「デイ・アフター・トゥモロー」

  The Day after Tomorrow

 (2004/06/21)


  

忘れられないわが人生最冷最寒の日

 みなさんは、人生でもっとも寒かった一日というものを覚えてらっしゃるだろうか?

 僕は覚えている。忘れようったって忘れられない。それは僕がまだ20代だった時、1986年1月11日の土曜日のことだった。

 僕はまだその頃は商売替えしてなくて、一番最初の勤め先で営業をやっていた。何でこの日を明確に覚えているかと言うと、その日、僕は会社の同期の連中と新年会をやったんだよね

 確かあの日は、一次会を銀座でやったと思う。最初から結構テンションが上がっていて、ガンガン飲んだし笑って騒いだ。東京の同期のメンバーは、当時僕を入れて10人ぐらい。その日は全員が来たかどうか覚えてないが、おそらく大半は出席したはずだ。実はこんなメンツがフルに近い状態で集まるのも、それが最初の事だった。実はそれが最後でもあったんだけどね。

 で、一次会はそこでお開きになって、普通はそこでバラけてしまうはずなんだけど、その夜はなぜか違ったんだね。さらにもっと飲もう、もっと騒ごうって事になった。

 実は僕ら同期でも、男連中だけならそんな事はザラにあった。朝までバカ騒ぎってのは、当時よくあった事だ。だがその日はいつもと違っていた。同期の女の子の一人もそれにつき合ったのだ。

 彼女はそもそもちょっとサバけていて楽しい子だった。だから、他の同期の女の子とも一味違っていたんだよね。それにしたって夜通し僕らとつき合おうとは嬉しいじゃないか。大体、男なんて女の子と夜通し騒げるとなるとバカみたいに喜ぶものだ。そしてひょっとしてイイ事があったりして…などと、都合のいい妄想も湧くからアホなんだけどね(笑)。

 その夜、僕らは同期の奴が一人暮らししているアパートに上がり込み、またそこから別の同期の奴の家へ行き…というような状態であっちへウロウロ、こっちへウロウロと移動していた。もう夜中だから電車なんてとっくにない。そこで同期の中でも比較的裕福な男が、自分の家からやたら燃費の悪いバカでかのアメ車を持ち出した。この真っ赤なアメ車…さすがにデカいから大人数でも平気で乗れたんだよね。

 で、夜中にクルマで街を走りまくったんだけど、これが寒かった

 たぶんあの夜は、僕らはしたたかに酔っていた。だから温度の感覚なんてマヒしていたはずなんだけど、それでも寒い寒いと叫んでいた事を覚えている。実際に異常なほど寒かったよ。実はあれで酔っていなかったら、とてもじゃないけど耐えられないほど寒かったのかもしれない。だってアメ車の中はヒーターをガンガンかけていたはずなのに、いくら経ってもちっとも暖まってこない。カラダの芯はいつまでも冷えたまま。それどころか、徐々に足の先とか指の先あたりがジンジンと痛み出すではないか。

 東京の話だよ、1月の東京だ。

 そのうち、連れてきた例の女の子が、具合が悪いと訴えだした。腹が痛いのか頭が痛いのか分からないが、急激な体調不良に襲われた。いやぁ、それも無理もない。そのくらいあの夜は寒かったんだよね。

 なぜそう思うかと言えば、ハッキリ目に見える寒さの証拠を見たからだ。

 ガンガンとヒーターをかけているのに、ちっとも暖まらないアメ車。何人も人が乗っていればそれだけで熱いはずのに、クルマの中は冷え切ったまま。

 そのフロントガラスが…みるみるうちに凍りだしたではないか!

 これって北海道や東北では、きっと見慣れたものなのに違いない。だけど僕ら東京の人間は、そんなものを見るのは初めてだった。だからたまげたよ。そして、なおさら気持ちが冷え切った。

 だってフロントガラスが端からものすごい勢いで、どんどん凍っていくのが見えるんだよ。目の前で氷の結晶が成長していくわけ。どんどん伸びていって、ガラス全体が真っ白になっていく。その過程がこの目で見えるんだよね。そして気のせいか、キュ〜ンという音もどこからか聞こえてくる気がした。僕はあの時、僕らホントにヤバいんじゃないかと思ったよ。そして、気温の低下が何か決定的なレベルを超えてしまったんじゃないかと思った。

 同期の女の子が腹を抱えて苦しがっているのを見ると、ますますそんな気持ちが拭えなかったんだよね。

 だが実際には、朝を迎えても何らとんでもない事態は起きてなかった。ただありふれた寒い一夜が去っただけ。気象庁も始まって以来の記録を叩き出してはいなかった。

 加えて言えば、例の女の子の体調不良も寒さのせいではなかったのだ。

 僕らは若かった。そしてウブだったんだよね。だから気づかなかったんだろう。もっとも、今だって大して知恵がついた訳じゃないが。

 実はその時、同期の女の子のお腹の中には一つの命が宿っていた。もちろん僕らのうちの誰かとの子なんかじゃない。僕らは相手になんかされてなかった。

 前の年に入社した後輩のイケメン男との間の、秘かな愛の結晶だったんだよね(笑)。

 

見る前の予想

 ローランド・エメリッヒのSF超大作と言えば、誰が何と言ったって「インデペンデンス・デイ」(1996)が頭に浮かんでくる。あの映画の大味ぶり、あまりの「ビバ!アメリカ」ぶりにシラけた人も少なくなかったはず。かく言う僕もその一人。いつもなら「アメリカ映画なんだから仕方がない」と毎度毎度大目に見てきたところだが、それにしたってあまりにあまりの歯の浮くアメリカ賛歌にドッチラケ。おまけにエメリッヒがドイツ人だと知って、僕は二度シラケた。

