「スウィングガールズ」

  Swing Girls

 (2004/10/11)


  

今回のマクラ

 僕は昔から音楽がらみの映画が好きだ。ミュージカルっていうわけじゃないよ。バックステージものっていうのかね、楽屋ものというか。日本で言えば「芸道」ものって事になるんだろうか。実際、考えてみれば成瀬巳喜男の「鶴八鶴次郎」(1938)でさえ好きだもんね。ショービジネスの話が好きだから、そういう映画っていうとワクワクしてしまう。

 そしてチームものってのも好きなんだよね。それはスポーツだったり特殊任務を帯びた軍隊だったり、あるいは詐欺師の集団でもいいんだけど、そういうチームのドラマってのが好き。

 だからバンドもの映画とくるとたまらない。

 アラン・パーカーの「ザ・コミットメンツ」(1991)なんて、完全に僕の好みの映画だね。元々アラン・パーカーは音楽センスがあるから、見応えのある映画になっている。ただねぇ…この映画って「面白うて、やがて哀しき…」って感じの、ホロ苦いエンディングになってるよね。それはそれでいいんだけど、僕はスカッとハッピーエンドで終わるバンド映画ってやつを見たかった。

 いや…ここだけの話、実は自分でつくってみたかった

 こんな恥ずかしい話を告白するのもつらいが、僕はかつて自分でもよせばいいのにいろいろ物語をつくろうとしていた時期があるのだ。今回は恥を忍んで打ち明けるけどね。そんな中に、バンドの物語もあったと思っていただきたい。

 そうだ、ロックバンドの話はどうだろう? それもダメな奴らばかりで。そいつらはとてもじゃないがバンドなんかやる柄じゃなくて、そもそも一緒にいるようなメンツじゃないことにしたらどうだ? それが如何ともし難い理由でバンドをやらなきゃならなくなる。そのうち連中の意外な素顔が出てきたりする。それからロックの生き字引みたいな年長者を出して、「スター・ウォーズ」(1977)で言えばルーク・スカイウォーカーにとってのオビ・ワンみたいな存在にしてバンドの連中を導かせよう。この年長者はかつてロックバンドで成功しながら挫折した奴にすれば、物語の微妙なアクセントになるぞ。こういう年長者は何か名言を言うはずだ。そうだ、「ロックは継続だ、キープ・オン・ロッキング!」…これを座右の銘にすればいい。この言葉が、何も長続きしたことがなかった主人公たちを叱咤するのだ。もちろん最初は演奏もどヘタだ。おまけに反目したりギクシャクしたりするんだけど、だんだんコンビネーションが良くなっていく。途中何か挫折があってバンドは崩壊寸前までいくんだけど、それもメンバーは乗り越える。ヤマ場はノリまくり観客総立ちのライブ。ロックなんか柄にもなかった主人公が「レッツ・ロックンロール!」と満面の笑みで叫んだところでストップ・モーションだ。そこでズバッと格好良く、絶妙のタイミングでザ・フーの「ロング・リブ・ロック」をかけよう。ダラダラと終わらせずにバサッとキッパリ終わる。そうだ、「ロング・リブ・ロック」ってタイトルにすればいい。「ロックよ、永遠に」っていい題名ではないか。

 我ながら、何となく面白そうな気がする。それに、これってドラマの王道だ。高尚な事を言わずに大衆娯楽に徹すると…。大概のハリウッド映画は、こういうルーティンに従ってつくっている。だからこれをうまく持って行ければ、面白い話が出来ると思ってたんだ。出来ない事はないと思った。

 ただし…このメンバー、どんなメンツだったらいいんだ? それに、そんなバラバラな連中が一同に会する理由って何だ? バンドをやらなきゃならない理由って何だ? うまくなっていく過程はどう表現するんだ? どのように目で見えるカタチで描くんだ? そのキッカケって何だ? バンドの直面する挫折って何なんだ? そして、それをどうやって乗り越えるんだ? そもそもヤマ場がライブ…となれば、それがバンドの目標という事になる。ならば、なぜそれは目標たりえるんだ?

 僕にはそれらの解決が何一つ出来なかった。解決出来ても苦しい解決でウソ臭かった。あるいは次の難関で無理が出た。簡単そうに思えるけど、こういう当たり前の展開ですら、ウソをついていくのは難しい。大変な労力が必要になってくるんだよ。やってみれば分かる。

 結局、僕はこの物語をモノにするのを断念してしまった。

 まぁ無理もない。これをモノに出来ているぐらいなら、僕は今頃みなさんに映画をつくって見せている。ついでに女優と付き合ったりイチャついたりしているだろう。映画ファンの女をギョーカイ人ヅラでダマして、ホテルに連れ込んでいるかもしれない。みなさんも僕の映画をお金を払って見て、それにさんざ文句を言っているはずだ。そうはならなかったから、僕は映画でお金をもらわずにお金をなくしている。こうして偉そうに人の映画にケチをつけるような、見苦しい「負け犬の遠吠え」を繰り返している。次の言葉は僕も肝に銘じたいし、みなさんにもぜひ覚えておいていただきたい。

 すべての人間は二種類に分けられる。映画をつくる奴と、つくれない奴だ。

 

見る前の予想

 予告編からして面白そうではあった。ヒロインの女の子が店のウィンドウに飾ってあるサックスに見とれて顔面をガラスにぶつける「アレ」だ。あれをあのスピードでカメラを引いて、あのタイミングでぶつけさせて撮るのは難しいだろうな…と思って見ていた。これって簡単そうに見えるだろうけど、実は難しい。難しい事を簡単そうに楽しそうにやる。エンターテインメントってのはそういうものの蓄積だ。…この映画は最初っからそのへんがちゃんと出来ている予感がある。

