「ウォルター少年と、夏の休日」

  Secondhand Lions

 (2004/08/02)


  

見る前の予想

 少年が夏休みにある老人二人と出会い、その中で成長を遂げていくお話。その少年は何しろ健気さが売り物の「セックス・センス」の天才子役ハーレイ・ジョエル・オスメント

 もう、どう見たって見る前から想像はつく。感動作だ。ご家族連れで見に行っても間違いなしの作品。健全を絵に描いたような作品。見に行けば自分も何某かの感銘を受けるのかもしれないが、さして自分から見に行きたい欲求に駆られない作品

 ところがこの映画には、ちょっとだけそこからハミ出してるように見える要素がある。そこがどうしても気になったんだよね。ひょっとして、この映画はそんな予想通りの作品とはいささか違うのではないか。そんな胸騒ぎがする。

 その要素…それは、老人にという名優ながらクセ者の男性スターを配していることだ。

 その二人…それはロバート・デュバルとマイケル・ケインである…。

 

あらすじ

 ある一人のマンガ家の男の元に、一本の電話が入る。それは彼の遠縁にあたる二人の老人兄弟が亡くなったという知らせだった。何でも小型飛行機に乗って事故にあったと言う。マンガ家には、それがいかにも二人には似つかわしい最後に思えた…。

 彼があの二人の老人と出会ったのは、今から何十年も前の夏だった。

 その夏、まだ14歳の少年だった彼…ハーレイ・ジョエル・オスメントは、母親キーラ・セジウィックの運転するクルマで、遠縁の老人二人の家に連れて行かれるところだった。その老人二人は、長く行方不明だったのがいつの頃からかフラリと戻ってきて、それ以来ど田舎の家に隠遁生活を続けているという風変わりな兄弟。ウワサによると巨額の富を隠し持っているとの事だが、定かではない。何か曰くありそうな怪しい人物だとも言われているが、それもまんざらない話ではあるまい。

 母親のセジウィックは遠く離れた速記学校に入学するために、オスメントをこの二人に預けねばならないと言う。だが、それが本当かどうかも怪しい。今までも何だかんだと人生ウソで固めっぱなしの、身持ちの悪い母親だったのだ。そんなこんなで自分を置いてどこかへ行こうとしている母親、さらにこれから一緒に暮らさねばならない二人の老いた変人兄弟…それやこれやを考えると、ウンザリすることには幼い頃から慣れっこのオスメントもさすがに憂鬱にならざるを得ない。

 おまけに人里離れた原っぱを進んでいくと、道ばたに「危険」だとか「放射性物質」だとか「引き返せ」だとか物騒な看板が立っている。もちろんハッタリであることはもちろんだろうが、これから訪ねる家の主の意志はハッキリしている。まして母親セジウィックは、オスメントを預けることなど二人に相談していまい。どう考えたって自分は歓迎される訳がない。

 家に着いてみると、二人は近くの池で釣りをしていた。いや、正確にはショットガンをぶっ放して魚を撃っていた。そのあたりからして、二人の人となりが彷彿とされるではないか。そんな二人…兄のロバート・デュバルと弟のマイケル・ケインは、最初セジウィックとオスメント母子を見てキョトンとした。デュバルなどケバケバなセジウィックを見てこう言い放つほどだ。「オマエ、娼婦でも呼んだのか?」

 思わず忘れてしまうほど縁の薄い二人に、オスメントを預けるなどとはムチャな話だ。事実いきなりの話に、デュバルもケインも当惑するばかり。ガキなど置いて行かれても困ると言うばかりだ。だがセジウィックはムチャを承知で押し切って、オスメントを置いて去ってしまう。後に残されたデュバル、ケインとオスメントの間には、何とも気まずい空気が流れる。しかもこの家にはテレビも電話もない。全く逃げ場などないのだ。

 ところがオスメントは、予想に反して退屈する事だけはなかった

 それはこんな辺鄙な場所にして、異例なほどひっきりなしに来る来客のおかげ。人里離れたこの家を目指して、なぜか一日に何台かのクルマがやって来る。それは二人の持つ富を聞きつけた、ありとあらゆるセールスマンだった。

 ところが二人の方でもすでにその類の輩は慣れっこで、それに対する態度も決まっていた。二人はライフルやショットガンを持ち出すと、有無を言わさずぶっ放す。それが二人のセールスマンに対する、常に変わらぬ態度なのだ。だがいきなり発砲されちゃオスメントはかなわない。風変わりを通り越して変人の域に達している。

 そんなオスメントは、二人の古びた田舎家で屋根裏部屋を与えられた。長く使われずにいたホコリっぽい部屋にコワゴワ入っていくオスメント。ところがそこに、いかにも曰くありげなデカい旅行カバンが置いてあった。ひょっとして、ウワサの巨額の富はこの中に入っているのだろうか?