 次の「ゴジラ」(1998)は…と言えば、あの大トカゲをゴジラと言うのはいくら何でも無理がある。やっぱりエメリッヒって決定的に無神経というかデリカシーのない男なんだな…と完全に決めつけてしまった。

 そんなエメリッヒを意外にも見直したのは、そのまた次のパトリオット(2000)を見てから。今までSF超大作が続いたが、これは独立戦争を舞台にしたエピック・ドラマ。そんな雰囲気の様変わりぶりが良かったのか、ちゃんと地に足の着いたドラマになっていた。僕はエメリッヒをちょっと見直したよ。

 で、そのエメリッヒの新作がやってきた。

 あの「パトリオット」に次ぐ新作ということで、前作から受け継いだ骨太さを期待したいところ。だけど新作はまたまたSF超大作。SFXをふんだんに取り入れて、地球と人類の危機を描く…と来れば「インデペンデンス・デイ」そのものではないか。あちゃ〜。

 前進か、後退か? 今度のエメリッヒはどっちだ?

 

あらすじ

 それは南極の大氷原での事だった。古代気象学者デニス・クエイドが相棒のジェイ・O・サンダース、ダッシュ・ミホークの二人と分厚い氷のサンプル採取を行っている最中、いきなり大氷原に大きな亀裂が出来るではないか。それは、それから地球全体を覆うことになる異変の、いちばん最初の兆しだった。

 直後に開かれたニューデリーでの地球温暖化会議で、クエイドはこの事実を基に大胆な仮説を披露する。いわく、「温暖化は最終的に氷河期を招く」。一見矛盾した意見ながら、クエイドはこの仮説に強い自信を抱いていた。

 地球温暖化によって極地の氷が溶けて、海洋に大量の淡水が混入する。海水の塩分濃度の変化によって世界の海流がストップして、海から極地に運ばれていた熱帯温帯の暖気も届かなくなる。これによって急激な天候不順の後に一気に寒冷化が始まり、本格的な氷河期を引き起こしてしまう…。

 だが、そんな仮説を一笑に付したのが、アメリカ副大統領ケネス・ウェルシュだ。環境保護、環境保護とうるさく言うが、キミはそれによってどのくらいの経済的リスクを背負うと思っているのだ? アメリカのやる事にガタガタ文句を言うな、いくらイラク虐待囚人と一緒に写ってる女性兵士が忘年会のバカ騒ぎみたいにハシャいでても見なかった事にしろ、北朝鮮に拉致された日本女性の幸せなどどうでもいいオレたちにジェンキンス氏の罪を不問にしろなどと言うな、ディズニーランドに行きたきゃマイケル・ムーアの映画を見ないと誓え…などと万事がこんな調子。クエイドがいくら「次世代のために」と力説しても、まるで副大統領は聞く耳を持たない。そしてクエイドもまた、この時にはこの問題が「次世代」のものとばかり思っていた

 そんなクエイドの熱弁を聞いて、心動かされたベテラン科学者が一人。スコットランドの海流学者イアン・ホルム博士だ。彼はクエイドの仮説が大いにあり得る事だと感じていた。現に温暖化会議が開催されているここニューデリーに雪が降っていた。インドに雪だ。インド人もビックリ。

 しかも異変はまだまだ続いた。東京には巨大なヒョウが降ってきて、リストラは何とか免れていたサラリーマンの頭を直撃。アメリカにはあちこちで嵐が起きていた。

 さてクエイドは相変わらずワシントンD.C.で温暖化問題と取り組んでいたが、仕事一途が度を超している点が上司にも頭の痛いところ。それは家庭にも災いして、現在は妻子と別居中という身だ。医師として働いているクエイドの妻セラ・ウォードは、もう夫のことは諦め切ってるからいい。だが、高校生の息子ジェイク・ギレンホールともギクシャクし始めているのは、さすがのクエイドも頭が痛かった。今度も息子ギレンホールがニューヨークへ行くと言うので空港まで送っていく役割を買って出たものの、クエイドはいつもの調子で仕事に夢中になり、それも危うくスッぽかしそうになる始末。父と子の間は何となく気まずい雰囲気が漂っていた。

 そのギレンホールがニューヨークに行くのは、学校対抗クイズ大会があるから。この大会に出席するため、彼は級友と共にわざわざ好きでもない飛行機に乗るのだ。案の定、飛行機が飛び立つと冷静さを欠くギレンホール。この時は悪天候のために揺れもキツく、それでなくても飛行機に弱いギレンホールは真っ青。思わず隣りに座る級友の女の子エミー・ロッサムの手をギュ〜ッと握る。これはホントに怖くてやった事だが、実はギレンホール、このロッサムに気があった。それで行きたくもないクイズ大会に出るハメになったのだ。まぁ、そういう意味では儲かったと言えなくもない。ホントはギレンホールも彼女に、「ボ、ボ、ボクのもギュ〜ッと握ってくれない?」って言いたかったやら言いたくなかったやら(笑)。そんなギレンホールの下心を、やっぱり同行の級友オースティン・ニコルズはお見通し。

 その頃スコットランドのホルム博士の研究所には、奇妙なデータが届いていた。大西洋の各地に設置したブイが、水温の低下を知らせてきたのだ。これに衝撃を受けたホルム博士は、クエイドの元にこの情報を伝える。彼の言う通り、海流が止まった可能性がある。次はどうなる? もう今までの天気予報のプログラムは使えない。

