「父、帰る」

  Vozvrashchenie (The Return)

 (2004/10/11)


  

見る前の予想

 ロシア映画から新たな傑作登場。監督はアンドレイ・ズビャギンツェフ…って知るわけない。これは新人監督だ。長編第一作。それがいきなりヴェネチア映画祭の金獅子賞だ。

 お話は長く不在だった父親がいきなり戻ってきて、問答無用で息子である兄弟を旅へと連れて行く…。

 情報を入れたくないと言っても、イヤが上にもアレコレ聞こえてくる。父親はなぜいなくなっていたのか、なぜ戻ってきたのか、なぜ旅に兄弟を誘ったのか…それらは一切説明されない。ありとあらゆる説明的な描写がない。描写も物語もシンプルの極致。

 さらにはラストにちょっとした衝撃があるらしい。…な〜んだ、もう見ちゃった気になってきたよ。

 果たして、これで映画が2時間近くもつんだろうか?

 

あらすじ

 寒々とした湖。そこに少年が勢いよく飛び込む。

 少年は湖の畔に立った、目のくらむほど高い櫓の上から飛び込んだのだ。そして、その櫓には他に数人の海パン姿の少年たちが上がっていた。

 「早く飛び込め! 飛び込まない奴はクズだぞ

 一足先に飛び込んだ年長組の少年たちは、櫓の上の少年たちに叫ぶ。だが、櫓の上ではあまりの高さにビビッて、足がすくむ者もいた。小さいイワン(イワン・ドブロノラヴォフ)もそんな一人。ビビる少年たちが、それでも嘲笑されるのに耐えかねて一人また一人と飛び込む中、イワンだけはますます萎縮して青ざめるばかり。先に飛び込んだ兄アンドレイ(ウラジーミル・ガーリン)は弟をかばって「今、心の準備中」などと言っているが、イワンは一向に飛び込む気配がない。「早く飛び込め」とか「置いていくぞ」とか言われても、イワンはすっかり怯えきって水面に背を向けてしまう。結局周りの目を気にする兄アンドレイは、弟を櫓の上に置いたまま帰ってしまった。後には歯をガチガチいわせているイワンがたった一人…。

 どんどん時間が経つ。しまいには日も暮れていく。イワンの母親(ナタリア・ヴドヴィナ)が心配して櫓までやって来た。櫓を上って来た母親は、イワンに降りて来いと言う。ハシゴで降りてきたら「クズ」だと言われるとしぶるイワンだが、母親はそんな彼を優しく説得する。そんな母親の言葉に安堵のあまり泣き出すイワン。彼は本当に心底怯えきっていたのだ。

 だが翌日イワンがみんなの遊んでいる場所に行くと、誰もがなぜかよそよそしい。あげく年長の少年がイワンを「クズ」呼ばわり。イワンにはすぐピンと来た。兄アンドレイがみんなにしゃべったのだ。オドオドした態度がすべてを物語っている。

 「よくも言ったな!」

 イワンは兄アンドレイとつかみ合いの大ゲンカ。「ママに言いつけてやる!」と叫ぶイワンに、「オレに追いついてみろ」と挑発するアンドレイ。かくして兄と弟の家までの競争が始まった。

 走って走って走って…。

 汗だくで火照りながら走って…ほぼ同時で家の玄関に辿り着いたイワンとアンドレイは、そこに物憂げに佇む母親に異口同音に直訴した。「ママ、こいつ僕を殴ったんだ!」「僕の服を破った!」

 だが母親は二人にお構いなしに言った。「静かにして。パパが寝ているわ

 パパ…?

 イワンもアンドレイも口をあんぐり開けて唖然。「パパが…?」

 慌てて家の中に入っていくと、ベッドに無精ヒゲの中年男が眠っていた。頭の中が真っ白の兄弟。やがて弟イワンが我に返り、屋根裏部屋へと走っていく。彼はそこにしまってある本の一冊を手に取り、中に挟んであった古い写真を手に取った。そこには母親がまだ若い頃の姿と幼い兄弟…そして一緒に写っている若い男の顔は…。

 「やっぱりパパだ!」

 後から屋根裏部屋にやって来た兄アンドレイが叫んだ。そう、父親が帰ってきた。兄弟がまだ幼い頃に家を去った父親が、ようやく帰ってきたのだ。

 目覚めた父親(コンンスタンチン・ラヴロネンコ)は母親や祖母を差し置いて、家長然として夕食の食卓を仕切る。そんな父親に、母親も祖母も何も言わない。

 あげく父親は、兄弟に一方的に宣言だ。「オマエたちを連れて旅に出る。明日出発だ」

 その夜、兄弟はワクワクして眠れない。カメラも持っていこう日記帳も持っていこう…アレコレと楽しい計画を練る二人。

 そんな二人を静かに見つめる母親。

 夫婦は久しぶりに同じベッドに身を横たえる。何がしかの期待を持っていたであろう妻ではあったが、夫はそのまま眠りに就くだけだった…。

 さて、ワクワクするドライブが始まった。

 だが、早速イワンはいささか戸惑いを感じる。たまたま「何?」と父親に尋ねたところ、その言葉がお気に召さなかったようだ。「“何、パパ?”…と言え。息子だったら息子らしい言葉使いをしろ

