「スパイダーマン2」

  Spider-Man 2

 (2004/08/02)


  

今回のマクラ

 実は今これを書いている隣では、奇妙な男女の会話が聞こえている。ここは新宿のとある喫茶店。その一角に、中年男性と20代前半風のちょっとケバいネエチャンが向き合って座っている。この両名、中年男性がバカていねいなしゃべり方、ネエチャンがいかにも敬語など知らぬげなアホっぽさ…と落差も甚だしいが、かなりデカい声で話し合っているので内容は筒抜けだ。

 で、ネエチャンは手っ取り早くお金が欲しいと来た。

 こりゃ商売女かな…と聞き耳を立てたが、中年男の落ち着き払った口調からはどうもそうではないみたいだ。おそらくはアダルト系のモデルの勧誘みたいなんだよね。

 聞けばネエチャンはどこぞで誰かにスカウトされて、具体的な仕事の話やいろいろな交渉のためにこの中年男と会っているらしい。いくらもらえると聞いたか…と中年男はネエチャンに尋ねたが、ネエチャンはスカウトに何も聞いてなかった。このネエチャン、口の訊き方もかなりなモノだがオツムの程度も相当お寒い。そこで中年男は忍耐強く説明を始めた。

 雑誌の写真の仕事だったら売り込みに行ってすぐに仕事があることもあるが、ビデオだったらプロフィール資料をつくったりしたあげく、面接にも行かねばならない。だからすぐに金にはならない。これを聞いてネエチャンは目算が狂ったらしい。いきなり場所もわきまえずに絶叫するから驚いた。「アタシ、すぐにお金が欲しいんだよ!」

 中年男の説明はさらに続く。例えば仕事の進め方は朝10時から撮影が始まって、大体12時間ぐらい。それを2回ぐらいで一仕事終わらせるという具合らしく、ギャラはそれで20万。残念ながらコレってビデオだか写真撮影だかは聞こえなかったけどね。でも、ビデオでも一山いくら的なAV女優なら、ひょっとしたらこんな程度のものかもしれないよね。ともかくその20万を口利き側と女優で分け合うという事になる。良ければ12万、悪くても8万が女優のフトコロに入るというわけだ。

 だがネエチャンは、手っ取り早く金が要るの一点張り。どうもカードの支払いか何かで切迫した事情があるらしいのだが、もうこのへんで中年男が退いているのはハッキリ分かった。あげく中年男は仕事の話を諦めて、彼女にキャバクラでも行ってみたらどう?…などと持ちかける始末。しかし彼女いわく、キャバクラでも無理だと言われたとのこと。そりゃそうだろう。このバカさ加減では、いくらキャバクラでも客商売は難しいよ。

 ところが彼女はまるで状況が分かっていないようで、カラダがぽっちゃりしているからダメだと思い込んでいる。中年男が「巨乳系」ならクチがあるだろう…と言っても、それはすでに彼女は当たってみたようで無理と言われたらしい。そういう問題じゃないと思うんだけどね(笑)。

 結局、中年男はうまい事言って彼女を怯えさせたあげく、この仕事から手を退かせる事に成功した。コーヒー代を払って先に帰った男の顔には、明らかに徒労だったという表情が見てとれたよ。

 結局彼女があちこちでイヤがられているのは…そして中年男も退かせてしまったのは、彼女の顔が不細工だからじゃない(まぁチラリと見た限りでは、ブスというほどでもなく普通ぐらいのもんだ)。彼女がポッチャリ系だからでもない。まずは会ってしゃべった時のあんまりな口の訊き方、そして何ともいいかげんな性格がかいま見えるガサツっぽい態度が、すべてに災いしているんだよね。

 そもそも中年男は、何故にこのネエチャンがそんなに金に困っているのか…を怪しんだのだと思う。しかし自らのバカっぽさや男出入り、性生活までアケスケに語るのをためらわなかった彼女が、なぜ金に困っているか…についてだけは言葉を濁した。それは、相当マズイ事情が背後にあるに違いない。中年男だって、仕事でそんな爆弾を抱えたくはないだろう。しかもこの仕事を志望していることは、カレシ(みたいなもの…とは言っていたが)にも内緒だと言う。それでなくても面倒臭いではないか。しかも、どう見たって申し訳ないがそれほどの犠牲を払うに価するタマでもない。

 中年男が去った後でも、彼女はまったく懲りずにどこかの風俗店に面接の電話をしていた。彼女がいかに状況を分かってないかは、その電話の内容を聞けばすぐに分かる。「あのぉ23歳なんですけどぉ、スタイルとか良くないと受からないっすよねぇ?」

 そうじゃないんだよ、分かってねえなネエチャン!

