「愛の落日」

  The Quiet American

 (2004/09/20)


  

見る前の予想

 グレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」の映画化作品(これって「静かなアメリカ人」って題名でも呼ばれてなかったっけ?)…というだけでは、大して食指もそそらない。ただ、マイケル・ケインがこの映画で主演男優賞候補になったのは記憶に新しい。しかも共演がブレンダン・フレイザーだって? こりゃ気にならない訳はない。いわゆるベトナム戦争前夜のベトナム(と言っていいんだろうか?)を描いている…という事でも気になるところだ。

 

あらすじ

 私がベトナムに恋したのは、一体なぜであろうか? それはこの国の女たちの美しさゆえか。それともこの国そのものの美しさゆえか。今夜も街の彼方には、遙か北方での戦火が思い出したように瞬く。それすらも、まるで花火のように美しく見えるここサイゴンの街…。

 そのサイゴンの街に、投げ捨てられたように横たわる一人の男の死体

 警察署に呼ばれた初老の男マイケル・ケインは、レイド・セルベッジア警部から殺された男の事を尋ねられる。殺されたのは、まだ若いアメリカ人ブレンダン・フレイザーだ。彼はケインの友人だった。騒がしく浮ついたような他の連中とは違い、「静かで落ち着いたアメリカ人」だった…。

 それは1952年のサイゴンでのこと。ケインがフレイザーと出会ったのは、街角に面した野外の店でいつものようにお茶を楽しんでいる時の事だった。彼は医療援助のためにこのベトナムを訪れているらしく、まだ若い青年らしく理想に燃える男。共産主義の脅威からこの国を救う必要があると思っていたし、そのために「第三国」が介入すべきとも考えていた。

 一方ケインは、ロンドン・タイムズの特派員。長いベトナム暮らしの経験から、彼にこの国の現状をアドバイスする。事はそんなに単純ではない…。

 当時ベトナム北部では、ホー・チ・ミン率いる共産勢力がフランス軍と交戦状態にあった。だが戦いは長引き、フランス軍は徐々に劣勢に回っていった。フランスを支援していたアメリカも、この状態には業を煮やしていた訳だが…。

 だが実のところ、ケインにはそんなベトナム情勢など大した意味を持っていなかった。家に帰れば、若く美しいベトナム娘ドー・ハイ・イエンが待っている。優しく従順なハイ・イエンは、ケインをこの国にとどまらせる最大の理由だった。

 ある晩、そんなハイ・イエンを連れてパーティーに出席したケインは、そこで同国人たちと一緒にいるフレイザーと出会う。その場にいたアメリカ人たちの中には、いけ好かない大使館員のロバート・スタントンやら下品な男たちもいたが、フレイザーはあくまで「静かで落ち着いたアメリカ人」だった。ハイ・イエンに侮辱的な事を口走る男にも、あくまでやんわりとたしなめる。そんなフレイザーの紳士的な態度に、ハイ・イエンも好感を抱き始めた。

 ケインとハイ・イエンはやかましいパーティーを離れ、フレイザーを誘って外へ行く。そこは大きなダンス・フロアのあるレストラン。ハイ・イエンの姉ファム・チ・マイ・ホアの働く店だった。そこでは客がチケットを買うと、店にいる女の子と踊る事が出来る。思わずチケットを買わされたフレイザーに、ハイ・イエンは自分が踊ってあげる…とフロアへ連れ出した。

 妙に親しげなフレイザーとハイ・イエンに、奇妙な感情を抱き始めるケイン。そんなケインの気持ちを逆なでするように、姉のマイ・ホアが尋ねてくる。「あの人って独身なのかしら?」

 いつまでも踊る事をやめないフレイザーとハイ・イエンに、苦々しい思いを噛みしめざるを得ないケイン。そう、彼には母国に妻子がいる。だからハイ・イエンとは結婚出来ないのだ。

 店を出てからも、フレイザーは興奮を隠しきれない。そんなフレイザーにケインはかつてのハイ・イエンの境遇を語った。かつてはちゃんとした家庭で育っていた姉妹だったが、親の死によってこの店で働くことになった。ハイ・イエンもまた、ここの店で客待ちするダンス・パートナーの女の子の一人だったのだ。

 それを聞いてフレイザーは憤慨する。あんな高い教育と躾を受けた娘さんが、こんな所で働かねばならないとは…それは国の状況がいけないんだ。何とかしなくては…「守って」あげなくては!

