「いつか、きっと」

  La Vie Promise

 (2004/07/26)


  

見る前の予想

 この映画はチラシと予告しか見ていない。その時の印象は、別にどうって事のないフランス映画って感じ。特にすごく見たくなった訳じゃない。

 主演はイザベル・ユペール。フランスではトップスターで大女優。だから問題作ピアニストから、フランス女優オールスターの8人の女たちまでお声がかかる。だけどハッキリ言って一見して華がない。この人ってフランス以外じゃ絶対にスターにはなれない人だ。その彼女が、盛りを過ぎた娼婦をやると言う。いかにもフランス映画以外では考えられない設定、キャスティング。

 ただ、この映画がヒロインの旅の映画だという設定には惹かれた。

 僕は旅の映画が好きだ。なぜなら映画そのものが一つの旅だから。それは映画の登場人物にとっても、見ている観客にとっても旅なのだ。だから旅の映画というものは、どこか映画の本質のような気がする。あの「ロード・オブ・ザ・リング」だって、旅の映画ってところが魅力の大きな部分だったんじゃないだろうか? 

 僕の好きなアメリカ映画を好きな理由も、アメリカ映画がロードムービーをお家芸にしてるからかもしれない。その割にロードムービー、ロードムービーと騒いでいるヴィム・ヴェンダースの映画は好きになれないものも多いが、ヴェンダースってロック通みたいな顔をしている割には音痴っぽいし、どうも頭でっかちな割には分かってない気がする(笑)。たぶんあいつのロードムービーってのも、何かの誤解か勘違いだろう(笑)。少なくとも、ロードムービーならアメリカ映画が一番だ。

 それはさておき…ともかく旅の映画ならフランス映画にありがちな屁理屈で終始する映画にはなり得ない。映画そのものが動きだし、躍動するモノになるに違いない。ならば退屈はしないはずだ。

 僕は心秘かに、この映画を楽しみにしたんだよね。

 

あらすじ

 イザベル・ユペールはもういい歳こいているのに、道ばたで客を引く娼婦家業に精を出す。肩に刺青なんか入れて真っ赤なドレスを着ても、正直言ってカラダがついていかない。それでもナントカやってこれたのは、観光の街ニースのありがたさだろうか。

 そんなユペールの元に、ある朝一人の女の子がやって来る。その女の子モード・フォルジェはユペールの娘だった。この日も面会日と決まっていて、それでわざわざ母ユペールの元へやって来たのだ。ところがユペールはスッカリ忘れていた。挙げ句の果てに露骨に迷惑がって追い返すアリサマ。まったくとんでもない女ではあった。

 ところがそれでも母親恋しいのか、フォルジェは何とかアパートに忍び込んで、母親の部屋にチャッカリ滑り込んだ。そんな部屋に母ユペールが戻ってきたのは夜中のこと。それも一仕事終えた後で、二人の男を従えてのお帰りだ。慌てたフォルジェは奥の部屋に隠れる。

 ユペールが連れてきた男二人は、どうも彼女のポン引きか元締めの人間らしい。そのうち上がりが少ないなどと口論になり、いきなりユペールを殴り始めるではないか。あまりにあまりの事に動転したフォルジェは、たまたま置いてあったナイフを手に持って、母ユペールや男たちのいる部屋に飛び出していった。

 「何だオマエは?」

 男の片割れがフォルジェを見つけて絡む。何が何だか分からないフォルジェは、そのまま男にナイフを突きだした。

 ナイフが刺さってその場に倒れ込む男!

