「ドリーマーズ」

  The Dreamers

 (2004/08/23)


  

今回のマクラ

 連日、アテネ・オリンピック観戦ご苦労様です(笑)。

 僕も何だかんだと連日見ている。見ては簡単に興奮しちゃってるんだから、我ながら単純なもんだ。昨夜は女子サッカーの対アメリカ戦。いいセンいってたんだけど敗退したのは残念だ。僕なんか見ている時には思いっ切り即席国粋主義者になってわめいていたからねぇ。「汚ねえぞ、アメ公!」「あの金髪オンナどついちまえ!」

 アメリカがゴールを決めると、思いっ切りブーイング。そんな事をやっているうち、ふと最近のある出来事を思い出した。そう…ブーイングと言えば思い出す、我々日本人にとって実に苦々しい出来事があったよね。

 それはもう大分経ってはいるが…中国で行われていたサッカーのアジア・カップでの出来事だ。

 あれは、なかなか見ていてシンドイ展開だったよね。特に日本代表が決勝に進めたはいいが、相手が主催国の中国…という事になった時には、正直言ってウンザリした。それもそのはず。そこまでの試合では、常に激しいブーイングにさらされていたからね。ハッキリ言って見るに耐えないモノがあったよ。

 日本の相手が中国ではない時から、とにかく日本をコキ下ろせとばかりに罵倒の嵐。別に僕なんか愛国心のカケラもないが、それでも正直言って愉快ではなかったよ。そして、信じられない思いがした。

 だって僕が知っている中国の人々は、あんなじゃなかったからね

 今からもう7〜8年前になるだろうか、僕が仕事で中国に行った事は、ここでも何度か書かせてもらったと思う。その時一緒に行ったわが日の丸の同胞は、実に根性の悪いゲス野郎だったんだよね。本当に不愉快な思いをしたよ。それを助けてくれたのが、現地の中国の人々だった。その時から僕は、中国の人々には良い印象を持っているんだよね。

 考えてみれば僕が海外に行った数少ない経験の中で、常にイヤな思いをさせられたのは日本人なんだよね。頼りにならないどころかいつも足を引っ張ってくれるのが、海外にいるジャップの連中だ。何でいつもわが同胞はああなんだろう。

 ま、それはともかく……そんな事があったからこそ、僕はあの中国サポーターのブーイングが信じられなかった。だけど決勝ではやっぱり大騒ぎで、日本の勝利に終わった後はほとんど暴動だったと言うからイヤになる。

 まぁ、それでなくてもサッカーってスポーツは、何かと揉め事が多い。こう言ったらサッカー好きには文句言われるだろうけど、そのくらいの事は言わせてくれよ。こんなオヤジの僕が「サッカー、サイコー!」なんて言ったらウソくさくってシラジラしいだけだろう。僕は国際試合だけ見て勝手に騒いでる、典型的オヤジの役回りで十分。そのくらいの分はわきまえてるつもりだよ。そもそも僕は野球で育って来たし、生意気でスカした若造が好きなモノはサッカーに限らずどこかイヤなもんなんだよ(笑)。ま、ここでちょっとは八つ当たりさせてもらって…(笑)。

 それにしても…もちろん競技場に来ている中国人がみんな騒いだ訳でもないだろうし、中国のサッカー好きがみんな暴れた訳でもないだろう。よしんばそうだったとしても、そんなサッカー好きが中国人のすべてではない。だからあの出来事で「中国人全体」をひと括りにするのはチト早計だ。だが、そうは言ってもあれだけの人数が、あれだけ大っぴらに騒いだというのは尋常ではないだろう。ちょっと容易ならざる事態が起きちゃってると言わざるを得ないんじゃないか。

 もちろん過去のアレコレがあっての事だろうし、どこかの島がどっちの領土ってな騒ぎもあった。昨今のわが宰相の某神社参拝とかが引き金を引いている事もあるだろう。「人生イロイロ」男が墓穴を掘ったのは言うまでもない。神経逆なでしかしてないと考えれば、それを一方的にはケナせまい。

 だが、それにしたって…だ。

 だからってあのムチャな大騒ぎが、「仕方のない事」だとは言えないだろう。よくあるサッカー・ファンの過熱、よくある国民感情の摩擦…の域はとっくに超えている。ちょっと反応の激しさが普通ではないもんね。

 でも信じられないんだよね、だってほんの数年前までは、中国ってあそこまでひどくはなかったよ。

 そもそも戦後、日本人の残留孤児を育てたりした中国人は、もっとどこか「大人(たいじん)」で大らかだった。それこそ島国根性丸出しの僕らよりもずっと大らかだった。さすがに長い歴史と広大な土地を持つ民族と思わせる美点だった。そんな超然とした中国人たちに、こっちの方が恥ずかしく思っちゃうほどだったよね。それがどうしてこうなっちゃったんだろう?

 マスコミによれば、それは近年中国政府が取ってきた「愛国政策」の産物だと言う。人々の不満を「反日」に集中させてそらすと共に、「大国意識」を大いに煽って誘導した。その結果があれだ…と言うんだよね。そんなアホな事で煽ったあげく国民があんなに変貌したとしたら、何て愚かな事をしたんだろう。最も誇るべき優れた国民性を、自分たちの手でダメにしてしちゃったんだからね。

 そんな「反日」感情に反発を感じたのか、今度はわが国のスポーツ新聞の紙面にこんな挑発的な文字が踊り始めた。

 「文化程度の低い民族」…。

 売り言葉に買い言葉。例えどんな事があろうとも、こんな言葉を他の国民に対してメディアが発するべきでない事ぐらい、普通の神経なら分かるはずだろう。これこそ目クソ鼻クソを笑うの類じゃないのか。こんな常識のない言葉を発する事こそ、「文化程度の低さ」ではないのか。

 だが一度ある一線を超えてしまったら、程度を考えずに暴走するのがわが日本の悪いところだ。こうなったら後はどうなるか、火を見るより明らかだろう。現に先日も某テレビ番組で政治家や評論家先生が、わが領土・領海に関する周辺国とのトラブルについて「毅然とした態度」「断固としてやる」べきなどとブチまくっていた。

 そのテレビ番組では文化人みたいな奴が、そんな「毅然」や「断固」に孤軍奮闘で一人抵抗していた。その甘っちょろい態度も言い草もちょっとどうかなぁ…と思ったし、この問題を反米論争とスリ替えようとするセコい態度も寒々しかったが、周りの「毅然とした」連中がここぞとばかり袋叩きにしていたのはいかがなものだろう。あげく「敗北主義」などと罵る始末。どこかの議員が「反日分子」などと口走ったのを思い出すよね。反論を一切許さない雰囲気は、どう考えたって不健康だよ。 そして胡散臭い。