 興味を持ったオスメントがカバンを開けると…。

 そこには一面に砂のようなモノが敷き詰められていた。その下には一枚の古い写真が…それは一人の若く美しい女の写真だった。

 そんな折りもおり、真夜中にあのデュバルが寝間着で外にフラフラと出ていくではないか。その奇妙な様子に思わず後をつけていくオスメント。するとデュバルは近くの池の畔まで行き、そこでいきなり何か目に見えないモノを相手に、大立ち回りを始める。一体どうしたのか、デュバルは夢遊病者なのだろうか?

 さて、そんなぎこちない日々を送り始めたデュバル、ケインとオスメント少年だが、そこにまた招かれざる訪問者がやって来た。彼らは子ども三人に夫婦という一家で、これまた二人の老兄弟とは遠縁にあたる。この一家の夫が弁護士を勤めているからか、何とか二人のご機嫌をとって遺産をもらおうという魂胆。当然この場にオスメントがいる事は、一家にとってすこぶる面白くない。

 この遠縁の一家の夫は自分たちが歓迎されてないのも棚に上げ、老兄弟にオスメントを追い出すように進言。あるいは孤児院にぶち込めばいい…などと無茶な事を言いだした。だが、元々オスメントを歓迎していない老兄弟なら、この提案を「もっとも」と思いやもしれぬ。そう思ったオスメントは、さすがにもう黙ってはいられなかった。

 「ふざけるな!」

 怒ったオスメントは遠縁男を突き飛ばすと、ダッと家から飛び出していった。走って走って走って、どこか電話のある所へ…。

 彼が電話を見つけたのは、町はずれのガソリンスタンド。そこから遠く離れた母親セジウィックの速記学校に電話するが…やはり案の定、彼女は速記学校などには通っていなかった

 予想はしていたものの、やっぱりショックは大きい。もうどうしようもない。オスメントは日が暮れるのも構わず、ガソリンスタンドで呆然と佇んでいた。

 夜も更けて、そんな彼のもとに一台のクルマがやって来る。あの二人の老兄弟を乗せた、遠縁弁護士男のクルマだ。

 今度はさすがに老兄弟も、壊れモノを扱うようにオスメントに接する。実は今までだって、別にオスメントを嫌っていた訳ではない。ただ元々が無骨な気難し屋である上に、周りの俗物どもに関わりたくないがために、いささかつっけんどんで無愛想な態度を見せていただけだ。

 オスメントはともかく北に行く…と言い張る。北に行けばどうなるというわけではない。だが、もうここにはいられない。孤児院なんて真っ平…。そんな頑なな態度を変えないオスメントに、デュバルとケインは奇妙な提案をした。

 「あの一家に居座られると困るんだ。オマエがいてくれれば、奴らも帰ってくれるかも

 そう持ちかけられたオスメントは、「困っているのなら…」と理屈になっているかどうか分からない理屈で、何とか老兄弟の家に戻る事に同意した

 案の定、老兄弟に優遇されるオスメントに対し、素っ気ない扱いの遠縁一家は困惑気味。ところがそこに、またしてもセールスマンがやって来た。しかも、それはかつて追い払った男の再訪問だと言う。

 「挑戦者は好きだね」

 またしても銃を取り出すデュバルとケイン。だが今度はオスメントが二人を制した。

 「まずは商品を見たら? お金は使うためにあるもんだよ

 なるほど、それは確かにその通り。老兄弟は気を変えてセールルマンの持参した商品を見ることにした。するとセールスマンもさる者。最初の訪問で剣もホロロの目にあって、知恵を絞って考えて来たのだろうか。「冒険家のお二人にピッタリ」と称する品を持っていた。

 それはクレー射撃用の皿の発射装置だ。

 これにはデュバルもケインもご満悦。その場で即決で商談成立だ。これを見た遠縁一家は「くだらないモノに金を使って」と憤慨したか、老兄弟がまたぞろ銃を持ち出したのに怯えたか、這々の体で帰っていった。老兄弟とオスメントは…と言えば、逃げ出す一家の姿を見てご機嫌だ

