「茶の味」

  The Taste of Tea

 (2004/08/30)


  

今だから話そう日本映画の恥ずかしさ

 僕が日本映画について語るのはいささかおこがましいとは思うが、実はここだけの話、まるっきり一本も見ていない訳でもない。ただ実際の話、とても自慢出来るほどは見ていないというのは確かだね。

 旧作ならそれなりに見ているのではないかと思うし(もちろん邦画ファンやマニアと呼ばれる人々ほどは見ている訳ではないと思うが)、新作でも何年か経ったらテレビでそれなりに見ていたりする。結局、新作を劇場公開時にほとんど見てなかったという事なんだよね。

 正直な話、かつて僕が日本映画を劇場で見ると言ったら、一年に1本というのが毎度のパターン。つまり1本見たらその年は終わりだ。それが僕のノルマだった。

 それも何かタダ券が手に入ったとか、誰かの付き合いとか…およそ自分から見たくて見た…というのはない。日本映画ファン激怒は必至と思うが、あえて言わせてもらえば…一時期日本映画の新作って、ホントに見たくなる要素がなかったからね

 なぜかどこかに必ず恥ずかしいところがあるんだよ。どうしてこうなるのか分からないけど、ともかく見ていて恥ずかしくなる。日本映画ファンに「日本人のくせになぜ日本映画を見ない」とまるで国粋主義者みたいな言い草で叱られるたびに、僕は心の底でこう言いたかったよね。「だって、アレを見て恥ずかしくならないの?」

 僕は金と時間を使ってまで恥ずかしい思いをしたくないわけ。痛い思いは現実だけでたくさん。それを他人からとやかく言われたくはなかったよ。

 で、これが不思議な事に、旧作の日本映画…それも少なくとも1960年代前半ぐらいまでのモノなら、そんな恥ずかしさをあまり感じずに済むのだ。

 もちろん中には恥ずかしいものもあるよ。でも、それはアメリカ映画やヨーロッパ映画の新作に駄作がある…というのと同程度のものだ。なぜか昔の作品には、そういうセンスのなさをあまり感じなかった。

 まぁ、一つには長い時間が流れて、センスのなさも冷静に見れるようになったという事もあるのだろうか。流行や新感覚が色褪せるように、恥ずかしさも薄れていくのかもしれない。恥ずかしさにも鮮度があるのだ。

 それから時代を経て今に残った作品は、すでに淘汰されたモノだからね。恥ずかしい作品はとっくに消えてなくなって、後世の僕の目には入ってこないんだろう。

 だが、それだけじゃないだろう。日本映画って、実際にどこかで「恥ずかしさ」が増したんじゃないか?

 ここで言う恥ずかしさ…とはいろんな意味がある。センスのなさ、幼稚っぽさ、バカバカしさ、貧乏くささ、常識のなさ、お粗末…要は娯楽として人がわざわざお金を出して買い求める気にならないようなシロモノ。僕が物心ついてからの日本映画には、ずっとそんな印象が付きまとっている気がするのだ。

 それは映画が落ちぶれて、ジリ貧になったから恥ずかしくなったのか。恥ずかしくなったからジリ貧になったのか。

 待てよ…その「恥ずかしくなってからの日本映画」を、オマエは見ていないんじゃないのか?…と言われれば確かにその通り。では見てないで、何でヒドイと言えるのか?

 まず、その理由の一つ目…。「見る気にすらならない」「見る前からひどそう」…と予想されるパッケージングの映画って、その事からして商品としてセンスがないし、やる気も感じられないとしか思えないよ。我々は映画に対して消費者であり、決して「映画を見なきゃいけない」立場にはいない。決定権はすべて消費者にある。そんな消費者である僕らに「見る気を起こさせない」映画なんて、その段階でスカだとは思えないだろうか。商品になってないんだよ。仮に映画をビジネスとして見るな…とおっしゃるなら、コレは教育映画か自動車教習所の映画かと言いたい。

 そして、理由の二つ目…。見ていないとは言ったものの、それは劇場でリアルタイムに見ていないという事でしかない。数は多くないかもしれないが、テレビなどでは結構見ていたりするのだ。ところがテレビでその実物の作品に接してみても、かなりの確率でハズシ。悪い予想はほとんどと言っていいほど当たる。やっぱり見たら相当に恥ずかしい。

 これについては補足が必要で…その後にいろいろ見ていくと、数あるうちには必ずしも箸にも棒にも掛からないシロモノ以外の作品も確かにあった。だがそれは見る側である僕自身が、心の中で「何かを切り替えて見ている」からそう見えるモノだったりもした。かなり好意的に見よう、イイ部分を拡大して見ようとして見ているんだよね。あるいはツライ部分は目をつぶろう…とか。だけどそんな事をしなくちゃ面白く見れないとしたら、やっぱり何かが欠けているしオカシイって事なんじゃないだろうか。少なくとも、それってプロの仕事じゃないだろう。

 特にかつての日本映画は、作り手なり応援団なりが「金がないから仕方なかった」とか言い訳ばっかりしていてイヤだったんだよね。どうして素直に「ここはダメだ」と認めないのか分からなかった。そして「どうしてみんな見ないんだ」と観客に文句を言う。しまいにゃ客をバカ扱いする始末だ。

 だけどいやしくもプロだったら、お客に「見ろ」とは口が裂けても言えないだろう。お客に「見ていただける」ようにつくって売るべきだろう。みんな商品に魅力を感じないから買わないのだ。そんなナメたゴタクを並べてるからダメなのだ。そして大した作品とも思えないモノをベタホメ。どうしてそういう大本営発表をいつまでも続けるのかなぁ…と、なおさら日本映画がイヤになってもいた。

 まぁ、ここまでの文章を自分で振り返って読んでみて、よくもこれほど日本映画の事をひどく言ったものだ。こりゃあ確かにちょっと酷だね。でも、これでスッキリもしたよ(笑)。

 実際に「日本映画」と言っても、それらは多岐に及んでいてとても一言では語れない。そりゃ新東宝と溝口と宮崎駿と山田洋次と浅野忠信の出るインディーズ映画を、一言では語ることなど出来ないだろう(笑)。だから、この一言で括ってしまうのは実に乱暴な事だと十分承知の上で、それでもこれは僕の偽らざる正直な気持ちなんだよね。ちゃんと見ていないくせに…って言おうが何だろうが、本当に恥ずかしかったんだから(笑)。ウソ言ったって仕方ないよ。

 実際僕みたいに思っていた人は少なくないんじゃないか。特に日本映画に熱い思い入れのなかった人には…。だから極論だとしても、ある程度はご容赦いただきたいと思う。だってこれが本音だからね。