 言うべき事を言うのは当然だし結構。だが、どうも世間で「毅然」「断固」なんて言葉がホメそやされるようになると、ロクな事が起きないのは世の常だ。そもそも民主的なプロセスなんて格好のいいものではない。説得し論議し根回ししつつ納得させる…それはえらく遠回しで面倒くさくて、およそ威勢の良さとは程遠いものだ。カッコ悪く貧乏臭くセコく弱虫に見える。それでも人はそれをやっていくしかない。それこそが最良の方法だし、実際それしか道はないのだ

 僕は自分の人生で、ええカッコしいの言動、調子のいい掛け声がいかにハタ迷惑で空疎なものかを思い知っている。だからこんな「毅然」「断固」なんて言葉は、およそ中身カラッポだって想像がつく。こんな事を言う奴はイカサマ師だけだと分かっているのだ。

 威勢のいい言葉は一瞬みんなの心を捕らえるかもしれない。だが「我が代表堂々退場す」などと大見得切ったあげく、この国がどうなったかをみんな忘れた訳ではあるまい。人類史上いまだかつてたったの一度だって、ナショナリズムがその国民を幸せにした事などない。ナショナリストが国を豊かにした事もない。出来ることと言えば、自分の国を焼け野原にすることだけだ。それを忘れてしまったのだろうか?

 それって海の向こう側で踊らされた連中が、「小日本」とか「反日」とか言ってるのとどこが違うのだ

 そう言ってる方が心地よいだろうし、双方が言ってる事にはそれぞれ言い分もあるだろう。それは分かるけれども…そういう気持ちになっても、それに「ちょっと待てよ」って少しは思った方がいいんじゃないか?

 考えるべきじゃないか。一瞬だけでいい、熱に浮かされたような快感に溺れたらヤバイって事を。

 

見る前の予想

 ベルナルド・ベルトルッチの最新作。まぁ、これだけで乗れる人と乗れない人がハッキリしてしまうのではないかな。

 良くも悪くもベルトルッチは「ラストエンペラー」(1987)で一線を超えた。「ラストエンペラー」のベルトルッチでピンと来る人もいれば、「ラストエンペラー」のベルトルッチねぇ…と萎える人もいる。僕はどっちかと言えば…両方かな(笑)。

 ただ言えるのは、イイ意味でも悪い意味でもベルトルッチにとって大きくてスペシャルな作品だった「ラストエンペラー」の後、彼はなかなか本来の調子を取り戻すことがなかなか出来なかった。

 それが前作シャンドライの恋(1998)では、何とかソレを取り戻すことが出来た…そんな風に見えたんだよね。これについては異論もアレコレあるだろうが、僕は少なくともそう思う。

 そんなベルトルッチが、1968年のいわゆるパリ「五月革命」を題材に映画をつくった。これも彼なりの「原点復帰」の一環じゃないかと思うが、いかがだろうか?

 

あらすじ

 1968年の夏、パリ。アメリカ人留学生マイケル・ピットは、シネマテークに通い詰めていっぱしのシネフィル気取り。当時のパリ・シネマテークは、代表のアンリ・ラングロワの方針で新旧問わずさまざまな映画を随時上映。これがヌーヴェル・ヴァーグの人々を刺激したのは言うまでもない。

 そんなシネマテークには、エヴァ・グリーンとルイ・ガレルの姉弟も毎日のように通っていた。それは、シネマテーク前が人だかりで騒然とした日。ピットは、そんな姉弟と知り合う機会を持つ

 実は代表ラングロワが解任された事に抗議して、トリュフォー、ベルモンド、さらにはジャン=ピエール・レオたちまで立ち上がって、大いに気勢を上げていたのだ。そんな動きが別の大きなうねりを巻き起こすとは、その時のピットたちにはまだ分からない。

 さて問題のグリーンとガレルの姉弟は、姉弟と言っても一卵性双生児…双子だ。姉グリーンは自己紹介代わりにシャレた答えを返す。「生まれた時に言った言葉は、“ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン”よ」

 「勝手にしやがれ」の引用…こんなところにもシネフィルならではのエスプリを潜ませる二人。ピットはすっかりこの姉弟に夢中になった。

 やがてそんなピットに、姉弟から夕食のご招待の声がかかる。出かけていった彼らのアパルトマンで、詩人の父親ロバン・レヌーチと母親アンナ・チャンセラーと顔を合わせる。父親レヌーチはインテリらしくいろいろとウンチク垂れ流すが、正直言ってその話は空疎そのもの。そんな父親の態度も何もかも、姉弟はウンザリしていたのだ。しかしピットは慌てず騒がず。空疎な理屈にはもっともらしくも空疎な屁理屈で返す彼の態度は、さらに姉弟の歓心を惹いた。

 その夜、ピットは姉弟のアパルトマンに泊めてもらうことになった。夜中トイレに起きたピットは、偶然に一つベッドにハダカで抱き合って眠る姉弟を見つけてしまう。これには、さすがのピットも呆然とした。

 さて翌朝、姉弟の両親はバカンスに出かけてしまう。ちょうどこれはいいチャンス…と思った姉弟は、ピットに泊まっている宿を引き払い、このアパルトマンに越して来るように提案。昨夜の光景に多少ビビったものの、どうせ大した荷物もないピットは、そのまま二人の家に転がり込む事になった

 こうして共同生活を始めた三人。ピットの映画オタクぶりは姉弟の期待以上で、弟ガレルとチャプリンとキートンについて論戦しても一歩も譲らないほど。これはいい奴が現れた…と思ったか思わないか、姉弟は以前からやりたかった事を実行に移す

 ゴダールのはなればなれにに出てくるルーブル美術館の中を駆け抜ける場面…アレの再現を目論もうというのだ。しかもアレが9分45秒ならこちらは新記録を狙おう…さすがにヤバいんじゃないかとビビるピットではあるが、姉弟がこうも乗り気では今さら後には退けない。結局警備員に阻止されそうになりながらも何とかやり遂げ、無事に通り抜けただけでなく9分28秒という記録もつくった。これでピットは名実ともに姉弟と一心同体。「仲間だ、仲間だ、仲間として認める!」

