「ワイルド・レンジ/最後の銃撃」

  Open Range

 (2004/07/19)


  

見る前の予想

 何と言っても見たかったんだ、この映画は。

 最初、新宿に出来たばかりの小さな映画館で次回上映作としてチラシを見つけた時から、妙に胸騒ぎがした。これは見たい…と血が騒いだ。ただし、これは今年最大の話題作だなんて言うつもりはないよ。

 実は僕が「ワイルド・レンジ」のチラシを手に入れたこの映画館、出来て間もないがいまだにヒット作などない。いつ行ってもラクに入れるという、お客からすれば助かるが映画館側としては困っちゃう状況が続いていた。そこにこの映画だ。正直言って映画館にとっても映画にとってもキツいなぁ…と思っちゃったよね。

 だって見てもごらんよ。タイトルが「ワイルド・レンジ/最後の銃撃」と来る。どう見たってB級のタイトルだ。そこへ来てキャストがロバート・デュバル、ケビン・コスナー、アネット・ベニング…という案配。デュバルは名優だけど、どちらかと言えば渋い脇役というイメージだろう。すると筆頭はケビン・コスナーという事になるが、コスナー自体のスター・バリューもねぇ…。

 おまけに、監督もコスナー自身だ。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブズ」で監督としてオスカーをとったが、その次に放ったのが「ポストマン」と来る。ここでこの人の映画作家としての信頼はガタ落ちだ。

 おまけにおまけに、映画そのものは西部劇だと言う。こりゃもうそれだけで息の根が止まってる。西部劇は今時死滅したジャンルだし、そもそも日本の映画興行はオンナ相手に回っている。だからヨン様映画はモテはやされても西部劇は省みられない。こういう状態ってひどく不健康だと思うんだけどね。

 ともかくブラピも出なけりゃタランティーノも監督しない、CGも使わなければベストセラー原作もない、ショーン・ペンも関わってなければ有名ミュージシャンによるサントラCDもヒットしてない、ニコール・キッドマンもジュリア・ロバーツもレニー・ゼルウィガーも関係ない、もちろん韓国映画でもなけりゃヨン様も出ない、そこに西部劇と来るわけだ。当たるわけがないだろう。

 だから、かつては一世を風靡した大スターのケビン・コスナー映画でも、ヒット作皆無の小劇場はじめ都内でたった2館だけの公開というショボさ。翻ってこの映画館からしてみたら、落ち目のコスナーに西部劇という最悪の映画しか回ってこないとも言える。もう最初から映画と映画館に、幸薄な雰囲気が濃厚に漂っているわけ。

 けど…だからこそ僕はこの映画が、面白いんじゃないかと思えたんだよね。むしろイマドキ女からソッポ向かれそうな映画の方が、ホントのところは面白そうって気がしないか(笑)? みんな本音じゃそう思ってないかい。

 だから何が何でも見たかった。で、その結果はと言うと…。

 

あらすじ

 アメリカ西部の大平原に、何十頭もの牛を放牧しながら旅する男たちがいた。そのボスは超ベテランのカウボーイであるロバート・デュバル、その片腕で抜群の射撃の腕前を誇るケビン・コスナー、さらに大男の料理人アブラハム・ベンルビ、メキシコ人の若者ディエゴ・ルナ…という顔ぶれの4人。彼らは牛を放牧しながら旅から旅へと、定住することなく何年も暮らしていた。

 旅の途中にはいろいろある。ある時は豪雨に見舞われ、テントの中でトランプをしながらやり過ごす。晴れれば再び旅に出る。老練なカウボーイのデュバルにはコスナーさえも一目置いており、彼の言うことには必ず従う。そんなコスナーは寡黙で余計なことを口にしない男だ。一同の中で新入りのルナは自分が嫌われているのでは…と思いこむが、大男のベンルビはそんなルナを諭す。恩を忘れず報いれば必ず一目置いてくれる、そういう二人だ…かく言うベンルビも二人には、深い恩を感じていたのだった。

 さて出発と言う前に、ここから先はしばらく町がないので、デュバルはベンルビを町まで買い物にやる事にした。彼が戻ってくるまで、しばし大平原で待つ一同。

 ところがいつまで経ってもベンルビは戻ってこない。さすがにおかしいと心配したデュバルとコスナーは、町まで様子を見に行く事にした。

 町にたどり着くと厩舎に馬を預けるデュバルとコスナー。ついでに厩舎のオヤジであるマイケル・ジェッターに尋ねてみると、先日町でちょっとしたトラブルがあったと言う。大男が暴れて人にケガをさせ、今は留置場に入れられていると言うのだ。早速デュバルとコスナーは、保安官事務所へと急ぐ。

