「CODE 46」

  Code 46

 (2004/09/27)


  

見る前の予想

 マイケル・ウィンターボトムの新作がSFだと聞いても、正直言ってイメージが浮かびにくい。それはウィンターボトムとSFという二つの要素が結びつきにくい…というよりも、そもそもウィンターボトム映画そのものに、「これ」という確固たるイメージが浮かばないからだろう。ひかりのまち(1999)はとても好きな映画だったけれど、それをもってしてウィンターボトム映画すべてを語る訳にもいくまい。

 それでも見る気になったのは、予告編が素晴らしかったから。ヒロインのサマンサ・モートンが、すごく好感度高い感じなんだよね。実は、実物の映画を見る前に不評も耳にしていたんだけど、ここは自分の直感に従おうと思った次第。

 

あらすじ

 近未来。世界は高度な科学技術によって運営される社会となり、その一方で強固な管理社会の様相を呈してもいた。その最たるものが、人々の行動規範となる法規の一つ「コード46」。同じ核遺伝子を持つ人間同士はすべて血縁とみなす…というこの法規は、人工授精やクローン技術当たり前のこの時代だからこその「近親結婚」を未然に防ぐためのものでもあった…。

 あなたはまず空港に着いて、税関を通ったんでしょうね。そして会社から差し向けられたクルマに乗ったはずよ。私にはその様子が手に取るように想像出来る…。

 その男…ティム・ロビンスは、今まさにクルマに乗って上海市街地へと向かうところ。「中」へ入るための審査所前でクルマが停まると、「外」の連中がベビー・ラーメンとか都こんぶとかを売ったり、アレコレ物乞いをしたりで殺到してくる。ロビンスはそうした連中の一人からボンタンアメを買うが、この男が「パペル」をくれと言って来たのは丁重に断らざるを得ない。

 「パペル」…それは「中」での滞在許可書であり、都市から都市へと移動するための許可書だ。

 クルマの運転手はロビンスに「外」の連中とは関わらない方がいいと言うが、ロビンスは大して頓着しない。そもそも、ずっと「中」の人間だったロビンスには、そうした「中」とか「外」といった観念が乏しかったのかもしれない。

 さて、その頃この上海の街には、一人の若い女が暮らしていた。彼女の名はサマンサ・モートン。この日はたまたま彼女の誕生日だ。しかしモートンは誕生日が大キライ。誕生日の夜になると彼女が毎晩必ず見る夢があり、それが彼女をユウウツにさせるからだ。それは彼女が地下鉄に乗っている夢…。

 そこで彼女は、「誰か」を探している。「誰か」に会わなくてはいけない。終点までに「誰か」を見つけなくてはいけない。…だが、それは見つかったためしがない。そして目が覚める。

 不思議な事に、最初この夢を見た時には終点まで20の駅があった。その次の年は19駅、その次の年は18駅…なぜか毎年正確に一つづつ駅が減っていく。そして20年経って…今年はもう終点だ

 今年は、自分の運命が見えてしまう気がする。

 それがイヤさにモートンは、今夜は夜通し起きていようと決めていた。そう決意すると、彼女は愛用の焼きイモ屋みたいな帽子をかぶってご出勤だ。

 彼女が出勤するのは、巨大企業「スフィンクス社」の工場。今日も大勢の労働者が、「スフィンクス社」の社屋へと殺到していく。その中に…あのティム・ロビンスも混じっていた。

 入り口で、偶然目と目を合わせるモートンとロビンス。それは運命のいたずらだったのか。

 だがロビンスはこの工場で働きに来たのではない。彼は一種の「捜査官」だ。上の人間からの指令を受けて、この上海へと派遣されてきた。彼の滞在許可は24時間だ。

 受付のお姉ちゃんは、ロビンスに毎度お馴染み官僚主義的な応対をする。まどろっこしい事がキライなロビンスは、持ち前のいたずら好きの性格も手伝ってお姉ちゃんに提案をする。「キミのパスワードを当ててやろう。当てたら上司の元へ直接行かせてくれ」

 もちろんロビンスには勝算があった。その理由は…。

 さて、ロビンスはこの工場の管理主任オム・プリの元へ直行、早速事と次第を聞き出す事にする。それは違法「パペル」の流出という由々しき問題だ。

 この工場では、許可された者だけに例の滞在許可書「パペル」を発行していた。その資格審査一切は「スフィンクス社」が行っており、審査が降りずに「パペル」が発行されないとすれば、それはその人物に何らかの「問題」がある事を意味していた。

 それでも都市から都市への移動、「中」と「外」との移動、「中」への居留をしようとすれば…違法「パペル」に頼るしかない。

 「パペル」は一見田舎のデパートの食堂で使う食券のように見えるシロモノだが、そこにはこの時代の印刷技術、情報記録技術の粋が生かされていた。とてもじゃないが偽造は困難。今回大量に発見された違法「パペル」も、決して偽物ではない。ここ「スフィンクス社」の工場でつくられ、何らかのカタチで流出したものだ。

 ロビンスの指名はこの工場の目指すセクションの人間を調べ、「パペル」流出の犯人を突き止める事だ。幸いセクションは絞られていた。早速ロビンスは、彼らを一人ひとり面接していく。彼には話をすれば相手のウソを察知出来る、独自の能力が備わっていたのだ。その面接メンバーの中には、もちろんあのモートンも含まれていた。和気あいあいで話をするロビンスとモートン。何だかロビンスがモートンを口説いているような妙な会話ではあったが、あれはロビンスが彼女に何かを察知したせいか、それともそれ以上の何かを感じたのか。

