「白いカラス」

  The Human Stain

 (2004/07/19)


  

今回のマクラ

 昨今のプロ野球界をムチャクチャにかき回して、オールスター戦のお祭り気分まで水を差したのが、近鉄・オリックスの合併問題だよね。

 何せプロ野球のオーナー会議とやらが招集されても、もう合併は既成事実みたいな扱われ方。とても何十年も歴史があるプロスポーツチームがなくなるという、重大な問題が話されているとは思えない。しかも両チーム合併どころか1リーグ制移行についてまでが既成事実化して、事が勝手にどんどん進行しているように思われた

 本来なら選手やファン第一に考えるべきなのに、おかしいではないか…という怒りについては、「シルミド」感想文でお伝えしたが、その後事態はいよいよおかしな方向に進んでいった。

 その後、インターネット・ビジネス関連の「ライブドア」なる企業が、近鉄球団を買い取ろうと名乗りを上げたことで、問題はより一層明らかになる。

 僕はこの会社がどんな会社か知らない。だから話題づくりの偽善かもしれないし、球団経営に値する会社じゃないかもしれない。カッコいい事言ってるあの社長も、口先ばかりのペテン師かもしれない。だけど、一応は球団買収に名乗りを上げたのだ。一球団の運命がどうなるかの瀬戸際。これは実にプロ野球界から見れば、ノドから手が出るありがたい話ではないか。

 ところが近鉄球団はこれを剣もホロロに追い返した。話も聞こうとしなかった。それどころかオーナー会議でもマトモに議題にしなかった。しかも無理やり1リーグ制への話を既成事実のものとして突っ走った。何年ぶりだか知らないが、わざわざオーナー会議に出てきた西武の堤オーナーは、何を血迷ったかさらにもう一件合併話が持ち上がっているとブチ上げた。一体こりゃどういうことなのか?

 ベンチャー企業などアテにならないと言うなら、テメエだって新興のオリックスはどうなんだ。インターネット・ビジネスなんて先行き危ないとブツクサ言ってるようだが、イマドキはローカル鉄道会社あたりの方がよっぽど危ない。素性が怪しいなどとケチつけるなら、堤よ、オマエがJOC会長やってた時に長野冬季五輪の招聘でどれだけ汚いカネを使ったんだ。そもそも、ちゃんと球団経営考えているかどうか分からないなどと、経営が立ち行かずに投げ出そうとしている近鉄が言う資格があるのか。金があればいいってもんじゃないとナベツネは言っていたが、その文句そっくりそのままオマエとオマエの恥知らずな球団・読売ジャイアンツに返してやるよ。こいつら揃いも揃って世の中ナメてるんじゃないのか。

 とにかく買収したいと言っているんだ、話くらい聞いたらどうなんだ。

 なのにこいつら揃いも揃って、球団合併、1リーグ制に無理やりにでも持っていきたかったらしい。あげくの果てに署名運動をしようとした選手に対して、近鉄社長は脅しともつかない暴言を吐いた。選手会の会長である古田に対しても、あのナベツネは「たかが選手ごときが」などと吐き捨てた。

 テメエらはゴロツキか。

 客もファンも選手もお構いなし。これはおそらく、年金法案だろうと自衛隊の多国籍軍参加だろうと、ロクに話し合いもしないで強行した某総理大臣の手口が影響しているんだろう

 まずはこんなことをしていたら、日本のプロ野球は早晩ダメになるだろう。人気もなくなるし誰も見なくなる。みんな浮世のウサを忘れたくて見るのに、自分の現実よりもっとウンザリするものなど、誰も見たくもないはずだ。

 しかもこんなテイタラクじゃこの分野の将来に期待が持てないから、子供たちがあこがれも持たなくなる。これは子供の夢を守れなどというチンケな話じゃないよ。人材が確保できなくなるという深刻な事態を生むのだ。まったくこの「オーナー」と称する連中、ホントに頭悪いんじゃないだろうか? 医者に診てもらったらどうだ。堤はかつて「世界一の金持ち」と言われた日本を代表する財界人だが、こんな奴が日本のトップだから今は世の中こんなテイタラクなんだ。

 それだけではない。一事が万事。人ごとでは済まされない。今回の買収話が報道されたとたん、一般には知られていなかったライブドアがパーッと社会的に認知されたことでお分かりだろう。落ち目とは言えまだまだ社会的に影響力を持つプロ野球界での出来事は、アッという間に一般社会に波及する

 それと同じように、今回のオーナーたちの横暴が罷り通れば、社会のどんな分野でも同じような乱暴な振る舞いが容認されてしまうだろう。

 人を切り捨てようが何だろうが構わない、プロセスや決まりごとなど関係なしで突っ走れる…という悪しき前例が、今度のことで世の中に認知されてしまうのだ。それは一野球チームだけでなく、世の中全般に渡って望ましくない影響を与える。その影響の大きさを考えた時、決してやっちゃいけない事なんだよ。

 幸いな事に…と言うべきだろうか、その後状況はかなり変わってきたらしい。まぁ、発端はナベツネの「たかが」発言が、連合あたりを刺激してしまった事だろうか。それでなくても労使の関係が微妙なこのご時世に、まったく言わなくてもいいことを言ったもんだ。

 さらに阪神のオーナーあたりが反旗を翻してから、他のオーナーたちも一斉に1リーグ制反対を唱えだした。実はこの人も最初はナベツネたちと同調してたはずだし、他のオーナーたちもそれに従っていたはず。だから、今ごろどうした風の吹き回しだと言いたくもなる。天の邪鬼の僕としては「嬉しさも中くらいなり」ではあるが、ともかく事態は好転してきたと言うべきなのだろう。

 だけどそもそも、一体どうしてこうなっちゃたんだろうね?