 保安官事務所には、保安官のジェームズ・ルッソと共に一人の男が待ちかまえていた。この男こそ、町の最大の有力者で、周囲に広大な土地を所有する牧場主のマイケル・ガンボンだった。この男はベンルビのケンカ沙汰には触れず、ひたすら牛の放牧についてひとくさり。土地から土地へ牛を放牧して歩くやり方は、今や時流に合わないと主張するのだ。ゆえに通行者には法外な通行料を取る。それがガンボンのやり方だ。保安官ルッソもこのガンボンに抱き込まれ、横暴に一役買っていた。

 デュバルとコスナーが「それは法で守られた権利だ」と言っても聞く耳を持たない。ガンボンは自分の牧場に勝手に入り込み、牛にその草を食わせるなんてもってのほかだと言い放つ。あげくの果てには、かつてこの土地を通った牛追いたちが殺されたりヒドイ目に合わされたなどと脅すに至るから始末に負えない。「仲間を引き取ったら、さっさとここから出て行くんだな!」

 ともかく暴利とも言える保釈金を払ってベンルビを引き取るが、彼は頭にひどいケガをしていた。このまま平原に連れて帰る訳にはいかない。かくしてデュバルとコスナーは、傷ついたベンルビを町の医者の元へと連れていった。

 医者の家の扉が開くと、一同を出迎えたのは若くはないが美しい女。そんな彼女…アネット・ベニングを一目見ただけで、コスナーはどうしようもなく惹かれてしまう。ともあれそのベニングと医師ディーン・マクダーモットに世話をされて、何とかベンルビも様子を持ち直した。「あんな女なら結婚してもいいな」…などとテメエ勝手な事を言いながら、ルナが留守を守る馬車と牛たちの元へと戻るのだった。

 ところが三人がやっと戻ってみると、事態は奇妙な様相を呈していた。

 頭からマスクをかぶり馬に乗った男3人が、遠くからこちらを伺っている…というではないか。なるほど確かにそいつらはいた。しかもルナが見ていた時よりも増えて4人、じっと威嚇するようにこちらを見つめている。デュバルとコスナーは、保安官事務所で牧場主ガンボンが言っていた言葉を思い起こし、何とも胸くそ悪くなった。このままやられっぱなしでたまるか!

 その夜、焚き火を焚いて野営する例の4人の男たちに、デュバルとコスナーが不意打ちを食らわす。痛めつけてベンルビの仇を討ったつもりが、こいつらは意外な事を言い放った。「今頃オレたちの仲間がオマエらの相棒の元に行ってるだろうよ」

 慌ててキャンプに戻るデュバルとコスナー。しかし一足遅かった。ルナは頭をカチ割られた上、腹を撃たれて重傷。ベンルビはすでに息がなかった。可愛がっていた飼い犬まで殺され、さすがのデュバルとコスナーも声が出ない。

 デュバルはコスナーにルナを連れて逃げろと言う。彼は一人ですべてカタをつけるつもりだ。だがルナは意識を失ったままで、とても長旅には耐えられないカラダ。結局町に戻ってマクダーモット医師とベニングに診せる以外に手はない。「今回ばかりは、ボスであるあんたの言う事は聞けないぜ」

 かくしてデュバルとコスナーは、陰謀渦巻く町へと戻ってきた。めざすはマクダーモット医師の家。それは、牧場主ガンボンやルッソ保安官との全面対決を意味していた。だが事がここに至った上は、デュバルもコスナーも望むところ。デュバルには自由に大地を行き来する牛追いとしての意地があった。そしてコスナーには、かつて誰にも言えないならず者としての忌まわしい過去があった。今さら殺しに何らためらいはない。

 運命の時を前にして、男たちは初めて今まで語らなかったお互いの事柄を語り出す…。

 雨降る中を、やっと医師の家までたどり着くデュバルとコスナー。昏睡状態のルナを運び込んだものの、マクダーモット医師は生憎と留守だった。あのガンボンの元に呼ばれて、彼の用心棒のケガを見てやっていたのだ。皮肉にもそれは、デュバルとコスナーが痛めつけた連中だった。

 その代わり…というわけではないが、自らも医術の覚えがあるベニングがルナの具合を看ることになった。デュバルとコスナーはルナをベニングに一時預けて、町の食堂へと脚を伸ばす。

