「ヴィレッジ」

  The Village

 (2004/09/27)


  

見る前の予想

 シャマラン映画である(笑)。

 これで感想をやめてしまってもいいか…と思うくらい。ま、毎度おなじみM・ナイト・シャマランの映画くさい雰囲気が濃厚。またまたコワ〜い映画らしい。

 予告を見ると、お話はこんな感じだ。外界から隔絶された村があって、村を取り囲む深い森には「何者か」がいる。この何者かとは遠い昔から一種の「契約」が交わされていて、お互いの不可侵の領域を守ることで平和が保たれていた。だが、それがどんな理由からか分からないが破られ、村の平和が崩壊の危機を迎えてしまう…。

 「いかにも」な題材、「いかにも」な雰囲気…何かありげな雰囲気で引っ張って引っ張って…時々ド〜ンとショッカー演出。もし毎度おなじみの「いかにも」シャマラン映画の再現だったとすると…おそらくそうだろうと思うが…今回ももったいつけて引っ張った割には、実は「衝撃のラスト」はショボかったりするのだろうか(笑)。

 でも、最初はみんなホメちぎっていたくせに、最近になると誰も彼もが判で押したように「シャマランのハッタリぶりは最初っからお見通し」みたいな聞いた風な事を言ってるんだよね。みんながみんなそう言ってる。それ本当かよ? 最初はすっかりダマされてたアンタらじゃなかったのかい? 何だかそれもコッケイと言えばコッケイだよね(笑)。じゃあどこがどうハッタリなのか、みんな今ちゃんと分かってるんだろうか? 一度お説をとっくり聞かせてもらいたいもんだよ。

 まぁ、それはともかく…幸い僕は森の中に何やらが潜んでいる…という映画が大好きだ。あの一部にはやたら評判の悪いブレア・ウィッチ・プロジェクトも、結構キライじゃなかったりする。砂漠、雪と氷、そして森…こういう背景には無条件で惹かれてしまう。だから例えどんな結末になろうとも、退屈だけはしないだろう。

 だったら、出来るだけ早く見るに限る。シャマラン映画は大概「一発芸」の映画だ。それを何かで知ってしまったら興味半減…どころか、まったく面白くも何ともない。ワン・アイディア…たった一個のネタだけを思いっきり引っ張る映画なんだからね(笑)。

 

あらすじ

 アメリカの奥深い森に隠された、孤立するど田舎の村。ここでは今、村人総出で幼い子供の葬儀が行われていた。その墓標に刻まれた生没年は「1889〜1897」。たった8歳での幼い死に、父親ブレンダン・グリーソンの落胆ぶりは激しい。

 この村ではどんな事でも村人全員で分かち合う。家族の死も同じだ。広場にテーブルを並べて、村人全員で食卓を囲む。こうして痛みや悲しみも分かち合う。そこには現代には失われた美しき連帯と労り合いの精神があった。

 だがそんな村人たちの食卓も、思わず凍り付く一瞬があった。それは村を四方取り囲む深い森から、時折低いうなり声のようなものが聞こえてくる瞬間だ。何か「生き物」が吠えているのか? その声が聞こえるたびに、村人たちは不安げにあたりを見渡す。ただ一人だけその「声」を聞いていたずらっぽく喜ぶのは、知恵遅れでいつも無邪気にハシャぐエイドリアン・ブロディただ一人。彼はなぜか「声」を耳にするたび、不思議に楽しげな顔をするのだった。

 そして村の人々は、なぜか「赤い色」を恐れた。赤い色の花が咲いても恐がり、慌ててそれを摘んで土に埋めていた。それは「不吉な色」…「彼ら」に関わる色だから。

 そう、村人たちは昔からの言い伝えで、森の中に潜む「何者か」…「語ってはならない者」との「契約」の下に暮らしていた。お互い交わした契約を守り、それぞれの境域を犯さずに暮らしていれば安全は保たれる。先に挙げた「赤い色」の事も「契約」の一部だ。そして「彼らの領域」…村を取り巻く深い深い森に決して入ってはならない事も。だが、それがひとたび破られれば…。

 「語ってはならない者」がいかに恐るべき存在か。それは村人たちがいかに「彼ら」を恐れ、それに備えて用心しているかを見ても分かる。そのためにここでは夜通し村の周囲に松明を燃やし続け、明かりを絶やさずにしていたし、見張り塔には毎晩若者たちが交代で寝ずの番に立っていた。若者たちは夜中に森を背にして両手を広げ、高い台の上に立っている事が肝試しになっていたし、その状態を長い時間耐えられれば耐えられるほど度胸のある奴だと尊敬された。

 だが、これは決して村の「迷信」などではない。単なる「噂」でもない。現に村の学校において、教師であり村の「長老会」のリーダーの一人であるウィリアム・ハートにより、「事実」として子供たちに教えられている事なのだ。村の行事もあらゆる決まりも、この「契約」に基づいて進められていた。これはあくまで動かしがたい「事実」であり、守らねばならない村の「掟」でもあるのだ。

 だが、そんな村の掟に挑戦しようという者が現れた

 村の方針を決めるリーダーたちの集い…「長老会」が開かれているその最中、その人物は会議の行われている建物へとやって来た。その名はホアキン・フェニックス。同じく「長老会」のメンバーの一人、シガニー・ウィーバーの一人息子だ。だが今回、ホアキンは母親に黙ってやって来た。彼の直訴の内容が、村の「掟」に真っ向から挑戦するようなものだったからだ。

 ホアキンは、先のグリーソンの8歳の息子が亡くなった事件に、いたく心を痛めていた。突然の病い、そして為す術もない死。もし、しかるべき治療と薬があったなら…あの子は死なずに済んだのではないか? それは死んだ子供の事だけではない。村の将来にも関わる事だ。だからこそホアキンは「掟」に疑問を持った。「掟」には反するかもしれないが、森を通り抜けて外界の「街」へと行けるようにすべきではないか?