 人間の社会は信頼が大事。何だかんだ言っても信頼がすべてだ。それは例え風俗だってアダルト・ビデオの世界だって、きっと同じことだ。いや、むしろそういう世界だからこそ、なおさら厳しいかも知れない。まぁともかくどの世界でもいい。何かとルーズでいい加減な上に、人に言えない事情を持ってるとくれば、誰だって退くのが当たり前ってもんだろう。

 僕だって偉そうな事は言えない。そんなに信用第一の男でもない。だから人の事を言えた義理じゃないが、信頼されないってのはツラいよ。逆に信頼出来ない会社や相手には、こっちもいい加減に接するよね。多少ムチャな扱いしてもいいだろうと思う。ムチャしたって構うものか、いいかげんな相手ならば。あるいは、最初っからまったく相手にしないかもしれない。

 でも、あのネエチャンはむしろ幸せだ。そもそも身から出たサビでもヘイチャラだろう。元々チャランポランなあげく、まるっきり何も分かってないからね。

 でも、責任感も人一倍の人間だったら、これはかなりキツいよ

 しかも、本人にはどうすることも出来ない上に、それについて何ら弁解も出来ないとしたら…。

 

見る前の予想

 サム・ライミが「スパイダーマン」。ま、ハッキリ言ってこれはピッタリだよな…と思った。どこか暗くて歪んだ「バットマン」をティム・バートンが撮って大成功したのは記憶にまだ新しい。アメコミに詳しくなくとも「スパイダーマン」が脳天気な正義のヒーローでない事ぐらい、その「クモ男」という設定からして薄々感じるはずだ。そしてその異端性が、サム・ライミという映画作家にはピッタリ馴染む。

 そして「バットマン」役にはビッグスターやカラッと明るいスターでなくて、どこか危ないマイケル・キートンが適任だったように、「スパイダーマン」役にサム・ライミが選んだのがトビー・マグワイアだったのも、さもありなんと思った。適役かどうかは分からないけれど、とにかく若手役者の中では飛び抜けて芸達者な彼だ。単なる青春映画に出るような役者でもない。だから一クセも二クセもある映画になる事は分かっていた。

 そんな二人が組んだスパイダーマン一作目の公開は2年前。僕は確かに面白く見た覚えはあるが、ハッキリ言って映画の印象は、今となってはほとんどない。サム・ライミはこの素材に合っている、トビー・マグワイアはスパイダーマン役に合っている、 CGやSFXは凄かった、ウィレム・デフォーは相変わらずキレていた(笑)、キルスティン・ダンストはちょっとトウが立ってきて厳しくなってきた…なんて事は覚えているけど、映画全体の印象は極めて薄い。正直言って、さほどワクワクもしなかったし共感も興奮もしなかった。普通に面白い映画だった。

 だからその続編がやって来ると言っても、全然心は動かない。

 夏休みの大作の一本らしいのだが、僕はあまり見る気が起きなかった。とりあえず押さえておくか…ぐらいの気持ちでしかなかったんだよね。

 

あらすじ

 正義のために生きる…と決意して、愛するキルスティン・ダンストへの想いも押し殺したトビー・マグワイア。彼は今、ニューヨークで一人暮らし。大学生活の傍ら、ピザの宅配で生計を建てている苦学生生活だ。だが職場では、彼はいたって評判が悪い。なぜなら毎度毎度の遅刻癖。時間が勝負のこの商売では、彼の遅刻癖は致命的だ。