 そんな折りもおり、ロサンゼルスでは大竜巻が大量に発生。ハリウッド・サインをなぎ倒しキャピトル・タワーをブチ壊し、ハイウェイじゃクルマが三菱自動車製か三菱ふそう社製かと思うくらいバラバラになっちゃう騒ぎ。伝統のマーク、スリー・ダイヤも粉々。そんなこんなでロスの街は壊滅状態になった。この異常事態にアメリカ政府は全土で航空機の離発着を停止。こんなテイタラクに、どこのテレビ局のニュースキャスターも「報道ステーション」の古館みたいに焦って声がうわずるほどだ。

 ニューヨークでも鳥が一斉に飛び立ったり動物が異常行動を起こしたりしていたが、この街の名門校とクイズ大会真っ最中のギレンホールたちはそれどころではない。しかも彼の憧れの彼女ロッサムは、相手の名門校のイケメン男子アージェイ・スミスに口説かれてクラクラ。イケメン・プラス金持ち。結局女はそれしかない。ギレンホールはもはや地球の危機も何も眼中にない。さらにこの事態に、一人暮らしのスミスが三人を自宅を招くと申し出て、彼のポイントはさらにリード。もちろんスミスの目当てはロッサムただ一人、他のギレンホールら野郎二人はお邪魔なオマケに過ぎない。それもまた、ギレンホールの面白くなさを増していた。

 さて事の重大さを察したクエイドは、声を大にして異変を訴える。そんな彼の発言を、NASAの女性職員タムリン・トミタが聞いていた。クエイドの仮説の正しさを見抜いた彼女は協力を志願。かくしてこの異常気象の推移の予想に取り組む。すると、予想外の結果が出た。

 氷河期の到来まで、あと6〜8週間。

 クエイドはこの驚愕の事実を再度ウェルシュ副大統領に直訴するが、またしても剣もホロロ。アメリカの北部の住民の緊急避難を要請したが、取り合ってもらえる訳もない。

 そんなこんなで事態はさらに悪化。王室の救出に向かった英国軍ヘリが、異常気象の真っ直中で凍り付いて墜落するという事件が起こる。王室…と言えばそんな事で驚いては困る。日本の皇室では皇太子夫妻と宮内庁との間の方が凍り付いてる…ってな与太話はさておき、この時に現地にはハリケーン状の巨大低気圧が発生していた。ただし、ここは本来ハリケーンが起こる海洋上ではない。しかもこの低気圧、その中心部分には一瞬にしてすべてを凍り付かせるとんでもない冷気を抱えていた。この真っ直中に差し掛かったら運の尽き。アッという間にガソリンだって凍結するし、ガラスだって凍って割れる。ありとあらゆる所に氷の結晶が張り巡らされる。人間などひとたまりもない事は言うまでもない。シベリアの凍土で発掘されたほとんど生身のマンモスをご存じだろうか? アレが食っていた草花ですら胃に残った状態で凍り付いていたのは、まさにこの急激な超弩級の冷気によるものだ。そう言えばウワサのスイカップ女子アナがようやくタレント宣言したが、その際に肝心の「売り物」の巨乳を隠したもんだから思いっきり話題も人気も冷え切ったっけ。ともかく急激な冷却はコワイよ。

 ニューヨークはと言うと、下水が増水して街は水浸しだ。ちょうどスミスが弟を迎えに行くということもあって、ギレンホールら一同は街に出ていく事にする。だが、彼らはあまりの天候の悪さに前進を諦め、市立図書館へと逃げ込む事にした

 そんな折りもおり、海からはニューヨークめざして巨大な津波が襲いかかろうとしているではないか

 狭い道路で渋滞に巻き込まれた人々やクルマを、津波はどんどんなぎ倒しながら飲み込んでいく。たちまちマンハッタンは大パニックだ。そんな事になっていると気づかなかったロッサムは、津波が迫っているのに人助けでグズグズしていた。

 「あ、危ない!」

 迫り来る津波を見て凍り付いたか、一瞬目をつぶって水に身を躍らせたか…男の勝負はこの一瞬でついた。決死の思いでロッサムを助けたギレンホールの行動は、女心に逆転満塁サヨナラ・ホームランのような劇的な結果を生んだ。これに対してそれまで有利に事を運んでいたスミスは、最後の最後にドーハの悲劇のように、痛い星を落とした事を悟った。ともかく一同は転がり込むように図書館の建物に飛び込んだが、一瞬の差で津波が建物へと突っ込んで来た。まさに間一髪!

 こうして何とかギレンホールらは市立図書館の建物で難を逃れたものの、この時点でニューヨークは全市が壊滅状態に瀕していた。だが、意外とハッピー気分なギレンホール。何しろあのロッサムちゃんのハートを無事奪還したんだから、小泉訪朝より成果があったのは明らか。スミスも完全に負けを悟って諦めモード。それもそのはず。先ほどの危機に際しての対応に加えて、この異常事態にスミスの実家の莫大な財産もすでに価値があるかどうか怪しいもの。そうなると、すでに富から今後の自分の身の安全へと、自分の肉体を賭けたオンナの男選びの関心は大幅に移行していたはず。ならばパニック必ずしも悪い事ではない…とギレンホールが感じるのも無理はない。

 ギレンホールはまだ繋がっている公衆電話で、ワシントンD.C.の両親と連絡をとった。父デニス・クエイドと母セラ・ウォードがちょうど偶然一緒にいたところに、ナイス・タイミングで電話がかかる。父はこれが最後のチャンス…とばかり、息子ギレンホールに的確な指示を与えた。もう手遅れだから外に出ようとするな、ハンパじゃない寒さが襲ってくる、何とか屋内で暖をとって生き延びろ。

