「ブラザーフッド」

  Taegukgi (Brotherhood)

 (2004/07/05)


  

見る前の予想

 韓国で朝鮮戦争を本格的に扱った大作「太極旗を翻して」が大ヒットして、韓国での興業成績の記録を塗り替えたというニュースは、大分前から耳にしてはいた。ちなみに「太極旗」とは星条旗やユニオン・ジャックトリコロールや日の丸みたいなものだ。こりゃタイトルからしても、朝鮮戦争を真正面から捕らえた映画だろうと注目はしていたんだよね。

 その「太極旗を翻して」がようやく日本に上陸してきた。「ブラザーフッド」なるアメリカ映画みたいなタイトルで。それもそのはず。この映画は何と、韓国映画にしてはじめてアメリカ・ユニバーサル映画の配給で上映されるのだ。これは「キューティー・ハニー」がワーナー・ブラザースで公開されるより驚いたよ

 もっと驚いたのは、この映画ってシュリ」のカン・ジェギュ監督の最新作だったんだね。迂闊な事に僕はそれを全く知らなかった。なるほどこの男、またしてもやっちまったのか。大したものだ。

 だが、予告があちこちの劇場でかかり出すと、僕は正直言って複雑な気持ちになったんだよね。

 平和な生活を営む絵に描いたように仲良し兄弟が、朝鮮戦争に駆り出されて地獄巡りをさせられるうちに変わっていく…。こう言っては何だけどこの「兄弟」を中心に据えてあるのが何ともねぇ。ひたすら自分を殺して弟を愛し、守ろうとする兄貴。そんな兄貴を一途に愛して、それが故に思いがすれ違っていく弟。戦争になってからはともかく、戦争前はひたすら善良で、仲良しで…。

 何だか見る前から分かっちゃうストーリーではないか。しかもそんなひたすら善良な兄弟の愛情なんて、まるでリアリティがないよね。これって下手をすればメチャメチャに平凡で陳腐でシラケやしないか?

 いや、「シュリ」であれだけ観客をノセたカン・ジェギュのことだ。今回だって面白く見せているには違いあるまい。だからこそ、韓国で記録破りのヒットとなったのだろうし。

 だが…それでも何となく乗れない。予告編に出てくるまだ戦乱が訪れない平和な日々、兄弟がベタベタとジャレあってる姿を見ちゃうとねぇ。

 それに、「シュリ」からあまりに長い時間が経った

 「シュリ」は韓国映画の観客の裾野を広げたし、韓国映画の製作規模からテイストまで一変させた分水嶺のような映画だ。だが今にして思えば、まだ「シュリ」にはペ・チャンホなど一昔前の韓国ニューウェーブの残像が残っていたように思える。もう今の目で見ると、どこかヤボな部分が残っているのだ。もちろん僕はそここそが愛すべき点だとは思えるけど、驚いた事に現在の韓国映画はテイストやセンスの面で「シュリ」を遙か時代遅れな作品にしてしまった。逆に言うと、ここ5年くらいの間に韓国映画は作家映画・大衆映画の区別ナシに、驚くべき進歩と革新を遂げたのだった。今、韓国映画をチャチとかヤボとか臭いとか言う人はどこにもいないだろう。それくらいこの5年の変化は激しかった。

 その間、カン・ジェギュは沈黙した。

 彼が沈黙を破り、満を持して放ったのがこの「ブラザーフッド」なのだ。だから超期待作であることはもちろんだが、その変化にカン・ジェギュ自身がついていけるのか…も大いに興味が湧くところだと思う。

 ひょっとして「ブラザーフッド」は、どこか時代錯誤的に臭いんじゃないか。カン・ジェギュは自分でつくり出した韓国映画の革新の波から、自分でズッコケちゃったんじゃあるまいか?

 

あらすじ

 着々と進む発掘作業。土中から次々現れる鉄カブト、武器、装身具…そして白骨。そのあまりにおびただしい量は、多数の発掘作業員が携わっても追いつかないほどだ。ここはかつて朝鮮戦争で激しい戦闘が繰り広げられた場所。戦後遙かな歳月が流れ、ようやくこの古戦場を調査する事になったわけだ。発掘された遺体や遺品が運び出され、発掘作業員がその都度手を止めて祈りを捧げる。

 そんな場所から、また一つの遺骨が発掘されようとしていた

 この遺骨は、一つの遺品を持っていた。それは錆び付いた万年筆。そしてそこには、ある名前が明記されていた。

 その頃、閑静な住宅街に立つ家に一本の電話がかかる。それはある老人あての電話だった。

 その電話は、例の発掘現場からのものだった。何と不思議な事に、老人の名前が書いてある品を持った遺骨が出てきたと言うのだ。そんな事を話したあげく、発掘作業者側はデータの間違いだろうと言い出すが、老人には思い当たるフシがあった。「それは…私の兄ではありませんか?

 受話器を置くや否や、老人は慌てて発掘現場に出かけようとする。可愛い孫娘が心配するのも聞かず、クルマを運転して現場に連れていってくれと頼み込む。孫娘の心配は老人の足に刻まれた古傷の痛みだ。だが老人はもう止まらない。

 そんな老人も、いざ出かけようとする前にする事があった。それはしまい込んでいた「ある品物」をもう一度見つめること。それは一回も履いた事がない、新品のように真新しい一足の革靴だった。

 それを見つめるうちに、老人の脳裏に過ぎ去った日々が蘇ってくる…。

 1950年、ソウル。日本の長い支配下から逃れて、人々は貧しいながらもささやかな幸せを噛みしめ始めていた。そんな中に、チャン・ドンゴンとウォンビンの兄弟もいた。

 クツ磨きをしているチャン・ドンゴンと高校生のウォンビンの兄弟は、大の仲良しだ。特に兄のチャン・ドンゴンは弟を可愛がり、貧しいながらも無理してでも弟ウォンビンにアイスキャンディーを食わせてやり、当時まだ高かった万年筆をプレゼントする。秘かに弟のために革靴を用意して、履きやすいように改造してやろうとも思っていた。彼はいずれ靴屋を開くのが夢なのだ。

 チャン・ドンゴンは結婚を間近に控えており、許嫁のイ・ウンジュは早くも幼い弟妹を連れて、兄弟の母親イ・ヨンナンがバラックで開いている食堂の手伝いをしていた。このご時世、食材を確保するのもままならなかったが、それは許嫁イ・ウンジュが何やらとか言う団体に加入する事で配給品をもらえることになった。その団体がいかなるものかは知らなかったが、食材が手に入るだけで助かる。こうして店も細々ながら何とか軌道に乗り始めた。確かに貧しい。だが幸せな日々だった。

 ところが6月25日、そんな毎日が一変する

 北朝鮮軍が、南に向かって侵攻を始めたのだ。たちまちソウルのあちこちで起きる阿鼻叫喚。しかも、みるみるうちに戦場はソウルに接近してきた。チャン・ドンゴンは身一つでもいいから逃げ出さねば…と慌てるが、許嫁イ・ウンジュは無理してでも持てるだけの荷物を持っていこうとする。せっかくうまくいきかけた店、暮らし…それらを捨てたくないという彼女の気持ちも痛いほど分かる。