 この日もそんな彼の名誉挽回のラストチャンスとばかりに、時間ギリギリの仕事が飛び込んだ。慌てふためいてバイクでスッ飛ばすが、これはなかなかキツそうだ。

 ええい、ままよ。

 これは生半可な事では間に合わない。マグワイアはここが正念場とばかりにスパイダーマン・スーツを着用。得意のクモ糸を次々繰り出して、ビル街を縦横無尽に飛び回る。…だけなら楽勝に間に合っただろうが、そういうときに限って突発事が発生。スパイダーマンのお仕事=人助けをしなくてはならなくなる。結局時間通りの配達は出来ずバイトはクビ。だらしない奴との烙印を押されて終わる。

 金はない。

 唯一の収入源は新聞社の編集長J・K・シモンズにスパイダーマンの写真を売ることだが、この編集長ときたらスパイダーマンを悪役呼ばわりして在ることないこと書き立てるから、この男に写真を売るのはマグワイアにとっては自分で自分の首を絞めるに等しい。それでもどうでもしなけりゃ食っていけない。

 学校に行けば学校に行ったで、尊敬する教授の授業に遅れてしまう。授業が聞けないだけでなく、この教授に「怠け者」呼ばわりされるのがまたツライ。

 久々に伯母のローズマリー・ハリスが待つ実家に戻れば、その日はマグワイアの誕生日。彼はあまりの忙しさに、自分の誕生日さえ忘れていたのだ。そしてこの日のために親友のジェームズ・フランコ、さらに愛するダンストまでが来てくれた。久々に喜びを感じるマグワイア。

 だが伯母ハリスは経済的に困窮しているようだ。そしてフランコは再会を喜んでくれたが、スパイダーマンの話になると雲行きが怪しくなる。フランコはスパイダーマンが父ウィレム・デフォーを殺したと恨んでいて、スパイダーマンの写真を一手に引き受けて撮っているマグワイアが、どうして自分に居場所を教えてくれないのか…と責めるのだ。だがさすがにマグワイアには、父親が悪党だったとフランコに告げる事が出来ない

 もちろん好意を持ってくれているダンストにだって、本当の気持ちは告げられない。そんなマグワイアのツラい気持ちをよそに、ダンストは新たなボーイフレンドが出来た…とマグワイアに告げるのだった。

 それでも女優として活躍を始めたダンストの舞台を見に行くと約束したマグワイア。だが案の定、その日も突然スパイダーマンとしてのお勤めが出来てしまう。結局芝居を見れずじまいのマグワイアは、ダンストから完全に見放されてしまう。信頼ゼロ。

 唯一良いことと言えば、大学に提出しようとしているレポートについての話だけ。核融合に関する第一人者であるアルフレッド・モリーナ…この著名な科学者についてレポートを書こうとしていたマグワイアだったが、ちょうど好都合な事にモリーナは親友フランコの会社で大プロジェクトを進めているところ。それは核融合によって巨大なエネルギーを生み出すというものだ。こうしてマグワイアはフランコのツテを頼って、この大科学者モリーナと会うことが出来た。これほどの大物から直接教えを請えるのは望外の喜びだ。もっともこのモリーナ、実はマグワイアの大学の恩師と知り合いだったため、日頃の「怠け癖」について知られていたのは痛しかゆしだったが…。

 実際、会ってみたモリーナは実に魅力的な人物だった。仕事も順調、自信満々。それでいて妻ドナ・マーフィーを心から愛していた。そんなモリーナに改めて尊敬の念を抱くマグワイアだったが、唯一今開発中の新プロジェクトの行方だけは気になった。一つ間違えば、街全体を吹き飛ばしてしまう危険すらあるのだ。それを「絶対自分に間違いはない!」…と言い張るモリーナ。それが過信でなければいいが…。

 そのプロジェクトのお披露目の日。関係者やマスコミがごった返す中、フランコの誘いでマグワイアもその場にやって来た。やがて一同の前に現れたモリーナは、人体では触れられない作業をするための補助ツールとして、脳で制御する4本の巨大なマシーン・アームを装着する。このアームは装着するや否やモリーナの脊髄と連結。彼の意志の下に自在に動かす事が出来るのだ。ただし、その状態を見た記者の一人は、実に鋭い質問をした。

