カット」公開時の当サイトの特集The Exorcist Returns !にアップした、拙文わが思い出の「エクソシスト」にも書いてはあるが…まずは「エクソシスト」追憶の旅に一通りお付き合いいただきたい。

 一作目「エクソシスト」(1973)がウィリアム・フリードキン監督の手によって映画化され、大ヒットを記録したのは有名な話。物語はご存じの通り。物語はイラクでの発掘現場に始まり、アメリカ本土に舞台が移ってからは、悪魔に取り憑かれた少女と神父たちとの死闘が繰り広げられる。

 当時フリードキンは飛ぶ鳥落とす勢いで、「フレンチ・コネクション」(1971)に次ぐこの作品の成功で一躍若手第一線に躍り出た。ところが好事魔多し。その後も佳作は何作か発表したものの、この2作を相次いで発表した当時が彼の最絶頂期であった事は間違いない。その後は結局この当時の勢いを取り戻す事が出来てないから、フリードキンも不遇だ。

 さて製作のワーナー・ブラザースは当然続編を望むが、フリードキンは次作「恐怖の報酬」リメイク(1977)に没頭してしまう。そこで指名を受けたのは、奇才ジョン・ブアマン。前作でヒロイン少女を演じたリンダ・ブレアをそのまま主役に、大スターのリチャード・バートン、「カッコーの巣の上で」(1975)でオスカー主演女優賞を受けたルイーズ・フレッチャーを加えて大胆な方向転換の一作「エクソシスト2」(1977)となった。

 お話としては…悪魔払いが済んだはずの少女リーガンことリンダ・ブレアに対して、精神科医フレッチャーが精神的トラウマが残されてないか科学的に分析しようとする。そこに前作の悪魔払いについて調査すべく派遣されたのがバートンの神父で、彼はブレアの中にまだ悪魔が残っている事を知ってしまう。こうしてブレアを悪魔から救い出すべく、バートンは悪魔払いで亡くなったメリン神父ことマックス・フォン・シドーの過去を追って、遠くアフリカまで足を延ばすのだが…。

 リンダ・ブレア、マックス・フォン・シドーと前作の主要人物を演じた俳優を再び起用し、映画としての連続性は守られているものの…物語のスタイルは激変。やはり曲者のジョン・ブアマンだけあって、自分のオリジナリティーを出したかったのではないか。だが前作の延長線上を期待した映画会社とファンは失望したらしい。この映画は失敗作、大コケ作としてしばらく扱われていた。

 だが実物に接した人の中には、これを隠れた傑作扱いする人も少なからずいた。僕の知人などはクライマックスの家の崩壊場面で、まるで「大地震」(1974)のセンサラウンド方式もかくやという大音響が鳴らされた度肝を抜かれたと証言している。僕がこの映画に接したのは後年ビデオでのことだから、このあたりについて確かめようがない。だが、この大音響使用については当時のキネ旬読者欄にも同様の意見が載っていたから、おそらく本当の事ではないか。さすがに奇才ブアマンだけの事はある。

 この映画がなぜ素直なカタチの続編とならなかったか…については、僕は当時話題になった「ゴッドファーザーPART II」(1974)の影響が強いと思う。続編とはヒット作の単なる「続き」あるいは「繰り返し」に過ぎないという従来のイメージを、「ゴッドファーザーPART II」は根底から覆してしまった。オスカーで作品賞を取っただけでなく、一作目「ゴッドファーザー」(1972)をしのぐ6部門を制覇。結果的に一作目を超える続編となってしまったのだ。これがブアマンを刺激しない訳がなかろう。自分が手がける続編も単なる続編にはしまい…と思い詰めたのは間違いないと思う。

 「エクソシスト2」の構成が一作目の後日談プラスそれに遡るメリン神父の過去…という入り組んだものになっているのも、おそらくは一作目の後日談であるマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の話と一作目から遡るビトーの若き日(ロバート・デニーロ)の話のパラレル構成でつくられた「ゴッドファーザーPART II」に大いに刺激された結果に違いない。これは意識してるはずだと思うよ。

 さて「2」の失敗で早くもとどめを刺されたと思われた「エクソシスト」シリーズが、その後13年ぶりに復活することになるとは誰が想像していただろうか? その第三作「エクソシスト3」(1990)を、僕は残念ながらちゃんとは見ていない。酒を飲みながらテレビで見ていたので、あまりハッキリと覚えていないのだ(笑)。今回のお話は一作目ではリー・J・コップが演じた刑事が主役で、コップはすでに亡くなっていたのでジョージ・C・スコットが代演として登場。何だか連続殺人鬼の話みたいに始まるから驚いた。だが、これは決して「番外編」ではない。一作目からジェーソン・ミラー演じるカラス神父もそのまま持ってきた、ちゃんとした続編だ。