 ともかく何とか駅までやって来た一家だが、列車はすべて軍用に駆り出されて一般の人々は乗れない。しかもいきなり集まった人々に対して、軍の連中が若い男たちを駆りだし始めるではないか。たまたまチャン・ドンゴンがその場を離れた時に、弟ウォンビンも軍に引っ張られてしまう。

 戻ってきたチャン・ドンゴンは血相を変えて弟ウォンビンを探すと、何と彼は前線に送られる列車の中に閉じこめられていた。兵力に悩む韓国軍は、その場にいた若い男たちを無理やり徴兵したのだった。これにはチャン・ドンゴン思い切りキレる。軍だろうが何だろうが、愛する弟に危害を加える者は敵だ。たちまち列車の中で始まる大立ち回り。だが多勢に無勢。結局、兄弟もろとも列車で前線に送られてしまうことになってしまった。窓から必死で別れを告げる兄弟。それに気づき、駅のホームの尽きるまで必死に追いかけていく母イ・ヨンナンと許嫁イ・ウンジュ…。

 気持ちも荒む戦いの最前線。そこには、そんな無理やり連れてこられた連中が溢れかえっていた。そんな中で兄チャン・ドンゴンは、せめて弟ウォンビンと同じ部隊で戦わせてくれと志願する。とんでもない事になって、ウォンビンはただただ怯えきっているだけ。こうなるとチャン・ドンゴンがしっかりするより仕方ない。実はウォンビン、元々心臓が弱い体質だった。だからチャン・ドンゴンは何とか帰してもらおうと画策したのだが、軍はそんな言い分など聞いてはくれなかった。マトモなカラダの奴だけ…などと贅沢な事は言ってられない。戦場の現実はそこまで逼迫していたのだ。

 若い妻と幼い子を残して来た男、北で家族を皆殺しにされ、復讐を期して志願した男…そんなさまざまな男たちがお互い自己紹介するが、そんな事をしてもいつまで生きていられるものやら…。

 …と、舌の根も乾かぬうちに爆撃!

 大音響! 激しい振動! 降りかかる大量の土砂! 吹っ飛ぶ肉片と血しぶき! 悲痛な絶叫! 大混乱!

 たちまち弟ウォンビンはショックから呼吸困難に陥る。何とかかんとかチャン・ドンゴンのおかげで事なきを得たが、兄弟は戦場に着いていきなり手荒い洗礼を受けたカタチだ。

 それでもチャン・ドンゴンは上官と掛け合い、一つの決意を胸に秘めた。戦果を挙げて勲章をもらえば、その褒美として弟を帰してもらえる。目下のところ、チャン・ドンゴンがすがれるのはこれしかなかった。

 かくしてチャン・ドンゴンは、いきなり危険な敵陣間近の地雷敷設に志願する。案の定この危険な任務で片足を失い腹を裂く隊員もいたが、何とかチャン・ドンゴンは無事生還出来た。だが弟ウォンビンの顔は笑ってはいない。「もう二度とあんなムチャはやるな!」

 彼は兄が自分のために危険を冒すのを、黙って見ている訳にはいかなかったのだ。一応は分かったと言ったチャン・ドンゴンだが、彼は弟の言う事など聞く気はなかった。

 ところが戦況は一気に悪化。周囲の味方軍は次々壊滅させられ、兄弟の部隊は敵陣に孤立無援の状態となった。水も食料も入っては来ない。兵士たちの気持ちは徐々に荒んでいく。しまいには負傷して絶望的な症状となった兵士がキレて傷病兵を皆殺しにしたあげく自殺。敵に投降しようなどと言い出す者まで現れ、士気は最低に低下した。見かねたチャン・ドンゴンは上官に進言する。「どうせ死ぬなら敵陣に奇襲をかけましょう!」

 圧倒的優勢から敵はおそらく油断している。逆襲するなら今だ。チャン・ドンゴンは斬り込み隊の一員として乗り込むことになったが、弟ウォンビンはこの斬り込み隊に加わる事を許されなかった。それは兄の意志だったのだが、それに不満を覚えるウォンビン。兄の心弟知らず。

 この戦闘は激烈を極めたが、火事場のクソ力というか窮鼠ネコを噛むとでも言おうか。まるっきり絶望的な状況から、チャン・ドンゴンの捨て身のヤケクソ戦法で戦況は一転。何と陣地の奪還を果たすことに成功する。しかも勝利の最中に米軍の増援も発表され、大いに意気上がる韓国軍ではあった。

 この大戦果は韓国軍の中でも知られる事となり、チャン・ドンゴンは英雄として祭り上げられる事になった。記者会見で取材を受け、上官から特別扱いを受け、仲間たちから賞賛され…それを気持ちよくなかったと言えばウソになるだろう。だがそんなチャン・ドンゴンを弟ウォンビンは白い目で見る…。

 さらにその気になってきたチャン・ドンゴンは、部隊と共にさらに進軍を続ける。だがその途中で見たものは、撤退の傍ら村人を皆殺しにするなど、暴虐の限りを尽くす北朝鮮軍の悪行の数々。一度など罠にかかって味方が多数命を落とす事になる。そんな戦場を見て歩くうちに、チャン・ドンゴンの中で何かが変わっていく。戦闘のあげく降伏してきた北朝鮮兵士を、無抵抗にも関わらず皆殺し。そんな蛮行を何らためらわずやるようになったチャン・ドンゴンを、弟ウォンビンはまるで知らない人間を見るような気分で見つめるのだった

 そんな兄弟の亀裂が表面化したのは、ある村で投降してきた北朝鮮兵士を見た時。何とそのうちの一人は、かつてチャン・ドンゴンの靴磨き仲間だった男だ。彼は無理やり北の軍隊に引っ張り込まれたと言う。だがチャン・ドンゴンはそんな言い分を聞かない。冷え切った目で彼らを殺そうとする。これにはさすがにウォンビンはキレた。「これではオレたちも北のアカと同じじゃないか!」

 そんな一言で何とか旧友を殺す事は思いとどまったものの、チャン・ドンゴンとウォンビンの仲は冷ややかなものとなっていった。

 さらに戦況は進んで廃墟のピョンヤン。激烈な戦闘が繰り返される中で、韓国軍は敵の要人である大佐の身柄を何とか拘束しようと悪戦苦闘していた。ここでも大活躍はチャン・ドンゴン。英雄的とも無謀とも言えるスタンドプレーの続出で、何とかかんとか前進を続けていく。ところがそんなムチャのあげく、問題の大佐が逃げていくのを目撃したからマズかった。深追いは禁物との声も無視して、自分の部下たちを引き連れて大佐を追い回すチャン・ドンゴン。いよいよ追い詰めた大佐とつかみ合いの大立ち回りになったが、その時チャン・ドンゴンについてやって来た部下の一人が銃弾に倒れた。

 四苦八苦のあげく要人確保は出来たものの、結局チャン・ドンゴンの深追いのせいで味方が死んでしまった。弟ウォンビンの怒りはさらに深くなる。「そんなに勲章が欲しいのか!」

 それでも一同はご機嫌だった。戦況は南に有利だった。この分なら、北朝鮮軍を撃滅して統一が果たせる。そうすればオレたちは故郷へ帰れる。みんながそんな甘い夢に浸り始めたちょうどその時…。

 何と北から中国人民解放軍が参戦してきたと言うではないか!

