「キング・アーサー」

  King Arthur

 (2004/08/09)


  

見る前の予想

 ジェリー・ブラッカイマーがアーサー王のお話を大作映画にすると聞いて、おやっと思ったのは僕だけじゃないだろう。

 ジェリー・ブラッカイマー映画と言えば、現代ハリウッドでも大味映画の代表みたいなもの。それは「アルマゲドン」を脳裏に浮かべてもらえば、すぐに分かると思う。

 実はブラッカイマー=大味ハリウッド映画と決めつけるのはフェアじゃない。それなりに楽しませてくれるものも少なくないのだが、何しろ「アルマゲドン」のイメージが強くてそうなってしまった。パール・ハーバーなんてビッグな失敗作もあるからね。

 そんなブラッカイマーだが、まさかアーサー王伝説に手を出すとは驚いた。太平洋戦争下の真珠湾攻撃を映画にするより意外だった。でもブラッカイマーのことだから、きっとキッチリ売れ線でまとめてくるに違いない。それが面白いかどうかは、また別問題なんだけどね。

 アーサー王伝説と言えば、僕にとってはジョン・ブアマンの「エクスカリバー」にとどめを刺す。アレ以来何本かアーサー王映画も見てきたが、今回また…しかもハリウッド王道のブラッカイマーが取り上げるとは驚いた。でも、この手のジャンルがキライじゃないから、結構期待したんだよね。

 ところで今回の「キング・アーサー」だが、昨年の夏にはパイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たちで大当たりをとるなど、キッチリ仕事をするブラッカイマーにしてはいささか地味なキャスティング。何しろステラン・ステルスゲールドが一番知名度高そう…ってあたりで、その地味さがお分かりいただけるだろう。ま、ブラッカイマー的にはグウィナヴィアにキーラ・ナイトレイを配したあたりで「いかにも」なキャスティングになってはいるが、それはまた後ほど。他のブラッカイマー映画と比較してもらってもいい(コヨーテ・アグリーのような小品狙いの青春映画は例外として)。ともかく、そこにハリウッド・スターや国際的名優は皆無だ。

 おまけに題材は日本では馴染みの薄いアーサー王。これで夏休み大作として、大丈夫なのだろうか? 何となくイマイチ盛り上がりに欠ける気がして気になっているのだが。

 実は西洋チャンバラ好きな僕としては、秘かに応援したい一本だったのだが…。

 

あらすじ

 従来15世紀の物語として伝えられて来た、アーサー王とその騎士たちのお話。しかしそれは、最近の研究によって1000年ほど昔の話であったと考えられるようになった…。

 それはローマ帝国が世界に君臨していた頃のこと。当時のローマ帝国は東方のサルマートの軍勢と戦い、これを制圧。この時、サルマートの騎士たちの卓抜した戦闘能力に関心を抱き、彼らをローマ軍に取り込んだ。その子孫たちもローマ軍に仕える身となり、徴兵されれば15年はローマ兵士として身柄を拘束され、はるばる遠方へと駆り出されて戦いに明け暮れた。

 そんな彼らの指揮官を、アーサーと言う。

 さて、そんなアーサーとその騎士たちは、現在ローマ帝国のはるか北…ブリテンの地をその戦いの場にしていた。当時ブリテンは長大な城壁で二分され、その南端をローマ帝国が支配。元々の住人であるブリトン人の執拗な攻撃からローマの権益を守るのが、アーサーと騎士たちの任務だった。

 だが、それもここまで。騎士たちは約束の15年を全うし、自由になるのを目前としていた。そんな彼らを自由にすべく、ローマ帝国から司教ご一行がやって来る。アーサーことクライブ・オーウェンを筆頭に、彼の親友でもあるランスロットことヨアン・グリフィズ、単純で力持ちながら性根は気のいい伴宙太キャラのボースことレイ・ウィンストン、鷹を操るトリスタンことマッツ・ミケルセン、ツラはゴツいし無口なダゴネットことレイ・スティーブンソン、さらに若いガラハッドことヒュー・ダンシー、ガウェインことジョエル・エドガートン…と言った「円卓の騎士」の面々は、もう自由になったような気分になっていた。自由になれば、遙か遠方の故郷サルマートに帰れる…もっとも幼少の頃に連れてこられた彼らにとっては、故郷には知る人とていないのが本当のところ。それでも自由は長年切望していた夢だった。

 リーダーのアーサー=オーウェンだけはローマ人とブリトン人のハーフ。彼もまた、懐かしいローマに帰ることを夢見ていた。

 ローマ…そこは富と文明が栄えるところ。人々はみな平和と自由のための思索に耽っている、真に文化の中心たる都…。

 そんなローマ司教のご一行に、何やら顔にサッカーのサポーターみたいに塗りたくったウォードの連中が襲いかかる。ウォードとはブリトン人たちの反乱軍だ。そんな連中がこのローマ軍制圧地域に出没するあたりからして、この状況の危うさが伺える。

 そんなローマ司教ご一行の危機を救ったのは、もちろんアーサーと騎士たち。アッという間にウォードたちを蹴散らし、ご一行を城壁の内部に案内する。

 もちろん騎士たちは司教が自由を授けてくれるとご機嫌だ。だがこの司教、どうも腹にイチモツありそうだ。そもそもアーサーがみなを平等に扱おうと、わざわざ上座下座のない円卓を用意している事自体が気に入らないらしい。ローマ帝国は日本の体育会やら会社組織や木っ端役人のごとく、上下関係をつけるのが死ぬほど好きな連中だった。おまけに何とか騎士たちを人払いして、司教とアーサーの直談判にしたがっていた。それと言うのも、そこにはいろいろと事情があったから…。

