「セックス調査団」

  Investigating Sex

 (2004/09/06)


  

見る前の予想

 アラン・ルドルフの最新作である。…と聞いてピピッと反応する人は、今どれくらいいるのだろうか?

 アラン・ルドルフってどんな人?…とイマドキの映画ファンに聞かれたら、ちょっと答えに困るかもね。何と答えるか…と考えてみると、それがそのまま即僕らのルドルフ評価と言えるかもしれない。

 まずはいろいろあるだろうが、“プチ・ロバート・アルトマン”みたいな作家と言えば、誰しも多かれ少なかれ思っている事を言い当ててるのではないか? アルトマンの弟子とかアルトマンのお抱え運転手(笑)とか…なぜかよくも悪くもアルトマンの名前を出さずにルドルフは語れない。

 その作品は、どこかシャレてて…ハッキリ言えばお高くとまった印象がある。日本の映画界にミニシアター・ブームが到来した事によって、初めて本格的に紹介された映画作家の一人だというのもうなづける。

 ところが僕はそのルドルフ映画に、およそ10年ぶりでお目にかかる事になった。実はその後も映画を撮っていたし、しかも日本に入っていたらしい。僕はそれにまったく気が付いていなかったんだよね。そんな地味な扱いだった。

 実は今回だって、決して華やかな場に迎えられた訳じゃない。都内でも、即ビデオ発売の映画ばかり上映する映画館ただ一軒だけの上映。それも何とも怪しげな公開のされ方だ。かつては都会のコジャレて知的な人々にウケてたルドルフ映画に、いまやヒマそうなオッサン客しか来てないんだからね。まぁ、それも無理はないかも。タイトルからして「それ」風だし。

 題して、「セックス調査団」と来ちゃうからね。

 

あらすじ

 時は1929年、アメリカは東部のある都市。若くして学者のダーモット・マローニーは、今まさに知的な考察を巡らせていた…セックスに! 愛とセックス…愛は感情に左右されるシロモノでつまらない…などと、頭の中で屁理屈を並べている彼。だがその一方で、何とも妖しくみだらな妄想に耽ってもいる。その妄想とは…。

 そんなマローニーの妄想を断ち切ったのは、ベッドで大股開きの美女ジュリー・デルピーだ。彼女は自分という女がここにいながら、一戦交えるとすぐに妄想に耽るマローニーに我慢ならない。「夢とセックスしてればいいわ!」

 デルピーは怒って出ていく。でも、マローニーは妄想から逃れられない。

 一方、若い女ロビン・タニーはベッドで彼氏と励みに励む。ところがそんな彼女に突然の電話だ。男出入りも華やかなタニーは別の男からの誘いかと思ったが、幸か不幸かそれは仕事の依頼。それは、速記者としての彼女を雇いたいという電話だった。

 その頃、メガネをかけたいかにもお堅い雰囲気の娘ネーブ・キャンベルが、イソイソとあるお屋敷に急ぐ。彼女はこのお屋敷の前で、先ほどの女ロビン・タニーとバッタリ出会う。キャンベルもまた、今回このお屋敷に速記者として呼ばれた娘だったのだ。だがキャンベルにもタニーにも、今日ここで何が行われるかは聞いていない。突然扉を開けて出てきた奇妙な男ジェレミー・デイビスには脅かされたものの、次に扉を開けたマローニーに迎えられて二人は屋敷の中へと通された。

 ところがまずマローニーはキャンベルとタニーの二人に、まずは用意した衣装に着替えるように頼み込む。それは肌を大胆に見せる黒いドレスだ。これにお堅いキャンベルは当惑する。

 さて今回は、屋敷の一室を使って何人かの男たちが討論をする。その模様を速記しようというものだ。集まっていたのは助平そうな作家ティル・シュヴァイガー、ひ弱そうな画家のアラン・カミング、そしてまだ若いジョン・ライトらという「文化人」の面々。彼らはいずれもマローニーの知人であり、マローニーの「研究」のために集まってきた。だが、中で最も若いジョン・ライトは、マローニーに妙な対抗意識を燃やしているように思える。それはライトの恋人だったジュリー・デルピーを、マローニーが奪うカタチになっていたからか。ともかく一見和やかではあるが、どこか緊張感のある集いではあった。