 自分にその役目を果たさせて欲しい…それがホアキンの主張だった。

 だが「長老会」はそんなホアキンの主張を認める訳にはいかない。結局結論は先送りになった。煮え切らない思いを胸に抱きながら、諦めきれないホアキン。

 そんなホアキンに思いを寄せているのが、あの教師ウィリアム・ハートの長女ジュディ・グリアーだった。実は彼女もホアキンが自分に「その気」があると自信満々。それを自分に言って来ないのは、ホアキンが無口で引っ込み思案だからだ…と思っていた。そこで彼女は自分からホアキンに言い出した。「私はあなたを愛してる。あなたの気持ちも同じだって知ってるわ!」

 だが、彼女は本当は全然分かっていなかった。かくしてグリアーは号泣して、盲目の妹ブライス・ダラス・ハワードに慰めてもらうアリサマ。

 そう、ハワードは誰にでも優しい娘だった。ハシャギすぎが高じて暴れたりもする、少々困った存在のエイドリアン・ブロディに対しても、いつも面倒見が良かった。ブロディも自分に優しく接してくれるハワードになついていた。

 そんな村人たちの暮らしが営まれている傍らで、少しづつ変事が起き始めていた。ハートが教える学校の前に、一匹のイヌの死体が捨てられていた…それも全身の皮膚を剥かれ、首をはねられた状態で。さらには村の家々の玄関に、なぜか赤い塗料が塗られていた。

 一体誰が? 何のために?

 「長老会」たちのリーダーたちは困惑し、その理由を探しあぐねていた。それらはまるで「彼ら」の警告のように見える。だが、何も我々は挑発行為はしていない…。

 村は平和そのもの。誰もがみな助け合って生きている「理想郷」だ。誰もがこの秩序を崩そうとは思っていない。

 外の世界ではこうはいかなかった。ある者の縁者は無惨な姿で亡きものにされた。ある者の肉親も殺された。恐ろしい事、醜い事がたくさんあった。だが、ここならみなが平和に暮らせるはずだ…。

 そんなある日、あの盲目の娘ハワードはホアキンに告げる。彼がなぜ姉グリアーの求愛を拒絶したか分かる、なぜなら…。

 「昔は私と手をつないでくれたのに、ある時からつないでくれなくなったわ…」

 内気なホアキンは、ついつい黙ってしまう。しかしそんな二人に割って入ってきたブロディが、彼らを驚愕させるモノを持ってきた。

 それは…真っ赤な木の実だ!

 聞くとブロディはしばしば森の中に入り、その木の実をもいで来ていたと言う。これはホアキンにとっても意外な事実だった。意を強くしたホアキンは、さらに強く「長老会」に主張する。ブロディが森に入っても無事だったのは、彼が子供のように無邪気だったからだ。邪念や悪意がないないことは「彼ら」にも伝わる。ならばホアキンが森に入っても、同じように無事に済むはずだ…。

 だが事態はまったく進展しない。しびれを切らしたホアキンは、ついつい森の中へと足を踏み入れてしまう。一歩また一歩…。

 すると、何者かがその場でホアキンを見張っているかのような気配が…。それに気づいたホアキンは、一瞬怯んで村へと戻ってしまった。

 その夜、見張り塔では若者の一人マイケル・ピットが、例によって寝ずの番をしていた。すると何やら怪しげな気配がする。下を見下ろしてみると…。

 赤装束に身を包んだ「何者か」が、ササッとゴキブリのように素早くうごめくではないか!

 大変だ!

 マイケル・ピットは慌てて見張り塔の鐘を打ち鳴らす。村中に鳴り響いた鐘の音は、村人たちを恐怖と戦慄のどん底に叩き込んだ。

 逃げまどう村人たち。村にはこんな時のために…と、各家にそれぞれ地下の隠れ家が設けられていた。村人たちはみんな家に逃げ戻ると、慌てて地下室へと閉じこもる。

 グリアーとハワードの姉妹も、もちろん鐘の音は聞いていた。たまたまこの夜は父ハートが家を空けていたので、姉グリアーはたまたまその場にいたブロディを伴って地下室へ。だがハワードは危機が迫っているのにも関わらず、家の扉を閉めようとはしない。彼女はホアキンがまだ外にいるのを、敏感な感覚で感じていたのだ。「彼がまだ隠れていない。彼を閉め出してはいけない!」

 確かにホアキンはまだ野外にいた。勇気のある彼は、どうしても「語ってはならない者」の正体を見極めたい衝動にかられていた。物陰にかくれて様子をうかがうホアキン。その目の前を「語ってはならない者」が通り過ぎていく。

 何だあれは? ひょっとしてプレデターか(笑)?

