「珈琲時光」

  珈琲時光 (Coffee jikou)

 (2004/10/04)


  

見る前の予想

 ホウ・シャオシェンの新作…と聞いてワクワクしなくなってから、もう大分経つ。ホウ・シャオシェンと言えば台湾が生んだ素晴らしい映画監督だし、その作品も好きだった。それがいつからこうなってしまったのか…。

 それでも僕は今度こそ持ち直しているんじゃないかと思っては新作を見に行き、そのたびに深い失望に襲われ続けてきた。そうなるとさすがに…仏の顔も三度じゃないけど、いいかげん愛想も尽きてくるわな

 僕にとってホウ・シャオシェンの前作ミレニアム・マンボがそれだった。いや、この映画ってその前の何作かよりは多少マシだったよ。だけどやっぱり、何だか決定的に思い違いをしているように思った。そして舞台が夕張へと移ったとたん…。

 僕の中で何かがプチッと音を立てて切れた

 このオッサン、もうダメだわ。僕は正直言ってそう思っちゃったんだよね。見た直後はそれでも何とか持ち直せないかと思っていたけど、見てから時間が経てば経つほどダメさが身に染みる。

 そしたら、何と今度は「小津安二郎生誕100周年」だって?

 こいつ一体何を考えているのか。何が小津100周年だよ。それも日本で映画を撮るって? そんなもん、ロクなものになるわけないじゃないか。それでなくても調子を落としているのに、勝手が違う外国で、外国語で、外国の俳優使って映画を撮るなんて。しかも「小津にオマージュ」なんて妙なモノまでチラついてるし。ホウ・シャオシェンと小津が似ているとでも言うのか。落ち着いたテンポの映画だから似ているとでも言うのだろう。だけどね…。

 そんなもん全然似てねえよ!

 そんな外野のいいかげんな声に応えて、ホウ・シャオシェンも小津と似ているって「その気」になっちゃったのか? それだったら、同じ似てないでもまだヴィム・ヴェンダースの方がマシかもしれない。ホントにどうしようもねえな。

 だが、そうなってみると無視も出来ないから困る。

 やがて撮影も終わり映画は完成して、いよいよ公開の運びとなったが…予告編を一見してまたしてもイヤな予感が蘇る。

 まずは、ヒロインを演じる見たこともないような女が何とも魅力がない。歌手だと言うが、僕はこんな女は知らない。ホウ・シャオシェンは彼女に惚れ込んで起用したらしいが、どこがいいのかまったく分からないのだ。しかもヒロインの設定を聞いたら…これがまたちょっと勘弁して欲しいんだよね。

 相手役はご存じ浅野忠信だけど、この人はちょっと前に、タイで地球で最後のふたりという大チョンボをやらかしてるからね(笑)。あれは見れたもんじゃなかった。今回もかなりヤバそうな予感がする。もうこうなると、怖いモノ見たさって感じだ。

 

あらすじ

 ここは東京のありふれたアパートの一室。若い女が洗濯物を干しながら携帯電話で会話中だ。その女はフリーライターの一青窈。先日仕事で台湾から帰ったばかりだ。

 電話の相手は親しい友人らしい。彼女はなぜか唐突に、昨夜見た夢の内容を話し始める。それは氷で出来た赤ん坊の話だ。その顔は老人のようだった…。

 彼女はその後、行きつけの古本屋へと向かう。実はその古本屋の主人・浅野忠信こそが、先ほどの電話の相手。一青窈は浅野に、台湾土産兼誕生日プレゼントとして懐中時計をあげる。それは台湾鉄道ゆかりの記念品。鉄道マニアである浅野にピッタリと、一青窈がわざわざ選んだ品だ。

 この事ひとつとってみても分かる通り、一青窈と浅野は、単なる古本屋の主人と客との関係を超えた親しい間柄だった。今ちょうど彼女は「江文也」なる昔の台湾の音楽家について調べているのだが、それにも浅野は資料を探したり調べモノをしたりで、何かと協力している。この「江文也」なる音楽家、台湾出身ではあるが日本で活躍した人物であるため、探せばこの東京にも足跡が残されているかもしれないのだ。