 思えばこれがつまづきの始まりだったか。

 行く先々で電話をかけているのも怪しげだが、どことなく高圧的なのも気になる。だがそんなイワンの疑念をよそに、兄アンドレイは単純に父親との旅を喜んでいた。

 昼飯を食おうと思っていた店は閉店。予定が狂った父親は、アンドレイに店を探しに行かせる。車内には父親とイワンの二人だけ。その間、バックミラーで通りを行き交う女の尻を観察している父親の挙動に、イワンは醒めたものを感じずにはいられない

 アンドレイはいつまで経っても戻らない。実は彼はとっくに店を見つけていながら、途中でアイスクリームなど食べてほっつき歩いていたのだ。待ちきれずに店を探し始めた父親は、アンドレイを見つけて手厳しくお灸を据える。それを見ていたイワンは、それまでの疑念が抑えきれなくなってきた。ファミレスに行こうとする父親に、イワンはキッパリと言い放つ。

 「食べたくない」

 だがそんなイワンの言い分は一切無視。父親は兄弟をファミレスに連れて行く。もちろんイワンも無理矢理引きずっていく。イワンもイワンで強情な子だから、頼んだ料理にまったく口を付けない。こうなると意地の張り合い突っ張り合いだ。

 ファミレスを出ると再び電話をかけに行く父親。勘定は兄アンドレイに頼み、自分の財布を預けた。ところが店を出たところで、街の不良が寄ってくる。アッという間に絡まれて、財布を盗まれる兄弟だった。

 ちょうど財布を盗まれたところに、父親が戻ってくる。「何をやってるんだ、だらしない!」

 兄アンドレイがいくら言い訳しても、父親は「だらしない」の一点張り。これには弟イワンもカチンと来た。「見てたんなら助けに来ればいいじゃないか!」

 ともかく父親はクルマで不良たちの後を追った。兄弟は街角で為す術もなく待ち続ける事になった。しばらくしてクルマで戻ってきた父親は、不良の一人を連れていた。彼は驚く兄弟の前に、この不良を突き出した。

 「やられたらやり返せ!」

 だが、兄弟はもうどうでも良かった。それに「殴れ」と言われて無抵抗な相手を殴れるほど無神経でもなかった。そんな兄弟に、父親はまたしても「情けない!」と悪態をつくのだった。

 しかも父親は言うに事欠いて、ここからバスで家に帰れと言い出す。どうも先ほどの電話で用事が出来たらしい。これにはさすがにイワンも堪忍袋の緒が切れた。

 「じゃあ次の旅行はまた12年後かい!

 こうしてフテくされてバスに乗り込む兄弟。ところが父親はそんな二人を再び呼び戻した。どうせならオレの用事に付き合え。最初は2日の予定だったが、後3日延びても構うまい。この申し出に兄アンドレイはまたまた単純に喜んだ。だが弟イワンは素直に賛同できない。それでも父親はお構いなしに二人をクルマに乗せた。さて、これからどこへ行くのか?

 やがて父親はある港に辿り着くと、兄弟には内緒の用事を済ませに行く。その港で何者かと落ち合い、何やら打ち合わせをしている。港では船から何やらを運び出している。どうも怪しい雰囲気が濃厚だ。

 さて、そんなこんなでも湖に連れてこられれば、兄弟二人ともすっかりご満悦だからまだ無邪気なものだ。早速持参した釣りセットを持ち出して釣って釣って釣りまくる。あまりに釣れ放題なので楽しくってしょうがない。

 だが折角釣れた魚を、父親は食べようとはしなかった。湖畔にテントを立てて焚き火を起こしながら、そこで焼こうともしない。聞けば「もう魚は食い飽きた」と言葉を濁すばかりだ。あげく兄弟のテントの張り方にケチをつけるアリサマ。

 テントの中で横になった弟イワンは、そんな父親への疑念を露わにする。兄アンドレイは何だかんだ言って父親と一緒なのは嬉しいから、弟がいちいちケチをつけるのが気に入らない。だがイワンは父親への不信感で一杯だ。兄アンドレイが父親に「媚びている」のも気に入らない。そもそもアレは本当に父親なのか? もう早く家に帰りたい…。

 翌朝、イワンは昨日の釣りの続きを始める。またまた入れ食い状態で釣れまくるイワン。ところがいきなり父親が、出発すると言い出した。これからって時に水を差されて、イワンはまたしてもブーたれる。「ケッ、パパの命令かよ」

 その後もクルマの中でブツブツ文句を繰り返すイワン。なんだよ勝手な都合で中断なんて折角いいところだったのにこれからってところだったんだエサも無駄になったし大物を釣れる予感もあったのに調子が出たところでこれじゃやってられないよ…。

 クルマがいきなり停車した。

 父親はドアを開けると、釣りセットを持ち出してイワンを車外に連れ出した。「やかましい! そんなに釣りたきゃ一人で釣ってろ!

