「モンスター」

  Monster

 (2004/10/18)


  

見る前の予想

 世間のこの映画への興味は、たった一点に絞られる。それはアカデミー賞主演女優賞受賞のシャーリーズ・セロンの演技だ。いや、演技と言うより体重増加やら特殊メイクによる「変身ぶり」と言っていいだろう。それ以外、世間の興味ってないんじゃないか? かく言う僕もその一人だけど。

 僕はセロンみたいな美人女優が「体当たりオスカー演技」するのって、はっきり言ってあまり誉められた事ではないと思っている。「レイジング・ブル」のロバート・デニーロは、ちゃんとデニーロが演じる必然性があった。だけど、肉体改造をやって美人女優が不細工な女をやったからと言って「オスカー」というのは、あまりに安易じゃないのか。というか、そんなにまでして「オスカー」とりたいのかと思ってしまう。だって、例えばめぐりあう時間たちのヴァージニア・ウルフをニコール・キッドマンが演じる必然性ってあったか? 原型をとどめてないほど肉体改造して、彼女が演じる意味があったか? 彼女でなくても良かったのではないか? ぶっちゃけた話、誰もそう思わないのかね?

 そんなこんなで…僕はこの映画でのセロンのオスカー受賞というのは、正直言ってちょっと意地悪な気分で見ていたところがある。まぁ好意的に見たところで、「熱演したかったわけね」ってなとこ止まりだろうと思った。

 その後、どうもセロン本人の過去にこの映画とダブる部分があった…という報道がなされても、僕の気持ちはスッキリしなかった。確かにセロンの入れ込みようは分からぬでもない。単なる「オスカーへの野望」以上のものがあったとも思われる。ヒロインへのシンパシーもあったのだろう。この事実をもって「…だからセロンの演技は人ごとでなく素晴らしかった」などと、甘っちょろい女性「映画ライター」たちが聞いた風な事を「ロードショー」あたりに嬉々として書くのも容易に想像がついた。

 だが、思い入れだけで良いものが出来れば、世の中苦労はない。いくら僕が映画作品にオノレの人生やら作り手のキャラクターを重ね合わせて見たがると言っても、この手の浪花節と五十歩百歩の「美談」仕立ての映画レビューとは一線を画していたい。第一、シラジラしいんだよ。

 それと…犯罪者=社会の犠牲者…という構図自体が、実はもう意外でも何でもない。そんなものはすでに陳腐化しているし、押しつけられるのも迷惑だ。もし今改めてそういう考えを観客に提示するのなら、それが説得力あるものである必要があるし、かつ、そうでなければならない必然性を持たねばならないだろう。

 その上で、セロンを起用しなければならなかった意図も明確にならなければ、この映画を好意的に見ることなど出来ないんじゃないか。

 シリアスな意図を持った映画ならなおのこと、安易な道を辿る事を許してはならないのだ。

 

あらすじ

 1986年、フロリダの田舎町。もう若くはない女シャーリーズ・セロンは、ハイウェイを見つめながらじっと雨の中を佇んでいた。子供の頃は女優になりたいと思った。今はダメでもいつかは花開くと思った。親に虐待されながらも、そんな現実が変わると思った。愛を得られなくても、いつか誰かが愛してくれると思った。そんな夢を持ち続けていた。だが、それが現実にはならない…と、気づかざるを得ない時がやって来た。

 そんな時、セロンはあの「運命の女」と出会う。

 いや…最初はそんな出会いを求めていた訳ではない。ビールが欲しかっただけだ。ビールを飲んで…そして死のうと思っていた

 そしてフラリと入った街道沿いのバー。店の雰囲気を見て、粗野なセロンはバーテンに不用意な言葉を吐いてしまう。「こりゃ何だかゲイの酒場だね」…図星である。シャレになってない。こうした場の空気を読めない思慮のなさが彼女の真骨頂なのだが、それはまた別の話だ。

