「ゲート・トゥ・ヘヴン」

  Gate to Heaven

 (2004/08/09)


  

今回のマクラ

 僕がかつて航空業界に身を置いていたことは、このサイトでも何度か語っていると思う。そして子どもの頃から飛行機が好きだということも。だから僕は、空港が大好きだとも言ってきたよね。確かラブ・アクチュアリー感想文の冒頭でもそう書いたはずだ。

 で、前に書いた事の繰り返しになっちゃうかもしれないが、僕は空港っていう場所が本当に、心から好きなのだ。何かが起きそうでワクワクする。実は空港から飛行機に乗って行き着く目的地よりも、空港そのものに行くのが好きだったりする。仕事で空港に行ってた時も、僕は結構喜んでいたんだよね。

 僕は空港のどこに惹かれるのか…それは何とも言えないが、空港にはすべてがある。そんな気がする。空港の仕事をしていたら、ずっと飽きないんじゃないかと思う事もある。それくらい僕は空港が好きだ。何か胸騒ぎがするんだよ。

 もちろん飛行機そのものが好きだから、国内の空港も好きだ。当然のことだが、実際に利用してきたのも国内の空港が圧倒的に多い。でも、本当にワクワクするのは国際空港なんだよね

 また海外に行きたい…と時々思うことがある。それってきっと、国際空港へと出かける口実が欲しいんだろうね。

 

見る前の予想

 ツバル」のファイト・ヘルマーの新作…これ以上にこの映画を見る動機が必要だろうか。

 いやいや…それを言うには「ツバル」がどんな映画だったか、もう一回おさらいしなくてはならないね。何しろこの映画って劇映画なのに台詞がない。台詞はないけどサイレント映画じゃない。何とドルビー・デジタルでシネマスコープの映画。いつでどこだか分からない舞台と設定。集められた各国のユニークな役者たち。抽象性・象徴性の高いお話ながら、難解ではなくおとぎ話みたいなストーリー。変わってる。他では見たことがない映画。僕がいかに驚いて、いかに気に入ったかは、この「ツバル」感想文を読めばお分かりいただけると思う。

 で、「これだけユニークな作品つくっちゃうと次にこの手は使えないんだから、かなり苦しいとは思うけどね。」…とこの感想文にも書いたように、この後この監督はどうするんだろう?…という疑問が湧いたのは当然だ。これだけ変則的な作品を放った後だけにね。その回答がこの映画ならば、そりゃ見たいに決まってる。

 ところがこの「ゲート・トゥ・ヘヴン」を巡る雰囲気は、どうも何となく大人しい。あの「ツバル」が盛り上がっていたようには、話題になってないみたいだ。そこに一抹の不安があるんだよねぇ。

 でも、この映画には僕が絶対楽しめるはずの要素が一つある。それがあるから、実はそれほど心配はしていない。僕にとっては最低でもソコソコは楽しめるはずだ。

 僕が絶対楽しめる要素…つまり「空港」だ

 

あらすじ

 今まさに海面に墜落せんとする旅客機。阿鼻叫喚の乗客の中には、若いインド娘マースミー・マーヒジャーもいた。緊急着水した飛行機の扉が開き、急いで機外へ脱出…しかしそれは本当の事故ではない。事故に備えて空港内の施設で航空会社が実施した、毎度お馴染みのただの避難訓練だ。この訓練を主催した航空会社の上役ウド・キアーは、無事に訓練が済んでご満悦。「諸君、ご協力ありがとう!」

 乗客役として参加したのは、空港で下働きをしている連中だ。マーヒジャーもそんな掃除婦の一人に過ぎない。

 それでも彼女には夢があった。掃除婦の暮らしから脱出して、いつかはスチュワーデスになってみたい。そうすれば今の自分の暮らしも良くなる。彼女は例の訓練でたまたま出会ったウド・キアーに、何とかスチュワーデスになれないか、せめて訓練だけでも受けられないか…と頼み込む。するとこのキアーは何を思ったか、そんな彼女に色よい返事をするではないか。思わず期待するマーヒジャーだったのだが…。

 ここは広大な敷地を誇るフランクフルト国際空港。空港には、いつも一般客たちが見るのとは別の顔がある。例えばそこで生活の糧を稼ぐ者もいれば、不本意にもその場に留まらねばならない者もいる。

 空港に隣接する収容施設で監禁生活を余儀なくされているロシア男ヴァレラ・ニコラエフに、掃除婦が待ち望んでいた「ブツ」を手渡す。それはこの収容施設の見取り図で、そこには脱出経路が描かれていた。もちろんニコラエフが裏のツテを使って入手したことは言うまでもない。