 そしてイワンを人っ子一人いない道に置き去りにすると、クルマはアンドレイと父親を乗せて彼方へと去っていった。

 辺りは誰もいない。

 集落もない。人家もない。何もない。まったく何にもないど田舎だ。

 時折、長距離トラックが爆音を立てて通りかかるが、そんなのもマレな事だ。あとは通りかかるクルマさえない。本当に何もない。

 そんな道ばたに、イワンは独りぼっち

 そのうち土砂降りの雨が降ってくる。当然道ばたには雨宿りする場所もない。土砂降り雨を頭からかぶって、ズブ濡れになったイワン。彼は道ばたで寒さに震えながら、ただただ体育座りして耐えるしかなかった。

 そこに…激しい警笛の音。

 父親とアンドレイを乗せたクルマが戻ってきたのだ。乗り込んだイワンに、父親は何もなかったように平静な様子で話しかける。「濡れた服を着替えろ」

 またまたイワンがブチッとキレた。

 「アンタなしで今までうまくやってたんだ。どうして今頃帰ってきたんだよ!

 このイワンの怒り心頭には、さすがの父親も少しはこたえたのだろうか。母親に提案されたから旅に出る事にした…とか、しどろもどろながら答える父親。だが、それはまるで答えになってない。

 「何でだよ? 僕らをイジメるためにか?

 やがて雨はさらに激しさを増していく。道の状態も悪くなっていく。ついにはタイヤがぬかるみにハマり、空回りして抜け出せなくなるテイタラクだ。仕方なく父親は、兄弟にクルマから降りて手伝うように命じた。

 タイヤの下に葉のついた木の枝を挟む。アンドレイもやってみるが、父親はその手際の悪さが気に入らない。「何をやってるんだ!」といきなり声を荒げたあげく、アンドレイの頭を一発小突く。鼻血を垂らしたアンドレイを見て弟のイワンは、「これで目が覚めたろ?」と言わんばかりだ。

 ところがクルマを押し出す際に運転席に座らせられたアンドレイ。何とかぬかるみから脱出するや父親にホメられ、さっきの事など忘れたかのようにご機嫌なのにはイワンも呆れた。

 さて、そんなこんなで一行は、どうやら目的地らしい場所へとやって来た。それは人けのない海岸だ。そこにボロボロのボートが横たわっている。父親は近くの道具小屋からタールを見つけだし、それを溶かしてアンドレイと共にボートの船底に塗り始めた。もちろん水が漏れないようにするため…このボートを使って、父親は海に浮かぶ島へと行こうとしていたのだ。

 やがてタール塗りが完了したボートに、父親は持参した船外機を装着した。これで即席のモーターボートの出来上がりだ。早速ボートを海面に浮かべて、大海原へと乗り出していく。

 ところが…船外機の調子が思わしくない。途中で停まって動かなくなってしまう。おまけに悪いことに、遠くで雷鳴が聞こえてくるではないか。父親は兄弟にオールを持つように命じる。「オレの号令に合わせてちゃんと漕げ!」

 イワンが「そんな事言うならテメエで漕げ」と抗議しても聞く耳を持たない。父親が「1、2!」と号令をかけるのに合わせて、兄弟が汗垂らして漕ぐ。父親はただ声をかけるだけ。やがて雨が降ってくるが、それでもまだまだ漕ぎ続ける。

 「1、2! 1、2!」

 兄弟がもう泣きそうになった頃、やっとボートは島に到着する。もうイワンは爆発寸前。ご機嫌なのは父親だけ。兄弟の手はボート漕ぎでマメだらけになっていた。

 兄アンドレイは不満を漏らしつつも父親についていくのだが、弟イワンはもう耐えられない。その目つきはシャレにならなくなっていく。「この次、オレに触ったら殺す!」

 あげくイワンは、いつの間にか父親のナイフを盗んでいた。兄アンドレイはビビるが弟イワンの怒りを止める事は出来ない。万事がそんな調子だから、父親が島の探険に誘ってもイワンは乗ってこない。それでも無理矢理連れて行かれ、渋々ついていくイワン。一行は林を抜けていく。