 さて一青窈は、その足で郷里の高崎へと帰る。お盆のお墓参りのための帰郷だ。

 駅には父・小林稔侍が迎えに来ていた。久しぶりの実家には、母・余貴美子が待っていた。だが懐かしい実家で気持ちが緩んだのか、一青窈は夕飯も待たずに眠ってしまった。そのせいか、夜中にコッソリと起き出して台所で食べ物をゴソゴソと漁る一青窈。そこに母も起きてきて、彼女に残り物を暖めて出してやる。そんな折り、一青窈はボソッと母親に打ち明けたのだ。

 「私、妊娠しているんだ」

 この出し抜けの発言に、母親はうろたえた。だが一青窈は平然たるもの。相手は台湾の「彼氏」、結婚はしない、一人でもちゃんと育てる…と一気に言われてしまい、母親は何も言えなくなってしまうのだが…。

 墓参りを終えても、一青窈はマイペースで何もなかったかのように振る舞う。むしろ困ったのは両親の方だ。こちらも何もなかったような顔はしているものの、本当は気になってたまらない。母親は一青窈が貯金なんかないのも知っているし、自分たちも年金生活で余裕がないと分かっている。だが、父親はただじっと黙っているだけだ。

 さて、そんな短い帰郷を終えて、一青窈は東京へと戻ってきた。

 相変わらず「江文也」の調べモノをする一青窈。浅野もそんな彼女に協力して、「江文也」に関わる町並みを調べたりする。そんな折り、「江文也」ゆかりの喫茶店の場所が見つかったとの浅野からの連絡。有楽町で待ち合わせ…のはずだったが、待ち合わせ場所へ向かう途中で一青窈は気分が悪くなる。

 体調を崩した一青窈を気遣う浅野だったが、彼女に「妊娠」の事実を聞かされるや複雑な表情。だがそんな浅野の気持ちなど一青窈は察するわけもない。

 それでも何だかんだと一青窈の世話を見る浅野。ある時は彼女のアパートへやって来て、自作のイラストを見せたりする。ただし、それ以上は進まない。あくまで他愛ない会話に終始する。

 そんな一青窈に突然両親から連絡が入る。何と二人で東京に出てくると言うのだ。何でも父親の知人が亡くなって、葬儀に参列する事になったらしい。こうして両親は、一青窈のアパートへとやって来る。

 これ幸い…と母親に好物の肉じゃがをつくってもらう一青窈。母親はこの機会に再び妊娠の事を尋ねてみる。傘の工場を経営している事、マザコン気味でとても結婚など出来ない事…相変わらず一青窈はケロッと話し続けるが、聞かされる両親の方はたまったものじゃない。

 父親は何か一青窈に言いたいようだ。だが、結局何も言えない。ただ黙って酒を飲む。

 そんなある日のこと、一青窈は浅野の姿を探すが、彼は出かけてしまったようだ。いつものように、趣味の鉄道のナマ録に出かけたのだろう。

 そのうち一青窈は、電車の座席に座りながら眠ってしまう。そこにたまたまナマ録中の浅野が乗り込んで来た。

 二人は一緒に電車から降りてくる。浅野がそのままナマ録を続ける間、一青窈はずっと黙って彼の傍らに佇んでいるのだった…。

 

見た後での感想

 申し訳ないんだけど、ハッキリ言って僕はこの映画に最初からあまりいい先入観を持っていなかった

 それは元々ここ数作のホウ・シャオシェン映画が、トホホな出来映えだったから…という事もある。そしてそんな最中のホウ・シャオシェンが、外国である日本でつくった映画だから…という事もある。何しろ…これがまた何を血迷ったか、「小津安二郎生誕100周年」記念映画だから…という事もある。

 だけど、そもそもこのお話からしてねぇ…。

 ヒロインの女の子の設定を考えてみてくれよ。東京で“一人暮らし”“フリーライター”の女。それが“妊娠”して“シングルマザー”をめざす。相手は“外国人”の男…。

 なんじゃこりゃ?