 素朴な理想主義と善意…その時は、ケインもフレイザーが何を「守る」つもりなのか分からなかった。

 さてケインの本業はロンドン・タイムズの特派員としての仕事だが、彼はここで怠け惚けてサッパリ仕事をしてこなかった。それが祟ってか、ケインに本国から帰還命令が入る。支局を畳んで通信社の配信原稿で済ませようという…早い話が合理化だ。これにはまいった。帰国すれば、あのハイ・イエンとも別れねばならない。慌てたケインは、現地助手のチー・マに聞いた話にすがりつく。何でも北部では、共産勢力の新たな動きがあるらしい。チー・マの友人の話というだけで、これ以上は何やら分からない。それでもこれに乗るしかない。快適な暮らしと美しい愛人を、どちらも失いたくなかったからだ。

 フランス軍と行動を共にして、北部の共産勢力との最前線へと飛ぶケイン。ところがこんな危険地域で、あのフレイザーとバッタリ出くわす事になるとは驚きだ。ヘタをしたら命がないところを、この男は一人でノコノコやって来たのだから

 そこからはケインやフランス軍と行動を共にするフレイザー。しかしこのあたりの状況になると、フランス軍ですら完全には掌握していなかった。例えば300人からの住人がいるはずの村に、なぜか人っ子一人いない。さらに奥へと進んでいくと…。

 そこには虐殺された住人の死体がゴロゴロしているではないか!

 フランス軍はもちろん知らぬと言うばかり。だが、これは共産勢力がやったのだろうか? もしフランス軍でも共産側でもなければ、一体どこの誰がやったのだろうか?

 戦火はさらに激しさを増し、塹壕の中で立ち往生のある日のこと。フレイザーはケインにある「告白」をする。自分はあのハイ・イエンに「一目惚れ」をしたというのだ。ケインとは結婚出来ぬことも分かっている。姉のマイ・ホアとも会って話をした。だからキチンと彼女と話がしたい…。

 そんなフレイザーの一方的な「告白」を聞かされ、苦々しい思いのケイン。そもそも姉のマイ・ホアと会っているという、妙な手回しの良さも気に入らない。だがそんなアレコレを語り合う前に、周囲に激しい砲撃が襲いかかってきた。

 翌朝目が覚めると、その場にはフレイザーはいなかった。ケインがサイゴンに戻るまでハイ・イエンとは会わない、という置き手紙を残して…。

 そしてケインがサイゴンに戻ってきた日、どこから聞きつけたかフレイザーが現れた。もちろんすべての決着を付けにやって来たのだ。そしてフレイザーのハイ・イエンに対する告白が始まった。最初は余裕で聞き流していたケインも、フレイザーが将来的に遺産も入る…などと言い始めたのには「汚いぞ!」と冷静さを失った。そんな一触即発の果てにハイ・イエンが出した結論は…。

 彼女はやんわりとフレイザーを拒絶した。

 「負け」を認めたフレイザーは、おとなしくその場を去っていった。こうして胸をなで下ろしたケインだったが、内心の動揺は隠せない。遅ればせながら本国の妻に離婚を申し出る手紙を書いたりして、何とかハイ・イエンとの仲を確固たるものにしようとする。

 折からベトナムに新たな動きが起きていた…それは新政党の樹立だ。そのリーダーとなるのは、フランス軍から独立した私設軍隊のリーダー・チェ将軍。だがその動きに、ケインは何やら胡散臭いものを感じていた。

 しかもその新政党の発足集会には、あのアメリカ大使館のロバート・スタントンの他、なぜかフレイザーまで顔を見せていた。どうにもイヤな予感がするケイン。

 さてケインの北部取材は本国に好評で受け入れられたが、さらに追加取材で一ヶ月の滞在延長を認められただけだった。さらに成果を上げねば帰国しなければならない。焦るケインは、あのチェ将軍への単独取材を決意する。チェ将軍は自らの軍隊を率いて北部にキャンプを張っていた。ここにクルマを走らせて、アポなし強行取材を目論む。

 さて、問題のキャンプを訪れると…訓練に明け暮れる兵士たちに混じって、なぜかまたここにフレイザーがいた。ここでも医療支援…と言ってはいたが、もはやその言葉を真に受けてはいないケイン。それでもここでフレイザーと出会ったのは助かった。彼の仲立ちで、チェ将軍との単独インタビューが実現するのだから。

 チェ将軍のインタビューに通訳を買って出たのは、ムオイなるベトナム人実業家。チェ将軍の財政的パトロンということだが、何とも胡散臭い男だ。そんなチェ将軍に、ケインは遠慮なしの質問をぶつける。

 「共産側やフランス軍の軍勢に立ち向かうには手駒が足らないと思いますが、あなた方の後ろ盾は一体どこなんです?