 雨はますます激しくなり、町の大通りはまるで川のようになっていた。そこに一匹の犬が流されてくるが、たまたま通りかかったコスナーが危ういところを助けた。それが縁で、犬の飼い主である町の住人と知り合いになるデュバルとコスナー。

 だが事もあろうにデュバルとコスナーは、飯を食いに行った食堂でルッソ保安官とハチ合わせ。たちまちその場は一触即発。デュバルとコスナーの話からルッソ保安官たちの非道ぶりを知った町の人間たちは困惑するが、かと言って彼らにタテつく訳にもいかなかった。

 さすがに客がごった返す食堂の中での撃ち合いは避けられたが、二人の存在を知った保安官ルッソが彼らの命を狙うのは必至だ。案の定、例の厩舎のオヤジのジェッターがやって来て、デュバルとコスナーの帰りを怪しげな男たちが待ちかまえていると報告してきた。こうなるとむざむざやられる訳にはいかない。ならば逆に反撃するしかないだろう。

 デュバルとコスナーはいきなり保安官事務所へ乗り込むと、ルッソ保安官をブチのめして捕らえ、事務所にある留置場へと監禁した。しかもデュバルは見慣れぬ小ビンを取り出し、ルッソ保安官に嗅がせるではないか。それは先ほどマクダーモット医師とベニングの家で、デュバルがチャッカリとくすねていたクロロホルム。さすが老練デュバル、どんな時でも用意周到だ

 さてデュバルとコスナーはそのまま保安官事務所でじっと待ち続け、ノコノコとやって来た牧場主ガンボンの用心棒たちを一網打尽。全員にクロロホルムを嗅がせて、これで安心できる…とばかり酒場へとやって来た。ここのバーテンがガンボンの息のかかった男だったので多少不愉快な思いはしたものの、そこはコスナーの脅しで言うことをきかせる。酒場にはさきほど犬を救ってやった男などもいて、話をする相手もいた。聞けばみなこの町の連中は、ガンボンやルッソの横暴には腹を据えかねていた。しかし命は惜しいしどうする事も出来ぬと…見て見ぬフリでここまで来たというのが本当のところ。それを聞いたコスナーは、ついつい本音をブチまける。「黙っていると、死ぬよりツラい目に合うこともあるんだぜ」

 ともかくベニングに看てもらっているルナの容態を確かめねば…デュバルとコスナーは再びマクダーモット医師とベニングの家に向かう。医師はまだ帰ってきていなかった。デュバルとコスナーを暖かく迎えるベニングを、以前より熱い思いで見つめるコスナー。それもそのはず。デュバルとコスナーは先ほどの酒場で、耳寄りな話を聞いていたのだ。それまでデュバルもコスナーも、ベニングはマクダーモット医師の妻だとばっかり思っていた。ところが本当は医師の姉だというではないか。これに思わず希望の灯がともる思いがしたコスナー。そんなコスナーの本音を、デュバルもとっくにお見通しだ。そんなこんなで、コスナーとベニングの二人は何となくお互いの思いを通わせる

 さて翌朝、町の連中はこの日何が起きるのかは先刻ご承知。だから用心深い町の住人たちは、みな町から少し離れた教会へと避難を始めていた。そうでない住人たちも、窓を閉め切って家にひたすら閉じこもる。そう…この日、牧場主ガンボンと彼が雇った用心棒たちに対して、デュバルとコスナーが挑戦状を叩きつけるのは、みなの周知の事実となっていたのだ。

 コスナーはデュバルに助言され、ベニングに熱い思いを打ち明けてから立ち去った。その後デュバルとコスナーは雑貨屋に立ち寄り、精一杯の贅沢としてスイスのチョコレート二枚とキューバ葉巻三本、合計5ドル也を購入。彼らを何かと助けてくれた厩舎のオヤジ・ジェッターと葉巻を分け合ったあげく、町はずれでガンボンたちがやって来るのを待ちかまえた。

 やがて二人の前に、名うての殺し屋どもを従えた牧場主ガンボンが、銃を構えてやって来る…。

 

ハリウッド映画の王道・西部劇の衰退

 西部劇というアメリカ映画の代表的ジャンルの衰退…とは一体いつ頃からの事だろう? 