 ローマ帝国は、騎士たちに最後の一働きを期待していた

 実はローマ帝国は、このブリテンからの撤退を予定していた。遠方の植民地維持のために割く余力など、今のローマにはもはやなかった。そして今このブリテンには、大陸からの侵略者がやって来ていた。それは残虐極まりないサクソン軍の巨大な軍勢だ。彼らが通った後は草木も生えない。そんなサクソン軍は、もうすぐそこまで迫っていた。

 ところが城壁の向こう側…ウォードの制圧地域の真っ直中に、ローマ人貴族の一家がキリスト教布教のために居を構えていた。しかもこの貴族の子息は、将来のローマ法王となるやもしれぬ。だから何としても奪還しなければならぬ。

 そこで司教は、すでに騎士たちが自由の資格を得ているにも関わらず、この任務を果たさねば自由を渡さない…との無理難題を言い出したのだ。そして脱走者には死あるのみ。このムチャな言い草に、さすがのアーサー=オーウェンもキレかかるが、強大なローマの力を前にしては刃向かえない。

 当然この話を聞かされて、騎士たちはみんな不満タラタラ。ようやく生き長らえてここまでやってきたのに、自由を目前にして「死ね」と言わんばかりの命令だ。それでもアーサー=オーウェンは命令とあらば従うのみ。そして何だかんだ言っても、彼はローマの高邁な理想を信じていたのだ。ならば命を賭けるより他はない。

 そんなアーサー=オーウェンを、騎士たちも信じた。

 かくして翌朝、アーサー=オーウェンと騎士たちは、北方めざして成功の保証のない戦いに出発した。ウォードたちがウヨウヨする森の中へと進みながら…。

 その頃北方では、問題のサクソン軍が侵略の魔の手を進めていた。一同を率いるのはセルディックことステラン・ステルスゲールド。その息子シンリックことティル・シュヴァイガーも副官を務めているが、彼でさえセルディック=ステルスゲールドには口答え出来ない。そんな独裁者セルディック=ステルスゲールド率いるサクソン軍は、村人を虐殺し何もかも掠奪しすべてを焼き払って進んでいた。めざすはローマ軍の城壁だ。

 そんなサクソン軍の情報は、ウォードを率いる魔術師のマーリンことスティーブン・ディレインの耳にも入っていた。このままではブリテン全体が支配され、元々の住人であるブリトン人たちは根絶やしにされてしまう。そんな危機感に襲われた魔術師マーリン=ディレインには、同時にアーサー=オーウェンたちの北上の知らせも伝えられる。だがサクソン軍の残虐な侵略と比べれば、アーサー=オーウェンたちの存在など脅威でも何でもなかった。その時、マーリン=ディレインに一つの秘策が浮かぶ…。

 さて北を目指して森の中を行くアーサー=オーウェンたちは、案の定ここでウォードたちに周囲を取り囲まれる。今にも一網打尽の目にあって、とどめを刺されようとしていたアーサー=オーウェンたちだったが、なぜかウォードたちは彼らを捕らえようとはしない。一体なぜだ…?

 ともかく何とかかんとか問題のローマ貴族の屋敷へとたどり着くアーサー=オーウェン。ところがたどり着いて驚いた。このローマ貴族と来たら、地元民を奴隷のごとくコキ使うけしからん輩。おまけに妙な地下牢までこしらえているではないか。

 その地下牢に入ると、拷問や飢えで息絶えている者がゴロゴロ。何とこのローマ貴族、キリスト教から見れば異教徒である人々を捕らえては、ここで責め立てたり殺したり…という乱暴狼藉の限りを尽くしていたのだ。中には女子どももいるというムチャクチャぶり。これにはアーサー=オーウェンも唖然とせざるを得ない。ランスロット=グリフィズなど、オレたちゃこんな奴を守るためにやって来たのか…とブーたれる始末だ。もちろんローマの理想に夢を持っていたアーサー=オーウェンは大ショック。ローマ貴族が文句を言おうと何を言おうと一切無視で、捕らえられていた異教徒を解放。虐げていたキリスト教僧侶たちを逆に閉じこめた。

 そんな中に…手の指の関節をはずされたあげく飢えに苦しんでいた若いブリトン人の娘、グウィネヴィア=キーラ・ナイトレイもいた。彼女を見た瞬間、アーサー=オーウェンもランスロット=グリフィズもアッと言う間に惹かれてしまったが、あくまで平静を装ったのは言うまでもない。

 ともかく出発だ。もうすぐサクソン軍が責めてくる。しかも森にはウォードが潜んでいる。前門の狼、後門の虎とはこのことだ。そんな風雲急を告げるこの時にも、アーサー=オーウェンは屋敷の使用人たちまで連れて行こうとする。足手まといにしかならないし無理だ…と言われても、あくまで彼らを助けるのがアーサー=オーウェン流だ。そこが「円卓の騎士」の信頼を勝ち得ている所以でもあるのだが…。

 こうして雪がしんしんと降る中を、撤退の行軍が進む。背後にはサクソン軍が迫っている。そんな道中を、何だかんだと語り合いながら親しみを増すアーサー=オーウェンとグウィネヴィア=ナイトレイ。だがグウィネヴィア=ナイトレイは、アーサー=オーウェンの痛いところを突いてくる。私はこの自分の国を守りたい、ここはあなたの国でもあるんじゃないの?…ブリトン人とローマ人のハーフであるアーサー=オーウェン。いまやローマ人としての理想もあの貴族の振るまいを見て崩れ去りつつあるだけに、そんな彼女の言葉に何と答えていいか分からない。

 そんなある夜、野営地から歩み去っていくグウィネヴィア=ナイトレイをつけていったアーサー=オーウェンの前に、何とウォードの指導者・魔術師のマーリン=ディレインが現れるではないか。

 これは罠だったのか!