 それは赤装束に身を包み、長いかぎ爪を持った得体の知れない生き物だ。だがこれ以上は、さすがのホアキンも耐えられなかった。

 そんな事をやっているうちにも、物音は姉妹の家に近づいて来る。姉グリアーは早く扉を閉めるように叫んでいるが、妹ハワードはあくまでホアキンを待っていた。そんな彼女の玄関先に、あの赤装束の「もの」が迫ってきて…。

 間一髪!

 脱兎のごとく駆けつけたホアキンは、姉妹の家に飛び込むと扉を素早く閉じた。さらにハワードを伴って隠れ家へと飛び込む。すんでのところで間に合ったホアキンは、いつの間にかハワードの手をしっかりと握っていた。それはホアキンが初めてハワードに見せた、彼の思いのたけでもあった。

 それにしても…今まで村の中にまで「彼ら」がやって来た事はなかった。動転する村人たちの前で、ホアキンは耐えきれずに「自首」する。彼は先日の森への進入を、潔くみんなに認めたのだった。

 そんなホアキンに対して、ハートは責めるどころか畏敬の念を持って告げた。「君は途方もない勇気の持ち主だな!」

 やがてあのグリアーが、別の村の青年と結婚する事になる。彼女の立ち直りが早かった事は、ホアキンにとってもハワードにとっても幸いだった。結婚式はまたまた村を挙げての行事となり、村人は集落を離れた広場で大宴会を催した。ところが…。

 またしても「彼ら」が現れた!

 たまたま子供たちが「彼ら」の姿を見かけたと言うのだ。たちまち祝宴は凍り付き、村人たちは慌てて村の集落へと急いで戻る。

 すると、家々の玄関にはまたしても赤い塗料が塗られ、家畜たちが無惨な姿で殺されていた。これは果たして「彼ら」による“宣戦布告”なのだろうか?

 その夜、ふと家の外を見たハワードは、そこにホアキンが佇んでいるのに気づく。いつまでも煮え切らない態度を続けるホアキンに、ついつい苛立ちをぶつけるハワード。「どうして自分の気持ちを言わないの?」

 そんなハワードの言葉に、ついにホアキンは堰を切ったように語り出す。「どうしてみんな本音を明かせと言うんだ。気持ちを言って何になるんだ。僕が朝から晩まで君に夢中で、今夜もこうして心配だから番をしているって言って、それが一体何になるって言うんだ!」

 それが…二人の「婚約」だった

 翌朝、二人の決意は村人たちの知るところとなった。その「収まるところに収まった」結末に、村人誰もが祝福した。ただ一人を除いて…。

 その朝ホアキンの仕事場を訪れたのは、あのブロディだった。彼の困惑した表情を見て、ホアキンはその気持ちをすぐに察した。「愛にはいろんなカタチがあるんだ…」

 穏やかに説得しようとしたホアキンの身体に、いつの間にかナイフが突き立てられている…。

 自宅に戻ってきたブロディの両手は、血で赤く染められていた。慌てた人々は、一体誰が犠牲になったのかを探しに探す。イヤな予感に突き動かされて、ハワードはホアキンの仕事場へと急ぐ。そこで傷ついたホアキンを見つけたハワードは、半狂乱になって叫び狂った。

 ブロディは「仕置き部屋」に監禁される。そこに面会を求めたハワードは、ブロディの横っ面をしたたかにひっぱたいた。慌てて止められたハワードはすぐに外へと連れ出されるが、ブロディは部屋の中で泣き叫んで暴れ回る。

 そして、ホアキンはかなりの重傷だった。

 傷口から感染症になって、危険な状態が続く。このままでは持たない。悲嘆に暮れる娘を見かねて、ハートは医師に尋ねる。「何か手だてはあるのか? 可能性をすべて言ってくれ!」

 やがて思い詰めたような表情で、ハワードは父ハートに直訴した。自分を「街」に行かせて、ホアキンを助けるためのクスリを手に入れるために「街」へ行かせて…。

 しばし躊躇したハートだったが、娘の真剣な表情にためらいも消えた。彼はハワードを連れて、なぜか村はずれの古い納屋へと歩いて行ったのだが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まずは今までのシャマラン映画について、ここでもう一回総括しておいた方がいいかもしれない。少なくとも僕はこう思う…ってのを出しておかねば、話が前に進まないだろう。

 なお、ここからは微妙にこの作品以外のネタバレの要素が濃厚になるので、その部分はすべてリンクによって外に飛ばした。覚悟がある方、すでにご存じと思われる方だけご覧になっていただきたい。

 まずはシックス・センス(1999)。これは世評も高く、大ヒットもした。シャマランが一気に知られるようになった映画がこれだ。ただし、この映画の僕の感想文を読んでいただければお分かりかと思うが、僕はこの映画に少々辛い評価を下した。いろいろ理屈はこね回しているが、要は言いたかった事はただ一つ。

 「これってそれほどのモンかぁ?」

 確かによく出来たドンデン返しだとは思う。そこまでの持っていき方も申し分ない。だが、それであの圧倒的な評価ってのはどうだろう? 僕はここで二つの不満を持った。

 

(1)それほど独創的なオチなのか?

