「トゥー・ブラザーズ」

  Two Brothers

 (2004/10/11)


  

見る前の予想

 ジャン=ジャック・アノーが今度は二頭のトラの兄弟の映画をつくったと聞いても、僕はまるっきり驚きはしなかったね。それは他の映画ファンも同様だと思う。

 何しろ、あの「子熊物語」(1988)をつくった人だからね。それにアノーのフィルモグラフィーを思い返してみても、いかにも頷ける題材なのだ。「トゥー・ブラザーズ」はいかにもアノーらしい映画なわけ。

 しかも僕は今までアノー映画を見に行って、一回だってハズした事がない。必ず観客をキッチリ楽しませてくれるのが、これまでのジャン=ジャック・アノーの映画だった。

 だから僕は安心しきってスクリーンと向き合ったんだよね。

 

あらすじ

 その昔、カンボジアのジャングルに眠るアンコールの遺跡に、オス・メスつがいのトラがおったそうな。今は主のないアンコールの遺跡はこのつがいのトラの絶好の愛の巣となり、やがてメスのトラは二頭のかわいらしい双子トラを生んだ。この双子はとても中のいい兄弟で、片やアライグマにも怯えるほど気弱なトラ、片やそんな兄弟を助ける気丈なトラ…と、お互いが助け合いながらいつまでも仲良く暮らしたとさ。

 …とは、いかなかった。

 案の定、人間たちがやって来た

 事の経緯を手短に語ると、発端はイギリスの猛獣ハンター、ガイ・ピアースにある。この男、世界の秘境で猛獣狩りをして名声をとったが、最近すこぶる調子が悪い。必死の思いで獲ってきた象牙がまるで売れない。猛獣アイテムは金にならない。代わって競りで人気なのは、遠いアジアの仏像やら古美術。コレだ!…とピアースは飛びついたわけ。そんなモノなら腐るほどあるところを知ってるぜ。

 かくしてピアースが多くの使用人を連れて、やって来たのがここアンコール。野営してやかましく大騒ぎをするかと思えば、仏像を根こそぎ持っていく。壁の浮き彫りをはぎ取るかと思えば、重くて持っていけない仏像は首だけもぎ取るというバチ当たりぶり。「タイムマシン」だけでは飽きたらずまたしてもテメエ勝手に歴史をメチャクチャにするガイ・ピアースではあった。

 こりゃ「マッハ!」の仏像大好きトニー・ジャーが怒って飛び出すんじゃないか…と思いきや、代わりに飛び出したのは父親トラ。この突然のトラの出現に、盗掘隊は一気に色めき立った。もちろんピアースも昔取った杵柄、愛用のライフル片手に駆けつけた。

 母親トラはいつもグズる弟トラを口にくわえ、慌ててその場を逃れた。だがもう一匹の兄トラがその場に取り残された。慌てた兄トラはあちこち逃げ回るが、ちょうど父トラが現地の使用人に襲いかかる場面に遭遇。それを助けようとしたピアースの銃弾で、父トラが倒れる様子までバッチリ見てしまうハメになった。

 あまりの事に父トラのカラダの下で縮こまる兄トラ。それを見てとったピアースは何を思ったのか、連れて帰って甘〜いドロップまでナメさせる。このドロップの甘さにすっかり骨抜きにされたか、ピアースになついてしまった兄トラではあった。

 やがてピアースは最寄りの村に立ち寄った。ここの村長の協力を得て、今回の盗掘も成功したわけ。そこでお礼に…と獲物のトラの毛皮を進呈。ところが何を勘違いしたかスットボケたか、村長は子トラまでもらえるもの…とシラジラしくうそぶくから欲深だ。

 しかも、そこに現地の警察がやって来る。この警官は無許可の盗掘だと問答無用でピアースを引っ立て、村長にはタレ込みの褒美をくれてやった。この村長、ちゃっかりピアースを手玉に取って金をせしめていたのだ。もちろんピアースがクルマで街へと連れて行かれた以上、子トラの方ももはや村長のモノだ。