 それはあのオーナー連中が、人の痛みや悲しみを分かってない事が問題ではない。分からないのは仕方がない。自分の事以外は分からないのが当たり前だ。

 実は、彼らは自分が「分かってない」ということすら分かってない…ということが問題なのだ。

 

見る前の予想

 この映画の予告を見たとき、あまりの豪華キャストに目を見張った。

 何せ今いちばんアブラの乗ったニコール・キッドマンと、「ハンニバル」アンソニー・ホプキンス、そこに脇でゲイリー・シニーズやらエド・ハリスが絡む。それもあくまで「脇」で…だ。贅沢なキャスティングだよねぇ。

 にも関わらず、予告編を見ていて映画に鮮度を感じなかったのは、一体なぜだろう?

 どうもお話は人種問題を絡めたもののようだが、鮮度が感じられないのはそのせいだろうか? 

 物語は案の定地味なもののようだが、それが鮮度のなさやら元気のなさみたいに見えるのも気になる。ある意味で旬のスターや大物がゴロゴロ出ているのに、この漂ってくる元気のなさは何なのだ。マジメな内容だからって事はあり得ない。マジメだろうと何だろうと、活気というものは面白い映画には絶対に不可欠なものなのだ

 だから僕はもう少しでこの映画をパスするところだったよ。ちょっとつまらないんじゃないかと思ってね。では、僕はどうしてこの映画を見る気持ちになったか?

 これはロバート・ベントンの最新作なのだ。

 

あらすじ

 それは冬の寒い朝のことだった。雪の積もった湖畔の田舎道を一台のクルマが走っている。運転しているのは初老の紳士アンソニー・ホプキンス、そして寄り添うように乗っているのは、このホプキンスとは不釣合いな若い女ニコール・キッドマンだ。

 ところが前方よりいきなりピックアップトラックが突っ走ってくる。あわやホプキンスのクルマと正面衝突かと思いきや、急ハンドルで回避。しかしクルマはそのまま道からはずれて、凍りついた湖に突っ込んでしまう…。

 そんなホプキンス、実はかつてある名門大学の学部長をも勤める立派な人物であった。ただし、彼はその地位にあったとき、情け容赦なく合理化を断行。それが一次は落ち目の一途だったこの大学を立ち直らせもしたが、ホプキンスに多くの敵もつくった。その報いが、晩年の今頃になって彼に返ってくることになろうとは。

 事の発端は些細なことであった。授業に出てこない何人かの生徒を、ホプキンスが「スプーク(幽霊)」だとからかった。それが意外にも問題視されることになったのだ。「スプーク」には、実は黒人に対する蔑称の意味もあった。しかも欠席している生徒は揃いも揃って黒人学生。それで「差別発言」だということになったのだが。

 だがホプキンス自身は、彼らが黒人だなどと知る由もなかった。彼に差別などという気があるわけもなかった。そもそも彼は、この大学に始めて黒人教授を招いた男でもあった。だがそんな事はお構いなし。「政治的な正しさ」の前に、ホプキンスはどうすることも出来なかった。

 怒り心頭のホプキンスは大学に辞表を叩きつけ、裁判で争う意思を固めて家に帰ってくる。だがこの突然の降って沸いたような不幸は、心臓病の妻にはあまりにショックが大きすぎた。彼女はホプキンスに抱かれながら世を去った。そうなると、ホプキンスも今さら拳を振り上げて戦う気力を失っていた。

 ホプキンスが近所に住む作家ゲイリー・シニーズの元に訪ねてきたのは、それからしばらくしてのこと。突然のホプキンスの訪問にシニーズはびっくりしたが、それも当然。ホプキンスはシニーズと面識があったわけではなかった。それをいきなり家に上がりこんで何を言うかと思えば、何とも痛いところを突いてくるではないか。「賞の候補にもなった君が、その後は作品も発表せずに田舎に引っ込んでる。スランプなんだろ!

 そして単刀直入に要件を言った。

 「いいネタを提供しよう。私のことを書いてくれ」

 何を言うかと思えば、ホプキンスは自分が陥れられたことを告発するノンフィクション作品を、シニーズに書いてもらいたいと思っていたのだ。

 だが何せ突然のこと、心の準備もないシニーズは当惑した。会っていきなりスランプと決め付けられたのも驚いた。何よりノンフィクションは自分の管轄外だ。

 「それはご自分でお書きになったらいかがです?

 さすがにそれはそうだ、とホプキンスは思ったのか。ネタ提供の話はそれっきりになった。結局それはホプキンスが自分で書くことにしたようだが、じきにそれにも情熱を失った。

 それでも、これが機会となってお互いを知ることになったホプキンスとシニーズは、何かと交流を深めていった

 ある出来事がキッカケで人前から姿を消した「世捨て人」シニーズも、このホプキンスにはなぜか心許せた。ホプキンスと交流を深めていくうちに、シニーズの頑なな心も和んでいく。

 だがホプキンスには、そんなシニーズにも語らないたった一つの秘密があったのだ。

 

 それは、彼が黒人だということ

 

 若き日の彼(ウェントワース・ミラー)は親に隠れてボクシングに熱中しながら、奨学金を得て大学に進学することを夢見ていた。ボクシングのコーチも彼を励ましていた。ただし彼にこう言いながら…「あくまで自分は白人だと言えよ」

