「カーサ・エスペランサ/赤ちゃんたちの家」

  Casa de los Babys

 (2004/08/16)


  

見る前の予想

 久々に…ホントに久々にジョン・セイルズの新作が登場!…彼の映画に一度でも惹かれた人間なら、このニュースに飛びつかずにはいられないだろう。

 と言ってはみたものの、実は僕はセイルズの映画をさほど見ている訳ではない。初期の作品でも代表作でも見ていないのがゴロゴロある。というより、見ていない方が多いではないか!

 おまけにここ15〜6年あたりの近作は、どれもこれも軒並み日本未公開。でなければ、公開されても見ていない。見ていたとしても印象に残っていない。

 それで僕はジョン・セイルズが好きと言えるか…って?

 そこを突かれるといささかツラいが、こうは言える。すべてを埋めて余りあるほど、彼の初期作品「ベイビー・イッツ・ユー」(1983)は素晴らしかった!

 あの一作で十分だ。あの一作があるからこそ…僕はジョン・セイルズの動向が、今になっても気になって仕方がないのだ。

 そんなセイルズの新作が堂々公開。しかも主演にはアメリカ映画の中堅どころの女優さんがズラリ。これって、セイルズ作品の中でも最も豪華な顔ぶれではないの?

 こうなったらもう期待するしかないのが人情だが、実は僕はたった一つだけ気になることがあった。

 チラシを見れば、何となくお話は分かる。「カーサ・エスペランサ/赤ちゃんたちの家」…さまざまな事情で養子を求めて南米(おそらくメキシコ)に来たアメリカ女性たち、そんな彼女たちは、それぞれ個人的な事情を抱えていた。

 何となく読んでいると、女性たちの「自分探し」「幸せ探し」みたいな話に読める。それだけでも相当にタルい話って気がしてくるし、他人の「自分探し」「幸せ探し」につき合わされる程退屈な事もない。

 だが一番気になったのは、これが結局のところ一種の「人身売買」だ…ということだ。

 それにはいろいろ事情があるだろうから、そういう現実を「悪い」などと一言で裁く気はない。そして、そんな事を描くことを「けしからん」と言う気もない。そういう事もあるだろうし、そういう事を描く映画だってあっていい。

 ただ、結局は何だかんだキレイ事を言っても「人身売買」に過ぎないわけで、そこでこの女たちは子どもを「買う」わけだろう。ならばそんな女たちがいかに個人的な悩み苦しみなんてホザこうが、チャンチャラおかしくて見ていられない。そんな女どもの「自分探し」「幸せ探し」なんかオレの知ったことじゃない…って気がどうしてもしちゃうんだよね。

 何でこんな題材を取り上げたのか分からない。ジョン・セイルズだから、まさかヘマな事はしているまい、ジョン・セイルズだからこそこんな難しい題材を選んだはずだ…と思いながらも、南米の赤ん坊を金で買う女たちの「テメエの悩み」なんて、正直言ってまるで見る気がしなかった。それで、なかなか劇場に足が運ばなかったんだよね。

 結局見に行ったのは、相当覚悟を決めてからだ。

 

あらすじ

 ここは南米のある国。その貧しい国にも、他の国と等しく朝が来る…。

 所狭しと並べられたベッドで、ウトウトと眠っているさまざまな赤ん坊たち。ここはさまざまな事情で孤児となった赤ん坊を、収容して育てている施設だ。この赤ん坊たちの世話を看ているばあやは、思わず子守歌を口ずさむ。「浅黒い肌の赤ちゃんよ、良い子でねんねしな。さもないと白い悪魔に食べられる…」

 若い娘マルティネス・アスンシオンは、あばら家で弟や妹の朝食をつくるや、慌てて仕事に出かける。高台にある彼女の家から坂道を下っていくと、同じように出勤する人々の群れと合流する。そんな人々と押し合いへし合いしながら、アスンシオンはおんぼろバスにギュー詰めになって職場へ向かうのだ。だがそれでも…この国では仕事があるだけまだマシ