 ネタも面白そうではないか。第一、企画がいい。女子高生のスウィング・ジャズ・バンド。一体どうやって彼女たちがそうなっていくのか…それをうまく描ければ楽しい映画になる。

 ただし…「うまく描ければ」…の話だ。

 日本映画のエンターテインメント映画にノコノコ出かけていって、思いっきりハズすと落ち込みからなかなか立ち直れなくなる。こう言っちゃ何だが外国映画のそれなら、ハズしたってどこか一つぐらい見るべきところがある。ところが日本映画の娯楽映画の場合、ダメだとトコトンいいとこなしってのも平気であるからね。

 そのうち見た人の評判が耳に入って来たが、なかなか面白いようではないか。それでも僕は躊躇していた。結局もう客足も寂しくなってきた今頃になって、慌てて映画館に飛び込む始末だ。

 

あらすじ

 それはクソ暑い山形の夏のこと。この高校では夏休みに入っていたにも関わらず、デキの悪い連中のために補習授業が行われていた。だが、どいつもこいつもやる気なんかカケラも持ち合わせていない、思いっきり頭の悪そうな連中ばかり。その中でも一際やる気なさそうなのが、窓際でボケッとしている上野樹里だ。

 校庭を見下ろすと、そこにはチャーターしたバスが一台。これは白石美帆先生率いる吹奏楽部が乗るバスだ。この日は野球部の試合があり、吹奏楽部の部員たちはその応援演奏に駆けつけるところなのだ。そんな出発間際の慌ただしい時間、下級生の平岡祐太はフトコロに秘めた「退部届」を、いつ出すかいつ出すかと迷いに迷っていた。彼はこの吹奏楽部でのパシリ扱いに、ほとほとイヤ気がさしていたのだ。だが結局「退部届」を出すタイミングを逸して、彼はバスに乗り込む事になる。

 そんな事情も知らない上野は、「特別扱い」の吹奏楽部をうらやましげに見つめるばかり。バスは目的地へと出発して、校庭に再び静寂が戻ると思いきや…。

 何と弁当屋のライトバンが、慌てて校庭へと走り込んで来るではないか。バスが弁当を待たずに出発してしまったのだ。この時、日頃からロクに使ってもいない上野の頭に、珍しくある思いつきが浮かんできた。もちろん、それは良からぬ企みに間違いない。

 「先生、あのお弁当を私たちで運んであげたいんですが! きっとみんな困ると思うなぁ」

 これには補習の講師を務める竹中直人先生も、止めるわけにはいかない。それが単に補習をサボりたいが故の申し出と分かっていても、黙って行かせる他はなかった。

 それにしても、この日はクソ暑い一日だった。そこをあの上野を筆頭に…やたら色気づいてる貫地谷しほり、図体がデカイ豊島由佳梨などの補習組の女の子たちが、弁当を持って試合先へと一心不乱に駆けつける。

 …なわきゃ〜ない。たった二両編成の単線の列車に乗れば、一個ぐらいいいだろう…とばかりに上野が弁当を開けてしまう。たちまちその弁当を奪い合い。何せオツムの程度はサル並みの連中だ。あげく列車の中で居眠り。ふと気づくと、降りるべき駅で降り損なった彼女たちは、目的地のずっと先へと連れて行かれてしまう。戻りの列車はしばらく来ない。

 仕方ない…彼女たちは弁当を持って目的地まで、炎天下をえっちらおっちら。途中あちこち脱線しながら、それでも何とか試合をやっている球場まで辿り着く。

 球場では、あの平岡が弁当の事で文句を言われ放題。おまけにやりたくもないシンバルを持たされチョンボ。演奏でも先輩の高橋一生やら野球部の福士誠治やらにドヤされる始末だ。そこへ弁当持ってやっとこ到着した補習組のメスガキどもまで、言いたい放題のデカい態度。さらにはなぜか弁当が一個足りなくて、平岡が昼飯にありつけない事になってしまうではないか。上野はじめ補習組の連中は開き直っているが、悪いことは出来ないもの。上野のアゴに飯粒が付いているのを、平岡はしっかり見逃しはしなかった。

 ところが…。

 翌日、家で寝っ転がっていた上野に、級友からの電話が入る。たった今テレビのニュースで、例の吹奏楽部が取り上げられているというのだ。早速テレビをつけた上野は、それを見て驚愕。何とあの試合で吹奏楽部の部員全員が、腹痛で倒れてしまったと言うのだ。しかも原因は弁当による食中毒…。

 野球部は試合に勝ったので、次の試合もある。だが応援すべき吹奏楽部は全員倒れた…もとい、弁当にありつけなかった平岡以外全員だ。そこで「我こそは」と思う生徒は翌日音楽室へ来るように…との、学校からのお達しがあったものの…。

 今は夏休み。誰も来るわけがない。

 たった一人で音楽室で待つ平岡は、頭を抱えていた。これではまた野球部の福士にドヤされる。「何でボクばっかり…」

 すると、一人のメガネの女の子がオズオズとやって来る。

 天の助けと喜んだ平岡は、この本仮屋ユイカという女の子に「楽器は何が出来るの?」と尋ねた。すると彼女が無言で嬉々として取り出したのは…縦笛ではないか!