 

邦画食わず嫌いを打破した「鮫肌男と桃尻女」の衝撃

 さて、昨今は…そんな僕でも「日本映画ってちょっと変わって来たかも」…と思わざるを得ない。何しろ、みんな結構あれこれと日本映画を見に行くよね。昔は日本映画なんて、寅さんを見に行くお年寄りと東映を見に行く柄の悪い客と、あとは日本映画好きしか見に行かない雰囲気だった(笑)。だって見に行くのが恥ずかしかったもんねぇ(笑)。

 ただ、僕が日本映画はよくなってきたんじゃないか…と言うと、決まってこれに反発する人もいる。いわく、日本映画は昔から良かった。それにオマエが気づかなかっただけだ。

 さらにこういう意見もある。海外作品は選りすぐりのモノしか入って来てない。玉石混淆で考えてみれば、日本映画は前から悪くない

 ちょっと待っていただきたい。

 お説ごもっとも、確かにおっしゃる事は分かる。だけどね…それは屁理屈だ。ハッキリ言ってそれには100パーセント賛同は出来ないな(笑)。

 絶対に日本映画は変わったはずだよ。良くなった。環境も作り手も変わった。それはむしろ外から見ていて、贔屓にもしてなかった僕だから分かる。

 まぁ、日本映画と言っても言わゆるメジャーとインディーズ系があるから、一概には言えない。それでも、いろいろな意味で変化は訪れた。メジャーがかつてのように全国の劇場を抑えて一斉拡大公開することも減ってきたし、そういうチェーンも崩壊した。ミニシアターが増えてきたし、地方や郊外じゃシネコンが主流になってきた。さらにミニシアターにヒット作が生まれるようになって、アートシアター的な臭みがなくなってきた。ビデオやDVDや有料テレビなどの二次使用が増えて、ソフトの需要が増したり制作費の回収の目処が立って来た。映画会社以外の産業からの出資者も増えてきた。そんなさまざまな環境の変化が、日本映画を変えて来たんだろうね。それって必ずしも良いことばかりじゃないんだろうが。

 それから作り手の意識もセンスも変化した。テレビやらビデオなどで幼い頃から映像作品に親しんで来た若い世代が、制作側に回るようになった。彼らの多くは日本がすでに「経済大国」になってから大人になった世代だから、日本映画と海外作品というコンプレックスからも解き放たれていた。だからイジケてもいないしコンプレックスもない。

 何しろこいつらはコンプレックスもないけど、その裏返しの身びいきもない。だから実にシビアに見てもいる。それでも通用するモノをつくっているとすれば、それは外来品と何ら遜色のないモノだということだ。そんな事っていまだかつてなかったんじゃないだろうか?

 僕が最初にそんな気配を感じたのは、忘れもしない1995年…「ガメラ/大怪獣空中決戦」を見た時だった。新聞でのレビューの絶賛ぶりを見て、これは毎度お馴染みの日本映画と様子が違う…と慌てて劇場まで見に行った。実際に驚いたよね。見てて恥ずかしくないんだから(笑)! スペクタクル・アクションとしてちゃんと出来ている。これには驚いたよ。大人の鑑賞に耐える娯楽映画なんだからね。そんな当たり前の事が、日本映画ではなかなか出来てなかった。それをこの映画はやすやすと実現している。僕は元々怪獣映画などにまるっきり思い入れはないから、余計にビックリした記憶がある。

 そして、さらに僕を驚かせたのが…1999年末にビデオで見た「鮫肌男と桃尻女」(1998)だった。これを見なければならなくなった経緯は、当サイト特集邦画に夢中!に僕が書いたある舶来映画愛好家の懺悔録を読んでいただければお分かりいただけると思う。ともかく見た後の衝撃の大きさと言ったら…それまで全くと言っていいほど免疫がなかったから、この映画にはビックリ仰天した。確かにクエンティン・タランティーノの作品あたりをいただいた形跡はある。だが、それより…そのタランティーノあたりから始まった世界的な映画の動きとピッタリ呼応して、この映画が「今の映画」として出来上がっている事に感動したのだ。それまで僕は、日本映画なんぞは一部好事家のためだけにつくられていると思っていた。それが…世界の映画の流れにちゃ〜んと追いついて…それと同時進行で進んでいるじゃないか。本当にこの時ばかりは不明を恥じた。僕は近年の自分の国の映画の動きをまったく知らぬままにいたのだ。

 そんな訳で、メジャー系の代表としては「ガメラ」、そしてインディーズ系の代表としては「鮫肌」…のこの2本の映画で、僕は日本映画に対する認識を変えざるを得なくなったのだ。ハッキリ言うよ。僕は最初から日本映画に偏見がなかった…なんて偽善は絶対に言わない。偏見はあったし、実は今でもある(笑)。それが完全に偏見であるとも、実はまるっきり思ってない。だがともかく遅ればせながら…そして恥ずかしながら、この2本の映画を見たら今の日本映画も見なきゃいかんと思ったよ。特に後者、「鮫肌男と桃尻女」を見た時にはなおさらね。

 

見る前の予想

 そんな「鮫肌男と桃尻女」の石井克人監督が新作をつくった。

 ただ…残念ながら熱心な邦画ファンでない僕は、それだけでは動けない。現に「鮫肌」の次の作品「PARTY 7」(2000)はしばらく躊躇っているうちに結局見ずじまいだった。「鮫肌」は面白かったけど、あれよりもっとバカバカしくてもっと騒々しい…みたいに見える「PARTY 7」は、実はあまり面白そうに思えなかった。どんな刺激も、ただ増量するだけじゃ飽きちゃうからね。

 ところが、今回はガラッと変わって…何とホームドラマだと言う。

 何だか典型的日本家屋の縁側に、一家全員が座っている絵柄のポスター。何がどうして「鮫肌」の石井監督がホームドラマ。

 ところが、なぜかCGで巨大な女の子とか妙なモノが登場するらしい。その意味は分からないけど、何となく「面白そう」な予感が働いた。映画にはこの予感ってやつが大事なんだよね。

 見ると「鮫肌」はじめ日本映画のエースとも言える浅野忠信の他にも、三浦友和とか「下妻物語」の土屋アンナとか、やっぱり「鮫肌」でスゴイ役やってた我修院達也とか…キャストもなかなかお得な豪華版だ。ともかく自分の中の何かが、「この映画は見るべき」…と言っている。

 そうなればこれは何を置いても、ともかく理屈抜きで見なけりゃならないだろう。

 