 実はこの映画のオチは、公開当時騒がれたほどに独創的なモノではない。SF小説やホラー小説に親しんでいる人間ならば、割によく知っているネタだ。映画でも見かけないオチではない(注1)。別に独創的でなければならない…とは思わないが、あれほど仰天するほどに騒ぐものではあるまい。「シックス・センス」に対する圧倒的なすごい評価は、いささか大げさに過ぎるのではないだろうか。

(2)オチ一個だけあればいいのか?

 もっと気になるのは、映画のすべてがそのオチ一点に集中している事だ。いろいろいわくありげな雰囲気が漂っていながら、フタを開けて真相が明らかになると「それ」だけ。それって映画としてはいささか貧困な内容とは言えないだろうか。映画のすべて…とは言わずともほとんどの要素が、最後のオチだけに貢献しているとは。

 さらにそのオチが何らかのメランコリックな思いなどへとつながっていけばいいのだが…確かに主人公ブルース・ウィリスの扱いなど考えればそう言えなくもないんだけど、やっぱりただ驚かしただけ…で終わっているように思える。それってどこか不毛ではないだろうか。だってあれだけ引っ張って、結局ミの部分は「あれ」一個だけって事なんだよ。

 

 ただね、繰り返すようだけど「うまくやったな」って気はあるよ。あれがテレビ東京の昼間か深夜ワクで1時間半ぐらいの映画でやったんだったら、僕は「こりゃ凄い傑作だ!」って騒いだかもしれない(笑)。

 だけど世間が一様に「傑作」の大合唱。しかもホラー、ショッカー映画よりも、まるで「文芸大作」風の重厚な雰囲気で売りに出され、受け取られているってのはいかがなもんだろうか? ま、一言で言うと「大げさ」だし、「過大評価」って事になるんだろうかね。

 次のアンブレイカブル(2000)は…どうなんだろう、これの世間での評価は。僕はこれでシャマランの正体がバレたと思っているんだけどね。少なくとも僕が見に行った劇場では、客はみんな怒ってたよ(笑)。あんなに映画館でお客が怒ったのを見たのは、「ビッグ・ウェンズデー」ラスト・クレジットで日本語の歌が流れた時以来だ(笑)。

 そりゃそうだろう。オープニングから何だかやたらと仰々しい。まず冒頭に意味ありげにアメコミについてのウンチクが並ぶ。そして本編が始まってからの重厚かつスローテンポな展開。何も事件が起こってないのに、とにかくみんな深刻な顔をしてスローテンポ。何が起きるんだ何が起きるんだ…観客はどんどんジレながらも先が気になって仕方がない。そして…これから何かが起きるのかと思った矢先にエンディング(笑)。ひょっとして…今のってもしかしたらオチだったわけ(笑)?

 でも、シャマランは別に何も変わった事はやってない。「シックス・センス」の時と基本的には変わってない。だから最初からこの男はこうだったんだよ。たった一個のオチを大事に大事に、引っ張って引っ張って…。今回の敗因はいろいろ考えられるが、結局シャマランの慢心ということに尽きる。

 ちょっと引っ張って重厚感を出したら、元々が単なるバッタもんなのに客が勝手に「文芸大作」「感動大作」並みに勘違いしてくれた…それに味をしめてしまったシャマランが、引っ張って引っ張って深刻な顔してシリアスなふりさえすれば、映画そのものにハクがついてくる…と思いこんでしまった。もっともらしくハクさえつけば、観客はたかがネタ一個だけのB級映画だって気づかないと思いこんだ。ならばもっともっと引っ張って引っ張って、もっともっと重厚にスローテンポに、もっともっと俳優は深刻な顔をして、大変な映画だと思わせてしまえばいい。

 だが、やっぱりモノには程度というものがある。それをシャマランは分かっていなかった。

 そもそもそれに耐えうるほど、自分が思いついたオチが凄いのか…という、健全な疑問がまったく湧いてこなかった。自分のやる事は凄いんだ…と勝手に思いこんでしまったんだろう。そう考えると…このシャマランという男、あんまり頭は良くないのではないか(笑)。少なくとも、クリエイティブな仕事をするにはあまりに単純だとしか思えないもんねぇ、悪いけど。

 致命的なのは、そうして限界値を超えたジラし方で引っ張りに引っ張っただけでもマズかったのに、提示したオチが何ともつまらなくて勘違いモノだったこと(笑)。観客は主人公に感情移入する。その主人公に関わる…主人公の世界観がガラッと一変してしまうような、主人公の立場が一気に危ういものになってしまうような、そんなオチだからこそ観客のハートをわしづかみに出来る。「過大評価」だ何だとケチこそつけたものの、僕も「シックス・センス」についてはそのへんがよく出来ていたと認めざるを得ない。

 ところが「アンブレイカブル」では、オチは相手役サミュエル・L・ジャクソンに関わる事だった。別に主人公の立場が激変するのでも何でもなければ、正直言って「ふ〜ん」で終わってしまうオチだ。というか、オチにならない。それを知ったところで、「…で、どうしたの?」と来るだけだろう。