 たちまち戦況は逆転。一同は慌ただしく撤退を開始する。だがそのドサクサに紛れて、捕虜だった北朝鮮兵士が暴れ出したからいけない。一触即発の中、捕虜の中の一人だった例の旧友も殺されてしまった。手を下した者の中には、兄チャン・ドンゴンもいた。

 これが決定的な出来事だった。弟ウォンビンは、兄にキッパリと背を向けた

 結局のところ、部隊はソウルまで撤退を余儀なくされることになった。ここでチャン・ドンゴンは念願の勲章を授与される。弟の除隊も許されると確約を得た。喜び勇んで弟ウォンビンを探すチャン・ドンゴンだが、彼は兄を待たずサッサとその場を離れていた

 実はウォンビンには目的があった。母イ・ヨンナンと許嫁イ・ウンジュたちは結局疎開せず、ソウルに踏みとどまって兄弟の帰りを待っていたとの風の便りを聞いていたのだ。そこで部隊の撤退の途中でかつての自宅に立ち寄り、家族の顔を見ようと思っていたのだ。それを聞いたチャン・ドンゴンも、弟の後を追った。

 さて、懐かしいわが家に着いたウォンビンは、そこであの兄嫁イ・ウンジュと再会する。母親イ・ヨンナンは買い物で不在だが元気だとのこと。皆が無事な様子にホッと胸をなで下ろすウォンビンだったが、安心したのもつかの間。何やら荒っぽい連中がいきなりクルマで押しかけて、兄嫁イ・ウンジュを連れ去るではないか。それに抵抗したウォンビンも、この連中に捕まってクルマで連れ去られた。一体、この一団の狙いは?

 そんなウォンビンと一足違いで我が家に着いたチャン・ドンゴンも、事態の急を知って彼らが連れ去られた先に向かった。

 彼らを連れ去った一団は、軍と一体になって銃後の治安を預かる民間治安組織の連中だった。だが現在では彼らの振る舞いはとどまる事を知らず、権力を握った事をいいことにやりたい放題の無法者と化していた。

 この連中の本部へ着くと、ウォンビンとイ・ウンジュはそれぞれ分けられて連れて行かれた。だがウォンビンは隙を見ると、例の万年筆を治安組織の男に突き刺して逃走。兄嫁イ・ウンジュの元へと駆けつける。

 何とイ・ウンジュは、数多くの人々と共に銃殺刑にあおうとしていた。この処刑は治安組織によるアカ狩りの一環だった。実は戦前に彼女が店で使う食材確保のために加入した団体…これが共産党系の団体だったと言うのだ。その団体が一体何だったのか、イ・ウンジュは知る由もない。ただただ食材を手に入れるために入った団体だった。だが、治安組織の連中は聞く耳など持たない。実際のところ、この人々が本当に共産主義者だろうと何だろうと、彼らにとってはどうでもいいのだ。とにかく彼らは自分たちの権力を行使し、人殺しで憂さ晴らしをしながら人々を恐怖で従わせれば良かった

 そこに駆けつけたチャン・ドンゴンは間一髪でイ・ウンジュの銃殺を食い止めたものの一触即発。周囲は治安組織の連中に取り囲まれている。そんなところに弟ウォンビンも駆けつけた。いざ脱出というその時、治安組織の男が放った言葉がチャン・ドンゴンを思わず躊躇させた。

 「この女はアカに身を任せてたんだぞ!」

 そんな戯言は根も葉もないヨタだったが、ついチャン・ドンゴンは固まってしまった。その隙に脱出のタイミングを失う一同。

 治安組織の男の銃弾がイ・ウンジュの胸を撃ち抜く!

 もはやこれまで、チャン・ドンゴンもウォンビンも、あまりの事にもはや抵抗する気をなくしていた。イ・ウンジュの亡骸は、他のおびただしい遺体が捨てられた穴の中へと落とされた。

 こうして囚われの身となった兄弟。だがウォンビンは、例によって例のごとしでグチグチと兄チャン・ドンゴンを責める。「兄さんが疑ったから、義姉さんは死んだんだ。殺したのは兄さんだ」…グチグチグチグチ。

 やがてここに在駐の軍の上官に呼ばれたチャン・ドンゴンは、その冷酷な態度に唖然とする。それでも何とか弟だけは助けて…という願いもアッサリ却下だ。

 ところがそんな折りもおり、敵軍の攻撃が始まった。この基地にも弾薬が雨あられ。混乱の中でここの上官の胸ぐらをつかんだチャン・ドンゴンは、倉庫に捕らえられた弟ウォンビンの釈放を電話で命令するように脅す。ところがこの男、電話でいきなり言ったのはまったく逆の命令だった。「倉庫を焼き払え!」

 「テメエ、この馬鹿野郎!」

 上官をブン殴ると慌てて倉庫に駆けつけるチャン・ドンゴン。だが時すでに遅し。倉庫は燃え広がる炎で手がつけられなくなっていた。降り注ぐ爆弾の中、チャン・ドンゴンは呆然と立ちすくむのみ。

 やがて焼け落ちた倉庫に入ったチャン・ドンゴンは、白骨化した焼死体の傍らにあの弟に買ってやった万年筆を見つける。やっぱり焼け死んでしまったのか…。

 戦闘は終わり、基地には北朝鮮軍が侵攻してきた。そんな時、敵軍に引き立てられていくあの上官の姿を見つけたチャン・ドンゴンは、いきなりブチギレ! 手近にあった石を手にすると、それで上官の頭を思い切りカチ割った!

 だが、実は弟ウォンビンが死んではいなかったのは、みなさんご存じの通り…。

 

見た後での感想

 正直言って、見終わって疲れた。

 何しろ戦闘シーンが凄かった。正直言ってここまでやるとは思わなかった。ビックリしたよ。とにかく物量も迫力もハンパじゃない。なるほど、「シュリ」で韓国映画を新たな領域に押し上げた新世代映画作家の代表格カン・ジェギュがつくっただけの事はある

 思えば戦争映画は、あの「プライベート・ライアン」で新たなレベルに入っていったように思う。「プライベート・ライアン」では作品全体の出来はともかく、冒頭のノルマンディ上陸作戦の圧倒的なリアリティに打ちのめされた。以来、戦争映画はあの臨場感がなければ通用しなくなってしまった。「ワンス&フォーエバー」だって「ウィンドトーカーズ」だって、戦闘シーンには少なからずかつてと違う臨場感があった。現在のところそんな臨場感ある戦争映画の到達点は、リドリー・スコットの「ブラックホーク・ダウン」ではないだろうか。ともかく「プライベート・ライアン」から「ブラックホーク・ダウン」までは一直線の延長線上として見ることが出来るよね。で、この「ブラザーフッド」の戦闘場面も明らかにその影響下にある。

 ドルビー・デジタルのど迫力の音響効果、圧倒的な火薬量、従軍記者が撮影した記録映像みたいな激しい手ブレ画面…カン・ジェギュは明らかに「プライベート・ライアン」方式をここで採用している。このあたり、「シュリ」でジェリー・ブラッカイマー映画などを精力的にパクった面目躍如というところだろうか。これは「さすが」というホメ言葉だよ。

 だから映画を見終わった時の印象も、ただただ圧倒された…という気分なんだよね。そして、あまりに凄まじい戦闘シーンを次から次へと見せられてしまったので、見る側の脳裏には問答無用の厭戦気分が広がっている。さらに主人公の兄弟をはじめとする、この時期の韓国人たちが味合わねばならなかった苦しみも、否応なしに観客にダイレクトに伝わっているのだ。その凄まじいリアリティたるや…。見終わった後の印象には、見る前に予想された「陳腐さ」などはカケラもない。

 カケラもない…のか?