 さらに、どう考えても場違いな関根香菜と水田芙美子のロック娘二人が登場。勝手にギターとベースを弾きまくり始めた。「アタシらバンド解散しちゃって、音出せれば何でもいいんだよ

 かえって収拾がつかないアリサマに、平岡は頭が痛くなってきた。そんな折りも折り、すべての元凶である上野たち補習組のメスガキどもが、まるっきり蛙のツラにションベンってな無反省な態度で教室から出てくる。無論こいつらは、吹奏楽部のピンチヒッターに名乗りを上げるようなタマではない。たまたま補習のために、イヤイヤ校舎に姿を現しただけだ。

 これにはさすがの平岡もブチギレた。「オマエら弁当を腐らせておきながら何だ!」

 だが上野たちも一向に悪びれない。何で自分たちがそんなメンドくさい事をやらねばなんねえんだ…と、思いっ切り開き直った。だが何と言っても元はと言えばこいつらが悪い。そこんとこを追求されるとグウの音も出ない上野たちだ。平岡もここは退けないとばかり、脅したあげく取引を持ちかけた。「何だったらオマエらのやった事は黙っていてもいい。その代わり…」

 こうして急造のバンドメンバーが音楽室に集まった。だが、元々が手の付けられないメスガキども。とてもじゃないが放し飼いにはしておけない。楽器なども扱い方は分からないし、音なんて出せる訳もない。そもそもこいつら真面目にやる気もなかった。そこへきて、これでは吹奏楽やるにも人数が足らない。こうしてますます収拾のつかない状態になっていたところへ…。

 あの野球部の福士がやって来る。「おう、どうやらバンド・メンバー集まったな」

 とてもじゃないがバンドなど無理…とは口が裂けても言えない。平岡はただただ頑張ります…と言うしかない。だが、いくら音楽に無知な福士でも、吹奏楽でギターやベースがいるのはおかしい…ぐらいは察しがつく。その時に平岡が落ちていたレコード・ジャケットを見て咄嗟についたウソが、思わぬケガの功名になろうとは…。

 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょうどこれみたいにやろうと思って…」

 それはスウィング・ジャズのバンドのレコードだった。確かにジャケットに写ったバンドの面々を見たら、この部屋に集まった16人でも何とかやれそうな気がしてきたではないか。まことに安易な決定ながら、この瞬間からこのメンバーたちが目指すのはスウィング・ジャズと決定してしまった。

 「まぁ頑張ってくれよ。すべての人間は二種類に分けられる。何かをやり遂げる奴と、出来ない奴だ

 そんな福士の激励にもならない言葉で奮い立ったのは、元から気が多く福士を一目見てイカれた貫地谷ぐらいのもの。大体「やり遂げる」なんて言葉、とてもじゃないが彼女たちには程遠い。特に上野と来たら親にせがんでマックのコンピュータを買ってもらったものの、いまやケバケバのオブジェと化している始末。およそ何かをやり遂げる根気に欠けている。

 だが試合まで間がない。ともかく彼女たちの練習…いや、「調教」が始まった。

 とにかく音が出ない。まるで肺活量がない。これでは話にならない…とばかり、平岡はたちまち運動部モードに入って上野たちをシゴきにシゴく。上野たちはラク出来るはずが、すっかりアテがはずれてヘトヘトだ。そんな中、終始無言で何を考えているのか分からない本仮屋が意外な肺活量の持ち主だという…「人は見かけによらない」を地でいく衝撃の事実も判明したりする。

 それでも上野や貫地谷や豊島あたりは、何とかかんとかサボって逃げようと企んだりしている。ハッキリ言って真面目にやる気なんかない。ところがたった一人…あの地味な本仮屋が一足先に音を出せるようになってみると…。

 人間、不思議と他人には負けたくないものだ。みなが争うように音を出そうと必死。あのズボラを絵に描いたような上野までが音を出せるようになってみると、本仮屋は早くも音階を吹いている。こりゃあ負けられない。

 そんなこんなで一応音楽らしい音を出せるようになった彼女たち。正直言ってとてもじゃないが人前に出せるシロモノなんかじゃない。それでも一応は音を出しているとなると、彼女たちは彼女たちなりの充実感があった。ヨレヨレではあるが一曲通しで演奏した後、あのいいかげんな上野の口を突いた言葉がすべてを代弁している。

 「な〜んかいぐねえ、いぐねえ?」

 さて本番の試合も間近だ。いよいよ人前で演奏するのか…と思うと、彼女たちの胸は勝手に期待で膨らんでいく。実は平岡は内心、とてもじゃないが聞けたもんじゃない…と思っていたものの、彼女たちのやる気に火がついた事だけは嬉しかった。彼自身もこのメンバーでやり始めてからは、本来やりたかったピアノが弾けてイキイキしていたのだ。

 だがそんな彼女たちに、予想もしない事態が持ち上がる。

 突然、白石先生率いる吹奏楽部のメンバーが「ご苦労さん」と言わんばかりに現れたのだ。食中毒から復帰した彼らは、当然のごとく試合も自分たちが演奏すると決めている。早い話が上野たち急造バンドはお払い箱だ。これには上野も本来のやる気なしオーラを思い切り出してしまう。「へっ、元からこんなの真面目にやる気なんぞなかったんだ!」

 音はヘロヘロではあるが、それでもようやく音楽の楽しさを知った矢先のこの仕打ち。校舎を後にする彼女たちの足取りは重い。何とも悔しい、名残惜しい、後ろ髪が引かれるし残念だ。知らず知らずのうちに、なぜか柄にもなく涙をボロボロに流している彼女たちではあった。

 もう試合での彼女たちの出番はない。それでもなぜか上野は、いつの間にか球場に足を運んでいた。すると貫地谷も豊島も偶然試合を見に来ているではないか。本当だったら、自分たちの「初舞台」になっていたであろう試合に…。

 こうして夏休みが終わった。

 だが上野は、いまだに心にぽっかりと空洞が空いた気がしていた。ついつい音楽室に吹奏楽部の練習をのぞきに行ったりする。するとそこにはあの大肺活量の本仮屋が、何か言いたげに立ちつくしているではないか。たまたま廊下で貫地谷とすれ違ったりすると、彼女の瞳も何かを訴えている。聞くところによれば、あの平岡も吹奏楽部を辞めたというではないか。

