「地球で最後のふたり」

  Last Life in the Universe

 (2004/08/23)


  

見る前の予想

 浅野忠信がタイの映画に主演してベネチア国際映画祭の主演男優賞を取ったという知らせは、いきなりな話だっただけに驚いた。すっかりある種の日本映画を代表する俳優のイメージが確立した浅野も、いよいよワールドワイドな活躍をするんだろうか?

 ところがいよいよこの映画の日本公開が迫ってみると、これって浅野主演のタイ映画…ってだけが売りじゃない。そもそも監督がシックスティナインペンエーグ・ラッタナルアーンではないか。「シックスティナイン」を見た時に予感したタイ映画の新たな展開は、まさしく現実のものとなった。これは見なけりゃいけない映画じゃないか。撮影のクリストファー・ドイルも、これほどあっちこっちで起用されるとありがたみも失せてはきたが…まだまだ「信頼のブランド」ではある。

 「シックスティナイン」はタランティーノ・テイストもあるブラックユーモア・サスペンスだった。果たしてこの映画は、一体どんな作品だろうか。

 

あらすじ

 浅野忠信は自宅で首を吊っている…いや、これは3時間後にはこうなるかも…という、彼の脳裏のイメージだ。彼は毎日のように自殺を企てようとする。だが、これには彼一流の考えがあった。

 自殺と言えば、行き詰まったり失恋したり失望したり…だが自分の自殺は違う。一種のリセット、リフレッシュとでも言おうか…。

 そんな訳で、今日も天井からロープを吊して首をくくろうとしている浅野。だが、そんな彼にジャマが入る。ドアのブザーが、やたらけたたましく鳴らされたのだ。

 ドアを開けてみると、やたらに厚かましい男が一人。着ているモノといい態度といい、ひどく柄が悪いこの男・松重豊は、まるでテメエの家のように中に入り込む。「久しぶり」とデカい声を張り上げる松重は、浅野とは何らかの旧知の仲らしい。だが浅野は、ただ当惑した様子で黙っているだけだ。手土産は缶ビールと何やら大きな紙箱だが、缶ビールはテメエで飲んでるし、紙箱は自分のモノだと浅野にクギを刺す松重。何事にも几帳面な浅野はキチッと部屋に本を積んで片づけているのに、松重はそんな部屋の床に平気でタバコの灰を落とす始末。さらに勝手にシャワーまで浴びるこの男の背中には、どう考えても堅気の人間にはない派手な彫り物があった

 ここはタイのバンコク。

 さて、浅野はバンコク日本文化センターで、日本語の図書の管理などを仕事とする男だった。彼は図書館で本の整理をしている最中、日本の女子高生もどきにセーラー服を着た若い娘ライラ・ブンヤサックを見かける。彼女は「さびしさの彼方を」なる絵本を立ち読みしていた。

 やがてセーラー服のライラは、誰かと連れだって図書館を去っていった。浅野はなぜか彼女が気になって、絵本を手にとって借り出す事にする

 その絵本に書かれているのは、ヤモリのお話。世界に最後に一匹だけ残った、あるヤモリの物語だ。ある日、そのヤモリは自分が世界で最後のヤモリであることに気づいた。もう友だちも家族もいない、その耐え難い孤独。そんな世界にたった一匹で生きる無意味。こうなってみると、自分の敵だった奴でさえいて欲しいと思うほどのヤモリだった…。

 その頃、松重はこれまた柄の悪い男・竹内力と酒場にいた。実は松重は案の定ヤクザで、親分の娘をレイプしたために日本を脱出。弟・浅野が暮らすタイのバンコクまで逃げ出してきたのだ。竹内はそんな松重の古いダチで、心配してわざわざ日本から様子を見に来たというわけ。そんな松重は実の弟にも関わらず、浅野の事を頭がオカシイなどと口走る。

 一方セーラー服のライラの行き先は、彼女が勤めている日本人向けクラブ。そこでは女の子がみんなセーラー服で媚びを売っていた。ところがそこに乗り込んできたのがライラの姉シニター・ブンヤサック。姉シニターは妹ライラをふんづかまえると、無理やり家に連れて帰ろうとする。