 それを見たもう一人の男は、ビックリ仰天して逃げ出した。もちろんユペールもサッと冷静になったのは言うまでもない。

 「大変! 逃げなきゃ!」

 あり合わせのモノをバッグに放り込むと、ユペールはフォルジェを連れて部屋を出た。逃げて逃げて逃げて…列車に乗って郊外へ。そこには昔の友人が暮らしているはず。

 電話で呼び出した旧友は、すでに「商売」から足を洗って主婦になっていた。だから力になれないと言う。覚悟はしていたが、事態の厳しさにさすがに暗くなるユペール。まして今回は足手まといのフォルジェもいる。

 そんなユペールに、旧友はある男の名を挙げた。その名はアンドレ・マルコン。それはかつてユペールと所帯を持った男だった。だがユペールは彼を捨てた。正確には彼と幼い男の子を捨てた…。

 彼が住んでいる町のことも、もう記憶はおぼろげだ。それに今さらどのツラ下げて会いに行けばいいのだ。今になってみれば、マルコンと別れたのは大失敗だったのだろう。だが、何もなかった事にしてチャッカリ戻る事など出来ない。

 だが旧友は、何通もの手紙の束を持ってきた。実はマルコンは逃げたユペールの事が忘れられず、手紙を旧友に託して送ってきたのだ。彼女の手元に送れば、いつかはユペールの目にとまることもあるだろう…と。

 結局、他に頼る人もいない。ユペールはマルコンの元を訪ねてみることにした。バス停を探し、原っぱや茂みを歩きに歩いて…。そんな道中に疲れを感じたせいか、ユペールはついついフォルジェにひどい事を言う。「オマエは行きずりの男との間に生まれた子よ」

 これにはさすがのフォルジェもこたえたか、さすがに怒って母親の前から姿を消してしまう。それでも「せいせいした」とでも言いたげに、後を追おうともしないユペール。

 一人になったユペールはヒッチハイクをするが、捕まえたクルマは刑事の一家の乗るクルマ。こりゃたまらん…と刑事一家のクルマから降り、雨の中で停めてあるクルマを拝借しようとするが、そのクルマの持ち主がやって来て一喝するではないか。「オマエ、何をやってるんだ!」

 ええい、ままよ。ユペールは開き直ってクルマに居座った。こうして何の因果か、クルマの持ち主パスカル・グレゴリーは雨が止むまでユペールをクルマに乗せる事になってしまった。だが、やっぱり悪いことは出来ないもの。ユペールはこのグレゴリーの車に、手提げバッグを忘れてしまうではないか。そこにはあのマルコンの手紙も入っていて、それがなければ住所が正確に分からない。仕方ない、何とか近くの町まで行ってみるか。

 クルマの中にバッグを置いていかれたグレゴリーの方も、このバッグの事が気になってならない。途中捨てちまおうと何度も思うが、どうもそれが出来ない。仕方なくバッグを開けてみると、中には何枚かの写真があった。それらはユペール自身の写真、娘のフォルジェの写真、そして結婚して出来た幼い息子の写真などだった。

 そんなグレゴリーは、町の中で若いオトコどもに絡まれているフォルジェを見つける。写真で顔を見ていたグレゴリーには、すぐにそれと分かった。こうしてグレゴリーとフォルジェは、奇妙な縁で出会う事になる。

 だが宿でフォルジェはグレゴリーの荷物を探り、彼が刑務所を保釈中の身だと知ってしまう。本当ならこんな所でこんな事をしている場合でない、ヤバイ状況のはずだ。グレゴリーもまた訳アリの男なのか

 一方、ユペールは今になってフォルジェが気になって仕方がない。そんなこんなで町まで来たものの、役所ではマルコンの居場所が分からない。それどころか、ユペール自身にあの時期の詳しい記憶がない。かつて近所に住んでいたという女に呼び止められるが、まったく彼女のことを思い出せない。精神科の医者に通った事は覚えているが、その病院に行っても記憶がない。看護婦はユペールを覚えていたが、彼女の方では何もかも忘れていた。ユペールは精神を病んでいたのだ。

 途方に暮れてもう帰ろうと列車のキップを買うユペールだが、結局は列車には乗れなかった。こうしてトボトボと引き返すユペール。こうしてユペール、フォルジェ、グレゴリーは、何とか再び顔を合わせることができた

 そんなこんなで何となく心を通わせ始めた三人。ユペールの元夫マルコンの家の場所も分かり、早速三人でクルマに乗って駆けつける。

 そこで一同が見たものは…?