 みんな、何か「やり遂げられなかった」気持ちを抱えたままだ。

 そのうち上野は、なぜか楽器店のウィンドウをじっと見つめている自分に気がついた。そこに置いてあるサックスが、欲しくて欲しくてたまらなかったのだ。だが、とてもじゃないが手が届かない。なら中古はどうだ? 中古なら手が届かぬ訳でもない。上野は親に猫なで声でねだるが、何でも投げ出す彼女の言うことなど、もはや信じる訳もない。かくなる上は問答無用…。

 こうして上野のマックと妹のプレステは質屋へと消えた…。

 ようやく手に入れた念願のサックス。それは真っ黒く汚れてガタガタのシロモノ。それでもやっとの思いで自分のモノにした大切な楽器だ。上野は満足げな表情で、誰もいない河原で一吹きする。

 相変わらずひどい音だが、それは彼女が求めてやまない「何か」を与えてくれる…。

 すると…どこからともなく、まるで彼女の演奏に合わせるかのようにキーボードの音が聞こえてくるではないか。一体どこの誰が…? 彼女も負けじとサックスを鳴らしながら、音の主を捜して河原を進んでいくと…。

 何と川の対岸に、あの平岡がキーボードを持って佇んでいた!

 まるでお互いセッションをするように、川を挟んだ対岸でサックスとキーボードを鳴らし合う上野と平岡。それだけで、もう何も言う必要はない。

 それが「スウィング・ガールズ」の、本当の出発の瞬間だった…。

 

アメリカ映画伝統の要素を活かした映画づくり

 この映画が評判良かった「ウォーターボーイズ」(2001)の矢口史靖監督の作品と聞けば、狙いはまったく同じだなと察しはつく。

 ならばこの調子で「ギャグ・オヤジズ」とか「韓流オバチャンズ」とか…(笑)、この後いくらでもこさえられるよな…と簡単に言うなかれ。“早い話が「ウォーターボーイズ」の女の子版でしかない”…とか、“ありがちで月並みなワンパターン”…とか聞いた風な評価があちこちで散見されたけど、それはちょっと違うんじゃないか…と僕は言いたい。当たり前が難しい。ありがち…が難しい。奇をてらったようなモノこそ、意外にやってみりゃ簡単だったりするのだ。

 僕はこの映画の立派な王道ぶりに、ちょっと最敬礼したくなってしまったよ。これがねぇ…この当たり前が、かつて日本映画じゃなかなか出来てなかったと思うからね。最近はそういうあたりの事がキッチリ出来るようになったのかもしれないが、ひと頃確かに日本映画はまるで当たり前の事がダメだった。常識が欠けていた。だから一部のシンパしか見なかったし、大本営発表みたいな評価しか出なかった。ダメの悪循環。

 確かにアレコレ指摘されるように、この映画って王道のワンパターンだ。そしてあちこちからパクったイタダキ部分で出来たような映画だ。ほとんどパッチワーク状態。

 でも、そこが素晴らしい

 そもそも、今でこそ隆盛を誇る香港映画やら韓国映画を振り返っていただきたい。それぞれの映画界が世界に向けて上げ潮に乗り始めた頃は、とにかく臆面もなく古今東西の映画からパクっていたではないか。ジャッキー・チェンが自らの監督作品でハロルド・ロイドからフランク・キャプラまでパクりまくった事を、よもやお忘れではないだろう。いや、香港ニューウェーブ作品と言われる数々の傑作でも、かなり大胆にいただいている。韓国映画もしかり。いまだにジェリー・ブラッカイマー映画のいただきを繰り返しているし、他にもいくらでも影響を指摘できる。この場合のパクりは決してネガティブ要素ではない。それは映画への貪欲な吸収欲がもたらしたものだし、結果として作品にはダイナミックな面白さが息づいた。

 いやいや、元々のハリウッド娯楽映画そのものが、往年の自らの映画遺産から多くのモノを吸収し、それを継承して豊かな作品を作ってきたのだ。ハリウッド映画の数々のルーティンとは、そういう中で生まれてきた。分かりやすいので僕がよく引き合いに出す「スター・ウォーズ」や「ロッキー」(1976)だけでなく、アメリカ映画の大衆娯楽映画とは、そういう「面白い映画の方程式」みたいなものを忠実に守りながら作り続けて来たのだ。

 もちろん、そればっかりを後生大事に守れというつもりはない。だが、それらは大衆娯楽映画をつくる上での一つの「基礎」だ。基礎を知らずして応用は出来ない。劇中で「フリー・ジャズ」もどきのプレイを披露する竹中直人に対して、谷啓が言う一言がまさにそれだ。「そういうのは基礎を覚えてからにしてください!」

 その基礎も出来てないのに、やれ「感性」だの「ハイテク」だのって言っても、僕はそれって全く無意味だと思うんだけどね。アンチ派としてそれらを破壊するにしても、まずは「基礎」を知らなきゃ破壊しようがない。知らないってのは、そりゃ単なる無知だ。生意気言う前にちゃんと「基礎」をやれと言いたいのだ。

 僕が近頃のハリウッド映画を嘆かわしいと思うのは、こうした先輩たちの遺産を全然活かそうとしない、勉強しようとしてないように思えるからだ。だからイマドキのアメリカ映画はどんどん質が低下している。頭悪そうな映画ばっかりになっている。実際に頭の悪い奴ばっかりがつくってるから、映画がこんなにダメになるんだよね。

 それにひきかえこの「スウィングガールズ」は、そんなハリウッド映画伝統のノウハウを大胆に取り入れている

 例えば…横断歩道の音声やら卓球やらバスガイドの笛やらで、一同が「スウィング」を理解しようとする場面。これは明らかに「フットルース」(1984)で、リズム音痴のクリス・ペンがウォークマンを聴きながらリズムを取ろうと練習する場面が原型だ。デニース・ウィリアムスのヒット曲が流れるあの有名な場面と言えばお分かりいただけるだろうか。また、演奏会場へ向かう列車内でヒロインのチョンボが判明し、一同の雰囲気が悪くなってしまう場面。ここでは偶然ラジオから流れた曲から一同が自然に演奏を開始し、いつの間にかヒロインもその中に混じって和解する。これはあの頃ペニー・レインで(2000)で脱退を言い出したバンドリーダーが、周囲から浮きまくる場面が元ネタだろう。あの映画では移動のバスの中で流れるエルトン・ジョンの曲がキッカケで、みんなが自然と合唱して心が一つになった。