 姉シニターは妹ライラをクルマに乗せて帰るが、そのクルマの中でも大揉め。というのも、どうも妹ライラが、姉シニターの彼氏ティッティ・プームオーンと寝たのが理由らしい。だが妹ライラはまったく反省せず、姉シニターがロクでなしのプームオーンとつき合う気が知れないなどと言いたい放題。これには姉シニターもキレて、妹ライラをクルマから叩き出す。

 路上でそんなすったもんだをしていた姉妹は鉄橋へと差し掛かるが、ちょうどそこでは橋の手すりからあの浅野が飛び降りようと思案していたところ。浅野はあのセーラー服姿のライラに気づき、思わず目を合わせた。ライラも浅野に気づいて一歩踏み出したところに…。

 いきなりクルマが猛スピードで突っ込んできた!

 思いっきり跳ね飛ばされて、路上に血塗れで横たわるライラ。この一瞬の出来事に、姉シニターは茫然自失だ。ただただその場にいる浅野にむしゃぶりついて、泣き崩れるしかない。

 そんなゴタゴタのあげく浅野が自宅に戻ってくると、今度は松重が竹内を引っ張り込んでいた。それでも沈黙を守る浅野。彼は自室に引っ込んで、松重が持ち込んだ紙箱を勝手に開けてしまう。すると中からクマチャンのヌイグルミが…しかしそれは、拳銃を縫い込んで隠したシロモノだった。それを見つけた浅野は、またしてもついつい銃口を自分の頭に向けてしまう。

 ところが…どうも隣室の様子がおかしいようだ

 見ると兄の松重が傷つきながら、竹内に必死に命乞いをしている。竹内はと言うと松重をドスで刺した返り血を浴び、さらに銃を構えて松重の命を狙っている。古いダチが心配して訪ねて来たのではない、竹内こそが親分から放たれた刺客だったのだ。結局松重はトドメを刺され、竹内は銃口を浅野へと向けた。

 ただし…竹内は浅野の手に銃が握られているのを知らなかった

 次の瞬間、浅野は壁に飛び散った血糊を、いつもの几帳面さで丁寧に拭き取っていた。だが転がった二つの死体はどうする事も出来ない。浅野は淡々とした表情で、台所の包丁に手を伸ばした…。

 さて、翌日も例によって職場のバンコク日本文化センターに出勤した浅野。そんな彼の元に、あの姉の方のシニター・ブンヤサックが訪れる。昨夜浅野はシニターを伴って、負傷した妹ライラを病院へと運んでいった。その際にライラのクルマにバッグを忘れて行ったのだった。そこでシニターは、彼の元にバッグを返しに来たというわけ。

 そのままついつい成り行きで、一緒に夕食を食べる事になる浅野とシニター

 それにしても浅野の潔癖性は徹底している。外の食堂で飯を食うときも、持参の割り箸を使って食べるほどだ。そんな浅野とシニターが意気投合する訳もないが、なぜかいつの間にか離れがたい雰囲気になっている。シニターは浅野に飲みたいのか、女のいる店に行きたいのか…などと聞いてみるが、浅野はどうも無関心らしい。挙げ句の果てに、シニターの家に行きたい…などと言い出す浅野。本来ならば不審に思ったであろうシニターだが、結局彼女は浅野を自宅に連れていった。それは、妹の大事故…という尋常ではない出来事があったるが故だろうか。

 郊外にあるシニターの家は、それなりに大きくゆったりした家。だが、とてつもなく汚いゴミだらけの家だった。およそこのシニターなる女、掃除や片づけという発想がないらしい。そして彼女はなぜか日本語を勉強しているようで、そこら中に日本語会話の学習テープやテキストがアレコレと置いてある。

 シニターは用事があるため出かける事にするが、浅野は「もうしばらくいさせて」と居座ってしまう。さすがに奇妙に思うシニターだが、浅野を家に置いて出かける事にする。

 そんなシニターの留守中に、あちこちに散乱する汚れた食器を片づけ、ピカピカに磨く浅野。途中で電話があまりにうるさく鳴るため受話器を取ると、相手は男で何やら怒っている様子。当惑する浅野は言葉が分からない事もあり、そのまま受話器を置いてしまった。