あらすじ

 のどかな田園地帯…そこをコトコトと走る三両編成の列車。中には高校生の女の子が一人乗っている。他方、田舎道を息もゼイゼイとひた走りに走る高校生の男の子が一人。彼、佐藤貴広が鉄橋の前までやっとの事でやって来ると、そこを列車はアッという間に走り去って行く。

 今、列車で走り去っていった女の子こそ、佐藤の片思いの相手。転校でもう会えなくなってしまう彼女に、佐藤は想いを告げずじまいだった。それどころかしゃべった事すらない。そんな不甲斐ない自分にウンザリしつつも、彼の妄想の中で女の子は電車の窓から手を振っている…。

 佐藤の家はこの田園地帯の一軒家。彼はそこの長男だ。

 家では母親の手塚理美が、何やら書き物をしている様子。まだ幼い佐藤の妹・坂野真弥は、縁側でニコリともせずに佇んでいる。この家の離れには、じいちゃん・我修院達也の部屋。だがこのじいちゃんは少々変わり者で、この日も窓からコッソリと真弥を観察しつつ、彼女が振り向くとピタリと窓を閉じてしまう妙ちきりんさ。ボケが進んでいるのか…とも見えるが、このじいちゃん元々がこういう人って感じもある。だが、まぁそれはそれでいい。真弥はそんな事はどうでもいい。彼女にはそれよりも気になる事がある。それは時折り、真弥の巨大化した分身が現れること。もちろん、それは真弥本人にしか見えない。今だってこの庭の片隅に、どデカい真弥の頭が鎮座しているから彼女はウンザリする。

 だがこの巨大分身の解決法を、まるで思い当たらない訳でもなかった。時々家に遊びに来るオジサン浅野忠信の話をたまたま立ち聞きしていた時、興味深い話題が出てきたのだ。

 それは浅野オジサンがまだ子どもの頃のこと。近所の「呪いの森」で、まだ子どもの浅野オジサンは「野グソデビュー」したのだと言う。ところがそれからオジサンは、行く先々で不思議なモノを見た。いや…正確には人を見たと言うべきだろう。それは体中にイレズミを彫ったヤクザの男で、なぜか血塗れ。しかも頭にウンコを乗っけていたと言うのだ。ウンコを乗せたイレズミ男はたびたび現れたが、ある日突然姿を消した。それはオジサンが鉄棒で逆上がりが出来た日の事だった。…つまり逆上がりが出来れば幻影も消えるのか?

 ただしこれには浅野オジサンの知らない後日談があった。実はオジサンは知らず知らずのうちに、「呪いの森」に殺されて埋められたヤクザの白骨死体の上にウンコをしていたのだった。その白骨が発見されて、警察の手でドクロの上からウンコが離された時、たまたまオジサンが逆上がりに成功した。…ただそれだけの偶然だったのだ。

 その後日談の事は知らなかったものの、真弥も逆上がりが出来たら幻影が消える…というのには半信半疑だった。第一、そちらは血だらけヤクザだけどこっちは巨大分身。モノが違うではないか。そう思うと、あえて逆上がりに挑戦する気が起きない真弥だった。

 さて母親の手塚はと言うと、我修院じいちゃんにアレコレとポーズをとってもらって、自分の作業の参考にしている様子。実は彼女、元々がアニメーターらしい。どんなキッカケからか創作意欲が蘇ってきたようだが、夕食時もアレコレと我修院じいちゃんと「動き」のご相談だ。帰宅しても置いてけぼりのお父さん三浦友和は、これには何となくいい気分がしない。だが、あえてそれに文句を言う気もない三浦であった。

 さて例の次男の佐藤はと言えば、片思いの彼女を失った後の喪失感に加えて女性不信に打ちのめされ、しばらくの間は恋愛など考える余地もなかった。ところがそんな気持ちもつかの間、彼の前に天使が現れた。新しい転校生、キュートな土屋アンナだ。彼女の自己紹介の時に窓から突風が吹き込んで来た事すら、佐藤にはドラマティックな展開を予感させた。しかも彼女が囲碁が好きで囲碁部に入ったと聞くや…。実は佐藤、連日父親の三浦と囲碁の相手をしていた。何という幸運な偶然であろうか。その狂喜乱舞ぶりは想像に難くない。だが、囲碁ならぬ恋愛の「次の一手」が出せない佐藤。

 「次の一手」が出ないのは、妹の真弥も浅野オジサンも同じだった。

 真弥は考えるところあって、山奥の空き地にある公園の廃墟へとやって来る。そこには錆びたジャングルジムなどと一緒に、彼女がめざす鉄棒もあった。もちろん彼女は例の逆上がりを試してみる気になり始めていた。だが、結局断念して家に帰る真弥。

 浅野オジサンも、なぜか悶々としていた。同じ橋の途中まで行っては引き返す。その橋の向こうに何があるのか?

 やがてそれぞれが抱えていたちょっとした悩みは、それぞれのカタチで新たな展開を見せていく。

 佐藤はちょっとした偶然から囲碁部へ誘われ、憧れのアンナに接近出来る事になった。妹の真弥は躊躇を捨て、空き地の鉄棒に挑戦を始める。もちろん逆上がりは一朝一夕では出来ないが、それでも彼女は挑戦を始めた。

 さらに浅野オジサンは、勇気を奮って橋を渡りきった。すると…そこはかつての知人が働いている八百屋があった。その知人…中嶋朋子は、かつて浅野オジサンを振った女。そのショックから立ち直れず、オジサンは彼女にずっと背を向けていた。そんなわだかまりを捨てたいと思っていたオジサンは、橋を行ったり来たりずっと躊躇していたのだ。やっと彼女と再会出来たオジサンは、「結婚おめでとう」と言う事も出来た。これで胸の内がスカッと晴れたオジサンは、河原でバレエの練習をしていた金髪青年と仲良くなったりする。

 こうして少しづつ心のモヤモヤがほどけてくる家族一同だったが…。

 

見た後での感想

 ホームドラマだったのも本当。だけど巨大化した女の子が出てくるのも本当。見る前にチラッと得た情報は、どっちも確かに本当だった。それでどんな映画になっているのか…。

 まずは一家の長男が片思いの女の子が乗る列車を追う冒頭だけでも、この映画の要素がすべて現れている

 好きな女の子の乗る列車を必死に走って追いかける男の子、男の子の目の前で走り去っていく列車、ガッカリして戻っていく男の子の前に立つ満開の桜の木…。いやはや、本当に典型的な日本の叙情的ドラマらしいアイコンばかりだ。それも中途半端なものやパロディやらではない。本気も本気、大マジだ。本格的に腰を据えて、この映画ではイマドキ懐かしいばかりの日本的情景を再現している。

 ところが…列車を見送る男の子の額から、突然ミニチュア・サイズの列車がビヨ〜ンとハミ出てくるではないか!