 「逆にそのアームに操られてしまう恐れは?」

 その備えは万全だった。首筋近くの接触部分にはチップが装備され、これがアームによって装着者の脳が影響されることを阻んでいるのだ。これがある限り、アームは装着者の意のままに動く。

 こうして実験が始まった。

 実験は思いの外うまくいき、小型の太陽のようなエネルギーの塊が、一同の目の前に現れた。実験の成功を喜ぶその場の人々。

 だがこの「小型太陽」はそれにとどまらなかった。徐々にその姿を大きくしていき、その場のすべてのモノを吸い寄せようとし始めた。たちまち室内は大パニック。壁の遮蔽版もバリバリとはずれていく。このままでは大変な事になってしまう!

 マグワイアはとっさにスパイダーマンに姿を変えた!

 「小型太陽」はさらに止まらない。部屋が破壊されて瓦礫やモノがどんどん吸い寄せられ、危うくジェームズ・フランコも死にかかる。だが、それを止めたのはスパイダーマンだった。

 さらには飛んできたガラスの破片でモリーナの妻マーフィーも命を落とす。そんなこんなの大パニックの最中、モリーナの首筋にあったチップは破損してしまい、アームは暴走を始める。だがスパイダーマンは何とかその攻撃をかいくぐり、装置の電源を引っこ抜いて暴走を止めた。

 さて負傷したモリーナは病院に担ぎ込まれる。先ほどの事故の影響か、アームの脊髄との接触部分は金属が溶けて一体化していた。緊急で手術の必要アリ…ということになったが…。

 いきなり手術に取りかかろうという医師たちに、アームが襲いかかってくる。それはモリーナの肉体から切り離して分解されるハメになったアームが、自らの意志で自分を守ろうとした結果だった。アームが医師たちをさんざ血祭りに挙げた頃、ようやくモリーナが目を覚ます。だが、彼も今ではアームの意のままだ

 病院を抜け出したモリーナとアームは、港湾地域にある潰れかかった倉庫に目を付ける。ここを隠れ家にして追っ手をしのごうというわけだ。そして、ここに再び例の核融合プロジェクトの装置を建造する…。

 「いや、アレはマグワイアくんの言葉が正しかった…」

 一瞬正気に戻るモリーナだが、すぐにアームに意志を乗っ取られてしまう。結局モリーナはこの潰れかかった倉庫で再び野望を実現しようと考えた。だがそのためには、まず金がいる…。またしても金…。

 さてその頃マグワイアはと言えば、とある豪華なパーティーに呼ばれていた。それは国民的ヒーローである宇宙飛行士ダニエル・ギリースを称えるパーティー。何とこのギリース、あの新聞社のシモンズ編集長の息子でもあった。そこでカメラマンとしてのマグワイアの出番と言うわけだ。

 ところがこの宇宙飛行士ギリース、この場を借りて婚約発表と相成った。そのお相手は…。

 キルスティン・ダンスト!

 が〜〜〜〜ん!…マグワイアはただただカメラのファインダーごしに彼女を覗くしかない。それでなくても二人の間は、片やVIPの婚約者、片やそれを取材するしがないカメラマン…と、かくも激しく開いてしまった。その前に、彼女の自分に対する信頼は根こそぎ失われてしまった。もはやどうにもならない。

 しかもたまたまそのパーティーに来ていた親友フランコに、公衆の面前で罵倒されひっぱたかれる始末。もちろん彼がスパイダーマンを庇っているためだ。「そんなに金が大事か?」

 おまけにマグワイア、実はもう一つ気になる事があった。手首から発射されるクモの糸が、最近ちょくちょく出なくなってしまう事があるのだ。これはいかなる体長変化か、それとも精神的ダメージのなせる業だろうか?

