「4人の食卓」

  The Uninvited

 (2004/06/21)


  

見る前の予想

 ハッキリ言って「猟奇的な彼女」の印象鮮やかなヒロイン、チョン・ジヒョン主演の新作。しかも打って変わって今度はホラー、スリラーという様変わりの作品。知っている情報はこれだけ。でも、それだけで十分だ。

 「猟奇的」があれだけの素晴らしさだからヒロインの彼女の新作も早く見たかったし、それが前作とガラリと変わっているとしても、サスペンスなら面白そうではないか。

 そう言えばあの「アメリ」のオドレイ・トトゥの新作って、スティーブン・フリアーズ監督のサスペンス映画だと言う。あれだけ鮮烈な印象を与えたヒロイン女優がそれからの飛躍を期するために、スリラー、サスペンス、ホラーというジャンルへの挑戦は比較的やりやすいのかもしれない。同じ路線転換でもセクシー路線への転換だったら、人によっては柄に合わない場合もあるだろう。だがコワイ映画への挑戦なら誰でもいけそうだ

 元々男というものは、好きな女の恐怖に歪む顔というものを見てみたい欲求があるのかもしれない。可愛い女なら尚のことだ。

 それにとりあえずスリラーかサスペンスかホラーなら、殺しとか謎解きがあるだろう。それならば、最悪でも退屈はしないで済みそうだ。見る側としては保険とも言えるんだよね。

 

あらすじ

 その男パク・シニャンは疲れていたのか、電車の中でずっと眠りこけていた。途中の駅で二人の幼い娘を連れた母親が乗ってきて、パクのそばの席に座らせた時も眠っていた。眠って眠って、深夜にたどり着いたのは終点の寂しい駅。乗客もみんな降りて車内に取り残されたままだった彼も、「この後は車庫に入ります」とのアナウンスに驚いて、慌てふためいて電車を降りる。だが降りた後で車内を見ると、例の二人の幼い女の子は眠って座ったままではないか。彼が唖然呆然とするまま、扉を閉じた電車は駅から走り去って行く。それをパクがそのまま放置したのは、面倒事に巻き込まれたくないという気持ちからだったのだろうか。

 そんなパクは、さまざまな建物の改装に関わっているインテリアデザイナー。照明デザインの仕事に携わるユ・ソンとの結婚を控えて、今が一番幸せな時だった。そんな婚約者ユ・ソンは、新居となるパクのマンションの一室にモダンなガラスのテーブルと4つの椅子を持ち込んでいた。そのオシャレなセンスを自画自賛するユ・ソン。彼女に言わせれば食卓は家族が会話する場。つまりは家族全員が主人公だと言う。

 さて、あちらこちらで新築改築ブームが沸き立つ経済絶好調の韓国では、パクの仕事も引っ張りだこだ。今日も今日とて豪華なホテルの部屋を改装中。だがオリンピック後の好景気で粗製濫造気味に建設したせいか、どこもかしこも粗雑な出来が目立つ。

 ところがパクは、現場で付けっぱなしだったラジオのニュースを聞いて凍り付いた。「電車内で女の子二人の死体が発見された」と言うのだ。それってまさか…。そんな折りもおり、電気配線を探して天井にドリルを使っていると、いきなりその一角が崩れてパクの頭を直撃する騒ぎ。何とも不吉と言えば不吉。

 その夜、自宅で仕事をしていたパクはそのままうたた寝。ふと気づいてダイニング・キッチンのテーブルを見ると…。

 向き合うかたちで、椅子に例の二人の少女が座っているではないか!

 まだ明け方にも関わらず、パクはクルマをぶっ飛ばして街へ急ぐ。とてもあんな家などにはいられない。とりあえず現場に早々に直行だ。

 さらにマンションの自宅に帰る気になれないパクは、一時的に実家に避難する事にした。パクの実家は教会だ。牧師である父チョン・ウクと妹が暮らす教会に、パクも転がり込む事にした。その教会はつい最近改装なったばかり。支払いの事など問題も残ってはいるが、長年の懸案だっただけに父も満足げだった。

 それでも、久しぶりの実家のベッドで悪夢に悩まされるパク。あの終点の駅で、電車内に座った二人の少女を見つけるパク。ある時は彼女たちはなぜか黒こげの姿で登場し、ある時は並んで立ってこちらを見つめている…。