 その列車はまるで「銀河鉄道」みたいに空へと走り去って行くが、そこにはこれまたミニサイズの女の子が、男の子の願望そのままに手を振っている…。

 典型的かつオーソドックスな日本的情景の中に、なぜか放り込まれるCGによる幻影映像。だが、そこに抵抗感は意外なほど感じない。なぜなら、それは必ずしも奇をてらったモノではないからだ。確かにあの状況の男の子の想いって、具現化したらあんな風なモノかもしれない。何かあのCG幻影はそんな実感があるのだ。そして抜けた後の男の子の額には、ポッカリ空虚な穴があることも…。決して単なる「思いつき」で描いた、悪ふざけみたいな描写ではないのだ。

 だから、CG幻影を使ってもあまり抵抗がない。これは不思議な効果だよね。

 ともかくこの映画の日本の田園風景って、本当に見ていて懐かしい情景だ。今でも探せばこの映画のように存在しているのだろうが、僕には最近お目にかからなくなった情景だ。おそらくこの映画を見てそう思う人は、決して少なくないだろうね。

 さらに縁側に家族が座っている…という風景に至っては!

 実はこの我が家でも、かつてはちっちゃいながらも縁側があった。そこに腰かけたり身を乗り出したりして、ゆったりとした時間を過ごした事もあった。今は跡形もなくなっちゃったけどね。

 この作品はそんな縁側が代表するような、日本の家族のゆったりとした時間を取り戻した映画だ。

 ただ面白いのは、先ほども触れたようにそこに奇妙な幻影が割り込んだり、ヤクザやらアニメやらオタクやら登場して来ること。そのあたりは、まさしく「鮫肌」の石井監督ならではの世界が展開する。この両立というか同居が実に不思議な感じなんだよね。

 だがここまで来て、見ている者には大きな疑問が二つ出てくるはずだ。

 なぜ、そんなイマドキ懐かしき日本の家族風景を再現しようと思ったのか?

 さらに、なぜそこに違和感ありすぎなはずの要素をブチ込もうとしたのか?

 この二つの疑問に答える前に、僕はこの映画のタイトルに注目したいと思う。「茶の味」…何だか風流なタイトル。意味があるようなないようなタイトル。

 このタイトルを目にして、まずは小津安二郎の作品を脳裏に思い浮かべない者はいまい。「お茶漬の味」(1952)、「秋刀魚の味」(1962)…などのタイトルを、誰しも連想せざるを得ないよね。小津の作品は…少なくとも後記の作品はいずれも家族の物語だったし、今から見れば古風で懐かしい日本的情景だ。

 しかも劇中で葬儀場の煙突から煙が出てくる…という、「小早川家の秋」(1961)もどきの場面まで出てくる。これで小津を意識してないとは言えないはずだ。

 だが、この映画が小津風につくられているか…と言えば、とてもそうは言えない。

 小津には特有の映画文法もあったし、誰でも分かるスタイルがあった。この映画はそんなものを踏襲しようとはしていない。引き合いに出しては気の毒だが…台湾の著名な監督が何を勘違いしたか「小津生誕何周年」みたいなオマージュ映画を撮るような、そんな「これみよがし」の雰囲気もなさそうだ。

 むしろここでの「小津的」記号ってのはこの程度のものではないか?…「鮫肌」みたいな強烈映画を撮っていた石井監督が、今度は淡々としたホームドラマを撮りますよ…ぐらいの。

 あるいはこうも言えるだろう。小津の映画が典型的日本のホームドラマのカタチをとりながら、実はかなりそこからハミ出していたように、これも決して“単なる”淡々としたホームドラマではないよ…と。

 つまり「小津映画」をつくってみます…って意味では決してない。むしろ、僕はこの後者のような一種の「宣言」ではないかと思えるんだよね。

 

石井克人の「小津映画」現代再生産宣言

 今の世の中ってのは、つくづく普通の人の等身大の心のドラマがつくりにくい時代だと思うんだよね。

 殺しや超自然現象やセックスを交えずに、普通で普段の心の情景を描くのは難しい。「青春映画」というジャンルだけは別だが、元々「青春」というものは人生の中でも精神が異常な時期だからね(笑)。

 結局、殺しや超自然現象やセックスを交えた映画をつくるのが早道って事になるが、それが必ず絡まなきゃ「人の心」が描けないというのはあまりに不毛だろう。

 それに、そんな映画ってどこか「作為的」になりがちだ。

 元々映画ってメディアが記録から生まれてリアリティを基調にする性格上、「自然」な映画は一つの理想型ではある。まして表現上はやれる事をやり尽くした観もあり、CG技術の発達によって見せたい絵をほとんどすべて見せられるようになった今、もはや刺激やらインパクトやらという「作為的」なものには、かつてほどの魅力を見いだせなくなってしまった

 そもそも世界中の人が、テレビやゲームやあれこれで「映像的記号」に慣れ親しみ過ぎてしまった。だからちょっとやそっとの事では陳腐で平凡なものにしか感じなくなってしまった。

 あとハリウッドのルーティンワーク的な娯楽映画が、あまりに商品としてのパッケージングを押し進めたために急速に魅力と鮮度を失いつつある…ということもあるよね。

 今、世界中の映画人はどうやったら「作為的」でない「自然」な映画になるかを血道を上げて探ろうとしている。

 ホウ・シャオシェンやアッバス・キアロスタミあたりから始まって、誰も彼もがカメラの長回しだったり撮りっぱなしだったり即興だったり素人の起用だったりと、出来るだけ「作為的」に見せない映画づくりを模索してきた裏にはそんな背景があったはずだ。実はその手法さえも「形骸化」してしまうと、りっぱに「作為的」な映画に成り下がっちゃうというのがこの映画文法の難しいところなんだけどね。

 で、そんな映画人たちが昔から着目して…いまだに探り尽くしていないのが、小津安二郎の映画って事になるのだろう。

 小津映画と言っても…ここで話題にしたいのは後期に小津が連発したホームドラマ。まぁ、一般の映画ファンが「小津映画」と言えばすぐに思い浮かべる一連の作品群だ。刺激もなく淡々と物語が進行する家族のドラマ。ここに「作為的」でない映画づくりへの秘密が隠されている…と映画人たちが目をつけるのも当然だ。

 さて、そこで小津なんだけど…何でイマドキ小津なのだ?