 そんな彼女が店で一番安いビールにありついていると、そこに声をかけてきた一人の若い女…それがクリスティーナ・リッチだ。「お相手」を探して声をかけられたと思ったセロンは、ここで神経過敏に反応。思いっ切り彼女を罵る。ところが「楽しい事もないし、ただ今夜楽しく過ごしたいと思ってただけなのに…」とヨヨと泣き崩れられてしまうと、セロンはどうしても彼女を拒めない。それはセロンが生来持っている性根の優しさなのか、それとも彼女自身つらい思いをしてきたという一種の共感だったのか。

 そんな二人はおおいに打ち解け、店がカンバンになるまで飲み続けた。人に心を許さないセロンがリッチとここまで打ち解けたのは、彼女が醸し出すどこか守ってやりたい雰囲気によるものかもしれない。なぜか腕に巻き付いたギプスも、そんな壊れやすさ傷つきやすさを感じさせた。その夜、リッチが身を寄せている家に連れて行かれたセロンは、彼女と一つベッドで眠る事になる。ただし…リッチは決してそれ以上進もうとはしなかった。ただセロンを見てこうつぶやいただけだ。「あなたはキレイだわ…」

 翌朝、セロンは慌ただしくリッチの部屋から出ていく。リッチが身を寄せているこの家の住人は、どう見ても彼女を好意的に見てはいなかった。それでも二人は、今夜スケート場での再会を約束して別れた。

 リッチは同性愛の事で親から勘当されていた。まだ仕事にも就いていない彼女は、仕方なく知人宅に居候していたのだ。そんな彼女に、家の人間はセロンとの付き合いをやめるように促す。「あれは立ちんぼの売春婦よ!」

 一方セロンは家も持たず、ほとんど浮浪者同然の暮らしをしていた。唯一の友は、同じ浮浪者仲間のブルース・ダーンだけ。そんなセロンは、ダーンに「友達が出来た」と嬉々として語る。

 さてセロンは店の便所に立てこもって全身を洗いに洗い、彼女にしては珍しく精一杯身なりを整えた。そして颯爽とスケート場へ。案の定、そこにリッチも待っていた。

 和やかに語り合う二人。そんな中、リッチはセロンに「あなたは売春婦なの?」と唐突に尋ねる。だが、そこには何の蔑みもてらいもなかった。そんな彼女の率直な質問に、セロンもためらいなく肯定で答える。

 「あなたなら、何人もの男たちが行列をつくってるんでしょうね

 そんな事など言われた事もないセロンは、内心の動揺を隠せない。実際のセロンと来たら、不摂生と荒んだ暮らしが祟って容色の衰えも著しく、肉体も弛みきって実年齢よりも老けて見えた。当然彼女は売春婦の中でも最下層に位置する「立ちんぼ」でしかない。リッチが言ってくれたような「美しい」なんて言葉、最近…いや、実は生まれてこのかた聞いた事もなかったのだ。そんなリッチの無邪気なまでの好意は、セロンの無防備な心にいきなり襲いかかった

 「スケートしよう」

 滑った事もないし、第一ギプスをしている…そう躊躇するリッチを、セロンは優しくリードしてリンクへと導いた。そのうち「カップル・タイム」になっても、二人はリンクの上だ。そのうち二人は静かに唇を重ね合って…。

 スケート場を出ると、貪るように口づけを交わす二人。こうなると愛する感情は堰を切ったように止まらない。いつも一緒にいたい。片時も離れたくない。

 「明日、一緒に旅立とう!」

 セロンは思わず口走る。でもお金がない…と口ごもるリッチに、セロンは畳みかけるように提案する。「アタシが稼げばいいさ!」

 さて、そうなればカネが要る。リッチの存在で一気に生活に張りが出たセロンは、道路の脇に立つ足取りも軽い。俄然「立ちんぼ」稼業にも力が入る。やる気になってガンガン稼ぐ。

 だが…そんな彼女が「もう一稼ぎ」と欲を出したのがマズかった。

 最後の客は、セロンをクルマに乗せると森の奥へと入っていく。もう日もとっくに暮れて、あたりは真っ暗。人けもない。あげく「仕事」に移ろうとしたセロンに、客はいきなりキレ始めるではないか。