 実は僕が映画を意識的に見るようになった時には、とっくに西部劇は衰退していた。時は「ゴッドファーザー」「ポセイドン・アドベンチャー」の頃だから、1972年以降と考えていただければいい。その時には、すでに西部劇というジャンルは、すっかりたそがれちゃってたんだよね。

 その理由は…と言えば、いろいろな事が考えられるだろう。西部劇は往々にしてアメリカ先住民族(=インディアン)との戦いを描いたものが多い。しばしば先住民族側にとっては白人の侵略であり虐殺や掠奪でしかないのに、あくまで白人側からインディアンの脅威と都合良く描いたものが多かった。ゆえに少数民族への配慮が強まった1960年代以降のアメリカでは、なかなか成立しにくくなったんだよね。

 そして西部劇に流れる世界観は、あくまでアメリカン・ウェイの理想をうたい上げたもの。そのあまりに純朴…あるいは単純アナクロ単細胞な思想は、ベトナム戦争やらカウンターカルチャーの洗礼を受けたアメリカでは、いささか色褪せたものにしか見えなかったのだろう

 そこに映画全体の衰退が追い打ちをかけ、さすがの人気ジャンルだった西部劇も衰えずにはいられなかった。「ララミー牧場」「拳銃無宿」「ローハイド」など、タダで見られるテレビ西部劇の氾濫も痛かった。しかもハリウッドの弱体化と共に、製作拠点のヨーロッパへの移動やヨーロッパ映画人や映画作品の流入も盛んになり、殺伐とした残酷味を強調したマカロニ・ウエスタンが脚光を浴びた。これがハリウッド製の正統派西部劇に致命的な打撃を与えたのは言うまでもない。

 中にはそんな時代の流れを反映した「ソルジャー・ブルー」(1970)などの西部劇も誕生したが、当然のことながらそこにカタルシスなど望むべくもない。サム・ペキンパーが世界に衝撃を与えた「ワイルドバンチ」(1968)も、長い目で見れば西部劇の墓穴を堀ったも同然だったのかもしれない。実はジャンルとしての西部劇は、おそらくこのあたりですでに「死んで」いた。ジョージ・ロイ・ヒルがバカラック・サウンドを引っさげて発表した「明日に向って撃て!」(1969)も、西部劇…というよりアメリカン・ニューシネマの一翼を担った作品として記憶されているはずだ。

 この時期に頑張っていた正統派のアメリカ西部劇と言えば、一人ジョン・ウェイン主演作品が孤塁を守っていたという事になるのだろうか。そのあたりについてはオレゴン魂感想文に書いた通りだが、「ラスト・シューティスト」(1976)を最後にウェインが亡くなってからは、それも途絶えた。

 最後の西部劇作家ペキンパーも、「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」(1973)を最後に二度と西部劇をつくる事はなかった。というか、この時期あたりからは西部劇専門で撮っていた監督たちが、一斉に「転向」を始めてしまう。例えばアンドリュー・V・マクラグレンというジョン・フォード門下生の監督を見てみれば、このあたりの事情がよりお分かりいただけるのではないか。かつては「マクリントック」(1963)、「スタンピード」(1965)など西部劇専門に撮り続け、西部劇衰退後もジョン・ウェイン主演作の監督として「チザム」(1970)や「ビッグケーヒル」(1973)などとしぶとく生き残ってきたマクラグレンも、「大いなる決闘」(1976)を最後に西部劇は撮っていない。「ワイルド・ギース」(1978)、「北海ハイジャック」(1980)、「シーウルフ」(1980)などの冒険アクションへと方向転換してしまった。確かブルック・シールズ主演の「サハラ」(1983)なんてのも撮ってたはず。これはさすがに見ていて悲しかったね。

 ただ、西部劇は完全消滅してしまったか…と言えば、実はそうではなかった。皮肉にもハリウッド西部劇を追い込んだマカロニでスターとなり、ハリウッドに凱旋してきたクリント・イーストウッドがいまだ頑張っていた。「荒野のストレンジャー」(1972)、「アウトロー」(1976)、「ペイルライダー」(1985)…と、途中に現代アクションを交えながらもイーストウッドは一途に西部劇をつくり続けていた。それらは本来マカロニ風味が濃厚だったはずなのに、いつの間にか正統派ウエスタンの芳醇な香りを放つようになったから不思議だ。