 よくよく考えてみよう。ここで描かれていた兄弟愛そのものは、実は予想していたように「ただただ善良で仲が良い」って領域から一歩も出ていないんじゃないか。ことに冒頭の平和だった頃のソウルでの、兄弟のジャレ合いの場面などかなりお寒いではないか。ハッキリ言ってワンパターン、ハッキリ言って手垢が付きまくったような凡庸な描写でしかない。これって平凡で時代遅れで…「陳腐」とは言えないか?

 しかもこの映画では、こんな箇所を他にいくらでも見つけることが出来る。その一例を挙げれば…久々に我が家に帰った弟が義姉との再会もつかの間、たまたまやって来た民間治安組織の連中に捕まってしまう…というあまりにあまりのタイミングの良さ。あるいは終盤の国境線を決定するための南北総力戦、その最中に兄の消息を探して北陣地へと潜入した弟は、雲霞のごとく押し寄せる敵兵を次々と倒しながらも兄の姿を求めて四方八方見回す…というくだり。この弟は勇猛果敢な兄と比べると、いささかひ弱な男ではなかったのか。しかもみんな自分の命を守るので精一杯のはずの激烈極まる最前線で、この弟は兄を捜して「よそ見」をしながら次々飛びかかる敵兵を確実に倒して無傷のままだ。

 一体これのどこがリアリティなのだ。

 思い出してみよう。あの「シュリ」のヤマ場…サッカー親善試合が行われていたスタジアムで、周囲を兵士たちに取り囲まれ、愛する女=北の工作員キム・ユンジンに銃を向ける諜報員ハン・ソッキュ…というあの構図を。愛する女を殺したくはない、だが他の人間に殺されるなら、自分で命を奪いたい…。メロドラマもいいところのコテコテの見せ場だ。この言葉は決して悪い意味で使っていないよ。だがハッキリ言って、これをリアルな表現と思う人はいないだろう。徹底的に作り込んで「大向こう受け」を狙ったコテコテ見せ場だ。

 カン・ジェギュという人の本領とは、まさにこれだ。

 あざといくらい分かりやすい設定やキャラで見せる、コッテコテの電気紙芝居。それがカン・ジェギュの世界なのだ。それはタイムスリップした宿命の恋人たちを描いた「シュリ」の前作にして監督デビュー作、銀杏のベッドからも明らかだ。基本的にはこの人の姿勢はまったく変わっていないのである。中心にあるのは宿命の恋…そして今回の兄弟愛と、誰にも分かるし疑いの余地のない「へのへのもへじ」みたいに基本的な感情だ。そうなれば今回の映画の発想がどこから来たのか、容易に想像がつく。

 韓国映画では初めて…ではないにしろ、ハッキリ娯楽映画を指向した作品に南北対立を持ってきたという点で、「シュリ」はかなり画期的な作品だったはずだ。そして娯楽アクションの背景に南北対立を持ってくる事でこれほど映画をドラマティックに演出できると知ったカン・ジェギュが、これをさらに一歩進めたい欲求にかられたとしても不思議はない。そこで彼の脳裏に浮かんだのはもう一つの民族的事件…ドラマティックではあるが触れるにはデリケートな問題…朝鮮戦争だ。

 「シュリ」ではそれまでの韓国映画では考えられないようなハリウッド風「大作感」が観客の支持を得たと心得ているから、カン・ジェギュは今回朝鮮戦争を描くにあたっても今までにない「大作」としてつくる事を決意しただろう。それも「シュリ」でジェリー・ブラッカイマー映画を参考にしたごとく、「プライベート・ライアン」以降のリアリズム戦争映画でいこうと決めたはずだ。

 幸い「シュリ」で大ヒットを飛ばしているのでカネも信用もあった。だから資金調達には支障がなかったろう。韓国映画界自体も体質が変わっていたから、これほどの大スケールの作品をつくる土壌も整っていた。

 そしてカン・ジェギュは、物語の中心がシンプルかつストレートな人間の感情である事を望んでいた。大衆映画としては、例え陳腐であっても「分かりやすさ」が必要だと感じていたからだ。「銀杏のベッド」「シュリ」…と続いた“ここで会ったが百年目”みたいな宿命の恋が今回に限って兄弟愛に変わったのは、戦場を舞台にせざるを得ない事からとられた当然の選択だろう。激しい感情を交わす主人公二人が両方とも兵士=男でなければならないのは、この映画の必然だ。

 それらはキャスティングにも一貫していて、兄チャン・ドンゴンのツラ構えはなかなかいいんだよね。ちょっと昔の日活っぽい感じだ。この前のロスト・メモリーズでも、仲村トオルとのねじれた友情を何とも熱く演じていたよね。今回も戦闘シーンのもの凄い物量に負けじと、ボリュームのある存在感でど〜んと仁王立ちしている感じ。これには惚れ惚れした。それに対して弟ウォンビンってのはアイドルみたいな存在らしく、いかにもイケメンな存在だ。これは女性観客対策と、いかにも「守られ役」という事なのだろう。ともかく兄役のチャン・ドンゴンが頑張っていて、この兄弟愛もある程度までは説得力あるものに見せられてはいる。彼が演じるからこそ韓国ローカルで極端に特化されているであろう「長男」の責任が、そうでない国の人間にも説得力を持つ。それくらいの力演だ。

 だがここでの兄弟の関係というのは、実はカン・ジェギュには何の思い入れもないんじゃないか。ここまで言うのも何だが、カン・ジェギュ個人はこの二人の感情を描きたいなどとは、おそらく小指の先ほども思っていない。この二人は朝鮮戦争という巨大な「場」をあますところなく描き尽くすための、一つのシステムとしてしか機能していないのだ