 そんなパクは、精神科の医師の元に足を運ぶ。…と言っても、彼自身が医者にかかろうというわけではない。彼はこの精神科医院の改装を頼まれたのだった。そんな時パクは、たまたま医院から出て来た患者と出くわす。その若い女の患者チョン・ジヒョンは、確かに何やら訳アリの感じだった。何となく気になる、するとつい見てしまう。仕事のために部屋を見て回るパクだが、またまた出ていく途中のチョンを見てしまう。打ち合わせを終えてクルマで去っていこうとするパクだが、ここでもまたまたチョンを見かけてしまう。しかも彼女は往来の真ん中でバッタリ倒れてしまうではないか

 そんな頃、婚約者のユ・ソンは新たな大口の仕事が決まって大喜び。照明デザインが浮かんだ…と、パクにグルグル巻きのうずまきの図を見せる。それを見ながら、またしても幻想に落ちていくパク…。

 ボロボロの家が建ち並ぶ貧しい街並み。その坂道にパクが立っている。するとダンプカーがパクに向かってドンドン後退してくるではないか。足下を見ると、そこには下水口があった。その隙間から見える子どもの手…。さらに少年が現れて、パクに絵を見せる。その絵に赤くグルグルのうずまきが…。

 例の電車内で死体となって発見された二人の少女は、夫に逃げられ生活苦に悩んだ母が電車内で“毒殺”した…とニュースは伝えている。

 自宅マンションに戻ったパク。ドキドキしながらテーブルを見るが、そこに幼い少女二人の姿がなかったので思わず安堵。ところがホッとしたのもつかの間。そんな彼に背後から子どもの声が聞こえてくる。「お兄ちゃん!」

 寝汗ビッショリで悪夢から目覚めるパク。彼はまだ実家にいたのだ。そんなパクを見かねてか、牧師である父も思わず声をかける。「“また”コワイ夢を見るようになったのか?」

 さてパクの実家の教会は、遠くから信者が通ってくるほどの盛況ぶり。礼拝を終えた信者たちが、それぞれクルマに分乗して帰っていく。パクも自分のクルマに信者たちを乗せていた。そこに偶然にも乗り込んだのが、あの精神科医院で見かけた女チョン・ジヒョンだった

 他の信者たちは一人またひとりと降りて、最後に残ったのがチョン。何と彼女の住まいは、パクと同じマンションだった。そんな彼女にパクは自分の名刺を渡す。ところが驚いた事に、マンションに差し掛かったとたん、チョンがいきなり車内で失神してしまうではないか。まったく意識を失い動かないチョンと、それに慌てるパク。彼がクルマを停めたそのすぐ前の路上に、なぜか大ケガをして瀕死の猫が横たわっていたのは、単なる偶然だろうか?

 ともかく何とか自室までチョンを運んできたパクは、何とか身元の手がかりになるものを探す。やがて翌朝目覚めたチョンに、パクは彼女の夫を呼んだ事を告げた。間もなく下の駐車場に、彼女の夫のものらしきクルマがやって来る。チョンはパクに声をかけて、部屋を辞そうとした。「夫が来たので帰ります。“お子さん”を早くベッドへ

 このチョンの発言に愕然とするパク。「お子さん」…? 彼女にはアレが見えているのか? だがその発言の真意を確かめる間もなく、パクの家にチョンの夫がやって来て彼女を連れていってしまう。彼女は一体…?

 ところがパクの家を去って間もなく、チョンと彼女の夫は激しい言い争いをする。あげく夫のクルマから降りてしまうチョン。果たして彼女と夫との関係は…?

 そんなチョンと夫がその次に顔を合わせたのは、何と裁判所だ。チョンはこの裁判の証人として出廷していたのだ。夫は傍聴席に座っている。この裁判の被告は、チョンの友人だった主婦キム・ヨジンだ。

 証言が始まる。チョンとキム・ヨジンはかつて近所どおしで、主婦仲間としてつき合うようになった。お互いの子どももまだ赤ちゃんで同じ歳。ある日、チョンは病気のキム・ヨジンに呼び出され、団地の彼女の家に遊びに行った。だがチョンが買物のために外出して帰ってくると、キム・ヨジンが彼女の子どもをつかんで、ベランダの外にぶら下げているではないか!