 いきなりの暴力。セロンは気を失った。

 その頃、リッチは待ち合わせの場所で、いつまで経っても来ないセロンをじっと待ち続けていた。当のセロンがどんな目にあっているかも知らず…。

 一方、セロンが意識を取り戻してみると、両手はロープで縛られていた。客は完全な異常者だった。そして忌まわしい手口でセロンをいたぶり始める。このままでは殺される…。

 激しく両手を動かしているうちに、ロープが緩んだ。両手を自由にしたセロンは、彼女に虐待を続けようとした客に向かって隠し持っていた銃を構える。

 一発、二発、三発、四発、五発、六発!

 全弾撃ち尽くし、それでも引き金を引く事をやめないセロン。身を守る正当防衛のためとは言え、セロンはその時、一線を超えてしまった。それだけではない。そこには今までの人生で彼女に対して加えられて来た、いわれのない卑しめや虐げ、乱暴や暴力、罵りや嘲り…それらすべてに対して引き金を引いたような、言葉では言い尽くせない「快感」もあったのに違いない。

 そう…大変な事をしてしまったという意識はあったが、それが悪い事だという思いは不思議と感じなかった。

 汚れた服を客の服と着替え、客のクルマを奪ってリッチの家に駆けつける。すでにリッチはセロンにすっぽかされたと思って、自室でフテ寝していた。そんなリッチを家の外へ呼び出したセロンは、これから出かけようと言い出した。だがリッチにも都合というものがある。第一このパジャマ姿のままで荷物もなしに出かける訳にはいくまい。すっぽかされたというわだかまりだってある。それでもセロンは譲らなかった。

 「今を逃したら明日はアタシはいない。二度と会えない二人なんだ!

 とりあえず一週間…という約束で、二人は旅に出た。宿は道路沿いのモーテル。それからは夢のように楽しい日々が続く。それはセロンにとって初めて幸せと言える日々だった。

 やがてしばらくして、リッチは例の家に荷物を取りに行く。知人の説得にも耳を傾けず、彼女はセロンの元へと舞い戻った。これからはずっと一緒にいる…と決めて。

 これはセロンにとっても大きな喜びだった。だから彼女も宣言した。これからは売春婦は辞める。もっと真っ当な仕事をするんだ…。

 彼女だって好きで売春婦をやっていた訳じゃない。生きていくために仕方なくやっていただけだ。本当はイヤで仕方なかった。こんな事は辞めて、リッチとの愛に生きたい。

 だが、セロンの語るまったく裏付けのない話に、リッチは一抹の不安を感じずにはいられない。

 案の定、世の中そんなに甘くはない。堅気の仕事に就こうにも、これまでの実績が何もない。資格も学歴も経験も何もないのだ。おまけに常識も忍耐力もない。あるのは前科だけ。ハナっからキャリア・ウーマンめざして相手にされないばかりか、職安でも工員のクチをあてがわれて即逆ギレ。新生活めざして意気揚々の希望も、モノの見事に萎んでいく。自分を信じろ…なんて言葉も、シラジラしく聞こえるだけだ。

 カネがなくなってジリ貧になって来ると、リッチも口を開けば「何か食わせろ」「何で売春婦を辞めた?」…と、テメエ勝手な事ばかり言ってくる。実際、生活は困窮の一途を辿っていた。

 リッチは勝手に遊び歩いてカネを使ったり、別の女とツルんだり…と、セロンをないがしろにする行動に出始めた。それでもリッチはセロンにおんぶにだっこの状態は変えようとしない。これにはセロンもたまらない。堪えきれなくなったセロンは、ついに自分が客を殺した事を打ち明けた