 「オレが必ず助けに行ってやるからな!」

 言う約束言う約束がすべて空手形のクエイドだったが、これは絶対果たさねばならない約束だった。だが現実には、これは言葉以上に絶望的すぎる状況だったのだが…。

 案の定、ニューヨークに雪が降ってくる。それだけじゃない。北半球全体が寒くなっていった。いまやスコットランドに留まったイアン・ホルム博士も、避難が手遅れだと悟った。後は黙って最後の時を待つだけ…。

 そんな状態に図書館に避難した人々は焦り狂って、今なら間に合うのでは…と外に出て南へと避難しようとする。ギレンホールは必死の思いで説得するが、みんなは聞かずに外に出ていってしまった。後に残ったのはロッサムら友人たちと一握りの人々だけ…。

 悲愴な表情でニューヨーク行きを決意するクエイド。そんな彼にも最後の一仕事があった。大統領ペリー・キングの元に出かけて、今後の対応を助言すること。閣僚たちの居並ぶ前で、クエイドはギリギリの選択を語った。アメリカ本土の北部からある程度の範囲までを封鎖して、そこから南にいる住人をさらに南部に避難させろ。中米、南米に難民として門戸を開けてもらえ。封鎖した地点より北には今からは行くな。

 これを聞いたあの副大統領ウェルシュは例によって激怒だ。キミはわが国の広大な土地を放棄しろと言うのか?

 だが、これには理由があった。観測結果ではあと1日〜2日のうちに、この地帯一帯は例の巨大低気圧の制圧下になる。あの英国王室救出に向かったヘリを墜落させた急速冷気、氷河期のマンモスを凍り付かせた超弩級冷気がやって来る。その冷気に一瞬でも触れるや、どんな生き物も何もかもただでは済まない。そんな状況下では、もはや救援隊も避難も間に合わない。そしてこの低気圧が北半球全域を圧した後は、本格的な氷河期が訪れる…。ここまで来た以上、せめて南部の住人だけでも助けるしかない。

 それでも副大統領はブツクサ言っていたが、クエイドはその場を去った。言うべき事は言った。後は息子の救出だ。むろん自分が大統領の前で語ったごとく、事態は絶望的と言っていい。息子が生き延びられるか、自分がニューヨークにたどり着けるかもおぼつかない。おぼつかないと言うより、実は無理と言う方がスジが通っている

 それでもこの約束だけは、守らねばならないのだ…。

 

アメリカ好きでSF好きの無邪気なドイツ人エメリッヒ

 まずはこの映画を語る前に、ここまでのエメリッヒをおさらいし直す必要があるだろう。「見る前の予想」でも駆け足で触れたけど、まずはもうちょっと丁寧に見てみたい。

 ここで断らなきゃならないのは、僕がエメリッヒのドイツ時代の作品をまったく知らないということ。ハリウッド上陸直後の「ユニバーサル・ソルジャー」(1992)も知らない。せいぜいいいとこ「スターゲイト」(1994)からなんだよね。

 だから「スターゲイト」を見た時はたまげたよ。誰だか全然知らない奴が、いきなりSF超大作みたいなのこしらえてるんで。スケールもやたらデカいし。お話も古代遺跡が出てきてナゾが出てきて…って僕好みな展開。個人的に「遺跡発掘」モノSFって好きだからね。

 キャストもカート・ラッセルとかジェームズ・スペイダーとか、さらには「クライング・ゲーム」で注目のビックリ俳優ジェイ・デビッドソンまで出てきて、なかなか贅沢感がある。こりゃ面白くなるゾ…と勢い込んで見たものの、途中で大味なアクションになだれ込んでつまんない結末を迎えた印象がある。そう、いわゆる「大味」そのもの。典型的ガッカリ映画だったわけ。

 で、しばらくエメリッヒの存在は忘れていた。そしたら忽然と「インデペンデンス・デイ」が大ヒット作として登場してきたわけ。これには二度ビックリ。もっとも最初に「インデペンデンス・デイ」見た時には、これが「スターゲイト」の監督の作品とは気付かなかったけどね。

 宇宙人の侵略を大迫力で見せてくれたのは嬉しかった。「スターゲイト」同様、エメリッヒはSFでなければ見られない「絵」というものを分かっている。だけど僕がワクワクして見ていたのはこの侵略場面まで。登場人物たちが下手クソな「ドラマ」を紡ぎ始め、「アメリカ魂」を発露してくると、どうにもヨソ者の僕にはシラ〜っとした気分が漂い出すのだ。大統領の出撃から最後の特攻に至っては、「勝手にやって」というのが正直なところ。右傾化したアメリカ世論に迎合した作品にしか見えなかったんだよね。何だか白いTシャツ着てムキムキに腕まくりして、タイコ腹がど〜んと迫り出してビールをビンからラッパ飲みしながらゲップしてる、思いっきりバカっぽい白人のイメージが沸いてくるよ(笑)。そのくせホントはドイツ人。頭悪いんじゃないのエメリッヒって。

 で、スッカリ悪名高くなったエメリッヒだから、その次にハリウッド・リメイク版「ゴジラ」をつくると聞いてもイヤな予感しかしなかった。どうせオリジナルを台無しにするだけじゃないか…。そしたら案の定、出てきたのはゴジラとは似ても似つかぬ大トカゲ。こりゃダメだわ。

 そんな彼が、SF超大作から離れて独立戦争を背景にした「パトリオット」をつくると聞いて、正直言って大丈夫かと疑念が沸いたのも無理のないところだろう。おまけに主演はメル・ギブソン。このところ出演作にハズレのないギブソンが、ここでついにハズしちゃったかと人ごとながら気になった。

 ところがこれが良かったんだよね

 戦争の悲劇的状況。そこでさながら悪鬼のように暴れるメルギブ。因果は巡る…的な展開。あの馬鹿力的な大味演出がウソのようだ。骨太で見応えある大作に仕上がっていたから、僕は驚いたんだよね。エメリッヒ、やるじゃないかと思ったよ。