 「やめて! その子を戻して!」

 だがキム・ヨジンは無情にも手を離した。チョンの絶叫が響く中、赤ん坊は真っ逆さまに下へ落ちていったのだった…。

 一方パクの婚約者ユ・ソンは結婚式の余興に…と彼の赤ん坊時代の写真を探すが、実家にさえそれらは保存されていなかった。実家をわざわざ訪ねたユ・ソンに、しきりと礼と詫びを告げるパクの父。実は改装した教会は、ユ・ソンの父親の尽力と融資によって建てられたものなのだった。

 さて、パクはチョンに深い関心を抱いた末、帰宅した彼女にいきなり自宅の食卓で見たものについて問いつめる。すると、いきなり硬化したチョンはパクを振り切って剣もホロロ。それでも諦めきれないパクは、改装工事中の精神科医のカルテ・ファイルから、チョンの個人情報を無断で調べる。診断によれば彼女は嗜眠症という睡眠発作の持ち主で、幻覚や妄想癖もあるらしい。パクはさらにチョンの診断テープまで聴くに及ぶ。

 猫を連れた女とエレベーターで二人きりになり、馴れ馴れしく話しかけられて閉口する。彼女はこの手のタイプの女が嫌いだったし、そもそも猫が嫌いだった。猫の鳴き声は子どもの泣き声みたいだから…。

 そんなチョンは窓の外を見ているうち、飛び降り自殺した女が転落していく瞬間にちょうど目が合ってしまう。そして、チョンは気を失った。自殺したのは、あの猫を飼っている女だった。

 チョンが自殺する女と目が合ったと言っても、夫は信じてくれない。速度から言ってあり得ないと一蹴される。だが彼女は確かに見たと確信している。そして医師にこう告げた。

 「人はそれを経験したから信じるんじゃない。それが受け入れられる時だけ信じるんですよ」

 キム・ヨジンの裁判はさらに続いていた。夫によれば、赤ん坊に乳首をかみ切られそうな気がして母乳をやらなかった彼女。自らの病気を疑ったキム・ヨジンは、友人だったチョンに連れられて病院にMRI検査を受けに行く。だがMRI装置の中に横たわって通されるに及んで、キム・ヨジンは突然パニック状態に陥るではないか。元々彼女はトンネル状のものに入るのを恐れていた。この時もMRI装置の穴の中を通るのを恐れたあまりのパニックだった。その時、キム・ヨジンの脳裏には穴のイメージが浮かんでいた。同時に穴のイメージを感じたチョンも、その場に倒れてしまう。実は彼女、もっと明確にそのイメージを掴んでいたのだ。穴は井戸…そして、穴の底には横たわった女のカラダがあった。その乳房にむしゃぶりつく赤ん坊…。

 パクは再び意を決してチョンに迫るが、彼女は頑なに彼を拒絶する。「助けてくれ」と頼んでも冷ややかな反応。去っていく彼女に、パクは背後から声をかけた。「僕は君の言う事を信じるぞ」

 そんな二人はその後まもなく再会する事になった。チョンがまた倒れて、たまたま持っていた名刺からパクが呼ばれたのだ。だが彼女を連れ帰るパクの姿を、たまたま通りかかった婚約者ユ・ソンが見ていた…。

 こうして望むと望まざるとに関わらず、またしてもパクの自宅に上がる事になったチョン。彼女は自分の母親について語りだした。彼女の母親は霊媒師だったのだ。そして、同じ能力はチョン自身にも…。

 パクも自分の過去について語り出す。彼は幼い頃の記憶がない。練炭のガスを吸って記憶をなくしたとの事で、それは父親が、まだ貧民街で布教している頃の事だった。そんな子供時代から、彼は悪夢を見た…。

 「真実を知りたいの?」

 そんなパクに、チョンは真っ正面から尋ねた。以前同じように過去を知りたがった人がいたが、真実を知ったがためにその人は苦しんだ

 「それでもあなたは真実を知りたいの?」

 

見た後での感想

 ストーリーをどこで切ろうか、大いに悩んだ。これって実際のところ、最後まで書いてもネタバレじゃない気もするし、最初っからネタバレって言えなくもない。細かいセリフやエピソードの一つひとつが伏線になっていて…少なくともそのように見えて…実に緻密な脚本と演出なのだ。これが劇場用長編第一作の女性監督イ・スヨンの描写は、精密にして繊細極まる。正直言ってストーリーには出来るだけの情報を詰め込んだつもりだが、それでもすでに落としている部分があるし、僕が見逃していて気づかなかった部分もありそうだ。