 さらに家の中を探索しているうち、浅野は事故にあった娘ライラの部屋に入る。セーラー服ばかり掛けられているタンスの中を見ていると、そこに出かけていたシニターが戻ってきた。彼女は勝手に妹の部屋に入った浅野に激怒し、「出て行け!」と怒鳴って部屋から追い出す。当惑する浅野は仕方なく出ていった。

 妹ライラのセーラー服を抱きしめながら、ベッドに突っ伏して号泣する姉シニター。「どうして私を置いて死んでしまったの!」

 そう…妹ライラはあの事故で死んでしまったのだ。

 そのうち泣きやんだシニターは台所でピカピカの食器を見つけて、浅野を追い出した事を済まないと思い始めた。慌てて外へ飛び出すシニター。彼がどこへ行ったかとあたりを見回すと…クルマの後方で今にもひき殺されようと横たわっているではないか。どこまでいっても、相変わらず自殺癖が止まない浅野ではあった。

 こうしてやっと浅野とシニターは打ち解ける。食事をしながら片言で会話をする二人。聞けばシニターはまもなくこの家を引き払い、日本の大阪へと旅立つと言う。

 すると、知り合ったばかりで二人はもうお別れではないか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 何だか実につまんなそうなストーリー紹介で気が退ける。だけど、これはまったくこのまんまなんだよね。こういうユル〜い展開で全編お話が進むわけ。実は、僕もちょっとコレには戸惑った。

 というのは、僕はこの映画の監督ペンエーグ・ラッタナルアーンの「シックスティナイン」を見てたけど、あれってこんなスタイルの映画ではなかったからね

 それまで単純で素朴な良さのタイ映画(それもごくわずかな数しか見てないが)の存在しか知らなかった僕が、ここにも新しい映画の芽が吹き始めた…と最初に思ったのが、2001年に公開されたこの「シックスティナイン」だ。たぶん大方の映画ファンのみなさんも同様だったのではないか。

 そしてこの映画の日本公開後に、アタック・ナンバーハーフやらナン・ナークやらって新しいタイ映画が次々上陸して目を見張らせた。思えばこれらの作品が公開された2001年って、日本におけるタイ映画にとって画期的な年だったんだよね。アイなどで知られるパン兄弟の作品が、一番最初に日本で紹介されたのも2001年だ(東京国際映画祭で特別招待作品として「レイン」を上映)。どれもこれも洗練されていたし、あの手この手を惜しみなく使って面白い。語り口も危なげがない。だから今はもう、タイ映画を単純素朴で語る人なんかいないよね。さらに…つい先日のマッハ!の大ヒットも、みなさんの記憶に新しいはずだ。日本のロードショー劇場で公開されて大ヒットを飛ばしたタイ映画って、おそらくあれが最初じゃないだろうか。

 そんなわが国でのタイ映画評価の分水嶺となったのが、この「シックスティナイン」だと思ってもらえれば間違いない。

 この作品を語るに一体何を引き合いに出せば適当かと言えば、「レザボアドッグス」あたりのタランティーノみたいな感じ…ブラックユーモアとサスペンスとスタイリッシュなビジュアル・センス…こういう風に言えばお分かりいただけるのではないかな。ともかく歯切れの良さとかテンポの良さは目立っていたんだよね。

 そしてそこでは、何が描かれているかも明快だった

 ところがこっち…「地球で最後のふたり」は全編ユル〜いテンポ。だから、かなり案配が違うな…と思わざるを得なかった。まぁ、そうは言ってもこの監督の前作「忘れな歌」は見ていないから、作風がどうの…と語る資格は僕にはないんだけどね。

 とにかく説明的な描写が極端に少ないから、今お話がどうなっていて主人公たちがどう思いながら行動してるのか、それを察するのは極めて難しい。だが、それはまだいい。必ずしも映画は説明的である必要はないからだ。

 問題は浅野忠信扮する主人公にある。この主人公はかなり風変わりな男で、しかも無口と来ているからますます分からない。何を考えていて、一体どうしたいのかが分からない。実際どう考えても不可解な言動ばかりしている。異常に神経質で潔癖性なのも共感しにくい。見ていてもどうにも困っちゃうんだよねぇ。

 しかも、分からないのはそれだけではない

 実はこの映画で姉妹を演じる二人…シニター・ブンヤサックとライラ・ブンヤサックは本当の姉妹だとのこと。劇中では、なぜか突然に姉シニターが妹ライラに成り代わる場面が出てくる。この時点では妹はすでに死んでいる事になるのだが、何で突然姉が妹に代わるのか…その意味が皆目分からない。しかも浅野まで背中に兄・松重豊の彫り物が乗り移ったりして、やたらコワモテで腕っ節も強くなっているから不思議だ。一体あれって何なのだろう? 何か象徴的な意味があるのだろうか?