 なぜかロビンスは、オム・プリ主任に彼女を告発しなかった

 彼はそのまま「スフィンクス社」を後にすると、仕事を終えて退社するモートンを追っていく。彼女の後をつけて地下鉄へ…。

 ところがその地下鉄で、モートンが逆にロビンスを見つけてしまう。「私を尾行してるの? それとも…」

 だが彼女は、なぜか不思議にロビンスを警戒してはいなかった。二人はそのまま自然に、駅前の汚い中華料理屋「来来軒」で一緒にレバニラ炒め定食をパクつく。

 そこでさりげなく「パペル」持ち出しの話を切り出すロビンスだが、言い出したロビンスもさりげなければ、受けたモートンもまるで悪びれずに認めた。あげくモートンは、ロビンスにもっともな質問を投げかける。「私のためになぜウソを言ったの?」

 だが、ロビンスにもそれはしかと答えられない。奥歯にニラが挟まったような答えしか出来ない。

 ロビンスにはモートンのウソを知る事など、赤子の手をひねるよりたやすい事だった。それは捜査官としての経験もさる事ながら、職業上の特権として服用している「共鳴ウイルス」の効用も大きかった。

 この時代には人間の能力を著しく向上させたりコントロールしたりするために、さまざまな人工的「ウイルス」が開発されていた。それを服用すれば、目的とする作用が確実に身体に起きる。「共鳴ウイルス」の場合には、服用者は言葉を交わすだけで相手の隠し事が分かるようになる。だからロビンスには、モートンが犯人とすぐに分かったのだ。

 なのに、なぜ…?

 さて腹ごしらえをした二人だが、モートンはこれから人に会う用事があると言う。ところがその場にロビンスもいて欲しいと言い出して、彼をクラブへと誘うのだ。一瞬躊躇したロビンスも、モートンの「来ないと後悔する」という言葉に誘われ、結局は同行することに…。

 そこはクラブというより、国道沿いのスナックがデカくなったような店だった。「プレイガール」の沢たまきがくたびれちゃったようなママが歌いながら迎えてくれるあたりまで、どことなく田舎のスナックくさい。

 この店でモートンとロビンスが飲んでいると、どうやら彼女の顔見知りがやって来た。その男デビッド・ファームは、モートンから「パペル」をもらいにやって来たのだ。ロビンスはモートンが不正「パペル」を渡す現場に居合わせるハメになってしまった。

 「だけど、許可が下りなかったという事は…」

 「何か『問題』があったからだと言うんだろう?」

 不正「パペル」を手に入れたファームは、そんな事にはまったく頓着していなかった。彼は生物学者として、珍しい蛇の調査をするためにどうしてもインドへ行きたかった。何度申請しても却下された彼は、これで念願が叶うとご機嫌だ。例えどんな危険があろうとも、どうしてもインドへ行きたかったから…。

 ファームとも別れ、夜通し一緒にいたロビンスとモートン。今夜は眠らないつもりの彼女も、さすがに明け方はつらそうだ。ロビンスはヨレヨレのモートンを家まで送り、そのまま彼女の家に上がる事になる。ロビンスがコーヒーを入れている間にベッドでウトウトし始めるモートンの脳裏に、あの毎度お馴染みの地下鉄の夢が浮かんで来て…。

 もう終点だ、「誰か」を探さなくては、「誰か」を見つけなくては…。

 モートンがふと目を開いた時、目の前にはコーヒーカップを持ったロビンスが立っていた。

 そのまま二人はベッドに横たわり、まるでそうするのが当然のように結ばれる…。

 だが事が終わった後で、ロビンスは急に我に返ったようにそそくさと起き出した。そもそも、事を済ませるまでは頭に血が上っているが、済ませた後はサッと我に返るのが男というもの。大概が「明日があるから」と言うところを、ロビンスは「飛行機の予約があるから」と言うくらいの違いでしかない。急に服を着込み出すロビンスに、モートンは熱烈な迫り方でとどめようとする。だがそんな誘惑にも何とか踏みとどまり、彼女の家を後にするロビンス。

 来る時とは逆にクルマで市外へと出るため、再び審査所前へとやって来たロビンス。彼はそこで、来るときにボンタンアメを買った男を捜し出す。実はロビンス、今朝モートンの家でたまたま不正「パペル」を一枚見つけ、何を思ったかポケットに忍ばせてきたのだ。それをこれまた何を思ったのか、この男に気前よく渡してやるロビンス。

 「頑張れよ!」

 結局自ら不正「パペル」流出に一役買ってしまったロビンス。その胸中は果たして…。

 ともかく飛行機は上海を離れ、一路シアトルへ。上海での事はすべて忘れた。なかった事にした。家では優しい妻と可愛い息子が待っている…。

 そんな彼に、ある日上司からの連絡が入る。

 再び上海行きの命令。あの「スフィンクス社」の工場から、またしても不正「パペル」が流出した。しかもそれらの不正「パペル」によって死者も出た。そのうちの一人は、インドで重病にかかって死んだと言う。

 イヤな予感がしたロビンスは、このインドでの死者について調べる。案の定、それはロビンスが上海で会ったデビッド・ファームだ。彼はインドで流行している病気に、遺伝的に弱い体質を持っていた。そこで「スフィンクス社」は彼のデータから判断して、「パペル」の発行を却下していたのだ。

 この事実を知ったロビンスは、自らの軽率さに後悔せずにはいられない

 さらにロビンスは、モートンについても探ってみた。両親がある不祥事に荷担したため、一家全員で上海から「外」へと追放処分を受けた。やっとの事でモートンが「中」に戻れたのはかなり経ってからの事。そう言えば彼女は「外」で相当辛酸もなめたようだ。「外」に広がる砂漠がキライだと言っていたっけ。そんな苦い経験が、彼女にあえて不正を行わせていたのか?