 こうして楽しい「映画仲間」に加わったつもりのピット。ところがどうもそんな生やさしいモノじゃない…ということを、彼はすぐに思い知らされる事になる。またしても姉グリーンの映画クイズ。それに答えられない弟ガレルは、何と罰ゲームとして他の二人の目の前でオナニーをさせられるハメになる。これにはさすがにドギモを抜かれるピット。だがもっとピットが驚いた事には、ガレルは「アレは強制されてイヤイヤやった訳じゃない」などと言い出すのだ。どうもこの姉弟はイカレてる。

 しかも映画クイズは、次にピットの身に降りかかってきた。ガレルの出題したクイズに答えられないピットとグリーンは、彼の目の前で交わるように命じられる。コレは適わん。ジタバタするピットだが、姉弟二人がかりで羽交い締めだ。

 それはピットだって男。可愛いグリーンにその気が起きない訳じゃない。その気どころか完全にイカレてるピットだった。それでも…いや、だからこそ、こんな悪ふざけもどきで結ばれたくはなかったのだが

 ともかくこうなれば観念するしかない。ピットもひとたび度胸が据わったら、もうまったく腰は退けない。台所の床に横たわってグリーンの中に入っていく。それを横目で見ているガレル…。

 何と驚いた事には、グリーンは処女だった。彼女は自分の赤い血を見つめて、思わず涙ぐむ…。

 こうして一回結ばれたらもう止まらない。連日連夜セッセとコトに励むピットとグリーン。そうなると、どうしたって一人カヤの外に置かれてしまう弟ガレルは複雑な表情だ。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、すっかりご機嫌のピットはガレルに「感謝してる」などとホザく。「彼女や君と一つになったような気がするよ」

 それはいかに世間ズレしてないピットとは言え、あまりに脳天気な発言だった。眠りこけた姉グリーンの横に横たわりながら、弟ガレルはピットにクギを刺すように言った。「三人一組にはなれないよ…」

 それでもアパルトマンに閉じこもっては、絡まりあって自堕落な暮らしを続ける三人。外で何が起きているかもお構いなし。映画やらロックやらベトナム戦争談義に花を咲かせるが、彼ら自身現実とまったく向き合ってはいなかった。そのうち親が置いていった金も底を尽き、食い物にも困る始末。それでも彼らはハッピーだった。

 だが「愛している」という一言で、ピットは現実に戻った。確かに世間知らずでナイーブかもしれないが、ピットのグリーンを「愛している」という気持ちはホンモノだった。だがこの姉弟の「愛している」にはリアリティがない。まるで何もかもがゲームみたいだ。そんな状態を見るに見かねたピットは、ついに本音をブチまけてしまう。

 「いいかげん目を覚ませ!」

 特に姉グリーンには、詰め寄るように厳しく問いつめた。「今まで男とデートしたことがあるか? 弟抜きで男と会ったことがあるか? そうできなきゃダメだ!

 かくしてグリーンはピットの提案通り、ごく世間一般の「デート」を実践する。ピットと映画を見て、場内の暗がりでペッティングし、家に戻ってくる…。ところが家では弟ガレルが別のガールフレンドを引っ張り込んでいるらしいと知るや、たちまちグリーンの雲行きが怪しくなった。最初はピットと戯れていたが、何だかんだとガレルの事が気になって仕方がない。結局ピットは、彼女の部屋から追い出されてしまった。

 それでもピットは姉弟と離れられず、自堕落な生活をズルズルと続けていた。だがそんな暮らしも、当然の事ながら終わりを告げる運命にあったのだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この後は映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハリウッドと作家映画に引き裂かれ続けるベルトルッチ

 この感想文冒頭に、「ラストエンペラー」はベルトルッチにとって大きくてスペシャルな作品だった…と言ったよね。これはベルトルッチ…そして「ラストエンペラー」についてどう思っている人でも、これについては同じ感覚を持っていると思う。実際、「ラストエンペラー」以後のベルトルッチについては、この作品について触れなければ語れない。本来だったらイタリアでチマチマと「いかにもミニシアター向け」の作品をつくり続け、カンヌやらベネチアでソコソコに賞を取り、批評家とマニアックな映画ファンにだけ受けている事だって出来た人だ。…というより、ヨーロッパで娯楽映画ではなく作家映画で頭角を表してきた人なら、そうなるのが自然だ。オスカーなんて本来は外国語映画賞以外はお呼びでない存在のはず。それがなぜアカデミー賞の作品賞から総なめ…自らも監督賞を受けたのか。

 これを境に、いわゆるアートシアター系の作品を見て評価する人たちは、手の平を返したようにベルトルッチに冷たくなったりした。これは見ていて実にコッケイで面白かったよね。だって自分のことを「分かってる」し「センスもある」と思いたいシネフィル連中は、ここでうかうかベルトルッチを評価してたら、ミーハーのジョン・ローン・ファンの女の子たちと同じになってしまう事に気が付いた。あるいは俗悪商業主義低俗ハリウッド映画を好きなアホと同じになってしまう事に気が付いた。だからここでケナさなきゃ…とムキになってコキ下ろしたんだよね。だって彼らは、一般の普通の映画好きたちと同じヒット映画を見に行ったりホメたりするなんて耐えられなかった。オレはオマエらとは違うんだって言いたかったからね。まったくバカも休み休み言っていただきたい(笑)。

 僕に言わせれば、そんな連中の考えている事は元々ナンセンスだ。ベルトルッチのハリウッドへの接近は、もっと前から起きていた。というより、元からベルトルッチってそういう作家なんだよね。少なくとも僕はそう思う。

 いろいろ人は言うだろうが、ベルトルッチが国際的に…そしてわが国でも……大々的に認知されたのって、あの「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972)だって言うのは間違いないだろう。シネフィルたちは「オレは『暗殺の森』(1970)からすでに注目してた…とか、いろいろウソつくだろうけどね(笑)。そういう奴は世界的には結構いたかもしれないが、わが国ならばほんのほんの一握りの人間だろう。

 ところでその「ラストタンゴ」は、誰が何と言ってもマーロン・ブランドの主演作として大ヒットした作品だ。もちろん性描写の大胆さが注目されたのだが、それを「ゴッドファーザー」(1972)主演後初の作品として、あのブランドが演じたというのがミソだった。確かにブランドは反逆児として有名で、決してハリウッドのメインストリームの人ではない。だけどあくまで“「ゴッドファーザー」の…”だからね。そんなブランドをこの時期に起用しようと思ったあたり、ベルトルッチはハナっからマイナーな奴ではなかったはずだ。コレを実行に移すか移さないかには大きな違いがある注1。おそらくベルトルッチの中には、最初から「アメリカ映画」的な野心がギラギラしていたのかもしれない。