 放っておけばニコラエフは本国送還の憂き目を見るところ。しかし間一髪、彼は収容されていた部屋の窓枠を取り外して脱出。同室のレゲエ頭のアフリカ男ソティギ・クヤテも一緒に…と誘うが、彼はアラーの神との約束があるとかで遠慮した。かくしてニコラエフは収容施設の屋根から屋根へ。さらにはあらかじめ計画されたように、通りかかった洗濯物運搬車の荷台へとジャンプ。まんまと空港施設内部へと潜入する事に成功した。

 この手はず一切を仕切ったのが空港施設で働く職員のミキ・マノイロヴィッチ。彼は職員という職権を利用してこうした不法入国者を匿って空港施設で働かせ、その給料をピンハネしてボロ儲けしているセコい男だった。だからニコラエフも、一年はこの男の下で働かねばならない。だがその間はマノイロヴィッチが空港内に居場所を確保してくれるし、身の安全も保たれる。そして「契約」さえ果たせば自由の身にもなれるのだ

 空港の地下にはそんなマノイロヴィッチの世話になっている「異邦人」がウヨウヨ。彼らは空港職員として、あれこれと空港の雑務で生計を立てていた。くうこうないのベルトコンベアーに乗っかってどこへでも移動出来るし、機内食の余りで食事の心配もない。こうして連中は、旅客の手荷物の運搬やら施設のガラス拭きなどをしながら毎日を過ごしていた。

 そんな彼らはそれぞれ過去に故国で訳あって、遠く離れたここフランクフルト空港までやって来た連中ばかり。もちろんロシア男ニコラエフとて例外ではない。そんな彼は、なぜか旅客機のパイロットになる夢を抱いているのだが…。

 さて例のマーヒジャーはウド・キアーの言葉を真に受けて、自己流でスチュワーデスの「訓練」を行っていた。それは夜中に駐機中の旅客機に忍び込み、航空会社スチュワーデスのユニフォームを拝借してその真似事をすること。それは「訓練」と言うより、うだつの上がらない日常の秘かな楽しみだった。ところが同じ飛行機にニコラエフも乗っていた。彼は彼でコクピットに上がり、パイロットの真似事をしていたのだから五十歩百歩。ともかく偶然に鉢合わせしてビックリ仰天。そのままその場は別れてしまったけれど、ニコラエフの胸にはマーヒジャーの忘れがたい面影が残った

 最初はマーヒジャーの事を本当のスチュワーデスと思い込んでいたのでなかなか見つけられなかったが、すぐに彼女が掃除婦であることを知るニコラエフ。そうなれば二人が再会するのも間もないこと。こうしてニコラエフとマーヒジャーは、アッと言う間に恋に落ちる事になった

 付き合いが深まるごとに、お互いの事を教え合う二人。ニコラエフはチェチェンで上官の命令に反逆し、それで罪に問われてしまった。彼が祖国を捨てたのは、そんな理由からだ。一方、マーヒジャーは暴力夫から逃れてこの国に来たものの、祖国に三歳の息子を残していた。彼をドイツに呼び寄せるのが彼女の夢だ。

 そんな幸せ一杯の二人だが、たった一つだけ懸念もあった。それはマーヒジャーがスチュワーデスなりたさに、あの航空会社のお偉いさんウド・キアーと関わりを持っていること。

 実はこのキアー、空港でも評判の好色男だったのだ。だからマーヒジャーを助けるというキアーの言い草は、傍から見れば彼女に手を出す口実であることがミエミエ。しかしスチュワーデスになりたい、それで息子を呼び寄せたい一心のマーヒジャーには、そんなキアーの下心が見えない。それを苦々しく思いながらも、どうすることも出来ないニコラエフではあった。

 そんなある日、ニコラエフはマーヒジャーの息子を何とか入国させてやる…と言い出す。あの守銭奴のマノイロヴィッチに頼み込んで、彼女の息子を飛行機で連れてくる段取りをつけたのだ。もちろん貧しいマーヒジャーのなけなしの金に加えて、ニコラエフも今後の働きから払っていくと確約した。

 ところがいざ当日、飛行機でフランクフルト空港までマーヒジャーの息子を連れてきた運び屋が、土壇場でヘマをやらかして別の子どもと取り違えられてしまった。こうしてマーヒジャーの息子は収容施設へと連れて行かれてしまう

 この事態を知ったマーヒジャーは悲嘆のあまりニコラエフを責め、すがる思いでウド・キアーの元を訪ねる。ウド・キアーもこのチャンスを逃すまじと良からぬ事を企んでいた

 さぁ、マーヒジャーはウド・キアーの毒牙から逃れる事が出来るのか? 収容所に入れられたマーヒジャーの息子は助かるのか? はたまたニコラエフとマーヒジャーの恋の行方は?