 実は一作目の原作を書き、プロデュースもしているウィリアム・ピーター・ブラッティは、会社がつくった続編「2」を気に入ってはいなかったらしい。前作のスタイルや成立事情を考えれば当然とも言えるが、ブラッティは自分なりに「これぞ続編」というものをつくりたかったようだ。そこでは「2」は「なかったこと」になっているようなのだ。そこでブラッティは原作・脚本・製作・監督と八面六臂の大活躍でこれを完成させた。

 出来映えについてはちゃんと見ていないので僕は云々出来ないが、なぜブラッティが13年も経って(前作から勘定すれば18年)この「続編」をつくったのか…。僕はここでも「ゴッドファーザーPART III」(1990)の影響を感じてしまうんだよね。これは考えすぎかもしれないが、こんなに経っても続編ってアリなんだ…というヒントを与えたような気がする。長い間を経ての続編と言えば一作目より23年後発表の「サイコ2」(1983)などもあるにはあるが、ほぼ同じ時期の公開でどちらも記録的大ヒット作…という似たような宿命から、「エクソシスト」製作側が「ゴッドファーザー」を意識した可能性は高いと思うんだよね。

 さて、「エクソシスト3」が商業的に成功したかどうかは、僕はまったく知らない。だが、その作品からもすでに14年が経過した時点でこの「ビギニング」(2004)が登場した背景には、二つの理由が考えられる。

 一つは一作目「ディレクターズ・カット」版(2000)が公開された事だ。デジタル・リマスターだの未公開シーンの追加だの…と何かと物議を醸したこの「完全版」、間違いなく「ディレクターズカット/ブレードランナー最終版」(1992)や「アビス/完全版」(1993)などが刺激になってつくられた事は間違いないが、これが「ディレクターズ・カット」ものの中でも最大級の成功となったからたまらない。「こりゃ柳の下にドジョウがまだいそうだぞ」となったのも当然の事かもしれない。

 もう一つは、映画界での新たなシリーズ展開の動きだ。いわゆる「エピソード1」もの(笑)。もちろん発端はジョージ・ルーカスが16年ぶりにシリーズを再開させたスター・ウォーズ/エピソード1:ファントム・メナス(1999)だ。続きをつくってもつまらないなら、いっそ遡ってしまえ…。「羊たちの沈黙」(1990)の続編である「ハンニバル」(2001)の後、お話としては遡るレッド・ドラゴン(2002)がつくられたのも、そういう事情からだ。

 ならば「2」では多少触れられているものの、本格的にメリン神父の過去を描く続編があっていい。しかも「3」制作時に「2」は「なかったこと」にされてもいるから、何だったら「2」をまた無視しちゃってもいい(笑)。こうして今回の「エクソシスト/エピソード1」である「ビギニング」が製作された…という事になるわけだ。

 

見た後での感想

 …とまぁ、ああでもないこうでもないと長々並べて来たが、とにかく今回の「ビギニング」だ。

 この映画の撮影寸前にジョン・フランケンハイマーが亡くなった事は話題になったが、案の定宣伝では「悪魔の呪い」にされていた(笑)。こんな事まで宣伝にしちゃうのは、ちょっとどうかと思うけどねぇ。

 むしろ「呪い」なのは、その次に監督に起用されたポール・シュレイダーの方じゃないか。何しろ話が本当なら撮影をあらかた済ませた末にクビって言うんだからね。普通そんな事ってやるんだろうか? その時のフィルムはどこへいっちゃったんだろうか? それほどひどかったんだろうか? ちょっと考えにくいんだけどね。

 で、レニー・ハーリンがほとんど撮り直して完成させたって言うんだけど、ハーリンってシュレイダーより上ってとても思えない(笑)。ついこの前まで海賊船とかブッ壊してつまんない映画つくって、あげくの果てに映画会社つぶした男だよ(笑)。復帰してのディープ・ブルーなどはいろいろ頑張っていたけど、元々が馬鹿力映画の作り手だと思ってたからね。「ダイ・ハード2」(1990)、「クリフハンガー」(1993)の人だと思ってたから。

 だからこの人が「エクソシスト」…と聞いてすごく違和感があったし、やるとなったら大アクション・ホラー映画(ってあるのか?)になるんじゃないかと思った。でなければ、それまでのゴタゴタから考えて出来損ない映画に違いない。まぁ、誰でも考えるのはそんなところじゃないかと思うんだよね。

