「子猫をお願い」

  Take Care of My Cat

 (2004/07/26)


  

見る前の予想

 この映画への興味はたった一点に尽きる。おそらくこの映画を見ようという人の大半が、そうなんじゃないだろうか。それは主演者の一人、ペ・ドゥナだ。

 何しろほえる犬は噛まないの彼女は絶品だったからね。何ともユーモアがあり愛すべきキャラクター。かと言ってそれは突飛でも何でもない。むしろ自分の身近にいそうなリアリティがある。いやはや、何ともユニークな女優さんが現れたものだ。

 そんな彼女が、女の子たちの青春群像劇に出ると聞いたら、これは絶対に見なければ…と思ったよ。

 何しろ僕は、昔ほどではないが青春映画が好き。群像劇も好き。女の子の集団劇はもっと好きだ。実際、傑作も多いんだよね。

 そして今回その中心にいるのはペ・ドゥナだ。これは見ないわけにいかないだろう。

 

あらすじ

 ここは港町・インチョン。どこの街にもいるような、仲良くじゃれ合ってバカ騒ぎする5人の高校生の女の子の一団がここにもいた。彼女たちの屈託のない笑顔…。

 それから時が流れた。

 5人組の一人イ・ヨウォンは、このインチョンの街から毎日電車に乗ってソウルへと通っている。それでも彼女にとってはその方が嬉しい。憎しみ合い争い合う両親と暮らしているイ・ヨウォンは、そんな暮らしそのものから離れたいという気持ちが強かった。だから彼女は朝早く職場である証券会社に出社して、気持ちを都会モードに切り替える。憧れはバリバリのキャリアウーマンである女性部長だ。

 そんな上昇志向のイ・ヨウォンとは対照的に、仲間の一人オク・ジヨンは仕事で辛酸をなめていた。就職した職場はつぶれて現在無職。その後いい職業に就けるわけでもない。両親を早くから亡くしたオク・ジヨンは、祖父祖母のあばら屋で一緒に暮らしながら独学でデザインの勉強をしていたが、それが就職の足しになるわけでもない。まだ小さい野良猫を拾ってはきたが、それすら育てるには持て余し気味だ。

 さてある日のこと、イ・ヨウォンの証券会社の職場に誕生日プレゼントのバラの花束が届く。同僚の女性社員にからかわれながらも、彼女の態度は素っ気ない。花束の送り主とデートの予定もないようだ。むしろ同じ会社の先輩社員に誘われてウキウキ。

 そんな時に5人組の仲間の一人ペ・ドゥナから携帯で連絡が入り、イ・ヨウォンの誕生パーティーをやってくれると言われる。彼女は仕事で忙しいなどと適当にウソをつき、仲間ではなく職場の先輩のお誘いに乗ろうとする。だが当の先輩はアッサリと誘いをスッポカしたため、結果的にイ・ヨウォンはヒマになってしまった。ならば…と彼女は昔からのお仲間の元へと参上することになったわけ

 イ・ヨウォンを囲んで集まった一同は、あのお馴染み5人組。一同の連絡係とも言えるペ・ドゥナ、相変わらず仕事にありつけないオク・ジヨン、そしていつも愉快なイ・ウンシル、イ・ウンジュの双子の姉妹。みんなは思い思いのプレゼントをイ・ヨウォンに渡すが、オク・ジヨンのプレゼントは、例の子猫だ。それはプレゼントを買う金もないということか、はたまた持て余し気味の子猫を厄介払いという一石二鳥を狙ったか。

 ところがイ・ヨウォンの方はイ・ヨウォンの方で、オク・ジヨンが「留学をしたい」と言い出すと、「お金あるの?」とズバリと言い放つ。

 また、イ・ヨウォンの誕生パーティーをやっていると聞きつけて、もう一人昔なじみが駆けつけた。それはどうも昔からイ・ヨウォンに淡い想いを抱いていたらしい男の子。実は彼女の職場に花束を贈ったのも彼らしい。だがイ・ヨウォンは彼に素っ気ない。それでも男の子はニコニコ黙ってその場にいた。

 そんなこんなで、久々の仲間たちの楽しい再会ではあったが、水面下ではそんなヒリヒリする瞬間がチラチラし始めた一夜。しかも間もなくイ・ヨウォンはオク・ジヨンを呼び出し、とても世話が出来ないと「プレゼント」の子猫を突き返す。どうしてもギクシャクするものが流れる両者の関係だった。