 ところが映画はド〜〜〜ンと衝撃的な事実が露見したとばかりに大げさにけたたましく終わる。これじゃ見ている側は、「なんじゃこりゃあ?」とキツネにつままれた気分になるだろうね。

 かくしてシャマランは自己過信のあげく、思い切り墓穴を掘ってしまった。だだし、それなりに「アンブレイカブル」は当たったらしく、シャマランはこれを墓穴と気づいたかどうか。仮にそう分かったところで、反省できるものかどうか。と思ったら、次の映画はハズしなしのメル・ギブソン主演ではないか。

 サイン(2002)はどこがそれまでと違うのか…と言えば、実は全然変わらない(笑)。引っ張りまくりで重厚で思わせぶりで深刻で、そして一発オチ勝負。

 ただ、この映画は成功だったと思うんだよね。

 一つには、この映画では引っ張りも重厚さも深刻さも、さすがに「アンブレイカブル」ほどは度を超していなかった。それと前作は題材としたものをスッキリ出していなかった往生際の悪さが目立っていたが、この時はストレートに出しちゃったという点もあるんだろう。だって前作はハッキリとSFで漫画ネタなのに、それと見せないような「文芸大作」風が過ぎたもんねぇ。そういう「誤魔化された感」が「サイン」にはないのだ。ちゃんとB級SFには見える。要は最初から堂々とゲテモノです…と言ってくれればいい。ならばこっちだってダマされた腹立たしさもないのだ。さらに深刻なトラウマ男ってのは、メル・ギブソンの十八番ではないか。だから不自然さもない。

 そして何よりも…オチそのものが主人公の「生き方」に関わるものだった。

 やっぱり主人公に関わるオチやドンデン返しでなければ、観客も一緒にショックを受けてくれない。「サイン」はそこがうまく機能した。しかもオチの先まであった。オチの結果として主人公がどうなったか…までが提示された。観客はシャマランの用意した脅かしのため「だけ」に、2時間あまりも付き合わされたというイヤ〜な感じを味合わずに済むのだ。やっぱりこれが「映画」というものだろう。

 ハッキリ言ってこの映画の仕掛けなんていいかげんなものだ。アレがモロに出ちゃうのはどうか…とか、水の惑星・地球なのにどうか…とか、ヤマ場もわざわざあんな回りくどい事をしなくちゃならないのか…とか、考えてみるとバカバカしくも不自然な事ばかり。ただ、この映画は最初からミステリーサークルが出てくる、B級SFだからねぇ。誰がどう見たって「文芸大作」顔は出来ないでしょ(笑)。

 だから、映画全体とオチとの連動がうまくいったという事に尽きると思う。そもそもタイトルの「サイン」について見る側誰もがミステリーサークルの事だと思うあたりから、その仕掛けは始まっているのだ。え〜と、そのへんは僕の「サイン」感想文を参照して欲しい。これ以上何か書くとバレちゃうよね(笑)。

 で、ようやくこの映画の話に入る。今回はどうだったのか?

 まったく変わらない(笑)。

 全然やってる事は変わらない。引っ張り、重厚、思わせぶり、深刻…そして一発オチまでまったく変わっていない。まるっきり同じだ。

 で、僕はどう思ったのか?

 何と言えばいいのか…言うなれば一勝一敗一分けみたいなもんか(笑)。

 最初は、今回のイマイチな部分から述べて行こう。厳密にはイマイチとも言えないんだけどね。ここが今回の映画の難しいところなんだけど。

 まず今回の映画は、なぜかシャマランがますます例の「引っ張って引っ張って」…の要素を希薄にした観がある。「引っ張り」を極限まで押し進めた「アンブレイカブル」で懲りたのか、「サイン」ではそこまでのあざとい「引っ張り」はしなくなっていた。それが今回はますます希薄になっている。「粘り」やら「ハッタリ」には乏しい。

 この「ダマしたるで〜」と言わんばかりの、シャマラン独特のギラギラしたハッタリが失せて来たというのは、一体いかなる心境の変化によるものなんだろう。女にでも惚れたのか(笑)。

 で、毎度お馴染みのオチだけど…今回は大ネタ一つと、それに伴う小ネタが一つって感じ(笑)。大ネタの方に関しては…やっぱりすでにどこかで見たネタなんだよね(注2)

 まぁ、先にもずっと述べて来たように、シャマランはSFやホラーの熱心なファンらしい。他にも「サイン」の一場面に日本の東宝映画世界大戦争を引用していたり、映画にしろ小説にしろあちこちから熱心にパクってはいる。

 そんな訳でこの「大ネタ」も、実は僕は見ていて割と早い段階でネタ割れしていた。おそらく見ている方の多くも、ある程度のところで底が見えてしまうだろう。これはシャマランもバレると踏んだか、途中で自分からネタを割っちゃってたね。次に小ネタだけど、これもバレちゃうというか隠してないよね。つまり、今回はハッタリや引っかけ感が実に希薄なんだよ。やってる事は同じなのに、その雰囲気が薄い。

 で、何しろサプライズの内容がお寒いので、何ともお話のスケール感が縮んでしまう。ここはすでに「ヴィレッジ」を見た方だけが読んでいるものと仮定して語るが、ズバリと言ってナマハゲみたいなのが出てくるだけだからねぇ。この時点でそれが怪物ではあり得ないのは観客に分かっているし、襲う気配もないからヒロインは無事というのも僕らには分かっている。怖い訳がない。