 確かに彼は黒人にしては肌が白かった。黙って見れば、そのまま白人として通ってしまう。だから彼もことさらに、自らの黒人としての出処を明らかにはしなかった。その方が、世の中何かと都合がよかったからだ。

 そんなある日、彼は美しい若い娘ジャシンダ・バレットと知り合う。知的でいながらボクシングに打ち込む彼の逞しさに、バレットはたちまち夢中になる。彼のほうも彼のほうで、すっかりバレットの虜となってしまったのだが…。

 

 さて、現代に話を戻して…そんな古い過去には触れることなくホプキンスとシニーズの交流は続く。そのうちシニーズは、ホプキンスから思わぬ告白を受けることになる。

 「恋人ができた」

 それもホプキンスにしては年甲斐もなく…と言うべきか、お相手はまだ若い女。どこか身を持ち崩したようなニコール・キッドマンがその人だ。

 ホプキンスとキッドマンの出会いは郵便局。閉める寸前の郵便局に切手を買いに飛び込んだホプキンス。そのう郵便局で下働きをしていたのがキッドマンだった。

 折りから雨が降り出し、キッドマンをクルマに乗せることになったホプキンス。彼女の住まいは近く酪農農家で、彼女はそこに住み込みで働いていた。またホプキンスがかつて在籍していた大学でも掃除婦として働いていており、つごう三つの仕事を掛け持ちという日々。そんな「働き者ぶり」に感心するホプキンスに、キッドマンは「忙しくしてりゃ考えずに済む」と素っ気ない。

 ところが酪農農家に隣接する彼女の住まいまで着くと、キッドマンはさりげなくホプキンスを誘う。「うちに寄ってく?」

 突然の意表を尽いた誘いに、慌てふためくホプキンス。そんな彼に、キッドマンはクギを刺すように言い放つ。「慰めてもらいたいなら、よそをあたってね」

 ホプキンスはなかなか思い切れず、そのうちキッドマンはクルマを降りて家に入ってしまう。だが扉は開け放したままだ。それを見つめているうちに、ホプキンスはいても立ってもいられなくなった。慌ててキッドマンの家の中に入っていくと、そんなホプキンスの思いなどお見通しのごとく、キッドマンがベッドに全裸で横たわっているではないか…。

 だがどこか粗野で奔放、衝動的で不安定なキッドマンと、知的で紳士然としたホプキンスとは、年齢の違いから見ても社会的背景から見ても、教養もセンスも何から何まで違いすぎる

 しかもキッドマンはその外見から彷彿とされるように、あまりに訳ありの女だった。幼い頃から義父に犯され、十代で家出。結婚した相手エド・ハリスはベトナム帰還兵で、そのときのトラウマから彼女に暴力を振るった。たまりかねた彼女は子供を連れて逃げ出すが、不幸にも火災が起きて子供は死んでしまう。そんな彼女を子供を死なせたとなじりながら、行く先々行く先々立ち回ってイヤがらせをしていく、いまやストーカーと化した元夫のハリス…。

 そんな不幸のつるべ打ちに、ついつい取り付くシマのない態度をしてしまうキッドマン。だが、それでもホプキンスは愛していた。

 だがホプキンスがキッドマンの家で夜を過ごしているときも、執拗にやってくる元夫ハリス。警察がやってきて捕まっても全然懲りない彼に、キッドマンならずとも身の危険を感じずにはいられないホプキンスだった。

 そんなホプキンスに、周囲はキッドマンとの関係を思いとどまるようアレコレ忠告する。だがホプキンスは頑なにこれらの「助言」を拒み、そのどこか高慢で見下したモノの言い方を嫌って、キッドマンとの仲を否定的に言う人々をシャットアウトした。しかし、第三者ならこの二人の危うさを感じないわけはない。だからついにはあのシニーズさえ、ホプキンスにキッドマンとの仲について苦言を言ってしまう。案の定、これはホプキンスの猛反発を招いただけだ。

 だがホプキンスは反発はしたものの、唯一シニーズにだけは真情を吐露した。「これは初恋じゃない、最高の恋とも思わない、だが最後の恋なんだ!

 

 そんなホプキンスの脳裏には、遠い若い日の自分の「最初の恋」が思い浮かんでいたのか。

 例の若い娘ジャシンダ・バレットとすっかりいい仲になった彼。いつしか二人は結婚の約束を取り交わしていた。ただ、彼はいまだにバレットに告げることができなかった。自分が黒人である…という秘密を

 そしてある日、彼の家にバレットが遊びに行くことになった。もちろん、それは婚約者として紹介するということだ。自分が百万語かたるよりも、とにかく会ってもらうのが早い。そう思ったのか、彼は家族の事は何も告げずに、バレットを自宅に連れて行った。

 ドアが開いたとたん、黒人の母親アンナ・ディーヴァー・スミスとバレットがいきなり顔を合わせる。そのとき、瞬間的に両者の目は凍りついた

 その日以降、バレットは彼と会うことはなかった

 彼が自分の境遇に失望を覚えたのは、それが初めてではなかった。彼の父親は教養のある人物だったが、それでも食堂車のボーイでしか生計を建てられなかった。それが黒人としてのキャリアの限界だった。

 彼は、今度という今度は我慢が出来なかった。

 彼は母親に告げた。もうこの家には戻ってこない。両親もいなければ兄弟もいない。自分はこれからユダヤ人として生きていく…。

 それは、後の人生をずっと偽り続けて生きていくことを意味していた。

 ならば「人種差別」で訴えられたホプキンスは、いかにやり切れなかったことか。それでも、「なぜそれが不当なのか」…を語ることだけは、ホプキンスには絶対に出来なかったのだ。