 そこで小津映画を考える時、いつも僕が思う事があるのだ。すなわち…小津映画に出てくる家庭って、ホントにあの当時の家庭そのものなのか?

 確かにまるっきり違うとは思わない。ああいう家庭もあったろう。ただ、相当理想化されたカタチではないかと想像されるんだけどね。いや、それは小津作品自体にも透けて見えている。

 実際にはあの「東京物語」(1953)にすら、理想的な家庭なんてものが崩壊している事がすでに描かれているではないか。よくよく思い起こせば、後期小津映画って程度の差こそあれ、理想的な家庭が崩壊しつつある姿を描いたものではないか。つまり小津映画の家庭って、あの当時ですらすでに理想の姿でしかなかった。たぶんその時すでに崩壊しかかっていたからこそ、小津はあんなカタチで映画に残したのではないだろうか?

 そんな「映画と現実との距離感」の点において考えると、「茶の味」の家庭がいささか懐かしさを持っている事も、これらと共通するものを感じられないだろうか。

 石井監督は今の時代に「普通の人のささやかな心の話」を映画にするにあたって、ちょっと懐かしさのある家庭=「ホームドラマ」というカタチを必要とした。それってかつて小津がやろうとしていた事と、どこか共通性があると気づいたのではないか。

 実は小津の映画というのも、ひたすらオーソドックスで大胆さなど皆無のように見えて、ユニークな部分が多々あるのはみなさんご承知だろう。

 トレードマークみたいなロー・アングルが、日本家屋の室内を撮るのに最適…という理由から行われたのは有名だ。しかし小津は、それ以外にも到底理屈のつかないような奇妙な撮り方をかなりしている。例を挙げれば…二人の人間が向き合って話し合う場面のカットバック。普通はどちらかを右、どちらかを左に向けて、目線をカメラのレンズから遠ざけて撮るはずだ。これは万国共通の映画の文法でもある。ところが小津はほとんど真っ正面カメラ目線ギリギリ。まるで証明写真でも撮るようなアングルで、二人の人間を交互に見せていく。これはかなり変だよ。

 こんな話を得意げにクドクド続けても仕方ないし、ここでの本論とは直接関係はないのだが、ともかく小津映画って前衛でも実験映画でもないのにかなり変だ。まったく淡々とした普通すぎるぐらい普通のホームドラマに思えるからこそ、その奇妙さは実は際だっている。

 また後記の作品では、移動撮影もカメラのパンニングもオーバーラップも行わない、ただただカットによる場面転換のみというストイックな姿勢を貫きもした。

 それって何のために行われたかを僕がここで一発で解き明かしたら、僕は今頃こんな事やってないで映画博士になっている(笑)。だからとてもじゃないが僕の手に余るけど、一つだけ確かな事がある。後期小津映画は確かにホームドラマだ。だがそれは、当時の日本に氾濫していた伝統的でルーティンワーク的なホームドラマというものからどこか逸脱していた。まるっきり踏襲しているように見せて、実はかなり違っていた。そういう凡庸でありがちなモノとは一線を画そうとしていた。

 その凡庸さとは何か…と言われても一言では言えないが、例えばベタッと微温的な人間関係や過剰なセンチメンタリズムもその一つだと思うんだよね。

 そういうのっていかにもこの手のドラマに「ありがち」だが、実は本当の人生ではあまりお目に掛からないものでもある。実際の場面においては、肉親の死に際して遺族は意外に泣かなかったりする。別れる時のカップルが意外に淡々としていたりする。親に反抗した子どもがバッと家の外に駆け出すなんて事もお目にかからない。それがリアリティというものだろう。凡庸でありがちなホームドラマがなぜ「凡庸」かと言えば、「悲しい場面で泣く」というような芸もリアリティもない描写が、見ている者を思いっきりシラケさせるからなんだよね。

 そこで…というか、小津の場合は必ずしも「リアル感獲得のため」とは一概に言えないんだけども…ともかく「いかにもホームドラマ」になりがちな物語に、何かクサビを打ち込みたかったはず。それだけは確かだろうと思うんだよね。

 ここで大事なのは、“必ずしも「リアル感獲得のため」とは一概に言えない”…と僕が指摘した部分。実際、小津の映画は「作為的」である事をイヤがってはいるが、それが本当に「自然」な映画かと言うとまるで違う。そのあたりは、極めて「不自然」な映画手法を使っている事からも明らかだ。むしろ、かなり「つくって」いる。ドキュメンタリーなどとは正反対のところにあるのが小津映画と言っていい。

 ただ…ここは難しいところなのだが、映画の中の「自然さ」と現実の「自然さ」は全然違う。それが全く理解出来なかったイングリッド・バーグマンは、「汚名」(1946)のキス・シーンの撮影現場でヒッチコックに食ってかかったらしい。だが今では、ヒッチコックの「不自然」な演出の方が正解だったと誰でも知っている。一旦は映画演出というフィルターを通さないと、映画の中の「自然さ」は生まれないのだ。

 だからこそ小津は、自分の映画の中を厳格につくり込んだ

 構図から何からキッチリと決めた。カメラの動きも限定させた。まるで京都の石庭みたいに抽象化した。エモーショナルでクッキリしたメロディー・ラインを持たず、リズムから何からあくまで淡々と均質に進行する劇音楽を使用した。激しい感情表現を出来るだけ排除して演技させた。つまり、「これみよがし」で凡庸な表現をことごとく切り捨てた。それがすべて正解だったかどうかは、作品を見ても分からない。だが、そこにそういう意図があった事だけは間違いないはずだ。

 中でも先に述べたようにストイックな映画文法に制限した理由は、おそらく微温的なヌク〜いドラマを創りたくなかったからだろう。映画の作り手と登場人物、登場人物と観客、作り手と観客…これらが安易にありきたりな共感と感情移入でベッタリと寄り添う事から、何とか映画を救い出したい。これらの間に適度な距離感をつくりたい。そんな、どこかクールでドライな映画にしたかったのではないか。

 ごく初期にはアメリカ映画に強く影響を受けた犯罪映画までつくっている小津なら、ひょっとしてここに「ハードボイルド映画」への傾倒も見いだせるのかもしれない。ホームドラマでハードボイルドをやったらどうなるか…それってあながち無茶な発想じゃないはずだ注*。そのあたりが、小津にとってのホームドラマのリアリティや現代性だったんじゃないだろうか。