 おっと…一人だけ重要なメンバーを忘れていた。マローニーにこの屋敷を討論の場として提供し、多くの芸術家・文化人のパトロンとして大金を投じている男、富豪のニック・ノルティだ。だが彼は、いまだここには到着していない。

 そして始まった討論…そのテーマは「セックス」について

 それを聞いて、まずはお堅いキャンベルがたまげる。だが、マローニーは大まじめだ。まずは男に女のオーガズムは分かるか?…という課題から討論はスタートする。話題は二転三転。速記のキャンベルはドキマギするうちに、何やらマローニーに妙な妄想を感じ始める。一方タニーはと言うと、シュヴァイガーに色目を使われて悪い気がしない。ついつい足を組み直したりしてサービスにこれ努める。

 そんな中、マローニーはついつい真情を吐露し始める。それは彼の中の性的強迫観念…夢魔「キューバス」の存在だ。彼は何だかんだ言っても、愛あるセックスが一番…と考える愛情至上主義者だ。だが彼の中の強迫観念が、そんな彼のジャマをする。「キューバス」は女の姿をした魔物…それは男を食い物にする恐ろしい存在だ。だが、それが彼を虜にしている。生身の女よりも彼を魅了するのだ。実はマローニーがこんな討論や研究に没頭するのも、この強迫観念のなせる業だった…。

 そこに割って入って来たのが、屋敷に戻ってきたパトロンのニック・ノルティ。彼が乱入してきたとたんにみんな落ち着きを失ったのは、結局ここにいる誰もがノルティの歓心を買って、自分の活動への援助を仰ぎたいからだ。現にシュヴァイガーなどは露骨にそれを口にする。「こんな討論に参加したのも、ノルティのためさ!」

 だが彼はパトロンとして多くの芸術家・文化人の取り巻きを持ってはいるが、本人は典型的な成金ガハハ・オヤジ。屋敷に集めてる美術品の数々も、カネのためだとハッキリ明言する。しかもその場に画家のカミングがいるにも関わらず、彼の絵を押しのけて「もっとカネになる」絵画を飾ってしまうデリカシーのなさ。無論マローニーのセックス研究にだって、「オレはいつだって誰だって女をイカせる、その自信はある」ってな調子。まるでシリアスに受け取ってはいない。

 それにノルティは今、とてもじゃないがセックス討論どころじゃない。実はウォール街で不穏な動きがある。有数の投資家である彼は、そんな情報に気が気ではないのだ。結局はマローニーに挨拶しに来ただけで、慌ただしく屋敷を出ていった。

 ともかく一日目が終わった。何だかんだ「いやらしい」と文句をつけながらも、マローニーに明日も来てくれと頼まれれば、即座に承諾するキャンベル。そんな彼女をタニーは「お高くとまっちゃって」とばかりにからかう。

 翌日は討論に新たなメンバーが参加。一人はあのジェレミー・デイビスで、彼は実験的映画の制作者だった。もう一人は黒人紳士のテレンス・ダッション・ハワード。彼は真っ先にキャンベルに目を付けた。

 だがこの日は雨が降り出し、雨漏りで広い部屋を追われる始末。おまけに工事の人間が入って、騒音の中を声を張り上げてセックス談義に興じるハメになる。とてもじゃないが討論どころではなかった。

 そんな一日の終わりに、マローニーはキャンベルとタニーを、夜の映画上映会に誘う。ノルティの出資によってデイビスが撮った実験映画だ。

 そこにはあのデルピーも招かれていたし、カミングは自分の妻エミリー・ブルーニを連れてきていた。早速始まった映画は、エロティックな妄想のような映画。キャンベルはすっかり妙な気分になってしまう。