 さて、クサリに繋がれて夜な夜な泣き叫ぶ兄トラ。実はそんな兄トラの声を聞きつけて、母トラと弟トラは村の間近へと迫っていた。

 母トラは弟トラを連れて、村長の家に向かって「すぐに助けてやる」と言いたげな咆哮を一発。ところが、これに村人たちは刺激された。手に手にタイマツを持って飛び出すと、近くの草むらから茂みから火を付けだした。こうなると母トラも手が出せない。火はトラにとって如何ともしがたい難物なのだ。結局母トラも弟トラを連れて、スゴスゴと引き揚げるしかなかった。

 これはテメエらの手に余ると気づいた村長は、兄トラを動物業者に売り飛ばす。業者は兄トラをオリに閉じこめ、トラックに積んで走り出した。すると遙か後方から、何者かが猛然とダッシュしてくるではないか。

 あの母トラだ!

 母トラは何とかトラックに追いつき、荷台に積んだ兄トラのオリをこじ開けようとする。だが運転手がハンドルを乱暴に左右に揺すったため、母トラはあえなく路上に振り落とされてしまう。

 結局、トラックはどんどん遠ざかって行った

 今度こそ諦めた母トラは、弟トラを連れてジャングルへと消えて行くしかなかった。

 さて兄トラのオリを載せたトラックは街へ…その街には、あのピアースが刑務所に収容されていた。彼を逮捕した警官は得意満面。ところがフランスから派遣されていた行政長官ジャン=クロード・ドレフュスは、ピアースを逮捕したと聞いて真っ青。ピアースは猛獣狩りで知られた有名人。そんなセレブを逮捕とは…。

 かくして即刻ピアースは釈放。すぐに帰国…とはいかないまでも、シャバで自由の身となった。帰国までの間はドレフュスが面倒見ると約束もした。かくしてピアースはドレフュス家にお邪魔する。

 ドレフュスには不似合いなフレンチ美人フィリピーヌ・ルロワ=ボリューという妻と、まだ幼いフレディー・ハイモアという息子がいた。そしてドレフュスが目下目論んでいるのは、例のアンコールの遺跡を生かした観光開発だ。今は遺跡から仏像をひっぺがしてきてヨーロッパに売っている。だがここに新たに道路をつくれば、ヨーロッパ人が遺跡まで足を運べるようになる。

 そのためには、土地のすべての権利を握る「殿下」の承諾を得なくてはならない。

 ドレフュスはこの王位継承者である「殿下」のご機嫌をとって道路建設の承諾を得るために、猛獣狩りの開催を提案する。そのために、猛獣狩りに精通するピアースの協力を仰ぐのだった。

 かくして、「殿下」をはじめお偉いさんたちが象に乗ってやって来た。これからこの荒野で猛獣狩りの始まりだ。獲物はすでに用意されている。事前に落とし穴で確保した…あの母親トラだ!

 母トラが落とし穴からおびき出され、いよいよ狩りがスタート。事の成り行きを察した母トラは、とっさに弟トラを穴に隠した。やがて一行の前に姿を見せた母トラに、「殿下」の銃が火を噴く。

 母トラが仕留められた!

 ご機嫌な「殿下」は、倒れた母トラの前でポーズして写真撮影…と思ったら、いきなり母トラは起きあがって走り出すではないか。実は「殿下」の銃は、母トラの耳に穴を開けただけだった。気絶から目を覚ました母トラは、一気にその場から逃れるのであった。

 ところがその頃、狩りに同行していたドレフュス行政長官の幼い息子ハイモアが、穴の中に隠れている弟トラを見つけだした。まだ可愛い盛りの子トラに夢中になったハイモアは、家に連れて帰って飼う事にする。

 こうして弟トラはドレフュスの屋敷で幼いハイモア少年に飼われ、その名を「サンガ」と呼ばれるようになった。

 一方、先に囚われた兄トラの方はどうなったのだろうか? こちらは場末のサーカスに拾われ、「クマル」と名付けられた。元気もなくなり、食欲も失せる日々。残酷な曲芸師にもイジメられて生きる気力をなくしかけたが、前から飼われている年寄りトラが優しく慰めてくれた。あれからツラい思いばかりの「クマル」に、初めて暖かく接してくれた友だちだ