 この兄弟関係があるから、カメラと観客は二人と共に戦場に連れて行かれる。兄弟関係があるから、兄はより危険な任務に就かざるを得なくなる。兄弟関係があるから、「南」の戦争にのめり込む兄とそれに懐疑的な弟の両面で戦場を描ける。兄弟関係があるから、最後の南北激突がドラマティックに盛り上がる…。この人間関係の配置は、偶然にもアメリカ映画コールド・マウンテンにおける主人公カップル、ジュード・ロウとニコール・キッドマンの設定と似ている。あの作品では男女カップルと言う位置づけにされてはいたが、やはり「ブラザーフッド」同様に主人公は戦争というものの全貌をとらるためのツールとして位置づけられていた(片や男同士、片や男女という設定になったのは、それぞれのドラマが「戦場地獄巡り」と「戦場から銃後への地獄巡り」という構造上の違いを持っていたからだろう)。

 さらに「コールド・マウンテン」のロウとキッドマンの役柄が、これまたリアリティなどまるっきり度外視していた事を思い起こして欲しい。ここでの人物設定は、ストーリーを動かすための「つくりもの」だ。ハッキリ言って人間の内面など描こうという気はまったくないのだ。

 そして「コールド・マウンテン」では、この「つくりもの」感をロウとキッドマンという二人のスターの尋常ならざるピカピカぶりで有無を言わせず押し切ってしまった。

 では、この「ブラザーフッド」の「つくりもの」感は、一体どうやって払拭したのか?

 ひとつには、先に述べたようにチャン・ドンゴンの圧倒的な力演で押し切ったというところもあるだろう。あの熱い「お兄ちゃん」ぶりには、長男だ何だという観念が風化した国の人間でも、思わず説得させられるような熱さがあった。だが、それだけではこの映画全編は乗り切れなかっただろう。

 たぶんそこには、「シュリ」にジェリー・ブラッカイマー作品を散りばめたり、「銀杏のベッド」でCGを使ったファンタジーに挑戦したり…と、無類のアメリカ映画ファンぶりを見せてきたカン・ジェギュならではの卓抜した発想があったと思うんだよね。

 

「タイタニック」の方法論を踏襲した作品

 「ブラザーフッド」という映画が「プライベート・ライアン」をヒントに置いた事は、おそらく誰でもすぐに分かる事なんじゃないだろうか。

 それは過激かつリアルな戦闘シーンが、「プライベート・ライアン」以降のそれを継承するものであるから…というだけではない。物語が今は老人となった兵士の回想から始まる…と点も共通しているからね。実は「プライベート・ライアン」はここで脚本構成上の腸捻転を起こしており、それゆえに僕はこの映画を評価しないんだけど、それはまた別の話。ともかくこの映画を見た観客の大半は、映画の構成そのものも「プライベート・ライアン」に負うところ大であると考えるだろう。

 だが実のところ、僕はそれとはちょっと違う意見を持っている。

 それは、イントロの現代の場面を見れば分かる。この部分は、かつての戦場で遺骨収集のために「発掘」作業が行われる場面から始まる。この「発掘」の様子がかなりディティールまで詳しく描かれ、調査員はコンピュータで兵士のデータベースを検索する。朝鮮戦争の古色蒼然とした話なのに…いや、むしろそうだからこそ、ことさらに「今風」な描写を連続させているように見える。

 そして「孫の若い女の子」と一緒に家にいる、一人の「老人」に電話がかかってくる。

 これと非常に似た場面を、あなたは最近映画で見た事はないか? 最新テクノロジーによって行われている発掘作業、見つかった遺品、孫の女の子と共に家にいる老人への連絡…まだ思い出さないだろうか?

 そう、「タイタニック」だ!

 このイントロの「現代編」は、老人がかつての「遺品」である靴を見つめる場面で一応の結末を迎え、映画は本題である1950年へと移っていく。それも「タイタニック」の「遺品」であるネックレスとピタリと符合するではないか。こじつけだって? いや、そうじゃない事はさらに検討してみることで明らかになるはずだ。まずは「タイタニック」について、今一度思い起こしてみよう。

 「ターミネーター」などの監督ジェームズ・キャメロンが、初めてリアルな史実をテーマに「タイタニック」を撮ると発表した時、誰でも少なからず危惧を覚えたのではないか。それまでSFアクションしか撮ってない監督だ。しかも題材とするのは、多くの犠牲を出した実際の悲劇。扱いには慎重さが要求される。シュワやシガニー・ウィーバーが悪玉をケッ散らかすような訳にはいかない。架空のフィクションなら面白く描けるだろうが、これでは勝手が違いすぎる。いくら作品の中心にタイタニック大事故の映像としてキャメロンお得意のCGが使われるとは言え、畑があまりに違いすぎる。

 おまけにキャメロンは、物語の中心をレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットという若い二人の「身分違いの恋愛」に置くことを決意した。実はこれが僕らにとって、最大のネックと思われたんだよね。

 今さら「身分違い」「貧富の差」の恋愛。

 上映時間が3時間を超えること、莫大な制作費がかかっていること、ディカプリオとウィンスレットのスターとしての興業力…などは、商売上の話だからここでは云々しない。だが単に作品的な出来映え如何で言っても、史実としての悲劇を描く上でのキャメロンの腕前、そして今さら古色蒼然たる「身分違いの恋愛」を中心に置く構想そのものが、非常に危ういものを感じさせたんだよね。

 特にヤバいのは後者の「身分違いの恋愛」だ。

 どう考えても…今さらどう描いたって、ありふれてて手垢がついててシラジラしくて平凡で陳腐に決まってる。キャメロンも血迷ったかなぁ…と僕も思ったよね。

 だが、その結果はどうなったか…は、みなさんの方がご存じだろう。

 もちろん「タイタニック」なんて駄作…と決めつける人も後を絶たない。人には人の意見があっていいが、それにしたってあそこまで成功したのは、単に宣伝と話題づくりのせいではないだろう。ましてあの映画を支持した人々も数多い。実はこの僕もその一人だ。それも、見る前にあれだけイヤな予感がしたのにも関わらず…だ。

 では「タイタニック」は、見る前に抱かせた危惧をどうやって払拭したのか?

 映画のイントロ、「現代編」で沈没したタイタニック号を調査する潜水艇が出てきたのには、さすがの僕も「うまい!」と膝を打った。キャメロンには畑違いとしか思えない「史実」を、一体どうやって料理するのか…僕はずっとそれが気になっていたんだよね。そこを「アビス」でおなじみ深海潜行艇を登場させ、ハイテクをバリバリ出して自分の土俵に引き込んだ。なるほど、これならつくるキャメロンも見る観客も無理がない。これで第一の関門はクリアだ。

 では第二の関門…「身分違いの恋愛」は…?