 しかもそれがマヌケな事に、テメエで落とし穴に落っこちるというのがヤマ場(笑)。実は見ていた劇場では笑いが起きていた。僕も正直言って笑っちゃったけどね。大騒ぎしたあげく「あれ」かい…って結末だから、笑うなってのが無理だ。「サイン」のアレも相当アホなんだけど、ハッタリ演出のおかげで見ている間はそれほど気にはなってなかった。今回は見ている最中にアホが露呈してしまう。どうも隠そうとしているとも思えない。

 というか、実はこのくだりでシャマランが何を狙っているのか、どうにも分かりかねる部分があるのだ。ナマハゲが怪物でない事は、この時点でヒロインにも分かっているし僕ら観客にも分かっている。にも関わらず出てきた…という意外性で驚けと言われても、そりゃもう無理と言うものだ。

 しかもそのヒロインの前に現れたナマハゲの正体すら、早々に観客にバラしてしまう。そうなると、僕らはあの場面で何を恐がればいいと言うのだ。

 まぁナマハゲの正体は、確かによく考えてみれば怖いと言えば怖い。そこに至る行動から見て相当危険なヤツではある。とは言え、それが怪物でないと分かった時点で、すでに観客の興味もサスペンスも急激に減退しているのだ。これって作劇上はかなりガタガタな脚本なのではないだろうか? もう何だか緻密にコツコツとウソついていこうとか、さもなければ馬鹿力で一気に勢いで押していこうとか、そういう気持ちすらないみたいなんだよね。バレちゃったらバレちゃったでもいいやって感じで、途中でフッと力が抜けたみたい。そういう事に興味なくなっちゃったみたいなんだよね。やっぱりシャマラン、女にでも惚れたんじゃないだろうか(笑)

 では、今回の良かった部分。

 実はイマイチな部分が、この映画のいい部分でもあるのだ。「引っ張って引っ張って」をやめてケレン味を減らした事が訴求力を弱めてはいるが、同時にシャマラン映画特有のイヤミな味も減らしてくれている。だから早めにオチがバレても、オチそのものが大した事なくても、僕はあまり気にならなかったんだよね。アホなオチも笑って済ませられた。

 でも、これって重要な変化って気がする。なぜなら「アンブレイカブル」では、観客はみんな笑うどころか怒り狂っていたからね(笑)。怒る気になれないってのは、お客もそれを折り込み済みにしてくれてる、まぁ許せてるって事なんじゃないか? 過度にもったい付けてなかったからこそ、お客さんも今回は許せた。

 それは、お客さんへの「誠実さ」って事でもあると思うのだ。

 今回、確かにそれはあちこちに感じる。そもそもホアキン・フェニックスはじめ、クセモノのウィリアム・ハートやシガニー・ウィーバーも…これほどのメンツが配役されているのにも関わらず、怪しげな芝居はさせられていない。むしろ至って大人しめだ。シャマラン映画にしては極力ハッタリは排除されている

 何よりも今回はシャマランが発掘してきた新星、ブライス・ダラス・ハワードが後半で大活躍。彼女の可憐な可愛さで、真っ正面から押して押して押しまくる。他はともかく彼女に関しては正攻法の直球ストレート一本勝負。健気な彼女を応援するかのように、映画もどんどんこの女の子を後押ししていく。これには正直言って驚いた。あのシャマランがケレンを捨ててしまったのも、そんなものより可愛い女の子を一人置いた方がよっぽど映画のためだと悟ったからではないか。彼が途中で「ご自慢」のオチを披露することに大した価値を見いださなくなったのも、実はそのあたりの事が理由ではないかと思うのだ。だって、まるでオチを押し出す事に興味を失ってしまったみたいだからね。

 ひょっとして、シャマランは「この女」に惚れたんじゃないか(笑)?

 いやぁ、結構これはマジで言っているのだ。キャンペーンで東京にも二人で連れ立って来てるしね(笑)。何とか彼女と仲良くなりたい…と、シャマランがあちこちセコく手を回したような気がする。ハワードの方はともかく、シャマランは惚れたとしてもおかしくない。そっちの疑いの方が濃厚だ。大体今回の映画に関するコメントで、クドクドと「これは愛の映画だ」とか繰り返しているのが怪しい。あれでも彼女を口説いているつもりじゃないか、シャマラン! 仮にそうでなかったとしても、映画を撮っている間はヒロインに夢中になってたはずだ。

 あなたが男だったなら、胸に手を当てて女に惚れた時の事を思い出して欲しい。この映画のホンワカしたボケっぷりは、それらと同じ感情を示してはいないか?

 だからこの映画の緩みっぷりにも、なぜだか見る側は憎めない。たぶんこの映画はシャマラン映画で一番好感を呼ぶんじゃないのか。だってダメなところまで憎めない。ぬくもりみたいなモノまで感じるからね。いつもは自信満々で大したネタでもないのにブラフかましたハッタリ野郎のシャマランなのに、今回はなぜかひどく謙虚だし誠実だ。変な顔のくせに毎回偉そうにカメオ出演する出たがりぶりも、今回は反省したのかえらくささやかな出番だしね(笑)。だから見ていて好感が持てる。あの女優に何かやんわりと言われたんじゃないか(笑)?