 裏町のゴミの山でうたた寝していた浮浪児たちは、いきなりオッサンにドヤされて叩き出される。そうは言ってもこのガキどもに寝る場所なんてない。そんなガキどもを追い出したのも、居場所とてない汚い浮浪者。それでも、ここはこいつのショバなのだ。

 さてアスンシオンがたどり着いた職場は、とある外国人用ホテル。それも…赤ん坊を養子にもらうためにこの国にやって来た女たちが、その許可を得るまで滞在するためのホテルだ。アスンシオンはここでメイドの仕事をしている。

 ホテルの支配人は堂々たる初老のマダム、リタ・モレノ。今日も今日とて、何かとうるさい客の対応に頭が痛い。そんな彼女の元に一人の男が「仕事をくれ」と懇願してくるが、元よりそんな余裕がここにあろうはずもない。男は諦めてスゴスゴと帰るしかなかった。

 そんなこのホテルには、現在「養子待ち」のアメリカ女たちが6人もいた。それは…いつもおっとりと静かなメアリー・スティーンバーゲン、何かとカラダづくりに余念がないダリル・ハンナ、アレコレと文句が多いマーシャ・ゲイ・ハーデン、口の悪さではゲイ・ハーデンに負けないリリ・テイラー、アメリカ在住のアイルランド人スーザン・リンチ、一同で一番若いマギー・ギレンホール…という面々。そんな一人ひとりについて、ゲイ・ハーデンとテイラーは本人がいない時にアレコレとウワサ話する。やれハンナはサイボーグみたいだとか、やれリンチは金がないとか、やれギレンホールは夫との仲が危ないとか…もちろんゲイ・ハーデンとテイラー双方も相手がいないところでケナし合い。特にゲイ・ハーデンは、テイラーをレズと決めつけるアリサマだ。そんなあんまりな言い草がエスカレートすると、おっとりタイプのスティーンバーゲンがやんわりたしなめる…というのがいつものパターン。

 ただ彼女たちが、それぞれ何らかの問題を抱えているというのは確かだ。

 リンチが金欠なのはまぎれもない事実。夫が失業して収入のアテがなく、それでもその事を隠してここまで来たのだ。だが、あとどれくらい待てばいいのか。

 ギレンホールの夫婦仲が風前の灯なのも本当のこと。電話で本国の夫と長話をしても、どうしたって思いはすれ違う。そんなやりきれなさに、他のメンバーの見ていないところで涙するしかない。

 テイラーはレズかどうかは分からないが、男に十分懲りているのは確かだ。だからもらいたい子どもも女。彼女にそこまで男性不信を植え付けたものとは一体何なのか?

 ゲイ・ハーデンはと言えば、手首に古い火傷の跡がある。それは母親に折檻された跡だ。そんな心の傷がアダとなったのか、今でもつまらないモノを盗むクセが治らない。

 ハンナはスポーツに打ち込んで多くを語らないが、実は過去に流産や虚弱体質で子どもを三人も亡くしたツラい経験があった。それだからこそ、彼女は無言でスポーツにのめり込むのか。

 比較的そんなストレスを感じさせないのがスティーンバーゲンであったが、彼女とても問題を抱えていない訳ではなかった。彼女は秘かにこの街で、アルコール依存症から立ち直るためのグループ・セラピーに出席していたのだ。

 だが彼女たちの思いは、なかなか叶えられない。いつまで経っても政府からの許可が下りないのだ。挙げ句の果てにゲイ・ハーデンは、申請を委託している弁護士を口うるさく恫喝。しまいには賄賂で動かそうとさえする。だが、そんな事をしてもムダだった。ただ心証を悪くしただけ。

 彼女たちが煮詰まっている間も、この国の人々の苦しい現実は変わらない。浮浪児のガキどもはセコい稼ぎに目の色を変え、盗みだって辞さない勢い。ホテルで仕事を探していたあの男も、仕事を求めてウロウロ。渡米して稼ぎたい…との夢も、偽造パスポートと航空チケットの金がない限りは実らない。なけなしの金をはたいた宝くじも、彼の思いを叶えてはくれなかった。