 この質問が図星を突いたのか、突然チェ将軍はブチ切れてしまった。インタビューはその場で中断、ケインはキャンプを後にすることになった。

 ところが帰路に就こうとするケインのクルマに、慌ててフレイザーが乗せてくれと言ってくる。サイゴンに用事があるというのだ。そこで彼と共にクルマで夜道を走っていると…。

 何と、途中でガス欠になってしまった!

 あのキャンプでガソリンを抜き取られたのに違いない。イヤな予感がするケインだが、ともかくガソリンを手に入れねばならない。夜中にこんな場所に立ち往生しているのは、共産軍の標的になるようなものだ。幸い軍の見張り塔が近くにあった。ガソリンを分けてもらうか匿ってもらうかしよう…とケインとフレイザーは見張り塔へとやって来る。

 だが見張り塔に上がって行くと、そこはたった二人の兵士がいるだけ。その二人もやたら怯えて、ただ銃を構えていただけだった。そんな見張り塔目指して、何やら怪しげな人影が…。

 それを見たフレイザーは、まるで人が変わったかのように兵士から銃を奪った。さらにケインを連れて見張り塔から一気に飛び降りる。次の瞬間…。

 ドッカ〜〜〜〜ン!

 見張り塔は砲撃を受けて大爆発した。もちろんあの二人の兵士も、もはや生き残ってはいないだろう。フレイザーとケインは危うく難を逃れたのだ。

 こうしてケインは「命の恩人」フレイザーと、何とかサイゴンへ戻ってくる。

 そんな折りも折り、ケインの妻からの手紙の返事が届く。それを見て期待に目を輝かせているハイ・イエン。ちょうどフレイザーも家を訪ねてきた。ケインは手紙を一瞥すると、二人に誇らしげに宣言する。

 「妻が離婚を承諾してくれた!」

 だがそれから数日後、ケインのオフィスにハイ・イエンと姉マイ・ホア、さらになぜかフレイザーまでが押し掛け、いきなりケインをののしり始める。何とハイ・イエンはケインの妻の手紙を手に入れ、英語が読める姉の元に持ち込んだ。そこでケインのウソが発覚したのだ…。

 ケインの妻は、離婚を承諾などしていなかった。あの場でどうしてもやむにやまれず、ケインはとっさにウソをついてしまったのだ。ところがこれにハイ・イエンも姉のマイ・ホアも怒り心頭。そこまではいいとしても、調子に乗ってフレイザーまでが善人面して怒りに怒る。まるで鬼の首でも取ったかのような態度に、苦虫噛みつぶしたような思いのケイン。だが…どう考えても形勢は不利だった。

 よりによってそんなタイミングで、助手のチー・マがまたまた情報を持ちかける。当然ケインはまったく乗り気にならないが、今度はチー・マもまったく譲らない。その剣幕に、動転していたケインも耳を傾けずにはいられない。

 それは、あのチェ将軍のパトロンである実業家ムオイに関する話だ。なぜかムオイ宛ての輸入品が、税関フリーパスで入って来ていると言う。そんな事が出来るのも奇妙だが、そもそもムオイは輸出業者だ。なぜ輸入品があるのだ?

 早速チー・マの手はずでムオイの倉庫に忍び込むケイン。すると…確かにあった。奇妙な輸入貨物が大量に入荷していた。それらは…何とあのアメリカ大使館員のロバート・スタントン宛てのケース・マークが書かれているではないか!

 モノはどうやら何らかの化学物質だ。その名称を暗記すると、そそくさとその場を逃れるケイン。確かにこれはただ事ではなさそうだ。

 だが…あの出来事の後、ハイ・イエンはケインの家を去った。この機をあのフレイザーが逃す訳もない。彼女はそのままフレイザーの家で一緒に住み始めた。

 何と言うことだ。ケインにとっては最悪の結果となってしまった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなケインは、いつものように街角に面した野外の店にいた。うつろな表情でボンヤリと街を見回すケイン。ところが…目の前の交差点を、アメリカ人とおぼしきカメラマンが妙に慌ててウロついているではないか。ふと見てみると、怪しげな男が交差点にクルマを停めている。どうも妙だな…とケインがボンヤリ思っていると…。

 ドッカ〜〜〜〜ン!