 島の中央部には原っぱがあり、そこにはなぜか古びた高い鉄塔が建っていた

 そこから上に登る父親と兄アンドレイ。だが弟イワンは下にとどまる。それは反抗というよりは単に高い所が苦手なゆえだったが、そんな事は父親には分かるはずもない。

 どうも島は無人島のようだ。

 さてイワンがその調子なら父親も父親。メシを食うのが遅いと言って、皿洗いを押しつける。怒ったイワンは父親の皿を海に投げ捨てて溜飲を下げる…といった具合に怒りはエスカレートする一方だ。

 さてそんな兄弟が二人で遊んでいる頃、父親は一人で島の奥へ。そこには古い小屋が建っていたが、父親は黙々とその土間をシャベルで掘り出した。掘って掘って…まるで墓穴ほども掘ったかと思ったころ、父親は埋まっている小さな箱を掘り出した…。

 兄弟は…というと、釣りをするためのエサを探して右往左往。偶然、父親が穴を掘った小屋まで辿り着くと、掘られた穴にミミズがウジャウジャわき出しているのを見つける。やった!…これで釣りが出来るぞ!

 喜び勇んでボートで漕ぎ出そうとする兄弟を、父親が呼び止める。「3時までに戻ってこい。この時計を貸してやる」

 そんな父親にいちいち「はい、パパ!」と答える兄アンドレイを、弟イワンはバカにし始めた。「はい、パパ!…ケッ、やってらんねえな」

 だがその日は兄弟にとってツキのない日だったのか。いくら釣り糸を垂らしても釣れない。そろそろ時間だ…と兄アンドレイが切り上げようとしても、弟イワンは「場所を変えよう」と帰ろうとしない。実際アンドレイもまだまだ釣りたいのが本音だし、さっきの「はい、パパ!」発言の余韻もあった。かくしてイワンの「もうちょっとぐらい…」の話に乗ってしまったのが運の尽き…。

 兄弟が大魚を釣り上げて戻ってきたのは、もう日も暮れ始めた7時。岸に戻ってきた兄弟に、案の定父親は厳しい表情で迫ってきた。「今、一体何時だ? 何のために時計を渡した?」

 兄アンドレイが言い訳しようとすると、横っ面に張り手が飛んできた。一言言おうとすれば、もう一発。さらにもう一発。弟イワンが「自分のせいだ」と止めようとしても聞かない。さらにアンドレイの顔に一発、二発、三発。情け容赦なくパンチが飛んでくる。ついにイワンの怒りは限界を超えた。ブチギレたイワンは激しく絶叫する。

 「やめろ! アンドレイを離さないと殺すぞ!

 そこには泣き叫びながらナイフをかざす、思い詰めたイワンの姿があった。ただならぬ状況に父親が気づいた時にはもう遅い。イワンは泣き叫びながら今までの思いの丈をブチまける。うまくやっていければ仲良くなれたのに。もうすべておしまいだ。オマエなんかいらない、いなくなっちまえばいいんだ!

 こう叫ぶとナイフを投げ捨て、イワンは島の奥へ夢中で駆けだしていく。父親は慌ててその後を追った。遅ればせながらアンドレイも二人を追う。一行は森を駆け抜けて、あの鉄塔がある原っぱへ。

 「待て! 誤解なんだ」

 五階も六階もあるか…と思ったかどうか、イワンはなぜかあれほど怯えた鉄塔に衝動的に登っていく。慌てて父親も登っていく。怖いはずなのに怒りにまかせて、イワンは頂上まで登っていく。てっぺんまで来ると下から登ってくる父親を遮るために、屋上の扉を塞いでしまう。イワンは鉄塔の屋上で、まるで勝ち誇ったように叫び狂った。

 「オレだって出来るんだ、オレは何でも出来るんだぞ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での一般的感想

 見た後、誰しもが強烈な衝撃を感じる作品だろうね。

 で、徹底的にシンプルに刈り込んだ物語設定が効いていると分かる。無駄がない…というのか、とにかく普通なら説明されるであろうことまで、語られない事が多い。ナゾはナゾのままで放置される。そこに余韻や考える余地がある。

 徹底的に単純化を行ったおかげで、お話は抽象化、象徴化、寓話化した。父親と息子の永遠のテーマを、普遍化して描いたように見えた。

 映像も「銀のこし」という現像上の技術のようだが、ニブい色合いで硬派で冷たい感触を出している。カラー・フィルムながら限りなくモノクロに近い効果を出しているので、これまた絞りに絞った寡黙な表現に見える。

 イマドキの饒舌な表現の極北にあるシンプルな映画で、だからこそ雄弁に物語るものがある。

 

見た後での個人的感想

 …ってなところまでは、誰でも感じる事だろう。これくらいなら映画を見なくても言える。実際に世の中にあまた溢れたこの映画のレビュー、批評、感想の類は、これらから一歩も出ていかない内容だったのではないか?