 僕だけでなく映画ファンなら誰もが、「タイタニック」を見る前の危惧をアレコレ挙げることが出来るだろう。だが「タイタニック」が成功した要因を挙げることは、意外に難しいんじゃないだろうか。

 ここでは興業上の成功の要因を言っているのではない。あくまで作品として、どうしてうまくいったか…の要因だ。そして、それが何とも分からないんだよね。

 キャメロンが手がける初めての史実の物語…しかも悲劇…という問題を、少なくともその滑り出しにおいては、イントロでのハイテク導入で何とかクリア出来たと分かる。だが「身分違いの恋愛」の「平凡さ」「陳腐さ」をどうやって解消したのか、実は僕はずっと結論が出せていなかった。

 ファンならデカプーとウィンスレットがうまかったとか言うだろうが、そんなものが理由でない事はマトモに考えればすぐに思い当たるはずだ。そして脚本演出ともに、この恋愛を描くにあたって特別な工夫はしていない事も分かる。まるっきり普通に描いている。むしろ真っ正面から直球ストレートで描いていると言えばいいだろうか。つまり「当たり前」に描いている。それなら「平凡」「陳腐」になるのは避けられないはずだ。

 だがこの映画では、それがそうはならない

 これはなぜだろう? 僕はいろいろ考えても結論が出なかったのだが、今回「ブラザーフッド」を見て「タイタニック」との共通点に思い当たったときに、改めて理由らしきものに思い至った。

 確かに「身分違いの恋愛」を真っ正直に描いただけ。何の工夫もない。しかしこの時はドラマを入れる映画の器が違っていた。そこが大きな違いだったんだよね。

 まずは3時間を超える上映時間だ。これは問題の事故の場面を描くにあたっては、ほとんど実際にかかった時間のようにリアルな効果を挙げることに成功していた。しかもそこに出てくるのは、ほとんど実物大のタイタニック号のセット(実際には半分だけだったらしいが)。おまけに事故そのものもCGでリアルそのものに描かれる。実際のところ、船が沈没する模様をあれほど丁寧に見せてくれた映画はないんじゃないか? 

 そして映画全編を通して、僕らはこの船がどんな運命を遂げるかを知っている。もう観客にとって、そこにあるのは普通の日常ではないのだ。つまり船自体が主人公でその運命こそがリアルなドラマであり、その描写もあらゆる意味でリアル極まるために、中心の恋愛話が平凡であっても映画のキズにはならなかった。むしろそれすらリアルな現実の一断面に見えた。「平凡」…だからこそ「あり得る」話となった。それさえもリアルさを補強した。

 また先に述べたように、「タイタニック」は船そのものが主人公の物語であると同時に、そこに20世紀という時代をシンボライズして描き出そうという試みだった。先端テクノロジーと物量の象徴であるタイタニック号は、そっくりそのまま20世紀そのものと言える。しかも実際のタイタニック号の事故では、富裕者の乗客と下層の乗客との間の階級格差が、事態をさらに悲劇的なものにした。20世紀という時代はこうした貧富の格差(社会的、民族的、国家的な格差)が思い切り広がった時代であり、それがさらに別の問題を生んだ時代でもあった。この両者の視点を映画に持ち込むために、 キャメロンは主人公二人をわざわざ貧富の差のあるものに設定したのだ。だから主人公二人のドラマは、船の乗客全員と20世紀という時代を背負って徹底的に抽象化・単純化される事になった

 ゆえに、それは「陳腐」ではなくなった。

 そんな「タイタニック」の奇跡を、カン・ジェギュは「ブラザーフッド」で完全に踏襲した。今回の映画のミソはそこにある。これにはかなりの確信があるよ。

 元々、カン・ジェギュという人は、韓国という国の持つ独自性やアイデンティティーを底辺に敷いた上で、コテコテのドラマを中心に最新テクノロジーとハリウッド映画のテイストを盛り込んだ映画をつくって成功してきた。「銀杏のベッド」では朝鮮王朝の昔に発端がある悲恋話に、リーインカーネイションだのタイムスリップだのを混ぜつつ、CG技術を盛り込んで韓国映画に珍しいファンタジーを創り上げた。「シュリ」では南北対立を背景に韓国諜報員と北朝鮮工作員の激突を悲恋仕立てで描き、ジェリー・ブラッカイマー風の大スケール・アクションとして盛り上げた。ならば今回「ブラザーフッド」をつくるにあたっては、朝鮮戦争を背景に兄弟愛を中心に据えて、「プライベート・ライアン」譲りの激烈な戦争アクションと歴史エピック・ドラマを構築しようと考えるのは当然だろう。

 ただし危惧されるのは、今回はフィクションではないと言うことだ。「シュリ」はいくら南北対立を背景にしていると言っても、そこに描かれる事件は架空のものだ。しかし朝鮮戦争を描くとなれば、そこに従軍した人、巻き込まれて犠牲を払った人がいるのだからシャレにはならない。下手に陳腐な人間ドラマを描いたら、それこそ反発を食らいかねない。そもそもカン・ジェギュは社会派作家でなく娯楽映画作家だ。それは周囲も本人もよく分かっていたはず。大体アメリカ映画を参考にしているあたりで、どう考えてもお里は知れている。

 そのへんが、SFアクション一本槍だったジェームズ・キャメロンのポジションともダブってくる。どう考えてもシリアスな題材が無理っぽいところが共通するではないか。おそらく韓国においても、カン・ジェギュは同じように思われていたのではないか。

 そして、中心に置いた平凡で陳腐なドラマ

 これを解消するために、カン・ジェギュは「タイタニック」とまったく同じ作戦に出た。徹底的にリアルな戦闘描写。それも、これでもかこれでもかと物量にモノを言わせて繰り返す。この戦場のリアリズムとウンザリ感に浸っていくうちに、そこに描かれている平凡な兄弟愛の話も「ありふれている」からこそ「リアル」に見えてくる。

 しかも朝鮮戦争を真っ正面から捕らえるということは、結果的に戦後の韓国社会を総括することにもなる。そこでは主人公である兄弟も、「どこかの誰か」ではなく韓国人全体をシンボライズする代表的性格を帯びてくるだろう。だから兄弟の描写は徹底的に抽象化・単純化の方向を辿ることになるのだ。おそらくカン・ジェギュが狙ったのはそこだ。

 それにしても「タイタニック」と言えば、かつてチャン・イーモウが初恋のきた道をつくる際に参考にした作品でもある。アジアの先進的フィルム・メイカーに、この映画はかくも大きな影響を与えているのは興味深いよね。

 映画の興行というものを大いに意識して作品をつくるフィルム・メイカーゆえに、「タイタニック」に成功の秘密を探るという事はあるだろう。娯楽大作「HERO/英雄」を放ったチャン・イーモウを、いまや興業を意識していないなどと思う人はいまい。同じく韓国の興行記録をつくった「シュリ」のカン・ジェギュが、次作のヒントを求めて「タイタニック」を分析したというのは大いにあり得る。ジェリー・ブラッカイマーも同じ事をして、見事にコケちゃったのには笑ったけどね。

 

壮絶な戦闘シーンはいかにして創り出されたか?