 いきなり交差点に停車していたクルマが大爆発。続いて反対側に停めてあったクルマも爆発。もの凄い爆風であたりは吹っ飛び、ケインもその場に投げ出された。

 まさに周囲は阿鼻叫喚。

 我に返ったケインは、慌てて爆発現場へと駆けつける。そこは修羅場以外の何者でもなかった。全身黒こげの男がいた。血まみれの女がいた。手足がもぎ取られた者がいた。死んだ子供を離さない母親がいた。言葉に出来ないほどの地獄絵図がそこには現出していた。ジャーナリストとして長く働いて来たケインにも、耐え難いほどのおぞましさだ。思わず息をのむしかない。

 そんな修羅場を、あのアメリカ人カメラマンがバンバン張り切って撮影している

 いや…この陰惨な光景を前にしても、一向に平気らしい人物はもう一人いた。その人物は落ち着いて交差点へと歩いてくると、ゆっくりと自分のズボンに付着した血のりをはたいて拭おうとした。その平然とした態度、何もかも了解済みのような落ち着いた態度…。

 その人物に気づいたケインは、まるで信じられないモノを目撃したような気がした。

 その人物…それは「静かで落ち着いたアメリカ人」…理想と高潔の青年ブレンダン・フレイザーだった!

 

オーストラリア人にとっての東南アジア動乱

 この映画、実はミニシアターでもないのに、都内で一館だけの上映。実にヒッソリと公開されているんだよね。だから最初は危うく見逃してしまうところだった。

 でも、これは見てよかったよ

 実に味わい深くて…ずっしりと来る映画だ。恋愛映画としても重みがあるし、ベトナム戦争前夜を扱った現代史映画としても興味深い。何よりマイケル・ケイン、ブレンダン・フレイザーという二人のクセモノ役者の組み合わせに酔える。とにかく…いろいろな意味で面白い映画なんだよね。

 そして、これがフィリップ・ノイスの監督作品だと知って、また驚いた。

 フィリップ・ノイスについては裸足の1500マイル感想文にも書いた通り。オーストラリア出身だとは知っていたが、ハリウッドでの仕事しか知らなかった。それで見る限り、どれもこれも大味な「お仕事」って感じの作品ばかり。あまり大した監督だとは思ってなかったんだよね。

 ところが、そんなノイスを思わず見直したのが…ボーン・コレクターだった。ここで身体を動かせない「探偵」に扮するデンゼル・ワシントンと、その「目と耳」になるアンジェリーナ・ジョリーとの間に生まれる何とも言えない感情は、それまでのノイス作品に感じなかったデリケートな味わいだった。

 さらにノイスはこれで何かを取り戻したのか古巣のオーストラリアに戻って、打って変わったような題材に取り組んだ。その「裸足の1500マイル」が、これまた見事な出来映えだったんだよね。

 僕は「ボーン・コレクター」を見た時に「この人ってホントは優秀な人だったんだ」…と目からウロコの思いだったし、「裸足の1500マイル」を見るに至っては完全に見直してしまった。で、やっぱりこの人はハリウッドよりオーストラリアにいた方が、いい仕事が出来るんじゃないかと思ったんだよね。

 それはご本人もそう思ったんじゃないだろうか。今回の作品はハリウッド資本ではあるが、ベトナム・ロケによる作品。その制作主体はどうやらオーストラリアらしく、ポスト・プロダクションもオーストラリアで行われたようなんだよね。まぁ、半分はオーストラリア映画と言ってもいいほど。いや…これは実質的に言ってオーストラリア映画だと見なせるんじゃないか。

 前作同様にオーストラリア時代からの知り合いだというクリストファー・ドイルと組んでいるしね。そして、ドイルもいつものアジア映画で見せているような、「これみよがし」のスタンドプレーみたいなカメラワークを弄したりせずに、実にここでは控えめで味のある仕事ぶりを見せている。

 そして僕は、この映画がオーストラリアのイニシアティブの下につくられたという点が、かなり大きい意味を持っているのではないかと思うのだ。

 実はこの「愛の落日」を見ているうちに、僕はまったく別のある映画を連想していた。それは1965年のインドネシア動乱を描いた「危険な年」(1983)だ。

 「危険な年」の主人公は、メル・ギブソン扮するオーストラリアの放送局特派員。シガニー・ウィーバー扮する英国大使館職員とのロマンスも出てくるが、お話の中心はこのギブソンの特派員が現地の助手兼カメラマンであるリンダ・ハント(アメリカの女優にも関わらずインドネシア人の「男性」に扮してアカデミー助演女優賞を見事に受賞)と共に、インドネシアの実状に触れていく過程にある。この「危険な年」の持つ雰囲気が、実に今回の「愛の落日」に似通っているのだ。