 ロビンスは上海行きを何とか回避出来ないかと頼んだが、その願いは却下された。ならば問題を直視せねばなるまい。上海に行って、自らが決着を付けねばなるまい

 ところが再び訪れた上海は「スフィンクス社」の工場では、何らかの事情でモートンを異動したと言う。その理由は判然としない。自宅を訪ねても留守だ。ただ、姿を消す前にある診療所に行った形跡が残っていた。そこにもすでにモートンはいなかったが、彼女が「コード46」違反で移送されたという事実だけは確かめる事が出来た。

 「コード46」違反…同じ核遺伝子同士での生殖

 モートンが収容されたクリニックは、「外」の砂漠地帯にあった。何とか担当者に無理を言って、モートンへの面接へとこぎ着けるロビンス。ところがロビンスの前に現れたモートンは、どうも要領を得ない。まるでロビンスを初対面の相手のように接するのだ。その場に担当者が立ち会っているせいでトボけているのかと思ったが、どうやら本当に分からないらしい。彼女はすっかりロビンスを忘れているのだ!

 面接を終えたロビンスは、ショックで担当者に食ってかかる。「一体何があったんだ?」

 だがそんなロビンスの剣幕にも、担当者はまったく動じない。「妊娠の事実を処理して、一部の記憶を削除しました

 “一部の記憶”…?

 「ええ」と担当者は平然と後を続けた。「妊娠に関わる記憶…妊娠の事実と、その相手に関する記憶だけです…」 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイケル・ウィンターボトムとSF映画の相性は?

 先にマイケル・ウィンターボトムの映画ってイメージが湧かないと書いたが、本当にこの人の映画って「こう」だって言い方が出来ない。まずは僕がこの人の映画を全部見ているわけではないし、見ている映画のジャンルも傾向もバラバラ。しかも…大変申し訳ないが、そのすべてを気に入っている訳でもない。だからとてもじゃないが、作家としての像を結ぶところまでいってないんだよね

 それらの作品の中では、「ひかりのまち」は圧倒的に好きな作品だ。すごく気に入った。

 というのも、この映画ってもっともとっつきやすいウィンターボトム作品じゃないかね。それ以外ってのは、どこか奥歯にモノが挟まったというか、斜に構えたというか、距離を置いたというか、芯の部分が冷えてるというか…どうにも気持ちを込められないような醒めた部分が感じられるんだよね

 例えば…これは「ひかりのまち」感想文にも書いた事だけど、難病モノのくせに妙に下品でシャレにならないサッカー・チームの連中のエピソードが挟まる「GO NOW」(1996)とか、サバサバと母国や親を捨てる少女が出てくる「ウェルカム・トゥ・サラエボ」(1997)とか、どうにも見る者を心地よくしてくれない。そういう点では…全然作家的資質は違うんだけど、同じイギリス出身のスティーブン・フリアーズにも一脈通じるところがあるように思われる。

 だから…という訳でもないけど、今ひとつこの人の映画ってノレなかった。世評の高さにも関わらず、あまり好きなタイプの映画作家じゃなかったんだよね。シビアーに現実を見つめている、リアリストの視点を持って描いているんだと僕も頭では分かっているつもりだったが、それに共感出来るか、それが面白いかと言えば…正直言ってあまり見たいもんじゃなかった。僕がウィンターボトムの映画を半分も見ていないのは、たぶんそんな理由からだと思う。

 それが…距離はとりつつもどこか優しげに登場人物みんなに寄り添っているようなスタイルに変わったのかな…と思えたのが、先に挙げた「ひかりのまち」だった。こういうやり方なら「アリ」かな…と僕も初めて思ったんだよね。

 さて、その後のウィンターボトム作品については、ミラ・ジョボヴィッチやナスターシャ・キンスキー主演の異色西部劇「めぐり逢う大地」(2000)、音楽ドキュメンタリー「24アワー・パーティ・ピープル」(2002)、難民少年のロードムービー「イン・ディス・ワールド」(2002)…と連続で見逃した。白状するけど、「めぐり逢う大地」は見たかったものの、あとの2本については正直言って食指がそそらなかったというのが本音だ。何しろあのウィンターボトムだしねぇ(笑)。たぶん、僕とは体質的に合わないだろう…と敬遠した。今回見る気になったのは、ひとえに予告編の素晴らしさゆえ。あとは…まぁSFだったら見れるだろうという単純な理由だ(笑)。

 見てどうだったかって?

 とりあえず、SFとしてどうだったか…から語っていこうか(笑)。SF好きとしては、これもちゃんと押さえておきたい。

 これが…ちゃんとSFしているんだよ! 真面目にSFしているんだよ、ウィンターボトムは。

 大体この手のミニシアター野郎は、SFのスタイルは借りたけどSFをつくるつもりはなかった…とか、なぜかみんな一様にSFをバカにした発言をするんだよね。セックス映画でヌードで濡れ場を演じた女優が、バカの一つ覚えみたいに「いやらしくないから脱いだ」と言い張るのと同様で。

 「いやらしく」てなぜ悪いんだ?

 おっと…いけないいけない(笑)。そんな事じゃなくってSFだ、SF。そのSFとしても、ウィンターボトムはちゃんとした世界観を提示している

 環境破壊が進んで階級社会が進んで、管理体制が厳しくなった未来社会。それらがちゃんと理由と必然性とリアリティを持って描かれている。単に「ブレードランナー」(1982)の物まねみたいな未来都市は描いていない。

 ウィンターボトムの最大の見識は、未来都市を描くのにCGもSFXもセットも一切使わず、すべてを現実のロケ撮影で行っている事だ。

 確かに現在の成長著しいアジアの大都市の光景は、ヘタなSF映画も裸足で逃げる。安っぽいセットだとかCGだとかで乏しい知恵とイマジネーション絞ってセコセコつくるなら、いっそ全部ロケにしちまえってのは実に卓抜した発想だよ。