 さてそんなある日、マグワイアは伯母さんの付き添いで銀行に行った。もちろん融資の相談に行ったのだが、金融機関はしがない庶民には冷たい。ところがちょうどその時、銀行にあの4本のマシーン・アームを伸ばしたモリーナがその場に現れるではないか。たちまちスパイダーマンに変身するマグワイア。だがモリーナはかなりの強敵だ。結局伯母ハリスを人質にとられて、高層ビルの外壁にしがみついての空中戦となった。何とかモリーナを追い払い、伯母ハリスを無事に奪還したスパイダーマン。だがそんな彼のことを、心ない新聞は「銀行強盗」と叩く。

 おまけに黙っているのがツラくなったマグワイアは、伯父の死が元々は自分の責任だったと伯母ハリスに打ち明けたところ、優しかった伯母までソッポ。孤立無援。

 も〜うイヤだ!

 冗談じゃない、やってられるか。世のため人のために働いているのに、何でオレだけこんな目に合うのだ。大きな力には大きな責任って、もういいかげんにしてくれよ!

 我慢も限界のマグワイアは、スパイダーマン・スーツを裏町のゴミ箱に捨てた

 シモンズ編集長の元に浮浪者がこのコスチュームを拾って届けたことから、スパイダーマンの廃業が発覚。シモンズは得意になって大いに書き立てた。

 こうして普通人に戻ったマグワイアは、まずあのダンストの前に現れる。やり直そうと強く迫るマグワイアをダンストは冷たく突っぱねるが、実は内心穏やかではなかった。さらにマグワイアは大学の講義にも精力的に出席。彼を「怠け者」呼ばわりした恩師に見直させるところまで来た。万事快調だ。

 …の、はずだった。

 だが、彼が自分の人生を楽しむためには、さまざまな人の不幸や悪を見て見ぬふりしなければならなかった。これが思いの外ツライ。

 そんな状況に耐えかねたマグワイアは、ある日火災現場に通りかかった時に一念発起。炎の中に飛び込んで、スパイダーマン・コスチュームや特殊能力の力を借りずに人命救助をした。これだ、これでいいんだ…大いに満足を覚えたマグワイアだが、それもつかの間。その火事で他にも犠牲者が出たという事実を聞き、マグワイアは頭から冷水を浴びせられる思いがした。言うまでもない。彼がスパイダーマンになっていれば、難なく助けられたものを…。

 さらに実家に戻ったマグワイアは、そこで伯母ハリスから伯父の件の許しを得て、自分の勇気の原点に思い至る。あの時の経験から彼は、スパイダーマンとして生きようと決意したのだ。さらに近所の少年がスパイダーマンに強い憧れを持っている事を知り、マグワイアはもう一度スパイダーマンとして生きてみようと思った。

 だがその頃、あの親友フランコの屋敷にマシーン・アームのモリーナが現れた。例の装置をすべて用意できた今、プロジェクトの開始には高価な物質トリチウムがどうしても必要だった。そのためにはフランコと彼の会社の力を借りねばならない…。そんなモリーナの無理難題を聞いたフランコは、咄嗟にとんでもない条件を突きつけた。

 「わかった、くれてやる。オマエがスパイダーマンを捕まえて来たらな!

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 まず一作目と二作目がガラッと変わった訳でもない。むしろ同じ監督、同じ主演者、お話もモロに続き…と来れば、完璧に前作を踏襲していると言っていいではないか。実際、作品のムードもおそらく変わらないと思うよ。

 それなのに、何で今回はこんなにエキサイティングな映画になっているんだろう?

 本当に面白い。それに完全に引き込まれる。ドラマ性も今回の方が上に思える。前作の悪役ウィレム・デフォーと比べれば、今回の悪役アルフレッド・モリーナはスターバリューの点でやや格落ちと言えなくもない。それでも映画としてのグレードは今回の方がずっと上がっている気がするのだ。

 これは前作が設定や人物の紹介で終始していたのに対し、今回の二作目はドラマに本腰を入れられるから…という理由からなのだろうか?