 さて猛獣狩りは失敗。何とか「殿下」のご機嫌をとりたいドレフュスは、ピアースに取り逃がしたトラを捕らえ、その毛皮を献上するべく頼み込む。だがピアースとてもうこれ以上の殺生はウンザリ。何とかトラを仕留めずに毛皮を手に入れたいと、場末のサーカスへとやって来る。

 そこで…あの村で別れ別れになった弟トラ「クマル」と出会った

 確かにピアースには見覚えがある。甘いドロップも覚えていた。ピアースはサーカスの団長に、「このトラを大事にするように」と頼んで金を渡す。さらにモノのついで…と、トラの毛皮を調達するように頼み込む。ところがこいつが余計だった。

 案の定、「クマル」はせっかく出来たばかりの友だちを失った

 大体、「大事にするように」などと金を渡しても、サーカスの人間がそれを真に受けるわけもない。ピアースが出てきて調子のいい事をやればやるほど、「クマル」の身に悪い事ばかり起きるのだ。何も分かってないのは、自分は動物のためになっていると思い込んでいる「アホでマヌケなイギリス白人」ガイ・ピアースだけ。

 ところが「サンガ」の方も好事魔多し。ドレフュスの息子ハイモアのお気に入りになったはいいが、それが母親ルロワ=ボリューの飼い犬には気に入らない。何かと言えば「サンガ」を追い回してイジメる始末。挙げ句の果てについにキレた「サンガ」は、このうるさいクソ犬をブチ殺してしまった

 こうなるとヒステリーを起こしたのは、お高くとまったフレンチーなバカ女ルロワ・ボリュー。泣き叫ぶ息子ハイモアの抗議も無視して、無理やり「サンガ」を売り飛ばしてしまう

 こうして「サンガ」は「殿下」子飼いの猛獣コレクションに加えられる事になった。周りはハゲタカなりワニなりといった、いずれ劣らぬどう猛な連中。高慢ちきでフレンチーなバカ女のクソ犬一匹殺めただけの「サンガ」は、殺気だった雰囲気にただただ怯えるしかなかった。

 そして一年が過ぎた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コスモポリタンにして合理主義者ジャン=ジャック・アノー

 案の定、思った通りの映画だった。そして思った通りハズさない。ちゃんとオモシロイ映画に仕上げている。さすがにジャン=ジャック・アノーだけある。

 さて、僕はなぜこの映画を「思った通り」だと思ったのか?

 その理由を挙げていくと、それらはジャン=ジャック・アノーという映画作家の特徴そのものにピッタリと符合する事になる。ジャン=ジャック・アノーという人の映画をずっと見てくれば、この映画が彼の作品である事がたちどころに分かるのだ

 実はそれらについて、僕はすでにスターリングラード感想文で詳しく書いている。だから今回は整理して簡単に語るが、それは次のいくつかの要素としてまとめる事が出来る。

(1)コスモポリタンとしての思い

 アノーは子どもの頃からかなり海外経験が豊富な人だったらしい。そのあたりを生かして、アフリカを舞台にしたデビュー作「ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー」(1977)が生まれたのは想像に難くない。おそらくアノーには、元々どこかコスモポリタン的な自覚があるのではないだろうか。こうした異民族、異境の地、異文化…との出会いはアノー映画の重要なテーマの一つで、「愛人/ラマン」(1992)、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(1997)などが例として挙げられる。また西欧映画人としては珍しく、ソ連側からの視点でソ連人によるソ連の戦争を描いた「スターリングラード」(2000)もこの範疇に入るかもしれない。