 実は僕もここで何度も書いているように、今から数年前に中国のある「経済特区」に行った事があるが、ここがいわゆる発展途上そのもので、あちこち建設ラッシュだったわけ。まだまだ遅れている所もあったが、妙にギラギラしてダイナミックでね。あれは、日本や欧米のどの街とも違う、どこか時代を超えたセンスの街だったよ。

 今回の映画では上海、ドバイなどの都市をロケしたとパンフには書いてあるが、おそらく他にも香港や他の都市で撮影して、あちこちコラージュしてあるのではないか。

 結果的に、今までのどのSF映画よりも見事な未来都市を創造出来たし、何しろそこに漂うリアリティは圧倒的だ…というより、実際にあるものだからリアルなはずなんだけどね(笑)。

 でも、それは「実際にあるからリアル」というだけでもないと思う。この街の見つめ方なり撮り方なりってどこかで見たよな…と思った時、僕は「ひかりのまち」を思い出していた。

 あの映画でウィンターボトムは、ドラマの途中にロンドンのさまざまな夜景を挟んでいたんだよね。それが単なる夜景でなくて、コマ撮りを使ってチャカチャカと時間を高速化したショットを入れている。そんなチャカチャカした街の動きの中で、クルマや街の灯がまばゆく走り過ぎて…何だか街自体が「発光」しているかのような不思議な効果を上げていた。

 もちろん手法的にも描き方からいっても、今回の映画の街の描写と「ひかりのまち」のロンドンの夜景は全然違う。だけど街を見つめるまなざしのどこかに、あの「ひかりのまち」と共通するものを感じたんだよね。それはやはりウィンターボトムの中に、「街」を人間たちの場所としてキチンととらえている眼差しがあるからなのかもしれない。僕の単なる先入観だけではないと思うよ。

 またウィンターボトムが本気でSF映画をつくっている事は、ヒロインの名前からも伺える。サマンサ・モートンの演じる「マリア」だ。

 もちろんここには彼女が懐妊するという事からも、「聖母マリア」のイメージが込められていることは明白だ。だが僕は、「マリア」という名前にもう一つの意味合いがあると思うんだよね。それはあのSF映画の古典、フリッツ・ラングの「メトロポリス」(1926)が元ネタだ。

 やはり未来の高度管理社会を描いたこの有名な作品の中で、労働者階級の娘「マリア」が民衆に一斉蜂起を促す。その後には支配階級側にさらわれてロボット(この映画でも最も知られている女性型ロボット)とすり替えられる一幕もあり、「マリア」は映画の中心にして象徴とも言える存在だ。近未来SF映画を撮る上で「マリア」という名前を使うとなれば、誰しもこの「メトロポリス」を意識していないはずはあるまい。

 聖母と「メトロポリス」のダブル・ミーニングで使っているのなら、ウィンターボトムもなかなかシャレっけがある。その意味でも、絶対にウィンターボトムはこの映画をSF映画だと強く思いながら撮っているはずなんだよね。

 

人間らしい生き方における「成就」とは?

 SF映画として基本をちゃんと押さえた映画づくりをしているウィンターボトム。これは意外だったが、嬉しい収穫だったよね。

 そして…映画自体も気に入った!

 実はハッキリ言って…この映画の完成度云々を問われると、ちょっと言葉に窮するところもある。例えば「コード46」がいかに重罪でヤバイのか、「外」の世界の暮らしがいかに過酷なのか…という問題を、主人公たちが経験する前に見せておく必要があったのではないかという気もするのだ。

 このあたりのことは…「禁じられた愛」をテーマとする映画つながりでいけば、溝口健二の「近松物語」(1954)を例に挙げてみれば分かりやすいかもしれない。大店の若妻・香川京子と使用人・長谷川一夫との不義密通の逃避行を描くこの作品。映画の冒頭に無惨な姿でさらし者にされている不義密通者の罪人を登場させる事で、見る者にそれがいかに大変な事なのか、いかに覚悟を要する事なのか…を、まずは鮮烈に印象づけている。それがあるからこそ、見ている側としては主人公二人がいかに大変な決意をして、いかに大変な運命に転がり落ちていったかが分かる。

 ところが今回の「CODE 46」は、そのあたりはアッサリと台詞などで説明しているだけだから、見ている側にはイマイチ深刻さが伝わらない。サマンサ・モートンのヒロインが過去に「外」の世界でどれだけ辛酸をなめたかも分からない。脚本構成上から言えば、これは明らかに欠陥だと言える。欠陥とは言わずとも粗っぽいよね。

 その点に限らず、この話ってかなり行き当たりばったりなところがあるんだよね。かなりラフと言えばラフ。いくらSFだ、何かの寓話だ…と言われたってねぇ。

 ところが…なぜかこの映画では、僕はそれが気にならなかった

 なぜかと言われても難しいんだけど、一つにはこの映画の扱っているテーマに惹かれたって事はあるのかもしれない。

 この映画に描かれる社会では、すべてが管理されている。それは確かに文字通り「管理社会」だが、よくありがちなパターンである「独裁」「弾圧」「抑圧」…みたいな安易な方向には描かれない。それを分かりやすく描こうとすれば、いかにも「悪代官」みたいな「上の人間」が出てきて、憎々しげに人々を苦しめたりしそうなものだ。毎日の暮らしも潤い全くなしで、無味乾燥な灰色の生活みたいに描けば済みそうなものだ。だがウィンターボトムは、そんな「サルでも分かる管理社会」はあえて描かない。

 この映画での「管理」の最たるものとして描かれている「コード46」ですら、実は忌み嫌われるようなものではない。人工授精、クローン当たり前の時代に血族結婚、近親生殖を防ぐために、とらざるを得なかった方法だとも思える。

 つまり、それらはむしろ「起こり得るトラブル」から人々を守るために機能している。少なくとも…機能している「ように」見える。それどころか、万が一トラブルが起こった時でも、ネガティブな記憶を消して「なかったこと」にしてくれる。トラウマも後悔もない。ある意味では、非常に理にかなったカタチで人間の幸福を追求している社会なのだ。