 それでもオク・ジヨンは仕事中のイ・ヨウォンを訪ねてくる。何やら頼みがあるらしい。だがイ・ヨウォンはついつい仕事の忙しさから彼女を一時間以上待たせてしまった。さすがにキレたオク・ジヨンは、彼女が来る前にサッサと帰ってしまう。

 そんなオク・ジヨンが連絡をとったのはペ・ドゥナ。実は彼女の頼みとは金の無心だった。後からイ・ヨウォンから電話がかかってくるが、オク・ジヨンは金詰まりで彼女にも金を借りているらしい。無論、返す当てなどなかった。

 オク・ジヨンはいろいろ就職活動もしてはいるが、いい仕事にはありつけない。そして彼女にはもう一つ心配事があった。自分が住んでいる祖父祖母のあばら家の傷み方がひどく、天井がどんどん歪んできたのだ。このままでは天井が落ちてくるかもしれない…それを恐れるオク・ジヨンは大家に電話するが、まるで取り合ってはくれない。イヤなら出て行けと言われても、行く当てなどないのだ。

 一同の「つなぎ役」としてあれこれ心を砕くペ・ドゥナは、そんなイ・ヨウォンともオク・ジヨンとも分け隔てなく付き合い、イ・ウンシル、イ・ウンジュの双子とも連絡をとって学生時代の友情を大事にしようとする。天真爛漫なところがある彼女は、基本的に人の心を疑わないのだ。だがそんな彼女にも悩みはある。進路が定まらなかった彼女は家業のサウナ屋の手伝いをして暮らしているが、父親をはじめとして家族たちのデリカシーのなさにいいかげん辟易している。彼女はボランティアとして身障者の手伝いなどしているが、父親はそんなものはムダと一蹴だ。ペ・ドゥナにはそんなこの家族のあり方が情けない。

 ただボランティア活動で知り合った身障者の青年に好意を抱かれると、彼女にはその気がないだけに当惑してしまいもするのだ。

 街に出ると、「船員募集」などという広告に惹かれてしまったりする。それはさすがに夢想家が過ぎるペ・ドゥナではあったが、こんな現実から抜け出してみたい…という気持ちは日に日に強くなるばかりだ。あと、頼りにしているのは学生時代からの友情だけ。

 だがそんなペ・ドゥナの気持ちとは裏腹に、友情の方は極めて怪しくなってくる。イ・ヨウォンは両親の離婚を機にソウルへ引っ越し、上昇志向をさらにエスカレートさせる。だが現実には高卒の彼女には限界があり、なかなか下働き状態から脱却出来ない。勢いそんな不満は歪んだカタチで出てきて、久々の仲間との再会でムキになって虚勢を張りまくる。それをムキ出しにする相手は、もちろん現在最も「負け組」のオク・ジヨンだ。二人の対立は決定的なものになる。

 だがどんなに上昇志向で無理したところで、イ・ヨウォンの願いは叶えられない。会社も憧れの上司も、新しく来た大卒新人を重用する。彼女は雑用・お茶くみ担当でしかない。そんなあまりの扱いに、さすがに仕事第一主義に疑念を持たずにいられないイ・ヨウォン。酔ってヤケを起こした彼女を支えるのは、それまでさんざすげなく扱ってきたあの片思いの男の子しかいなかった。

 一方オク・ジヨンの方も、ますます苦境に追い込まれていた。まずはイヤな予感が的中。彼女が帰宅してみたら、あばら屋は崩落して祖父祖母は下敷きになって亡くなっていた。言葉もないオク・ジヨン。警察に呼ばれて事情聴取を受けても、ショックのあまり口がきけない。あげく無神経なオマワリが「年寄りがいなくなってせいせいしたろ?」などと話しかけて来たのがマズかった。無言でキレた彼女はオマワリの心証を悪くして、留置場へ一直線。そのまま彼女は一切自分の弁解も何もかも語らないまま、保護施設に送られてしまう。そんな彼女を心配したペ・ドゥナは施設に面会にやって来るが、それでもオク・ジヨンは何も語らない。やっと彼女が口を開いたのは、面会時間が切れる寸前のことだった。

 「だって私、他に行くところがないんだもの…」

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後での感想

 この映画、先にも語っているように、「青春映画が好き。群像劇も好き。女の子の集団劇はもっと好き」…な僕好みの作品だ。そして、やはり予想通りツボにハマってしまった

 お話としては若い人たちが社会に出て荒波にもまれる群像劇…あの「ブラットパック」若手スター総出演の観があったアメリカ映画「セント・エルモス・ファイヤー」(1985)、さらに彼らから一世代下ったスターたちによる「リアリティ・バイツ」(1994)と共通するテイストの作品だ。ただし、こちらは全員女の子というところがミソ。