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 ヒロインは娼婦。それもいいかげん生活に疲れてる、トウの立ってきた娼婦だ。映画はまず、そんな彼女の日常をリアルに描き始める。

 こういう「娼婦の日常」みたいなものをさりげなく描くって、他の国の映画にはあまり見られない、フランス映画の独自性ではないかね。わが国でもアメリカ映画でも、娼婦を扱ったものは少なくないが、それらは一種のセンセーショナリズムで扱われるか、または社会告発的アプローチ、もしくは都会のファンタジー然として出てくるだけ。生活者としての娼婦の日常を、等身大でリアルに描くものってのはフランス映画にとどめを刺す。これは不思議な気がする。

 実はこの映画の冒頭…ヒロインの日常を描いたごく短いシークエンスを見ながら、僕はかつて見たミウ=ミウ主演のフランス映画「夜よ、さようなら」(1979)を思い出したりしていた。あれも普通の女の子が娼婦に転落してズブズブになっていく過程をリアルに描いた映画だったからね。その生活の疲れみたいなものまでが、見事に表現されてたっけ。

 この映画のイザベル・ユペールの娼婦も、画面に出てきただけでそんな疲れを見せつける。結構いい歳してやってるのが悲しい。それを隠すケバい化粧が悲しい。そこへきて、娘が面会日だと会いに来ても、そんな約束は忘れてる。しかも迷惑がっていることを隠さない。どうしようもなくビッチな女。

 そんな性悪ぶりも、すでに峠を越えちゃった女だけに余計悲しい。女が傲慢なのも性悪なのも、それが美しく見えるのは若いうちだけだ。トシをとったらデカい態度は汚らしいだけ。惨めなだけ。

 そんな生活の疲れや荒みが、思いっきり顔に出ちゃってるあたりもスゴイ。顔中ソバカスだらけのイザベル・ユペールが、あの華のない雰囲気をプンプン発散させて演じるヒロインのリアルさったらない。こりゃあ彼女でなきゃ出来ないね。否、彼女でなきゃやりたがらないか(笑)。こうなると、ユペールのあのつまんない顔がモノを言う

 あぁ、なるほどフランス映画らしい湿ったリアルな娼婦モノなわけね、これで後半ヒロインが何かで旅立ちを決意したりするわけだ…そんな事を勝手に予想して見始めたところ、物語は始まってまもなく突然急転直下するからたまげたね。

 娘による殺人!

 ここから有無を言わせぬ逃亡生活が始まってしまう。いや〜、これどうなっちゃうんだろう?…といささか不安な気分になってくるが、だからといってユペールの性悪ぶりは変わらない。こうして母娘はバラバラになって、ますますどうなっちゃうんだろう?…という不安な気分は加速する。

 ところで冒頭の「殺し」は絶対映画全編に渡って何らかの影を投げかけるはず…と思っていたが、なぜか殺されたヤクザ側も警察もまったく音沙汰なし。まぁ、映画を見ていればそんなハラハラのサスペンスとか、娼婦を取り巻くヤバイ状況を描こうという意図はないことが分かるから、作者に描く気がないのはすぐに理解できる。それでも、物語の中からまったく「殺し」がすっ飛んでしまうってのは、ちょっと乱暴な設定ではないだろうか?

 ともかくヒロインはビッチな性格ムキ出しで旅を続けるが、結局は娘が恋しくなる。そのうちに離れ離れになった娘と見知らぬ男も含めて、不思議な縁での再会を果たすわけだ。このへんご都合主義が全開バリバリなんだけど、特に劇的なあざとい事をやっている映画ではないから、それは案外に気にはならない。

 その一方で、一度は幸せな結婚をして息子までもうけたのに、その家庭を捨ててしまった…というヒロインの過去が少しづつ暴かれていく。

 ハッキリ言って身勝手でズサンな破綻した性格のヒロインなのだが、これが不思議とイヤな女に感じられない。共感はせずとも、こういう女もいるだろうな…と思わせる。このへんはイザベル・ユペールの持ち味なんだろうか、演技力なんだろうか。もし彼女以外の女優が演じていたら、まずこうは見れないだろう。そういう意味では、実にきわどいところを彼女の芝居で何とか逃げ切ってる感じだ。そういう意味では、この映画ってイザベル・ユペールのワン・ウーマン・ショーと言えるかもしれない。