 そんなアレコレでどんどん親しさが増すデュバル・ケイン兄弟とオスメント少年。ところがデュバルは、またぞろ夜中に池の畔に呆然と立ちつくす。そんなデュバルを見て声をかけようとしたオスメントは、ケインにいきなり呼び止められる。「彼は今、思い出の中にいるんだ。放っておいてやれ」

 デュバルの…そしてケインの思い出、それは一体どんなものなのか? そんな疑問をオスメントからぶつけられたケインは、長い長い昔話を語り始める…。

 

 昔、二人が若者だったころ、広い世界を見たいと思ったデュバルは、弟のケインを連れてヨーロッパに渡った。当時はドイツが参戦して風雲急を告げる時代。二人はそんなフランスはマルセイユにたどり着くと、ダマされて外人部隊として北アフリカに送られてしまう。そこでデュバルは超人的な活躍をした。特に弟ケインをこんな場所に連れてきてしまった…という負い目があることから、彼の命を徹底的に守った。

 戦争が終わって除隊になっても、二人は北アフリカに留まった。ケインは現地のガイドとして生計を立てたが、元々冒険好きのデュバルには平時はモノ足らない。彼は政府からの特命を帯びて、奴隷商人を撲滅する捜査官になっていた。何しろ彼のパワーは普通の男の十人や二十人ぶんはある。どんな奴隷商人や悪党も敵ではなかった。そして、そんな彼によって助けられたうちの一人が、ある姫君の侍女だった。

 彼女からデュバルの活躍ぶりを聞かされた姫君は、何としても会いたいものだ…と思い始めた。ある時、浜辺を馬で駆けていたデュバルに対して、挑戦するかのように馬で追ってくる人物が現れた。やがてその人物は、デュバルに正体を明かす。それは、彼が今まで見たこともなかったほどの美女。それは…先ほど話題にのぼっていた姫君…その名を「ジャスミン」と言う。

 

 そこまで来て、オスメントは例の写真の女が「ジャスミン」だと察した

 

 ところが彼女には、すでに決められた婚約者がいた。それは隣の国の族長だ。この男も婚約者ジャスミンを奪われたからには黙っているわけにはいかない。多額の賞金をかけて暗殺者を雇い、デュバルの命を狙わせたからたまらない。

 こんな一刻の油断もできない暮らしが、そう長く続く訳がない。こうしてデュバルは弟ケインの力を借りて反撃に出た。ケインがデュバルを捕らえたと名乗り出て賞金をもらうとともに、デュバルは捕らえられたフリをして敵の本拠で大暴れ。ついには彼を恨んで賊に襲わせていた族長に近づき、いつでも命を奪える…とばかり剣を突きつけた。だが結局、彼は族長を殺さず、ただ黙って去っていった。これに懲りたか、それとも命を奪わなかった事を恩に感じたか、族長はその後二度と命を狙っては来なかった…。

 

 ところがデュバルと「ジャスミン」とのロマンスの結末を、なぜかケインはそれ以上教えてくれようとはしなかった。あとは本人に聞け…と、突っぱねるばかりだ。

 その後もデュバル、ケインはマイペース。猛獣狩りを楽しもうと、サーカスから払い下げされたライオンを買ってみたりと気ままな思いつきを実行に移す。だが買ったライオンはすでに暴れたりする気力もない、人間に慣れきった年寄りライオン。これは狩猟には適さない…と、オスメントが世話を看てやることになった。

 ところが今度はデュバルが突然病院の世話になってしまう。その病院もすぐに無理やり退院してしまうが、さすがにデュバルも今度という今度は年齢を痛感せざるを得ない。「今のオレは、ただの役立たずになってしまった気がする

 だが、そんな帰り道に酒場で若造にからまれるや、デュバルが一人で全員をブチのめしてしまうからスゴイ。しかもデュバルは彼らを倒すだけではない。若造たちも最後にはデュバルに「真の男」についての極意を聞かされて、スッカリ大人しくなって帰っていくのだ。そんなデュバルの「男の極意」を、オスメントもいつかは聞きたいと願うのだった。

 そしてある日、オスメントは勇気を奮ってデュバルに尋ねた。もちろん「ジャスミン」との結末だ。それはある程度予想がついたとは言え、やはりオスメントにはツラい話ではあった。ジャスミンはデュバルの子どもを宿したものの、出産の時に子ども共々命を落としてしまったのだ。デュバルはその後、再び外人部隊に身を投じた。そして何十年かして、年齢的な限界でここアメリカに帰ってきたのだが…。