 確かにグウィネヴィア=ナイトレイはアーサー=オーウェンがついてくる事を承知の上の行動だった。今、周囲には味方は誰もいない。彼を討とうとすれば、いくらだって出来る状況だ。

 ところが魔術師マーリン=ディレインは、意外な事を言いだした。「手を組もう、アーサーよ」

 魔術師マーリン=ディレインの言いたい事はこうだ。このブリテンの地にサクソンの侵略の手が迫っている。彼らに占領されたら、後は草木も生えない状態になる。これを防ぐためには、お互いの力を合わせるしかないではないか。…マーリン=ディレインは、戦略家としてのアーサー=オーウェンの力を高く買っていたのだ。

 だが、そうは言われても…アーサー=オーウェンとて「ハイ、そうですか」と言う訳にはいかない。なぜなら彼は幼少の時に、母親をウォードたちに殺されたという苦い思い出があるから。襲ってきたウォードたちに母親が殺されたその時、幼いアーサーは父の墓標代わりに地面に刺してあった名剣エクスカリバーを、初めてその手に取った。それから「騎士」としてのアーサー=オーウェンの人生が始まったのだ…。

 魔術師マーリン=ディレインの申し出に即答を避けたアーサー=オーウェンは、みんなのいる野営地に戻ってきた。すると、あのローマ貴族がアーサー=オーウェンたちを従わせようとして、卑怯にも異教徒の少年を人質にとって反旗を翻したではないか。まぁ、そこはそれ。所詮は付け焼き刃の貴族風情。アッという間に倒されて鎮圧出来たものの、これでアーサー=オーウェンたちはローマに反抗したも同然。少なくともアーサー=オーウェンの中では、何かがプチッと切れた音がした

 さて南を目指して逃げるアーサーたち一行は、いよいよ最大の難関に差し掛かった。

 それは凍った湖だ。

 この湖の水面に張った氷の上を進むのが、ローマ軍の城壁への最短のコース。だが周囲に自らを守るものの何もない、あまりに無防備な場所でもある。おまけに大人数が踏みしめるには、湖に張った氷はあまりに頼りない。今こうして歩いている間も、足下ではギシギシと不気味な音がしているのだ。

 それでも急いで逃げようというならば、ここを通らずにはいられない。しかもすぐ後方からは、明らかにサクソン軍と思われる軍勢の物音がしてくる

 ここでアーサー=オーウェンと「円卓の騎士」たちは、思わずお互いの目を見合わせた。

 「例のやつ、いきますか?」「いっちゃいますか?」

 …じゃなかった(笑)。これは「ロード・オブ・ザ・リング」の感想文ではなかった。「例のやつ」なんて言われても読んでる人は分かるまい(笑)。

 アーサー=オーウェンも、ランスロット=グリフィズも、そして他の円卓の騎士たちも…みんなすでに逃げるのには疲れていた。どうせやられるなら、相手に向き合ってやりたい。ここで彼ら騎士たちは、逃げる一行を先に行かせて、自分たちは氷上で敵をくい止める道を選んだ。そして、そこにグウィネヴィア=ナイトレイも…。うら若い娘グウィネヴィア=ナイトレイがとどまると聞いて、ランスロット=グリフィズは皮肉っぽく言う。「大丈夫なのか、お嬢さん?」

 だがグウィネヴィア=ナイトレイはそんなタマではなかった。彼女は弓を構えると、ランスロット=グリフィズに向かってこう言い放った。

 「私が守ってあげるわよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジェリー・ブラッカイマー映画の新展開

 この作品って誰がどう見たって、この夏に「あの」ジェリー・ブラッカイマーが贈る超大作…というのが最大の売りだと思う。そしてブラッカイマーと来れば、ハリウッド的な大味大作の作り手として名高い。実はそれってたぶん「トップガン」(1986)あたりに始まって「アルマゲドン」(1998)にとどめを指す、一連の大作路線で定着したイメージだろう。それらがブラッカイマー作品を代表する作品だと言っても、確かにまったく間違いではない。

 ただ実はブラッカイマーというプロデューサーの豊富な作品群を、それだけで片付けるのはいささか乱暴だという気がする。その作品の中には「フラッシュダンス」(1983)やら最近では「コヨーテ・アグリー」(2000)に受け継がれた音楽がらみの青春小品ものもあり、決して常に大作志向というわけではない。結構本気に冒険アクションを志向した「ザ・ロック」(1996)、「コン・エアー」(1997)、社会派サスペンスをめざした「クリムゾン・タイド」(1995)…などは、ブラッカイマー映画をバカにする映画ファンでも結構楽しめるんじゃないか?

 さらにここに「ブラックホーク・ダウン」(2001)、「ヴェロニカ・ゲリン」(2003)などという硬派の作品群を交えると、この人の意外な顔が透けて見えてくる。おそらくは問題意識を持ってつくってる訳じゃサラサラないだろうが、ご本人は決して「大味」専門店に徹してるつもりはないようだ

 それよりも、「あれもやりたい」「これもやりたい」というヨロズ屋的発想があるんじゃないか。戦争映画もやればSFもやる、青春映画もやれば海賊映画もやる…という「節操のなさ」は、そんな気持ちから生まれてきているように思う。それも往年のハリウッドが持っていたジャンルの豊かさ。ブラッカイマー流社会派サスペンスも問題作も、おそらく彼の中では往年のハリウッドにおけるスタンリー・クレイマー作品やオットー・プレミンジャー作品と同じような位置付けにあるんじゃないだろうか。

 そういう意味ではブラッカイマーという人、もう一人のアメリカ映画トップ・プロデューサーであるジョエル・シルバーが、極端にアクション映画に特化して作品を発表しているのとは対照的な位置付けにある。一言で言えば、彼だけで頑張って「一人ハリウッド」をやってのけたいように思えるのだ。