 

 どんなに不釣合いだろうとリスクがあろうと、ボロボロになった孤独な晩節を「最後の恋」に賭けたい…。その思いに、一体どこの誰が意義を唱えられよう。

 だがホプキンスにとって本当にツラいのは、キッドマンの元夫が常に彼女をつけ狙っていることではなかった。彼女との交際が周囲の知人たちの総スカンを食らっていることでもなかった。こうまでホプキンスが愛し、庇おうとしているキッドマン自身が、事あるごとに実に困った敵意と頑なさを露わにすることだ。

 キッドマンをシニーズに紹介しようとしたときも、まるで発作のように大暴れした。それが高級レストランだろうとどこだろうと構わない。ホプキンスの家に彼女を泊めたときも大変だった。今まで誰からも裏切られ裏切られ、運にも見放されて辛酸なめつくしてきたキッドマンは、だから人に対する寛容さがまったくなくなっていた。愛情で受け止めようとするホプキンスに対しても、情け容赦なく牙をむいた。

 職を失った、地位を失った…それが何よ? そんなもの事件でも何でもない。義父が自分のアソコに指を入れてきた、それが事件よ。亭主が自分の頭をカチ割った、それが事件よ。子供が火事で焼け死んだ、それが事件よ。そこまでいって初めて事件と言えるのよ!

 だがそれを言ってはオシマイ…ということは、キッドマン自身が知っていた。彼女は翌日ホプキンスの家に戻ってくると、自分の無礼を詫びた。彼女が気づいたこと…それはホプキンスも同じく悟っていたことだ。

 「他人には、人の悲しみの大きさは分からないからね」

 

ロバート・ベントンに取り憑いたトリュフォーのトラウマ

 ロバート・ベントンの新作なんて、最後に見たのはいつだろうか?…そう思って調べてみたら、何と「ノーバディーズ・フール」(1994)以来なんだよね。それ以来、日本で彼の作品が劇場公開されることなかった。もっともこの「白いカラス」(2003)までの間に、未公開作もたった一本しか製作されてないらしいから、どちらにせよ非常に長い沈黙を守っていたことは間違いない。正直言って今の映画ファンには馴染みの薄い監督さんかもしれないが、それでも一時期は人気実力ともに一目置かれる存在ではあったんだよね。

 僕にとってのベントンと言えば、彼のちょっと後から頭角を現してきた映画作家バリー・レビンソンと似た経歴を持つ人…という印象がまずある。脚本家上がりの映画監督という点がまず共通していて、ベントンは「俺たちに明日はない」(1967)、「スーパーマン」(1978)など、レビンソンは「サイレント・ムービー」(1976)、「ジャスティス」(1979)などの脚本で名を挙げていった。この脚本家時代に単独ではなく、ベントンがデビッド・ニューマン、レビンソンがバレリー・カーティン…と、あくまで相棒との共作で脚本を書いていたのも共通項だ。ベントンが「クレイマー、クレイマー」(1979)、レビンソンが「レインマン」(1988)と、二人ともアメリカン・ニューシネマ出身の大スター、ダスティン・ホフマン主演作を出世作としてのし上がったのも奇縁と言える(ついでに言えば、両作品ともオスカー作品賞を獲得し、ホフマンに主演男優賞をもたらしたのまで同じだ)。発表する作品がジャンル的に偏らず、しかもどれも強烈な個性やクセを放つわけではない。どこか穏健で品と知性を感じさせる作風まで共通する。だからどうしても、僕の中でこの二人はワンセットに感じられるんだよね。ただしこの二人が親しいとか、一緒に組んで仕事をしたとかいうわけではないから、これはまったく根拠のない偶然の産物なんだけども。

 ただし、ベントンには僕がかねてから注目していた一つの傾向があった。

 それはフランソワ・トリュフォーへの、強烈なまでの傾倒ぶりだ。

 それはまず、彼を一級の映画監督に押し上げた最大のヒット作「クレイマー、クレイマー」を見てみれば、よく分かる。

 まず最も分かりやすいポイントと言えば、ここでベントンがトリュフォー作品の名カメラマン、ネストール・アルメンドロスをわざわざ起用していることが挙げられるだろう。

 アルメンドロスはこれが初めてのアメリカ映画というわけではなく、すでにテレンス・マリックの「天国の日々」(1978)に起用され、オスカーまで得ている。だが、美しい自然や風景を描く「天国の日々」を見て、ニューヨークの現代の日常を描くホームドラマ「クレイマー、クレイマー」に起用しようという発想は成り立つまい。

 では、なぜこれがトリュフォーつながりの起用なのかと言えば、理由はたった一つ。それは「クレイマー、クレイマー」という映画のテーマにある。

 ズバリ、「教育」だ。

 もちろんそれは仕事一辺倒だった主人公ダスティン・ホフマンが、身をもって体験する「子育て」を意味するものであることは言うまでもない。またこの作品では、それは逆に父親としての在り方をホフマン自ら覚えていく「教育」でもある。劇中2回登場するフレンチトーストの場面は、それを何よりも端的に物語っていた。

 そして「教育」「子供」と言えば、トリュフォー映画の大きな題材の一つでもある。

 まず「思春期」(1976)がある、「野生の少年」(1969)がある、何より長編デビュー作「大人は判ってくれない」(1959)がある。で、ここで特に注目したいのは「野生の少年」だ。