 だけど、この映画ってそんな抽象的な概念を描いた映画とも思えないんだよね

 そんな理屈に合わない場面が出てくる上に、主人公が元々無口、さらに病的に几帳面で自殺癖がある…と念が入っているから、主人公の言動から映画の狙いから…まったく共感も理解も出来ないのだ。彼がどうしたくて、どうするつもりなのか…サッパリ分からない。オレって頭悪いのかな?

 映画としては別に難解なストーリーでもなく、ただユルいだけ。主人公の心情が理解できないというたったそれだけの事で、この映画は妙に不可解なお話になっているのだ。浅野忠信はこれでベネチア主演男優賞を獲得したそうだが、みんなアレが分かったのだろうか? やっぱりオレがバカなのか?

 同じ監督の旧作「シックスティナイン」も分かりやすい映画だっただけに、これには当惑しちゃうよね。

 で、コレってやっぱり「ひとクセある奴らが顔を合わせた」…ってところに問題があったんじゃないだろうか。

 どっちかと言えば日本でもインディーズ系でモテはやされる浅野、そして中国語圏で大活躍の撮影監督クリストファー・ドイル、さらにタイで売り出し中の新鋭監督ラッタナルアーン。何かが起きそうな予感がするよね。だから、企画の段階からこれってある種のイベント・ムービーだったとも言える。期待も大きかったはずだ。

 まして…現場にいるのは、あのアドリブ連発ウォン・カーウァイ作品で売ったカメラマンのドイルだ。何かと暴走したあげく、余計な事を言ったりやったりしたんではないだろうか。何となく「クリエイティブ」なスタンドプレーをやりそうな気がする。そんな時、キャリア的にも知名度的にも一番弱いラッタナルアーン監督は、どうしたってペースを乱されたのではないか。そんな「いかにも」のスタンドプレーをやらないとクリエイティブじゃない…みたいなムードが現場に漂ったであろう事は、想像に難くないではないか。現場がそういう雰囲気になったら、誰も彼もそれに乗せられちゃったという事は多分にあり得ると僕は思うよ。

 だけどクリエイティブっ“ぽく”やるということと真にクリエイティブであるということは、実は全然違うんだよね。得てして取り違えられがちだけど、それってほとんど関係ない。それどころか、そんなポーズがかえって作り手の独りよがりを招きかねない。ええカッコしいではなく、まずは作者である監督がジックリと自分のビジョンを煮詰めないといけないはずだろう。それをないがしろにして、ウォン・カーウァイ作品みたいにノリと雰囲気だけ持ち込んだって、ロクな事になるわけがない。しかも当のウォン・カーウァイ作品自体が、しばしば「雰囲気重視」のあげく馬脚を表しているんだから何をか言わんやだ。

 ただし…これはこの映画が、ウォン・カーウァイ映画に似ているという意味ではないよ。この映画はカーウァイ映画とはまるで似ていない。ここで引き合いに出したのは、単なる「一例」として…だ。つまりは「カーウァイ映画」が代表するような、“ある種の映画づくりが持つ雰囲気”を問題にしているのだ。

 もちろん、僕が今指摘したような事が現場で起きていたかどうかは分からない。だけど、どう考えてもこのユルユル感はそんな事を感じさせるんだよね。この不必要にアートな雰囲気、つくってる奴らだけゴキゲンって雰囲気は…。

 クリストファー・ドイルのせいだったのか、監督が勝手に自滅したのかは分からないよ。だけど、何だかカッコいい事やってるつもりでみんなで突っ走っちゃった可能性は、このメンツから考えて極めて高いと思えるんだよ。

 その場の思いつきや雰囲気やムードでやってる。そればっかりとは言わないが、そんな印象を与えてしまう。だから中味が詰まってない、ユルユルスカスカな感じがする。これが30分の映画ならいいかもしれない。だけど1時間半以上も上映時間がある映画では、これはマズいだろう。何しろ、主人公の心情が伝わらないラブ・ストーリーってアリなのか?