 ただし「タイタニック」の再現をしようと思い立つだけで、それが簡単に実現できれば苦労はない。カン・ジェギュが非凡なのはそこだ。

 彼は「タイタニック」的に徹底的リアリズムを戦場に持ち込もうと決意した。そしてその素材として、彼がお得意のアメリカ映画…それも「プライベート・ライアン」以下の現代アメリカ戦争映画を引用しようとしたのも正解だった。しかも、そのリアリズムの正体が何か…というところまで的確に把握出来たという点が、カン・ジェギュという映画作家の優れた資質なのだ。

 単に「プライベート・ライアン」スタイルと言っても、それを再現するのは並大抵のことではない。しかも、それは単に物量を投入すればいいという事でもない。戦闘場面の処理をどうするかという、明確なビジョンがなければ出来ないことだ。

 今回の映画の画面から類推するに、基本的な方針は3つだ。1つめはドルビー・デジタルによる臨場感溢れる音響効果、2つめは「記録映像」風のリアリズム、3つめは主に爆破効果などの画面上の迫力…だ。1つめはいいとして、2つめに関しては極端なカラー・フィルムの脱色を現像処理で行い、硬派でリアル、なおかつ当時の記録映像まで連想させるような退色効果も狙ったものと思われる。そこに手持ちカメラ風の激しいブレを生じさせるのも忘れなかった。そして問題は3つめ…もちろんここが肝心なところだが、戦闘場面の激しさをどう見せるか。

 もちろん弾薬をふんだんに使い、火薬の量を増やし、吹っ飛ぶ兵士の数を多くして、ドッカンドッカン派手にやれば多少は効果は上がる。しかしそれが抜本的な解決にならないのは、わが国の大蔵映画がつくった70ミリ映画「太平洋戦争と姫ゆり部隊」を見れば明らかだ。映画全編の弾薬の量は相当だったろうが、それがまったく映画に活かされていない。遠くでのどかに爆発しているようにしか見えない。70ミリ映画という事を意識してか、遠景から眺めるように退いたロング・ショットが多いのも致命的だ。

 そこでカン・ジェギュは、これとはまったく逆の事をした。

 これはたぶん間違いないと思うが、戦闘場面は主に望遠レンズで、かなり遠くから撮影している。ただし超望遠レンズを用いて、画面に映っているのは「寄りの絵」だ。望遠で思いっきり寄っているから、フレーム内の距離感が極端になくなり、画面の中が窮屈に詰まった感じがする。この方法なら、映像に非常に緊迫した雰囲気が醸し出されるのだ。

 しかも距離感がない事から、非常に至近距離で爆発が起きているように見える。兵士たちがひしめき合いながら殺し合うように見える。これが戦闘場面の激しさを倍増させているのだ。しかもこれは逆に言えば、撮影時の安全をも確保出来ることを意味する。俳優からある程度の距離をとって弾薬を爆発させても、すぐそばで被弾したように見せられるというわけだ。

 しかも味方兵士や敵の兵士というメインのオブジェクトの間に、絶え間なく落下する土やら煙、炎などと言った要素を詰め込んで、それでなくてもモノが詰まった画面をさらにキツキツにしている。この詰まり具合が、戦場の大混乱を盛り上げてるんだよね。

 さらに2つめの要素であるカメラのブレ…も、超望遠だから揺れ方はさらに激しくなる。これはズーム・レンズを使ったカメラのファインダーを覗けば、いとも簡単に分かるから試して欲しい。ただしこの映画で使った望遠はかなりの距離だっただろうから、ブレも何らかの機械で正確に作っていると考えられる。かなり微細なブレじゃないと、画面が揺れすぎて見れたものじゃなくなるからね。

 あるいはほんの何パーセントかフィルムを拡大して、現像処理かCG技術でブレを人工的につくっているとも考えられる。戦闘場面のフィルムの粒子の荒れ(これもおそらく記録映像を意識しての事だとは思うが)を見ると、その可能性も多分にあるね。

 遠方からの望遠が使えないトーチカ内の移動の場面などについては一度見ただけでは判断できないが、一転しておそらく広角レンズを使用し、思い切り遠近感を強調することで移動スピード感を増したのではないか。そのため移動場面は圧倒的に画面の奥から手前への移動で撮影され、左右移動は極端に少なかったはずだ。カメラ自体はあくまで移動する被写体をフォローするかたちで至近距離での接近撮影を行っており、カメラのみの移動はほとんど行われていない。だから望遠時とは逆に遠近感が強調されても、画面にはパラパラ感スカスカ感が漂わない。被写体が常に画面の中心で観客の目を引いており、激しい勢いで移動する背景が画面を「詰まって」見せたと思われる。これによって、戦闘シーンにただならない緊迫感が醸し出されたのではないか。ただし、これらについては一見しただけの憶測の域を出ないので、誤っている可能性も少なからずあることをご承知いただきたい。だがもし間違えていたとしても、映像を盛り上げるための冷静で的確な計算をしたあげく、何らかのレンズやカメラの技法を意識的に駆使しているはずだ。

 これらのテクニックは、おそらく「プライベート・ライアン」以降のアメリカ戦争映画で使用されているものばかりなんだろう。だが、このようにちゃんと応用できているのはリッパなものだ。カン・ジェギュはかなりこれらの作品を分析して、彼なりに研究したんじゃないだろうか。その効果は見事に上がっている。

 物量そのものも大変なもので、相当数のエキストラを動員し、かなりのセットを建設したはずだ。アメリカの戦争大作と比較しても引けを取らない。おそらくはCGで補強したのだろうが、そのCGすらアラが見えない。強いて言うなれば、最後の大戦闘でのアメリカ軍戦闘機のCGはちょっと弱かったけどね。でも、それ以外は文句のつけようがないだろう。

 実際の話をすれば、僕は1950年のソウル場面でいきなりジャレ合う兄弟を見せられた時、正直言っていささかシラケないでもなかった。だがアッという間に理不尽な成り行きで戦場に連れて行かれ、不安を感じている間もなく爆撃にあう。

 その最初の爆撃シーンの圧倒的な事ったら!

 それから後は、映画の最後までそんなギリギリの戦闘場面が続く。このへんの見せ方の確かさは、さすがカン・ジェギュのテクニックだ。それがあるから、観客は陳腐な兄弟愛をとやかく言う気がなくなる。もう、そんな事はどうでもよくなる。そのくらい戦闘シーンの破壊力は凄まじい。

 だからこそ、アメリカ・ユニバーサル映画がわざわざ配給権を買い取ったんだろう。お得意のリメイク権を買わなかったってのは、この話って韓国でつくらなきゃ意味ないからね(笑)。そのくらいはさすがにハリウッドも分かったらしい。

 

韓国現代史におけるこの作品の意義とは?