 そこにパトロンのノルティも妻チューズデイ・ウェルドを連れて到着。このウェルドという女が年増の色気をプンプン充満させ、ノルティとイチャつき合ってるから余計ムードが妖しくなる。シュヴァイガーはカミングの妻ブルーニに露骨に関心を示し、ブルーニもまんざらでもない様子。何より奇妙なのが、カミング自身がこの二人をくっつけようとしている事だ。

 キャンベルは…というと、いよいよ自分の中のマローニーと結ばれたい欲望を抑えきれなくなる。マローニーの方でも彼女に惹かれているが、どうもタイミングが悪くて実を結ばない。

 そしてタニーは、ついにデイビスと一線を超えた

 翌日、事態は急転。何とウォール街の株の大暴落で、ノルティはすってんてんに財産を失ったと言う。ヤケクソになったか討論に参加したノルティは、何と幼い頃のロバとの獣姦について語り出す。だが突然「ウソだよ〜ん!」の一言でドッチラケ。討論はますます不毛なものになっていく。

 そんな折りもおり、すっかりデイビスの愛人に収まったタニーは、彼に討論の模様をフィルムで撮影する事を提案する。そこで、早速次の夜にそれを実行に移すことになった。

 だが話題はまたしても二転三転、ノルティとウェルドが痴話喧嘩を延々続けたりと、討論は空転を重ねる一方だ。ただ雰囲気だけがますます妖しさを増していく。

 そこにいきなり停電が起きたから大変!

 ここぞとばかり組んずほぐれずのノルティとウェルド。シュヴァイガーもブルーニーと一戦おっ始まった。それを見ながら、予想していたとは言え衝撃を受けるカミング。盛りがついたタニーとデイビスも自宅へと帰った。デルピーはライトとモローニーとの間で気持ちがもつれにもつれた。

 そして、みんないなくなった…。

 ノルティもウェルドと寝室へと消えた。キャンベルも後に含みを残しつつ…マローニーと口づけを交わしただけで、屋敷を去っていった。そんな彼女の情熱を覚ますように、外には土砂降りの雨が降る。

 一人残されたマローニーは、ひたすらサンドバッグを殴って汗をかく。汗をかいて冷静さを取り戻す。そんなマローニーに、一線終えて戻ってきたノルティがつぶやいた。「生身の女でなく魔物を愛しているなんて、そんなのは愛とは言えないぜ

 討論を通じて出てきたさまざまな課題も、かえってマローニーを「愛とセックスの迷宮」に迷い込ませるだけだったのか。そうかもしれない。だが…そうでないかもしれない。

 今、マローニーの脳裏には、またもや妖しげでみだらな妄想が見える。それは夢魔「キューバス」の姿なのか、それとも愛すべき女キャンベルの面影なのか…。

 

脱プチ・アルトマン、アラン・ルドルフの別の顔

 先に述べたように、アラン・ルドルフと言えばロバート・アルトマンの名前を抜きには語れない。つまりは「プチ」アルトマンだ。もういいかげん一本立ちしてから長いこと経ってるのに、いつまでもガキ扱いみたいで気の毒ではある。だけど実際にルドルフのキャリアにおいてアルトマンとの関わりは無視出来ないものがあるし、そう言われてもしょうがない不名誉をルドルフ自身で招いている部分もある。だからこれは、言っては何だが身から出たサビとも言える。

 僕がルドルフの名前を初めて知ったのは、確かキネ旬誌上に彼の作品「ロサンゼルス・それぞれの愛」(1976)が紹介された時だった。たぶんこれはアメリカからのレポートか何かだったのだろう。当時は「ウェルカム・トゥ ・L.A.」と原題そのままで紹介された。

 実はこの時点で、すでにルドルフは「アルトマンの弟子」扱いで紹介。その位置づけは現在でも変わらないわけだ。でも仕方がないよね。だって彼は元々「ナッシュビル」などのアルトマン作品で助監督を手がけ、ポール・ニューマン主演のアルトマン作品「ビッグ・アメリカン」(1976)で脚本も手がけている。そしてアルトマンのプロデュースを得て、満を持して監督作品「ロサンゼルス〜」を発表と言うわけだ。