 そもそも僕は、若い人たちの群像劇に共感を覚えるのだ。そして、このジャンルの作品には佳作が多い。中でも女の子たちの集団劇には、これまた格別なものがある。

 そう言えば映画演劇界には、昔からなぜか「三人娘」ものというジャンルが存在する。チェーホフの名作戯曲「三人姉妹」を挙げるまでもない。かつての日本映画における「ひばり・いずみ・チエミ」ものといい、“女三人揃ったら…”と「かしまし娘」のテーマソング(笑)ではないが、姉妹にしろ友人同士にしろ同僚にしろ「三人娘」が出てくる映画がやたら多い。これはやっぱり、女が三人だと何かと座りがいいからだろうか?

 ちょっと例を挙げれば、ダイアン・キートン、ジェシカ・ラング、シシー・スペイセクの南部の姉妹もの「ロンリー・ハート」(1986)、ジェーン・フォンダ、リリー・トムリン、ドリー・パートンが上司殺しを画策するブラック・コメディ「9時から5時まで」(1980)、ウディ・アレンが監督した「ハンナとその姉妹」(1986)、もちろんテレビ版からの三人組を踏襲している「チャーリーズ・エンジェル」(2000)に至るまで…いや、事はアメリカ映画だけではない。例えば香港には、マギー・チャンはじめ中国本土・香港・台湾の三人女がニューヨークで友情を育むスタンリー・クワン監督作品「フルムーン・イン・ニューヨーク」(1989)、同じくマギー・チャンにミシェル・ヨー、ヴィヴィアン・ウーが主演のメイベル・チャン監督作品「宋家の三姉妹」(1997)がある。フランスに目を向けても、ナタリー・バイ主演の「エステサロン ヴィーナス・ビューティ」(1999)があるではないか。これは今、別に調べもせずにアットランダムかつ無責任に挙げているだけだから、もっと真剣に考えれば枚挙に暇がないはず。それくらい、映画・戯曲の世界ではこの「三人娘」ものを筆頭に、女の集団劇が好まれているのだ。これは、若い娘たちを主人公にしても同じこと。

 もっとも…「三人娘」以外のものがないわけではない。まだジョディ・フォスターがヤングスターだった時期に主演した、エイドリアン・ライン監督の「フォクシー・レディー」(1980)が4人組、デミ・ムーア、ロージー・オドネル、メラニー・グリフィスらの子供時代を、あのクリスティーナ・リッチらが演じる「Dearフレンズ」(1995)も4人組だ。女モノは「三人」と必ずしも決まった訳ではない。

 だが、やっぱり基本的には「三人組」が妥当な人数なようで…例えば旧ソ連製の「モスクワは涙を信じない」(1979)。田舎から大都会モスクワへ出てきたばかりの女の子たちの、中年に至るまでの友情を描くこの映画では、その前半部分が何とも青春映画的な楽しさに満ちている。これがやっぱりお約束の「三人娘」ものだ…。

 韓国におけるこの手のジャンルの作品も確実に存在していて、それらも圧倒的に「三人娘」だ。僕がこのサイトの韓国特集のたびに挙げるのが、女の子三人組の学生時代から始まる友情の行方を描いた「3人の女の孤独(別題名「サイの角のように1人で行け」)」(1995)と、若い女性たちの愛と性へのアッケラカンとした態度をズバズバと見せたディナーの後に(1998)の二本。どちらも「シバジ」(1986)で国際的評価を受けたカン・スヨン主演の作品(ちなみに前者「3人の女の孤独」には、「黒水仙」「純愛中毒」のヒロインであるイ・ミヨンも共演している)だが、そのテイストは天と地ほども違う。前者は韓国映画伝統の“儒教社会の犠牲者としての女の恨み節”的なイメージが拭えないが、後者はまったくそんなモノから吹っ切れていて、エロ談義もサバサバとあからさまにするのを辞さないドライさ。この両者の間に韓国社会も韓国映画も地殻変動を起こしたことは間違いないが、それにしても落差の激しさに驚きを隠しきれない二本の作品ではあった。