 確かにこの手の最初からシリーズ化が前提の物語…しかもどこか「おとぎ話」的な突飛な設定の題材の場合、得てして一作目より二作目…という事が結構ある。一番分かりやすい例を挙げれば、同じアメコミ原作を映画化した「スーパーマンII/冒険篇」(1981)がそうだし、スペース・オペラ的な世界を映画にした「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)がそうだ。いずれも一作目の成功を受けた二作目は、さらに面白さを増した作品に仕上がっている。もちろん全然ダメな作品が掃いて捨てるほどあることは、先刻承知の上で言ってみれば…だ。

 これはアメコミやスペース・オペラのようなデフォルメされた世界を「リアル」な映画にする場合、どうしても一作目でその世界観を観客に「説明」し「納得」させる必要が生じるからだろう。そういう制約から解放された二作目は、思う存分物語を飛躍させたり、登場人物への掘り下げを深める事が出来るわけだ。

 またシリーズ二作目にこぎ着けるためには、一作目がある程度成功を収めねばならない。成功した作品の続編というものは、前作を踏襲しながらもどこか裏切らねばならない事が基本となる。そんな観客の意表を突こうという試みが、しばしば物語をよりドラマティックに発展させるのだ

 現に先に挙げた二作を例にとってみても、二作目は猛烈にドラマティックな展開を見せている。「スーパーマンII/冒険編」では、主人公に拮抗するスーパーパワーの持ち主がいきなり三人も現れる。ところが主人公はヒロインとの恋愛真っ直中、折り悪くスーパーパワーを捨てて人間になろうとするのだ。また「帝国の逆襲」では一作目でのデススター攻撃での大勝利もつかの間、ルークはじめ主人公たちはどんどん劣勢を強いられ辛酸をなめる。あげくの果てにルークは、宿敵ダースベイダーからラストでとんでもない事実を突きつけられるのだ。こうなれば、お話が面白くならない訳がない。

 今回の「スパイダーマン2」も、物語的にはひねりを増している。まずは主人公は前作で「正義に生きる」と決心しながら、今回はそれで割をくってばかりいる。愛する女には思いを告げられず、すれ違いを続けたあげくに他の男にさらわれるハメに陥る。親友には誤解されたあげく罵られる。学校の恩師にまで「怠け者」呼ばわりされる。バイト先でもうまくいかず、常に金に困ってピーピーしている。こんなに自らを犠牲にして世の中に尽くしているのに、世間は彼を悪党扱いするアリサマ。しまいには愛する伯母にまで背を向けられる。善行をやればやるほど苦しくなって、信用も愛も金も何もかも失う。主人公は徹底的に追い込まれてしまうのだ。

 この気の毒な主人公をトビー・マグワイアが演じるのだ。あまりにピッタリすぎる。彼はこの映画が始まるや、ありとあらゆる人々に罵られ、食べようとした食べ物やら飲み物、もらったばかりの金に至るまで目の前で奪われ続ける。しまいには愛する女まで目の前で奪われる。これは見ていて身につまされたよね。

 一方でマグワイア扮する主人公は、社会への貢献と自らの成功という両輪を手に入れた科学者アルフレッド・モリーナに出会う。これこそ彼が目指したい理想的なモデル…として、この科学者が登場してくるわけ。そんな素晴らしい「自らのあるべき姿」を見出すとともに、周囲からの罵詈雑言やら割に合わない気分に耐えきれなくなったマグワイアは、スパイダーマンであることを捨てようという気になるんだよね。だがそんなモリーナも実はどこかに自己過信があって、最終的に身を滅ぼしてしまうのだが…。このあたりの展開は、これでもかこれでもか…の見事な積み重ねが功を奏して、まことに説得力ある筋運びとなって見事だ

 そしてそんな説得力溢れる出来映えとなった理由の一つには、今回の作品の脚本があると思うんだよね。これが実によく出来ている。で、今回この映画を見るにあたって、僕はすごく意外な脚本家の名前を聞いていたんだよね。

 それは、アルヴィン・サージェントだ。

 今の映画ファンのみなさんには聞き慣れない名前かもしれない。だけどサージェントと言えば、1970年代あたりからアメリカ映画を見てきている人なら、絶対にピンと来るはずの名前だ。

 まずはこの人の脚本による作品と言えば、まだライザ・ミネリが新人だったアラン・J・パクラ監督の「くちづけ」(1969)がある。ある風変わりな女の子と平凡な男の子の切ない出会いと別れを描いた作品だ。僕は大昔テレビで見ただけだが、それでも妙に記憶に残っている。