 今回の一発ネタが弱かったというのも、そうなるとケガの功名と言えなくもない。ネタが弱かったから、それだけに頼り切る事を諦めた。だからかえって映画のキズも浅くて済んだ。おまけに可愛い女優でその分を穴埋めしようとしたから、十八番の力業でゴリ押しするオチの時より愛すべき映画になった。

 だったらいっそシャマランはフラれた方がいいかも。というか、とっくにフラれてるかもしれない。あいつってオタクだし変に偉そうだから、女に好かれそうもないよね。例えモテたにしても、それは金目当てに遊ばれてるだけだろう(笑)。

 それにフラれた方が、あいつの映画にいい味が出ると思うからねぇ。間違ってうまくいきでもしたら、あいつのことだから勘違いして増長しそうだし(笑)。

 ともかく今回は、シャマランの柄にもないベタ惚れが「吉」と出た

 どんな頭が良かろうと、計算づくの結果などタカが知れている。まして頭が悪ければなおさら(笑)。本当に人の心をつかむのは、いつだって真摯で素朴な感情なんだよね。

 

見た後の付け足し

 というわけで一勝一敗みたいなこの映画、実は他にも勝ち負けとも言えないグレー・ゾーンが存在するのだ。このあたりも評価する上では実に微妙。

 まずこの映画、ハッキリ言ってお客さんはSFかホラーかどっちかのジャンルだろうと思って見始めるはずだ。森に何がいるにせよ、それは宇宙からの訪問者か化学物質などの突然変異か古代から生息していた生き物か(いずれも一応は科学的に割り切れる存在だからSFだ)、あるいは怨霊・魑魅魍魎・妖怪の類か(超自然的存在だからホラーだ)…これらのどちらかだろうと思って見始める。この映画は、それを根本から覆してしまう設定になっているわけだよね。

 作戦としては「サイン」の場合と同様で、タイトルが意味するものがミステリーサークルだとミスリードしていって、実は…というパターンをそっくり踏襲。観客が見る前から抱いているイメージそのものをひっくり返すというものだ。それ自体は決して悪くはない。

 今回の映画の配役からそれは行われていて、いつもと比べると知られた役者を数多く使っているキャストの中でも、ウィリアム・ハートとシガニー・ウィーバーはクセモノなキャスティングと言える。それは明らかにSFホラー・イメージの補強のためのキャスティングだ。ハートはデビューからして「アルタード・ステーツ/未知への挑戦」だし、「A.I.」などもある。ウィーバーに至っては「エイリアン」シリーズを抜きには語れない。ハッキリ言ってこの二人は、この映画がSFかホラー・ジャンルの映画である…というイメージづくりのために配役された事が明らかだ。逆に言うと、そうでなければどうでもいいようなオバチャンの役にウィーバーを配役した意図が分からない。

 つまり最初からシャマランは、SFでもホラーでもないものを「それ」っぽく見せようと意図してやったのだ。で、正直言ってこれって反則スレスレではあるんだよね。

 イマドキの映画ファンには、それのどこが悪いか分からないかもしれない。もちろんそういう「反則技」をやっても別に法律で捕まるわけではない(笑)。実際今まででもそれをやった映画はいくつかある。

 だが、最近この手のジャンルの越境を、割と無神経に野放図にやっているのが気になる。例えば近作で言うとロバート・ゼメキスのホワット・ライズ・ビニース(注3)など…他にもいろいろあったと思うが、特にこの映画はその傾向が顕著だった。

 これをやったら、実は映画って何でもありって事になってしまうのだ。そうすると…例えば犯罪が白昼堂々行われたのに目撃者がいないという場合でも、犯人は「透明人間」でした…とかいうフザケたオチがまかり通ってしまう事になる。普通なら実際に可能な犯罪の手口を一生懸命考えるか、トリックを作り出して観客をダマそうとするところを、まるでバカみたいな理由で乗り切れる事になる。これってあまりに幼稚だし、安易な解決法になりがちだよね。

 また観客の方でも、ナゾを提示されてもマトモに考えなくなる。密室での犯罪だったら、どうせガス人間の仕業だろうとか…これが最初からSFならいいよ。でもナゾ解き映画風だったら問題があるだろう。

 つまり、これをやっているとクリエイターの自滅とも言える。映画がダメになるよ。

 「ヴィレッジ」の場合には、超自然的な何か(SFかホラー)かなと思わせて実は「リアル(現実)」だったから、何とかかんとか反則だけは免れた。「ホワット・ライズ・ビニース」の逆だからセーフになった。ゲテモノのフリして実はマトモな現実の話だったから、ダマされても反則感は少ない。許せる気がしてくる。

 これが逆サマなら明らかに反則だ。マトモな現実の話と思っていたらお化けや怪物が出てきちゃったとなれば、やっぱりそりゃマズイだろう。あなたは「トロイ」のエンディングが怪獣の出現で終わったら、果たして黙って見てるかい(笑)? 「誰も知らない」の主人公の少年が、タイムマシンで危機回避したら納得できるか?