 ようやくセロンの追いつめられた思いに気づいたリッチは、彼女を優しく慰めた。「仕方なかったんだ、正当防衛だったんだ」…と。

 ついに行き着くところまで来てしまった。唯一の良い事と言えば、例の殺しの捜査が手がかりなしで息詰まっている事…。

 こうして、セロンはまたしても道路沿いに立つようになった。立っただけではない。…再び客に対して銃を向けた。

 外出すると、なぜか誰かのクルマを運転して帰ってくるセロン。それが何を意味するか、気づかぬリッチではあるまい。だが彼女は、それを知らぬ存ぜぬで押し通した。一回の「商売」で稼げる訳もない大金。それでモーテル暮らしから一軒家へとグレードアップ。だが暮らしを維持していくにはカネが要る。それだけのカネを稼ぐには…どうしても銃が必要だった。

 それでもセロンの中には、殺しに至るための一つの規範があった。少なくとも規範があると思っていた。それは自分を虐げてきたような、人間のクズのような男どもを成敗しているという理屈だ。それがあるから、自分は神様にも何も恐れる事はない…。

 そんなセロンはいつものように客をとり、その客に妻がいる事を聞き出した。いよいよ行為…という時になるやセロンは、興奮してまくし立てる。「ここで商売女とやった後で、今度は女房をレイプするのかい!」

 そしていつものように、客を有無を言わさず射殺

 ところが客の持っていた写真を見て驚いた。この男の妻は車椅子の身。それで夜の営みが出来ず、やむなく売春婦を買ったのか…。セロンは予想外の事に動揺を隠せない。しかも悪いことは重なるものだ。

 この男は警察官だったのだ。

 警官を殺したら、さすがにウヤムヤには出来ない。さすがにセロンは、今度こそ自分たちの前に暗雲がたれ込めていくのを感じずにはいられなかった…。

 

見た後での感想

 正直言って、見る前に考えていた意地悪な思いは、見ている間はまったく思い出すことがなかった。特殊メイクを施されていてもセロンはセロンだし、この映画はそれで良かったと思う。

 面白いのは…確かにこの映画はヒロインに同情してつくっているし、その原因が幼い頃からの虐待と一貫した不運にあると言っているにも関わらず、肝心のその部分は実にサラッと描いて通り過ぎていっている事だ。そうしたバックグラウンドはヒロインを理解する上で必要不可欠なものだが、まるで取ってつけたようにアッサリだ。「そのせいで彼女はこうなってしまった」…的な因果話には、あえてあまり陥らないように描いているように思える。社会が悪い、誰かが悪い…という方向には、過度に引っ張らないようにしているみたいなのだ。

 この話の性格上、どうしたってそういう方向にテーマが向いてしまうのは致し方ないとしても、それにしてはあまりに素っ気ないヒロインの過去への言及。イントロでそそくさと駆け足で語られる「あれ」だけで、このヘビーな映画全編にわたるヘビーな状況を弁護しろと言っても、それは土台無理な話ではないか? そうなると、どう考えても作者はそっちに話を向けようとは…少なくとも「すべて社会のせい」的展開を説得力あるものにしようとは、あまり考えてないように思えるのだ。

 むろん作者は、ヒロインに同情してこの映画をつくっている。彼女にもっとマシな環境があったら、こうはならなかったろうと言っている。周囲の人間たちの無理解も糾弾している。そもそも最初に殺された男など、殺されても当然という描きっぷりだ(このあたり、被害者の遺族などはどう反応したのだろう?)。だから作者は「すべて社会のせい」的な描き方を避けたかったのかもしれないが、結果的には映画全体がそっちの方向にかなり傾斜してしまっているのは否めない。そんな過度な同情が安易な道である事など、作者には十分すぎるほど分かっていたにも関わらず…だ。

 そのせいなのか…ヒロインは同情に値するものの、やっぱり本人もかなり困った人だったと描いてもいるのだ。それは勝手にバラ色なプランを立てて、安易な求職活動を行うあたりを見れば分かる。ここで彼女の休職活動に関わった人々の中には、確かに鼻持ちならない人間もいる。だが、それも「込み」でやっていかねば仕事など就ける訳もあるまい。いきなりキャリアウーマン志向で押し掛けたあげく、工員の仕事を世話されていちいち逆ギレしていてはどうにもならない。そもそも見通しが甘すぎるのだ。いくら世間並み…を知らずに来たとは言え、ここでは彼女のダメさも余すところなく描いている。