 だが、彼の本領発揮は1970年代に入ってから。ライアンとテータムのオニール父娘共演による「ペーパー・ムーン」(1973)、ジェーン・フォンダが復活した「ジュリア」(1977)、アル・パチーノ主演の「ボビー・デアフィールド」(1977)、ダスティン・ホフマンが珍しく悪役を演じる「ストレート・タイム」(1978)、ロバート・レッドフォードがオスカーの監督賞を手に入れた「普通の人々」(1980)…と、この時期のサージェントは文字通り快進撃と言って良かった。

 ところがその後、なぜかこの人のキャリアはいきなり断絶してしまう。次に名前を見かけたのはバーブラ・ストライサンドとリチャード・ドレイファス共演の法廷ドラマ「ナッツ」(1987)。これは二大スターの激突と社会派モノを得意とするマーティン・リット監督の演出もハマって見応えのある作品だったものの、その後はやっぱりパッとしなかった。前作にあたる「運命の女」(2002)あたりは、それなりに面白さもあったけどね。でも、この人の実力ってあんなもんじゃなかったんだよ。

 それらの作品の中で、特に僕のお気に入りは…と問われれば、文句なしに「ボビー・デアフィールド」を挙げたい。

 命を賭けたレーサー稼業でヨーロッパ各地を転戦しているアル・パチーノは、そんな身を削るような毎日のせいかスッカリ虚無的刹那的な男になっていた。ところがそんな彼が不思議な女と出会って恋に落ちるうちに、失われかけた人間性を取り戻す…。元々デリカシーに満ちたシドニー・ポラック監督の演出を得て、何ともシミジミとした味わい深い作品。マルト・ケラー、アニー・デュプレーらのフランス俳優たちの共演や、やはりフランスの名手アンリ・ドカエの撮影も見事なヨーロッパ・テイストに溢れる一作だ。これが「西部戦線異常なし」の原作者でもある、エリッヒ・マリア・レマルクの小説を元にしているとは驚きだが、だとすれば…どう考えても映画のオリジナルと言っていいほどの大胆な翻案をしているはず。そういう意味では、この映画の素晴らしさはサージェント脚本に負うところが大なんだよね。

 で、これに限らずサージェント脚本の素晴らしさは、何と言っても人物描写のデリケートさにある。

 僕が上記した作品はすべて、そんな人物の内面描写の妙が見どころの作品ばかりだ。そして彼の作品はどれも、登場人物が「そうならざるを得ない」力で思いもかけない運命に導かれていく。その有無を言わせない力業と自然さ、そしてあふれんばかりの共感が、何と言ってもサージェント脚本の魅力だ。

 そう考えると、いかに「スパイダーマン2」がサージェントらしい脚本か、お分かりいただけるだろう。

 出てくる主要人物たち…中でも主人公のスパイダーマンへの眼差しの優しさ、さらに「そうならざるを得ない」設定づくりの巧みさ。ここでは久々に、サージェントの「うまさ」が堪能出来る。例を挙げれば、クリスティン・ダンストがマグワイア=スパイダーマンの正体を知る一幕…そこには科学者のモリーナと合体したマシーン・アームが水に浸かって、一時的にモリーナがアームの呪縛から逃れた…という前提があって、すでに顔見知りであるマグワイアが説得のために素顔を見せるという伏線がある。その段取りにもスジ運びにも、まったく微塵の無理もない。

 これは単に彼のドラマづくりの妙の一例に過ぎず、他にもこうした無理のない仕掛けをあちこちにつくって、次々とドラマティックな設定を創り上げている。やっぱりうまいんだよねぇ。

 そもそも「スパイダーマン」はトビー・マグワイア、クリスティン・ダンスト、ジェームズ・フランコ…と、スターバリューよりも芸達者ぶりを重視したキャストを集めているのが目立つ。今回の悪役アルフレッド・モリーナしかり。確かにスターとしての華やかさには欠けるが、あの「フリーダ」でも見せた彼のパワフルさ、ボリューム、自己過信ぶり、それでいてキライになれない人間的魅力…が十二分に活かされている。モリーナが演じているからこそ、最後の「怪物のままで死んでたまるか!」という言葉が生きる。