 ところがこの「ロサンゼルス〜」、アルトマンが製作を買って出たばかりじゃない。出演者がキース・キャラダイン、サリー・ケラーマン、ジェラルディン・チャプリン、シシー・スペイセク…と、この当時のアルトマン組の役者が勢揃いって感じなんだよね。これでは「プチ」扱いされても仕方がない。この作品は結局日本公開されず、しばらくしてテレビ放映された(「ロサンゼルス〜」はその時の邦題)が、僕は未見で終わってしまった。

 では、僕がルドルフ映画に触れた一番最初はいつか…と言うと、忘れもしない「チューズ・ミー」(1984)の時。これは確か、あるミニシアターのこけら落としで上映されたはず。ちょうどミニシアター・ブーム真っ直中の1986年のことだ。あちこちでミニシアターが雨後の竹の子みたいに乱立。ヨーロッパ映画やらアジア映画やら、どこの配給会社もそれまで日本に紹介されなかった国や作家の映画を漁るように買い付けて公開していた。そんなドサクサに紛れて、我らがルドルフ映画も公開されたわけ。

 これも…まずはキース・キャラダイン主演ってところからしてアルトマン臭が強い。共演のジュヌヴィエーヴ・ブジョルドも、どことなくジェラルディン・チャプリンあたりと面影が似ているあたりがアルトマンっぽい。実はこの時、アルトマン自身はアメリカで干されてフランスでくすぶっていた時代。その後ハリウッドへ凱旋してきたアルトマンはすでに「あの」アルトマンではないから、厳密な意味でアルトマン路線を継承していたのはルドルフって事になるんだよね。

 どこの街とも言えない都会を舞台にした、寓話性の高い孤独な男女の恋物語。これをやけにスタイリッシュな映像とムード歌謡みたいなこってり系のラブソングで味付け…。確かにアルトマン路線ではあるが、実はこの時点ですでに少しづつルドルフの独自性は芽生えていた。正直言うと、この映画はキライではない。

 その後に日本にやって来たルドルフ映画は、クリス・クリストファーソン主演の「トラブル・イン・マインド」(1986)。これもどこの街とも言えない街を舞台にした、抽象性の高い孤独な男女の恋物語。脇にキース・キャラダイン、ジュヌヴィエーヴ・ブジョルドを配するあたりも、明らかに「チューズ・ミー」の路線の延長線上にある。

 驚いたのは1989年に相次いで公開された二本、「メイド・イン・ヘブン」(1987)と「モダーンズ」(1988)。それでも後者「モダーンズ」については、いかにも典型的ミニシアター映画の体裁だったから、まだ驚くには当たらなかった。ここではまず、この「モダーンズ」から触れていくことにしよう。おそらくルドルフ映画は、ここで何らかの方向転換を意図したらしいのだ。それは20世紀初頭の知識人、文化人たちへの傾斜だ。

 「モダーンズ」はみなさんがご想像されるように、ガートルード・スタインやらヘミングウェイやらと言ったパリの芸術家・文化人群像を描いた映画。こうした題材と、キース・キャラダイン、ジュヌヴィエーヴ・ブジョルド、ジェラルディン・チャプリンといった顔ぶれから見ると、パリに逃げて以降「お高く」なってしまったアルトマンの影響下にある…と指摘する事も可能な作品だ。しかし僕は、ここでのルドルフの姿勢はアルトマンとは一線を画しているように思う。これについては後で詳しく触れたいと思う。

 さて話を戻して…実は僕が本当にビックリしたのは、前者「メイド・イン・ヘブン」の方だ。

 溺死して天国へ行った男を主人公にしたロマンティック・ファンタジー…って内容からして「らしく」ない。おまけに顔を出しているのが、「普通の人々」で売り出したティモシー・ハットンや「刑事ジョン・ブック/目撃者」のケリー・マクギリスというのはどんなもんだろう? それまでのルドルフならではのメンツが、一切ここには姿を見せていない。職人的仕事ではなくかなりクセの強い作品をつくってきただけに、これはかなり目立つ違いなんだよね。出来映えも今ひとつだし、こう言っちゃ何だがまるで「やる気」が感じられなかった。

 これって「雇われ仕事」なんじゃないの?