 こんな調子で、アレもコレもとさまざまな引用がゴロゴロしている。「フェーム」(1980)や「フラッシュダンス」(1983)なども引用されているように思える。おそらく1970〜1980年代のアメリカ映画のデータベースさえあれば、この映画の大半の要素に引用を発見する事が出来るはずだ。もっと古い映画の断片も見つけられるかもしれない。

 アメリカ映画的…であるゆえんは、そのどこか乾いた演出にも伺える。この映画は物語が少し湿って来そうになると、サッと笑いを挿入してジメつきを回避する。代表例としては吹奏楽部をお払い箱になったヒロインたちが、悔しさにボロボロ涙を流しながら歩いていく場面。ここで主人公たちの心情に感情移入したくなるところを、たまたま通りかかった老婆が「先生が死んだのかい?」と声をかけてドライに笑わせる。観客に安易な泣きや共感を強要しないのだ。さらに物語をジメつかせるヒロインの恋愛感情も、劇中では徹底的に回避される。意識的に回避しようとしている点は、雪合戦の場面を見れば明らかだろう。

 逆にアブなげな二人のロック娘たちは、そのコワモテな外見にも関わらず終始ヒロインたちと行動を共にする付き合いの良さ。劇中ただの一言も優しげな言動は行わないのに、彼女たちの性根は伝わって来る。古くは駅馬車(1939)の酒場女などに代表される、アメリカ映画伝統の「黄金のハートを持ったビッチ」(笑)の孫娘みたいな彼女たちなのだ。

 さらには映画のエンディングには、演奏終了と同時にお話もバッサリと終わる潔さ。ここをダラダラやったら締まりがないだろう。

 このように、この映画の話法のベースはあくまでハードボイルドにある。そしてハードボイルドは、アメリカ映画の作劇術の…少なくとも戦後における基本言語になっている。現代アメリカ映画は基本的に、コメディだってホラーだって底流にはハードボイルドの精神が流れている。最近では外様の映画作家が流れ込んで来て、だいぶそのへんが怪しくなっているけど、戦後アメリカ映画の基本は常にそうだった。

 この映画はだから、今では失われつつあるアメリカ映画の精神を忠実に継承した作品なのだ。おそらく近いうちに、ハリウッドがリメイク権を買いに来るんじゃないか。その可能性はすごく高いと思うよ。って言うか、韓国からキム・ジウンのセコい小手先映画のリメイク権を買ってくるくらいなら、こっちをやった方がよっぽどマシだと思うけどね。これを買いに来ないようでは、ハリウッドはもう映画をつくる資格がないんじゃないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある程度の結果を出した「難関突破」型ドラマ構成

 ヒロインの上野樹里は、ジョゼと虎と魚たち(2003)でも清純さとナマぐささを併せ持ったリアルな女の子を演じていて秀逸だったが、ここでは素材に徹していてこれはこれで好演。やっている側が照れて自滅するパターンも多いタイプの役柄だし、これはこれでよくやったと見るべきだろう。それ以外の出演者たちもおそらくタイプ・キャスティングだとは思うが、集団劇のバランスを保った配役だと思う。

 そういう意味で、今回は竹中直人が出てきても抑えた演技に終始していたのは賢明だった。あの臭い芝居をやられたらブチ壊しだと思っていたので、大人しくアンサンブルの中に溶け込んでいたのには安心した。

 ゲスト的に谷啓が登場してくるのは、やはり日本の「ジャズのアイコン」としての特別出演だろう。しかもトロンボーンを持って出てくるのに、簡単な音階しか吹かない。この映画にはそんなシャレっけが充満している。

 先にも述べたように、脚本はアメリカ映画的な要素を数多く拝借したもの。スタイルとしてはあちこちヒロインたちに立ちはだかる障害を設定して、それを次々乗り越えていく「難関突破型」の典型的なものだ。これが実は極めて難しい。物語がスタートするキッカケ、主人公の行動のモチベーション…それらの設定に成功したら、次々と回避不能なトラブルを設定していく。さらには「回避不能」なはずのトラブルを解決するための手段を考える…。このスタイルの脚本はあくまでロジカルな計算に基づくもので、それぞれ論理的に裏付けがつかないと先に進めない。もちろん所々はウソで埋めていくのだが、それでもそれを観客に最小限度ホントと見せるだけの裏付けが必要なのだ。あるいは「映画的ウソ」で観客を納得させていく。

 これが、昔から論理的な思考の苦手な日本人にはなかなかうまく出来ない。もちろん僕も典型的な日本人だから、これが大の苦手だ。この手の「難関突破型」の作品で一番際だった日本映画での成功例と言えば、黒澤明の「隠し砦の三悪人」(1958)がまず筆頭に挙げられるだろう。

 他にもいろいろ成功例はあるだろうが、残念ながら日本映画では無惨な失敗の方が目立つように思う。結局面倒くさくなって、すべてを途中で放り投げて誤魔化してしまうんだよね。一例を挙げれば…正確な意味での「難関突破型」脚本ではないしちょっと古い話になるが、サブ監督のMONDAY(1999)のいいかげんな終わらせ方を見たら一番分かりやすいと思う。ドリフの「8時だヨ!全員集合」のコントのエンディングみたいに、何が何だか分からない幕切れ。アレは結局広げた大風呂敷を閉じる方法を思いつかなかったからだ。そういう時の日本映画の常套手段としては、訳を分からなくして何か「高級な事」をしているフリをする。何度も引き合いに出して気の毒とは思うが、この映画の監督のやり方はハッキリ言って卑怯だ。始めた事は最後までキッチリやり通すのがプロというものだろう。こんな厳しい事を言うのは、決してドラマの構築に失敗したからじゃない。利口そうなフリをして、汚い逃げ方をしたからだ。前のめりに破綻してくれるなら、むしろその方が良かったよね。