 現にヒロインに不正に「パペル」をもらって出国した学者は、異国で病気に感染して死んでしまった。彼が「パペル」取得を却下されてきたのには、それなりの理由もあるのだ。

 ここらあたりがこの映画の凡庸ではないところで、決してありがちなSFや政治的寓話映画の手垢の付いたルーティンには陥らない。ここにこそウィンターボトム映画の非凡さと、SFに対する確かなセンス…さらにはリアリティを感じたね。

 ところがヒロインは、例え結果が最悪でもいいと思っている。不正「パペル」を手に入れようとする者たちも、それでいいと思っている。実は重要なのは「そこ」だ

 この映画の中では、ヒロインのモノローグとしてこんな言葉が出てくる。「結果が予測出来たとして、あなたは同じように行動するだろうか…?」

 計算やデータによる「危機管理」を通さない決断は、ある意味で無謀だ。それは完全にヒューマン・ファクターだけの決断で、ヒューマン・ファクターとは…すなわちリスクを伴うものだからだ。

 ここでのヒロインの決断は、長年夢で見てきた「探し求めていた人」…という「運命論」的な決断だ。主人公だって「何となく」心が惹かれた…という、実に不確かな感覚に従って行動している。 後にコンピュータによる遺伝子データからの判定では、二人のマッチングが不適切であるとハッキリ分かってしまうのだから、これは「事実」だけを見れば無謀そのもの。まったくもって「あっちゃならない」事だろう。

 だが、元々が人生とはリスクを伴うものではないか?

 ヒロインから不正「パペル」を手に入れた学者は、喜んでそのリスクを引き受ける。インドへ行って珍種の蛇を見つけたいという一心で、そのリスクを引き受ける。そしてその結果として、自ら喜んで死んでいく…。

 ここでは、「目的の成就」とは大きな意味を持っていない。もちろん、人はそれを憧れてやまないし、それを目指して努力もする。だが、それが果たされる事に最大の価値があるようには、この映画は描かない。

 自分の望みを知り、それに向けて最善を尽くす事…そこに最大の価値がある…と、この映画はハッキリ描いているのだ。すなわち…強いて言うなら、それこそが「成就」だと。

 それはなぜ価値があるかと言えば…皮肉な事に、そこに「リスク」があるからだ。リスクがあると知りながら、あえてそこに踏み込んだ事にこそ「成就」があり「満足感」がある。

 それって…実は僕の個人的な信条とピッタリ一致するんだよね

 僕は「直感」を信じている人間だ。何の根拠もなくとも、人が言う「安全」や「安心」よりそちらを取る。そういう人間本来が持つ不思議な力を、僕はどこかで信じているのだ。

 そして、リスクあっての人間だと思っている。

 起きてしまった事は、望ましくなかった事でも「なかったこと」にはしない。なぜなら、それはその後の「良い結果」を生む原因になる事だってあるからだ。少なくとも、自分の身に起きた事は「なし」には出来ない

 仮にそれが「良くない結果」で終わってもいい。もちろんその場合には、感情としては悲しかったり腹立たしかったりもしよう。それでも僕個人はどこか納得している。それでいい。それは思いを遂げたというカタチでの、「成就」だからだ

 そしてこの映画の結末にも、そんな「成就」がハッキリと描かれている。

 この映画のエンディングは、実は「愛の成就」などではない。恋人たちは引き裂かれ、男の記憶は消された。一人投げ出された女は、恋しい男との愛の記憶を抱きながら生き続けている。実は愕然とするほど絶望的なエンディングだ。

 やはり僕も映画ファンだから、恋愛映画にはどこか「愛の成就」を願ってしまう。だからこの突っ放したような結末には、やりきれないものを感じもした。それまでがそれまでで気持ちが高まっていたから、何となく放り出されたような失望を感じずにはいられなかった。おそらくこの映画で同様に感じる人は少なくないと思うよ。

 でも、これがウィンターボトムなんだと思う。

 一見放り出したような距離感が、ウィンターボトム映画らしい感触だと思える。というか、たぶんこれが「ウィンターボトムらしさ」なんだろう。

 そして今回は…他の作品はともかくとして今回に関しては間違いなく、僕はこれで正解だと確信する

 映画を見終わった後で、僕はそう思った。この映画なら、こう終わらなくてはならない。こうでなければウソだ。こうである必然性がある。

 なぜならヒロインの究極の目標は、実は「愛の成就」ではなかったからだ。もちろん「愛を成就させる」事を求めたし、そのために最善も尽くした。それに向かって邁進した。あえてリスクを負って賭けた。

 そんなすべてにこそ…リスク承知で「行動を起こせた」事にこそ最大の「成就」があるではないか。

 しかもそこに至る間には、かけがえのない二人の「時間」があった。切なくも幸福な自分の「想い」があった。それは「なかったこと」には出来ない。それは悲惨な最終的結末と拮抗するほどの…いや、ひょっとしたら凌駕するほどの圧倒的「実感」かもしれない。

 もちろん「愛の成就」が実現できれば、それはその方が一番良かった。だが「愛の成就」が不可能であれば、そこでは一体何が最も価値のあるものと言えるだろうか。痛みを伴う甘美な実感と思い出か、あるいは何もない安穏とした現状か。そう考えた時…僕らにはあの絶望的なエンディングにこそ最も価値があると分かる。あれこそが、ヒューマン・ファクターによる意志の「成就」に他ならないからだ。