 そもそもベルトルッチは、元から「アートな人」でも何でもなかったのかもしれないのだ。何とセルジオ・レオーネのマカロニ西部劇「ウエスタン」(1968)の原案づくりに、あのダリオ・アルジェントと参加しているほどだからね。今になってみるとベルトルッチとアルジェントという顔合わせも恐ろしい(笑)が、そこからして娯楽映画にネガティブな気持ちを持っていない事が伺える。大体セルジオ・レオーネという人自身がアメリカに屈折した愛情を持ち続けた人で、「ウエスタン」はパラマウント映画の資金を得てヘンリー・フォンダやらチャールズ・ブロンソンまで駆り出した映画なんだからね。モロに視線はアメリカ・ハリウッドに向いているはずだ。

 ともかくこの「ラストタンゴ」の大成功から、ベルトルッチの名声は世界規模になる。これ以降の彼の作品は、すべて何らかのカタチでアメリカ映画の関与を受けているのだ。ロバート・デニーロ、ドナルド・サザーランドなどが主演した「1900年」(1976)、当時は「結婚しない女」(1978)で人気絶頂だったジル・クレイバーグ主演の「ルナ」(1979)…。そんなアメリカ臭が乏しかった「ある愚か者の悲劇」(1981)は日本未公開に終わったが、当時は日本でもミニシアターがまだ立ち上がり始めたばかり。アメリカの映画会社が公開してくれない場合は、ヨーロッパ映画は日本に入りにくい時代だったという事なのだろう注2。こうしてベルトルッチは長い沈黙の期間に入る。

 だがベルトルッチの「アメリカンな体質」…いささか乱暴な言い方だが、長々と説明するのも面倒くさいのでこう一言で称させていただきたい…の所以は、彼の作品がこうしたアメリカ俳優を起用したり、アメリカ映画の資金を受けたり、アメリカ映画会社に配給されたり…というところにある訳ではない。

 彼の作品はハリウッド的かと言われれば、とてもそうとは言い難い気がする。「暗殺の森」も「ラストタンゴ」も「ルナ」も…思いっきりヨーロッパの「作家映画」なんだよね。見ながらポップコーンなんぞ食えない映画だし、本来はアートシアター以外かけようがない映画(笑)。

 だが、時折その範疇をハミ出してしまう…どこかそんなダイナミックなパワーを秘めているのもベルトルッチ映画なんだよね。

 それは「1900年」を見てみれば分かる。

 長い期間、幅広い人間模様を織りなすエピック・ドラマ。もちろん大スケールの作品はどんな国にもある。だけどこの作品をデニーロ、サザーランドだけでなく、ジェラール・ドパルデュー、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ、バート・ランカスター…などなどのオールスターで豪華絢爛に描き出す手つきたるや…もちろん、そこにオペラ的だの何だのってヨーロピアンなキーワードがハマるのは承知の上。それはそれとして、そこにはアートシアター系映画の脆弱さは微塵もない。もっとボリュームがあってスタミナがあって、チマチマコチョコチョしないドカ〜ンとしたダイナミックさがある。そこには映画を一部の知識人たちの独占物にはしない…という強い意志を感じる。それすなわち…僕が言っている「アメリカンな体質」…ハリウッド志向だと思うんだよね。

 実際のところベルトルッチは、先に述べた長い沈黙の期間に「アメリカ映画」を撮ろうとしていた。「アメリカ映画」的な作品ではなくて、本当にアメリカ映画。ハリウッドのメジャー・スタジオで、ダシール・ハメットの「血の収穫」の映画化をしようと画策していたらしいのだ。これが実現しなかったのは残念至極だが、ともかくどんな理由からか企画は流産に終わった。

 さて、そんなベルトルッチが中国皇帝の話を、実際に中国ロケしてつくっていると聞いた時には驚いた。程なく登場したその作品が、「ラストエンペラー」だったのは言うまでもない。ところがこの映画、中国皇帝の生涯を描くと言いながら英語作品。いわゆるハリウッド製スペクタクル大作のルーティンを、どこかに感じさせる作品に仕上がっていたから驚いた。厳密に言うと往年のハリウッド史劇というより、デビッド・リーンあたりがハリウッド資本で連発したスペクタクル現代史大作っぽいつくり。脇に英国名優(これまたリーンゆかりのピーター・オトゥール)を配するあたりもお約束。アメリカではこの作品を、リーンの「戦場にかける橋」(1957)、「アラビアのロレンス」(1962)を発表したコロンビア映画が配給したというのも狙った感じがする(笑)。いや、ベルトルッチは絶対にデビッド・リーンを狙っていたはずだ。

 ハリウッドは基本的に豪華なスペクタクル映画が好き。そしてハリウッドの権化であるオスカーは、スペクタクル大作ではあるがどこかマジメで知的なデビッド・リーン作品が大好きだ。「戦場にかける橋」と「アラビアのロレンス」のリーン作品、さらにはこれまたどこかリーン大作映画を思わせるリチャード・アッテンボローの「ガンジー」(1982)が、過去に作品賞以下大量受賞したことを見ればよく分かる。そんなハリウッド=アカデミー賞が、デビッド・リーン超大作のスタイルを踏襲した「ラストエンペラー」を放っておく訳もないだろう。作品賞以下9部門をゴッソリ持っていったのは、言わば当然の結果だった。

 ただ、たった一つだけ驚くべき事が起きた。それはベルトルッチの監督賞受賞だ。

 もちろん大量受賞した作品…しかも作品賞を取った作品が、監督賞まで取るのは当然と言えば当然。だけど今回とったのは、他ならぬイタリアのベルナルド・ベルトルッチだからね。

 考えてもみてくれ。ヴィム・ヴェンダースが、ジャン=リュック・ゴダールが、アキ・カウリスマキがタヴィアーニ兄弟がペドロ・アルモドバルが、アメリカのアカデミー賞の監督賞など取ると思うか?