 もちろん1952年のベトナムと1965年のインドネシアでは事情が全然違う。だが、大国の利害やら資本主義と共産主義の対立といったこの時代の縮図のような問題が、東南アジア各地で噴き出していたのがこの時代だった。それは当時はまだ子供だった僕でもうろ覚えに記憶している。そのあたりの時代感や地域の空気の描き方(「愛の落日」はベトナム現地ロケ、「危険な年」はフィリピンとオーストラリアでのロケ)において、僕はこの2本の映画に共通するものを感じていたのだ。

 また主人公のジャーナリストに忠実な現地助手(「愛の落日」ではチー・マ、「危険な年」では前述リンダ・ハント)が、実は「憂国の士」としての裏の顔を持っていた…という点まで似ている。

 注目すべきは、「危険な年」がオーストラリア出身ピーター・ウィアー監督の初期の作品であり、ハリウッド資本のバックアップは受けているものの、こちらも実質上のオーストラリア映画であると言うことだ。これはすごく興味深い事だよね。

 題材や作品自体の持つ肌合いといい、この2本のオーストラリア映画が持つ共通性は一体いかなるところから生じるのだろうか? ひょっとしたらそれはオーストラリアという国が欧州の大国「大英帝国」の傘下にあって、なおかつ環太平洋の一員でもあるという歴史的な位置づけによるものかもしれない。オーストラリア人にはベトナムやインドネシアという東南アジアの国々に対して、人ごとではない共感を寄せる部分があるのかもしれない。事情に詳しい人から見れば「当たり前」の事と笑われてしまうかもしれないが、これは今後も何かの機会に改めて考えたい問題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対に映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近来まれに見る重層的な厚みある作品

 さらにこの映画(元々の原作からしてそうなのだろうが)が優れている点は、いくつもの見方ができる重層的な描かれ方だ。

 物語の基本的な主要人物は3人。マイケル・ケイン扮するイギリス人ジャーナリスト、ブレンダン・フレイザー扮するナゾのアメリカ人、そしてドー・ハイ・イエン扮するベトナム女性だ。ここに実はケインのベトナム人助手であるチー・マも絡むのだが、ここではあくまでこの3人のトライアングルを中心に考えたい。

 すると…ここではこの3人にベトナムを巡る3つの国の姿を託した「象徴劇」としての意味合いが出てくる。イギリス人のマイケル・ケインは、ベトナムを植民地として支配するフランス=「欧州」「ベトナム」娘ドー・ハイ・イエンを愛していると言いながら、本国に妻子はいて結婚出来るわけもない。彼なりの愛し方で愛してはいるのだろう。だがあくまでテメエ勝手な論理で、愛人としてその若さや美しさや女としての魅力を貪る「搾取者」でしかない。「ベトナム」であるドー・ハイ・イエンがささやかに…しかし毅然と反旗を翻してから、何とか振り向かせようと慌てても後の祭りだ。一方「アメリカ」人のブレンダン・フレイザーは、素朴な理想と正義感で「ベトナム」娘ドー・ハイ・イエンを守り、助けたいと名乗りを上げる。そこには確かに純粋な気持ちはあったのだろう。だが「アメリカ」フレイザーには、それぞれの「個人」としての事情、「大人」の事情…なんて発想はまるっきりない。土足で人の玄関先に上がり込む事なんて、「目的さえ正しければいい」の一念でまったく気にしない。自らの使命感がすべてを正当化させると勝手に思いこんでいる。時にはそれが多少道をはずれたっていいとさえ思っている。それが自分の傲慢さ、単純無知さ、独善、偽善…だとは、これっぽっちも思わない。

 確かに見事に色分け出来る。この3人の関係は、そっくりそのままミクロな三国のシンボルになっている。この巧みな設定に思わず舌を巻くよ。

 ただ、これはこれだけでも十分興味深いのだが…実はこのドラマを「図式的」にだけ見てしまっては、あまりにもつまらないし単純に過ぎる。映画は(そして原作は)、ここからもう一つの顔を見せていく。もちろん、それはリアルな実感に溢れた「恋愛劇」としての顔だ。