 実はルドルフって、こういう雇われ仕事らしき映画もいくつか目立つ。僕がもう一本知っているのは、デミ・ムーア、ブルース・ウィリスという当時の夫婦共演作品「愛を殺さないで」(1991)。女房ムーアを殺そうとする暴力ロクデナシ亭主ウィリス…というシリアスな作品で、実はこれってそれなりに面白い。だけど、ルドルフらしさ…って言えばカケラもない映画なんだよね。これもおそらく「雇われ」だろう。

 まぁ、世の中には付き合いというものもある。だけどこういう仕事も臆面もなくしちゃうから、ちょっとルドルフって分からないところがあるんだよね。だって普通あんなにクセのある映画を撮るヤツは、こんな雇われ仕事はやらんだろう。何を考えているのか見当が付かないんだよね。

 ところがこの後、ひょっこりと「チューズ・ミー」以来のルドルフ節が充満する作品をつくったりもするから、この人はまたまた分からない。それはマシュー・モディーンとララ・フリン・ボイル主演の「堕ちた恋人たちへ」(1992)だ。またしても都会の孤独な男女の物語。「トラブル・イン・マインド」のヒロインであるロリ・シンガーが脇に顔を見せている事からしても、この映画が「チューズ・ミー」「トラブル・イン・マインド」の延長線上にある事は明らかだろう。

 そして次にやって来たルドルフ映画…さらには今回の「セックス調査団」以前に僕が最後に見たルドルフ映画が、「ミセス・パーカー/ジャズエイジの華」(1994)。今回は久々に御大アルトマンがプロデュース。そのせいか、ジェニファー・ジェーソン・リー以下俳優の顔ぶれがすっかり一新した…と思いきや、チャッカリと脇にキース・キャラダインが出てくるのが何ともおかしい。そして、これはまたしても1920年代の文化人たちの群像物語…となれば、「モダーンズ」の延長にある作品なのは間違いない。

 と言うわけでザッとここまで見ていくと、何だかんだとアルトマンの影がチラつくルドルフではある。確かに今回の「セックス調査団」でのネーブ・キャンベル起用も、何となく「バレエ・カンパニー」でアルトマンに使われた後の起用…って印象が濃厚だよね。「あの子いいから使え」と師匠アルトマンに無理やり押しつけられた感じすらある(笑)。

 元々がアルトマン人脈からスタートし、フィルモグラフィーも「それ」っぽい。ルドルフの作品群の二大路線とも言うべき、「ロサンゼルス・それぞれの愛」「チューズ・ミー」から続く都会の孤独な男女モノ、「モダーンズ」から続く1920年代の文化人群像モノ…それって何となく、「お高く」なっちゃった最近のアルトマンを彷彿とさせる部分があるよね。

 だけど僕は先に「モダーンズ」の部分で言及したように、ルドルフの姿勢って「お高い」アルトマンとはどこか一線を画している…と感じているんだよね。そして、それには理由がない訳ではない。

 まず一つには…先ほどの「雇われ仕事」の作品群がある。決してホメられた事ではないし、単に人の良さを表しているだけかもしれない(カネに弱いだけかもしれない)が、こんな仕事を平気で残す男が「お高い」訳はないだろう。

 そして…実は、今まであえて語ってなかった、ルドルフのもう一つの「知られざる顔」がある。

 それはホラー・SF好き…とでも言えばいいのか、ハッキリ言ってゲテモノ映画好きの顔なのだ。

 これってミニシアターあたりでルドルフ作品をかける時には、まったくと言っていいほど言及されない部分だ。実際に彼のフィルモグラフィーの中でも異彩を放っている。

 僕がそれに気づいたのは、ある深夜の未公開映画放映の時だった

 僕はとにかくSF映画には目がない。そして知られざるSF映画の佳作は、しばしばこうした深夜枠で放送される事がある。未公開作ならなおさら。だから昔はよく深夜映画を漁って、アレコレとマメに見たりもした。そんなある夜、僕は「いかにも」な題名と遭遇したわけ。