 いや、あり得ない。

 何かの間違いで外国語映画賞なら取るかもしれない。だけど監督賞はないだろう。一介の「ミニシアターの人」が、ハリウッドの象徴アカデミー賞を取るなんてあり得ない。…パトリス・ルコントとニキータ・ミハルコフとカロリーヌ・リンクに関しては、ひょっとして何かの間違いでそんな事が起きる事もあり得る…と、「ベルトルッチの奇跡」後の今なら思ったりもするけどね(笑)。

 つまり、それだけベルトルッチはユニークな存在なのだ。

 それを境に日本のシネフィルがベルトルッチに冷たくなったのは言うまでもない。僕はどうかって? そうだなぁ。「ラストエンペラー」が彼の最高作とは思わないが、そんなにケナす程悪い映画とも思わない。見るべき映画だと思うし、ベルトルッチの中でも悪い映画の方じゃないと思うよ。僕はベルトルッチ映画のうちでも、「暗殺の森」と「1900年」が一番好きだけどね。でも、「ラストエンペラー」は彼のキャリアで重要な作品だと思う。そしてチマチマとセコい映画ばかり撮ってないで、あえてリスクを負ってまであの作品をつくった潔さは買える。シネフィルが好みそうなチマチマ映画の作り手で終わったなら、大して面白い奴とは思わない。

 ただ日本のシネフィルと同じように世界中の映画ファンや映画関係者が「堕落」と見なしたかどうかは分からないが、「ラストエンペラー」を境にベルトルッチを取り巻く空気も変わったし、彼自身も変わってしまったように思える。方向性は明らかに変わったね。

 「ラストエンペラー」の大成功の次に発表したのは、同作のプロデューサー、ジェレミー・トーマスと再び組んでの「シェルタリング・スカイ」(1990)。音楽に坂本龍一を再度起用するなど、「あの大成功をもう一度」の雰囲気も濃厚なこの作品…僕は個人的に好きな作品だが、世評は賛否両論。興行的には苦戦を強いられたようで、そのせいかジェレミー・トーマスが平行して準備していた大島渚作品の企画は、モノの見事にどこかへすっ飛んでしまった注3

 続く「リトル・ブッダ」(1993)は…これまた内容的にも興行的にも苦しい作品だったはず。僕もこれにはちょっと首をかしげてしまった。このあたりでベルトルッチは、「ラストエンペラー」で得たステータスやパワーを一通り吐き出しちゃった観があったんだね。少なくとも、もう「ラストエンペラー」以来続いたオリエンタル趣味とハリウッド目線による超大作路線は、そろそろ打ち止めにした方がいいんじゃないか…と、僕なんかは思ったよね。

 それを感づいたかどうかは分からないが、ベルトルッチはホームグラウンドのイタリアに戻って、比較的小品の「魅せられて」(1996)を発表。だが正直言ってリブ・タイラーが処女喪失するしないってなどうでもいい事に、いい歳こいたジジイ・ババアどもがアレコレ騒ぐというお話自体、僕はまったくついていけなかった(笑)。何とも気色悪くて…ベルトルッチは一体どうなっちゃったんだと呆れちゃったんだよね。ボケが始まったかとさえ思った。

 で、もうこりゃダメか…と思っていたところに出てきたのが、「シャンドライの恋」だった。

 この作品にも批判がなかった訳ではないが、それでも世間的には概ね好評だったのではないか。僕も何しろ前作が「魅せられて」だけに、かなり救われた思いがしたように記憶している(笑)。ともかく、ベルトルッチは何とか踏み止まったと思ったんだよね。

 ところでイタリアに戻ったベルトルッチ作品は、「魅せられて」がお話の中心にアメリカ娘とイギリス人のオッサン、「シャンドライ」がアフリカ女性とイギリス男を据えた英語映画としてつくられているように、常にどこかコスモポリタン的色彩を帯びているのも印象的だ。往生際が悪いんだか何だか分からないが、ベルトルッチがオスカー=ハリウッドからヨーロッパ=作家主義へ回帰した…とは、実はちょっと考えにくい。これらの作品を見る限りでは、そのあたりをにわかに断じがたいのだ。

 というより、実はベルトルッチは近年ずっと英語作品しか撮っていない

 それより何よりヨーロッパの作家映画にありがちな「曖昧さ」「難解さ」が少ない…という一点において、ベルトルッチ映画がアメリカに好まれるのは何となく分かる気がする。でなければ、あの「暗殺の森」「ラストタンゴ」の監督が、何故にあれほどハリウッドとツルんで仕事が出来るのか説明出来ない。基本的に「絵で見て分かる」映画づくり、時にはメロドラマ的な話術を用いる事も辞さないストレートさ…それらがベルトルッチとハリウッドとをどこかで結びつけているようにも思える。

 だからと言ってベルトルッチの映画がハリウッド・イズムでつくられているかと言えば、何度も同じ事を言うようで恐縮だが…それはまるで違う。ハリウッドとは一線を画するし、時に極北にあると言った方が当たってる。そんな矛盾を自ら抱えているような映画作家…それがベルトルッチとでも言おうか。

 というわけで駆け足で辿っては来たが、ここまでが「ラストエンペラー」を中心に見たベルトルッチの軌跡と言うわけ。人によってそれぞれご意見あるだろうが、僕の目から見たベルトルッチはこんな感じだ。長い間おつき合いいただいて恐縮だが、今回の新作「ドリーマーズ」はこうしたベルトルッチの近年の動きを念頭に置いた方が、理解しやすいんじゃないかと思うんだよね。

 

見た後での感想

 まずはパリの「五月革命」…なんて言っても、僕がそれをちゃんと分かっている訳じゃないことをご承知いただきたい。その時、僕はまだ8歳。小学生のガキだった僕が、しかも外国の出来事を知っている訳がない。

 ただ、それでもあの時代の気分というか、雰囲気だけは知っている。「五月革命」はどうだか知らないが、世界を駆け抜けた学園紛争やら政治の季節やらの激しい動きは、子ども心ながらにも何となく察知はしていた。それらが片づいてしまってからの世界が、どことなくヌル〜い雰囲気に包まれていることも。イマドキなんかヌルいの通り越してイヤ〜な雰囲気だよね。若い奴に限って過去の亡霊みたいな事ばかり言いやがる。

 だから僕にとっても、この映画の世界はノスタルジーの対象となり得る

 そして大好きなトリュフォーの過去を本などで追っていく過程で、この「五月革命」についてもわずかながら触れていた。だから、そんな時代のそんな雰囲気に触れられるのでは…と、ちょっとワクワクもしていたんだよね。

 そう、確かにこの映画ってベルトルッチにとってもノスタルジーなんだろう。

 原作はあるからベルトルッチの原体験ではないが、彼も若い頃にパリでシネマテークあたりをウロついていたようだ。だとすると、どう考えてもこの映画の語り部=主人公のマイケル・ピット扮するアメリカ青年がソレだと察しがつく。彼もまたパリにおける「よそ者」だからだ。