 経験豊かな年上の人間、豊かな先進国の人間としてドー・ハイ・イエンをリードしてきたマイケル・ケインには、それなりの自負もあるし培って来たものがあると信じている。自分だけが女に与えられるものがあるとも思っている。だがその反面、自分がうまい事を言いながら問題を直視せず、一方的に甘い思いをし放題だったという負い目もあるのだ。でも、普段はそんなイヤな事は考えずに済んでいる。

 そんな彼の前に、若くて輝いているブレンダン・フレイザーが現れる。この男はまったく物怖じも遠慮もせず、しかも言うなれば何の思慮も謙虚さもなしに、何の屈託もなく自分を女に売り込んでくる。これはケインにとっては面白くないし、まこと苦々しい限りだ。

 だがケインには分かっている。老いた自分よりも若いフレイザーの方が、ドー・ハイ・イエンにより多くの恩恵を与えられる事を。実際に彼はそれなりの経済力もあるし、いろいろ権限もあるようだ。この若い男の前では自分は吹けば飛ぶような男だと、ケインはイヤというほど思い知らされる。

 しかもフレイザーは、知らない間に女の姉とうまいことツルんでいたり、ともかくいちいち世渡りがうまく調子良い。ケインが妻との離婚を偽った時など、ここぞとばかりに正義ヅラして、鬼の首でも取ったかのように乗り込んでくる。何と不愉快な男であろうか。何と卑怯で姑息な奴なのか。なのに、そんな姑息な野郎のほうが大手を振って、正義ヅラで罵って来たあげく女までかっさらう。これはケインにとっては耐え難い苦痛だよ。プライドまでズタズタになる、どうにもやりきれない苦痛だ。

 実はまるっきり自慢出来ない話だが、僕にもかつて似たような経験がある

 もちろん相手は外国人ではなかったし、僕には妻子もなかったよ(笑)。だが、シチュエーションとしては同じような状況になった。これは本当に腹わたが煮えくり返る思いだったよ。だから、この映画のマイケル・ケインの思いはよく分かる。この映画には、すごく「実感」があるんだよね。

 で、ここからがさらにこの映画の別の顔だ。「恋愛劇」から人間のモラルを絡ませた「政治サスペンス劇」に変貌する。

 ケインはそんな純粋な理想主義者のはずのフレイザーが、実は何ともしたたかな陰謀者の一面を持っていると気づく。「正義ヅラ」で自分を罵倒したフレイザー、善意の人の顔をして女をさらっていったフレイザーが、実は汚い企みの黒幕。それだけでも許せないし、我慢ならないではないか。オレはこんな汚い奴に「悪党」呼ばわりされたのか、あの女の見ている前で。

 しかも、そんなフレイザーによるアメリカの介入の仕方たるや、自分と女の間に割って入った時の図々しさそのものではないか。自分は正しいから何をやってもいいのだ。自分は正しいに決まっているのだ。余計な奴はすっこんでいろ。…そんな独善性には我慢が出来ない。

 しかもケインは街頭の爆弾テロの惨状を見ていて、十分私憤にかられている。それを共産ゲリラの仕業に押しつけたウソも悪いが、とにかくあんな凄惨な事をしでかした事自体が許し難い。

 しかもしかも、ベトナムのため…と勝手な理屈で自分を正当化して…おそらくは自分でもそれを信じ込んであんなひどい事がやれる奴なら、愛していると言っているあの女にも、同じような愚行をしないとは言い切れない。イヤ…絶対にするに決まっている

 自分よりはあいつの方が彼女を幸せに出来ると思ったからこそ、女を奪われた事も慰めに出来たものを…これは断じて容認出来ない。

 そんな私憤と公憤が入り交じって…いや、それらをあえてすり替えているのに気づかぬふりをして、ケインは結局フレイザーの命を間接的に奪ってしまうのだ。

 むろんケインにはそれなりの理屈がある。フレイザーは悪人だ。殺した方がいいような人間だ。だが、そこに私的な嫉妬心がなかったと言えるだろうか。

 いや、確実にこれは私的な感情だ

 実に恥ずかしい話だが、僕もあの時にどれだけ悔しく思ったか分からない。自分で手は下さずとも、上から鉄骨が落ちてくるとかトラックに跳ね飛ばされるとかマンホールに落ちるとかゴロツキに絡まれるとか…何かそんな目にでもあっちまえばいいと正直思った。だってどう考えても理不尽だしおかしい。姑息なやり口も気に入らない。調子のいい立ち回りぶりも不愉快だ。自分の特権を十二分に利用したセコさも腹立たしい。