 今ではオスメントは、これらの冒険談を本当の事だと信じていた。彼らなら、きっとそうに違いない。だがデュバルはさりげなくこう告げるだけだ。「信じたいならば信じろ。本当かそうでないかなどという事は大したことじゃない」

 そこでデュバルはオスメントに対し、例の「男の極意」のほんの一端を披露するのだった…。

 

見た後での感想

 この映画、ともかく老名優二人がタッグを組んだところに、名子役として名高いオスメントを加えたというのが最大の見どころ。ここに異存がある人はいないと思うよね。

 で、ロバート・デュバルとマイケル・ケインが素晴らしいのは、誰でもすぐに想像がつくだろう。特にデュバルはワイルド・レンジ/最後の銃撃でも味わい深くて、派手じゃないのに目立ちまくり。その老いてなおアッパレな男っぷりは、この作品でも十分に活かされている。

 問題はオスメントで、確かに彼って最初の頃は健気さがイヤミに感じられるところがないわけじゃなかった。「シックス・センス」「ペイ・フォワード/可能の王国」あたりは、正直言って鼻に付くガキだなと思わないでもなかったんだよね。

 それがちょっと違うんじゃないかと思わせたのが、あのスピルバーグの異色編A.I.だった。

 健気は健気、だがロボットがゆえの非人間性が醸し出す、得体の知れなさも漂わせて何とも絶妙な味。このオスメントって子、ただ可愛くて健気ってだけじゃない、一種の凄みをも感じさせた一作だったんだよね。それは第二次大戦中の物語「ぼくの神さま」でも感じられた。どこか漂う異物感とでも言おうか、異質感とでも言おうか。そこが彼の余人の追随を許さないところだったわけ。

 で、今回の映画はどうかと言えば…。

 健気な少年というのは今回も同じ。だがオスメントはもういいかげん年齢が上がって、いよいよ青年に達しようとしているところ。ハッキリ言ってもう子供としてはバランスを崩していて、そろそろ可愛くなくなってきてるというのが正直なところだ。

 で、この可愛くなくなったというのがミソ。可愛くなくなってきたことで、いやが上にもオスメントのうまさが際立つ出来栄えとなってきているのだ。そして、それがデュバル、ケイン両名優と拮抗するほどであることを証明している。これは見事だ。

 で、あくまで名優二人と子役…という関係ではない、拮抗する芸達者三人の共演という作品のあり方が、実はこの映画の特異なところでもある。それは実はつくり手の思惑を超えてしまったところかもしれないのだ。まぁ、それについては後ほどゆっくり触れる事にする。

 監督のティム・マッキャンリーズは、何とあの傑作アニメーションアイアン・ジャイアントの脚本を書いた人物。そう言われてみれば、今作の時代背景(おそらく1950年代)って「アイアン〜」とも共通するところ。母一人子一人(母親の設定はだいぶ異なるが)、過去にいわくありげな「ジャイアント」=宇宙からのロボットと異国帰りの老ヒーローたち、その「ジャイアント」との関わりで成長を遂げる少年、さらに逆に少年から何かを得る「ジャイアント」…と、この両作には他にも共通する要素が多々見受けられるのが興味深い。おそらくはこの設定って、かなりマッキャンリーズにとって個人的な要素を含んでいるのではないか?

 そして「アイアン・ジャイアント」もここでの老人二人も、その持てる力が封じられ、あるいは衰えて、自分のできる役割を見失っているあたりが似ている。

 「自分の役割」ということに自覚的なことは、デュバルがしきりに「自分は役立たずになってしまった」と嘆くあたりもそうだし、老ライオンが最後の戦いで絶命した時、一同の会話の中で「ライオンは最後に自分の本分を思い出した」「ライオンとして勇敢に戦って死んだ」と何度も強調されることでも伺える。

 また、それまでどこでも居場所がなかった主人公の少年が、この老人の家に安住の場所を見つけるあたりもこれと共通する。それは逆に老人たちにとっても、少年の保護者という「役割」を与えられることになるのだ。

 これは自分の役割、居場所を見つけて、それを自らのものとする、あるいはそれを取り戻す物語…なんだよね。そして、それは先に挙げてみたように、「アイアン・ジャイアント」からずっと引っ張ってきているテーマでもある。僕がこの一見平凡なファミリー・ピクチャーを、予想外に買うのもそこだ。