 じゃあここから僕の「本音」を語っていこうか。そういう「借り物」の言葉じゃなくて、僕の本当に感じたところをね。

 まずは上記したこの映画の要素の中で、僕があえて語らなかった事がある。それはこの映画に散見される「キリスト教的」要素の数々だ。実際この映画の劇場パンフレットに書かれたレビューやら新聞雑誌の記事、そして監督自身のさまざまなインタビューやコメント類には、そんな「キリスト教」的要素がイヤというほど語られている。映画の冒頭、ベッドで眠っている父親の姿が「死せるキリスト」の絵画の構図とそのものだとか、そんな父親の写真が聖書に挟んであるとか…まぁ、そんなような事だ。

 それについては僕もチラチラと感じないでもないけれど、生憎とキリスト教的イメージには疎いからあえて考えないようにした。というか、そういうメタファーだとすると、この映画って大して面白いものとは思えない。パンフに書かれたレビューには父と子のドラマの中に旧ソビエト連邦とかペレストロイカとかロシアとかのメタファーが入っているとか語っていたものもあったけど、これも同様な理由であまり意味があるとは思えない。

 なぜなら…そういう図式的な「絵解き」に終始したら、映画って単なる「暗号解読」みたいなモノにしかならないからだ。それではあまりにつまらなすぎる。

 第一、それじゃ「饒舌の極北にあるシンプルさ」ってのと裏腹じゃないだろうか。

 ソ連だペレストロイカだってメタファーはどうか知らないが、劇場パンフの記事やインタビューを読んでいたら、実はこの映画の監督アンドレイ・ズビャギンツェフってかなり饒舌に「キリスト教」的要素について語っているんだよね

 兄弟の名前アンドレイとイワンはキリストの弟子の名前だ…とか、家族でメシを食う場面は「最後の晩餐」だ…とか、他の要素について聞かれると「どうでもいいじゃないか」とか「ナゾはナゾのままで」とかはぐらかしているのに、「キリスト教」的要素についてはアレコレと得意げに語っている。どうだ、こんなにいろいろ考えて入れているんだぞ…ってな風に。何だかますます「饒舌とは極北のシンプル」からほど遠くなっていく。まるで押井守がイノセンスの中で、アレコレとウンチクをムキになって詰め込んでいたのに似ている。何だかヤボてんなんだよねぇ。

 で、こんなに語りたがっているからこそ…僕はこれって怪しいと思ってしまった

 この映画の「キリスト教」的メタファーって、後から頭で考えてペタペタと貼っつけたものじゃないか。僕はそう思った。無意味とまでは言わないが、本当にこの監督がやりたかった事ではあるまい。むしろ本当にやりたかった事がモロにバレないように、必死に何かをペタペタ貼って誤魔化したんじゃないか? だってそうでなければ、この映画の妙に研ぎ澄まされたような部分と「キリスト教」的部分って、あまりに落差がデカ過ぎる。ミニマライズして研ぎ澄ましていく映画づくりだとするならば、この「キリスト教」的部分はあまりにレアで「そのまんま」で単純だ。監督自身が口でしゃべったって問題ないような要素でしかない。しゃべっちゃうという事自体、この映画にとっては大した意味がないって事だと思うよ。もし意味があるなら、それは映画自身に語らせるだろう

 まぁ、実はこの監督って作品が観客にイメージさせるほど思索型の人間ではなく、実は結構「お調子者」かもしれない可能性はある(笑)。

 この映画って元々の脚本段階では犯罪サスペンスだったってどこかで語られていたけど、それは間違いないようだ。実際に父親の描写はかなりミステリアスで、終盤にそれなりの解決なりアクションなりが描かれれば、この映画は本当にサスペンス映画としてカテゴライズされただろう。今の段階でもサスペンス映画として考えていい。実際、他のロシアのアート系映画などと比べてキビキビした演出には緩みがなく、そういった意味でも無駄はないのだ。観客はドキドキしながら面白く見ていられる。

 おそらくはこの監督ズビャギンツェフって、犯罪サスペンス然とした脚本を一読した後で、これはちょっといじればそれ以上のモノになるぞ…と思ったのかもしれない。それから彼がやった事は、完成品を見れば想像に難くない。犯罪サスペンス脚本の「犯罪サスペンス」的な要素を単純に削ったのではないか。拳銃はカット、殺しもカット、カー・チェイスやアクション場面もカット。悪党仲間との打ち合わせや内輪もめや裏切りは、場面そのものをカットするか遠くから音声なしで撮影してしまう。お宝は出すけども、それは何か…についての説明はカット。犯罪の犯行場面やヤマ場もカット…そこに辿り着く前に父子のドラマで終わらせてしまう。このズビャギンツェフってアントニオーニが好きだってどこかでしゃべってたから、アントニオーニ作品の「あえて語らない」やり方を踏襲すればナゾめいた余韻が出てくると踏んだに違いない。あるいは観客が勝手に解釈して、あわよくば犯罪サスペンスよりも「高級」で「芸術的」な何かに思い込んでくれる可能性だってあるぞ…。