 それ以外は幾度となく「西部劇復興」の狼煙が上がっても、それが盛り上がったためしはなかった。いくつかの例外がありながらも常に単発で終わったまま。ポール・ニューマンとジョン・ヒューストンが組んだ異色のユーモア・ウエスタン「ロイ・ビーン」(1972)、アーサー・ペン監督、マーロン・ブランドとジャック・ニコルソン主演という異色の顔合わせによる「ミズーリ・ブレイク」(1976)、何とフランスのクロード・ルルーシュが自らの代表作「男と女」をそっくり開拓期の西部に持ってきた「続・男と女」(1977)、スティーブ・マックイーン晩年の寂しさ漂う「トム・ホーン」(1979)、ローレンス・カスダンが「スター・ウォーズ」シリーズや「レイダース/失われたアーク」で培ったハリウッド映画の伝統と現代性のブレンドを西部劇の活性化につなげようとした「シルバラード」(1985)、ブラッドパック系ヤング・スターによる「ヤングガン」(1988)…いずれも作品的に不発か、瞬間的に盛り上がりは見せてもジャンルの隆盛には一向につながらない

 例えばジェーン・フォンダがジェームズ・カーンと組んだ西部劇「カムズ・ア・ホースマン」(1978)でさえ、日本では劇場未公開の憂き目を見ている。この時期のフォンダと言ったら、「ジュリア」(1977)で劇的カムバックを遂げて以降破竹の勢い。「カリフォルニア・スイート」「帰郷」(ともに1978)、「チャイナ・シンドローム」「出逢い」(ともに1979)、「9時から5時まで」(1980)…とハズしなしの快進撃を続けていた真っ直中。そんなフォンダ主演作でさえも、西部劇だけはコケた

 この時期、現代男性アクションを撮らせたら第一人者だったウォルター・ヒルの監督作品にも、西部劇は何と「ロング・ライダーズ」(1980)と、ずっと下って「ジェロニモ」(1993)のたった2本しかない。

 しかもこの時期には、空前の超大作にしてスキャンダラスな大コケを記録し、西部劇というジャンルそのものと映画会社ユナイテッド・アーティスツに致命傷を与えた、マイケル・チミノの「天国の門」(1981)という「事件」も起こっていた。

 クリント・イーストウッドが「許されざる者」(1992)で大成功を収めたのは例外中の例外。その後、この作品の影響かいくつかの西部劇が散発的につくられたが、そのほとんどは徒花的に終わった。トム・クルーズとニコール・キッドマンという当時の夫婦共演が話題の「遙かなる大地へ」(1992)、シブめの男優を起用した「トゥームストーン」(1993)、異色女優4人主演の「バッド・ガールズ」(1994)、サム・ライミの「クイック&デッド」(1995)…などなど。それがジャンル再生までには至らなかったのは言うまでもない。そして「許されざる者」を最後に、イーストウッドは西部劇からの撤退を明言している

 そもそも1980年代から1990年代にかけて、ハリウッドで最もマッチョな男性アクション・スターぶりを競っていた両雄、シルベスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーの主演作に、西部劇だけがスッポリ抜け落ちているのを見ても、その退潮ぶりは明らかだろう。

 いや、もう一つ例外があった。ケビン・コスナー監督主演による「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1990)だ。実はコスナーはカスダンの「シルバラード」にも主演していたし、同じカスダンを起用して「ワイアット・アープ」(1994)も制作していた。ただしこちらは惨憺たる出来映えだったけれど…。

 ならばコスナーが今また西部劇にチャレンジするのも、極めて自然な事ではないか。

 

ケビン・コスナー落ち目からの脱出

 それにしても、いつからケビン・コスナーって「落ち目」の代名詞になっちゃったのかね?

 ケチのつき始めは何なんだろうと考えてみたが、やっぱりあの歌謡ムード・アクション(笑)「ボディガード」(1992)からのような気がする。以来、折角のイーストウッドとの顔合わせもハズした「パーフェクト・ワールド」(1993)、ローレンス・カスダン=西部劇とくれば「シルバラード」以来の黄金カードのはずなのにハズした「ワイアット・アープ」、大型予算で大コケのついでにハゲCG修正疑惑まで出てハズした「ウォーターワールド」(1995)、超ワンマンで長尺映画をつくったもののオスカー監督としての声価までなくしそうなほどハズした「ポストマン」(1997)、ナルシスティックなロマンス映画にしたあげくに親父役のポール・ニューマンと役を交替すべきと言われるほどハズした「メッセージ・イン・ア・ボトル」(1999)…と、ザッと見ていっても奈落の底へ一直線という感じで無惨な作品がズラリと並ぶ。これじゃあ確かに落ち目と言われても仕方がない。

 だからついにコスナー監督主演作の上映が、あのヒット作皆無の映画館にまで落ちてしまったというわけだ。いや、こんな言い方をしたら映画館に失礼だが、現実なんだから許していただきたい。