 分かってないのは僕だけかもしれない。だからこの作品をご覧になった方の中には、「この素晴らしさが分からないのか」っておっしゃる方がいらっしゃるかもしれない。だけど正直言って、僕にはよく分からなかった。そしてズバリ言えば、内容が少々空疎ではないかとも思う。これだけの内容では、この映画は長すぎるとも思うんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対に映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 それでもこの映画、いろいろお楽しみには事欠かない。

 三池崇史監督がパンチ・パーマをギンギンにかけたヤクザ姿で登場したり、あの竹内力が顔を出したり…個人的にはあの田中要次氏が「キル・ビルVol.1」に次いで海外進出というお楽しみもある。そういう細かいところは結構楽しんで見たんだけどね。

 そして終盤、三池ら日本ヤクザとヒロインの情夫がハチ合わせしてドンパチって皮肉な趣向は、「シックスティナイン」での同種のヤマ場を連想させて興味深かった。

 まぁ、この映画何を言いたかったのか…と考えてみると、全然境遇も生まれも育ちも違う人々が、運命のいたずらで出会ったり交錯したりして…人生は次の瞬間に何が起きるか分からない…って事を言いたいのだろうかね。確かにお話の展開は、まったく余談を許さない。次の展開が予想できないというのは確かだ。

 そういう意味では、やっぱり「シックスティナイン」もそうだし、同じタイで活躍する(もっとも本人は香港出身だが)オキサイド・パンのテッセラクトとも共通性があるように思える。これってタイの人たちや風土が持つ世界観や人生観なんだろうか?

 こう考えると、決して悪いところばかりじゃない。だから退屈したり眠くなったりもしなかった。忘れがたいイイ絵も撮れてるし、イイ雰囲気だって流れてる。これからどうなっていくんだろうと、ワクワクさせるムードもたっぷりあった。ただ…何かありそうな雰囲気で引っ張られていったのに、見終わってみたら大した事もなく終わっちゃった…みたいな感じとでも言えばお分かりいただけるだろうか。何となく納得出来ず分からないままの部分がいっぱい残ってしまった。この映画のスッキリしてる部分って、この監督らしさみたいなものが出ているところだけなんだよね。

 だから…やっぱりもっと煮詰めて、カチッとしたカタチで見せて欲しかった。何だか曖昧でムードに流されるように描かないで欲しかった。よしんば僕が勘が鈍くて分からなかっただけだとしても、もうちょっと主人公が何を考えてるのか、分からせたっていいだろう。よしんば見ている側に分からなくても説明しなくてもいいから、せめて監督自身だけでも納得できるようなスジの通った裏付けをすべきだった。この映画にはそれが感じられないよ。ただただ空気みたいな雰囲気しか感じられない。監督自身も何をやってるのか、自分でも分かってなかったんじゃないか?

 現場はたぶん盛り上がっていたと思うよ。「いいねぇ」なんて言いながら、テメエたちだけでよがっていたんじゃないだろうか。だけど、それが作品として面白いかどうかは関係ない。何だかヘボ落語家たちが内輪で「キレイだねぇ」「うまいねぇ」なんてヨイショし合ってるだけで、ちっとも面白くも何ともない最近の「笑点」の「大喜利」みたいなものだ(笑)。

 そう言えばこの映画に関するインタビューや記事を読んでも、浅野、ラッタナルアーン監督らが判で押したように同じ事を言っているのが気になるんだよね。

 「映画そのものよりも制作のプロセスが大切」

 これ言っちゃオシマイとは思うけど、僕はハッキリこう言いたい。

 クリストファー・ドイルの前だからって気取る必要なんかなかった。アート映画をつくってるような、お高くとまった気になることはなかった。分かってないのに分かったフリしちゃいけなかったんだ。だって現場だけ盛り上がったって意味がない。お客の目にはそんなの見えないんだよ。

 結局、映画は出来上がった作品がすべてなんだからね。

 

 

 

 

 

 

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