 この映画のキビキビとした展開を見ていると、アート系作品にありがちな「持って回ったまわりくどさやら変な抽象性」から、この映画がほど遠いところにある事が伺えるのだ。たぶん、この映画って元々サスペンス映画だし、今だって本当はサスペンス映画なんだと思うよ。それ「以上」の何かに見えるのは観客が勝手にふくらましているからだし、そこが「難解さ」に見えるからだと思うよ。

 やっぱりヨーロッパのアート系の映画ってのは、どこか「難解」でメタファーを含んだ「抽象性」を持つものだという先入観があるではないか。

 でもこの映画の「難解」と思える部分は、実は別に難解でも何でもない。本来は語られるべきものが語られてないだけの話だ。だって穴掘って掘り出した「お宝」が何か…まったく描かれないならば、それって意味がないって事になる。でもその割には、ボートにその「お宝」を隠すなんて描写をキチンと入れたりしているんだよね。「お宝」が無意味なら、そこに関わる描写すべてが無意味って事になりはしないか。それって本来の映画のセオリーから見ると、あり得ない事なんだよね。

 映画の上映時間って大概がたったの2時間だけ。本当ならそこで描かれるものは、選りすぐられた要素であるべきだ。これは描かなければ…という必然性のある要素以外は登場しないはずだ。本当は無意味なモノなんて入る余地がないんだよ。

 元々の脚本は犯罪サスペンスだから、その「お宝」の中身も描かれていたはず。そこをズビャギンツェフはバッサリとカットしてしまったんじゃないか。犯罪サスペンスのお話の中の「父と子」という一要素だけをクローズアップしたかったから、他の要素はどうでもよかったのだ。そして、その「断片」だけ残っていれば、どこかナゾめいて意味ありげに見えるはず。そして父親をミステリアスに見せるための役にも立つだろう。おそらくズビャギンツェフはこう計算したに違いない。

 映画に描かれる要素は、本来は何か意味があるはずだ。誰だってそう思う。だから観客は勝手に深読みをする。結果、何か素晴らしい深みのある思索的な事が描かれているような「気」がする。

 映画の周囲に本当は大して興味もなかったはずの「キリスト教」的メタファーをわざとらしく後で散らばしたのも、そういった目くらましのためだ。その「わざとらしさ」から見ても、本来あったものでない事は明らかだ。それらが実に…「キリスト教」に明るくない僕でも何となく分かるくらい…「分かりやすい」メタファーなのも、みんながそれに引っかかって欲しいからだ。それらの撒き餌である「キリスト教」メタファーに食いついた観客は、もはや意味を失ったサスペンス映画要素の残骸をも、何かの「メタファー」に違いないと錯覚してくれるはずだ。そうなればエサに食いついた観客たちが、自分で勝手に映画にハクをつけてくれる。

 そう考えてみると…この映画にやたら「釣り」だとか「エサ」が登場してくる事の方が、よっぽど観客に対するメタファーかもしれないよ。オレはオマエらを引っかけてるんだぜって(笑)。

 そういう意味じゃ、この監督ズビャギンツェフってハッキリ言って過大評価されていると僕は思う。いきなり大胆な言い方をして閉口されるかもしれないが、作品に残る様々な要素の断片を観察していくとそう見える。彼がやった事は巧みだが、その「実際にやった事」より以上に高く評価されている。僕にはそうにしか思えないんだよね。

 そういう意味では、ズビャギンツェフってアントニオーニというよりも、ヴィレッジM・ナイト・シャマランと並べて語られるべき人物だと思うよ。おそらくはかなりハッタリ要素が強いと思う。そして先ほど指摘した部分…無意味に放置した要素の残骸のように、映画づくりの本道から見れば破綻した部分もあるはずだ。これはおそらく彼の第二作が発表された時に明らかになると思うよ。これは僕の予言だ。僕から彼への最大の賛辞は…だから「うまくやったな」って言葉だと思う。

 では、僕はこの映画を否定的に見ているのか?