 まぁ、僕のような日本映画門外漢が長々と知ったかぶりを並べ立てるのは、いいかげんこのくらいにしておこう。邦画や小津の事なら、他の誰かの方がよっぽど語れるだろうからね。これ以上は僕が言う事じゃないだろう。

 で、石井監督がこの「茶の味」でやりたかったのも、おそらくそれじゃないかと思うのだ

 こんな淡々としたはずのホームドラマにCG映像…普通ならかなりイヤミな思いつきだけの趣向に思える。だがよくよく見てみると、それら一つひとつにも必然性がある。それがあるから浮いては見えない。

 思えば男子高校生の額から飛び出すミニチュア・サイズの列車(しかもそこには片想いの相手が乗っている)、幼い女の子の巨大化分身、母親が催眠術によるトリップで見た鮮やかな色彩の奔流…それらはいずれも奇をてらったものではない。額から飛び出した列車は高校生の想いの深さを伺わせるし、それが飛び出した後に額に穴が開くのも、ポッカリ開いた心の空洞を思わせる。むしろイメージを「まんま」絵にしているような単純さだ。トリップで見えた鮮やかな色の奔流は、母親がアニメーターとして表現に没頭したいという願望を意味しているのだろう。いずれもその人物の思いのたけを、非常に分かりやすいカタチで映像化したものだ。女の子の巨大分身だけは説明不可能なものだが、ともかくそれはオブセッションとなって彼女を常に憂鬱にしている。ここでのCG表現は、そんな登場人物の「思いのたけ」を描くための道具として使われているのだ。だから、単に思いつきで面白がっているようには見えない。

 そしてヴァーチャル・リアリティや多種多様な映像と戯れて慣れ親しんでいる今の人々には、こうした幻影こそがリアリティかもしれない

 ヤクザもアニメ・オタクも暴走族も…決して別世界にあるわけじゃないから普通に出てくる。淡々とした家族の風景と地続きにある。それがこの映画のリアリティであり現代性だ。そりゃそうだ、こういう連中がいたってまったくおかしくない。僕らだってよく見かけるよ。

 で、親しみはあるが…それがリアルな映像の中に割り込んでくれば、それなりの違和感もない訳ではない

 うんこヤクザ幽霊の話や列車の中のアニメ・コスプレ…など、変なアイテムも劇中にチョコチョコ顔を出す。それはドラマの本筋とは関係ないところで、あくまで本筋をジャマしない範囲内で登場する。その中には…例えばヤクザの暴力とか物騒なエピソードもあるが、どれもこれも隠し味的なユーモアだ。だが、それはおそらく笑わそうとしてはやっていない。

 今年話題をさらった韓国映画殺人の追憶でも、こういうたくまざるユーモアが時々挟み込まれたのを覚えていらっしゃるだろうか。「殺人の追憶」とこの映画のユーモアは必ずしも同質ではないが、そのめざすところは共通する部分もあるように思える。それは本筋の物語に過度に没入しない…過度にベッタリと寄り添わないということだ。作り手も観客も過度に物語に入れ込みそうになる一歩手前で、サッと目を覚まさせるような働きを持っている。どこか距離をとろうとしている。それは小津もストイックな映画作法で実現しようとしていたはずの、クールさでありドライさだ。ユーモアってのは「批評精神」の産物でもあるからね。

 また、先に引き合いに出した小津映画についてさらに言及すると、それら(少なくとも後期の作品において)は常にストーリーよりもシチュエーションやキャラクター、さらにはディティールに重きを置いていた。だから毎回コレという事件も起きず、娘の縁談とかどうでもいいような事が淡々と進んでいくだけのストーリー展開だった。それって言うのは、「物語を語る」ことによる「わざとらしさ」「これみよがしな点」から映画を解放したいという意図があったはずだ。この「茶の味」にもこれといったストーリーやら太い幹のような展開は皆無だが、それもおそらくはも同様の目的によるものだろう。

 ともかく、それっていうのは別に「小津映画」のオマージュでもなければコピーでもない。映画マニア的に「小津映画」的なものをつくろうという不健全な意図でもないだろう。それならば有名なロー・アングルなど、特徴的な部分だけパクればいいはずだ。実際この「茶の味」は、見た目の点でさほど小津映画と似ている訳でもない。だから小津映画との関連で語るのはナンセンスと言われる方もいるだろう。

 だが、この映画に伺えるさまざまな特徴を列挙していくと、なぜか不思議と小津映画との関連が浮き彫りになる。むしろその相違を指摘すればするほど、共通性が痛感されるのだ。これは偶然って事でもないだろう。

 それは…いわば小津映画が当時目指していたとおぼしき方向に、今の時点でたまたまこの映画のまなざしも向いてしまった…というようなところではないだろうか? 特徴的な部分で相違が感じられるとすれば、この映画はそれを21世紀の時点でやっているから…とは言えないだろうか?

 

ミクロがマクロへと通じている「人生の真理」

 この映画では先のCG映像だけでなく、母親役の手塚理美がつくった作品としてアニメーションまでが登場する。このあたりはあのタランティーノのキル・ビルVol.1がヤクザ映画、時代劇、カンフー映画から日本アニメまで貪欲に取り込んでいたクロスオーバーぶりを思い出させて興味深い。以前だったら考えられなかった映像要素のジャンルの越境ぶりは、これからもどんどん進んでいくのだろうか。しかもそれらがゴッタ煮のように悪趣味に混在しているのかと言うと、なぜか意外としっくり同居しているから不思議だ。おそらくは創り手の側に、元から「越境している」という気負いも違和感もまったくないからだろう。気持ちの中でこれらの雑多な要素が矛盾なく同居しているのだ。このあたりの意識が、もう「いい歳」の僕などとは違うところなんだろうね。

 もっとも先のタランティーノの意図しているものも、キル・ビルVol.2まで見てみると至極真っ当なものだったりする。この「茶の味」にしても、それらの違和感ありそうな要素とはあくまで隠し味に過ぎない。あるいはこれも先のCG映像同様、単に今の人々のリアリティにすぎないかもしれない。我々は今までに例を見ない「映像社会」に生きているのだから。さらに、「違和感」も適度な距離感をつくり出すための「折り込み済み」のものかもしれない

 するとあとは…極めて「自然体」を目指した映画であることが浮かび上がってくる。

 その「自然体」ぶりは、特に出演者たちの演技に顕著だ。

 誰がどうのと言うのも何だが…特に目立つのは父親役の三浦友和。この平凡でつまんないお父さん役の徹底的な「普通ぶり」にはマイッタ。あえて例えて言うなら、ジョゼと虎と魚たちの妻夫木聡も真っ青な凡庸さとでも言おうか。ただあの映画の妻夫木は感情移入出来る凡庸さ、今度の三浦のそれは…あくまで外側からクールに観察して見える凡庸さなのだ。