 この「野生の少年」、トリュフォー自らが主演した作品として、「アメリカの夜」(1973)とともにフィルモグラフィーの中でも異彩を放つ作品だ。物語はフランスであった実話を元にしたもので、森の中で獣として育ってきた少年が捕獲され、それを文明回帰させようと科学者が努力する姿を描いたもの。つまりは、テーマはまさに「教育」だ。親の愛に恵まれなかったトリュフォーはこの「教育」「しつけ」という問題には特に関心が強かったようで、どこかの映画祭での「野生の少年」上映後の記者会見で、野生児はそのままにしておいたほうが良かったのでは?…という記者の質問を受けたとき、ショックを受けて泣き出してしまったというエピソードも残っているほどだ。つまりは、それだけトリュフォーにとっても強烈なモチベーションのある作品だったのだろう。

 この映画はアメリカでもかなり評価が高いようで、ことにハリウッド映画人に与えた影響は絶大。この映画の主演ぶりを見たスピルバーグが「未知との遭遇」(1977)にトリュフォーを起用したことは有名だ。

 そして、この映画の撮影監督を務めたのがネストール・アルメンドロスなのは言うまでもない。

 しかも「野生の少年」と「クレイマー、クレイマー」とをつなぐファクターは、「教育」というテーマ、カメラマンのアルメンドロス起用以外にもう一つある。それは「野生の少年」を実際に見てみれば分かる。最近「野生の少年」をご覧になった方は、「アッ」と声を上げて驚いたはずだ。

 そこには「クレイマー、クレイマー」のテーマ曲的扱いで使われてすっかり有名になった、ヴィバルディの「二つのマンドリンのための協奏曲」がすでに使用されているからだ。

 最初あの曲が「クレイマー、クレイマー」で使われたとき、あまりに巧みな選曲で、ひどく感心した記憶がある。結構評判にもなったよね。だけど、それってちゃっかりトリュフォーのパクリ(笑)だったとは驚く。ともかく、ここから考えても「クレイマー、クレイマー」に「野生の少年」の絶大な影響があるのは明らかだろうし、かつこうまで堂々と引用しているということは、ベントンがトリュフォーに対する敬愛を隠そうとしていないことを如実に表わしていると言えよう。普通ここまで露骨にはやらないよ*注1

 実はベントンのトリュフォーとの縁はこれが初めてではない。脚本を手がけた「俺たちに明日はない」も、最初はアーサー・ペンではなくトリュフォーが監督オファーされたと言うのだ。これは元々が脚本家ベントンの要請だったのか。そもそもアメリカン・ニューシネマはヌーヴェル・バーグから影響を受けたものであり、「俺たちに明日はない」が往年のワーナー・ギャング映画へのオマージュ的性格を持っていること、トリュフォーはじめヌーヴェル・バーグ一派がアメリカ・ギャング映画に傾倒していたことなどまで併せて考えると、実に興味深いエピソードだと思う。

 また、脚本作「スーパーマン」でのクラーク・ケントとロイス・レインのからみは、どことなく昔のエルンスト・ルビッチやフランク・キャプラ映画のタッチを思わせもする。このあたりも、実にトリュフォー好みな映画の路線だよね。

 こうしてトリュフォーの痕跡という点でベントン作品を追っていくと、確かにほとんどの作品が不思議なほどそこにハマっていく。監督デビュー作の「夕陽の群盗」(1972)は「俺たちに明日はない」以来のアウトローものを西部劇の世界に再現(余談ではあるが、この映画の原題をそのままバンド名にしたのが、「キャント・ゲット・イナフ」の大ヒットを放ったバッド・カンパニーである)。未公開作の「レイト・ショー」(1977)は映画界のバックステージものらしく、これまた「アメリカの夜」、「終電車」(1980)を放ったトリュフォー・テイストが彷彿とされる。

 次がベントンをトップ・ディレクターに押し上げた「クレイマー、クレイマー」。その成功を引っさげてまずつくった作品は…と言えば、ヒッチコック・タッチが色濃いサスペンス「殺意の香り」(1983)だ。ヒッチコックがトリュフォーの十八番ということは、今更ここで語りなおすこともあるまい。

 そういう意味では監督としてのキャリアの二度目のピークとでも言うべき「プレイス・イン・ザ・ハート」(1984)だけは、唯一この時期のベントン作品でトリュフォーの影を感じさせないものと言えるだろう。おそらくはここからベントンの作家としての成熟が始まるもの…と僕なども思っていたのだが…。

 ところがこの後、ベントンのキャリアは下降線に転じてしまう

 キム・ベイシンガー主演のフヤけたサスペンス・コメディ「消えたセクシー・ショット」(1987)は、またもヒッチコック・タッチ…狙いなのだろうか? どうにもうまくいってない。再びダスティン・ホフマンを起用してのギャング映画「ビリー・バスゲイト」(1991)も精彩を欠いた。これらでは一旦は離れようとしかけたトリュフォー的世界に、再びドップリ戻ってきているのも顕著だ。これは一体どうしたことだろう?