 実際、見ている間はまるでレニー・ハーリンの名前を思い出さなかった。

 まずは今回は、一作目でマックス・フォン・シドーが演じていたメリン神父の過去の巻。さすがにシドーが若返って演じる訳にはいかないから、今回起用されたのがステラン・スカルスゲールド。いや〜、確かにこの人しかいないだろう。

 ハリウッドってのはあまりヨーロッパ俳優を知らないから、一度注目すると何にでもそいつを使う。フランス人っていうとチェッキー・カリョかジャン・レノ、ドイツ人っていうとユルゲン・プロホノフとかティル・シュヴァイガー。このステラン・スカルスゲールドもラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」(1996)で世界的に注目されて以来、何かと重宝に使われてきた一人だ。

 その後チョコチョコとハリウッド映画に起用され、今回初めてハリウッドでの主演という大役。それがベルイマン映画の名優だったシドーの役…というあたりがピッタリ。同じスウェーデン出身という事で、すごく安易に決まっちゃった気がするが(笑)、それでも他にこの役をやる人はハリウッドにはいないだろう。

 さて、肝心要のお話だ。

 実は僕っていわゆる「発掘」モノが好きで、ハマー・プロのSFホラー火星人地球大襲撃(1967)あたりから、先日公開されたクリスティーナ・リッチ主演ギャザリング(2002)に至るまで、「発掘」とくるだけでワクワクしてくる(笑)。一作目「エクソシスト」にしたって、イラクでマックス・フォン・シドーが発掘しているあたりの雰囲気が、たまらないくらい好きなのだ。実は舞台がアメリカに移ったらちょっとガッカリしたくらい(笑)。だから映画の出来如何の前に、この展開でグッと来てしまった。

 しかも地底に埋まった教会の下に、悪魔の巣窟みたいな洞穴が口を開けている。実は地上のドラマなんかどうでもいいから、こっちの方で物語を押してもらいたかった…と思ったりもしているんだけどね。

 何となく大作の構えで見せる映画ながら、実はお話そのものはチマッとしている。ケニアの発掘現場周辺でに限られる、極めて規模の小さい話なのだ。あまり発展性もない。

 それをスケール感ある話と見せるために、物語には2つの要素が注意深く混入されている。まずその1つは前述した「発掘」に関わること。1500年前に遡るナゾの要素だ。これによってドラマは、悠久の時の流れを超えたスケールを帯びてくる。

 もう1つが主人公男女にのしかかる、ナチスの亡霊というトラウマだ。

 「エクソシスト」第一作ではイラクの発掘現場から現代アメリカの一般家庭という大きな落差でドラマをブッちぎって、そこにダイナミックなスケール感を出した。今回もとどのつまりはケニヤの発掘現場でのお話に過ぎないが、その根底にはメリンことステラン・スカルスゲールトと女医イザベラ・スコルプコの過去のトラウマがある。特にメリンのそれは、何度も実際の映像となって画面に現れてくる。このナチス…という現実にある「悪」が超自然的「悪魔」と結びつくことで、物語のスケール感をいやが上にも増しているのである。

 しかもナチスに始まった「現実の悪=悪魔」の位置づけは、この映画の中でイギリス軍と現地住民のトラブルとなって現実化する。さらにはその争いは、いつの間にかイギリス軍対イギリス軍、現地住民対現地住民の殺し合いにまで発展する。果てしなく続く、人類同士の殺し合いのイメージ…。

 イギリス軍と現地住民との対立の中に、キリスト教徒と異教徒という要素を見つけるのは難しい事ではあるまい。ならば先進国と第三世界の国の対立、さらにイギリス軍が進駐しているのが「砂漠」の国である事…などから考えても、今日びこの物語を見る側として「ある種の寓話的要素」を連想せざるを得ないのは明らかだ。どう考えたってこの連想の延長線上には、イマドキの何かが見えてきてしまう。どこかの国による、砂漠の中のどこかの国への侵略とか残虐行為とか…そのへんの事だ。

 ここで驚くべきはキリスト教と「悪」との戦いを描いたこのシリーズの最新作として、キリスト教徒による異教徒への「悪」を描いてしまった事だ。

 もちろん最終的には「どっちもどっち」の殺し合いに発展する。だがイギリス軍による地元住民の殺戮を描く直前、彼らは銃を持ちながら「十字架」ネックレスに接吻しているのだから、その意図は明白だろう。これってひょっとしたらちょっとヤバイ事なんじゃないだろうか。しかも、今回その延長線上にはナチスまでいる。僕ら異教徒の日本人なら存在に何の疑いも持たない“キリストの名の下での「悪」”ではあるが、キリスト教徒のアメリカ人には本来なかなか思いつかないし、考えたくもない連想ではないだろうか。