 ところがこの「子猫をお願い」を見てみると、そんな「ディナーの後で」の“新しさ”でさえ、すでに過去のモノだと感じずにはいられない

 まずこの映画には、「3人の女の孤独」「ディナーの後で」の重要な要素でもあり、特に後者ではその「あけすけ」ぶりこそが“新しさ”と見えた、「男」と「恋愛」の影が極端に稀薄だ。わずかにキャリアウーマン指向のイ・ヨウォンを巡る片思いの男の子がチラリと出てくるだけ。それも彼女の気持ちは実に素っ気ない。男・恋愛・セックス…という、女の子モノには欠かせない…と思われていたアイテムが、この映画にはスッポリと抜け落ちているのだ。

 だが…だからこそこの映画はさらに新しい。そして、さらにリアリティがある

 考えてみれば分かりそうなものだ。僕ら男は年がら年中、女のことなど考えてはいないし、セックスのことを考えてもいない。いたらいたで嬉しいし夢中になることもあるだろうが、それなしに生きていけない訳ではない。そればっかり考えているわけにもいかないだろう。ならば、逆に考えて女だってそうに違いない。そんな簡単な事が、男には…男社会には分かっていない。女モノ…というと男・恋愛・セックスというアイテム抜きには考えない。男を責めたりののしったり批判したり…例えそうであっても、「男と恋愛なしには明け暮れない」という設定自体、これは女のリアリティとはほど遠いものではなかったか

 この「子猫をお願い」はそういう「男」の引力圏から力むことなく離脱しちゃってるあたりが、実に新しいしリアルだ。逆に言えば、こんな当たり前のこともなかなか他の映画やらメディアでは出来てなかったんだよね。確かに当たり前だなと思いつつ、僕は自分が男だからそれに気づいていたかと言えば疑問だ。これは新鮮だったよ。

 しかもこの映画は、フェミニズムとかそんなつまんないモノ抜きでそれを獲得しているし、達成している。力みがまるでない。これが素晴らしいではないか。

 そして、そういう「女だから」の視点をすっ飛ばして考えると、これは実にあの時期の若い人たちの気分を思い起こさせてくれる。男の僕でも、自分のこととして受け取れる映画なんだよね。

 無償の気持ちで人とつき合えた時期もある。だけど世の中に出て損得勘定で生きるようになると、どうしたって気持ちが離れてくる事もある。アメリカ映画の「セント・エルモス・ファイヤー」あたりは、それでも友情の継続を無邪気に信じていたし、僕もあれは娯楽映画として間違ってないと思う。だけど実際の人生でそうかと言えば、それは「ノー」だ

 劇中はイヤな女の役を一手に引き受けているキャリアウーマンの卵のイ・ヨウォンも、そうなるにはそうなるだけの理由があった。彼女を責める事は出来ないし、そうなるしかないと思う。その上で…しかし彼女はその報いを受けるであろう事も想像がつく。

 一方で、ツイてない女であるオク・ジヨンに襲いかかる不幸のつるべ打ちにも気が滅入る。だが実人生では確かにこうなのだ。実に人生や社会は理不尽だが、それでも報われない人は報われない。いい思いをしている人はそのままいつまでもオイシイ。それが人生だ。それが社会だ。そんなものなのだ。

 そんな彼女らのつなぎ役になっているのは、どこかおっとりした個性のペ・ドゥナ。彼女は自分が何がやりたいのか分からずにいて、漠然と船員になって海外に行きたい…などと夢想に耽っていたりする。家族の中に居場所を見いだせず、軽蔑を抱いていたりもする。だがどれもこれも、まるで実践を伴わないし具体的な考えもない

 最後にペ・ドゥナは、保護施設から釈放されたオク・ジヨンを連れて海外へ飛ぶ。だが…どこへ? 映画はそれを示さない。一見若者の旅立ち…風に描かれてはいたが、ハッキリ言って何のプランも当てもない。おそらくはお先真っ暗だろう。エンディングの飛行機の離陸シーンに、「The End」ではなく「Good Bye」とクレジットが出るのは、おそらく偶然じゃない。何か目的があるわけじゃない。現状からの離脱だ。「おさらば」しちゃった…では、どこへ? どのどこかへ行ったら、何か解決するのか?

 一方、大都会ソウルで疲れ切ったイ・ヨウォンは自分を片思いしていた男の子にすがるが、それが何らかの解決策になるとは思えない。それは結局その場しのぎのものでしかないだろう。

 何より仲良しの女の子たちが、この手の映画にありがちなように再び連帯を確かめ合って終わる訳じゃないのがシビアだし…リアルだ。彼女たちは空中分解したまま、映画はそれをあえて纏めようとせずに終わる。彼女たちの抱えた問題も一切解決しないまま。そして飛行機の離陸にダブる「Good Bye」の文字…。

 とてもじゃないけど、これがハッピー・エンディングとは思えないよね

 そして僕も今なら分かってる。この年齢になってみれば分かる。自分の実人生を振り返っても、人生ってそんなもんだ。

 

見た後の付け足し

 そんな辛口の青春群像劇なはずなのに、なぜ韓国映画お得意の古色蒼然たる「被害者意識のカタマリ」みたいな映画にならなかったのか? どうしてカラッとした爽やかさに満ちているのか?