 考えてみれば「スターゲイト」「インデペンデンス・デイ」と、それまでも大きな構えの大作づくりには定評があった。スケール感のある映画づくりは得意としていたんだよね。

 それとメル・ギブソンというボリュームと中身の伴ったスターを中心に置いたのも成功した。このおかげで、映画全体が地に足が着いたドッシリ感を持ったんじゃないか? メルギブを中心に据えた以上、役者で見せる映画にする以外ないではないか。さすがのエメリッヒも得意の大味見せ場に逃げ込む事は出来まい。

 そしてこの作品で独立戦争を背景にしたというあたり、エメリッヒの真意も何となく透けて見えた。それは日本と同じく敗戦国のドイツ出身…というところから来た、ちょっぴり悲しいアメリカ賛歌じゃないかと思ったんだよね。

 結局僕らはどんなに頑張っても、勝ち戦の喜びを表現できない。実際の戦争に勝ってないし、日本やドイツの勝利ってのはどこか軍国主義やファシズムの勝利と通じるイメージがあるからね。ハッキリ言って「悪玉」なわけ。公然とは喜べないし、うたい上げられない。そもそも戦い自体がタブーだ。

 だから自らの正義を主張し勝利を堂々と宣言して、それを勝ち誇れる国や国民には、あこがれに近い感情があるんじゃないか?

 ハリウッドをめざす海外の映画人ってのは、そこで必ず本国では実現出来なかった何かを求める。例えば「キリング・ミー・ソフトリー」をハリウッド資本で制作した中国のチェン・カイコーは、ロンドンでの撮影にエロティシズムを求めた。ならばドイツ人エメリッヒにとっては、それが戦いの高揚感、勝利の喜びであったとしても無理はないんじゃないか。そういや同じドイツのウォルフガング・ペーターゼンも、「エアフォース・ワン」で戦う大統領を描いているしね。これって偶然って事はあり得ないよ。

 「インデペンデンス・デイ」で戦う国家元首と国民を完全肯定できたこと、「パトリオット」で戦いの大儀名分を手に入れられたこと…は、エメリッヒにとって単純素朴なあこがれだったように思われる。それはおそらく、右傾化したアメリカ世論に迎合ってほど意識的な計算づくの事じゃなかったんだろうね。

 またそれくらい単純、無邪気だからこそ、エメリッヒはあんなに臆面もなく大味な超大作を発表できたんだろう

 そう、エメリッヒは無邪気だ。その後1950年代のいまや古典的SF映画たちを見るに及んで、僕はエメリッヒがいかにこれらのチャチだけど楽しい映画群を愛していたかが分かった。誰が何と言おうと、「インデペンデンス・デイ」が宇宙戦争の焼き直しなのは明らかだ。それもパロディとかオマージュとかいう生やさしいモノじゃない。おそらくエメリッヒとしてはリメイクに近い気分でやっていたはずだ。「ゴジラ」が原子怪獣現るである事も明らか。それらをあんな大味で無神経につくってしまうあたりが、エメリッヒのデリカシーのなさなんだけどね(笑)。でも、無邪気でガキみたいな奴なら仕方ないかもしれない。

 世間はエメリッヒ版「ゴジラ」を血祭りに上げたし、僕もこりゃ何だ?…とビックリしたけど、実は今ならちょっと考えが違う。だって僕は熱狂的ゴジラ・フリークな訳じゃない。だったらゴジラ信者と一緒になって、やれ背ビレがどうのとか卵を生むなとか文句を言う事もなかった。そんな事はどうでもいいじゃないか。

 実際に「原子怪獣現る」の感想文を書くために見直したエメリッヒ版「ゴジラ」は、結構ハッタリも利いて楽しめる作品だったよ。そしてもうこの作品あたりから映画は引き締まって、あのユルんだ大味感が影を潜めていた。それってエメリッヒ大味大作群とは一線を画して、最後に全軍で攻め込むとか総攻撃だとかって、派手な幕切れにしていないからかもしれない。あくまで個人レベルでの戦いに収めているから、あのユルい展開にならないのだ。そういや「パトリオット」もそうだったよね。

 僕がこの「デイ・アフター・トゥモロー」に期待したのもそこだった。

 その一方で、「パトリオット」でちゃんとした作品が出来ると分かったのに、またぞろSF大作かよって気になったのも確かだ。ここで再び、大味映画に陥る危険性があるSF大作をつくる事はないじゃないか…という気になる。また地球規模で各国政府や要人が勇ましい発言を連発、全軍出撃とかそんな大味映画のパターンを踏みかねないではないか。

 ではエメリッヒの最新作、今回は果たしてどっちに転がったか

 

見た後での感想

 まずはこの映画、ガタガタ屁理屈はどうでもいいから、実物を見た感想をここで率直に言おう。

 面白い。

 何しろど派手な大災厄を描かせたら無類の腕前を見せるエメリッヒだ。今回も次から次と天候不順のパンチを繰り出し、有無を言わさず人類を叩きのめす。さらに世界各地で起きている異変を畳み掛けるように見せる手並みは、「ゴジラ」でも披露したハッタリ感満点だ。

 そして異変の数々の描き方の巧みさ。自然の猛威のほども去ることながら、今回はそれが実際のリサーチに基づいているせいか、かなりリアリティを感じる。それがなぜ、どのように起きるのかを具体的かつ分かりやすく描いていて、説得力がある。これって結構ちゃんとやるのは難しいんだよ。