 近年のアメリカ映画の中でも収穫の一つであると思っている「アイアン・ジャイアント」…そこに脈々と流れているアメリカ映画本来の良質な味わい。この「ウォルター少年と、夏の休日」という作品には、そんなイマドキすっかり珍しくなったアメリカ映画本来の味が、確実に息づいている気がするわけ。

 で、この映画ってストーリーとか構成だけ見ると、何となくティム・バートンの近作ビッグ・フィッシュにも酷似している。

 主人公は過去に何かありげな老人と若い世代の男。老人の過去が、まるで信じがたい冒険談として語られる。そして老人がその「過去」について語るコメント…「それが真実であろうとなかろうと、いいではないか」…。

 確かにこう並べてみると要素として非常に似ているのだが、実際の作品に接した印象では、両者はかなり違う

 「ビッグ・フィッシュ」はあくまで過去の冒険談がホラ話として印象づけられ、だからこそ(そこはそれ、ティム・バートンだから完璧にそうとは言いがたいが)夢のあるファミリー・ピクチャー的見方ができる。夢の力を信じよう…という「いかにも」なメッセージが発信される。

 ところがこちら「ウォルター〜」は、そんな「夢いっぱい」なイメージとは異なる。老人の過去の場面こそウソっぽいが、その後はどう見たって老人の昔話が真実だった…と思える作り方をしている。まずオスメントがそれをまったく疑っていない。だから「真実だろうとどうだろうと」なんてセリフがあるけれど、実はそれってまるで意味をなさない。だって老人が過去に冒険をしたかどうかなんて、誰も疑ってないのだから…ウソっぽい過去をイメージで見せられている観客でさえも。老人二人が過去に間違いなく大冒険を成し遂げてきたと、この映画はほとんど疑いなく受け入れている。いや、作り手はそのつもりじゃなかったかもしれない(「真実だろうとどうだろうと」なんてセリフがあること自体、「ビッグ・フィッシュ」的な発想があったように思われる)が、出来上がった映画はそう見えてしまう。これはどこかで、そんな作り手の思惑とは違ってしまった、あるいは思惑をハミ出してしまった…そんな部分があるのかもしれない。

 それは老人二人に、本来なら大ボラでしかないはずの「大冒険」を実際にやってしまいかねない、ロバート・デュバルとマイケル・ケインという男性スターを配した時点で、おのずから決まってしまったのではないかと思う。

 

見た後の付け足し

 先に「あくまで名優二人と子役…という関係ではない、拮抗する芸達者三人の共演」とこの作品を評したけれど、実はそこがこの映画の重要な点だ。見た目は天才子役オスメントを中心に据えた健全なファミリー・ピクチャーというカタチをとっているこの映画だが、実は見終わった印象はそこからいささか逸脱した印象があるんだよね

 そもそもこの三人のアンサンブルでも重要なポジションにいるロバート・デュバルという俳優が、そんなファミリー・ピクチャー・イメージから縁遠い人だ。「ゴッドファーザー」のトム・ヘイゲン、「地獄の黙示録」のキルゴア大佐…あたりを頂点に、その他にも数限りない作品歴を誇るこの名優のフィルモグラフィーは、イキが良くパンチの効いたものにしろ、枯れて味わい深いものにしろ、むしろどこかB級アクション映画の傾向を持った作品が目立つ。イギリスのマイケル・ケインも「探偵/スルース」とか「殺しのドレス」とか異色作をはさみながら、数多くのアクション映画に出演している。この二人が以前共演したのが、ジョン・スタージェス監督の戦争アクション「鷲は舞いおりた」であることは極めて象徴的だ。

 つまり、あくまで男性通俗娯楽映画がメインの二人なのだ。言わば、どちらかというと不良性感度の強い二人ということになる。とてもじゃないが、良い子とお父さんお母さんが見に行く映画の主演者とは言いかねるが、そんな男性映画のスターだった二人だからこそ、この映画の奔放にして豪快な老人が演じられた。またそんなダイナミックな二人だからこそ、心ならずも隠居の身になっている不本意が身につまされる。ここでこの男性スター二人を配したのは、ちゃんと必然性があるんだよね。少なくとも、いかにもファミリー・ピクチャー向けの俳優を置いたら、こうはなるまい。拳銃持たせるとサマになる役者たちだから、この味が出せるのだ。

 しかも、ファミリー・ピクチャーの体裁を整えるために起用されたとおぼしきオスメントですら、実はすでにそこから逸脱しかかっている事が重要になってくる。元々が一見「健気」、実は「異物感」の子役だったオスメントが、早くも子役を脱しかかって可愛くなくなっていることすら意味を持ってくるのだ。