 そういう意味では…何をどうやったって目立っちゃう浅野忠信も、今回は実にリアルだ。あの「初野グソ・デビュー」の話をしている時の口調もさることながら、自分を振った女・中嶋朋子との再会場面の真に迫り方と言ったら!…実にバツが悪そうにムダに「そっか〜」を連発する浅野は、まさにベスト・アクトと言っていい。こうなんだよね、こういう時って(笑)。ここは見ていて思わず身につまされてしまう。世界で最後のふたりの訳分からない浅野とは、まさに雲泥の差(笑)。

 「自然体」という意味で言えば、おじいちゃん役の我修院達也はその極北にある怪演ぶり。だけどこれは一種のトリックスターだから、これで良しとするべきだろう。それに出演場面全編があの調子だからこそ、最後がグッと生きてくるのだ。ともかく「鮫肌男〜」の時もスゴかったけど、今回もこの人でないと出来ない役どころだよね。

 子ども役は二人ともいいが、特にスゴイのは妹の坂野真弥だ。この子は逸材だよ。全編ニッコリともしないで出てくるが、無言でも場面をさらっている。場面が彼女でもってしまう。ラストの微笑みも…だからすごくインパクトがある。石井監督は今回この子を見つけただけでもお手柄だと思うよ。

 ただし…この映画、何から何までよく出来ている…とは言い難い部分もある

 まずは、先の三浦の演じるお父さんの扱いだ。彼が何となく妻との関係に不安定なものを感じているのは分からないでもないが、見ているお客さんによってはまるで気づかない人もいるのではないか? さらに、そんなモヤモヤをどうやって解消できたかも不明瞭だ。三浦は肩の力が思いっきり抜けた好演を見せてくれているが、役の設定そのものは脚本上も演出でもいささか弱いと思う

 さらにこの映画にゆったりしたテンポを与えようと腐心したあまりだと思うが、なぜかところどころに冗長な部分が散見できてしまう。どうしても「意図して」「意識して」緩やかなテンポでつくっているだけに、無理が出てしまうのかもしれない。何とか自然なスピードアップを抑え抑えしながらの映画づくりが、如何ともし難くあちこちでホコロビを見せたのではないか。やっぱり、完全に映像のテンポを自分のものとして肉体化するのは難しいからね。

 だがそのあたりはまだキズが浅い方かもしれない。実は「作為的」な印象を徹底的に避けたこの映画にも、思いっきり「作為的」な印象を与えてバランスを壊している部分がある。それは三浦の弟役・轟木一騎演じるマンガ家の登場場面だ。

 ここではハッキリと作り手の「笑わそう」とする意志が感じられる。面白おかしく見せようという事が如実に分かる。だが、それは作品のバランスを崩しているし、作り手が思ったほど効果を挙げていない。それは作り手自身が、この映画の中でこの場面の位置づけを今ひとつ読めてないからではないか。例えば轟木が女のアシスタントに暴力を受けて痛めつけられる場面でも、徹底してマジにやればそれなりに面白くなりそうだが(それで映画全体に貢献するかどうかは別の問題だが)、何だかふざけて遊んでいるようにしか見えない。そもそも本当に痛めつけているように見えないからね。結局この部分は、作り手の甘えか悪ふざけでしかないのではないか? そういう腰の退け方が、描き方そのものから透けて見えてしまうのだ。彼の出てくる場面が安っぽいバラエティ番組にしか見えないのも、きっとそのせいだろう。これも狙っているんだ…と言われれば、それまでなんだけどね。

 だから轟木が我修院達也のおじいちゃんを交えて歌い踊る「山よ」なる歌のレコーディング風景も、バカバカしくおかしくはあるが時々すきま風も吹く。もちろん石井監督シンパはこれぞ「石井映画」とか言うかもしれない。実際に見ていて笑っちゃいもする。だが全体から見れば、明らかに「悪ノリ」だ。ズバリ言って「蛇足」そのもの。

 大体、轟木のエピソード自体がなくてもいいものではないか。これを入れた意図がまるで不明瞭だ。個人的に轟木を出したかったとか、そんな理由しか思い当たらない。この部分はハッキリこの映画のキズだと思う。ちょっと残念だったよね。

 だが…そんなキズも気にならなくなるほど、この映画には一種のいとおしさがある

 映画の後半、唐突に我修院達也のおじいちゃんは亡くなってしまう。後に遺されたのは、家族一人ひとりに宛てたパラパラ・アニメの画集だ。それは彼ら一人ひとりの「かけがえのない」時間をとらえたものだった。

 バカな事ばっかりやって半ばボケていたような(完全にボケていたかもしれない)おじいちゃんは、しかし家族全員をちゃんと見つめていた。それまでの我修院達也の怪演が怪演なだけに、この場面には思わずグッと来てしまう。それが「アニメ」というカタチをとるところが今の映画たる所以だ。

 そして、これが「アニメ」である事には、ちゃんと必然性もある。

 アニメは分解していけば一枚の絵。その一枚一枚の連続で生命を持つ。それと同時に…長い人生も瞬間瞬間によって成り立っている。言い換えれば…素晴らしい一瞬さえあれば「いい人生」と言えるのではないか

 この映画の縁側に佇む家族の図を見ていると、そんなどうって事のない「人生の瞬間」の尊さを感じずにはいられない。

 またこの「一枚の絵=アニメ」と「瞬間=人生」のような、ミクロがマクロへと通じている…という考え方は、この映画の中にもう一本別の座標軸でを使って流れてもいる。

 それは秘かに空き地で逆上がりを試みる、幼い妹のエピソードを見れば分かる。

 自分の巨大分身を消したくて、何度も何度も逆上がりを試みる女の子。ついにそれに成功した瞬間、巨大分身をも包み込むような巨大ヒマワリが出現。それは女の子本人をも吸収して、それでもまだまだ拡大をやめない。辺りをすべて覆い尽くし、関東平野を包み込み、地球を吸収し太陽系全域に拡大する…。あまりのバカバカしさに呆れ返る大風呂敷の後、巨大ヒマワリは雲散霧消。その時見ている僕らも、言葉に出来ないような開放感に満たされる。あまりに途方もないスケールでバカバカしく話が広がるので、呆気に取られたあげくスカッとしてしまう。そして、誰しもが等しくこう思うに違いない。