 そして徹底的に汚なづくりで見せていく。しゃべりも粗野で下品。容色も崩れまくっている。彼女の荒みっぷりを見せる上で、これはどうしても必要だった。で、そんな汚し方で観客がヒロインに共感出来かねると思い始める寸前…生理的に我慢ならないと思い始める寸前で…。

 その中味がシャーリーズ・セロンだという事が効いてくる。

 ヒロインを徹底的なリアリズムで汚してはいても、それがシャーリーズ・セロンだと分かる範囲内でのメイクである理由は、まさにそこにある。だからこそのセロン起用だという必然性もある。僕がこの映画を見ているうちにセロンのヒロインにあれこれ考えがいかなくなった理由は、まさにそこにあった。この映画は彼女である必然性があったのだ。

 この映画は徹底的にツキのない女の物語だ。打つ手打つ手が裏目に陥っていく。実は自殺寸前につかんだ奇跡的幸せと思えた恋人との関係そのものが、ヒロインを決定的な破滅へと追い込んでいく。そこには何とも切実な実感が漂っているが、それは後で詳しく語る。

 先にも述べたように、作り手はヒロインに同情してはいるものの、安易にその行為を正当化する事だけは避けようとしている。それに成功しているか否かはかなり際どいが、そうしようとした事は前述のさまざまな要素から見てとれる。

 実は物語の主眼もそんなところ…ヒロインの正当化にはなく、注意深く別の方向へと向けられている。ではどちらへ向けたのか…というのはまた後で語る話。ともかく作り手が安易な正当化を回避を狙っているのは、映画を注意深く見ていれば分かる。

 それが最もよく分かるのは、ヒロインによる「殺しの正当化」についての描き方だ。

 ヒロインの殺し…それは自分が今まで被ってきた様々な虐待や暴力への報復だ。少なくとも彼女はそのつもりでやっている。偶然起こった最初の殺しがそうだった。そのつもりはなかったが、なってしまったらそういうカタチになった。その後、彼女が殺しを続ける時も、それは常に社会への制裁じみたものとなっている。実際にはカネが欲しくてやった犯行だが、彼女としてはせめてそう思い込む事にして殺しを正当化させたかった。それはある程度のところまでウソではなかったはずだ。そこに理由があると言えば、言えない事もなかった。

 ところが性生活に不自由していただけの警官を殺したあたりで、そんなヒロインの「理由」にケチがつき始める。

 ここから物語が急展開してヒロインたちの逃避行がジリ貧になっていくのは、おそらく実話の脚色によるものだろう。実際にはこうもきっかり鮮やかに暗転はしまい。そしてそこにこそ作者の意図がある。なぜならここを契機に、ヒロインが必死に信じようとしていた自分の正当性は、徐々に怪しげなモノと化していくからだ。さらに終盤切羽詰まってくると、ヒロインに助けの手を差し伸べようとした善良な初老の紳士さえ殺さざるを得なくなる。例えいくらツキがないとは言え、この行為あたりになると一片の同情の余地もあるまい。ここでヒロインの正当性は完全に破綻し、弁護の余地のないものになってしまう。誰よりもヒロインがその事を悟ってしまう。もはや自分を偽れなくなってしまったヒロインは、自ら瓦解への道を辿ってしまうのだ。

 このように多少甘いところはあるとは言え、これが長編監督デビューのパティ・ジェンキンスは、ヒロインを全面的にベタ〜っと甘やかしはしない。イマイチ甘いところも見受けられるのだが、何とかヒロインの「悲劇のヒーロー化」だけは避けられている。この題材故に男が悪い世の中が悪い一辺倒で押し通されるのではないか…と思っていたので、僕としては一応安心して見ていられた。