 そんな「よそ者」の主人公がパリで映画に溺れて、不思議な魅力を放つ姉弟と知り合って虜になり、さらには変革の波に巻き込まれていく。劇中にはさまざまな「名作映画」とジミヘン、ディランなどのロック名曲がコラージュされ、ノスタルジアにどっぷり溺れているかに見える。まぁ、実際にこの映画を見て感涙にむせぶ人もいるだろうし、そういう人は間違いなくこの映画をノスタルジアの映画であると思っていることだろう。ベルトルッチがあの時代への惜別の思いを込めて描いている…と。実際に彼はそんな風に受け止められそうなコメントも寄せているしね。

 そうなると、この時代にシンパシーを持てるかつながりを感じていなければ、この映画は楽しめないという事になってしまう。実際についていけなくなりそうな人もいそうだよね。実は今回の僕の話は、ここからが本題だ。

 この作品ってホントにノスタルジーの映画なのか?

 実は「はなればなれに」のモロのパクりなど、この映画でいくつも行われている名作映画の引用って、あまりにナマ過ぎちゃってちょっと退かないか? 「はなればなれに」のルーブル美術館走り抜けに至っては、見ようによっては少々辟易されかねないシロモノだよね。そして三人で何かと持ち出す映画クイズ。何だかオタクで後ろ向きな趣向だとは思わないか? それを見て映画ファンが思わず無条件にジ〜ンとしちゃったり共感しちゃったら、ちょっとマズイんじゃないだろうか。

 で、実際のところ、ベルトルッチもそんなモノにシンパシーを持ってはいないんじゃないかと思うんだよね。

 大体、この姉弟が象徴するパリの映画オタクを、すべて「望ましいもの」としては描いていない。その地に足が着いていない様子を、どこか冷ややかに見つめてもいるのだ

 近親相姦なんだか違うのか、よく分からないヌルい関係の中に閉ざされた姉弟。何かと言うと映画の中に逃避して、愛ですらゲームにしてしまう。偉そうに愛を知り尽くしているかのような言動を弄していながら、抱いてみたら何も知らないおぼこの処女娘。映画とだけで外界と通じていて、あとは何も知らない耳年増ならぬ「目年増」だ。だから聞いた風な政治コメントを発しても、所詮は親の金を当てにして家の中で乳繰り合ってる甘ちゃんぶり。それでいて腹を据えて愛欲にのめり込もうという覚悟もないから、姉弟が素っ裸で絡んでいるところを親に見られたら、いきなり自殺を図ろうと考えるナマぬるさだ。そんなガス自殺を未遂に終わらせるのは、窓ガラスを割って飛び込んできた投石…という外界の「現実」。

 主人公のアメリカ青年は最初そんな姉弟に惹かれ、そして驚かされ、すっかりそのペースに巻き込まれながらも…いつしかそこに違和感を感じていく。しまいには彼らにかなり厳しい直言もする。だが、それでもやっぱり惹かれてズブズブにハマっていく自分を止められない…。彼は何段階もの感情の変化を経て、惹かれつつも反発を覚えるという矛盾した感情に引き裂かれていく

 それでもナイーブで何も知らなかった彼が、今まで触れてこなかった姉弟の世界に驚かされどうしだったものの…最終的には彼らの在り方にどこか自分には相容れられないものを感じる。実は彼らも「何も分かっていない」ことを悟る。

 「分かっている」「分かっていない」の二重構造。

 考えてみると、ベルトルッチの作品にはこうした構図がアチコチに見え隠れしていた気がする。「ラストタンゴ・イン・パリ」の主人公マーロン・ブランドは、愛の辛酸をなめ尽くしたような男。その深淵も不毛も知り尽くした顔をして、結婚を控えた若い娘マリア・シュナイダーを誘惑する。ところが結局彼は何も分かっていない。自分から急速に気持ちが離れていく娘に、ミジメに追いすがって醜態をさらす。「分かっている」と思っていたつもりが、結局「分かっていなかった」。以前だって「分かってなかった」からこそ辛酸をなめた自業自得。それが彼に「分かる」のは、最後の最後手遅れの段階に至ってからだ。

 「ラストエンペラー」の世間を知らない若き皇帝もそうだ。その「分かってなさ」が高じて日本軍に傀儡として利用されるという、皇帝でありたいがために皇帝としてあるまじき事をやらかす皮肉な巡り合わせ。共産中国になってからはそんな根性を叩き直される再教育を受けるが、文化大革命の最中に今度は自分に再教育した教官がつるし上げられる場面に遭遇する。「分かってなかった」自分に物事の道理を「分からせた」この人がつるし上げられるのなら、一体自分が今「分かった」はずのコレは何なのだ…。

 「シェルタリング・スカイ」のアメリカ人夫婦もしかり。自分たちは「観光客」ではない、ちゃんと第三世界のプリミティブな文化にも敬意を示す。そんな「分かってる」外国人のつもりでノコノコと奥地に出かけて行ったあげくボコボコな目にあい、亭主はくたばって女房は現地の男の囲われ者に成り下がる。そんなこんなで最終的に女房が「分かった」のは、テメエたちは何も「分かってはいなかった」という事実だけ。

 分かってる気になって分かってない、分かってないという事を分かる…「分かってる」「知ってる」つもり…そんな「知」の幻想のワナを、ベルトルッチは過去に相当思い知った経験があるんじゃないだろうか。こうも繰り返しこのテーマが出てくるところを見ると、かなりなトラウマになってる気がするんだよね。

 「知」の幻想…そんなテーマを考えた時、今回の映画のタイトルも別の見え方をしてくる。

 「ドリーマーズ」…夢見る人たち。

 それは美しいイメージを醸し出すし、理想主義のような前向きの雰囲気もある。だからこの映画は「五月革命」のノスタルジーに溺れた映画にも見える。だがこのタイトル、見方を変えればこうは言えないだろうか。