 映画を見るたび「描こうとしているものは何か?」…を考えてしまうのが、僕のような「文系人間」の悪いクセだが、それでもこの映画あたりには明らかに何らかの比喩なり暗示なりの意図があるはずだ。で、探っていけばキリがない映画なんだよね。詳しくは後に細かく書いておこうとは思うが、大きく言えば高度成長を遂げた韓国社会…という巨大なテーマかもしれないし、小さいところで言えば普遍的な個人個人の心の闇みたいなものかもしれない。そんなマクロからミクロまでの、えらく振れ幅の広いテーマ、レンジの広い題材を扱っているような気がする。

 そういう意味ではダイナミックさと繊細さを併せ持った映画作家とも言えるわけで、大変な人がまた韓国に現れたと言いたいところだ。だが、そんな矛盾する二律背反の要素をちゃんと同居させて捌けているのか…と言えば、実は少々疑問が残ったりする。

 ガバッと時代や社会そのものまで掴みきっていながら、個人個人の心の中にスポットを当てる…と来れば、あのボン・ジュノの凄みのある傑作殺人の追憶が連想される。こちらもダイナミックさと繊細さの同居が見事な映画だった。で、これを引き合いに出しては何だけど、ちょっとこの「4人の食卓」は交通整理が出来てないように思えてならない

 振れ幅のどっちかに行きそうで行かない。それってどっちつかずとも言える。何かを言わんとしているのは分かるのだが、それがモヤモヤの彼方のままで投げ出される。もちろん分からないこちらがニブイという事はあるかもしれない。だけど、どうもそれだけではないようにも思うのだ。で、そこがボン・ジュノあたりとの違いとも思える。

 例えば「人はそれが受け入れられる時だけ信じる」…な〜んてセリフ一つとっても、すごく示唆に富んだ言葉だよね。これ一本で映画が出来そうだ。そして人間の本性にグサッと迫って来そうな感じがする。

 だけどね…これを人間全てに普遍性のある、みんなが思い当たる「実感」あふれたものにするには、ちょっとアレコレとアイテムを詰め込みすぎてはいないか?

 変なうずまき模様、子どもへの虐待や殺し、トラウマ…これまた後で詳しく述べるが、意味ありげなアイテムが多すぎる。これってイ・スヨンという人のエンターテイナーたる所以だと好意的に解釈しているのだが、さすがにサービス精神が少々アダになったのでは…とも思うのだ。ハッキリ言ってこの映画の言わんとしている事を、ちゃんと言い当てる事が出来る人はあまりいないんじゃないかと思うよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 この映画のプロデューサーのオ・ジョンワンって、H/エイチとかTHREE/臨死の韓国篇をつくった人。この後も「箪笥」が控えているらしく、すっかりホラーづいてる感じだ。

 そして、その「THREE/臨死」の韓国篇で思い出したんだけど、今の韓国では高度成長期の歪みみたいなものが叫ばれつつあるのだろうか?

 日本から韓国を見ていると、ソウル・オリンピック以降の韓国ってそっくりそのまま東京オリンピック以降の日本の歩みに似ている気がする。そこで子供時代を過ごしてきた僕には、何とも懐かしくも身近な雰囲気を感じるんだよね。日本ではそれがさらに進んだ1970年前後に公害問題が叫ばれるのだが、つい最近韓国でもイタイイタイ病が発生したと聞いて、まったくシャレにならないと驚いたよ。

 何でそんな事を言ったかと言えば、今回の映画って高層団地やマンションがすごく意味を持っているように思うんだよね。

 郊外型の団地という新たな住宅形態が、大家族を崩壊させて核家族を生み出す。それは夫、妻、子ども二人…という「4人の食卓」にちょうどいいカタチだ。この映画のタイトルと、物語の核としてのガラスのテーブルは、まさにこれを意味しているのだろう。だがそれは、夫婦や親子という人間関係にそれまでなかったストレスを与える生活だった。 それは「THREE/臨死」の韓国篇でも描かれていたものだよね。期を同じくして同じ事を言う映画が二つ出来たというのは、そういう気分が韓国社会に蔓延しているからのように思える

 だがその一方で、ついこの前までは主人公が子供時代を送ったような貧民街だってあったのだ。今の繁栄を象徴した高層住宅なんて、実は意外にモロいものなんじゃないだろうか? おそらく作者の発想の原点はそのあたりにあるはずだ。

 そしてこの映画に登場する、自殺他殺を問わない転落のイメージ。日本でもちょっと前には、飛び降り自殺名所の団地がどこかにあったよね。これはやっぱり、高度経済成長後特有の風景なのだろう