 「真夜中の極秘実験」…(笑)。

 これを見て、SF映画じゃないと思う奴はまずいない。そしてかなりの確率でゲテモノだという事も察しがつくだろう。ところが次の瞬間、僕は監督名を見てビックリした。

 「アラン・ルドルフ」!

 いやいや…同名異人ということもあり得る。だけどルドルフには「メイド・イン・ヘブン」という例もあるからね。ひょっとして、また「雇われ」ちゃったのかもしれない。あり得ない話ではない。

 映画はアメリカの田舎町での、奇怪な出来事を描いたものだ。次から次へと牛が異常死する。これはUFOの仕業ではないか…という疑いが出てきて、女保安官と刑事がその真相を探るという物語だった。

 実は正確に言うと、SFと言うよりはサスペンス映画のカテゴリーに入る作品ではある。だけど全編に漂う不気味さや奇妙な味は、ちょっと忘れがたい印象を残しているんだよね。

 主演はテレビの探偵モノに出ていたロバート・ユーリックと「ポルターガイスト」のジョベス・ウィリアムズ。顔ぶれは確かにルドルフ作品らしくない。だが、いろいろフィルモグラフィーを見てみると、やっぱりこれは「あの」ルドルフの作品らしいんだよ。

 これを「雇われ」仕事と言うのはたやすいが、どうもそれにしては異様に力がこもっていた。明らかにノッてやってる感じがあるんだよね。ルドルフがつくりたくてつくった作品に思えるのだ。

 そんな裏付けのない理由では納得出来ないとおっしゃるなら、実はこれにはちゃんと裏付けもある。

 実はルドルフの監督デビュー作って、「ロサンゼルス・それぞれの愛」ではなかった。これは今回この原稿を書くにあたって、調べてみて初めて僕も知ったんだよね。何とそれに先立つ3年前に監督デビュー作を発表している。

 その作品、題名を「悪魔の調教師」(1973)という…。

 どう考えてもゲテモノ、間違いなくホラー映画だ。実際に解説を読むと、狂ったサーカス団員が人をさらっては虐殺する話らしい。「サーカス」ってあたりからして、いかにもいっちゃってる感じだ。

 こんな映画をデビュー作にしているルドルフが、ゲテモノがキライな訳がないだろう?

 百歩譲って、デビュー作だから題材も好きに選べなかったとしよう。そして「雇われ仕事」も平気でやるルドルフならではの仕事だったと考えよう。だがそうすると、どうしても辻褄が合わなくなってくるのだ。

 「悪魔の調教師」や「真夜中の極秘実験」には、明らかにルドルフの「雇われ仕事」ではない証拠がある。

 実はルドルフは、自身の監督作品でほとんど脚本も手がけている。例外は「雇われ仕事」である「メイド・イン・ヘブン」「愛を殺さないで」…さらに僕が未見の未公開作品「ローディー」(1980)、「ソングライター」(1984)も脚本にはノー・タッチで、これらはやはり従来のルドルフ作品とは一線を画する内容のようなのだ。

 つまり「雇われ仕事」の場合、ルドルフは単なる監督に専念する。もらった脚本をただ演出するだけ。

 ところが「悪魔の調教師」では変名ながら脚本を執筆、「真夜中の極秘実験」でも脚本に参加。つまりルドルフはこれらゲテモノ異色作二本を、かなり乗り気でつくっていたらしいのだ。

 このあたりからしてルドルフという作家のかなりな屈折ぶりが伺われるが、それにしたって「悪魔の調教師」や「真夜中の極秘実験」の監督が、「お高く」とまっているとはとても言えないだろう(笑)