 でもね、今はこんな状態でコスナー映画と言えばダメ映画とみんなからバカにされてしまうけれど、実は近年のコスナー作品、意外に面白いものが少なくない。いや、実はかなり面白い

 例えば、サム・ライミ監督を起用したラブ・オブ・ザ・ゲーム(1999)。野球映画と来ればコスナーの独壇場。やっぱり顔がどこかゲイリー・クーパーを思わせるように、古き良きアメリカの理想を体現しているところがあるんだよね(もっとも、それが実はオレ様野郎だったという評判が漂ってきたからこそ、裏切られた思いで人気が失墜したんだろうけど)。この映画はしがないロートル選手の哀感が漂っていて、なかなか悪くなかったよ。実は作品的にはコスナー映画の復調はここから始まっている…と僕は見ているんだけどね。

 そんな彼が次に挑んだのが、キューバ危機を扱った政治ノンフィクション13デイズ(2000)。ここではコスナーは自分よりずっと格下の役者に花を持たせ、脇を固める抑えた芝居。これには驚いた。コスナーの方向転換が、カタチになって現れたのがこの映画なんだよね。

 次の「スコーピオン」(2001)は見ていないんで分からないが、かなりダーティーな役柄らしく、これまたイメージ脱却だ。このあたり意識的にやってるんだろうか。続くコーリング(2002)は映画そのものもお得感溢れるサービス精神に満ちた快作だが、コスナー自身も自らを「ハゲ」呼ばわりされる役柄と大きく様変わり。今のコスナーは、もう「オレ様」とは言えないスターになってるんじゃないかね。

 そんな中、「ポストマン」の汚名挽回とばかりに監督作品を発表するとすれば、おそらくはかなりの覚悟を秘めた作品だと思うんだよね。だからこの「ワイルド・レンジ」には期待した。

 何かただならない予感がしたんだよね、これはいけるんじゃないかと。

 

見た後での感想

 いやあ、久しぶりに堪能した!

 味わい深くて本格的な、あの西部劇の味。僕も内心ヤッテクレルのでは…と思ってはいたが、まさかここまでとは。

 とにかく何からホメたらいいのか。まずは「絵」からホメてみるか。

 カナダでロケされたとの事だが、この映画にとらえられた西部の風景が何とも美しい。それがすべてのカットにわたって美しいから驚く。まるで絵に描いたようだ。おそらくCGなんか使ってないんじゃないのか? ボケ〜ッと画面だけ眺めていてもウットリする。あのマイケル・チミノの「天国の門」もシビれるような画面の美しさだったが、この映画もワン・カット、ワン・カットが絵のように美しい。そしてすべての建物がロケ・セットらしく、室内シーンでも常に窓から素晴らしい景色が覗いている。ハッキリ言ってそれだけでゴージャスだ。

 物語は今までの西部劇に何度も描かれて来た、牧場主の横暴とそれと戦う男たちのお話。新味はない。だがこの映画は大筋だけを見てはつまらない。むしろ命はディティールだ。

 牛追いたちが日頃どうやって過ごしているか。雨の日はどうしているのか。雨が降った時、西部の辺境の町はどうなるのか。そうした細々としたディティールを積み重ねて、何とも見応えのあるものにしている。もちろんセットも小道具も凝りに凝っている。これは大したものだよね。そして、ディティールが緻密だから画面内の情報量が膨大で、すごくリッチな感じがある。ある意味で凄く贅沢な映画なんだよ。

 で、僕はここで、ちょっと気づいた事があるんだよね

 話がいきなり変わって恐縮だが、僕はあの黒澤明の「七人の侍」の成り立ちについて面白い話を読んだ事がある。これは有名な話なのでご存じの方も多いと思うが、黒澤明は「七人の侍」をつくるにあたって、最初からあんな野盗と侍の対決を描くつもりじゃなかったらしいんだね。実は最初、昔の侍はどんな生活をしていたかを、リアルな描写で描きたいと思っていたらしい。何を食っているか何を着ているか、どうやって生計を建てているか…それを積み重ねていった結果生まれたのが、「七人の侍」だと言うのだ。

 実はね、ケビン・コスナーもそれを狙っていたんじゃないか?

 「七人の侍」の黒澤方式を倣って、西部劇に同じ方法論を応用した。「ワイルド・レンジ」はコスナー版「七人の侍」だとは言えないだろうか? いや、「七人」のリメイクだとは言わない。大体リメイク西部劇はすでにジョン・スタージェスの「荒野の七人」がある。おまけにこちらはガンマンは二人だけ。だが、あくまで黒澤作品の要素を応用し、そのリスペクトでつくってはいないだろうか?