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まずはこの映画、確かにファイト・ヘルマーらしい作品だと誰でも思うよね。

 「ツバル」は確かに「台詞なし」というスタイルが衝撃的だったけど、そこを取っ払って見てみても、いろんな意味でユニークな作品だった。いつの時代かどこの国か分からない設定。みんなが集う場所としての老朽化したプールという特異な空間で進行する物語。そこに世界各国から集められた異能で雑多な個性派役者たち。…それはそっくりそのまま、この「ゲート・トゥ・ヘヴン」にも当てはまる。

 誰がどう見ても現代のフランクフルト空港と分かる…そういう点では、「ツバル」のいつだかどこだか分からない設定と比べれば具体的な舞台だ。だが、そもそも空港ってのはどの国のどの空港でも不思議なほど似ている。だから僕はこの映画が、フランクフルトじゃなくてジョン・F・ケネディ空港でもヒースローでも、シャルル・ドゴールでも成田でも…全然問題ないと思うんだよね。つまり、空港を舞台にした段階でもう十分抽象的だと思う

 そして、そんな空港の裏側こそが…日頃僕らの目に触れない特異な空間だ。そこで人々は実に居心地良さそうに暮らしていける。

 さらにはこの映画に集められた役者たちの顔ぶれを見よ。ロシア人、インド人を筆頭にそれこそ世界各国から集められた役者たち。…ツラ構えそのものも、クセのある奴ばっかりだ。まさにこの映画は、「ツバル」の監督ならではの作品なんだよね。

 だから、やっぱり「ツバル」みたいにユニーク…と言いたいところだが、実は僕は、この映画を見ていて思い出した作品がある。それはジャン・ロシュフォール主演のフランス映画「パリ空港の人々」(1993)だ。

 たまたまパスポートをなくして、空港から出られなくなった男が主人公の物語。ところが空港の裏側には不思議な世界があって、そこで暮らしている奇妙な人物もいる。…と聞けば、この「ゲート・トゥ・ヘブン」とそっくりな映画だと分かるだろう。ハッキリ言ってほとんど同じ設定の作品なんだよね。

 まぁ、ありふれた都市機能の裏側に不思議な世界があって、そこに住みついた奇妙な人々がいる…って設定は、あのリュック・ベッソンの出世作「サブウェイ」(1984)もそうだった。まだベッソンが中学生並みのバカ映画をつくりだす前の作品だ。この頃のベッソン映画は結構面白かったんだけど、まぁそれはまた別の話。ともかく地下鉄駅の奥深く、さまざまな地下道や換気ダクトやら機械や施設を利用して暮らす人々を描いて、なかなか面白い映画だったよね。だからこっちの影響もあるかもしれない。

 だが、何しろ空港の話というのがモロに合致してるという点では、「パリ空港の人々」はあまりにそのものズバリだ。それに「ゲート・トゥ・ヘヴン」の主要出演者の一人…マリ共和国出身のアフリカ俳優ソティギ・クヤテは、実は「パリ空港の人々」にも出演しているのだ。こりゃ単なる偶然と言うには無理があるだろう。おそらくファイト・ヘルマーは、間違いなく「パリ空港の人々」から発想を得ているはずだ。

 まぁ、発想を得ていても何でも別に問題はない。どこかからヒントを得ているような映画は枚挙に暇がないからね。だから、それがマズイと言うつもりはない。ただ、あのユニーク極まりない「ツバル」を考えると、今回の作品はそんな点からもいささか鮮度が落ちるかもしれない。何となくいくらか独創性には欠けてしまうかもしれない。何しろ「ツバル」はとにかく「発想がオリジナルだ」って事だけですごかったからね。もちろんあの映画の魅力はそれだけではないんだけれど…。今回の映画に見る前から漂っている「大人しさ」ってのは、そんなところが理由かもしれないよね。

 それでも…確かにそう言う意味で100パーセント独創的ではないかもしれないが、この映画はこのままで十分魅力的だ。空港という魅惑の場所を、実際よりもさらにチャーミングに見せている。

 そして「ツバル」の時に僕が薄々感じていたファイト・ヘルマーという作家の個性は、この映画でいよいよハッキリしてきた

 僕は「ツバル」の感想文に、あの映画が「台詞なし」であることの理由をいろいろと書いたはずだ。そこで僕が言いたかったことは、ファイト・ヘルマーは別に「サイレント映画」を撮りたい訳じゃない…ということだった。

 「サイレント映画」という形式にこだわっている訳じゃないことは、あの映画が独特な色彩処理をしたカラー作品であるということ、台詞はなくても音声は流れていて、それもドルビー・デジタルで鳴らしていること、さらにはスタンダード・サイズどころか横長シネマスコープであることからも明らかだ。ヘルマーは決して「映画至上主義」的な偏屈さや懐古趣味から、昔のいわゆる「サイレント映画」を復活させようとしたわけじゃないんだよね。

 では、一体何がやりたかったのか?