 かくも難しい「難関突破型」脚本だが、この映画ではそれに果敢に挑戦して、ある程度の成果を収めている。ある程度…と言う言い方をせざるを得ないのは、すべてがすべて成功している訳ではないからだ。残念ながら時々スキマ風が吹いて来そうな瞬間も見られないわけではない。

 その最たるものは…いつの間にか上達したヒロインたち5人がスーパーの前で演奏していると、途中でバンドを諦めた仲間たちがたまらず合流してくる場面だろう。確かにこの映画はある意味でウソでおとぎ話だから、この女の子たちがそんなに素早く楽器を調達出来るのか…とか、ずっと練習していた奴らとでは上達の度合いが違うのではないか…とか、そんな事を問うのはヤボかもしれない。だが、それにしたって…の、あまりのウソの上塗りぶり。おまけにそれまで終始ハードボイルドに、安易な「やる気」や「優しさ」や「前向き」などの要素を注意深く排除してきたのに、ここでそれが一気に崩れてしまう。どうせいつかは崩さねばならないのは分かるが、こんな乱暴なカタチで崩すのはいささかキツいのではないか?

 このシークエンスでは、カメラが演奏する彼女たちを徐々に見下ろしながら、いつしか雪がチラついてきて幕となる。この最後の雪のチラつきのおかげで、シークエンス自体に幻想的なイメージが生じて何とか救われた。そんな意図など毛頭ないのだろうが、好意的に解釈すればノッティングヒルの恋人(1999)でヒュー・グラントが往来を歩いているうちに季節が巡るシークエンスとか、LOVERS/謀(2004)で決闘の最中に雪が降り出して一気に秋から冬に変わるくだりとか、ああいった「時の経過」を象徴的に描いたシークエンスとも受け取れる。これはケガの功名だったろう。成功と失敗スレスレのシークエンスだったが、ここは辛くも乗り切ったと考えたい。

 念のために言えば、僕はウソはいかん…と言っているわけではないのだ。あくまで観客心理を考えたウソをついて欲しいと言っている。例えば、この映画の終盤部分。演奏会参加を却下されたはずの「スウィングガールズ」が、どたん場で「繰り上げ当選」してしまうというご都合主義ぶりはどうだ。だがお話がここまで至っては、観客は完全にヒロインたちに肩入れしている。何がどうあれ、どんな手段だって…何だったら同じ学校の吹奏楽部をもう一回食中毒にしたっていいから(笑)彼女たちを出演させたいと思っている。観客は彼女たちと一緒に、演奏会の会場に行く気になっている。彼女たちのステージを見たいと熱望しているんだからね。ならばこのご都合主義もオーケーだろう。こういう観客心理を利用した手法は、ヒッチコックだって何度も何度も使っている。「作劇術」とはそういうものだろう。

 このように、女子高生とスウィング・ジャズという新鮮な題材、「難関突破」型というドラマ構築、ハードボイルドという語り口とあちこちに埋め込んだアメリカ映画的引用…などなど、この映画の美点を挙げれば枚挙にいとまがない。これらは確かに「ありふれている」し、「当たり前」の事ばかりだ。だが、それがいかに難しく大変なことか、「平凡」を達成するのがいかに「非凡」な事か、ここまでの説明でいくらかはお分かりいただけたことと思う。

 

「ないものは写らない」という映画の基本的性質

 「当たり前」をちゃんと踏襲しているからこそ、娯楽映画として見事な達成を見せているこの映画。実はさらにそこには…もう一つの「当たり前」が隠れている。

 それはヒロインたちを演じる役者が、自ら演奏を行っている点だ。

 そんなものは「当たり前」だ。僕もまったくそう思う。だが、それが満足に行われていなかったというのも事実なのだ。ならば逆に、なぜここは出演者自身が演奏しなければならないか…そこを検証すべきかもしれない。暴言を百も承知であえて言わせてもらえれば、実はそれって映画の本質に関わる重大な部分なのだ。

 映画というメディアは、その誕生当初からの性質を今でも持ち続けている。その最も基本的な性質は、次の2つだ。

 「記録」と「幻影」。

 映画は元々、写真の動くモノとして発明された。だから本来からして「記録」だ。実際ニュース・フィルムやドキュメンタリー映画は、その「記録」としての性質の延長線上にある。

 それを自由なイメージやらフィクションを語る手段として応用したのが、現在の劇映画だ。ジョルジュ・メリエスの幻想映画のようにあり得ない月世界などを画面につくりだすのもそうなら、お芝居というウソを見せるのもそれだ。

 そしてこの両方の性質は、映画というメディアの中で常にどこか交差している

 ドキュメンタリー映画のカテゴリーに入る華氏911(2004)が「つくり」だという批判を浴びたのは、元々「記録」である映画にどこか「幻影」の要素が混入しているからだろう。逆に「幻影」である劇映画も、必ず「記録」としての性質を帯びざるを得ない。

 というか、「記録」は映画の宿命だ。

 元々映画とは、カメラのレンズの前にある被写体を撮影する…という行為からスタートする。もちろん数々の例外がそこにはある事を承知の上で言えば、基本的にはレンズの前にないものは写らない。それが映画の基本だ。メリエスの月世界ですら、レンズの前にフェイクでこしらえたものを置いている。劇映画は「芝居をしている役者」という状態を記録したモノだ。レンズの前には被写体がある。それなしには映画は出来ない。フィルム=スクリーンという「幻影」をつくるためには、それと同じ「実物」を…例えフェイクのカタチであれ…レンズの前につくって置かなければならないのだ。