 「あなたが恋しい」とつぶやくヒロインの絶望的な表情は、実はその状況下での目一杯のハッピーエンドだと言える。

 そして意志の「成就」さえ出来るならば…例えば凡百の未来SF映画の結末みたいに、革命が起きて管理社会がぶっ壊されたりする必要もない。

 普通この手のSF映画では、最後に民衆の一斉蜂起が起こる。弾圧してきた警察国家やら抑圧してきたコンピュータとかに対して、主人公はじめ人々が最もプリミティブな手段…ほとんどの場合それは棒でぶん殴ったり石をぶっつけたり、あるいは銃や爆弾で破壊に及んだりという手段で戦い、社会システムを崩壊させて勝利を得るという終わり方をする。全部壊しちゃった後で未来人たちはどうやって生きていくんだ…という当然な疑問はともかく、これがこの手の映画のお約束みたいなワンパターンなエンディングとなっていた。

 だが当然の事ながら、凡庸なルーティン映画を撮らないウィンターボトムはここでもその方向を回避する。未来社会は崩壊しないし、民衆の一斉蜂起もない。世の中は何も変わらない。

 では、革命は起きなかったのか?

 いや、否だ。そうではない。革命はちゃんと起きている。革命はすでに、主人公たちの心の中で起きている。本人の意志の「成就」をみたというカタチで確実に起きているのだ。

 そもそも「自由」とは個人の「心の問題」なんだからね。イデオロギーとかセクトとかの問題ではない。ウィンターボトムが舞台とされる未来社会を、ガチガチの独裁体制とか警察国家とかの「サルでも分かる管理社会」にしなかったのは、そういう意味でも正解だと思うよ。

 そんなやんわりとした「管理社会」にした事で、主人公たちの問題は僕ら観客と地続きにある事にもなった。どこか知らない遠い時代と場所での、自分とは関係ない人ごとではなくなった。ここが重要な点だ。

 それはコンピュータ支配や独裁や警察国家のせいではない。僕ら自身が、自ら人間らしい生き方を選択しているのか…という問題でもあるからだ。

 自分の考えを持っている限り、自分の考えを持っていようと思っている限り、少なくとも僕らの心の中は常に「自由」なのだ。

 

題材と表現が一致した「ナマ」を生かした映画づくり

 前述したように、僕はこの映画に構成上問題があると思っているし、結構粗っぽくつくっているようにも感じている。だから本来なら、好感は持てるけど出来映えは…みたいな言い方をしたと思うんだよね。

 だけど僕は、この映画にかなりノックアウトされた

 先に挙げたような「粗さ」にも関わらず、僕はこの映画を高く評価した。強く共感したし、揺り動かされもした。それは、自分の信条と映画のテーマがたまたま一致したことが理由ではないか…と、一時は考えもした僕だった。しかし…。

 いや、それだけじゃない。どうも一見問題がある…と見えるこの映画の構成ですら、何らかの狙いがあるように思えるのだ。粗っぽさは雑につくったわけじゃない。

 ひょっとするとこの映画のウィンターボトム自身、映画づくりに際して「テーマと同じ考え方」で取り組んだのではないか? つまり管理…コントロールされた映画づくりからの脱却とでも言えばいいのだろうか。

 ハッキリ言うと、よりレアな…「ナマ」な映画づくりだ。

 この映画の内容を改めて考え直すと、僕にはどうしてもそんな気がしてくる。いろいろと技巧を凝らす事よりも、あちこちに細かい仕掛けを用いるよりも…そして見事な完成度を誇るよりも、まずは気持ちと勢いと…何よりヒューマンな「感覚」に任せていってみたい。ウィンターボトムはこの映画に取り組むにあたって、こうした事を強く思ったのではないか?

 自分が何を思い、何を感じたのか…それをダイレクトに「ナマ」にスクリーンに反映させたい。

 僕にはこの映画が、そんな発想の下につくられたと思えてならないのだ。いささか粗っぽいと思える展開を見ると、どうもそんな気持ちがしてくる。

 何よりこの映画は…あれこれとテクニックやアイディアを弄するよりも、ヒロイン女優サマンサ・モートンの魅力に賭け金を全部つぎ込んで強行突破したみたいなカタチになっている。そのあたりに、より強くその「意志」を感じる。

 そのくらい、この映画でのサマンサ・モートンは圧倒的な破壊力を持っているのだ。

 時折、カメラは相手のティム・ロビンスの目そのものになって、一人称視線でサマンサ・モートンを見つめていく。実はこの作品は冒頭と結末がモートンのナレーションで、お話全体が彼女の回想であり独白である形式をとっている。ならばこの一人称ショットは明らかに「話法の混乱」であり、劇中に何度も…それもかなり意識的に挿入されるために、無視したり「一人称視線ではない」と考える事は困難だ。普通に考えれば、これは作品的には「キズ」と考えるべき部分なのだ。

 ところが…このショットが素晴らしい威力を放ってしまう

 観客はティム・ロビンスの視線で、サマンサ・モートンに魅了される。魅了されずにはいられない。だから問答無用でティム・ロビンスが彼女に惹かれ、危険に身をさらすのを納得してしまう。これは凄いショットだよ。

 特にベッドでのシーンに至っては…僕はもうトシだからそうもいかないけど、若かったなら映画を見た後で悶々としたかもしれない(笑)。そのくらい、結構ドキッとくるショットなんだよね。

 そう言えば話はいきなり思いっきり下品になるんで気が退けるけど、これっていわゆる俗に言う「ハメ撮り」のアダルト・ビデオの視線ではないか(笑)。撮影者がAV嬢と実際に行為を行いながら撮影する「アレ」。あるいは実際には行為は行わずとも、それを思わせるアングルで撮影する「アレ」だ。その意図は誰にだって明白だろう。要は「見ているアナタ」がAV嬢と行為をしている気になってください…というサービス演出なわけだ。