 そんなわけで今回はギリギリでセーフかな…と思わせる程度にとどまったからいいようなものの、何となくシャマランもヤバい領域に入って来たかなという予感はするよ。

 そのヤバい予感はもう一つある。

 結局、怪物の正体がナマハゲでした…って「あれ」ね(笑)。

 例えばSF映画などで人間が怪物の着ぐるみに入って登場しても、見ている側はそれを「怪物」と見るのがお約束になっている。そりゃそうだろう。映画とはそういうものなのだ。ウソをマコトと見ることで、作り手と観客との間で合意が出来ている。

 ところが「怪物」だと思ってたら「人間」でした(笑)…ってオチは、この「合意」を作り手が一方的に破棄する事に他ならない。それを言うなら、誰だって最初から怪物なんていないって知っているよって事になる。ハッキリ言うとやり方が「汚い」のだ。

 着ぐるみを「怪物」として見せるのかと思ったら、やっぱり「人間」でした…って身もフタもないオチは、すでに一部のB級SF映画(…と言うべきかどうか分からないが)などで使われている(例4)。だが、案の定それをやったら映画としては著しく盛り下がるよね。

 今回オチへの持っていき方が中途半端で、途中でメゲちゃったような印象も感じられるのは、おそらくシャマランもこのへんの脚本の弱さを自ら感じていたからではないか。確かに無理がありすぎだからね。そこにブライス・ダラス・ハワードという逸材を見つけた事もあって、オチはもういいから「愛」で押し通そうと考えが変わったのではないか。そうとしか思えない。途中で明らかに構成が混乱しているあたりも、それを伺わせるんだよね。

 しかも、脚本の粗さは他にも目立つ。

 そもそも、こんな村だけで自給自足が成り立つのか。第一世代の住民がそれぞれ心に傷を持ったからと言って、何もあそこまで現代社会を遮断する事があるだろうか。それだけのために、村一つをつくって時代を逆行させて怪物までつくるだろうか。盲目の娘が森の中を一人で突っ切るという設定自体が無茶そのものではないか。…万事が万事この調子で、何から何まで不自然としか思えない。以前だったらとりあえず見ている間だけは気づかなかった不自然さが、今回は見ているそばからボロボロと露呈していく。まずはシャマランにそれを見せ切る粘りが足らなかったとは言え、元々の脚本もかなり弱かったと思うよ。

 さらには、人間の心理というものも分かっていない気がする

 映画の冒頭でブレンダン・グリーソンは幼い息子を亡くして悲嘆に暮れている。街までクスリを買いに行ければ助かったのに…。だったら今度ウィリアム・ハートが娘を街に行かせると聞いて、グリーソンはどう考えても怒り狂うのではないか。何でテメエの娘のオトコならいいんだ…と怒るのが人情だろう。

 しかもその娘ブライス・ダラス・ハワードが「怪物」を殺したと聞いて、怪物に化けていたエイドリアン・ブロディの両親はどう思っただろう。元はと言えば身から出たサビとはいえ、「はい、そうですか」とはいかないのが人情ではないか。ウィリアム・ハートに「これで村は安泰だ」なんて言われたら、思わず頭に来るのが普通ではないか。

 どうもこういうところを見ると、シャマランは人の気持ちってのが分かっていないんだよね

 その無神経さや人間をナメたところは、どこか韓国ホラー映画箪笥」のキム・ジウンを彷彿とさせるところがある。元がオタクだから仕方ないとは言え、シャマランだってもうイイ大人。そもそも、これで脚本料を1000万ドルももらっちゃいかんだろう(笑)。そういう意味ではシャマランの矛盾と問題点が改めて露呈した作品と言ってもいい。

 ただ、今回はこれはこれで良かったのではないか

 オチがつまらなくなったり、そこに持っていくまでの段取りが粗っぽくなったりしたって言うのは、やっぱり毎度毎度オチ一発勝負ってのには限界があるって事なんだろう。そろそろ手がなくなってきたって事だと思うんだよね。しかも今回オチに持っていくまでの粘りに欠けていたっていうのは、シャマラン本人もそのへんの限界に気づいたのかもしれないし、飽きてきたのかもしれない

 だとすれば、これはチャンスではないか

 今回あえて乱暴ではあっても、ブライス・ダラス・ハワードを可愛く可愛く健気に描いて押し通してしまったというのは、シャマランとしては大進歩だったと思うんだよね。そして、必ずしもオチを見事にキメなくても映画はちゃんと成立するって当たり前の事を、シャマランは改めて知ったんじゃないかと思う。現にオチはガタガタだし構成もガタガタだったけど、何となく映画は収まるところに収まった。結構「反則」も「ズル」もやらかしてるんだけど、そこはそれハワードの健気さで相殺されてしまった。そして、なぜかいつも欠けている「人間味」を得る事が出来た。これは収穫ではないか。

 もちろん先に挙げたように、人間の気持ちってのが根本的に分かってないシャマランだ。まだまだ問題は残っている。それでもあのハワードを健気に健気に一生懸命撮っていたあたりに、解決の糸口は隠されているんじゃないだろうか。それだけでもシャマランは、少なくともあの人をナメ切ったキム・ジウンよりは一歩リードしたはずだ。

 今後のシャマラン映画の命運は、たぶん女が握っている。僕は真面目にそう思っているんだよね。

 

 

 

 

 

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