(2)フランス映画を超えた制作規模

 アノー監督の作品は第2作「人類創世」(1981)以来、いずれの作品も普通のフランス映画の規模を超えたものとなっている。その中での顕著な特徴は「大型予算」「ハリウッド・スター主演」「英語映画(台詞のある作品について)」…だ。これに該当するのは、ショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」(1986)、ブラッド・ピット主演の「セブン・イヤーズ〜」、そしてジュード・ロウ主演の「スターリングラード」など。そのためアノー監督の作品は、一見すると「ハリウッドへの接近」と見られかねない。確かにアノー監督が大型予算の作品がつくれるようになった背景に、「ブラック・アンド・ホワイト〜」のオスカー外国語映画賞受賞がある事は否定できない。これ一つとっても「ハリウッドへの接近」と見なされても仕方がない。

 だが上記(1)を考えるとき、こうしたアノー作品の特徴も別の見え方をしてくる。コスモポリタンだからこそ、自作映画を世界の人々に見てもらいたいと願う。その時に映画が「ハリウッド映画」のスタイルに酷似するのは、その世界的影響力から言っていわば必然だ。「大型予算」「ハリウッド・スター主演」「英語映画」は映画の大衆性を得たいがための手段なのだ。

 これを上書きする事実が、次の(3)の要素に現れている。

(3)ランゲージ・バリアの打破

 言語を必要としない映画…という言い方をしていいのかどうか分からないが、トーキー時代の劇映画の作り手の中で、そのキャリアに台詞のない映画が2本も存在する映画作家なんて、そうそう他にはいないのではないだろうか? 原始人の物語「人類創世」、動物側の視点で徹底的に描いた「子熊物語」(1988)は、その典型だ。つまりアノーは上記(2)についても、リュック・ベッソン的な「ハリウッド進出の野望」の発想ではなく、あくまで(1)コスモポリタンとしての思いから実行しているのだ。彼はランゲージ・バリアを超えて、世界の誰もが吹き替えや字幕なしで見られる映画をつくりたがっているはずだ。

 「スターリングラード」感想文では、僕はツバルファイト・ヘルマーを引き合いに出した。ヘルマーの第2作ゲート・トゥ・ヘヴンが発表された今になってみると、それがますます間違っていなかった気がしている。ファイト・ヘルマーもアノーも、究極の映画のコスモポリタンなのだ。

 ただ、その目指すところが大きく食い違ってくるのは、ひとえにアノーが大型予算を要求する題材を取り上げるから…あるいは観客にとっての「大衆性」というものを、彼が何よりも重視するからだろう。

 それが映画製作者としてのアノーの、究極の現実主義…あるいは合理主義というものかもしれない。

 

見た後での感想

 このようにアノー作品のおさらいをしてみると、「トゥー・ブラザーズ」がいかにアノー作品の権化みたいな映画かお分かりただけるだろう。

 (1)のコスモポリタン性は、カンボジアを蹂躙する西欧人たちの描写で繰り返し表現されている。特に、単なる道化と思われた「殿下」の暗澹たる胸の内を描き込んだくだりは、まさにアノーの真骨頂とも言える部分だ。この部分こそが、この映画が凡百の「動物映画」とは一線を画するゆえんである事は間違いない。

 (2)の制作規模にしてもしかり。どう考えてもこの映画が低予算な訳はあるまい。おまけに売り出し中のスターであるガイ・ピアースを主演者に迎えた「英語映画」だ。

 それでいて物語の中心は物言わぬトラの兄弟。実は全編の主人公はガイ・ピアースではなくこのトラたちだ。あくまでトラの物語として見れば、観客にとってこの映画は(3)ランゲージ・バリアを突破した作品に見えるはずだ。

 このように「トゥー・ブラザーズ」は、前述の(1)(2)(3)の要素のすべてを網羅したような映画として、実に見事に出来上がっているのだ。ゆえに、この映画はある意味でアノー作品の集大成と言っていいかもしれない。

 しかもこの映画を「集大成」視するのは、そんな彼らしい要素が並んでいる事だけが理由ではない。

 ハッキリ言ってこの映画って、主人公がトラである…ということを度外視して物語の基本構成だけ見てみると、まるっきり溝口健二の「山椒大夫」(1954)みたいなお話だ。両親の愛に育まれて仲良く育ってきた兄弟が、とんでもない乱暴で野蛮な連中に父親を殺され、兄弟とも囚われの身になって過酷な運命に追い込まれる…。