 ただしブラッカイマーは、このシルバーと意外な共通点を持ってもいる。それは黒人俳優の積極的起用だ。

 「ビバリーヒルズ・コップ」(1984)、「ビバリーヒルズ・コップ2」(1987)でのエディ・マーフィーに始まって、「バッドボーイズ」(1995)、「バッドボーイズ2バッド」(2003)のウィル・スミスとマーティン・ローレンス。ウィル・スミスとは「エネミー・オブ・アメリカ」(1998)でも組んでいる。さらには「クリムゾン・タイド」と「タイタンズを忘れない」(2000)のデンゼル・ワシントン、「9デイズ」(2002)のクリス・ロックまで含めれば、いかにブラッカイマーが娯楽大作の主役級に黒人俳優を起用しているかが分かる。確かに映画観客の中でも多くを占める黒人観客をつかめば、興行上は有利に働くだろう。そういう面も計算はしているだろうが、彼の場合はそれとはまた違った意識が見え隠れする。

 それはこと黒人俳優起用以外にも言えるのだが、ある意味でバランス感覚に長けている印象があるのだ。先に挙げたような、あらゆるジャンルの娯楽作に挑戦したい…という姿勢にもそれが見える。そんな彼なら、こう考えてもおかしくはない。アメリカ社会にはこれだけアフリカ系の人々がいるのに、それらが娯楽映画のヒーローにならないのはおかしいだろう…。バランス的にヘンだ。

 「有色人種の俳優にチャンスを」…ってな使命感に燃えているとはとても思えないブラッカイマー。だが彼の持つ独特なバランス感覚が、彼にこうしたキャスティングをさせている…と思えるのだ。

 しかもさらに面白いのは、大味で資本主義の権化のようなブラッカイマーが、なぜかひどく玄人受けする役者を好んで使いたがること。「アルマゲドン」でのビリー・ボブ・ソーントン、スティーブ・ブシェミはともかく、ウド・キアーまで起用に及んだのには驚いた人も少なくないだろう。「コン・エアー」のジョン・マルコビッチ、スティーブ・ブシェミ、「ザ・ロック」のエド・ハリス…。さらには「60セカンズ」(2000)あたりになると、刑事にデルロイ・リンドーはありがちな配役と言えるが、主人公のボンクラ弟にジョバンニ・リビーシとかキレた悪役にクリストファー・エクルストンとか…ミニシアターででもお目にかかりそうな、やたら「通好み」のキャスティングを惜しげもなく行っている。それでいて出来上がった作品は、アッパレなほどのスコーンと抜けたパッパラ娯楽路線。このあたりには、実は彼が思い描く映画と、実際に出来上がる映画のギャップがかい間見えるようでかなり興味深い(笑)。

 ブラッカイマーの特徴はもう一つあって、それは気に入った役者を何度も使いたがること。ウィル・スミス、デンゼル・ワシントンなど黒人俳優を筆頭に、「アルマゲドン」「コン・エアー」のスティーブ・ブシェミ、「アルマゲドン」「パール・ハーバー」(2001)のベン・アフレック、「クリムゾン・タイド」「エネミー・オブ・アメリカ」のジーン・ハックマン、「パール・ハーバー」「ブラックホーク・ダウン」のジョシュ・ハートネット、「ブラックホーク・ダウン」「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003)のオーランド・ブルーム…中でも大のお気に入りがニコラス・ケイジで、「ザ・ロック」「コン・エアー」「60セカンズ」と、何と三度に渡って主役に起用しているのだ。考えてみれば、クセ者のニコラス・ケイジを娯楽アクション映画のヒーローに起用しようなんて、ブラッカイマーぐらいしか思いつかないんじゃないか?

 そんな、まるで面白がって個人の趣味でやっているような、よく分からないキャスティングの数々(笑)。大量動員映画にありがちな、冷徹なマーケティングがなされているとは到底思えない。そこから言っても、この人のつくる「大味映画」ほど一般に言われる大味大作と異なる映画もないのだ

 だからと言って、僕は別にブラッカイマー映画を擁護するつもりはない。あれらの作品の多くが大味ではないと弁護するつもりもない。大味なものは大味だし、陳腐なものは陳腐だ。

 だが、ここで一つだけ留意しなくてはならない事がある。不思議な事にブラッカイマーは、決して絵に描いたようなワンパターンSFアクションなどは連発していない(「アルマゲドン」は厳密にはSFでもないだろう)。ありふれたファンタジー大作は発表していない。凡庸なホラー映画もつくっていない。イマドキのハリウッドがサマー・シーズンあたりに判で押したように製作する、「いかにも」なジャンルの作品は一切つくろうとしていないのだ。こんなご時世に海賊映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」をつくるって発想は、無謀以外の何者でもないだろう。ブラッカイマー批判者は、なぜか肝心なその部分を見逃している。

 そんな近年のブラッカイマーには、「シリアス・ドラマ」への傾斜がいたく顕著だ。ビッグ・プロデューサーとして認められた以上、今度はシリアスな作品を放ちたくなる気持ちは分かる。それゆえ「タイタンズを忘れない」「ブラックホーク・ダウン」「ヴェロニカ・ゲリン」と、ブラッカイマー作品もシリアス映画への傾斜を深めていく。大きくハズしてしまったものの、あの「パール・ハーバー」でさえこの流れの一端にあると思うのが自然だろう。そんなシリアス路線を、どうも彼はエピック大作として結実させたいと思っているらしいのだ。

 さらに「パイレーツ・オブ・カリビアン」で試みた海賊映画の復権は、彼本来が持つ「古き良き時代の豊かなハリウッド映画」への回帰の延長線上である事は間違いない。

 ならばブラッカイマーが新作を企画した時、こう考えたとしてもおかしくはないだろう。

 シリアスな歴史劇でエピック大作の決定版をつくりたい。それは誰もが知っている話であるべきだ。さらには今は失われたハリウッド歴史劇のニオイを放ち、分けても面白いアクション映画のイメージがあればさらにいい。

 時あたかも「ロード・オブ・ザ・リング」三部作で、騎士や剣戟が注目を浴びていた。「トロイ」が製作中であることも追い風になっていただろう。

 ならばオレは西洋のチャンバラの権化、元祖を映画にするべきだ。…アーサー王と円卓の騎士の物語を!