 いくらミニシアターでコジャレたお客を集めようと、いくらアルトマン人脈に浸ろうとも、どだいお里は知れている

 そう考えてみると…「雇われ仕事」を気安くホイホイやっちゃうあたりも、作家としての「気取り」や「てらい」のなさかもしれない。

 僕がルドルフをアルトマンとは必ずしも同一視しない…ちょっと興味ある存在として見ているのは、そんなところがあるからなんだよね。

 

見た後での感想

 そんなわけで、アレコレ遠回しに語ってきたが、ここからが本題だ。

 前述のアラン・ルドルフのフィルモグラフィーを辿っていただければ明らかだが、今回の「セックス調査団」は彼の作品群の中でも、「モダーンズ」「ミセス・パーカー/ジャズエイジの華」に続く1920年代文化人群像モノの系列に入る作品だ。これほどキチンとカテゴリー分けできるフィルモグラフィーを形づくる映画作家も珍しいけどね。

 原作とされるのは、“シュルレアリズムの中心的存在だった詩人アンドレ・ブルトン”の「性についての探究」なる討論の記録。なお、このくだりは資料のまったくの受け売りだ。僕がこんな事を知るわけないよ(笑)。

 ともかく、この映画のごとく「文化人」たちが集まってセックスについてアレコレとマジメに語り合った記録なわけで、そのままでは到底劇映画になどなるはずもない。それって東宝映画の「ノストラダムスの大予言」みたいなものだ。ドラマ部分を後からくっつけていかなきゃ劇映画にならない。そもそも元々がフランスの本だったこの記録を1920年代のアメリカに持ってきたのは、ルドルフが作品をお得意のフィールドに持ち込もうとしたからだろう。ゲテモノの方へ持ち込んでも面白かったかもしれないが、今回は幸か不幸かそれは避けられた(笑)。

 見ていただけば分かるが、当時の真剣な討論を現代の視点で見れば、かなりおかしいしコッケイに見える

 そもそも主催者の学者からして、こういう論議を大胆にも展開しようと言っている割には臆病で、なおかつ視野が狭い。獣姦も同性愛も却下、やっぱり愛のあるセックスが一番だ…などと、せっかくこんな討論の場を設けたにも関わらず、ご本人は至って保守的かつオーソドックスな見解を示す。当時の知識人にしてもこのへんが限界だったのだろうとは分かるものの、このあたりの保守性に関しては映画は意図的に容赦がない。

 それより何よりおかしいのは、集まった「知識人」たちの俗物ぶり。結局はパトロンにおもねってタカる事しか考えてない。あきらかに文化だ芸術だ…に理解などないガハハ・オヤジのパトロンだが、それにすり寄る「知識人」たちの右往左往ぶりがおかしい。

 何より「性とは何か?」などと大上段に振りかぶって討論している割には内容は不毛で、それより「あの女とやりたい」とか、「この女は気があるだろうか」とか、内心ではセコ〜い思惑で動いているバカバカしさ。こうなっちゃうと文化もへったくれもないガハハ・オヤジの方が、「ヤレて気持ちよければそれでいい」とストレートに的を得ている。中でも一番バカバカしいのがやっぱり討論の主催者で、大げさなテーマを振りかざしている割には、女とセックスで悶々。ならば早く手を出しゃいいものを、いざとなると理屈がジャマをする。結局は理想だ強迫観念だと訳の分からないところに逃げる。いざとなったらサンドバッグを殴って「いい汗」かいて発散…って、子供だましみたいな逃げ道しか見つけられない。てんでだらしないのだ。

 そんな人間群像をどこか笑って見ているあたりは、確かに毎度同じく師匠アルトマンをも彷彿とさせるあたりだ。

 だが…思えばかく言う僕らも、何だかんだとこういう場面で屁理屈を振り回してはいないか。言ってみりゃ「やりたい」とか「好かれたい」ってだけの事なのに、そこに尾ひれをつけてアレコレと遠回りをする。あるいは自分を正当化する。カッコをつけてるだけで、実は自分の望みからどんどん遠ざかっていたりする。バカもいいとこなのだ。アリバイづくりに追われたあげく、肝心の犯罪がいつまで経っても実行出来ない(笑)。