 何だなんだこの歯が浮きそうなヌルい設定は? 日本のバカなテレビドラマじゃあるまいし。いや、フジテレビだってこんな寒い設定でドラマつくらないんじゃないのか(笑)? こんな話、本当にホウ・シャオシェンはつくりたかったんだろうか? 松竹の奴にダマされて、イマドキの日本の若い女はこういうアホな話じゃないと喜ばないとでも言われたのか? まぁ、確かにそうかもしれないが(笑)。…しまいにゃ相手は韓流テレビスターだとか言い出すんじゃないかとヒヤヒヤしたよ(笑)。

 演じる一青窈って女の子も、西川きよしみたいな出目ばかり目立って全然魅力的じゃないし(笑)。いやいや…大変申し訳ないけど、見ていてどうしても出目が気になった。どうしてこんな子選んじゃったんだろう…と、ずっと不思議な気分になったよ。

 まずはこの映画の問題点から洗い出すか。この際だ、ウミを一切合切出しちゃった方がいい。まずそこから話を進めるのがよかろう。

 っていうと、まずはやっぱりヒロインだよな。

 まるで若い女に媚びまくったテレビドラマみたいな設定もあんまりだが、そこから作り上げられた人物像がまたどうにもねぇ。別にシングルマザーが悪いとかどうのとか、そんな事を言いたいんじゃない。このヒロイン、演じる一青窈って女の子の個性のせいかもしれないが、どうにも無神経で鈍感な女にしか感じられない。子供を一人で「ちゃんと育てる」と言ってる割には、貯金もないし当てもないらしい。どう考えたって…イマドキはどこへ行ったか分からないあの「たまごっち」ですら育てられそうもない(笑)。両親はしきりに気にしているようだが、この娘に何も言えない。もし間違ってキレたら面倒くさいとでも思っているんじゃないか? あるいは、こいつに言ってもしょうがないと思っているのか

 かと思うとこの女、古本屋の浅野忠信に何かというと頼り切る。この男、彼女に気があるのはミエミエなのだが、一青窈は分かっているのかいないのか。分かっていた上でアレコレ頼んでいるなら相当なタマだし、そうでなければ恐ろしく無神経で鈍感だ。「その気」を煽られたあげく誰かの子を妊娠していると聞かされたひにゃ、浅野も立場がないよな。この図々しさにはどうにも閉口させられる。それでも優しく受け入れてくれるオトコじゃないと…ってあたりがこいつの言い分なのかもしれないが、マトモに考えればどんな男だって御免こうむるよ。何でもかんでもテメエ中心に世の中は回らない。そもそも、こいつ何も考えてないんじゃないか?

 両親も浅野も言いたい事があるけど、なかなか言えずに優しく悶々としている。そんな悩みもないのは一青窈だけ。この頭悪そうな女は終始ボケ〜っとしてるだけ。ハッキリ言ってまったく共感できないキャラだし、リアリティもない薄っぺらさだ。いやいや…前言撤回、リアリティはあるな。実際こんな女はざらにいそうだが、この映画のヒロインにしちゃマズイだろう(笑)。

 繰り返し言うけど、シングルマザーになるから賛同できないんじゃない。だからフェミニズム的な言いがかりをつけて僕を攻撃されても困る。「フリーライター」とか「外国人カレシ」とかのアイテムと並べた時の“いかにも”感が寒いわけ。それに僕は、このオンナの無神経さとか鈍感さがイヤなわけ。少しは周りの人間の気持ちを察したり、建設的な事を考えろと言いたい。というか、ちょっとはテメエの頭を使え、このバカ女(笑)

 僕はそれが女だろうと男だろうと若かろうと年寄りだろうと仮に火星人だろうと、デリカシーも謙虚さもない人物にはまるっきり賛同する気はないんだよ。大体、デキちゃったって事は自慢にも何にもならねえだろうが。あまりにこの女が頭悪そうなんで、ボ〜ッとしてる間にやられちゃったみたいにしか思えない。神経ニブ過ぎなんだよオマエは。

 まぁ、ホウ・シャオシェンがこの女の子を選んだってのは、どうも彼女=一青窈の父親が台湾人だって事に理由があるみたいだ。…っていうか、理由はそれしかないんじゃないか? ホウ・シャオシェンは自分と関係ない日本のお話をつくるにも、どこか台湾とのつながりが欲しかったんだと思うよ。それは、ヒロインが劇中でずっと「江文也」という台湾人の音楽家について調べているあたりにも伺える。

 ただねぇ…これってお話として意味があるんだろうか?