 

僕が見たアーサー王伝説を巡る映画たち

 ところで、本来なら夏休み興業の本命の一本、それも娯楽大作とくればこの人…のジェリー・ブラッカイマー製作というお墨付きがありながら、「キング・アーサー」がイマイチ盛り上がっていない理由ってのはなぜだろう?

 それは、実にハッキリしている。

 その理由は大きく分けて2つで、まず1つは知られた大物スターが起用されてないこと。日本でもパッと面が割れている主演者って、何と新人に近いキーラ・ナイトレイぐらいのものじゃないだろうか。ここでのナイトレイ出演はブラッカイマーお得意のご贔屓スター連続起用の法則と合致するところだが、それはまた別の話。で、盛り上がらない理由の2つ目は、何と言ってもアーサー王伝説ってのが日本であまり馴染みがないって事もあるんだろうね。

 アーサー王と言えば向こうじゃ問答無用、「ご存知」って感じがあるんだろうが、こちらじゃ「そんなのあったっけかな?」程度の印象しかない。だから、そこからして日本の夏休み興業には難しさもあったはずなんだよね。

 いやいや。ついつい先に「日本であまり馴染みがない」などと人ごとみたいに言ったけど、実はこの僕ですらあまりよくは知らない。アーサー王という伝説の人物がいる…という事ぐらいしか分からないのだ。ただし西欧の小説やら映画を見ていくと、この名前には頻繁にお目にかかるよね。僕も知らないながらも西欧の映画に触れていくうちに、少なからずアーサー王がらみの作品に何度かブチ当たったわけ。

 その一番最初で一番代表的なものと言うべきは、やはりあの「エクスカリバー」(1981)だろうか。当時、興業的失敗作が続いていささか低迷していたジョン・ブアマンが、見事に復活の狼煙を上げた一作。そのパワフルさ、イメージの鮮烈さに圧倒されただけで見た当時は終わっていたけれど、今考えるとそこにはアーサー王伝説のすべてが要領よく収まっていたんだよね。アーサー王の生い立ちに関する由来、岩に突き刺さったままの聖剣エクスカリバーを引き抜いた事で王位継承者と認められた幼少の頃、アーサー王が英国を統一して理想郷キャメロットを建設したこと、円卓の騎士たちとの固い絆、魔法使いマーリンとの関わり、そして何より王妃グウィネヴィアと騎士ランスロットとの不義に悩むアーサー、そして王国再建のために円卓の騎士たちが「聖杯」を探しに旅立つ…。こう見ていけばお分かりの通り、アーサー王伝説が幾多のファンタジー小説や映画の原型になったらしいことが、この「エクスカリバー」のあらすじを追っていくだけでも察せられることと思う。そういう意味では、僕も入門編として一番いい映画に遭遇したことになる。

 当時のパンフレットなどを見てみると、どうも当初は予算のかかりすぎで敬遠されていたらしいが、「スター・ウォーズ」の大ヒットによって企画が急浮上したと言う。なるほど、確かにアーサー王伝説は「ロード・オブ・ザ・リング」(=「指輪物語」)などの元ネタでもあるだろうし、その末っ子の方には「スター・ウォーズ」だってあるだろう。

 しかもジョン・ブアマンは元々奔放なイメージとパワフル演出で知られた人だから、血のしたたるような分厚いビフテキとかタレがタップリとかかったウナギの蒲焼きを山盛りで食わされたみたい(笑)。すごいボリュームとパワーみなぎる映画で、とにかく満腹感はあったんだよね。主演者はアーサー王がナイジェル・テリー、グウィネヴィアはシェリー・ルンギ…と、当時も今もあまり知られていない人たちばかり。多少知られたニコール・ウィリアムスンとかヘレン・ミレンなどは脇を固めるという地味と言えば地味な布陣。でも、スターはあくまで物語(…と監督ブアマン自身)だから、これでいいのだ。

 なお今回、この原稿を書くために昔のパンフを見てみたら、何と脇で売れてない頃のガブリエル・バーン、リーアム・ニーソンなんて連中が出ていたから驚いた。

 で、すでにこの時にはアーサー王って中世のお話ではないって分かってたし、そもそも実在したかどうかも怪しいとされていた。その起源はかなり古代に遡り、ほとんど神話・伝説の類のものだと広く知られ始めていた。

 だからブアマンはこの映画を歴史劇としてでなく、ほとんどファンタジーとしてつくってるんだよね。元々そういう要素はあったけど、映画を見るとまるで地球上の話に思えない。「中つ国」とかそういう異世界での話のように思えるのがミソだ。そこでは原始と中世的な要素、剣と魔法が混ざった不思議な世界が展開している…。魔法使いマーリンの扱いも、思いっきり神秘的かつ超自然的だ。ブアマンって「未来惑星ザルドス」(1974)とかの異色SFも撮っているだけに、ここでもそんな現実とかけ離れた世界を創造しているんだよね。ま、「スター・ウォーズ」ほど無邪気で健全ではないが、当時何かに例えるとしたらあの作品が一番近かったんだろう。だから映画全編に渡って、そんな妖しげなファンタジー気分が濃厚だ(今だったら間違いなく「ロード・オブ・ザ・リング」が引き合いに出されるだろう)。