 それはオスメントが老人二人の家に預けられてすぐ、孤児院行きの話を持ち出されて家出するくだりで顕著になる。

 これにはその前に伏線がある。遠縁の弁護士男が老人たちの家に押しかけ、そこにオスメントが世話になっているのを発見。彼の今後の扱いを聞かれた老人二人は、ついつい邪険にしているような口ぶりで追い出すような事を言ってしまう。そこはそれ、世間的にはコワモテで売ってきた二人。あれこれと財産目当てに擦り寄ってくる連中を追い払うためには、あえて偏屈老人も装わねばならなかった。だから勢いで冷たい事を言ってしまうのだが、この発言を聞いたオスメントはその場の話題が「孤児院行き」までエスカレートするのに逆上。興奮して家を飛び出してしまう。これにはさすがにマズかったと困惑してしまう老人たち…。

 夜もどっぷり暮れたガソリンスタンドに、オスメントを迎えに来た老人二人は、だから「悪かった」という気持ちでいっぱいだ。ところが彼らはそう簡単に素直に謝れはしない。世間じゃ偏屈で通っているし、コワモテで通っているし…。

 何より、二人は男だ

 男はオベンチャラ使うもんじゃない。小賢しく立ち回るもんじゃない。そもそも彼らは、子供のご機嫌とるようなチャラチャラした生き方をして来なかった。

 そういうマッチョ信仰はいかがなものかと言われても困る。男とはそういう生き物なのだ。何よりプライドと自らの流儀が大事。というか、男からそれを取ったら何もなくなる。元々、男の中味など空疎なものだ。「存在」そのもので意味を成せる女とは違う。男はそれが痛いほど分かっているのだ。分かっているからこそ、そんなハッタリで生きている。ただし、そのハッタリを中味のあるものにするため体を張る。それが男と言うもの…そうでない連中もいるし、実際みながそう生きていけているとは思わないが、少なくとも大多数の男たちはそうありたいと願っている…それが「男の流儀」なのだ

 だから彼らは決して謝りはしない。「帰っておいで」とは言わない。「一緒にいよう」とも言わない。その代わり、一見ビジネスライクな提案をする。そしてオスメントに頼むのだ。

 「あの忌々しい家族を追い出すために、家にいてくれ」

 それまでオスメントは、老人二人が迎えに来ても頑ななままだった。何を言っても「一人で北へ行く」の一点張り。何を言われても譲る様子を見せなかった。

 なぜなら、彼は男だから

 彼にだって意地がある。ああまで言われて戻る気などない。それが例えどんなにリスクのある事になろうとも、それを恐れて引き下がる訳にはいかない。それが男の流儀だからだ。

 そんなオスメントの気持ちを、老人たちも痛いほど察した。言うまでもない…三人は男だからだ

 だから老人たちは同情的な顔も見せなければ甘い言葉も言わなかった。ただし「どうしてもそうする必要がある」という前提で、彼に家に戻ることを頼んだ。オスメントは「それならば」と、あくまで老人二人の「頼み」を受け入れるかたちで家に戻った。それは「彼ら二人」の男のプライドを保つためでもあり、「彼」の男のプライドを立てるためでもあった。この時点で、彼ら三人は対等の男同士として振舞い始めるのだ

 こうしてこの映画は、過去に確固たるイメージを築いた二大男優を配したことで、ファミリー・ピクチャーと言うよりむしろ「男性映画」…「男の心意気」映画へと変貌した。オスメントから幼さが抜けて可愛くなくなったのも、こうなったらプラスに働いた。実際に時折チラチラと、そこはかとなくオスの臭いを発散し始めたからね。

 正直言って「健気」「可愛い」オスメントを期待すると、少々当惑するかもしれない。でも、だからこそいい。そのあたりが実は、凡百の子供と老人映画、擬似家族映画とは一線を画するこの映画のミソなのだ。

 だから先に挙げたような「自分の役割、居場所を見つけて、それを自らのものとする、あるいはそれを取り戻す物語」というニュアンスも、あくまで「男としての役割」という色合いを帯びてくる。元々が中身のない「男」には、常に何らかの「役割」が必要だからだ。

 あくまで男同士の、「オスの流儀」を押し通した映画。だからこそ、ちょっと一味違う面白さだ。「健全」なんかじゃないんだよね。

 

 

 

 

 

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