 ここでヒロインに同情を寄せながらも殺害されてしまう善意の男を演じているのは、渋い名脇役のスコット・ウィルソン。この人は数々の作品に顔を出しているが、僕が最も印象深く覚えているのはポーランドのクシシュトフ・ザヌーシの作品…ウィルソンの数少ない主演映画の一本「太陽の年」(1984)だ。第二次大戦の戦場で深く心にキズを負ってしまった、哀しげな表情の優しいアメリカ軍兵士を演じて絶妙。ここにこのウィルソンを持ってくるとは、まさに適材適所だと言える。僕はすっかり嬉しくなってしまったよ。

 嬉しいと言えばもっと僕が驚喜したのは、ヒロインの浮浪者仲間を演じていたブルース・ダーンだ。この人は今だと「ジュラシック・パーク」や「遠い空の向こうに」のローラ・ダーンのお父さんと言った方が通りがいいかもしれない。元々は脇役たたき上げの人だったのが「華麗なるギャツビー」(1974)あたりで頭角を現して、ヒッチコック晩年の佳作「ファミリー・プロット」(1976)、サスペンス大作「ブラック・サンデー」(1977)、ウォルター・ヒルのストイックなカー・アクション映画「ザ・ドライバー」(1978)、さらに「帰郷」(1978)でもジェーン・フォンダの夫役でいい味出すなど、一気に主演級でバリバリ出演し始めた。ところがなぜか知らないが、パタッと作品が来なくなっちゃったんだよね。言わば、ブルース・ダーンって1970年代に狂い咲きした徒花みたいなスターなわけ。

 それが、こんな久しぶりにいい味出して出てくるとは…しかもベトナム帰還兵という設定が、いかにも「帰郷」に主演したこの人「らしい」じゃないか。

 パティ・ジェンキンス…このキャスティングだけをとってみても、「分かってる」奴って事が伺えるよね。そして、1970年代映画に並々ならぬシンパシーを寄せている気がする。

 だって、考えてみればヒロインと恋人が初めて愛を語る場所がスケート場って…どこの誰だってあの「ロッキー」(1976)での、主人公とエイドリアンの初デート場面を連想するじゃないか。しかもよくよく考えてみれば、ロッキーもこの映画のヒロインも、アメリカの繁栄から取り残されてゴミ扱いされている人物だ。それが必死にささやかな愛を掴もうとしている様子が、共通するモノを感じさせるんだよね。

 だがこの後で、両者の行方はクッキリと分かれる。片やアメリカン・ドリームを象徴する成功を手中に収めるのに対して、この映画のヒロインはますます奈落の底へと落ちていく。そういった皮肉さを表現するためにも、パティ・ジェンキンスがここで「ロッキー」を引用した可能性は極めて高い。二人のデートがスケート場だったのが事実だったとしても、映画化に際してジェンキンスがこの場面に「ロッキー」を意識した可能性は否定出来ないのだ。

 この映画は女二人の「カップルによる逃避行」を描くという題材そのものから言っても、「俺たちに明日はない」(1969)などアメリカン・ニューシネマの残照がまだ色濃く残っていた1970年代映画の臭いがあちこちにプンプンしている。そこが実に嬉しい。この映画の監督パティ・ジェンキンスは、僕のような1970年代アメリカ映画好きのツボを、しっかり押さえてくれる映画作家って気がするんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 で、先に述べたようにパティ・ジェンキンスは、この映画を社会の犠牲者としてのヒロインの物語に持っていく事を、出来る限り避けているように見える。

 結果としてそうなってしまう話だし、作り手もヒロインに同情しているので、どうしても話としてはそっちに傾斜せざるを得ない。しかも残念ながら作り手の「甘さ」も見え隠れしてしまう。だからどうしても「社会が悪い」的話にはなってしまうのだが…それでも何とかある程度のところまでで止めて、出来るだけサラッと描くように腐心しているように見える。

 それと言うのも、ジェンキンスはそもそもここで「社会派問題作」をつくろうとは思っていないからではないか?