 「ドリーマーズ」…単なる「夢想家」、あるいは「妄想に耽る人」現実知らずの頭でっかち

 実践が伴わない、地に足が着いていない、それでいて何もかも分かった気でいる。主人公も一時はそんな「分かってるつもり」のペースに巻き込まれていく。

 こうした主人公たちの描きっぷりを見ていると、ベルトルッチがこの映画をノスタルジーで描いたとは、とても思えないんだよね。

 実は僕は、この映画のシネマテークでの総決起集会の様子を見て、ちょっと不思議な気分に囚われてもいた。

 この場面、実際の記録フィルムと新たに撮影された場面をつなげて、一見かつての再現を行っているように見える。トリュフォーやベルモンドたちが出てくるモノクロ・フィルムに、新たにジャン=ピエール・レオらが出演した新撮影場面を加えている。当時もレオはここで演説をぶっているから、彼は30年以上前の自分を演じている事になるんだよね。これは確かにヌーヴェル・ヴァーグ愛好者などには涙ものの趣向ではある。

 だけど、やっぱり…というか何というか、そこにいるのはもう初老のレオだ。決して1968年当時の彼ではない。別に若作りメイクもしていない、現在の老けたレオがそこにいる。これって何となく、ベルトルッチがわざとやっているんじゃないかと僕は思うんだよね。

 しかもこの場面にモンタージュされる記録フィルムは、なぜか夜の場面なんだよね。となると、これって実際には夜行われた事なのか? それなのになぜ…ベルトルッチは昼間に再現して撮影したあげく、違和感アリアリなのに夜間の記録フィルムとモンタージュしてしまったのか。そこからして、ベルトルッチはこの映画で過去の完全な再現を狙っている訳でもないし、そこにドップリとハマったノスタルジアを見せたい訳でもないと思うんだよね。

 ここで面白いのが、ベルトルッチが自分を仮託すべく用意した主人公を、アメリカ人に設定したことだ。

 もちろんこの映画には原作がある。だから原作でアメリカ人だった…というだけの理由かもしれない。だけど、そんな事はいくらでもどうにでもなる事だろう。それだけが理由ではないと思うんだよね。

 まず一つ目には、この映画を英語映画にする商業的な要請があった事は否めない。

 二つ目には、パリのイタリア人よりもアメリカ人の方が、ナイーブさの点でもインパクトの点でも大きいと判断したのだろう。主人公が姉弟に抱く驚きや世の中の変革への反応は、どこか純朴な「アメリカ人」という設定の方がより効果的だと思える。

 三つ目は…ここが大事なのだが、やはりベルトルッチはどこか「自分」とは距離を置きたかったのではないかと思うんだよね。

 先に挙げたシネマテークでの記録フィルムと新撮影場面とのモンタージュでの違和感といい、ベルトルッチはこの映画を、決して過去に溺れたノスタルジアでは撮りたくなかったようだ。だからここでも、青春時代の自分を彷彿とさせる趣向を盛り込みたくなかった。ちょっとでも主人公と自分の間にクサビを打ち込んでおきたくて、わざと「アメリカ人」という設定を選んだように思えるのだ。

 では、何でベルトルッチはそんなに手の込んだ事をわざわざやってまで、距離を置いたりササクレ立ったモノや引っ掛かりをつくったりして、微妙な違和感をつくりださなきゃならなかったのか?

 それは…僕は、ベルトルッチが「惹きつけられているがゆえ」だからだと思うんだよね。

 僕はこの映画全編に出てくる映画の引用について、先に「オタクで後ろ向き」と厳しく書いたよね。で、厳しく書いてはみたものの、どこか惹きつけられるところは僕にもある。これって映画ファンならどうしようもない部分だよね。

 映画クイズとか楽しそうだし、僕も誰かとやってみたい。そのあげくに人前でコキたくはないが(笑)。そして僕だってルーブルに行く機会があって話に乗ってくれる女がいれば、一緒に全力疾走してみたい。そのあとでセックスも…と頼まれれば、ぜひそっちもおつき合いしたい。もちろんセックスだけでいいと言われれば、それもオッケーだ(笑)。

 閑話休題、この映画でガンガン流れる当時のロックについても、理屈抜きでカラダが反応してしまう。心地いいんだから何と言われたって仕方ないんだよ。

 ましてベルトルッチなら、絶対どっぷり浸かりそうなものだ。そもそもこういう設定でこういう物語を創ろうという事自体が、その気持ちの現れだろう。惹かれる気持ちを抑えられないんだと思うんだよね。

 いや…否。完全に抑えるつもりなんてないのかもしれない。

 クサビを打ったり違和感を残したり…とアレコレやってはいるけれど、ベルトルッチはそんな惹かれる気持ちを完全に抑えたいのかと言うと、それもない気がするんだよね。だって惹かれるのは当たり前だし、溺れるのも当然の事だからね。もし作品が作家の正直な気持ちの発露であるならば、この作品にそういうベルトルッチの気持ちが入ってない方がオカシイ。でも「それがある」ということは認めながらも、そこに何とか距離を置きたいと思っているようなのだ。

 どうしようもなく惹きつけられる部分はそれとして認めよう。そんな自分を無理して律しもしないし、否定もしない。だけどそんな自分を残しながら、それでもそんな気分に歯止めをかけたい。少なくともそんな自分に醒めてはいたい。

 矛盾した話だけど、それが本音。そのあたりがこの映画、そしてこの時代に対する、ベルトルッチの正直な態度かもしれない。すっごく回りくどい事を長々と言って来たけど、実はこの映画を説明するにあたって長ったらしい前置きを述べたのは、こうしたベルトルッチの複雑な心境がこの映画に反映しているように思うからなんだよね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対に映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 元々ベルトルッチって、先に長々と述べて来たように矛盾に満ちた映画作家だと言える。アートな趣向で愛の不毛みたいな話を描きつつ、主演者には大ヒット「ゴッドファーザー」の主役スターを引っ張ってきてしまう。アメリカ資本とハリウッド・スターを持ち込みながらイタリア・ローカルの年代記を描き、ラストには思いっきり「赤旗まつり」をやらかしてしまう。本格的中国ロケで中国のお話を描きながらも、文化大革命批判をぶっ放してしまう。

 そもそも共産党シンパのイタリア文化人が、資本主義の権化アメリカの映画界と何かとつながりを持ち続けるのはいかがなものか。しかも虚栄の都ハリウッドで、アカデミー賞まで取ってはシャレにならないだろう。ともかく常にやっている事が二律背反というか、見事にアンビヴァレントに引き裂かれている。それがベルトルッチという人なんだよね。