 それは意外に突飛な考えじゃないと思うよ。おそらくコスナーは黒澤に敬意を払ってこの映画をつくっている。それは随所に見られるのだ。

 例えばつまらない事だが、今回の配役の序列がある。何とこの映画、筆頭はロバート・デュバル。コスナーはあくまで二番手。このあたり、「13デイズ」から顕著になったコスナー「オレ様」回避策の一環と見れば確かにそうだが、僕はそれだけじゃないと思ってるんだよね。

 実際にデュバルはこの映画の中で常にリーダーで、コスナーはいつもデュバルに一目置いている設定になっている。その落ち着きぶりたるや…それってどこか「七人の侍」での志村喬みたいな存在感ではないか。

 役者のキャラ的にも、映画の中での位置づけ的にもそうだ。目立つ役はスターである三船敏郎の菊千代がやってはいるが、それでも中心というか要はあくまで重鎮・志村。そのあたりの位置づけが、今回のデュバルの扱いにも同様に感じられるのだ(さすがにコスナーのキャラはオチャラケの三船=菊千代とは似ても似つかないが)。このへんのスターとしてのポジショニングって、何となく「七人の侍」の志村と三船を参考にした形跡が感じられるんだよね。

 さらに厩舎のオヤジが主人公二人と最初に出会う町の住人であり、それから何かと彼らを助けていること。これって「用心棒」における東野英治郎そっくりの役柄ではないか。

 黒澤作品の向こう側にはジョン・フォードがいるし、こっち側にはセルジオ・レオーネからイーストウッド、ペキンパーが控えている。「ボディガード」で「用心棒」を引用して黒澤オマージュを捧げたコスナーなら、大いにあり得る話ではないか。僕はコスナーが西部劇らしい西部劇を現代に再生産しようとした時、そのテコとして黒澤を持ってきたに違いないと思っているけどね。

 まぁともかく、この「ワイルド・レンジ」はディティール命の映画だとは思う。物語に直接関係ない枝葉の部分が目立つから、やたらスピードアップされているイマドキ映画に慣れた人には贅肉が多い映画だと思われてしまうかもしれない。でも、おそらくそれなしには「ただのアクション映画」になってしまう。無論それでも悪くはないのだろうが、それでは今の時代にわざわざ西部劇を蘇生させるまでもあるまい。この「ゆったり感」は映画の必然なのである。

 それは、同じコスナーの監督主演作「ポストマン」と比べてみれば分かる。

 あの映画も「ゆったり感」が印象的な作品だ。しかも今にして思えば、近未来の荒廃したアメリカを開拓期のそれになぞらえて描いたSF西部劇だ。その意気やよし。しかしここでの「ゆったり感」は、単なるコスナーの思い入れの吐露にとどまっている。あの西部劇の「呼吸」「空気」をも甦らせた作品を希求するが故のあのテンポだったのだが、それを近未来SFの「擬似的西部劇」でやろうとしたから、今の映画としてそう見せる必然性に欠けていた。だからそれに付き合わされる観客は、結局は彼の独りよがりの思い込みやらナルシスティックな入れ込みを見せられる気がしてしまう。というか、結果的にそういう映画にならざるを得ない。

 「ポストマン」は絶滅した西部劇を新たに甦らせようという試みだったのだろうが、その表現方法において根本から間違っていた。おそらく「ワイルド・レンジ」こそは、「ポストマン」での失敗を土台にしたケビン・コスナーの敗者復活戦だったのだろうと思う。

 そしてここに描かれたのは、いかにも西部劇らしい「絵」だけではない。西部劇が象徴していた、ある種の価値観がある。

 ともかくこの映画に出てくる主人公たちの、心根がいいのだ。映画の冒頭近く、牛追いロバート・デュバルとケビン・コスナーに雇われた料理人アブラハム・ベンルビが、新入りの若者ディエゴ・ルナに語る台詞がそれを物語っている。「オレはあの人に恩があるんだ」

 「恩がある」…イマドキまったく聞かなくなった言葉だ

 でも、かつてはこういう美徳はこの世に確実にあった。そしてこの映画の主人公たちは、損得勘定ではなく自分のプライドや流儀や尊厳のために一歩も退かない。食後のポーカーでズルをしたルナをコスナーが許さないのも同じ事だ。それが流儀に合わないから認められない。同じように、牧場主たちの強欲からの横暴も目をつぶれない。それが自分の損になろうと何だろうと曲げない。