 もう一つ興味深いのは、この作品に明らかに黒澤明…それも「影武者」(1980)の影響が色濃く出ていることだ。

 考えてみると、中世もの・それ以外を問わず、すでにこの時代で剣戟映画の伝統は長く途絶えていたはず。僕の知る限りでも、1970年代から1980年前後にかけてはリチャード・レスターの「ロビンとマリアン」(1976)があったぐらいかなぁ。だから映画でアーサー王や円卓の騎士たちの精神を描くために、改めて何かよすがにするモノが欲しかった…という事はあったような気もする。それが日本のサムライ映画だと言うのは何とも不思議な気もするが…。

 だが、それより何よりこの作品の直前には、黒澤久々の大作「影武者」が発表されたばかり。黒澤の時代劇は「赤ひげ」(1965)以来。鎧武者たちが暴れる戦国絵巻的なスペクタクル映画は、何と「蜘蛛巣城」(1957)以来だ。しかも、これは黒澤が初めてカラーで撮った時代劇。「影武者」が当時の世界の黒澤フリークに放った衝撃の大きさは、現在の想像を絶したものだったかもしれない。

 だから元々溢れ返るイメージの奔流で映画をつくるブアマンは、これでもか…とばかり作中で「影武者」風カットを連発するんだよね。何だか微笑ましくなっちゃうほど。ま、考えてみればブアマンが「太平洋の地獄」(1968)で三船敏郎を起用したのも、元から黒澤ファンだったからかもしれない。

 そしてこれ以降、西洋・アジアを問わず世界中の剣戟映画、合戦映画、チャンバラ映画に、必ずと言っていいほど黒澤映画の残像がチラつくようになったわけだが、それはまた別の話だ。

 さて、次に僕が見た“アーサー王映画”は…と言えば、「ゴースト/ニューヨークの幻」(1990)を大いに当てたジェリー・ザッカーが撮った「トゥルーナイト」(1995)。こちらはショーン・コネリーのアーサー王、リチャード・ギアのランスロット、ジュリア・オーモンドのグウィネヴィアと大スターがズラリ。「ゴースト」のザッカーが撮る事やセクシー・スターのギアがランスロットを演じる事からしてミエミエなように、こちらは思いっきりグウィネヴィアとランスロットの道ならぬ恋に焦点を置いた物語。そこに、アーサーに反旗を翻して円卓の騎士から離脱した男が絡んできて…という展開だ。

 さらに下ってきて僕が見たアーサー王映画を探していくと、長編アニメーション映画「キャメロット」(1998)がある。これは1967年の有名な同名映画「キャメロット」とは別物。余談ながらこの1967年版「キャメロット」について触れておくと、こちらはブロードウェイのヒット・ミュージカルの映画化。ジョシュア・ローガンの監督で、リチャード・ハリスのアーサー、ヴァネッサ・レッドグレーブのグウィネヴィア、フランコ・ネロのランスロットという布陣。当然のごとく、これまたグウィネヴィアとランスロットの不倫に焦点を合わせたものだ。

 僕が見た長編アニメーションの「キャメロット」(邦題はキャメロットだが、原題は"The Magic Sword - Quest for Camelot")に関して言うと、これは「美女と野獣」(1991)等のディズニー・アニメの大成功に刺激を受け、20世紀フォックスの「アナスタシア」(1997)などメジャー各社が長編アニメづくりに血道をあげていた頃の一本。こちらはワーナー・ブラザース製作の作品だ。

 アニメ作品だからご家族向けということもあって、さすがにグウィネヴィアとランスロットの関係は登場しない。アーサー王が奪われた聖剣エクスカリバーを巡って、一人の女の子の自立・旅立ちの物語になっていく(いわゆるディズニー・アニメの基本で、NHK朝の連続テレビ小説と同じワンパターンだ)。またしても反乱を起こした元・円卓の騎士の一人が悪役となっている。

 セリーヌ・ディオンら歌のキャストを交えてミュージカル仕立てにしてあるあたりもディズニー流。声優にスターを配しているのもお約束で、ここでのアーサー王の声は007役者ピアース・ブロスナン。悪の騎士はこれまたお約束のゲイリー・オールドマンだから嬉しい。この映画はいわゆる声優と歌のキャストが分かれていて、例えばブロスナン=アーサーだったらジャーニーのリード・ヴォーカリスト、スティーブ・ペリーが歌っているという豪華版なんだけど、オールドマンの役だけは歌までオールドマンがやってるんだよね。そして歌まで何とも憎々しげにキレまくって歌ってる(笑)。オールドマンはこの時、やっと自分の子供に出演作を見せられる…とコメントしていたけど、これじゃあんまり変わらないんじゃないだろうか(笑)。

 実は直接アーサー王がらみの映画というと、僕がこれまで見てきたのはこんなところ。あとはちょっとだけ聖杯に絡んだ話として、「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」(1989)、テリー・ギリアム監督の「フィッシャー・キング」(1991)があるくらいだろうか。

 ともかくアーサー王がいかに花も実もある英雄であるか…ということは、今まで挙げた作品だけでもリチャード・ハリス、ショーン・コネリー、ピアース・ブロスナン(声のみだが)という錚々たる面々が演じてきたという事で、何となくお分かりいただけるのではないだろうか。そして映画として考えた場合のアーサー王物語は、王を囲んだ円卓の騎士との絆が中心にあるのはもちろんだが、エクスカリバーにまつわる王位継承と、王妃グウィネヴィアとランスロットの禁断の恋、さらには聖杯追求…と、まぁこのあたりが主なポイントになることは間違いないだろう。

 では、映画におけるアーサー王の物語を一応おさらいをした上で、今回の「キング・アーサー」は果たしてどうか?