 もう一つこの映画に執拗に描かれるのは、親による子どもへの虐待、あるいは殺しだ。冒頭の電車内での幼い姉妹毒殺に始まり、冷視能力のある女の赤ん坊が友人の主婦によってベランダから落とされたり、幼い頃の主人公の男が父親に虐待されたり、これこそ枚挙に暇がない。実は今の日本で一番の社会問題がこれでもあり、そういう意味では韓国は早くもここまで追いついてしまったのかと唖然としてしまう。

 そんな韓国の現代社会を大づかみに描く一方で、「人はそれが受け入れられる時だけ信じる」というセリフに象徴されるごとく人間の本性を暴いたりもする。溺れる者はワラでもすがる的に「君の言うことをすべて信じる」とまで言って冷視能力者の女に追いすがった主人公なのに、聞きたくなかった事実を突きつけられたら冷たく無視しようとする。そのあたりの愚かさ痛さは、もうちょっと誰にでも思い当たるように「実感」「共感」を込めて描き得ていたら面白いものになっただろう。

 だが、結局のところ主人公がイヤな奴、馬鹿な男…ってレベルで終わってしまうように見える。何だか折角のテーマが矮小化してしまうのだ。これは明らかに誤算じゃないだろうか。

 ともかく主人公によって破壊されたテーブルが、最終場面で再び無傷で出てくるのは如何なる理由か? そこに“主人公を含めた”4人が卓を囲むのはどういう意味か?

 他にも気になるが訳が分からない要素はドッサリとある。主人公の実家の教会が、婚約者の家の支援を受けて改築された事の意味ありげな描き方、劇中に二度出てくる猫(いずれも奇妙な登場ぶりだ)の意味、霊能力者の夫を恐喝しているかのような男の登場、そして霊能力者の女自らが子どもを窓から落としたと受けとれる描写…。

 結局、イ・スヨンはサービス精神旺盛過ぎなだけでなく、あまりに緻密に構成を作りすぎた。細かい意味ありげな設定をあちこちに散らばせ過ぎた。だからあっちこっちへと気が散ってしまう。どれが大事でどれがそうでないか分からない。力の配分が分からないんだよね。

 しかも伏線があまりに細かく張り巡らされた上に、それが一個でも途切れると理解に支障をきたしかねないほど緻密なのではないか。だから、見ていてそれに気づかないと分からなくなる。これって大衆映画としてどうなんだろう?

 逆に駆け足で無理やり語ってしまうくだりもある。霊能力者の女の友人が、赤ん坊の時に井戸の底で母親の死体を食って生き延びたトラウマを持っている…なんて、あまりに慌ただしく語られるので訳が分からない人も多いのではないか。そもそも設定そのものから突飛過ぎて、先に述べた「実感」「共感」には至れないという点もある。ちょっと作り過ぎちゃったという印象があるんだよね。たぶん、頭が良すぎるんだと思うよ。自分が頭が良すぎて、観客がそこまで理解出来ないとは分からない。

 あるいはいくつかの解釈が可能な映画なのかもしれないが、それにしたって才人が才に溺れた…みたいなところはあるんじゃないか。

 …と、いつもならここで話を終わらせたいところ。

 だけど正直言って、この映画のイヤ〜な感じは今になっても残ってる。何なんだろうね、これは?

 理屈としてはともかく、なぜか分からないけどずっとイヤな感じが残る。もし、それが作者の狙いだったのなら、この作品ひょっとして成功かもしれない。読んでいる人には「一体いいのか悪いのか、何を言いたいのか分からない」と言われてしまいそうだが、この何とも言えない奥歯でジャリッと砂粒を噛んじゃったような違和感は、どうもただもんじゃないと伝えているようにも思える。

 それってうまく言えないけど、こういうような事じゃないか。世の中も自分の人生も、今でこそもっともらしくなっているけど…ホントはかつてのおぞましい部分や人に見せられない部分にフタをして、見えないフリしてやってきてるだけじゃないのか? そして、そうまでして築いてきた今の生活も、実は意外に基盤は脆弱なんじゃないか? いつか崩壊して汚物が覗いてしまう事を、内心どこかで予感しているんじゃないか?

 仮にこれが計算外の要素だったとしても、この映画には確かに人の神経を逆なでするところがあるように思える。それだけでも成果があったと思うんだよね。

 

 

 

 

 

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