 でも、そこがベルトルッチを頭でっかちにしてないところかもしれない。

 「赤旗まつり」で終わっちゃったら、ええカッコしいで理屈だけ振り回すけどまるっきり血の通ってないえせインテリでしかないだろう。一人でイイ子ぶってるどこかの政党の政見放送みたいに、ウンザリするものにしかならないよね。ベルトルッチのいいところは、共産党だったのにアメリカが好き…という、スケベ根性とか本音が見え隠れするところだ(笑)。プロレタリアートを志向すべきだったのに超大作志向とか、あるいはインテリのくせにミーハーにハリウッド好きなところとか…。もうそっちは転向しちゃったのかもしれないが、それでもどこかに引っ掛かりはあるだろう。その矛盾を解消せずに抱えているのが興味深いのだ。おそらくベルトルッチって、オスカー授賞式の時に周りのスターにサインとかねだってたんじゃないか(笑)? こいつ絶対そういう奴だと思うんだよね。ひょっとしたら自分じゃ恥ずかしいから、坂本龍一にやらせてたかもしれない(笑)。

 あるいは、地方のラーメン屋とかに「ベルトルッチ」とか汚ったねえカタカナで書いたサイン色紙が置いてありそうとか(笑)。

 あとセックス絡みのスキャンダラスな作品を時折つくるのも、自分が助平だからだと思うよ(笑)。そうそう…余談ついでに言えば、今回出てくるエヴァ・グリーン嬢の輝きっぷりたるやスゴイ。脱ぎっぷりも派手だしカラダも目に毒。いやらしいカラダなんだよねぇ。そして可愛い顔して乳輪がデカい(笑)。ま、それはともかく…「ラストタンゴ」のマリア・シュナイダー、「魅せられて」のリブ・タイラー、「シャンドライの恋」のタンディ・ニュートンに次いで、またしてもベルトルッチは初物娘にツバつけたって感じだ。まったく助平心丸出しのオッサンだよね。彼女って必ずしも僕の好みではないが、それでも危ない魅力を放射している事はよく分かる。もっともこの映画、彼女にそれくらいのオーラがないと成立しない話だけどね。そうでないと、主人公のアメリカ青年がああもズブズブにはならない。で、そのへんのところをよくよく分かっているのが、ベルトルッチという人のクセモノたる所以だ。

 どうしようもなく惹かれちゃう。だけど、それだけじゃいけないと思う。それだけじゃいけないと思うけど、やっぱり惹かれちゃう…この踏ん切りの悪さ、思ってる事と言ってる事とやってる事のギャップ。これこそベルトルッチだし、それを彼も否定していないんじゃないか。それが良いこととは思わないだろうが、そんな人間味を否定するのも不自然だと思っているんじゃないか。

 惹かれちゃう自分も、それだけじゃいけないと思う自分も、両方いていいと思う。ベルトルッチの中には、そんな「両方アリ」だと思う健全さがあるみたいなんだよね。

 そこで肝心なのは、そんな自分の状態を「分かっているかどうか」だ。

 ベルトルッチが「分かってない」ことを「分かっている」…という点にこだわるのは、そんな理由があるからじゃないかと思うんだよね。どうしようもなく惹かれてしまう、どうしようもなく突き動かされてしまう、どうしようもなく分かってない…それは仕方のない事だ。人間だからね。それを否定するのはかえってナンセンスだ。だが自分がそういう状態にある…という事だけは「分かって」いろ…。

 杓子定規に頭と理屈でだけ考えるのは、人間として無理がある。理想だけを頑なに追うのも、どこか不健康だ。ならば矛盾でも愚かでも何でもいいから、突き動かされている自分を一旦は認めろ。矛盾の中にいる事を否定せず認めろ。それを直視した上で、あえて距離を置いて考えろ。どこか意識を覚ましておけ。

 意識さえ覚めていれば、人は常に自由だ。

 魅惑的な姉弟に翻弄され、その矛盾に気づいてもいるのに惹かれてしまい、ズブズブになっていく主人公。そんな彼も、いきなり街頭に出てくるや火炎瓶を手にするこの姉弟の暴走には、さすがについていけなくなる。実践がまったく伴っていないくせに、ちょっと外に出たら何かに煽られたように一気に火炎瓶。その時に主人公は、サッと現実に醒めて背を向けて去っていく。

 ベルトルッチが距離を置きたかったモノって、これだったのか。

 「分かっちゃいない」という事にかけては人後に落ちない主人公だが、それを言うならいっぱしの顔したあの姉弟だって五十歩百歩。ならばこのオレは、せめて自分が「分かっていない」という事ぐらいは「分かって」いたい…。

 「1900年」終盤の「赤旗まつり」から「ラストエンペラー」の文化大革命への幻滅まで、ベルトルッチの通って来た道を考えると、このエンディングはとても象徴的に見える。

 煽られる気持ちは仕方がない。だが二度と熱に浮かされたような事はするまい。

 何かに煽られる事も、何かを煽ろうとする連中も多いイマドキだからこそ、僕らも肝に銘じておきたい…と強く思うんだよね。

 

 

 

 

(注1)マーロン・ブランドがヨーロッパの映画人から熱い視線を浴びたのは、これだけではなかった。あのレオス・カラックスも、「ポンヌフの恋人」(1991)で彼を起用しようとしていたらしい。これは日本の映画雑誌に掲載された、「ポンヌフの恋人」制作前のカラックスのインタビューで明らかにされたもの。ただし残念ながら実現しなかったのは、みなさんご存じの通り。それがギャラのせいだったのか、それ以外の理由だったかは、今となっては藪の中だ。

 

(注2)ここで挙げたベルトルッチ作品でも、「ラストタンゴ・イン・パリ」はユナイテッド・アーティスツ、「ルナ」は20世紀フォックスの配給で日本公開された。「1900年」はイタリアでは20世紀フォックス、フランスではユナイテッド・アーティスツ、アメリカではパラマウントが配給権を持っていたが、それ以外の国々では定かではない。ともかく異常なまでに長尺なために、いずれの日本支社に配給権があったにしても腰が退けたのは間違いない。結局、当時の日本では公開見送りになってしまった。日本公開はそれから6年後のこと。ミニシアター・ブームが根付き始めヨーロッパ映画の公開が再び活発化し始めた1982年に、フランス映画社によって前後編一気上映が実現した。

 

(注3)黄金時代のハリウッドを舞台に、ルドルフ・バレンティノと日本人スター早川雪洲の交友を描く作品で 「戦場のメリークリスマス」 に次いでジェレミー・トーマスがプロデュースする予定だった。ちなみにバレンティノは当時頭角を現し始めていたアントニオ・バンデラス、雪洲は坂本龍一がキャスティングされていたはず。

 

 

 

 

 

 

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