 

見た後での感想

 映画が始まっていきなり、冒頭に文章が出てくる。「アーサー王伝説は実際には15世紀の話ではなくて」…云々。な〜るほど、これも「エクスカリバー」みたいないつの時代、どこの場所…という概念を超えた物語にしているのか…。そんな事を思いながら見ていくと、冒頭文は逆にますます詳細を極めていく。「当時、ローマ帝国は…」とか何とか、何と今まで考えてみたこともない(というほど西洋史に詳しくはないが)アーサー王とローマ帝国の関わりが描かれると言うではないか。

 えええっ…?

 いかなる裏づけがあるか知らないが、こりゃいわゆる剣と魔法の話でも騎士道精神の話でもないようだ…さすがに血の巡りの悪い僕でも、それくらいの事は何となく察せられる。つまりは「新解釈」のアーサー王物語だ。

 だから時代もぐっと昔に設定。当時ヨーロッパを席巻していたローマ帝国が絡み、その時代だったら「かくあるべき」アーサー王のお話になっている。アーサーがローマ人とブリトン人の混血というのも初耳だ。だが、これも当時が本当にアーサーの活躍していた時代なら、こうであるのが自然だろうという解釈に違いない。こんな解釈がどうの…なんて話は退屈だろうが、結構この映画の特異な部分なので、しばらくお付き合いいただきたい。

 だからこの映画では、魔法的なもの、超自然的現象がまったく登場しない。エクスカリバーは「聖剣」でも何でもない。何しろ劇中で少年時代のアーサーがエクスカリバーを初めて手にする場面は、わずかに回想シーンにチラッと登場するだけ。それも父親の墓標代わりに地面に突き立てられたエクスカリバーを、少年アーサーがサッと引っこ抜くだけの描写だ。全然神秘的でもなければ、剣を引っこ抜いたから王位継承…という話でもない。

 さらに魔術師マーリンは、単に蛮族ブリトン人の長老でしかない。霊験あらたかでも何でもない。要は未開の部族などによくいるような、「魔術師」を名乗って祈りを捧げる指導者的存在でしかない。おまけに王妃となるグウィネヴィアも、しとやかな女性と言うよりは蛮族の勇猛果敢な女戦士。つまり、どこまでもリアル。これぞアーサー王の真相だ…とでも言うべき内容なのだ。

 グウィネヴィアとランスロットの不倫も、後の世に付け足されたエピソードだからここには出てこない。聖杯についても後の話だから出てこない。そういう意味ではアーサー王物語に特徴的な要素がことごとく出てこない、「実録」アーサー王映画とでも言うべきものになっている。そこが新味と言えば新味だ。

 もっとも、元々のアーサー王伝説にはグウィネヴィアもいなければランスロットもいないはず。そもそも、おそらく円卓の騎士だって後の世に付け足されたものだろう。それを言ったら、この「実録」アーサー王物語にそんな連中が出てくるのもどうかと思うが、そこはそれ…何から何までなくしたらお話が味気なくなる。面白くも何ともなくなってしまうだろう。そこで、ランスロットがなぜかチラチラとグウィネヴィアを意識して妖しげな雰囲気を漂わせつつ、結局は不倫は未遂のまま…ちょっとビックリの結末へと導かれていくのだ。こうなると中途半端に元のアーサー王物語の要素をチラつかせているのも良し悪しではあるが…。

 ともかくこれは娯楽映画でもあるし、そこはお約束もある。最低限アーサー王ものの輪郭だけは残して、出来るだけ不自然なものを取り払って5世紀のイギリスに持ってきた…と言うのが本当のところだろう。だから、これは正統派アーサー王もの…ではない。あくまで「実録」である。それって例えば、あの深作欣二の「仁義なき戦い」が、様式的で美学にこだわる従来の東映任侠映画路線の作品ではなく、あくまでナマナマしさを売り物にするリアルな「実録」作品であるのと同様だ(笑)。

 そういう意味では元々がアーサー王伝説が身にしみこんでいる訳でもない、我々日本人の方がこの映画は素直に楽しめるかもしれないね

 で、西洋合戦もの、剣劇ものと思って見てみれば、この映画もそれなりに面白い。

 監督はアントワン・フークワ。それまでのフィルモグラフィーを見ると、「リプレイスメント・キラー」に「トレーニングデイ」と、まったくその志向が分からない。だが今回の出来栄えを見ると、これだけの大作をとにかく破綻なく見せることには何とか成功しているようだ。アクション場面もあの手この手で飽きさせない。湖の氷上での戦いなども面白みがあっていい。最後の決戦はいささか何がどうなっちゃってるのか位置関係が分かりにくくはあるが、それでも何とか戦況は察せられる。決してつまらなくはないよ。

 しかも面白いのは、またしても充満する黒澤時代劇の影響だ。

 「七人の侍」「影武者」「乱」…あたりだろうか、やっぱりイマドキ剣の戦いを描くと、どうしても黒澤テイストが漂ってきちゃうみたいなんだよね。それだけ黒澤映画の影響は絶大なものがあるのか。またまた僕は驚いちゃったよね。

 それと同時に、久々のアーサー王映画の大作としてつくられたこの映画では、おそらくあの「エクスカリバー」が大いに意識されたはず。かなりアプローチは異なるものの、近年での「決定版」として揺ぎない位置を占めている「エクスカリバー」は、やっぱり何らかのお手本にはなっているのだろう。その「エクスカリバー」が黒澤時代劇をパクっていた事を、今回も継承したというのは大いにありえると思う。