 

見た後の付け足し

 この映画を監督したのはオリヴィエ・ダアンなる人物。もうお気づきだろうか? あのリュック・ベッソン・プレゼンツ(笑)、クリムゾン・リバー2/黙示録の天使たちを監督した人だ。つくった順番からいくとこっちの方が先で、次が「クリムゾン〜」とくるらしい。これって、どう考えても作風が一致してこないよね。金のためにやったとしても、あまりに落差がありすぎるように思える。

 だが今回「いつか、きっと」を見たら、意外に違和感感じなかったんで不思議な気がしたよ。もちろん作品の雰囲気やテイストは全然違う。だけど両者の落差って、見てみたら意外にないんじゃないかって思ったんだよね。

 冒頭の「殺し」が後々まったく物語と絡んでこないあたりとか、バラバラだった主要登場人物がいつの間にかうまいこと合流するあたり。さらにはエンディングでの再会…と、ご都合主義と言えばご都合主義。シリアスにシビアに現実を活写するような映画なら、ちょっとこういう描き方は避けたいはずだ。だけど元々がこの作品って、そんなシビアな映画じゃなかったらどうだ?

 この映画、実は娼婦の日常を冷え冷えと描いた部分は冒頭のほんの短い場面だけで、あとは延々主人公たちの「旅」が描かれる。これがフランスの田舎の広々とのどかな景色を舞台に、ゆったりと展開される場面の連続なのだ。

 そこではフランス映画にありがちなパターンの、例えばヒロインの心理にチマッと入り込んでいくような「閉じた」展開はない。ハッキリ言って、登場人物の考えていることやらキャラやらって、分かりすぎるほど分かる。驚くほど曖昧さがない。これもフランス、ヨーロッパ映画のヒロイン・ドラマとしては珍しいだろう。

 とにかく、これは「旅」の映画だ。だから主人公たちは動いて移動していく。だから彼らの心理や置かれた状況は、すべて「動き=アクション」の中で表現されるのだ。

 僕は冒頭で「旅」の映画が好きだと言ったよね。そしてアメリカ映画のお家芸、ロードムービーが好きだとも言った。

 それって、この「いつか、きっと」とも共通するテイストじゃないか?

 これって、実は真面目にロードムービーを志向している映画ではないだろうか。

 ロードムービーを意識しているなら、アメリカ映画を意識しているはずだ。アメリカ映画を意識しているならば、話術に馬力さえあったら「ご都合主義」だってオッケーだ。ハリウッド映画の話法とはそういう無茶を力業でねじ伏せていく、語り口のダイナミズムみたいなものが売り物だった。そこが魅力でもある。この映画は、そんなアメリカ映画的見せ方を、どこか志向しているように思える。

 だからバラバラだった主人公たちが「擬似家族」を構成していくあたりも「いかにも」ながらアリだと思うし、最後にミエミエだったとしてもハッピーエンドを志向するあたりもうなづける。

 そして僕は、この「甘っちょろい」結論って決してキライじゃない。傑作とは全然思わないが、見ていて楽しめる。希望のあるラストも嫌いになれない。それはかつてアメリカ映画が伝統的に持っていた美点を、素朴に受け継いだように感じるからね。

 だから、どこかアメリカンで大味でハリウッド・スタイルの馬鹿力を見せるリュック・ベッソン・プレゼンツの「クリムゾン〜」も、この作品と矛盾しないで同居する。オリヴィエ・ダアンという監督、良くも悪くもかなりアメリカ映画を意識してる監督さんじゃないかな。

 そんなハリウッド的ロードムービーの要素と、イザベル・ユペールが見せるコテコテに湿ったフレンチーの味。この絶妙なブレンドの味が、この映画のユニークなお楽しみだ。

 いや…むしろロードムービーに代表されるアメリカ映画的世界を、無理なくフランス映画の中に移植しようとした結果こうなったんじゃないかね?

 

 

 

 

 

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