 だから僕だって事情さえ許せば、そして映画のケインのように「大義名分」さえ立つなら、魔が差して何らかの事をやってないとは言い切れない。さすがに殺しはしないだろうが、映画のマイケル・ケインみたいな事だけで済むのなら、やらないでいられた自信は僕には全くないな。幸か不幸か、僕にはその機会がなかっただけだ。そんな時期を通り過ぎてしまえば平気なんだが、人間にはそんな危ない精神状態の時が必ずある。このあたりの描きっぷりは、見ていてヒリヒリするほど痛いんだよね。

 この映画の怖いところは、そこに「大義名分」が存在する事だ。確かに殺られても仕方のない奴。だがここでこいつが殺られる理由は…手を下さずともケインがそこにフレイザーを追い込んだ理由は、自分の女を奪ったというただそれだけだ。実は天下国家なんて高級な話ではなかった。テロは許せないなんて正義でもなかった。単なる「情痴殺人」と何ら変わりない。

 さらに怖いのは、ケインにその話を持ちかけた助手のチー・マも、そんなケインの気持ちを十分知った上で話を持ちかけている事だ。チー・マにとってはフレイザーの暗殺こそが「政治的な目的」だ。それを果たすために、いつも控えめで献身的だったこのチー・マは、いざとなったらケインの「嫉妬心」を利用したとも言える。そこに政治というものの持つ、凍り付くように冷徹で非人間的な恐ろしさも感じてしまうんだよね。

 だがそんな恐ろしさの最たるものは、ケインが心から愛してやまない女…ドー・ハイ・イエンの幸せを、結果的に自分の手で摘んでしまった事かもしれない。

 もちろん、それを知っているのはケインだけ。女は夢にも思っていない。だが逆に言えば、自分だけは偽れない。彼女には隠せても、自分にだけはウソはつけないのだ。

 だからケインは、思わずハイ・イエンに「すまない」と告げてしまう。その理由は告げられなくても、どうしても詫びずにはいられないのだ。それでもケインの心は癒される事はない。

 なぜなら…彼女はケインの下に戻って来たものの、彼女の心は死んだフレイザーの下に永久にとどまるからだ。それを知っていながら共にいる事は、実は彼女を奪われるよりもっとツラい。自分の腕の中にいる女の気持ちが自分にはないと知る事は、生皮を剥がされるようにツラい事だよ。僕はそれを骨身に染みて知っている。これは自慢にも何にもならない話だが…。

 そんなわけでこの映画は、そんな重層的な見方が出来るから面白い。リアリティもあるし、いろいろ考えさせられる映画なのだ。こんな厚みのある映画は、最近あまりないんじゃないだろうか。

 

主役三人のアンサンブルの妙

 この映画は、主要人物を演じる3人の俳優も実に素晴らしい。彼らを見ているだけで惚れ惚れする。

 マイケル・ケインは間違いなく最近でのベスト・アクトだろう。ちょっとズルい初老の男ぶり、女にメロメロになってしまう情けなさ、陰謀を知って燃え上がる怒り…そしてモラルと自分の本音に引き裂かれていく弱さ。オスカー候補も伊達ではない。

 そう言えばこれは余談だが…僕はこの「愛の落日」を見て、ケインってかつてもう一本似たような映画に出てたよなと思い出した。その映画はテレビで見た劇場未公開作品、リチャード・ギア共演の「愛と名誉のために」(1983)だ。内乱のアルゼンチンを舞台にしたこの映画、若い医師ギアが英国領事ケインの若い現地妻(「ボーダー」、「サルバドル」とアメリカ映画の南米モノというと出てくるエルピディア・カリーロ)に惹かれ、秘かに関係を持ってしまう…というお話。これってあまりに「愛の落日」と似すぎていると思いきや…何とこれもグレアム・グリーンの「名誉領事」なる小説を映画化したものだと言うではないか。どうもこのあたり、グリーンという人の実人生が何らかのカタチで反映しているのではないだろうか。さもなければ、これほど同じような話に強迫観念のようにとらわれているわけもあるまい。ただ、その両方にマイケル・ケインが出ているというのは笑っちゃうけどね。