 ホテルの支配人モレノの出来の悪いセガレも、もういい歳なのに仕事がない。母親の稼ぎで食わせてもらっているのに、アメリカの寄生虫とケチをつける始末だ。あげくダチと酒飲んで反米グチたれまくり。

 そんなこの国では、赤ん坊が最高の輸出品になっている

 もちろん生活苦もある。性教育の不徹底もある。何より男性中心主義で、避妊がないがしろにされている。今日もまた男に妊娠させられた高校生の娘が、母親に連れられ相談にやって来る。結局彼女は、生まれてくる子どもを施設に引き取ってもらう事にするしかないのだ。

 そしてホテルのメイドとして働くアスンシオンも…かつてまだホンの子どもだった時、そうやって娘を引き取ってもらった事があるのだ。あの子は今頃、どんな親の元で育っているんだろう…。そんな思いをふと「養子待ち」のリンチの前でつぶやくアスンシオン。だが彼女が母国語でつぶやいたその言葉は、リンチには届かない

 それはリンチがアスンシオンの言葉を解さないからだろうか。それとも…。

 

見た後での感想

 映画が始まったとたん、こりゃあ思っていたような映画じゃないな…と察しがついた。何しろダリル・ハンナだメアリー・スティーンバーゲンだ…と豪華女優陣の共演を想像していた僕だったが、彼女たちはなかなか出てこない

 まず映画に出てくるのは赤ちゃんたち。どう考えても訳ありで収容されている、たくさんの赤ちゃんたちだ。

 そして南米の某国(…僕はてっきりメキシコの話だと思ったら、撮影地はメキシコだが舞台はどこと特定していないとのこと)での日常が延々と描かれる。貧しい家、貧しい人々、安い交通手段に頼った出勤の様子。そして街に溢れる浮浪児、浮浪者…。

 いつまで経ってもこの国の人間しか出てこない。汚い街並みしか出てこない。とにかく冒頭から繰り返されるのは、「金がない」「仕事がない」…って話ばかり。

 これを見ていると、豪華女優共演のアメリカ映画って感じには思えない。当初頭に思い描いていたような、「マグノリアの花たち」インディーズ映画版…みたいなムードは、微塵もないのだ。

 やっと出てきた「主役」アメリカ女優たちも、何かどよ〜んとした雰囲気。確かにドラマの設定上も、このホテルに足止めを食っていてにっちもさっちもいかないという状態ではある。だけどこの様子を見ていると、とても彼女たちが映画の主役としてドラマを引っ張っていくという感じには見えないよね。

 ただ、確かにそれぞれの女たちは問題を抱えていて、それがチラリチラリと時折顔を覗かせていく。そんな、どよ〜んとタムロってる感じとか個々の事情が見えてくるあたりとか…確かに初期も初期、ジョン・セイルズの映画監督としての長編デビュー作「セコーカス・セブン」(1980)の群像劇の描き方を思い出させはする。

 だがそれよりも…ツラくて痛いアメリカ女たちの「個人的」問題が見え隠れはしても、僕らにはそれより先に、彼女たちを取り囲んでいる南米某国の人々のハードな状況が見えている。だから申し訳ないけど、それに比べれば…という気持ちをどうしても持ってしまうんだよね。

 あるいはもっともらしい事を言っていても、こいつら分かってないよなって気になってしまう。どこか甘いと見えてしまう。…というか、セイルズは明らかにそう見せようとしている。

 こう考えると、この映画はアメリカ女性たちの物語とは思われない。もちろん彼女たちは主役だが、それでも主要キャストの一部分に過ぎない。それ以外にも…浮浪児やら仕事にあぶれた男やら、メイドやら支配人、支配人のセガレ…そんな多彩な人間模様がいっぱいあって、アメリカ女たちはその中の一角を占めているに違いないのだ

 それはセイルズでも最大の野心作…東京国際映画祭でグランプリまで取った、一つの大都市を丸ごと描いた壮大な人間群像劇「希望の街」(1991)の構想にむしろ似ているとでも言えようか。

 

見た後の付け足し

 実際、ここに出てくるアメリカ女たちは、みんなどこか甘い。作者は「みんなそれなりにツラいんだろう」…と一定の同情や共感はしながらも、次の一瞬の後には非情なほどに突き放してしまう。