 ここからは僕のこじつけなのだが、その理由はトリュフォーの死にあるのではないかと思う。

 1984年の10月に、フランソワ・トリュフォーは脳腫瘍で亡くなっている。僕はこの事が、ベントンにものすごい精神的痛手を与えてしまったのではないかと思うんだね。映画作家としての師、おそらくは「心の師」として仰いでいたはずのトリュフォー。「クレイマー、クレイマー」でちゃっかりヴィバルディまでパクったベントンならあり得るだろう。そんな精神的バランスを失ったためか、ベントンはその後急速に勢いを失ってしまった

 そんな低迷期を脱してベントンが新生面を発揮したのが、「ノーバディーズ・フール」だった。この映画はあのベントン作品、そしてポール・ニューマンとの初顔合わせ…というには、あまりにあまりなひっそりとした公開のされ方だった気がする。だが映画そのものは素晴らしかった。いつまでも少年の心を忘れない…と言えば聞こえがいいが、早い話が大人になれない男。そのままで初老まできてしまった男ポール・ニューマンの日常を淡々と描くドラマ。そんな男のここまで至っての達観というか、改めての自覚というか、ともかく心の中に静かに沸き起こるさざ波みたいなものを丹念に描いて秀逸。

 見た当時36歳だった僕でもかなり身につまされてしまったが、いつまで経っても大人になりきれないダメなオッサンになった今見たら、完全にシャレになってないんじゃないか? ともかく老境に差しかかった男が真情を吐露するような作品をいきなり放ち、それまでとクッキリ一線を画した作風を見せた。これには驚いたよね。そしてベントンはすっかりトリュフォーの呪縛から逃れたな…と、僕も納得したわけだ。

 おそらくこの時ベントンは、トリュフォーへの敬愛の念以上の、何か今までと全く違う創作のモチベーションを手に入れたのではないかと思う。それが何なのか…については、ここではしかと特定は出来ないが、おそらく今までよりもっと「個人的なもの」のように思える。個人的な何らかの思い入れだからこそ、ずっと自分を捕らえていた呪縛からも解き放たれたし、作風も一変したのではないか? 作品そのものが主人公の「心境映画」とでも言うべきモノになっているというのが、何より創作のモチベーションが「個人的」なものであることを現しているはずだ。

 その後、ベントン作品は劇場にはかからなかったが、実は未公開作が一本あると言う。その作品「トワイライト」(1998)は、またしてもポール・ニューマン主演の探偵映画らしい。これの出来栄えは見てないから分からないが、ニューマン主演ということから考えて、何らかの形で「ノーバディーズ・フール」の延長線上にある作品という位置づけは見えてくる。

 というわけで、やっとこ本作「白いカラス」の出番。日本での最後の公開作「ノーバディーズ・フール」から10年、最後の監督作品「トワイライト」からも6年。長すぎる沈黙をようやく破ったロバート・ベントン。

 さて、その新作は?

 

見た後での感想

 さて、そんな久々のロバート・ベントン作品は…と言えば。

 静かなピアノの調べ。暗い雪道をひた走るクルマ。抑えた画調が印象的な冒頭を見た瞬間から、これは確かに「ノーバディーズ・フール」以降の流れを汲むベントン作品だな…と察しがつく。ならばまたしても、主人公の心境にシミジミと迫る作品に違いない。

 案の定、主人公はまたしても老境に差し掛かった男、アンソニー・ホプキンスだ。さすがに「ノーバディー〜」のポール・ニューマンと違って、いいトシこいても子供心を持っているというわけではない。だが、いつまでも彼を責めさいなむのは、若い頃の苦い記憶だ。それが彼をして、心の底から人生を成就させない。すなわち、成熟させてくれない。やはりこれは、別の意味であの「ノーバディーズ・フール」ポール・ニューマン・キャラの延長線上にある人物と言えるだろう。

 しかも彼は今、年甲斐もなく恋をしている。その浮き立つ気持ちからか、ゲイリー・シニーズの手をとってのダンス・シーンがあって、これはなかなか楽しくも絶品。さすがに複雑なバックグラウンドと年齢を重ねた男が恋心に浮かれるという、何とも難しい表現を見事にモノにしている。ここはこの映画最大の見どころかも。

 …となると、これは期待できそうってことになるが、映画を見始めてすぐに、ちょっとだけ気になってきたことがあった。

 それは、この映画で扱われている題材だ

 主人公がひそかに抱え込んだ人種問題、彼の若い恋人が抱えた児童期の性的虐待、夫からの家庭内暴力、子供を亡くしたトラウマ、さらに彼女の夫を蝕んだベトナム後遺症…。まるで現代アメリカの病巣を一手に集めたがごとき状況だ。よくもまぁ揃えたり。不幸のデパートか総合商社かというテイタラク。これって果たしてどう思う?

 例えばアメリカ映画で日本ロケした映画を撮ったとしよう。その作品は、ひょっとすると人力車に芸者、虚無僧に剣道の試合、鐘がゴ〜ンなんて描写がつるべ打ちになるかもしれない。だがそれらにはどこも偽りはなく、すべてロケでその場にあるものを撮ってきたものだとしよう。

 ならばそれらは確かに現代日本にすべて存在するものだ。だからそれは何らウソではないということにはなる。リアルな日本と言いたくなるだろう。

 でも、現実の日本に暮らしている僕らは、そんなものばかり並んでいるのを見たことがない。偶然にも、そんな日本的モノばかり次から次へと出くわすことはまずない。だとしたら、それって「ありえる」ことは確かだけど、「わざとらしい」ものでしかないよね。それにリアリティは感じまい。

 だから、この映画での現代アメリカ不幸のオンパレードも、何ともわざとらしくしか見えない

 しかもそれらの中心に置かれているのが人種問題というのも、映画の鮮度を落としているのではないか

 すでにアメリカでは人種問題は「解決済み」…なんて言うつもりはない。そんなことを決め付けられるほどアメリカ通でも傲慢でもない。実際のところ昔よりは大分マシではあっても、いまだに厳然と残っているはずだ。簡単に消えはしまい。それは確かにそうだろう。だから人種問題を扱った映画、イコール時代遅れとは思わない。