 ヒロインは浅野の協力を得ながら、ずっとこの音楽家の事を調べていく。彼が通っていた喫茶店の場所まで調べて、今は見る影もないビルになった跡地をカメラに収める。劇中にもこの人の曲らしきピアノの曲が流れる。昔の関係者にも会って証言を聞いている。だけど…だから何なんだと問われたら、全然意味がないとしか言えないんだよね。

 そもそも…こう言っては何だが「江文也」ってどんな人か一般的に知られていないし、この映画の中でロクに説明もされない。これでは何かのメタファーにもなりようがない。おまけに「江文也」を語る時の一青窈と浅野忠信のセリフの気持ちの入ってなさと言ったら!

 ホウ・シャオシェンはこの映画でも俳優の生理を大切にしたいためか、全編を自然なセリフ回し自然な演技でやらせているみたいだ。そしてそんな調子でやっているからこそ、ここでの「気の入ってなさ」が余計に目立つ。絶対こいつら「江文也」なんて知らないし関心もない…と、見る側にはミエミエにバレてしまう(笑)。まぁ、浅野は単に彼女と親しくなるための口実として調べているだけで、「江文也」に何の関心もないとしてもおかしくはない。だけど、一青窈までそう見えちゃマズくないか? それとも、この映画での「江文也」って元々その程度の扱いでしかないのか? そう思ってみれば、確かにそうとしか思えないんだよね。

 台湾出身で日本で活躍した人だから…って事なんだろうけど、それと物語は何の関係もない。一青窈のお相手が台湾の男だっていうのも、実はあまり関係ない。意味ありげだけど、だからドラマに何かの味付けなり貢献をしているかと言うと、単なる思いつきに過ぎないとしか言えないのだ。ヒロインの相手はどこの奴でも良かったし、調べているのも何でもいいはずだよね、このドラマ展開では。

 何だか全部必然性がない、何から何まで単なる「思いつき」みたいに見える…。

 これって前作「ミレニアム・マンボ」で、大した理由も意味もないのに唐突に夕張ロケしたのに似てはしないか?

 僕は映画の要素ってものは、極力必然性がなければならないと思っているんだよね。現実を撮影して出来ているフィクションではあるが、そこに写っているものは意味があって撮影したもの、「あえて」それを選んで撮影したものであるべきだ。元々そう意図していたのでも、その場で出たとこ勝負で決定したのでも、それはどっちでもいい。それでも「そうあるべき」とちゃんと狙いと結果があってなされるべきもののはずだ。

 それが…ここんとこのホウ・シャオシェン作品には、「必然性」が認められない要素が多すぎる。

 これって、僕はホウ・シャオシェンには今、描きたい題材もネタもないからではないか…と思い始めているんだよね。

 そもそも、大した理由もなしに思いつきで「それ、いいね!」なんて決めてるロケとか要素なんて、元々ちゃんと確固たる創作モチベーションがないからだとしか思えないではないか。どうしても描きたい何かがあったら、そんないいかげんに安易に物事は決めないだろう。それは…実は描きたいモノもなくて、でも何かを描かざるを得なくて、仕方なくてもがくようにやっていく中で起きているのではないか。

 そもそも、そうでなければ「小津生誕100周年」記念作品なんて、よっぽどの無神経な奴でもなければ引き受けまい。これはホウ・シャオシェンにとって、作品をつくる格好のキッカケであり口実だったのではないか。

 もちろん小津へのオマージュ作品だからと言って、あのロー・ポジションとか会話シーンの独自の切り返しとかをパクる必要はまったくない。だがこの映画って、家族を扱って東京で撮影しているという事以外は、ほとんど小津との関連性はない。別に100周年なんて銘打たなくてもいい映画なのだ。

 それでもホウ・シャオシェンは、これをつくりたかったのだろうか?

 自分は「小津生誕100周年」記念作品なんかつくったつもりはない…とは、今さら言わせない。映画が始まってすぐに、どか〜んと昔の松竹ロゴが出てくるからね。間違いなく「小津のオマージュ」ですよと宣言しているようなものだ。これで無関係とは言わせないよ。実際、ホウ・シャオシェンには今回この「前提」が必要だったんだと思う。

 だって、それで彼には制作資金の当てがついた。しかも「小津へのオマージュ」作品という「お題」が与えられたのだ。では、そのワク内で出来る事と言えば何だ? とりあえず東京という街で撮影し、家族を題材にしよう。あとは好きにやればいい…。