 ベルリン・オリンピックの記録映画「美の祭典」「民族の祭典」(1938)の監督レニ・リーフェンシュタールは、撮影出来なかった競技の場面を後で同じ競技者を連れてきて撮影し直したと言う。そのことの是非はともかく、「実物」を連れてきて撮影し直すという発想は、リーフェンシュタールが本能的に映画というものの本質を理解していた事を物語っている。

 ないものは写らないのだ。

 僕は映画における「本物志向」みたいなモノは、ハッキリ言ってあまり信用していない。何でも本物を置かねばダメだとは思わない。特にそれって無意味な精神主義みたいなものと結びついているから、どうしても賛同できないんだね。そもそも清貧をありがたがって尊ぶなんて単なる偽善だ。そういう論議が、無神経にテクノロジーを批判するネタに使われるのもイヤだ。映画というメディアそのものが「光学」「化学」「電気」を使ったテクノロジーなのに、安易なテクノロジー批判なんてナンセンスだと思っている。

 だが…昨今の、何でもCGでつくっちまえばいいという風潮も、いかがなものかと思っているのだ。

 テクノロジーとは「道具」だろう。その「道具」が表現のすべてになってしまうのは、主客転倒そのものではないか。僕はそういった意味で、昨今のハリウッドのダメさの理由はそこだと思っている。コンピュータは考えてくれる訳でもないのに、テメエの頭をろくすっぽ使わなくなってしまった。そしてバカばっかり増えた。CGで何でも出来ると思ってしまったから、何も出来なくなってしまったのだ。絵の具を持っている人間が、誰でも絵が描ける訳ではないのと同様だ。あれは単なる道具でしかないのだ。

 そしてそれは、映画づくりにおいて最も重要な要素を見失う事にもなる。すなわち、映画が「記録」であるという単純な本質だ。

 僕はCG映画を完全否定はしないし、テクノロジーの進歩も敵視しない。だが、「実写映画における安易なデジタル使用」には警鐘を鳴らしたい。それって単にムード的な事で言っているんじゃない。聞いた風な偽善を振り回すつもりはない。それなりに理由があっての事だ。

 映画で「レンズの前にないものを写してしまう」という行為は、人間にとっての「共食い」とか「近親相姦」と同じくらい、やってはいけないタブーなのではないだろうか。これがアニメーション映画なら、CGによる映像表現も分からないでもない。だが、こと実写映画においては、何らかの線引きをしておく必要があるのではないか。CGを使うなとは言わない。だが、少なくとも作る側に何がしかの自覚がなければならないはずだ。

 僕は先日「スター・ウォーズ」の旧三部作のDVDボックスを手に入れた。久々に見た旧三部作は確かに素晴らしかったが、そこに含まれているメイキング・ドキュメンタリーの内容にはいささか複雑な気分を味わったよ。

 そこではジョージ・ルーカスが、映画ハイテク時代…デジタル時代の覇者としてモテはやされていた。ルーカスフィルムだのILMだのという会社で技術革新を進めたおかげで、映画には何でも描ける可能性が出てきたと言うのだ。ルーカス偉大なり…。

 だが、それは本当だろうか?

 確かに映像表現の可能性は広がっただろう。それを悪いとは言わない。だが、技術はあくまで「道具」でしかない。それだけで映画そのものはつくれない。そして映画というものの本質を見失ったら、そこからは何か大切なモノが抜け落ちてしまうのではないか。

 それが証拠にあの素晴らしい「スター・ウォーズ」旧三部作は、決してハイテクばかりでつくられた訳ではない。むしろイマドキの技術から見たら、あれはローテクの部類だろう。その後いくらデジタルで修復して周りを固めても、基本的な部分は変わらないはずだ。それは今でも鋼のような強さを誇っている。一方、ガチガチのハイテク技術の使用を前提にしてつくられたエピソード1」「エピソード2には、残念ながら旧三部作にあった何か「活気」のようなものが失われている。

 実はジョージ・ルーカスは、「映画の一番基本の部分」が分かってなかったのではないか?

 例えばジャン=ジャック・アノー監督の新作トゥー・ブラザーズ(2004)では、全編の撮影にデジタルハイビジョン・カメラが使われた。だがそこでは肝心の主役であるトラの映像については、撮影したそのままの素材が使われたと言う。アノーは後でデジタルで演技をつけたりはしなかった。その一線だけは断固として守った。デジタル技術は、おそらく機動力やら作業効率やら撮影上の制約から選択された手段でしかなかったはずだ。むしろトラの動きの「まま」を使いたいがために、あえてデジタル技術が使われた。

 逆に映画が技術によってつくられている事は、先日公開されたタイ映画マッハ!(2003)ひとつとっても証明できる。あの作品だって、ローテクではあるが技術なしにはつくれない。決して肉体だけではつくる事が出来ない。ミッチェルかパナビジョンかどこか知らないが映画撮影用カメラと、コダックかフジか知らないが35ミリネガ・フィルムと、照明機材やら録音機材、大道具に小道具、それに莫大な電力を使って撮影されている。それらの技術は、すべてナマのアクションを確実にかつ効果的に撮影するために奉仕しているのだ

 技術とはこうやって使うべきものではないか。

 僕が一体何を長々と言っているのかと、訝しげに思われた方もいるかもしれない。だが僕はこの機会に声を大にして言いたかった。

 ないものは写らない。それが映画の基本だ。最も大切な基本だ。映画とは「記録」なのだ。

 その本質を曲げた時に、おそらく映画はおかしなモノになってしまうだろう。何かが抜け落ちていくだろう。これは屁理屈ではない。メディアの本質に無自覚であるという事は、最終的にメディアをダメにしてしまうに違いないのだ。繰り返し言うが、CGを使うなとは言わない。便利なものは大いに使うべきだと思う。だがそれを使うなら、それなりのノウハウが必要だろう。それが無視されたら、それは映画である必然性すらなくなってしまうではないか。