 つまり、この作品は腕利き役者たちの芝居の妙で見せる映画なのだ。

 ならばサージェント脚本も一際引き立つ。おまけにこの作品、あちらこちらに「明日に向って撃て!」(1969)や「卒業」(1967)などの往年のアメリカン・ニューシネマの残像がチラチラしているのも気になる(特にトビー・マグワイアが画面に向かって歩みだしたとたんのストップ・モーションは、観客にかなりの違和感を与えるだけに相当意識的なものだろう)。このあたり、ニューシネマ全盛期にキャリアをスタートさせ、ホフマン、レッドフォード、フォンダなどのニューシネマの臭いをプンプンさせるスターたちと付き合ってきた脚本家、アルヴィン・サージェントらしい持ち味なのではないか。

 もちろんこの映画はサム・ライミの特異な個性でもっていることは明らかだ。例えばクモの糸を発射できなくなったスパイダーマンが、エレベーターに乗っているというシュールかつナンセンスな場面。あるいはアパートの大家の娘がマグワイアの部屋にケーキを持ってくる場面。何とも言えない間とそこに漂うユーモアは、ライミならではのものだ。そしてスパイダーマンの活躍場面のダイナミックな躍動感もかなりのもの。だが…こと今回のドラマティックな展開に限って言えば、デリケートな味わいのアルヴィン・サージェント脚本の功績が大だと言っていいのではないだろうか?

 

見た後の付け足し

 あれもこれも目の前で奪われ続ける主人公…それを見ているうちに僕はスッカリ身につまされたと言ったよね。正直言って、アレは人ごとじゃなかった。別に僕がスパイダーマンだって言うわけではないけどね(笑)。

 誰かのため人のために粉骨砕身、奮闘努力を続けたものの、それが僕にもたらしたものはお寒いものでしかなかった。犠牲は厭わないと思っていたけど、それでも罵詈雑言浴びせられるのは耐え難かった。金も時間もなくなったしキャリアもボロボロ。貴重なチャンスも取りこぼした。しかもそんな状況を僕にもたらしたモノを、僕はじっと隠し通さねばならなかった。これが何よりツラかったよね。映画を見ていて、あんな事そんな事を思い出しちゃったよ。

 だけど映画は、ここから先が違う

 隠していることづくめ耐えていることづくめだった主人公も、映画の後半ではドンドンと手かせ足かせがはずれていく。今まで報われる事の少なかった彼が、ほんの少しづつ報われていく。スパイダーマンをかばおうと列車の乗客たちが立ち上がる一幕の、今時珍しいストレートなアメリカ的理想主義はどうだ(フランク・キャプラの古き良きアメリカ映画のタッチを大いに意識した「スーパーマンII/冒険編」にも同様の場面があるあたりは、改めて検証すべき極めて興味深い現象だろう)。親友ジェームズ・フランコにも、愛するキルスティン・ダンストにも、良くも悪くも隠し事がなくなっていく…その解放感はどうだ。最後には花嫁姿のダンストが、マグワイアの安アパートに駆けつけるという念の入れようだ。いかにもベタだけど泣かされるよね。そのダンストがスパイダーマンとして出動せんとするマグワイアに向かって、まるで銭形平次が捕物に出掛ける時に恋女房が火打ち石をカチッと威勢良く打つかのように、「やっつけてきて!」と言うくだりの幸福感。これは…残念ながら現実の自分では望むべくもなかったカタルシスだ

 だから、この「2」は僕にとって感慨深い映画になったのか。

 それとも、本当に面白い作品だったのか。前作であんなに「オバン顔」などとくさしたクリスティン・ダンストでさえ、今回はひどくチャーミングに見えた。あの「やっつけてきて!」だけでグッとよく見えたのかね。それってホントにどうなんだろう。個人的な気分か、本当にいい出来映えなのか?

 実は僕の中では、まったくその区別がつかないんだけどね(笑)。

 

 

 

 

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