 ニューヨークでクルマが交通渋滞している市街に、圧倒的な大災厄が起きて大打撃を与える…アメリカ映画で、いや…エメリッヒ作品でも「インデペンデンス・デイ」「ゴジラ」と毎度お馴染みのように起きるパニック場面なのに、今回もやっぱりスゴかった。こういう描写をやらせると、エメリッヒは余人をまったく寄せ付けない。迫力が違うんだよね。

 だが、そこへ来て…今回は受け止めるこちら側の気分も違うと思う。

 僕らはいまや、ニューヨーク貿易センタービルが崩れ落ちるのを見ている。その後でバグダッドがメチャクチャになっているのも見ている。そういうのはアリ…だと言うことが分かっているのだ。それは荒唐無稽な話じゃない。あり得るんだと思い知っている。だから切実さやリアリティが違うし、それが持つ忌まわしさも違う。もう、宇宙人の侵略を無責任に楽しめない。ビルや市街の破壊を、対岸の火事としては面白がれない。しかもバカな話と笑い飛ばす事も、僕らにはもはや出来ないのだ。

 だから破壊場面の連打に、厳粛な気持ちにすらなってしまう

 それも人類が自ら墓穴を堀ったって事がシャレにならない。今まさに、僕らはいろいろな事で墓穴を堀りまくっている最中だ。そういう実感がある。くだらない連中に一票を投じたおかげで(僕はそんな票を投じた憶えはないが)、奈落の底へ一直線という真っ直中にいるからね。「インデペンデンス・デイ」はバカバカしい絵空事…だが「デイ・アフター・トゥモロー」はまるっきりの作り話には思えない。そう思わせてはもらえない。世の中ってなる時にはこうなるだろうな…としか思えない、厳然たるシュミレーションにしか見えない。

 しかも「インデペンデンス・デイ」なら敵に向かってイケイケ…って事もあるけど、今回は敵をやっつければ済むわけではない。だから一方的にやられるしかない、どこまでも絶望的な戦いだ。それは後半になるといつも大味になったエメリッヒ映画から、前半だけを抽出したようなものだ。見応えがあるに決まっているではないか。

 で、見ていて打ちのめされてしまう。

 そうそう。こういう映画に付き物の、「人間ドラマ」としては云々…って論議をしなくちゃならないね。人間ドラマがなってないんじゃ、映画としても片手オチだ。人はしばしばそう言う。僕も時にはそう言ってきた。エメリッヒ自身ですらこの「デイ・アフター・トゥモロー」について、大規模な見せ場だけでない人間ドラマが売りだと言っていた。

 バカを言ってはいけない(笑)。

 この程度で人間ドラマとは呆れる。親父が息子とうまくいってなくて、息子と約束したから何としても救出に行く…とか、患者に献身的に尽くす女医とか、惚れた女の子のために身体を張って守ろうとする男の子とか、こんなレベルで「人間ドラマ」はないだろう。こんなシロモノが「人間ドラマ」だと言うなら、それって「人間が出ているドラマ」くらいの意味でしかないよ。

 だけど…「人間ドラマ」ってなくちゃいけないものか?

 そういう映画があるのはいいだろう。だけど、そうじゃない映画があってもいいのではないか? かつて「ジュラシック・パーク」が公開された時、「人間ドラマ」は二の次だと批判した奴がいたっけ。

 こいつバカではないのか?

 誰が「ジュラシック・パーク」に「人間ドラマ」なんか求めるんだ。アレは恐竜を見に行く映画で、人間なんざ刺身のツマ…いやさ恐竜のエサだろう(笑)。ことほどさように「人間ドラマ」という概念はナンセンスなものだ。よく岩波ホールの主宰者などが、自分たちの上映しているようなお高くとまった映画こそホンモノで、金がかかったり派手な見せ場のある映画を邪道だとケナしたりしているが、それこそ愚の骨頂。こういう連中は大衆映画を見下した罪を悔い改めていただきたい。さもなければ汝の映画館にはいつか災いがもたらされるぞよ、アーメン。

 まして今回の「デイ・アフター・トゥモロー」は、そんな「お楽しみ映画」とも…実は一線を画しているのだ。

 次から次へと大災害のつるべ打ち。それだけならば「インデペンデンス・デイ」と何ら変わらない。だが今回のこの映画は、僕らに対岸の火事見物をさせてくれない。それには、前述したように「9・11」以降の受け手側の気分の変化もあるだろう。だけどそもそも、作り手側自身の気持ちからして違っている。

 例えば物語上で世界的な大風呂敷を広げたのは最初のうちだけで、中盤からは視野が極端に狭くなっていく。事態の推移とともに、通信連絡手段が閉ざされていくのと呼応するかのように。

 そもそもこの映画には、「インデペンデンス・デイ」に顕著だった政府、軍隊、組織側からの視点が極端に欠けている。デニス・クエイドの科学者とその息子ジェイク・ギレンホールの視点に限られて、ほとんどそこから移動しない。

 それは非常時に遭遇した時の、僕ら個人個人の視点に極めて酷似していく

 そこにベタベタとこれみよがしの「人間ドラマ」など配置しないのが、今回は正解だった。クエイドとギレンホールは、今回の場合「氷河期地獄」の目撃者に過ぎない。だから無用のドラマなど必要ない。クエイドがギレンホールとの不仲に悩んでいるのは、彼をニューヨークまで行かせて凍りついたアメリカの「地獄巡り」をさせるための口実に過ぎない。それはちょうどコールド・マウンテンでのジュード・ロウとニコール・キッドマンの愛情物語が、両者を目撃者として「戦争地獄巡り」をさせるための口実に過ぎなかったようなものだ。

 そう…「コールド・マウンテン」と「デイ・アフター・トゥモロー」は、構成上極めて酷似する映画だと言っていいのだ。

 その全体を貫く絶望的なトーン。主要登場人物の個人的なドラマにはあまり重きを置いていないこと。彼らの意志は、単に「地獄巡り」をするためのモチベーションにしかなっていないこと。主人公たちが揃いも揃って、惨状を観客に伝える「カメラ」の役割をしていること。さらには主人公たちが試練を超えていくたび帯びてくる「殉教者」性…。

 これって偶然なんだろうか?