 それは、別に台詞をしゃべっちゃいけない…というわけではない。安易に台詞での説明に寄りかかるんじゃなくて、出来るだけ映像で語らせる…そのためにあえて「台詞なし」という形式をとったんじゃないか…と僕は指摘したんだよね。僕はそれを言いたいがために、たまたまその当時公開されていたアキ・カウリスマキのサイレント映画「白い花びら」まで引き合いに出した。

 今回「ゲート・トゥ・ヘブン」を見て、それはもはや確信に近くなったよ。そして、なぜそんなに台詞の問題にこだわったかも、今回ハッキリと分かった。

 映画の冒頭、主役二人の名前がクレジットされる。驚いたのは、英語映画だから英語表記がなされるのは当然として、ロシア人のヴァレラ・ニコラエフはロシア語、インド人のマースミー・マーヒジャーはインドの…おそらくヒンディー語で、それぞれ英語と並列で表記されるのだ。こんな事ってまずないだろう。「ラストサムライ」の渡辺謙のクレジットは、英語だけで漢字では出ない。それが普通だ。だから、これは極めて意識的に行われているんだよね。それはこの映画をつくるにあたっての、ヘルマーの心構えを表しているのだ。

 登場人物は「ツバル」同様世界中から集められた…と言ったけど、それは当たり前だ。この映画は国際空港を舞台にしている。だから登場人物が多国籍になるのも当然なのだ。言い換えれば、そんな多国籍なキャストが出てきても不自然じゃない設定として、あえて空港という場所が選ばれたとも言える。

 そう…ファイト・ヘルマーは、明らかに国籍を超える事を意図していたはずだ。

 「ツバル」の台詞なし…は、今考えれば単に「映像に語らせたい」という意味だけではない。映画でも現実の世界でも、世界の人々を隔てる最も大きい障壁…ランゲージ・バリアを超えるために行われていたのだ。台詞がなければ、世界中の誰が見ても理解出来る。吹き替えも字幕も要らないのだ。

 しかも、それは単に観客にとってのバリアを取り払っただけではない。台詞がない事によって、ヘルマーは世界各国の多彩な俳優たちを一同に会する事が出来た。そういう意味で、国というバリアはヘルマーにとって、取り払うべき忌々しいものなのかもしれない。言語だけではなく、政治体制、宗教、人種、民族…どれもヘルマーにとっては「なくなってしまえばいい」ものなのではないか?

 この「ゲート・トゥ・ヘヴン」では、不法入国者の問題がクローズアップされる。金網の向こう側に行ったらこっちの国、その外は外国…考えてみれば、こんなにアホな話もないではないか。そんなタテマエのバカバカしさが強調されている事からも、ヘルマーの意図は明白だろう

 今回の主要キャスト…ロシアのヴァレラ・ニコラエフ、インドのマースミー・マーヒジャー、旧ユーゴのミキ・マノイロヴィッチ、ドイツのウド・キアー、マリのソティギ・クヤテ…などなどなどは、普通の映画なら考えられないほどムチャクチャに多国籍なキャストだ。個人的にはエミール・クストリッツァの「パパは出張中!」や「アンダーグラウンド」、「黒猫白猫」…さらには「3人でスプリッツァ」などで知られるミキ・マノイロヴィッチが顔を見せているのは嬉しかったけどね。ともかく、そんな多彩な顔ぶれが勢揃いしているというだけでも、ヘルマーの「国境なんて超えてやる」という強い心意気が感じられるよね。

 それにしても、「ツバル」ではチュルパン・ハマートヴァを起用したヘルマー。今回はインドから、マースミー・マーヒジャーという 素晴らしいヒロインを連れてきたから驚いた。彼女は確かにこの映画最大の収穫であることは間違いない。何しろメチャクチャ輝いていたからね。ヘルマーの女を見る目は、今回も狂いがなかったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