 だが今日、改めて映画というメディアで人種問題を扱う時に、1960年代のように表層的に扱ったら確かにいささか古臭い感じがしてしまうだろう。それは不当な言い方かもしれないが、もはや使い古されたような鮮度に欠けるイメージなのだ。少なくともそれを今取り上げるならば、それなりのオリジナリティーのある視点や切り口が必要だ。今時「招かれざる客」(1967)から一歩も脱しないレベルで描いてしまっては、さすがに説得力を欠く。ベトナム後遺症についてもしかり。

 そんなこんなでこの映画は、何となく「鮮度のなさ」「元気のなさ」を発散させてしまうのだと思う。

 しかし大味を売り物にしている娯楽映画作家ならまだしも、アメリカン・ニューシネマの渦中にいてトリュフォーを信奉していたベントンが、そのへんを分からないはずはあるまい。デリケートな味を何よりも大切にするベントンのはずだ。わざとらしさなど最も忌み嫌うところだし、そうなることを警戒もしていよう。

 なのに…この映画はかくもシンミリと静かでキメ細かくつくられているのに、なぜこうまでリアリティや新味に乏しいのか? そうなることをベントンは気づかなかったのか?

 いや、そうではあるまい。

 

他人には、人の悲しみの大きさは分からない

 考えてみれば、ロバート・ベントンが圧倒的悲劇やら社会派的題材やらを手がけるなんてことは、「クレイマー、クレイマー」あたりからすでにあり得ない話だった。元々がセンセーショナリズムやらジャーナリスティックな視点などとは無縁の人だったからね。

 「ノーバディーズ・フール」に至っては、なおさらそれはあり得ない。監督の興味はほとんど主人公の個人的心境やら内面の心の動きに終始しているからね。

 で、この「白いカラス」は…と言えば、そんな「ノーバディーズ・フール」以降のベントン映画を確実に踏襲しているはず。その理由に、まず老境に至った主人公を据えたことを挙げたのは先の通りだ。

 それ以外にも、この作品と「ノーバディーズ・フール」との共通点は確実にある。

 それは老境の主人公が年甲斐もなく恋愛に陥ること、相手が歳の離れた女であること、さらに彼女たちには夫(元・夫)がいる、どこか危うい恋だということだ。

 「トワイライト」が未見のため、これが「ノーバディーズ・フール」以降のベントン作品すべてに当てはまる共通点かは分からないが、少なくとも二つの作品の間にかくも似たファクターが繰り返されるのは、偶然とは考えにくいのではないか。その恋が成就するしないの違いはあるけれど、少なくともベントンはこの二作で共通のオブセッションを持ちながら作品づくりをしていたことは明らかだし、ゆえにこの二作にメンタル的な部分で共通するものがあるのは間違いないと思われる。

 まぁ、このデリケートな恋愛のあり方にはいろいろ興味がわくものの、それがベントンの個人的創作モチベーションとどう絡んでいるのかは、ちょっと断定しかねるものがある。だからこの件についてはこれ以上深入りはしない。しかし、どうもそういう「極めてプライベートな事件」が個人の心に与える影響については、かなり興味と関心を抱いているようなんだよね。おそらくベントンがトリュフォーの呪縛から逃れた際に、新たに手に入れた個人的なモチベーションとはこれなのではないか。

 そしてそれは…どうも「人には表立っては言えないような事」らしい。

 だから「ノーバディーズ・フール」の場合、主人公のポール・ニューマンは女の愛を大人の分別で諦めた。心の中に止めておいた。今回は女への愛にブレーキはかけないものの、「人には表立っては言えないような事」というオブセッションは、この映画全編に渡って散りばめられている。ここで主人公たちが抱える苦しみ、悲しみ、秘密の数々は、表立っては人に言いにくい。言っても理解されないどころか、言ったら非難されかねない、あるいは命取りになるかもしれない。

 あるいは言ってどうなるということもない。言ったところで誰に解決できるわけでもない。そんな時、人は自分のそんな秘密を、心の中に封印する。その事情、その苦しみ悲しみ、その良し悪しなどは、他人にどうこう判断つくことではないからだ。

 それなのに、人はしばしばいとも簡単に他人を裁く…。

 面白いのはこの映画の開巻まもなく、クリントン前大統領の不倫疑惑の話が語られ、それがしばしばニュース音声などで繰り返されることだ。ここでのクリントン不倫報道は、何ら政治的意味合いを持ちはしない。それは、この映画のテーマを象徴したものでしかない。まぁ、クリントンのやったことがホメられた事ではないにせよ、だ。

 人は簡単に人を裁く。だが、人は本当に人を裁くに値いするモノサシを持ちえているか?

 誰でも人には言えないことがある。あって当たり前だ。本当はそんなもの持っていない方がいいに決まっているが、やむにやまれぬ事情から隠さずにはおれない。だから必死に封印をする。

 だが、仮に秘密を封印しきることが出来たとしても、幸せにはなれない。なぜなら、それは絶対の孤独の上にしか成立しないからだ。黙り続け偽り続け、他者と本当に心を通わすことなしに生きなければならない。

 そして秘密が明らかになったとしても、やっぱり人は孤独を味わう。激しい非難を浴びずとも、人々の無神経で無遠慮で無思慮な扱いから不当に責め苛まれるのがオチだからだ。あるいは安易な同情さえイヤなものだろう。少なくとも、結局のところ他者は自分の気持ちを理解出来ないと確認するだけだ。

 中でも一番愚かしいのは、人の苦しみ悲しみを「比べて」しまうことだ。

 劇中アンソニー・ホプキンスの秘められた過去を知らないニコール・キッドマンは、「自分の苦しみを分かりもしないで」と怒りをぶつけてくる。ホプキンスが黙っているのをいいことに、テメエ勝手な理屈で責め苛む。だが翌日、彼女は己の過ちを悟るのだ。無論、自分も人から不当に扱われ、苦しい思いをしてきた人間だからこそ分かったに違いない。