 今のホウ・シャオシェンには、自分が描きたいネタ、描くべきネタがない。どうやって何を描けばいいかが分からない。だから人から与えられたネタとワクが必要だ。映画をつくるための「口実」が必要だ。それによって描くべきモノが手に入り、その制限や限界が見えてくる。それに合わせて、自分に何が出来るかを考えればいい…。

 そうでなければ、こんな映画が「小津100周年」として成立する理由が分からない

 この映画を評して、「これぞ現代に小津が生きていればつくったであろう作品…」などと言っている記事を読んだが、これを書いた人間は正気とは思えない。どう考えてもスタイルから言ってもテーマから言っても、小津とはかなり違っている。…というか、小津の墓の周りに「バイオハザード」のアンブレラ社特製のウィルスをブチまけて本人をゾンビとして蘇らせても、こんな無神経なヒロインが出てくる映画は絶対につくらないだろう。っていうか、ゾンビになってたら怒って食い殺されそうだよ(笑)。こういう厚かましさこそを、小津はもっともイヤがっていたはずだ。だってこのヒロイン、誰が何と言ったって「粋」じゃない。

 で、ホウ・シャオシェンもこんなヒロインの話は別に描きたかった訳ではないんじゃないか?

 というか、彼は何も思いつかなかったのではないか。それで仕方なく借りてきたような要素をハメ込んだ。いかにも「今風なオンナ」と思えるキャラを持ってきた。一応は「現代」に小津の精神を再現するかのような作品をつくるというフリをして…。

 もちろん「小津生誕100周年」と言っても、イマドキ「娘の嫁入り話」をやれとは言わない。いや…別にそういう「娘が…云々」みたいな話である必要はない。そもそも「小津」っぽい必要すらないと思う。だけど…この映画のあんまりな設定を見ていると、これってひょっとしたらすごく安易な決まり方をしたんじゃないかって気がしてくるんだよね。昔の小津映画はどれもこれも「娘の嫁入り話」…だけど21世紀に小津映画をつくるなら設定も変えなきゃ。それなら今風に「娘のシングルマザー話」に「カレシは外国人」で決まりでしょ…みたいな(笑)。自分で書いていても、それがあながち冗談になってない気がするからイヤになるんだよね。

 「一人暮らし」「フリーライター」「シングルマザー」「外国人のカレシ」…なんて“いかにも”アイテムで飾り立てられた理由は、たぶんそこじゃないか。でも…だからこそ、ヒロインのキャラとエピソードは借り物でしかない。こんなヒロインも彼女の妊娠も、ホウ・シャオシェンにとってはどうでもいいとしか思えないんだよね。

 この映画のエンディングに流れる一青窈自作のとってつけたような主題歌を聴いていると、僕の憶測がまるっきり妄想だとも言えなくなってくる。あれだって、「主題歌入れたいんですけど」「いいんじゃないんですか」ぐらいの、「どうでもいい」気分で入っちゃったんじゃないか?

 そういやホウ・シャオシェンは今回もまたまた夕張ロケをやらかしたらしい。結局完成フィルムからは省かれているようで、その点については賢明だったと言うべきだ。だがそもそも、またしても「思いつき」と思われる夕張ロケをやったという事自体が、ホウ・シャオシェンの相変わらずの低迷ぶりを伺わせるよね。

 それを考えた上で…先ほどの一青窈の父親が台湾人であることとか、ヒロインの相手が台湾男であることとか、「江文也」のこととかを考えてみると、何だかこの映画自体に漂う不毛な気分が伺えてくる。

 どうでもいいような繋がりであっても、何らかのカタチで台湾と関わりのある物語にしたかった。そこで自分との繋がりを持たせたかった。そうでもしなければ、彼には日本の映画はつくれなかった。…でもそうだとしたら、最初っからそんな意味のない無理をしてまで、日本の映画…「小津100周年」映画などつくらなければいいではないか。

 彼はそれでも映画をつくり続けるしかないのだろうか?