 だけど、そういうアングルで撮られた映像を見たからって、「自分で行為を行っている」気になるほど人間はおめでたくはない。これが不思議なもので、視線が同じだからってヴァーチャル・リアリティって訳にはいかないんだよね。実際に行為を行おうと「疑似」だろうと。そういうものではないのだ。

 ところがこの映画では…さすがにサマンサ・モートン嬢とそういう事をしている気になるわけではないが(笑)…それをこの映画に期待されてもさすがに困るが(笑)…彼女から発散されるような強烈な魅力に思わず抗しきれないものがあるんだよね。何とも真に迫ったようなものがある。

 特に終盤近くでは、かなり濃厚なダメ押し的趣向が出てくる。心とは裏腹に身体がティム・ロビンスとの交わりを拒否するようなウイルスを植え込まれたモートンが、それでも愛する彼と結ばれたいと願う。そこで彼女はベッドに両手を縛り付け、抵抗出来ないカタチでロビンスを受け入れようとするのだ。

 この場面の趣向は、実はポール・シュレイダー監督、ナスターシャ・キンスキー主演の「キャット・ピープル」(1981)の終盤と同様のもの。性行為を行うと豹に変身してしまい、誰か人間を殺さないと元に戻れない運命の娘が、もはや人間に戻れぬ定めを覚悟の上で「最後」に愛する男と結ばれようとする場面だ。

 一見スキャンダラスなベッド・シーンを運命に逆らうがごとく想いを貫こうとするヒロインの「愛の行為」として描いていること、さらに同じショートヘアのヒロインを擁していることや、ホラー・SF畑の作品であることなど…今回の映画には、この「キャット・ピープル」との共通性が色濃く感じられる。ウィンターボトムが「キャット・ピープル」をヒントにしたのは、ほぼ間違いないんじゃないかと思うんだよね。

 設定として縛ったまま交わるなどと言えば淫らこの上なしという感じだが、実際の場面は何とも悲痛で切なく淫らとはほど遠いもの。ここでは一見「SM趣味」のベッド・シーンが、崇高な愛の証明として描かれているのが印象深い。ことにモートンの少年のような無邪気でちっちゃな容姿だからこその、核弾頭級の衝撃度だ。彼女が首を振りながら、「愛してる愛してる愛してる愛してる」…と連発するのを見て聞くに及んでは、どうしたって自分の遠い過去の記憶から切ないものを呼び起こされずにはいられない。胸がキリキリと痛んでしまう。

 でも、これってウィンターボトムの技巧でも技術でも何でもないよね

 もちろんこういうショットを撮ろうと思ったセンスはある。こういう状況で撮ろうというアイディアはある。そもそもここにサマンサ・モートンを持ってこようと思った発想はあるだろう。だが、それももし例えば「キャット・ピープル」“まんま”のイタダキだったとしたら…。それでも一向にマズイ訳ではないが…ウィンターボトムは今回かなりいい度胸で一種の「マグロ状態」のようにゴロ〜ンと自分を投げ出して、「さぁ、後はどうにでもなれ!」と度胸を決めてしまった観すらある。ある意味で「豪快」と言ってもいい腹の据わり方だ。

 しかもその演出そのものも、あたかもAVの「ハメ撮り」映像さながらの「ナマっぽさ」。言ってしまえば撮りっぱなしだ。

 そこから先はもう、サマンサ・モートンに全部任せてしまった。彼女で押し通してしまった。その潔さが凄いのだ。そして、そこがこの映画の最も顕著な特徴だ。

 この映画の最大の魅力は、ハッキリ言ってサマンサ・モートンその人だ。ウィンターボトムは彼女を起用したその時点で、自分の直感を信じて彼女にすべてを賭けたのではないか。そのくらいの気迫を感じてしまうよ。

 そして…それはこの映画のテーマにも適っているではないか

 細かい技巧や計算なども試してはみよう。アレコレ工夫も凝らしてみよう。だが…それだけで映画が魅力的になるわけではない。最後の最後は一発強烈で訴求力のある太い幹のような何かがあれば、それを鮮度満点の「ナマ」で提示出来さえすれば、映画とはそれで十分成り立ってしまうものなのだ。というより、それに尽きる。それは確かにリスクを伴うものだが、負うだけの価値のあるリスクだ…。

 この映画のまばゆいばかりの未来都市の情景と、それに負けないくらいに輝いているサマンサ・モートンを見ていると、僕もそう思わざるを得ない。この映画の最も優れた部分とはまさにそこだ。

 安全で確実なルールやセオリーやシステムやテクノロジーよりも、リスクを含んだヒューマン・ファクターこそをあえて優先する…。

 何と…映画そのものの題材とそこで選択された表現が、見事に一致しているではないか。

 これがこの映画の…多少構成やら要素は破綻していても、強く揺り動かされてしまうところなんだよね。むしろキチンとセオリー通り丁寧に段取りを踏んで、技巧で端正につくりあげて、技術でピカピカに磨き上げちゃったらこの「ナマ」感は出てこない。作り手と観客との間に「作為」という冷たい壁が出来てしまう。ホットで瑞々しかった「思い」の鮮度が落ちる。それに、そういうセオリーやら技巧やらってのは、もう行き着くところまで行って行き詰まってきている。ともすれば手垢が付きすぎているようにも見える。凡庸にも見えるだろうし、何よりウソっぽいではないか

 こうなってみると、ウィンターボトムが未来都市構築にあたってセットやCGではなく実写ロケにこだわった理由も透けて見えてくる。それは、あえて選択した「ナマ」なのだ。

 だから「作為」を出来るだけ感じさせない方向性を、映画作家たちは今必死に模索しているのだ。それは、前に茶の味感想文で僕が述べた通り。こうなってくると僕が常日頃から安易だとケナし続けたハンディ・デジタルビデオカメラの効用でさえも、今後はキチンと視野に入れていく必要があるかもしれない(かといって、やっぱりマイク・フィッギスの「HOTEL」が救いようのない愚作であることは、如何ともし難い事実なのだが)。もちろんこのウィンターボトムの見せている破綻も、そういう一環にあると考えるべきだろう。