 それは彼女に対してホプキンスが語る一言に集約されている。

 「他人には、人の悲しみの大きさは分からない」

 どっちが大きいとか大変だということなどない。それを言うのはナンセンスだ。それを誰よりも痛感させられ、悔しい思いをさせられ、誰よりも知っていたはずのキッドマンですら、ついつい知らなかったとは言えホプキンスを裁いてしまった。そんな自分の過ちに気づいたとき、初めてキッドマンは彼に謝ったんだよね。そしてそれまで人から傲慢に踏みつけられ続けたホプキンスは、そんな彼女に初めて自分の秘密を打ち明けようとする。やっと打ち明けられる人を見つけた…という、それは喜びの末の告白だったのか。「痛みを持った者」どうしだけが分かり合える…という事なのだろうか?

 いや。それは「相手の痛みが分かる」というほど単純な事ではあるまい。おそらくは「相手の痛みは分からない」ということを「分かる」…ということなのだろう。それすら人はなかなか理解出来ないからね。

 でも、それでもいい。「自分は相手の痛みが分からないのだ」という事を分かってくれるだけでいい。そういう相手こそが、心の痛みを持っている人間にとっては真に心許せる相手だから。ホプキンスはあの瞬間、おそらくそう思ったんじゃないか。

 二人を乗せたクルマが事故に合うのは、その直後だ。

 劇中では、二人を乗せた車はブレーキすら踏んでいなかったと言う。つまりは自分の意思、自らの決断で事故を起こしたということなのか。納得づくの、思い残すこともない境地ゆえの行為だったのか…。

 ベントンがそんなホプキンスに共感を寄せているのは間違いない。それも、極めて「個人的」な共感を…。

 

見た後の付け足し

 人に他人のことなど分からない。本当の気持ちや置かれた立場やら、切羽詰った状況など分からない。まして自分と他者とどっちが苦しみ悲しみが上かなどという愚かな比較が、そこで罷り通るわけがない。それでも人はしばしば安易に人を裁いてしまう。

 僕もさんざやられたよ。一番苦しいときに分かったようなことを言われた。そういう時は別に励まして欲しいわけじゃない。共感してくれなくてもいい。いわんや同情なんて、これぽっちも欲しくない。ただ人の足を引っ張らないで欲しいと思うだけだ。

 そのうち、人に何かを語るのも空しくなった

 そもそも自分が喜びに心浮き立たせていた時も、怒りや悲しみに動転していた時も、僕にその感情をもたらし続けたモノ自体は「人には表立っては言えないような事」であり続けた。それがさらに僕を深く傷つけた。そんな僕の気持ちなど他人には分かるまい。僕と秘密を共有していた人間ですら何も分かっていなかった。それだけじゃない。何とか丸ごと受け止めようとする僕を情け容赦なく踏みにじりもした。気の毒な人ではあったけれど、人に対する寛容さをまるっきり持っていなかった。

 この映画のアンソニー・ホプキンスの言葉は、まさに僕が何度も人に言いたかった言葉だ。それくらい、このセリフは的を得た一言だったよ。

 「他人には、人の悲しみの大きさは分からない」

 この映画に出てくる人種問題、幼児虐待…それぞれには、当然それらに伴う苦しみや悲しみがある。この映画は、そんな人間の抱える問題にまつわる「思い」について語りたいのであって、個々の問題そのものについて取り上げるものではない。現代アメリカの抱える問題をゴロゴロとあえてオンパレード的に並べたのには、そんな意図があったのだろう。どれもこれもツラく苦しいだろうが、どっちがどっちより大きい小さいというものではない。…それを言いたいがための平板な並べ方だったのだろう。要はベントンにとって、人種問題もベトナム後遺症もどうでも良かった。主人公が実は黒人である事なんて、ホントはまるで関心がなかった。

 それが何であるか…は、ここでは問題ではない。ただ、人に言うに言えない、伝えても分かってもらえない苦しみの例として挙げられたものなのだ。

 そのため、それらの問題にはあえて深く立ち入らないし、どこか一歩退いた扱いにしたはずだ。「人種問題」の映画、「社会問題」の映画にはしたくなかったから。

 ところがそうしたはいいが、それが結局のところ災いしてしまった。本当に平板でリアリティのない並び方になってしまった。だから、それがまったく痛みや悲しみに実感の伴わないものになってしまった…。これは、おそらくベントンの誤算だったはずだ。何より「他人には、人の悲しみの大きさは分からない」と主張する映画が、それを地でいってしまったのは皮肉だった。

 だから、この映画は残念ながら成功作とは言えない

 だが、映画としての処理の成功不成功はともかく、ベントンはただ、「人には言うに言えない悲しみがある」、そして「他人には、人の悲しみの大きさは分からない」…と言いたかっただけだったのだ。だから僕もそれだけ伝われば満足だ。今までその事に漠然と気づいてはいても、ハッキリと言葉にすることは出来なかったからね。

 例え映画として出来はイマイチでも、僕にはそれで十分なのだ。

 

 

 

 

(注1)余談だが、ブルック・シールズ主演「青い珊瑚礁」(1980)も、撮影監督にネストール・アルメンドロスを起用していることから「野生の少年」を意識している可能性が濃厚だ。野生児の成長という物語からも、モロに共通するテーマであることがお分かりだろう。

 

 

 

 

 

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