 そういえば「コールド・マウンテン」ではジュード・ロウとニコール・キッドマンというピッカピカなスターが、単なるドラマの口実に過ぎない浮き世離れな恋を何とかリアルに成立させる裏付けとして起用されていた。

 そして今回は、デニス・クエイド…。

 ちょっとポワ〜ンとしたお人好しで、なおかつシリアスに思い詰めるところもあるジェイク・ギレンホールは、それまでの遠い空の向こうに」「ムーンライト・マイルの役柄を合体させたような役どころ。まぁ、強いて言うなれば「アメリカの良い子」だろう。

 そして何より、親父はデニス・クエイドだ。

 ここ最近の彼の出演作を見てみれば分かる。オーロラの彼方へ」「オールド・ルーキー…いかにもアメリカの体臭が染み着いたような、典型的アメリカの親父像。問答無用だ。彼が息子を助けに行かない訳はない。なぜなら、彼はアメリカの親父の象徴だから

 そしてアメリカの親父の最大公約数的クエイドだから、彼の目で見ていく「地獄」が絵空事にならない。少なくともアメリカ人には人ごとにならないはずだ。そのあたりのキャスティングによるアリバイづくりの妙まで、「デイ・アフター・トゥモロー」は何とも「コールド・マウンテン」に似ているんだよね。

 この、まったく出どころも違えば時代背景も題材も違う2つの映画が、かくも似通った匂いを発散させているのはいかなる理由からだろうか?

 それはねぇ、おそらく今の世の中に漂う末世感からだと思うよ。

 僕らは今、世の中がどんどん悪くなる予感を感じている。実際に悪くなっている。今までになかったようなイヤな事が起きつつある。それが当然のことになってきてる。だれもが心のどこかで、人類の終末を予感しているはずだ。本音の部分ではそのはずだ。

 この2つの映画は、そこのところにジャストミートしちゃったんじゃないか

 どちらもセッセと墓穴を掘ってやまない、愚かな人間たちの物語だ。そして、それは決してシャレになってない。どこか似てくるのも、そりゃ当然って言うモノじゃないだろうか。

 だったらジュード・ロウが実際に「殉教」しちゃう「コールド・マウンテン」に対して、クエイド=ギレンホール父子が再会を果たし、ニューヨークに他の生存者がゾロゾロ出てくるエンディングの「デイ・アフター・トゥモロー」は、やっぱり白々しくて甘いエンディングなのか。

 いやぁ、僕はそうは思えない

 「コールド・マウンテン」は何はどうあれ、すでに過ぎ去った遠い昔の話だ。それが現代に普遍性のある事だと訴えている映画だ。だが「デイ・アフター・トゥモロー」はこれからを予言する映画だ。シャレにならない。あのくらいの救いを置いてやらねば、正視に耐えない話ではないか

 もっとも予言だ何だと言っても、実はエメリッヒは地球の温暖化で氷河期が来るとか、そんな事が言いたくてこの映画をつくったのではあるまい。

 派手な見世物映画をつくりたいというモチベーションを除けば、彼の言いたかったのはただ一つだ。どんな事であれ人類が奢っていると、必ずひどい墓穴を掘るぞ。墓穴に落ちたらこうなるぞ…。

 みんなそれに薄々感づいているから、身に覚えがあるから…それだからこそ、この映画はシャレにならないのだ。

 

見た後の付け足し

 「インデペンデンス・デイ」では、無類の無邪気さで「ビバ!アメリカ」を主張したエメリッヒ。それはきっとまったく邪念のない、溢れんばかりのあこがれの吐露だったはず。決してネオコンとかラムズフェルドとかとは違う、もっと単純な発想だったはずだ。それが右翼的だなんて事に思い至らないあたりが、あんな「ゴジラ」を出したら日本人が怒るなんて発想がハナっからない、いかにもエメリッヒらしいおめでたさなんだよね(笑)。

 そんな親米エメリッヒが、今回は一体どうしたことだろう?

 冒頭の世界温暖化会議からして、いきなり京都議定書すっぽかしのアメリカ批判をブチかます。映画はその後もアメリカの自業自得としてドラマを進めていくから驚いた。最後は大統領その人まで死なせてしまう徹底ぶり。

 映画の印象も、これが全地球に及ぶ災厄とは見えない。中盤以降はまるでアメリカだけが凍ったみたいな印象だ。アメリカが自分で災いを招いたあげく、これでもかこれでもかと痛めつけられる。

 これが単に思いつきで設定されたものじゃないことは、劇中二ヶ所の部分を見れば分かる。

 まずは先に挙げた世界温暖化会議。デニス・クエイドの深刻な問題提起を真剣に聞いているのは、なぜかいずれも中東の人々。それに対していきなりアメリカ副大統領は、ナメた文句をつけてくる。ここでハッキリと真摯な「中東」に対する傲慢な「アメリカ」という構図を見せているのは、明らかに意識的だよね。

 さらに寒さから逃れて来たアメリカ人が、メキシコ国境に殺到する場面。命からがら逃げてきたアメリカ人に対して無慈悲に国境を閉ざすメキシコ人…と、劇中のニュース・アナは伝えている。

 ならば、それまでメキシコ人を問答無用に追い返してきたアメリカ人も、同様に無慈悲ではないのか?