 ただ、アーサー王を演じたクライブ・オーウェンにしても、ランスロットを演じるヨアン・グリフィズにしても、致命的なまでに華がないと言うのがツライ。確かに「エクスカリバー」の時も新人や無名俳優だったけど、今回はなまじ「実録」なだけに、何とも殺伐としてくるんだよね。だって、何と言っても理想的指導者であるアーサーがあんなに地味じゃ、カリスマが感じられないよね。まして本来ならグウィネヴィアと艶っぽい絡みもあるランスロットがあんなに色気ゼロじゃ、ちょっと寂しいじゃないか。リチャード・ギアやフランコ・ネロがやった役だよ。まぁ、今回の映画では二人の不倫は封じ込まれたから、これでいいんだろうが…。

 もっとも逆に「実録」であるが故に、華のある高倉健や鶴田浩二ではない…殺伐とした菅原文太やら松方弘樹が選ばれたと言えるかもしれない(笑)。そう考えると、今回のブラッカイマーは極めて「東映」的な判断をくだしたのかね(笑)。

 結果的に一番華やかなのがキーラ・ナイトレイというのも寂しいが、ジェリー・ブラッカイマーとしてはこれはこれでよかったのかも。結局は売り出し中の彼女を、思いっきり目立たせたかったというところかね? たぶんブラッカイマー、本気で彼女を気に入ってると思うよ。もう食べちゃってるかも(笑)。

 

見た後の付け足し

 この映画をずっと見ていくうちに、最近すごく似たような映画を見たな…という気持ちになってくる。

 ローマ帝国の治世の物語。ローマ人とブリトン人の混血で、ローマから派遣されその命令に従う側でありながら、ローマからはヨソ者の円卓の騎士たちと心通わせる…そんな皮肉な運命に引き裂かれる男アーサーが主人公。こうした葛藤がアーサーを、権力に対する反骨の行動に駆り立てる。最後は無謀とも言える戦いに、あえて心意気だけで臨んでいく。そんな男アーサーを彩るのは、ジェリー・ブラッカイマー大作に欠かせないハンス・ジマーの悲壮感漂う音楽…。

 これって、どこか「グラディエーター」(2000)を思い出させないか?

 と思っていたら、案の定。この映画って「グラディエーター」も書いてるデビッド・フランゾーニの脚本なんだよね。なるほどねぇ。何となくアーサー王だろうと何だろうと、ともかくローマ帝国時代に持って行きたがりそう(笑)。

 ところでこのアーサーがローマ帝国から無理難題突きつけられ、敵の真っ只中にローマ貴族を救出に行かねばならぬくだりには、何とも言えない現実との符号が出てくるから、笑っていいやら困るやら。

 アーサーは混血とは言えローマの理想を信じているから、ローマ本国では人々が社会の理想やら自由を一生懸命考えていると思っている。ところがローマの言ってくることは勝手放題。おまけに救出に行ったローマ貴族と来たら、地元の貧しい人々を搾取して豊かな暮らしをするような腐敗を絵に描いたような輩。さらには異教徒と言うだけで拷問も辞さないトンでもない男。こんな男を救うために命を賭けたのか…と、さすがのアーサーも円卓の騎士たちにブーたれられる前に疑問を抱かざるを得ない。そんなアーサーの座右の銘はこんな言葉…「ちゃんとした目的がなければ、戦いなど意味がない」

 何だかこれ見ていて、昨今のアメリカ「帝国」の振る舞いを思い出さない人はいないんじゃないか?

 僕は何でもそういった社会風刺的にとらえようとは思っていないし、例えどうあれ底が浅い政治的ステートメントなら関わりたくない。その主張が正しかろうが同意しようが、安い大衆煽動型の政治風刺など、あまり映画に入れて欲しくはない。それで何か「良いこと」でもやっているような、そんなフリなどして欲しくないのだ。

 だから、これを見て「ブッシュくたばれ!」と溜飲が下げられるほど幼稚でもない。ブッシュ政権もアメリカの外交政策も気に入らないが、そんな単細胞的なコメントには迎合したくない。まして娯楽映画で下手クソに、あるいは中途半端なカタチでそれをやられるのは真っ平ゴメン。それこそ野暮と言うものだろう。そんな要素を入れる前に、ちゃんと面白い映画をつくれと言いたい。

 だが、それにしたって…この映画を見ていると、本当に今のアメリカを連想せざるを得ないのだ。何せ劇中では、異教徒に対するキリスト教の暴挙…が、これでもかと描かれてるもんねぇ。おまけに正義のためと出かけて行ったら、まるで「大義のない戦い」だ。ここまで言っちゃうってアメリカ映画じゃ珍しいんじゃないか?

 そういや脚本家のフランゾーニは、確かにそんな意味を込めたようなコメントを言っているようだ。だが、これを製作したブラッカイマーや監督のフークワあたりには、そんな気持ちはサラサラないだろう。まして配給したタッチストーン・ピクチャーズになんか、そんな気持ちがあるわけはない。タッチストーンって元々ディズニーだし、ディズニーとくればマイケル・ムーアの「華氏911」を葬ろうとしたくらいの会社だからね(笑)。

 なのに、劇中に目一杯漂う反米的空気

 これってたぶん、こういう事じゃないだろうか。反骨の主人公がみんなを虐げる圧倒的な悪役に反抗する…そんなごく普遍的な話を語ろうとしても、今のご時世ではどうやったって悪がアメリカに見えてしまう(笑)。ディズニーがやろうと誰がやろうと、語る側に自覚があろうとなかろうと、それは避けがたくついて回ってしまう。見る側にはどうしたってそういう姿に見えてしまう。

 それって今のアメリカが、本当に文句の付けようがない「悪」になり下がっちゃったからじゃないか?

 としたら、イマドキのアメリカが置かれた状況って、思ってたよりも重症かもしれないよね。そして本当にもうヤバイのかもしれない。

 結局はローマ帝国も滅亡したみたいに…。

 

 

 

 

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