 ハタから見たらささやかな事も、本人にしたら世界もつぶれんばかりの重大事。

 あの逆上がり成功の瞬間、それは彼女にとって太陽系を凌駕せんばかりのビッグ・イベントだったはずだ。僕らはみんな、そんなハタから見たら小さな…本人にとっては重大な問題を抱えて生きている。そんなミクロがマクロへと通じている「人生の真理」を実感として再認識させてくれる瞬間…ここは、このCG表現が「必然」だ

 あるいはそれは…どんな家の縁側も宇宙と地続きだと言い直してもいい。極めて自然にヤクザやアニメ・オタクが出てくるのと同じだ。

 そう言えば、浅野忠信のオジサンが子どもの頃、目の前に現れたヤクザの亡霊…。

 いつまでも付きまとうと思われたそれも、時間が経てば彼の前から姿を消した。オジサン本人いわく、鉄棒で逆上がりが出来たからという。実は、たまたま警察が死体を発見して、たまたま頭蓋骨の上からウンコを取り払った…単なる偶然の産物によるものではあるが…。

 だが、ウンコはウンコでそこにはちゃんと意味があった。この世に恨み憤りをたっぷり残しているであろうヤクザも、頭上のウンコの鬱陶しさとそれが取り払われた時の嬉しさに、思わず成仏してしまったではないか(笑)。広大な宇宙と悠久の時の中ではすべてはどこかでつながっているし、すべてはどうにかなるものなのかもしれない…。

 このエピソードにはヤクザの抗争、血まみれの亡霊、白骨死体…と、よくもまぁ揃えたりという忌まわしいアイテムが揃っているのに、何ともほのぼのとした笑いが漂ってくるから不思議だ。

 ここに代表されるような、さりげない「人生肯定」のメッセージ。この映画の素晴らしさは、こうしたもう一つの「人生の真理」を伝えてくれるところにもある。それは考えてみれば当たり前のものだが、誰もが日頃忘れかけていているような、心励まされる「真理」だ。

 宇宙をも揺れ動かさんばかりの事に思えてみても、よくよく考えれば小さいこと。

 ならば、それはどうにかなるはずだ。そんなにとてつもなくスゴイ事ではない。仮にとてつもなくスゴイ事かもしれないが、それでも大した事じゃない。あなたが努力すればどうにか出来るかもしれないし、考え方を変えればどうにかなるかもしれない。そして…例えあなたがどうにも出来なくても、どうにかはなるはずだ

 あなたが解決出来なくても、「宇宙」と「時間」には何の問題もないだろうから…。

 

見た後の付け足し

 それにしても…この映画を振り返って感想をそれなりに書き終えても、どうしてもあの奇妙な「山よ」の歌だけは引っ掛かる。

 僕は完全な演出ミスだと思ったし、ハッキリと「悪ふざけ」の産物と切って捨ててしまった。それなりに笑わせてはくれたけどね。この映画には余計だったと思った。

 だけど、それにしてはヤケに力が入ってるよな…と、妙なところが気になって仕方がない。何であんなにムキになってつくったのか? アレは何か意味があるんだろうか?

 そんな時、僕は妙な事を思い出しちゃったんだよね。

 先にこの映画と小津映画の関連を述べていた時に、葬儀場の煙突から煙が出てくる…という「小早川家の秋」もどきの場面があると指摘したよね。実はその「小早川家の秋」には、実に奇妙な一場面があったように思うのだ。

 それは喫茶店かレストランか忘れたが、宝田明を筆頭とする若者たちが席について、みんなで「雪山賛歌」だか「山男の唄」だかを合唱している場面だ。

 とにかくこの場面、見ていてえらく気持ち悪い。だって彼らはとにかく席に整然とついて合唱しているだけ。不自然なんてもんじゃない。腕なんか振ってテンポをとってはいるが、それ以外は微動だにしない。カラオケも伴奏もなしのアカペラで、ナチの行進みたいにカチッと一糸乱れずひたすら合唱。顔が笑顔なだけにかえって不気味だ。そんな見ている方が困っちゃうような場面を、ワンコーラスぶんぐらいは延々続けていただろうか。この場面にはマジで冷や汗が出たよ。悪い冗談かと思った。

 ハッキリ言ってなくてもいい場面なのに、何でこんな変なのを入れたか分からない。これって小津のホームグラウンドの松竹作品でなく、東宝傘下の宝塚映画の製作だ。だから思うに任せなかったのかと、一度は思ってもみた。だけどいくら東宝だからって、あの場面が入らきゃならない道理がない。あんな変な合唱場面をわざわざ入れろなどと、小津に圧力をかけてくる訳もあるまい。とにかく何とも不可解な一場面ではあるのだ。これが名匠・小津安二郎の作品でなければ、気が狂ったかと酷評されかねい一場面。あるいは何かのブラック・ジョークにも見えなくもない

 実は僕が「小早川家の秋」を見たのはもう大分前のこと。これって小津作品でもちょっと「番外編」の趣がある作品だけに、正直に言うと記憶もすでにおぼろげになっている。だから前述した奇怪な場面も、かなり記憶の彼方に消えつつあったりする。あまりに奇妙な場面なだけに、何か幻のように思えるところもあるんだけどね(笑)。 ともかく、何でこのシーンの事を誰も「変だ」と話題にしないのか、僕はずっと不思議に思っていた。

 なくてもいいような歌の場面、それもどう考えても気色が悪い不自然極まりない場面…考えてみれば「雪山賛歌」にしろ「山男の唄」にしろ、どっちも「山」の歌だったな…。

 いや、まさか…。

 いくら何でも、そりゃあないだろう(笑)。さすがにそりゃ考えすぎだ。あまりにも話が強引でムチャすぎるよ。

 やっぱりあの「山よ」の歌は単なる悪フザケだ。それ以上のモノではありようがない。そうだろう? そうだよね? みんなそう思うよね。これも、ウンコを頭に乗っけたヤクザの亡霊と鉄棒の逆上がりみたいな「単なる偶然」…そういう事にしておこうじゃないか(笑)。

 

 

 

 

(注*)これも何かの受け売りになるが、小津はホームグラウンドの松竹で撮っていた時には決して降らせなかった人工雨を、他社の大映に出向いて撮った「浮草」(1959)においてのみ盛大に降らせている。この事実を見ても、小津が常に松竹という会社の方向性やら設備やらの制約や限界の中で、それらを考慮に入れた作品づくりをしていたことは明らかだ。したがって、松竹大船調という社風の限界の中で出来うる「ハードボイルド」として、小津があのような特異なスタイルのホームドラマを創り出した可能性は十分考えられるはずだ。

 

 

 

 

 

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