 いや、違う。

 僕はこの題材で、かくも父と子のドラマを濃厚に描ききったという発想に、卓抜したものを感じている。元々ドラマにあったものの枝葉を刈り込んで、その断片だけ残す…という映画づくりは、確かに映画のセオリーから見たらいかがなものかとは思うが、この場合には実に有効に機能した。だからこの映画が高く評価される事には何ら異存はない。ただ僕はこの映画に寄せられている好評に対して、評価すべき点が違うだろう…と言いたいだけなのだ。

 映画のセオリーからすれば破綻以外の何者でもない映画づくりではあるが、作品そのものは観客にダイレクトに迫ってくる…という点が、何よりこの映画の尋常ならざるところだ。だって単に要素を刈り込んだだけではこうはならない。だが確かにサスペンス映画的要素を刈り込む過程で、徹底的に「原因」「理由」「真相」「結果」…の部分が欠落した。これが父子の関係…もっと言えば「他者」との関係を描く上での圧倒的なリアリティの原動力となった。

 こうは言えないだろうか? 息子にとって父とは、父にとって息子とは、圧倒的に不条理なものだ。それは弟にとっての兄、兄にとっての弟も同じだろう。他者とは常に「不条理」なものなのだ。常に「なぜ?」と心の中で問いながら、僕らは毎日を生きている。他者を理解できずに我慢している。他者とイヤイヤ付き合っている。「父」と「子」とはそうした人間関係の最小単位…ミニマルの象徴だろう。この映画はそんな「他者」とのウンザリする関係を、その鬱陶しさを、これまでにない「ナマ」さで描き出しているのだ。

 この監督ズビャギンツェフ…これが長編映画デビュー作だというが…が、そこまで読んでやったかどうかは分からない。だからヘタすると第二作は大コケの可能性がある。これは結果を見てみるしかないな。単にミニマライズだけでは、こうした結果は得られないからね。

 でもこの映画は圧倒的「ナマ」の実感を、映画としてのあるべき姿…セオリーをあえて崩す事によって獲得した。偶然の産物かどうか分からないが、それによってこの映画は特別なモノになったのだ。そのあたりを考えると…この「父、帰る」も明らかに、僕がCODE 46感想文で触れた“新しい映画の傾向”の中にある。

 むしろそうした作品の中でも、「構成の破綻と表現のナマさ」が極めて分かりやすいカタチで表現された作品ではないか。僕にはそう思えるんだよね。

 

見た後の付け足し

 先にも挙げたように、この映画には「父と息子」という間柄の不条理さが、これでもか…という程描かれているんだよね。

 息子からはいきなり現れたあげく万事テメエのペースで進めていく父親が、何とも腹立たしくて仕方がない。父親らしい事もしてこなかったくせに、いきなり「パパと呼べ」などと指図してくるのも面白くない。しかも人にあれやれこれやれとうるさい割にはテメエに甘い。そのへんズバッと突いてやると手が飛んでくる。…とまぁ、不愉快この上ない存在だ。映画は終始この息子側…それもより反抗的な弟の方からの視線で見ているので、この父親がとんでもない奴に見えるのだ。

 だがこの父親、やっていることをつぶさに見ていくと、さほど無茶な事を言ったりやったりしている訳ではない。少なくともやってる事の半分以上はスジが通っている。父親が怒る時は、大体が子供が時間や約束を守らない時。食べたくないとフテった弟を無理矢理食事に連れて行くのも、どうせ後で腹減ったと言い出すに決まっているからだ。そして案の定、後になってから弟は腹減ったとこぼす。

 考えてみればテントを張らせるのも、ぬかるみからクルマを抜け出させるのも、ボートを漕がせるのも、父親が息子に「男のノウハウ」を伝授しているようにも見える。現に終盤には、それは皮肉なカタチで役立ったりしているのだ。確かに父親は、息子に何かを伝えよう教えようとして接していたのかもしれない。まず「パパ」と呼べと言うのは、力関係をハッキリさせておくのがよいと思ったからだろう。子供にナメられた大人など見るに耐えない。まして子供のご機嫌とりなどもっての他だ。

 だが力的にも経験値的にも息子より遙かに勝る父親は、自分の一挙手一投足がどれほど息子にとって高圧的なものになっているかを想像できない。単純にクルマで遠くまで連れてこられた息子たちには、実はもう逆らう術などないのだ。おまけに父親といっても人間だから、都合が悪くなると自分の事は棚に上げる。これがいかに不平等な人間関係かは、不平等を強いている側には分からない。そもそも人間は、自分に都合の悪い事は考えない。まぁ、親子関係とはこんなものなのだ。

 一方、子供の方も子供の方で、約束を破ろうがズルをしようが、テメエが悪いなんてこれっぽっちも思わない。それまで父親がいなくて好き放題に出来たのに、それをとやかく言う「うるさい存在」が新たに出来たとしか感じられない。ここでもまた、人間は自分の都合の悪い事は考えようとしないものなのだ。