 まぁ、ここで溝口を出しちゃったのは、あまりに高尚に過ぎて気が退ける。サーカスに売り飛ばされるとか…そういった趣向は、昔の「孤児モノ」などの「お涙頂戴」ドラマあたりに腐るほどありそうだ。むしろそっちの通俗的なモノの方が近そうだよね。さすがに古色蒼然とした物語設定で、イマドキはちょっと敬遠されるような展開でもある。今回の映画はその主人公を人間ではなくトラにすることで「お涙頂戴」の「作り物」感を排除すると共に、トラにリアルな芝居を演じさせるという現代映画としての「付加価値」をつけた。実は基本は恐ろしく古風で、通俗的かつ大衆的な物語なのだ。

 で、この「大衆的」というところが最大のミソだと思うんだよね。

 僕が先に挙げたアノー作品の要素においても、彼が「大衆性」を重んじている姿勢はあちこちにチラついていた。実際のところ、アノーがコスモポリタンであること、ハリウッドっぽい映画をつくっていること、ランゲージ・バリアを突破しようとしていること…は、実はさほど重要な問題ではない。彼のそういう特徴が、一体どんな方向に向いているか…が大切なのだ。

 言い換えれば、それは彼が映画で何を実現しようとしているか…ということでもある。

 先に述べたように、「トゥー・ブラザーズ」は基本的には古色蒼然とした物語だ。それはコッテコテの泣かせモノと言えるかもしれない。だが…人間の感情のもっとも基本的で深い部分というものは、そんなコッテコテの中に隠されているものではないか。

 表現を研ぎ澄ませたり鮮度を上げていった結果は、すなわち「洗練=ソフィスティケーション」だ。表現というものがどんどん陳腐化され消費されていく現代では、しばしば「洗練」こそが表現の目指すべきモノとされることが多い。しかしそれは注意を怠ると、極めて安易に「冷笑」や「ニヒリズム」へと堕落していく。「力強さ」を失って「脆弱」なものへと低迷する。あるいは「表現のための表現」へと主客転倒しかねない。しかし「洗練」の方向に向かわなければ、これはこれで…得てして「俗悪」だったり「陳腐」だったり単なる「刺激」だったりと、安手の方向に脱線してしまいがちだ。ともかくどちらに転んでも、表現は本来あるべき「純粋さ」「素朴さ」からどんどん程遠くなっていく。本当は人間の豊かな感情に訴えるべき「創造」が、それとはまったく逆の方向へと向かう。あるいは多くの人の心に届かない、難解で独りよがりなものになってしまう。またあるいは奇をてらった気取りやてらいになり下がってしまう。

 アノーは、それが我慢ならないのではないか。

 元来のコスモポリタンとしての経験から、彼はどんな民族やどんな文化にも「芯」のような共通性がある事を学んだはず。人間には「核心」とも言える野太い部分があると知ったはず。きっとそれらは、それぞれの民族や文化が持っている枝葉やディティールの部分…言語とか歴史とか宗教とか法律とか習慣とか流行り廃りとか…そんな「どうでもいいこと」を取っ払ったところにあるはずだ。

 それって何なのか?

 悲しい事があったら泣く、嬉しい事があったら笑う。そういう「当たり前」で「明快」な心の動きではないのか。コッテコテの「お涙頂戴」のどこが悪いのだ? バカを言ってもらっては困る。

 実はアノーが目指したのは間違いなくそこの部分だと思う。グレー・ゾーンの存在をイヤというほど知っていながら、あえてそれを無視してもいい、無視すべきだと考える…それこそがアノーという人の究極の合理主義者たるゆえんなのだ。

 そして「動物」というモノ言わぬ存在にそれを仮託しているのも、おそらくそのためだ。

 もちろん「動物」ドラマにしたからこそ、このお話は見るに値するものになった。イマドキこれをマトモにやっても相手にはされない。ドラマ自体に手垢が付きすぎてるし、演じる人間にもリアリティがなくなった。見る側だって素直に見れない。いろんな意味で賞味期限が切れてる。