 西部劇の精神というのは、まさにそれだった。

 それ以外にも、デュバルとコスナーら主人公たちが見せるデリカシー溢れる人との接し方。荒くれ者で教養もないのに、彼らはデリカシーに溢れている。それはアネット・ベニングに対する態度にも現れている。そしてコスナーがキズを負った敵の男にトドメを刺そうとした時、デュバルがあくまでそれを止める理由がまたいい。「それをやったら、オレたちはあいつらと同じになってしまう!」

 すべては「自分の流儀」というものを持っている人間ならではの態度なのだ。

 しかしイマドキは現実はおろか、映画の世界ですらこうした心意気は見られなくなった。この映画はそれらを現代に取り戻そうとする試みなのだ。

 だから…むしろ新しい

 先に挙げたディティール命の制作方針と共に、「今の映画」である必然性を持っている。必ずしもノスタルジアの映画ではないのだ。それを端的に表しているのは、後半延々と繰り広げられる善悪両者対決の銃撃戦だろう。ここでのファイト・シーンは、いかにも西部劇の王道と見せながら、実はかなりリアルなのだ

 例えばいかにも強そうな名うての殺し屋を、コスナーがのっけにアッサリ一撃で仕留めてしまうあたりは、従来の紋切り型の西部劇ルーティンから大きく外れている。見ているこっちも意表を突かれてアッと驚く。でも考えてみれば、それが一番合理的と言えば合理的。そんな鮮度と同時に合理性のある、現代的感覚のリアルなアクション場面なのだ。

 戦いの最後には牧場主の横暴に町の人々が立ち上がる…という、今ではスッカリ見られなくなったアメリカ映画往年の理想主義を甦らせ、僕のようなオールド・ファンを喜ばせてくれる。もちろん「荒野の決闘」やら「シェーン」やらと言った、西部劇のお約束もキッチリ押さえてくれている。しかもその一方で、殺しのトラウマに取り憑かれたコスナーと、その暴力衝動に対する嫌悪感という「現代性」もキチンと描かれている。

 だから、この映画は決して古くさい西部劇の復活ではない。そんなものなら、「今の映画」としてつくる必然性がない。今は失われているが、本来なら失われてはならなかったモノを取り戻すための、今だからこそ必要な取り組みなのである。

 

見た後の付け足し

 ところでこの映画、初日の第一回上映の開始ぴったりに劇場へやって来たら、「満席」だと言われて驚いた。まるで予想してなかったからね。

 だって、これは「ハリー・ポッター」の新作ではない。いくら初日とは言え、第一回上映から満席になるような映画じゃない。しかも元々新宿の映画館では、そこそこ当たる映画でも午前中の回はガラガラなのが当たり前だ。それを考えてみれば、この「満席」がいかに驚くべきことかお分かりいただけると思う。

 仕方なく初日は諦めた僕だが、二日目の日曜日には30分前に劇場に駆け付けた。すると、すでに7割方席は埋まっているではないか。やはり昨日の「満席」はまぐれじゃなかった。

 観客層は何とも異色で、客の9割までが男。しかも大半が僕より高い年令の連中ばかり。つまりこの劇場には、日本の映画観客層の中心を成す人々が見事に欠落していた。…若い女性だ。よりによって若い女性に限っては、この劇場の中にたった一人もいなかった。こりゃまさに驚くべきことだよね。しかも、そんな観客層でも見事に劇場が埋まっている。結局僕が見た日曜の第一回も満席。僕はこの劇場が満席になるのを、初めてこの目で目撃したよ。しかも映画を見終わってロビーに出たら、次の回を待っている客がまたしてもワンサカいた。こりゃすごいや。

 まぁ、これがいつまで続くかは分からない。一週間過ぎたらガラガラって事だってあり得る。だから、これを持って大騒ぎするのはナンセンスだろう。

 それでも…年齢層や男女比率はともかく、やっぱりこれだけの人が来たというのは大変なことだと思うよ。彼らはきっと、この映画に何かを嗅ぎとってやって来たんだからね。その嗅覚の鋭さにも驚いたが、本当によさそうだと思ったら、映画館になんか一番来なさそうな連中だってこうして朝から押し掛けるのだ。 僕はやっぱり面白い西部劇には、まだまだ需要があると確信したよ。そして心強く思った。

 きっとみんな、心のどこかで本当に面白い映画を待ち望んでるんだよね。イマドキの女には喜ばれないような(笑)。

 

 

 

 

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