 この構図はさらに皮肉さを増して、最終的にアメリカ政府は中南米の債務を帳消しにする事で、これらの国々にアメリカ難民を受け入れてもらう事になる。昨日と今日で180度変わってしまった力関係が、これまでのアメリカの驕りを端的に現している

 いやいや、そもそもアメリカが発展途上国や第三世界の問題だとタカをくくっていた地球温暖化が、自国を直撃する氷河期の引き金を引いたというのが何よりの皮肉ではないか。

 このあたり、エメリッヒの心境には何か劇的な変化が起こったに違いない。

 そういや、僕が見始めてからのエメリッヒ作品にずっと相棒としてついてきた、脚本家兼プロデューサーであるディーン・デブリンの姿は今回がない。ひょっとしたらあいつが元凶だったのか。あんな男と切れたのは、エメリッヒ正解だったかもしれないよ。そして確実にエメリッヒのアメリカ観も変わったに違いない。

 あこがれもあったろう、素晴らしいところばかり目についたかもしれない。エメリッヒは確かに渡米できた喜びを噛みしめていたはずだ。しかもそこでチャンスを得て成功が出来たなら、ますますアメリカをモテはやしたい気にもなっただろう。

 そんなエメリッヒでさえ皮肉なまなざしを送るようになるほど、昨今のアメリカってのはホントにひどいように思う。やりたい放題だからね。エメリッヒにとって失望は大きかったんじゃないか?

 そんなこの映画の最後は、宇宙ステーションから見たアメリカの姿で締めくくられている。自然の猛威は収まり雲は晴れた。するとそこには真っ白に覆われた大地と澄み切った空気が現れる。

 宇宙飛行士もそれを見て、「美しい」と思わずつぶやいてしまうんだよね。

 それはまるで、自然の大掃除みたいにも見える。エメリッヒもそう言いたいんじゃないか。大好きだったアメリカだからこそ言いたいんじゃないか。こんな汚れちまった国、このくらい荒療治やらなきゃキレイにならないぜってね。

 ま、人の国のことは言えないんだけども(笑)

 

付け足しの付け足し

 他にもいろいろ見どころ満載のこの映画だが、実は僕には秘かにもう一つの見どころがあった。それは久々にカナダ女優シーラ・マッカーシーを発見したこと。…と言ったって美人でも何でもない。どっちかと言えば不細工と言っていいような、平凡な顔したオバサンでしかない。この映画ではニューヨークの図書館で最後までジャイク・ギレンホールたちと行動を共にする、図書館員二人の女性の方を演じていた…と言えばお分かりだろう。

 僕は別に彼女の大ファンでもない、すごく気に入った映画があるわけでもないが、妙に記憶に残っているんだよね。

 最初の彼女との出会いは…というか、彼女が大役を演じたのを見たのはそれが最初で最後だが…女性監督パトリシア・ロゼマの作品、カナダ映画「私は人魚の歌を聞いた」(1987)が彼女を目にした最初の映画だ。そこで彼女が演じたのはカッコいい上司の女性にあこがれる内気な女。その時から容色もパッとしないし平凡で若くもなく…というキャラ。この映画にはまさにピッタリの彼女だから主役を演じていたけど、これって役者としては致命的ではあるよね。

 僕にとって「私は人魚の歌を聞いた」は傑作でも大好きな映画でもないし、事実この作品自体が半ば忘れられた映画でもある。だが何となくこぢんまりとした小品として、印象に残る映画だった気がするんだね。それでこの映画もヒロインのマッカーシーも記憶に残っていた。

 で、懸念されていた通りパッとしない個性が災いしてか、その後彼女の活躍を聞く事はなかった。いろいろ出ていたんだろうし、そのうちの何本かは僕も目にしていたんだろうが、おそらくは小さな役か出ていても気付かないようなものだろう。僕はしばらく彼女の事を忘れていた。

 ところがある時、突然とんでもない作品で再会したんだよね。超弩級のど派手大作「ダイ・ハード2」(1990)で。テレビ・レポーターとしてブルース・ウィリスを追い回したあげく、後半は彼に協力して局のヘリコプターに同乗させたりもする。あの彼女が、意外にも結構目立つ役だったんで驚いた。

 その後はどうなったか…と言えば、やっぱりこういう人だからメジャーの大作に出ても線香花火。またその姿をスクリーンで目にする事はなかった。いや、おそらく目にしても気付く事はなかったのだ。「ダイ・ハード2」はたまたま…だったんだろうね。

 でも、そこがまた何となく好ましく見えるから不思議だ。控えめでパッとしなくて…でも人は良さそうな彼女。先に「大ファンでもない」とは言ったものの、おそらく僕は日本でたった一人のシーラ・マッカーシー・ファンなのかもしれない。いや、カナダでは多少知られているかもしれないが、それも細々って気がするから、世界でも数少ないファンかもしれない。そういう人知れず映画に出ている「自分だけのスター」を探すのも、映画好きの大きな楽しみの一つかもしれないよね。

 そして…またまた超大作「デイ・アフター・トゥモロー」で再会とは…。

 ここでの彼女の起用は、おそらく制作主体がカナダである事を意味しているのだろう。「ダイ・ハード2」も雪の空港が舞台だっただけに、カナダ撮影だったかもしれない。結局、マッカーシーはあの時もその後も、あくまでカナダで活動し続けてきたんだろうね。

 ともかく「デイ・アフター・トゥモロー」は、僕にとっては作品的価値とは関係なく見て嬉しい映画だった。他の人はどうか知らないが、僕には嬉しかった。

 このシーラ・マッカーシーとの久々の再会だけでも、おつりが来た感じだからね。

 

 

 

 

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