 

見た後の付け足し

 …とまぁ、自分でもよくもこれほど悪口雑言を並べたものだ。でも、これほど言ってしまったのはいささか酷だったかもしれない。

 何せヒロイン像があまりに「あんまり」だったのと、「小津生誕100周年」映画なんか引き受けちゃった恥ずかしさがあったので、そこでいきなり辟易しちゃった部分が大ってとこもあったと思うんだよね。だから、映画としてはちょっと酷な言い方をしちゃったかもしれないよ。

 …と言うのは、実はこの映画にはこの映画ならではのいいところもあるんだよね。

 例えば、それは、ヒロインの両親だ。

 小林稔侍と余貴美子が演じる両親が、実にいい。何ともリアルなんだよね。イマドキは殺伐とした親子関係を描くのが大流行で…確かにそういう親子もいるだろうが、この映画はそんな月並みな描き方はしない。まだまだこんな親子の方が多いんじゃないか…と思わせる、親子の自然でさりげない愛情を感じさせる描写が実に素晴らしいのだ。特に娘の妊娠が心配ながら、何もかけてやる言葉を見つけられない小林稔侍の沈黙の演技は特筆ものだ。言いたくて言いたくて仕方がないのに、何を言っていいか分からない。言えなくて言えなくて、ただ酒を飲んで黙っている。この映画ではバカ娘中心のお話はどうしようもないんだけど、この両親が出てくるくだりはビシッと引き締まっている。ここは本当に見応えがあるんだよ。

 このあたりを見ると、やっぱりホウ・シャオシェンって才能がある映画作家なんだと思うよ。まだまだやれるはずと思うんだよね。

 そしてもう一つ…この映画に描かれた東京の街の素晴らしさだ。

 さすがに「現代」の映画とは言え、「小津へのオマージュ」という命題がある以上、ギラギラした渋谷という訳にはいかなかったろう。ホウ・シャオシェンが選んだのはお茶の水やら神保町、有楽町などといった、いまだにかつての東京の風情を残した街ばかり。この選択は実に見事で正しかった。「ブレードランナー」みたいな東京ではない、存在感のあるもう一つの顔を見せてくれたよね。

 さらに優れているのは、そこに電車を再三再四画面に登場させたことだ。

 とにかくヒロインが電車に乗っている場面が長い。そして多い。移動の際には必ず電車。これが実にいい味わいを出している。

 そもそもホウ・シャオシェンは「恋恋風塵」の冒頭部分で、何とも鮮烈な電車からの風景をとらえているではないか。あの瑞々しさには思わず溜め息が出そうになったよね。だから彼は、元々電車からの風景を撮るのはうまいはずだ。

 しかも浅野が鉄道マニアというあたりで、この映画の電車の強調ぶりはさらに補強されている(浅野に変なイラスト描かせたのはマズかったと思うが)。いやが上にも画面に電車が出てこざるを得ない。

 この…東京を電車の街と捕らえたあたり、ホウ・シャオシェンは確かに非凡だと思う。長年住んでいる僕も、東京は電車の街だと思うからね。クルマでは暮らせない。東京人なら電車に乗るべきだ。電車に乗らなければ、ここの魅力は味わえない。この街はそういう風に出来ているんだから。

 ともすれば地方出身者に揶揄されケナされる「無味乾燥なつまらない街」東京を、ちゃんとキャラクターがある魅力的な街に撮っているあたり、東京に住む人間としては嬉しい気がしたよね。

 お茶の水と秋葉原間にある神田川の鉄橋の絵なんか、あれを撮りたいという気持ちは分かる。東京という街の特徴を本能的につかんでしまう感覚は、ホウ・シャオシェンいまだに鈍っていないんだよね。

 僕は東京の人間だ。そして東京の街が大好きだ。僕はこの街を愛しているし、これからもここで生きていく。ここよりキレイな街、物価の安い街、環境のいい街、便利な街…いろいろあるだろうけど、どこを探しても僕にとって東京以上の街は日本にはない。たぶん地球上にもないだろう。悪いがそこだけは人には譲れない。やっぱり僕は死ぬまで東京人なんだよね。

 だからその東京を素敵に撮ってくれたホウ・シャオシェンを、まだまだ僕は見捨てられない。実際のところ、「戯夢人生」、「好男好女」、「憂鬱な楽園」、「ミレニアム・マンボ」…さすがに「フラワーズ・オブ・シャンハイ」は見逃したが、ここ最近ずっと見てきたホウ・シャオシェン作品というと、僕には失望の連続でしかなかった。そんな「困った作品群」と比べれば、今回の「珈琲時光」は一番マトモに見れたし、親しみも感じないでもなかった。だから、次にはきっと挽回してくれると思ってるよ。

 きっと彼ならやれるはずだから。…やれるはずだよね(笑)?

 

 

 

 

 

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