 もしそんなものをつくろうと思っていたのなら、当然のごとくヒロインの過去をねっちりと描かねばならないだろう。時間的には短くても、何かインパクトのある描写に託して印象づけるはずだ。あるいは社会的背景を描こうともするはずだ。

 ところがこの映画は、ヒロインと同性の恋人に思いっ切りフォーカスして、他の要素を思い切りよく切り捨てている。むしろカメラはヒロインと恋人と一緒に、モーテルの部屋に籠もりっきりの状態になっていく…。

 「社会派問題作」の代わりにジェンキンスが描こうとしたもの…それは、運命的な出会いを描いた「恋愛映画」ではないか?

 そもそもこの映画の物語は、ヒロインが「ここで会ったが百年目」の女に出会ったところでスタートしている。そして実際、それがキッカケで奈落の底へと一直線に転がり込んでいく。クリスティーナ・リッチが演じるヒロインの恋人は、やっぱり社会からのつまはじきモノで挫折感を抱いていて…そこがヒロインに親近感を抱かせる。しかも誰にも蔑まれるヒロインを、「美しい」と言ってくれた初めての人だ。愛された事もないヒロインは、一も二もなく彼女に惹きつけられてしまう。これはなるべくしてなった出会いと感じてしまう。ヒロインが恋人に言う「二度と会えない二人」という言葉は、まさに彼女がこの出会いを「運命的」な特別なものとして捕らえていることを表している。

 だが実際に暮らしを始めてみれば、この恋人はかなり難アリな人物だった。ヒロインにタカる事を何とも思っていない。何をやってあげても当たり前。感謝の気持ちもない。ヒロインをないがしろにして他の女と遊びまくり、文句を言ってもさもヒロインが悪いかのように開き直る。

 父親にスポイルされたらしいのが原因かもしれないが、およそ自分から何かやろうという人間ではない。この女が「息抜き」として別の女たちと遊びに行った時、ヒロインが彼女に言った武勇伝をそのまま自分の話として自慢げに語っているのをご覧いただきたい。彼女には自力で何かを為す力も意志もない。自慢話でさえ人頼みなのだ。

 そんな女だから、他人のために小指一本動かそうとはしない。あげく何とか娼婦稼業から足を洗おうとするヒロインに、冷たく「何で辞めるの?」と言い放つ始末だ。徹頭徹尾考えているのは自分の事だけ。ヒロインがどんな苦労をしてどんな辛酸をなめているのかも考えず、自分が腹ペコなのを平気で怒れる人間だ。それがいかにバカげた事かが分かってない。

 そんな女だから、実はヒロインがどうやってカネを稼いでいるかお見通しのくせに、自分はそれを知らないでいると思い込める。殺しが続いていることを知っていながら、自分の快楽のために見て見ぬふりが出来る。ただし常に自分を安全圏に置く事だけは忘れない。どこかタガがはずれている。おそらくこの女はどこか確実に病んでいるのだ。

 それでもヒロインは彼女のため…と思えば、どんな手段を使って自分がどんな状況に陥ろうとも、彼女のために良かれと思う事をやり通す。それは彼女が最初にヒロインに言ってくれた言葉が忘れられないからだし、そんな彼女を得難い人だと思っていたからだ。ここで失ったら「二度と会えない」相手だと思っていたからだ。

 実はねぇ…僕はこの映画のヒロインが笑えない。僕もほとんど同じような状態にいた事があるのだ。

 そもそも誰も信用しなかったし、若い頃から恋愛で苦い思いしかしてこなかった僕だから、ずっと心を閉ざしてきたようなところがあった。そんな僕がある女に惹かれたのは、彼女も深い挫折を味わっていたからだ。気持ちが分かる気がしたんだよね。そんな彼女は子供の頃から父親にスポイルされて、すっかり打ちひしがれていたように見えた。

 今でも忘れられないのは、彼女が最初の頃に言った言葉だ。例え僕が周りからすっかり孤立するような事があったとしても、それがすべて僕のせいで僕が間違っているとしても、彼女は僕の味方をする…と言ったのだ。そんな言葉を言われた事は、僕の人生では一度もなかった。これには本当に感動してしまった。今考えれば甘い話だし、人は僕を愚か者と言うだろう。それでも僕はすっかり心動かされてしまった。