 そして、何より題材と表現が一致している。表現が題材を体現している。だからこそ、破綻していても映画は魅力的に仕上がっている。

 この破綻は単なる思いつきではなくて、ちゃんと必然性がある破綻なのだ。

 

見た後の付け足し

 考えてみると映画の歴史も100年を超えるに及んでは、旧来のセオリーではやっていけなくなる部分があるのは当たり前だ。おまけにテレビ、ビデオ、ゲーム、コンピュータなどの新しい映像が氾濫し、映画そのものの表現もCGなどの導入で行き着くところまで来た観がある。そうなれば今までの映画セオリーや映画話法、映画の技術というものが、どこか「金属疲労」を起こしてもおかしくはあるまい。「賞味期限」が切れたものもあるかもしれない。

 この「CODE 46」が一見構成上は破綻しながら見事に「魅せる」映画に仕上がっているあたりには、そうした状況とそれを乗り越えようとする映画作家の意志を強く感じてしまう。

 そう言えば、実はこの映画を見ながら奇妙な事に気づいていた。

 構成上はどこか従来通りのセオリーや完成度から見て破綻していること、物語や題材が抑圧的状況からの精神の離脱を描いていること、ついでに言えばそこを魅力的なヒロイン像をテコにして突破しようとしていること、そして技巧よりも「ナマ」な直接的(あるいは生理的)訴求の優先を試みていること、さらに映画として「破綻しているはず」にも関わらず「魅力的」に出来上がっていること…などなどの特徴は、ここ最近見てきた多くの作品にもどこか共通していないだろうか?

 そう…チャン・イーモウのLOVERS/謀、M・ナイト・シャマランのヴィレッジが、そこに見事に合致してくる。

 もちろん乱暴な事は分かっている。チャン・イーモウとウィンターボトムはともかく、そこにシャマランごときを加えるなんて…と、純粋な「映画ファン」や芸術至上主義者の方にはお怒りを頂戴するかもしれない。あるいは嘲笑や失笑を買う事になるかもしれない。僕も別にシャマラン贔屓などしたくもない(笑)。実際の出来映えそのものもバラバラだ。シャマランのそれなど、成功しているかどうかも微妙なところがある。無茶な事は百も二百も承知。

 だが、商業映画のヒットメイカーならば、むしろその手の映画の新たな動きには人一倍敏感なはずではないか。ましてヤマっけとハッタリのシャマランとくれば、なおさらここに彼が置かれても何の不思議もない。むしろ置くほうが自然だろう。彼が意識的にそうした訳ではないにしろ、たまたまアチコチつついているうちに本能的に何かを嗅ぎ当てて、そっちへ向いてしまった可能性は多分にある。

 実は先に挙げたさまざまな要素について、そのすべてを網羅せずともいくつかの要素が該当するような作品ならば、まだまだいくつか挙げる事が出来ると思う。 それらって「いい」って事は分かるけど、どうして「いい」のかがよく分からない作品群だ。

 例えば…石井克人の「茶の味」、是枝裕和の誰も知らないあたりも入ってくるかもしれない。いやいや…ひょっとしたらマイケル・ムーアの華氏911(あの映画が「つくり」か「ドキュメンタリー」かで過度に論議を生んだのには、このへんの「ナマ」に関わる事情が絡んでいるかもしれない)、ベルナルド・ベルトルッチのドリーマーズ、ソフィア・コッポラのロスト・イン・トランスレーション、ヘタをするとクエンティン・タランティーノのあのキル・ビルVol.1」「同Vol.2に至るまで…大なり小なりこういう傾向を含んでいるのではないかという気になってくる。いずれも高感度な映画作家ばかりなだけに、大いにあり得る話だよね。

 これが何を意味するのかは、今の段階では何とも言えない。評価のしようもない。僕が先に挙げた映画も、本当にすべてそれに該当しているかどうかは分からない。そもそも前述した共通する「要素」自体が、適切な定義になっているかどうかもおぼつかない。

 だが、それが「ない」ものであるとは思えない。単なる気のせいだとも思えない。少なくともこれからの映画を考える上で、大いに注目に値する現象ではないかと思っている。

 「映画の表現」においてある程度すべての手がやり尽くされ、従来からのプロフェショナリズム…技術の習熟やら話術の巧みさなどによる映画づくりの「うまさ」…にも限界が見えてきたという事が、こういう現象の根底にはあるかもしれない。あるいは大きくなる多くなる派手になるキレイになる研ぎ澄まされる細かくなる早くなる…という、「加算していけば良くなる」といった「足し算」的発想が、もはや…少なくとも映画づくりの場においては…絶対の信仰ではなくなりつつあるのかもしれない。確かに緻密な計算やら周到な準備、莫大な資金やら人材やら技術やらというものより、ライブ一発主義とかハプニング性とか一種のミニマリズムを重んじる考え方は今までもあった。だからその面においてはまるっきり新しいスタイルとも言えないのだが、それが映画の描こうとしている題材を体現するような方向に向かっている事は確かに注目に値する。この題材と表現の一致「こそ」が新しいのだ。

 それがアンダーグラウンドな作品や実験作品ではなく、一般大衆に向けた映画で起きている事が何より新しい。

 これらの作品に共通する「精神の自由」を強く希求したテーマ性から見て、ひょっとしたら世の中が急速に悪くなって来たからじゃないか…と思えたりもするのだが、それだけは全くの杞憂である事を祈るよ。そうでないと信じたい。

 でも、何かが確実に起きている

 おそらくあと10年も経ったら、あの時が映画の「分岐点」だったんだな…と言われるようになる気がするんだよね。

 

 

 

 

 

 

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