 一つには登場人物にも映画にも、人と人との間にあえて距離を置くような、一種のドライさがあるからだろう。それは、どっちかというと熱く湿り気の強い韓国社会が変わってきたと言うことなのか。

 だが、それはジメッとした「いかにも一時代前の韓国映画」になる事からこの作品を救ってはいても、カラッとした爽やかさにまでは至るまい。それを実現出来たのは、中心に据えられたペ・ドゥナの善良でオリジナリティ溢れる個性ゆえだ。天真爛漫だけど現代的にドライ。善良だけどウソっぽくない。そんな「ほえる犬は噛まない」のままの個性がここでも全開。彼女が中心にいるから、物語の悲惨さが中和される。作品のドライさが冷え冷えとしたものにならない。みんなとのつながりを重視しても、過度の圧迫感で迫っては来ない。彼女が言うからこそ、こんな台詞もリアリティがある。

 「あなたが斧で人殺しをしても、私はあなたの味方だよ」

 リアルな現実を描くのも大事だが、リアルだけではツラ過ぎる。どこかに理想を残しておきたい。それを体現するのが、ここでのペ・ドゥナだと思うんだよね。

 そう言えばこの映画の主人公たちは5人組なのに、その中で双子の姉妹だけは単なるコメディ・リリーフ以外の役割は持たされていない。つまり彼女たちはドラマを担う役割を何ら持っていない、作品のシビアさを中和するために加えられたキャラクターではないか。そう考えるとこの映画は5人組の映画というより、やっぱり映画・演劇界の伝統の黄金パターン「三人娘」ものを踏襲したものだと言えるのかもしれない(これは本国のポスターなどの写真に登場するのが、すべて双子を除いた三人だけにとどまっている事からも明らかだと思う)。

 またこの映画では、若い人たちのリアリティが見事に描かれて秀逸だ。目に見えるカタチでの新しさとしては、携帯メールとかタイプライターの文字などが画面に登場してくる手法のユニークさがある。特に全編携帯電話がこれでもかこれでもかと使いこなされて、まったくそこに違和感がない。これって確かに若い人たちにはリアリティあるだろうね。いろいろと世の中便利になりながらも、逆にお互いの心を隔てるモノには事欠かない現代は、こうした通信手段やツールが何よりも重要なはずだ。若い人たちにはおそらく、携帯メールは酸素みたいに必要で不可欠で「ない」ことなど思いもよらないモノなのだ。画面にシャレたカタチでレイアウトされる携帯メールの文字は、そんな若い人たちの気分を表現したものだと思う。

 チョン・ジェウンという女性監督はこれが長編第一作ということだが、この映画の鮮度とリアリティ、そして身につまされ方は尋常ではないよ。結末の付け方にはどうしようか困っちゃったみたいにも見えるし、何かの象徴として出された子猫もあまり活かされなかったように思えるが、それでもここまでやったのは大したものだ。

 そしてシビアな現実を描き、解決もなく結末を放り出しながらも、この映画には明るさみたいなものがある。「このように世の中はシビアなんです」…で終わらせようとすれば終わらせたのに、そうしなかったのはチョン・ジェウンの素晴らしい美点ではないかな。

 きっと彼女はこの映画に、ほんのわずかでも希望みたいなものを残しておきたかったんじゃないだろうか。それは見つけるのが難しいし、なかなか見つからない。だが、決して「ない」わけではない。だから見つける努力をやめてはいけない。そして見つけたら何よりも貴重なものだ。ペ・ドゥナの言葉が象徴している真の「善意と連帯」こそが、見つけることは困難だが決してなくしちゃいけないものなのだ。

 「あなたが斧で人殺しをしても、私はあなたの味方だよ」

 かつて、僕に似たような事を言ってくれた人間もいた。結局それは空しく消えてしまったけれど、その言葉を聞いた時は至福の思いがした。そんな言葉を人から言われることなどないと思っていたから、それを聞いて生きてて良かったと思った。実際の話、一度でもそれを聞けただけでも、僕は幸せだったのかもしれない。

 そういうものが、本当にこの世にあると分かっただけでもね。

 

 

 

 

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