 しかし、これを動物がリアルなアクションで見せたら…それは見るべき付加価値を十分備えたものになるだろう。それがこの作品の発想の原点にあった事は間違いない。

 だが、この映画が「動物」ドラマになった理由はもう一つある。

 この作品において、トラはまるで役者のように生き生きと動く。まるで何を言いたいか観客に分かるほどだ…とは言え、決して彼らが台詞を言わない以上、それが明確に細部まで分かるわけではない。でも、それでいいではないか。

 兄弟が別れ別れになって悲しい、兄弟がまた会えて嬉しい…たったそれだけで

 どうでもいい事なら他にもいろいろあるだろう。複雑で分かりにくい事もあるだろう。でも、これ以上のものはないのではないか。

 真に万人に伝えるに足る感情としては…。

 

見た後の付け足し

 この映画を見ているうち、僕はこの映画がデジタル・ハイビジョン・カメラで撮影されたらしいと気づいた。光と影のコントラストや激しい動きの際の画面のにじみ方やブレ方…そのあたりに、一種独特なものを感じたからね。

 そういやアノーって、大型画面のアイマックス映画初の劇映画作品「愛と勇気の翼」(1995)も手がけているんだよね。だから彼は最新テクノロジーを使う事にまったく躊躇しないパイオニア精神の持ち主でもある。デジタル・ハイビジョンだって、使って何の不思議もない。

 案の定エンディング・クレジットを見たら、やっぱりデジタル・ハイビジョンを使っていたようだ。

 ただ、そうなるとこの映画のトラの演技がCGによるものではないか…との疑惑も沸いてくる。アノー自身はあくまで100パーセントのトラの演技と断言していただけに、いささか気にもなってくるところだ。

 ただ僕は、ここはアノーのコメントの通りだと思う

 演技そのものはトラのもので、CGは一切使っていない。おそらくそのはずだ。それを貫徹してこその現代映画としての「付加価値」…とアノー自身は自覚しているはずだ。これがもしCGなら、それこそ何でもアリになってしまう。ありがたみも何もない。

 では、なぜデジタル・ハイビジョンが使われたか…と言えば、むしろトラの演技100パーセントだったがゆえ…だと思うんだよね。

 トラの演技というのは、「ヨーイ、スタート」で撮れるものではあるまい。すると、いつでもどこでもどんな状況でも、トラが芝居さえすれば撮れる条件を整えておかねばならない。その機動力のためにデジタル・ハイビジョンが必要だったのではないか。カメラのセッティング、ライティング、さらにはフィルムと違って何分でも回しっぱなしに出来ること…こう考えると、すべて「トラ待ち」にしなくてはならないこの映画には、デジタル・ハイビジョンこそが打ってつけと思わずにはいられない。

 そしておそらくは撮影場所も、映画の作り手が思うように都合良くはいかなかったろう。場面によってはトラの映像を切り抜いて、別の背景に合成した部分もあるのではないか? どうもそれくさい…と思わせる描写がいくつかあったしね。

 あとは天候や日差しがバラバラな映像を後で補正してつなげるなど…デジタル・ハイビジョンだからこそ出来る事ってのは結構いろいろ考えられるんだよね。そして、それであってもこの映画の価値は決して減じない。むしろ、デジタル・ハイビジョンの賢い使い方だと思うよ。技術とはこうやって使うモノだと思う。ハイ・テクノロジーを使ってすべてを徹底的に動物のアクションそのもので見せる…こんな偉業を成し遂げたからこそ、コテコテの「お涙ちょうだい」ドラマが現代に見事に蘇ったんだからね。

 テクノロジーを無意味に使いたがるのは空しい。でも、ヘンにこだわってテクノロジーを使う事を拒むのは愚かだ。そんな「どうでもいいこと」はアノーには関係ないはずだ。

 必要があるから使う…道具とはそういうものだろう。それこそが究極の合理主義だからね。

 

 

 

 

 

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