 なぜなら、映画は「記録」だからだ。

 随分長々と話が脱線してしまった。いささか大げさな言い方もしてしまったかもしれない。だが、これらは今回の作品と関わりのない事では決してない。この映画「スウィングガールズ」では、まさにこうした映画の本質が活かされているのだ。レンズの前に本当に演奏している出演者たちがいるという事実は、その心情的・精神的な要素以上に大切な点だ。決して根性や努力といったレベルで僕は言ってない。映画というメディアそのものが、それを要求しているのだ。

 だからここでは、演出は余計な事を一切していない。ただ彼女たちの演奏を真正面から撮って、それだけでドラマを十二分に盛り上げている。それまでに観客の気持ちを高揚させるための仕込みはキッチリ行われているし、「ホンモノの演奏」がレンズの前で行われているというだけで、この映画がめざす目的は十分に満たされている。

 この映画が「映画」として成功しているのは、実にこの一点にかかっている。それは映画の最も基本的な性質を押さえていたからなんだよね。

 そして、それもまた言わば「当たり前」の事なのだ。

 

見た後の付け足し

 このように、この映画は言ってみれば「当たり前」の権化みたいな作品だ。全編ルーティンで「ありがち」。映画の基本に忠実で、ハリウッドの娯楽作品のさまざまな引用をちりばめてある。単にやるべき事をやっているだけの映画だ。だが、そのやるべき事をやってない映画が、世の中あまりに多すぎる

 何で僕がこの「ありふれた」映画をこんなにホメるのか、怪訝に思われる方もいらっしゃるかもしれない。だが、この「やるべき事をやる」ってのは本当に大変な事なんだよ。「ありがち」だと思えても、それさえ出来てない映画が大半だからね。だからこの点はキッチリとホメたい。

 ところがこの「ありがち」づくしのような映画の中で、実は「ありがち」でない箇所がたった一つだけある

 それは、主人公たちがイノシシに襲われる場面だ。

 主人公たちの目の前に、気の荒いイノシシが立ちはだかっている。慌てて逃げようとするが、もう遅い。てんやわんやの末に、事は思わぬ方向で決着する。あの思い出しても笑ってしまう場面。見た方ならお分かりいただけるのだが、説明するとなると極めて困難だ。俳優をまるでジオラマのようにセットに静止した状態で置いた撮影方法…だろうか? 強いて言うなれば、ロー・テクによる「マトリックス」VFX風ショット(笑)とでも言うべき手法だろうか。

 実際、こういう見せ方をするとは…と、僕はビックリしちゃったんだよね。

 だって、なかなかこういう発想って出ないよ。映画でも他ではあまり見ないものじゃないか。テレビのCFとかにはあったかもしれないが、思い出せない。仮に使っていたとしても、こういう見せ場に用いるという考え方はオリジナルだと思う

 これって見ている分には単純におかしいだけ…くっだらなくて笑えるだけのアイディアだけど、やるとなったらまず思いつく趣向じゃない。そもそも、この場面を撮るのにどんな手段を考えるだろう? それを考えてみたら、この発想にいかにオリジナリティがあるか分かる。イノシシをCGにする。あるいはロボットにする。あるいは着ぐるみにする。もしくは本物のイノシシを調教する。それともイノシシと人間を合成別撮りにする。またはイノシシは画面にチラッとしか出さず、あとはカメラをイノシシ視線にしてごまかす。

 仮にどんな手段であれ、この場面が描こうとしている状況を、普通に描いたとしたらどうか?

 それって、ただイノシシが暴れて主人公たちが慌てふためいているというだけの、面白くも何ともない描写になってしまったんじゃないだろうか。

 他にもストロボ・アクションみたいな効果で撮るとか、いろいろ方向はあるだろう。しかし今回この映画で行われた方法以上に、この場面を面白く見せる方法はなかっただろうと思う。

 全編「ありがち」で埋め尽くしたようなこの映画、たった一カ所だけこんな群を抜いた発想をしていたとは…。これはなかなか思いつくものじゃないだけに、本当にバカバカしくも素晴らしい場面だと思う。出来上がりは実にくだらなくって大した事に見えないさりげなさなだけに、余計にその見事さを痛感してしまう。

 誰もがしない発想をする、それを実行に移すという事は、それだけで十分評価に値いする勇気ある行為なのだ。真にオリジナルであるという事は、実はものすごく大変な事なんだよ。

 バックに流れたサッチモの名曲「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」の選択も見事だった。この曲は今まで「グッドモーニング・ベトナム」(1987)、や「12モンキーズ」(1995)にも使われた事を、みなさんも覚えていらっしゃるかもしれない。前者は美しいベトナムの田園風景へのアメリカ軍の空爆、後者は未来から来た男の目に映る滅亡前の暖かい都会の灯…どちらもこの曲の持つ美しさと共に、そこにひそむ哀しさをも活かした素晴らしい選択だと思う。だがこの曲の映像への使い方としては、今回のこの使い方が一番良かったと思うよ。思わず笑ってしまう画面をユーモラスに彩るだけでなく、そんなコッケイさにも損なわれる事のない真摯な思いが表現されているからね。この場面ではたった一曲の選択によって、ヒロインたちの性根の純粋さを無意識下で見る者に伝えているのだ

 これだけでも、この映画ってホンモノだと思う。「ありがち」だけじゃない。基本だけでは終わってない。でも、それは当たり前の事かもしれない。

 「基本」さえ出来ていれば、準備はすべて終わってる。後は「応用」しかないからね。

 

 

 

 

 

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