 それは…彼女たちが実に無神経な言動を連発するからだ。

 まずは、一同の中でもデリカシーに欠けるマーシャ・ゲイ・ハーデンが、現地の弁護士を恫喝。あげく賄賂までチラつかせて事を有利に進めようとする傲慢さ。これが弁護士はじめ現地の人間の反発を買っているのは必至だ

 だが一同の中で一番気の毒で、もっとも人の心の痛みが分かる人間と見えた金欠のスーザン・リンチまでが、思いの外に無神経な人間と描かれたのには驚いた。

 彼女はメイドのアスンシオンを前にして、この国からもらった養子をいかに可愛がるか、いかに自分にその資格があるか…を得々として語る。そんな自分の言動が、この国の人間にはどう聞こえるかをまるで考えてない。調子に乗って語り続ける彼女の戯言に耐えかねたのか、ついにメイドのアスンシオンは自分のツラい体験…自らの子どもを養子として手放した事を語り始めるのだ。それがリンチに理解出来なかったのは、アスンシオンが英語で話さなかったから。でもそれは、オマエに分からせようとしてもムダ…という意味にも感じられるよね。

 そんな無神経さ傲慢さは、別にこの国の人間だけに向けられる訳ではない。これまた一同の中でもっともしおらしく見えたはずのマギー・ギレンホールが、ダリル・ハンナと話すやりとりを見よ。ハンナのツラい体験をバカみたいに根掘り葉堀り…いいかげんにやめときゃいいのに問いつめる。聞いてどうなると言うのだ。そしてさんざ聞いたあげくのコメントが「悲惨ねぇ」…という何の役にも立たない一言ではシャレにならない。彼女はそんな自分の愚かさがまるで分かっていないのだ。だから亭主とうまくいかないんだ…とまで言っては酷だろうが、この無神経さは目に余るよ。

 このあたり、いかにも「ヒロインたちに感情移入して、アナタの“女の生き方”を見つけてください」…とでも言いたげなこの映画の広告に期待して女性が見に来たら、思いっきり冷え冷えとしちゃいそうな厳しさなんだよね。共感しようと思ったら、思いっきり退かされる。

 しかも…これにさらにヒネリを加えて、ますます「ありきたりのパターン」を描かないところがセイルズなんだよね。単にアメリカ女優たちが主役の映画をつくらなかっただけに留まらない。

 普通こう持ってきたら、こんなパターンを描きがちではないか? 貧しく厳しい南米某国の状況では、人々の暮らしは過酷だ。その代わり、アメリカに代表される「先進国」の人間は、心が荒廃している…。この映画がそんな図式的なパターンに落ち着いたとしたら、いかにも「良心的」な作品には見えるだろう。しかし、それは結局のところ、実感の伴わないありがちなイメージに過ぎない。つまりは「偽善」だ。

 だがセイルズは、決してそんな手垢のついた展開にはしない

 南米某国の人々の心も、もうすでに荒廃している。金と物欲で腐敗している。金で子どもを買うアメリカ人を、逆に利用している寄生虫でもある。仮に反米を唱えたって、テメエもとっくに腐っている。

 つまりは、これが今の世の中の縮図と言うモノだろう

 ところが映画は、唐突に施設から里親の元へと送り出されようとする二人の赤ん坊の姿をとらえて、いきなり幕となる。

 これってどう受けとればいいのか?

 どいつもこいつも人心が荒廃したようなこの忌まわしき世界に、赤ん坊たちは送り出されていく…という意味だろうか? そんな希望のないエンディングか?

 それとも…「それでも新しい命は育っていく」…的な明るい希望の象徴として赤ちゃんたちを見なした、一種のハッピー・エンディングなのだろうか?

 いいことなんだか悪いことなんだか、見ているこっちは分からないよねぇ。一切のほのめかしなしでバッサリと終わっちゃったから判断つかない。でも、分からないなら分からないなりに、それでいいのかもしれない

 幸せになろうと不幸せになろうと…元々子どもの運命は、生まれ出た時には分からないものだからね。

 

 

 

 

 

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