絶対に映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 というわけで、今回の映画は「パリ空港の人々」と同じネタとは言え、「パリ空港の人々」そのものが地味な映画だから、それなりに物珍しくもあるし面白い。マーヒジャー嬢も可愛くて言うことなし。空港内部の奇妙な人々と不思議な暮らしの楽しさ、主人公カップルの恋物語の可愛らしさで、結構楽しめるんだよね。

 さらにマーヒジャー嬢を起用したヘルマーは、彼女を十二分に活かそうとして工夫を凝らした。劇中に空港施設を利用した、マサラ・ムービー風の派手なミュージカル場面を挿入したんだよね。これが何とも楽しくてウキウキする。この映画でも最大の見せ場になっているから見逃せない。

 この映画なかなかではないか…と見ている僕もご機嫌になっていたが、実はご機嫌なのはそのへんまで。この調子が最後までは続かないんだよね

 ウキウキ楽しくてワクワクする…そんな展開がいつの間にかしぼんでしまう。不思議で奇妙な世界が、なぜかありふれた普通の世界になってしまう。何だか分からないけど、この映画って途中から一気に失速していくんだよね。娯楽映画としては普通の映画同様、「起・承・転・結」…という展開を見せるこの作品、「起」と「承」は物珍しさもありワクワクするけど、「転」あたりから陰りを見せて「結」でショボくれてしまう感じ。

 なぜなんだろう?

 一つには「転」で主人公たちに襲いかかる障害が、あまりに現実的でせちがらく、発展性がないものだから…という事はあるだろう。ヒロインの子どもを密入国させるためのアレコレ、それに必要なお金…ところがひょんな事から子どもは収容所に送られてしまう。そしてヒロインの肉体を狙う色事師とくる。

 映画の前半ではみんなが見たこともない空港の裏側を見せ、ヒロインによるマサラ・ムービー風ミュージカルを見せる。そもそもパイロットになりたいだのスチュワーデスになりたいだの、この映画の登場人物たちの夢そのものが「非現実的」だ。そんな風にこの現実の世界にありながら現実の世界ではないようなモノをずっと見せてくれていたのに、途中からいきなり現実のせちがらい話が襲ってくる。ここで夢がしぼんじゃうのかねぇ。

 でもね、そんな事だけじゃないと思うよ

 何でこの映画って急速につまんなくなっちゃったんだろう…そんな事を考えながら映画を見ていた僕は、ラストで急にその理由に思い至った。それはこの映画のラストシーンにあった。

 ヒロインの子ども奪還のてんやわんやがあって、ともかくロシア男は偶然から空港施設の外に脱出できた。最後は一足先に空港から出ていたアフリカ男の手を借りて、ヒロインと共に外の世界への第一歩を踏みしめる事になる。

 クルマの行く手には、フランクフルトの街並みが見えるんだよね…。

 これって主人公が自由になるって事だ。だから晴れがましい事に違いない。彼の目から見えている街並みも、一際美しく見えるはずだ。

 ところが、このラストシーンの街並みが…一向に魅力的に見えない

 確かにお話では主人公は自由になったはずだ。そして主人公自身も、それをずっと望んでいた。だけどそれが実現してみると、ちっともステキに思えないのだ。

 それって、空港での暮らしがあまりに楽しそうだったからじゃないか?

 不思議な空間だった空港施設では、スチュワーデスやパイロットのコスプレし放題、ジャンボ・ジェット乗り放題。仕事と言えば荷物運びやらガラス拭きやらと気楽なものばかり。機内食で食事には事欠かないし、ビールだって飲める。そこでたむろしていた連中はみんな「自由がない」とか「囚人みたいだ」とかボヤいていたが、見ているこっちにはまるでそうは思えなかった。気楽で自由な毎日だし、すごく楽しそうだ。ハッキリ言って没個性でコキ使われるだけの都会なんかより、ずっといいではないか。大体ここに出てくる連中は、あえてこの素晴らしい空港から出ていきたくなるほど、外の世界でしなきゃいけない目的なんか持っちゃいない。

 こりゃ致命的だよね。

 この映画は、物語の舞台である空港を魅力的に描きすぎた。いや、元から魅力的な舞台を選んでしまったそもそもの発想からして、大きな誤算だったのかもしれない。ともかくあそこから脱出を図る事が、素晴らしい事とは思えない。あの楽しい空港以上の何かを、外に見いだせないからマズイのだ。だから共感も出来ないし、お話もどんどんつまらなくなるんだろう。でも、それもしょうがないかもしれない。

 だって空港って、元々が旅の目的地より楽しい場所なんだからね。

 

 

 

 

 

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