 それにしても、豪華なメンバーには驚かされる。ネーブ・キャンベルはアルトマン経由だろうが、他のメンバー…ダーモット・マローニー、ロビン・タニー、ジュリー・デルピー、アラン・カミング、ティル・シュヴァイガー、ジェレミー・デイビスあたりはどこから引っ張って来たんだろう。このあたりは、「モダーンズ」や「ミセス・パーカー」あたりと同様のキャストの多彩さに驚かされるね。中にデルピー、シュヴァイガーらが混じっているのは、師匠アルトマン譲りのヨーロピアン・テイストって事なんだろうか。

 ところで前述のネーブ・キャンベルはこんな題材の映画にも関わらず、「ワイルド・シングス」に続いて頑なに脱がない往生際の悪さ(笑)。逆に彼女のそんなカマトトぶりを役柄に十二分に活かして、これはこれで秀逸。ひょっとしたら何様キャンベルへのイヤミか無理無理押しつけてきた(?)アルトマンへのツラ当てとも受け取れる(笑)…ルドルフのしたたかさが伺えるキャスティングだ。

 驚いたのは、こんなメンツにニック・ノルティが混じっている事で、それも今回はプロデュースまで携わっているから本気だ。この人って時々、あのジェームズ・アイヴォリー作品に出たりするから、まったく油断出来ないんだよね。いつルドルフと知り合ったんだろう?

 

見た後の付け足し

 というわけで、そんなかつての「知識人」たちの大マジな討論がどこかコッケイにも見えてくる、そこに現在の我々の「愛と性」にがんじがらめな様子が二重写しになる…そのへんの皮肉な味がどこかアルトマン作品にも似ている…というのが、いかにもルドルフ作品らしいとも言える。

 だが、実はそんなルドルフがアルトマンと一線を画しているというのは、僕が先に述べた通りだ。

 実はかつての「知識人」がマジでバカな事をやってる様子を、単に現代の僕らに引き写すだけではない。ルドルフはこれら「知識人」を、決してバカになんかしていないと思うんだよね。

 確かにカッコばかりつけていてコッケイには見えるだろう、現代の視点では的はずれと分かる事も言っているだろう。だけど彼らは少なくともマジメに対象を見つめようとしているし、その時点で自分が考える限りの誠実な態度で物事を語ろうとしている。それはどこかコッケイに見えても、決してバカに出来るものではないんだよね。

 ルドルフは、絶対に彼らをバカにはしていない

 困ったもんだ…と思っていても、その「困ったヤツ」ぶりは今の我々に相通じる部分でしかない。だから我々が彼らを見下す事など出来るわけがあるまい。むしろ今から見たら初々しいばかりの彼らの態度に、どこかうらやましさすら感じているように見える

 ここらへんが…最近とみに高いところに上がって人を見下す、師匠アルトマンとは違うところなんじゃないか。

 ここではむしろ過去の「知識人」たちの真摯な態度は、望ましいものとして見なされているようにも思える。それって愛にしろ人生にしろ何でも冷笑で済ましてしまう、現代の我々にはない美点ではないか? ニヒリズムで対応することが利口な態度だと錯覚している、愚かな我々には失われた真っ当さではないか?

 このあたり、同じ1920年代の文化人たちを共感を持って見つめた、「モダーンズ」や「ミセス・パーカー」と同じ態度なんだろうね。そして抽象性を「寓話」の域まで高めて「愛の例え話」をつくろうとした、「チューズ・ミー」以下の作品群ともどこか共通している。それはたぶん、常に同じメッセージだ。

 愛を前にした時には冷笑はやめろ、常に真摯であれ。

 ゲテモノ映画だってマジでつくるアラン・ルドルフなら、きっとそれも本気のメッセージに違いないと思うんだよね。

 

 

 

 

 

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