 この映画ってレニー・ハーリン映画にも関わらず馬鹿力演出はやっていないから、当初予想していたように「エクソシスト」シリーズとしてのムードがブチ壊しになる事はない。だから今回のハーリンの抑えた演出は正解だ。

 だが馬鹿力が身上のハーリン映画としては、それは物足りなさにもつながってしまうようだ。1500年の時の流れやらナチスの暴虐やらを織り込んではいても、元々がアフリカの狭い地域でコチョコチョやってる小規模な話。だから…一生懸命大風呂敷は広げているが、ダイナミズムにはいささか欠けるのだ。馬鹿力だけで映画をつくろうとしてないのはハーリンとして新生面発揮と言えるけれど、デリケートに絶妙な語りで見せていくには小技が得意という人ではないからね。

 だから必ずしも成功作とは言い難いけれど、退屈はしない。そして何よりこの「悪魔」=「ナチス」=「イギリス軍」=「?」という連想ゲームは、今だからこそかなり刺激的だ。「?」にはお好きな単語を入れてくださって構わないが、今日びここに入る単語がそうそうあるとは思えない。砂漠の国に残虐行為を行っている、強大な軍事力を持ったキリスト教国家だと思っていただければ結構だ(笑)。

 あ、そうそう。忘れてもらっちゃ困るんだけど、ナチスには同盟を組んでいた国もあった。それがどこかみなさんはご存じだろうか? そして今わが国がどこと同盟を組んでいるか…。こっちの方はみなさんも、よくお分かりのことだと思うけれども…。

 どうもわが国は、常に「悪魔」側の味方のようなのだ(笑)。

 

見た後の付け足し

 …というような展開を見せるのにも関わらず、だからこそメリン神父が信仰を取り戻すってのは、やっぱりキリスト教国の映画としての限界なんだろうかね。

 結局はメリン神父の信仰の力によって、悪魔は退散する事になる。それって光線が発射されたり爆発が起きたり切れ味鋭い名刀が出てくるわけではないから、映画の画面の見た目では少々ツラいことになってしまう。何で敵が苦しんで、何で最後にやられてしまうのか…映像だけではピンと来ないのだ。少なくとも異教徒たる日本人には説得力が足らない。

 ナメクジは塩に弱いから、塩をかけられたら溶けてしまう。ゴキブリにはバルサンの煙がたまらない。ドラキュラは心臓に杭を打ち込まれると死ぬ。ゾンビは脳味噌を壊せば倒れる。…普通はこうした一応の理詰めによって、娯楽映画の見せ場ってつくられるものだ。ところがこの映画では、メリン神父が神の許しを請い、神の名の下に祈りを唱えて十字架を掲げると悪魔はやられてしまう。それにどんな威力があるのか僕らには分からないから、イマイチ説得力が欠けてしまうのだ。「水戸黄門」の葵の印籠みたいなものか。これってキリスト教国の人々なら説得力があるのだろうか?

 しかもキリストの名の下におけるキリスト教徒まで巻き込んでの悪魔の乱暴狼藉を、キリスト教の神によって収めようという展開に説得力があるのか?

 この映画の物語にはそういう「甘さ」はあるものの、僕はこうでなければならなかった事情ってのも分かる気がする。

 一時は「神の不在」を痛感して虚無的になっていたメリン神父。それが最後には再び神を信じ、神の名の下に悪魔と戦う。その悪魔とは「悪魔」=「ナチス」=「イギリス軍」=「?」…と綿々と連なる、壮大な悪の連鎖なのだ。

 それってのは、イマドキの「行くところまで行ってしまった」最悪の状況のメタファーだろう。

 21世紀になっても、希望の新時代どころか状況はドンドン悪くなる。しかも正義の名の下に悪がまかり通る。ヘタをすると「善」側だと信じていた自分がひょっとしたら「悪」の側かもしれない。そんな今という時代…。

 矛盾であることは百も承知、でも信じるに足るモノはそれしかない。キリスト教徒たるアメリカ人は、今本当にそんな心境ではないのか。

 それが結局どこかズレた発想だというのは仕方がないのかもしれない。そういうキリスト教側からの発想しか、彼らは出来ないのかもしれないからね。だが、それでも何か信じるに足るモノを持ってはいたい。

 この映画の後半部分ってのは、そんな矛盾と切実な思いの産物かもしれないんだよね。

 

 

 

 

 

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