 余談ついでにもう一つ言えば、最近のグレアム・グリーンの映画化と言うと、あのことの終わり(2000)があるよね。あれも中年の役人スティーブン・レイの妻ジュリアン・ムーアと、若い男レイフ・ファインズとの関係についてのお話だ。やっぱり何やらオブセッションを感じちゃうよねぇ。

 さらにさらに余談を言えば、実はグレアム・グリーンって映画に出た事もあるんだよね。それが何とフランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜」(1973)! たまたま撮影現場にいたのがグリーンだったのでエキストラに出てもらったという、単なる偶然の産物らしい。そう言えば「アメリカの夜」では、年老いた医師の夫を持つ若い女優ジャクリーン・ビセットが、ほんのちょっとした過ちから共演の若い俳優ジャン・ピエール・レオと関係を持ってしまうエピソードが出てくるが…まぁ、これも単なる偶然だろう(笑)。

 対するブレンダン・フレイザーは、何と言ってもハムナプトラ」二作(1999と2001)で知られるようになった俳優で、他にも悪いことしましョ!(2000)や「ルーニー・チューンズ/バック・イン・アクション」(2004)などコメディ畑の俳優のイメージが強い。だがこの人には、ゴッド・アンド・モンスター(1998)のシリアスな好演もあった。今回はそんな二面性を生かしての活躍ぶりだ。素朴な理想主義に燃える「善意の人」ぶりは、コメディ作品や「ハムナプトラ」のヒーロー役の味が生きている。ベトナム娘に夢中になる純朴さは、タイムトラベラー/昨日から来た恋人(1999)のナイーブな彼だ。ところがそんな純朴善良アメリカンなこの男が、冷酷で計算高いもう一つの顔を見せる。そのハードな味わいは、「ゴッド・アンド・モンスター」を演じた彼だからこそ出来る辛口だろう。この映画ではフレイザーのあらゆる面を見ることが出来る。言い換えれば、この役はフレイザーのような達者な役者でないと出来なかっただろう。

 そんな中で紅一点のドー・ハイ・イエンは、あのトラン・アン・ユンの「夏至」(2000)に出ていた人。あの時には別に注目はしなかったが、ここでは実に可憐に演じて花を添える。ハッキリ言ってその柄だけを使われたというのが本当のところだろうが、それでも彼女が魅力的でないと成立しない話だけに、典型的キャラクターではあるが適役だったと言うべきだろう。そしてこうなってみると、先日公開された彼女主演のベトナム映画「コウノトリの歌」を見逃したのが、何とも悔やまれるんだよね。

 

見た後の付け足し

 さてこの感想文の冒頭で、僕がグリーンの原作を「静かなアメリカ人」と覚えていたと書いたよね。その理由は、実はこの原作が映画化されるのは2度目だったから。実はその最初の映画化作品が、「静かなアメリカ人」(1958)。「愛の落日」はこの映画のリメイクになるわけだ。僕はおそらく、この最初の映画化作品の題名を聞いていたんだね。

 「静かなアメリカ人」はジョゼフ・L・マンキウィッツの作品。恥ずかしながら僕はこのマンキウィッツなる人をあまりよく知らないが、 「クレオパトラ」(1963)などをつくった事だけは知っている。英国人ジャーナリストにマイケル・レッド・グレーブ(ヴァネッサ・レッドグレーブの父親)、アメリカ人青年にオーディ・マーフィー、ベトナム娘にはジョージア・モールが扮していた。

 で、この時代のアメリカ映画で当時のベトナムで現地ロケしていることから伺えるように、どうやら原作を大きくねじ曲げているらしい。アメリカ人青年は「善意の人」のまま。結局幕切れはイギリス人ジャーナリストの思いこみによる愚行という事に落ち着いていたようだ。これはあまりにシラジラしいよね。でも、この時代ならこうなっちゃうかもしれない。今でこそベトナム戦争は「アメリカが過ちを犯した戦争」と子供でも知っているが、当時はまだそのベトナム戦争も起こってなかったし、アメリカもまだ正義ヅラをしていた。それが平気でまかり通っていた。みんなもそれを信じていたのではないか。

 だからこそ…。

 なるほどイマドキこんな時代の話を、わざわざ映画化する意味もあろうと言うものだ。なぜなら、事態は何も変わっていない。この映画のベトナムとブレンダン・フレイザーの向こう側には、どうしたってイラクのアメリカ軍が見えている。

 静かで善意で理想主義のアメリカ人…その時代を超えた身勝手と独善が、今こそハッキリと透けて見えるのだ。

 

 

 

 

 

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