 ところが、彼女のその言葉は実行される事はなかった。

 ともかく僕は破滅に向かってまっしぐらだった。周りの人間もみんな止めた。だが僕は聞く耳を持っていなかった。とにかく彼女のために何かしたかったのだ。それが自分の首を絞めても構わなかった。なぜなら、誰にも心を許さなかった僕が、唯一心許せた相手だったからね。一度身内にした以上は、徹底的に何でも許すのが僕だ。

 実際に、僕の首はどんどん急速に絞まっていった。彼女はそれを知っていたはずなのに、あえて見て見ぬふりをした。そして好き勝手な事をやり好き勝手な事を言って、僕の顔に泥を塗り続けた。それなのに脇目も振らずに墓穴を掘っていた僕。まったくあの時はどうかしていたんだろうね。

 たぶんあの時の僕なら、必要とあらば僕もこの映画のヒロイン同様に人を殺しただろう。その必要がなかったから僕は平穏無事な世界に今こうしているが、あの時だったら何人だって殺しただろう。それは疑いなくハッキリと言える。そうする事に何のためらいもなかったろうね。今は憑き物が落ちたように目が覚めたから「なぜ?」と思えるが、あの時の僕に他の選択肢は全くなかった。

 危ない世界に転落する裂け目ってのは、案外自分の足下にさりげなくポッカリと開いているものだ。これを今読んでいるあなたは、自分はそんな事ないとタカをくくっているだろうが、人生ってのは本当に分からないもんなんだよ。みんなそう思っていた奴が、翌日はテレビのニュースに悪党面で出ちゃったりする。あなたもその時には人を殺す。間違いなくやる。今の僕には、それがよく分かるのだ。

 そんな僕だから、この映画の終盤に至ってのヒロインの心情も何となく理解出来る。

 結局、警察に捕まったヒロインの元に、あの恋人から電話がかかってくる。自分の声が聞きたくてかけてきたのかと喜ぶヒロイン。だが、彼女はすぐに事の真相を察するのだ。それは恋人が自分の身を守りたいがため、警察に協力して自白させようとする電話だった。

 終始一貫、徹頭徹尾テメエの事しか考えてない恋人。

 それでもヒロインはそれを知りながら、罪を一身にかぶって死んでいく。裁判の席上でヒロインにすべての罪を着せる恋人には、まったく良心の呵責などあるまい。おそらくはもう心の中から、ヒロインの事などすっかり抜け落ちている。心の底から自分のしている事に疑いなど持たない。ヒロインが自分をどう思っているかも、もはや関心がないだろう。僕は彼女の事をよく知っている。彼女は元々そういう女なのだ。

 そして…ヒロインもその事は承知している

 にも関わらず、彼女はそれを知っていながらすべてを引き受けて死ぬ。愛に殉じて死んでいく。それは…彼女との愛を否定してしまったら、ヒロインの行為はすべて空しいものになってしまうからに他ならない。

 だが、それはヒロインの妄想と笑えるだろうか?

 実際にヒロインが彼女を愛した…という事実は消しようがないだろう。向こうが本当はどう思っていたかは問題ではない。ヒロインが彼女を愛していた事は事実だろう。それがあればいいではないか。少なくとも陰惨な彼女の人生に、何がしかの最後の輝きが添えられたはずだ。

 そして愛に殉じる事で…自らの愛を純粋な形で完結出来る

 僕は幸いにも死刑にはならなかったから(笑)、今こうして何とか生きている。あの狂乱の時期に戻りたいとはこれっぽっちも思わないし、あの女への愛情も消え失せた。酔っぱらって見ていたような夢からは目が覚めた。

 だが…起きた事を後悔はしていない

 それを「なかった事」にもする気はない。だから、立場は違えど僕にはこの映画のヒロインの気持ちが分かる。

 ヒロインは最後にすべての世間の良識に蹴りを入れるような悪態をついて、アッケラカンとこの世を去っていく。

 それはハッピーエンド…少なくとも、彼女の人生から見たら幸せな幕切れだと言えるのだから。

 

 

 

 

 

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