 そう、この映画は韓国だからこそ意味がある。マジメな話をすれば、カン・ジェギュがこの映画をつくろうとしたモチベーションは二つあると思う。一つはヒットメイカーとして、「プライベート・ライアン」ばりの本格戦闘アクションを描きたいという野心。もう一つは…これも野心は野心だが、韓国の映画作家として朝鮮戦争を描いた初めての本格的作品を、あくまで娯楽映画としてつくりたいという思いだ。

 特に「韓国で初めて」…という点は、カン・ジェギュの作品に顕著なポイントだ。CGを使ったファンタジー「銀杏のベッド」、南北対立を扱ったハリウッドばりのスパイ・アクション「シュリ」もそうだった。だから、それまでつくられてきた朝鮮戦争映画とは一線を画する映画をつくりたい…という思いは、一際強かったと思うんだよね。「シュリ」で血の通った北朝鮮工作員を描き、韓国映画に新たな時代を切り開いたカン・ジェギュなら当然思うであろう野心のはずだ。オレならば…との思いがあったに違いない。

 それまで韓国映画で朝鮮戦争がどのように描かれたかと言えば、やっぱり限界があったと思うんだよね。僕はそのすべてを見ているとは言えないが、大体この程度だろうと想像がつくところはある。

 例えばペ・チャンホが「カラー・パープル」も真っ青に描いた姉妹の別離物語「あの年の冬は暖かかった」(1984)、イム・グォンテク監督が幼い純愛の悲しい末路を描く「キルソドム」(1985)など、もっぱら離散家族などの悲劇として描いていた時代があった。これは戦争そのものを描くには資金的に限界があるという部分もあったのだろう。

 あと、そのイム・グォンテク監督も昔は携わったという、かなりな数の国策反共戦争映画群があったと言うが、幸か不幸かそれらは日本にはほとんど来なかった。正直言って、見てもオモシロイものではあるまい。

 そんな事情をイム・グォンテク監督自身も物足りなく思ったのだろうか、太白山脈(1994)ではこの戦争に真っ正面から取り組んだ。その意気やよし。だが何しろ巨大なスケールの物語に多彩な人間群像を織り込んで、朝鮮戦争という複雑怪奇な事件を描くのは並大抵のことではない。結局、巨匠イム・グォンテク監督にして物語を追うのがやっと…という、いささか消化不良の作品にとどまったのは実に惜しかった。

 さらにこの後を追ったのが、娯楽映画に復帰したペ・チャンホの久々の大作黒水仙(2002)。だがこれとても、ペ・チャンホの手に余る題材だったようだ。元々戦後の殺人事件に絡めて描くという「変化球」的作品ではあったが、結局彼が得意とする人間の善性をうたい上げるだけでは、朝鮮戦争そのものを描くことにはならなかった。

 そんな中でこの「ブラザーフッド」は、何より激しい戦闘場面の連続で、真っ正面からシビアな戦場の現実を生々しく描いた。戦争の「実感」に狙いを絞って描き込んだ。それを描き尽くすために、中心の人間のドラマは徹底的に抽象化・単純化した。それだけでも優れていると思うが、驚いた事にここには「加害者」としての韓国軍が描かれているんだよね。情け容赦なく無抵抗な北の捕虜を処刑する主人公の姿は、それまでの韓国映画には描かれなかったものだ。

 さらに驚いたのが、銃後の人々を血祭りに上げる民間の反共治安組織の描写。これまた偶然にも、先に挙げた「コールド・マウンテン」での義勇軍を思わせるような卑劣な乱暴狼藉の数々。これについては前述の「黒水仙」でチラリと触れられてはいたが、ここまで前面に出して描かれたのは初めてではないか。確かに後にいろいろと問題を残しただろうし、扱い方が難しい部分ではある。そこに踏み込んだこの映画は、やっぱり画期的な作品だと言えるんじゃないだろうか。そしてそれこそが、この映画のフレッシュな鮮度ともなっているのだ。

 ところでこの映画では、戦争の終結で一応の平和な生活がやって来たように描かれる。そこから一足飛びに現代に移るから、あの後何とかあの家族は平穏無事に過ごしてきたように思える。しかし、実はたぶんそうではなかっただろうと思えるんだね

 共産主義者とその疑いをかけられた者に対して、韓国社会はその後も過酷な運命を強いた。多大な犠牲も払わせた。兄が北朝鮮軍の英雄になり兄嫁が共産主義団体のメンバーだったこと、さらに民間治安組織での大立ち回りからして、おそらく彼らはただでは済むまい。あの弟と母親たち家族は、あれからかなりの辛酸をなめたはずだ。それを考えると、さらに暗澹とした気分になるんだよね。

 そして、もう一つついでに言えば…「ついで」なんて言ったら怒られてしまうが…この悲劇の元々の発端にはわが日本の先人たちの不始末の数々があったという事は忘れられない。日本人としてはそれをクドクド言いたくはないのが本音だし、「いい子」になる事で自分の「免罪符」にするつもりもないが、それがまるっきり「なかった」フリも出来ないんだよね。

 

見た後の付け足し

 さて、映画はそんな訳でかなりな出来栄えとなっているが、これはホントに付け足し。これから後は単にここだけの話だ。

 それにしても、あの弟のウォンビンにはイライラさせられたねぇ

 兄貴の心、弟知らずというか。元々戦場に駆り出されるハメになったのも弟のせいなら、死にそうな任務に志願するのも弟のため。ところがこの罰当たりな弟は、そんな兄を罵倒するから頭に来る。このガキ、ふざけるんじゃねえ。

 元々兄貴にアイスキャンディーまで食わせてもらって、何かやってもらうのが当たり前だと思ってるんじゃねえか? 確かに兄貴は途中で功名心に走ったり殺人マシーンと化したりするが、それもこれも全部弟のせいとは言えないか。それなのに弟は一人で「いい子」になって兄貴を責める。

 全部兄貴におんぶにだっこになってるくせに、いざとなると正義ぶって偉そうな態度。そのくせ兄貴がもらってきたハーシーのチョコレートは絶対一人で食ってるに決まってる。

 こういうヤツに限って、案の定イケメンなんだよな(怒)。

 婚約者を失って動転している兄貴に向かって、「殺したのは兄さんだ!」と逆恨み、かつ一人でええカッコしい。あのな、テメエの女を失った兄貴が一番キズついてるんだ、それを責めてどうするんだ。どうせ童貞のくせしやがって黙ってろこのボケ! えらそうな口は筆下ろししてから言え。

 あげくこいつがバカだから兄貴は北朝鮮軍に寝返ってしまった。全部全部全部ぜぇぇ〜〜〜んぶテメエが悪いんだぞウォンビン!

 それなのに、全面的に可哀想なのは兄のチャン・ドンゴンなのに、オンナどもの同情はこのウォンビンが引き受ける。こんなヤツ同情する必要はないし、ホントは同情される側ではないにも関わらず。本人も自分が同情されるのは当たり前って思ってる。そうやってずっと生きてきたツラだよオマエは。

 …って、実はコイツがイケメンってのがムカつくわけ。ハッキリ言ってイケメンゆえの言いがかり。こりゃヒガミなの(笑)。それでもオンナの観客はダマせても、男のオレたちはダマせねえぞウォンビン。オマエが一番悪いって事はお見通しだ。それなのにおめおめと生き残りやがって。恥ずかしくねえのかテメエは。

 最後の戦場でも、北朝鮮軍やら中国人民解放軍が束になってかかってきてるのに、ウォンビンは兄貴探してよそ見しながら全員倒していく。他の奴らが生きるか死ぬかの瀬戸際で余裕なんかなくなってるのに、ウォンビンはよそ見しながら敵を皆殺し。テメエちょっとナメてるんじゃねえか。もっとマジメにやれ。いくら何でも敵に失礼だろう。そもそも敵も敵だ。よそ見のイケメン・ウォンビンごときにやられっぱなしとは、だらしねえぞどいつもこいつも。

 こんな事だから共産主義は崩壊するんだ(笑)。

 

 

 

 

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