 ところがこういう不条理さは「父と息子」だけでなく、「兄と弟」の間にもある。

 そもそも父親との距離感にすら、兄と弟では微妙に違いがある。兄はある程度父親に従順で、弟は最初からよそよそしい。しまいには憎悪にまでエスカレートしていく。それは…兄が父親の記憶をわずかながらも保っている(であろうと思われる)のに対して、弟はまったく何の記憶も持っていないからではないか。弟にはこの男が父親である実感がない。よその男にズケズケ文句を言われて、嬉しい奴などいないだろう。まずはそこに距離感の違いがある。

 さらに兄はいくらか年齢が高く世間的な分別もあり、その場を丸く収めようという気持ちもある。さらにはいくらか父親の年齢に近い。気持ちも想像しようとすれば出来ない事はないのだ。だが弟はいまだに子供の世界にいて、場を丸く収めようなんて思惑もない。父親の気持ちも分かりようがない。ここでも立ち位置が微妙に変わってくるはずだ。

 まして元々の性格の違いもある。映画の冒頭で弟が飛び込みが出来ずにいた時に、兄は周りの仲間の声に押し切られて、結局は弟を見捨てるカタチになった。付和雷同、体面重視、協調性重視の人間だ。弟は逆に自分がすべてだ。だから見栄だけでは水に飛び込めない。他の子供たち…特に兄は、高い場所よりも仲間の視線が怖かったから飛び込めた。だが弟は臆病というよりも、それだけ自分の感情に忠実だから飛び込めなかった。だから兄は何かと父親を立てる。それに対して弟は、兄を媚びてると批判すらするのだ。

 どうだろう。これほど各人は異なる。それぞれが間違っているとも言えない。それなりに言い分もある。だが三人は真っ向から食い違うのだ。共存などあり得ないほどに…。

 実はねぇ、僕はこれって「父と息子」の話だと思ってないんだよね

 それこそ先に挙げたメタファーの話じゃないけど、アベルとカインとかそのへんが引き合いに出されそうなお話だ。だけど僕はこう思う。人間対人間の最小単位は親子だ。その親子でも最も違和感がないはずなのが「同性」…父と息子というものだろう。そこに兄弟という緩衝剤もある。それなのに、かくも人間関係とはうまくいかない。カタストロフまで行き着いてしまう。

 いわんや他人においてをや…。

 僕はこの映画を見ていた時、無性に自分の今までの人生における他人との付き合い方を思い出していたよ。その詳しい中身については秘密だが(笑)、自分が他人とのガチンコ勝負を避けて来たことや、その理由がどこにあるのかということ…について、アレコレ考えてしまった。

 思えば僕は、今までハッキリ誰かに直言した事ってなかったな。誰かに怒ってズバッと言った事ってほとんどない。付き合っていた女にだって、腹の底から怒って怒鳴った事は一度か二度しかない。だから他の人々に対しては、ほとんど声を荒げた事などなかったよ。

 いつも出来る限りは我慢して目をつぶって無視した。それが飽和状態に達したらバッサリ切った。二度と会わなかった。他人として相手にしなかった。相手は突然で怒り狂い、アレコレある事ない事そこら中に言いまくったりする。でも僕は何の説明もしなかったな。

 それにはいろいろ理由がある。一つや二つではないよ。僕が善人だったからでも気弱だったからでも、平和主義者だったからでもない。その理由をここでいちいち並べるつもりはない。

 だが、この映画の弟役の少年…イワン・ドブロノラヴォフを見ていたら、そんな自分のアレコレを思い出したんだよね。

 ここでのイワン少年は、実にいい。終始フテくされた態度で、不敵なツラ構え。まったく妥協の余地がない振る舞い。この正直さが実に良いんだ。

 おまけにここぞという時に口から飛び出すセリフの数々たるや! まさに相手が一番イヤがるタイミングで、一番痛いところを痛打する。その小気味よさがたまらないんだよね。なぜか僕はこの沈痛で重い映画を、痛快な気分で見終えてしまった。その最大の原因はイワン少年にある。

 僕も彼になりたかった。

 僕も思ったまま、相手にぶつかっていけば良かった。今更そう思っても手遅れだ。この年齢でキャラを変える訳にもいかない。そうしたっていい結果になったかどうか分からない。人には器というものがあるからね。だから「まんま」マネしたってダメだろう。

 それでも…僕は彼を見ていて、実に小気味よい思いをしたよ。スカッとした。言いたい事を言ってくれた気がした。僕は今まで自分が黙って切り捨てて来た人々に、こんな風にズバッと言いたかったんだよね。いやぁ、素晴らしかった。それくらい惚れ惚れするほどの見事な怒りっぷりだった。

 これがこの映画の正しい味わい方かどうかは分からない。でも、この少年の怒りっぷりは一見に値するよ。僕はこれだけでも、入場料は惜しくなかったな。

 

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME