「思い出の夏」

  王首先的夏天 (High Sky Summer)

 (2004/06/14)


  

見る前の予想

 この映画、先日やっていた「中国映画祭」連続上映の一環で紹介された時から気になっていた。

 その名も「思い出の夏」。…と言ったって、アメリカ製の少年筆下ろし映画の名作ではない(笑)。あっちは「おもいでの夏」だ。こちらは中国製。映画製作の現場に関わることになる一人の少年のお話だ。

 何たって、フランソワ・トリュフォーの「アメリカの夜以来、映画中映画…映画製作や映画人を題材にした映画は僕のツボだ。…洋の東西を問わず、このジャンルの映画は見なくてはいけない。そもそも、このジャンルは傑作が多いのだ。それっていうのも、きっといい映画とは「良き映画論」でなければならないからだろう。

 これは少々説明を要する。つまり映画というものは、小説が小説であったり演劇が演劇であったりするのとは、いささか趣を異とするメディアだと思うのだ。20世紀が生んだ「総合芸術」=映画は、美術、写真、演劇、文学、建築、音楽などなど…さまざまな芸術・文化のジャンルを越境してつくられるものだ。クロスオーバーは他のメディアでも大なり小なりあるが、ここまでそれを押し進めたものはない。しかもパフォーマンスでありながら、現実の記録でもある。一個の作品でありながら、さまざまな現実のアクシデンタルな要素に左右される。それは例えザ・ロック主演の「ランダウン」であっても同じ事だ。決して岩波ホールのオバチャンが言ってるように映画に貴賎がある訳ではないのである。

 こうしたさまざまな表現メディアの集合体である映画の「作品」は、だから得てして別に映画で表現しなくてもいいという事にもなりかねない。「すべてを含む」という事は「それでなくてもいい」という事に繋がりかねないのだ。これは小説でもいいだろう、これは演劇で事足りる…という事があり得るし、実際に小説や演劇からの「映画化」というカタチをとる場合が多い映画は、常にその危険をはらんでいる。

 だから映画というものは、出来上がった時に「映画でなければならない」必然性がなければ「いい映画」とはなり得ない。他の表現ジャンルと違って「映画」をつくるということは、自ずから「映画とは何か?」を問い直す作業を作品の中に内包するものとなる。すなわち、いい映画とはそれ自体が「良き映画論」でなければならない…という事になってくるのだ。このあたりの事については、僕が書いたグッバイ、レーニン!の感想文を読んでいただければ分かりやすいかもしれない。

 映画の製作を題材にする映画、映画人についての映画…は、当然この「映画とは何か?」を描く事に他ならない。だから映画の本質によりダイレクトに迫る。他の題材を描くよりも、「映画であること」に意識的だ。したがって傑作になり得る可能性が高いのだと思う。

 しかも今回の映画は、中国の辺鄙な田舎の少年を主人公にすると言う。そこで僕が連想したのが、辺境の少年を主人公にして描いたキルギスタン映画あの娘と自転車に乗って。あれとは全く違うだろうけれど、それでもそんな瑞々しく素晴らしい映画になってれば、これは拾いモノかもしれない。

 この映画は都内でもたった一館だけで上映。しかも「愛にかける橋」なる別の中国映画と二本立てという冷遇ぶり。だが、どう考えてもこの題材は僕のツボだ。

 だからこの映画を見逃したら、ずっと悔いが残りそうだよね。

 

あらすじ

 ここは中国のど田舎の村。小学生のショーシェン(ウェイ・チーリン)は屋根に登ってテレビ・アンテナをゴソゴソいじる。そのたびテレビ画像が荒れるので親父は怒り心頭。それでもショーシェンは降りて来ない。彼は何とかして別のチャンネルで放映される、チョウ・ユンファ主演の映画を見たいのだ

 そんな彼は、村に映画がやって来ると聞いて大ハシャギ。何と2年ぶりに、劇映画の野外上映会が開かれるというのだ。

 だが、親父は勉強をやれとショーシェンの外出を禁じる。どうしてもどうしても映画が見たいショーシェンの気持ちなどお構いなし。それでいて、両親はイソイソと上映会に出かけるからショーシェンはフテる。

 村の広場では、映画の上映が始まった。映画は大都会・北京を舞台にした現代劇キープ・クール。集まった村人は、久々の娯楽に大騒ぎ。

 ショーシェンはと言うと、泣きべそかいてるところにマブダチのリウツ(リウ・シーカイ)がやって来る。彼もまた親から映画を禁じられたと言う。ここでこうしてるのも、映画を見に行くのも大差ないとは思うのだが(笑)、ともかく二人は置いてけぼりをくらったのだ。二人は村の小高い丘に登って広場の様子を見てみるが、スクリーンに何が映っているのかまでは分からない。セリフも聞き取れない。ただ、彼が憧れてやまない、映画の世界がそこにある事だけは分かった。

 そんなショーシェンが親に映画を止められたのも、実は無理のないところがあったのだ。彼は小学校ですでに1年落第している。今年だって成績は芳しくない。殊に暗記と来たらまるでダメ。一年下の同級生たちにバカにされても、ただ歯を食いしばって耐えるだけだ。校長先生(リー・ワンチュアン)にも怒られてばかり。今日も今日とて、クサって学校から逃げるように去るショーシェンだった。

 ところがそういう時に限って、自転車のチェーンが外れると来てるから人生はツラい。ところがそこで立ち止まったのが、ショーシェンにとっては良かったのか悪かったのか。

 ちょうどそんなところに、一台のバスが通りかかった。そしてショーシェンに、村長の家を訪ねて来たのだ。

 実はこのバス、映画の撮影隊のバスだった。助監督リウ(チョン・タイション)はじめスタッフたちは、この村での撮影許可を得ようとやって来たのだ。さらにロケハン、重要な出演者となる子役選びもしたいと言う。映画スタッフを村長の家まで連れていったショーシェンは、それだけでも誇らしい。それなのに、スタッフの一人は、ショーシェンを出演者にどうかと言い出す。これにはショーシェンも有頂天だ。たちまち自転車で村中回って、「オレは映画に出るゾ〜!」と触れ回る。

 だが翌日になると、映画スタッフはショーシェンなどお構いなしに別の子どもたちでオーディションをやっているではないか。いても立ってもいられないショーシェンは、オーディションが行われている教室へと押しかける。

 どの子も芝居などやった事のない子ばかり。それどころか声も上げられない。そんな中で、学校一の優等生の芝居だけは真に迫っていた。監督もスタッフも、この優等生にしようか…などと言い出した。すわ一大事。これではオレの役が奪われる。ショーシェンは火事場のクソ力、その場にあったトウガラシを目に擦り込むと、いきなりオーディション現場に乱入して涙ボロボロの大芝居を見せる。これには監督はじめスタッフも感心した。

 だが校長は首をタテに振らない。あれは学校一の劣等生、撮影で授業が遅れたらどう取り返すのだ…こう言われてはグウの音も出ない。かくして残念ながら、役は優等生のものとなった。自分が出演する…と豪語したショーシェンは、同級生からウソつき呼ばわり。

 そんなショーシェンを見るに見かねてか、マブダチのリウツが一計を案じた。映画の台本を読みながら牛番をしていた優等生の目を盗んで牛を逃がし、優等生が牛を追いかけて行った隙に台本を奪った。

 これもみんなダチのショーシェンのため…とリウツに言われても、ショーシェンの気分は一向にすぐれない。それでもショーシェンは、さすがに台本を手にとって読む誘惑には勝てなかった。

 ところが例の優等生は、牛を追ったまま帰って来なかった。大変な事になったと彼を捜すショーシェンとリウツ。それでも優等生は見つからない。そんな事をしているうちに、役者不在のまま撮影の日がやって来てしまう

 いざという時に肝心の子役がいないため、助監督リウは監督から大目玉をくらう。こうなったら仕方がない。次点となっていたショーシェンの出番だ。こうなるとやっぱり嬉しい。優等生の事が気になりつつ、まんざらでもないショーシェンなのだった。何と学校の教科書はまったく暗記出来ないくせに、台本は隅々まで暗記してしまう。

 こうして撮影が始まったとたん、行方不明だった優等生が泥だらけになって戻ってきた。それと同時に、リウツとショーシェンの企みもバレてしまう。当然映画出演もパーだ。監督も別の村で子役探しをすると言い出す始末。

 ショーシェンとリウツは学校で立たされ、どっちが牛を逃がしたかと校長先生から詰問される。だがショーシェンはリウツを庇って罪を認めた。そもそも彼の中にそれを望んでいた気持ちがなかったかと言えばウソになる。だからショーシェンはすべての罪をかぶった。

 去っていくリウ助監督に、何も言えないショーシェン。自分のせいとは言え、映画を諦めねばならない自分がツラい。そんなショーシェンを見て、リウ助監督は心を動かした。そして校長先生に改めてショーシェンの出演を頼み込んだ。

 「ならば、彼が教科書の暗記を出来たら認めましょう

 こうして再び校長先生の前に連れ出されたショーシェン。すると、彼はあんなに苦手だった暗唱を、何とかスラスラとこなすではないか。そんなに彼は映画に出たかったのか。

 こうして映画の現場に復帰したショーシェン。そしていよいよ彼のキメ台詞の出番が迫ってきた。それは都会に行った少年役の彼が、姉役の女優に言う言葉だ。「オレは村に戻る。姉ちゃんと一緒にいたいんだ!」

 ところがこの出番が迫って来るに従って、ショーシェンは自分の中に疑念が沸き上がってくるのを抑えられなくなった。村から町に出ていった者が、村にわざわざ帰ろうなんて思わない。誰だって貧乏な村から出たいと思っているはずだ。これは違う。…ショーシェンはそんな疑念を親しくなった助監督リウにぶつけるが、今まで親切だったリウもこの件だけは頑なだ。「これは映画なんだ、現実がどうかは関係ない」

 だが、ショーシェンはどうしても納得できない。ダチのリウツをはじめみんなに聞いても答えは同じ。「街に出たら村に戻ろうなんて思わない」

 ショーシェンはそんなみんなの思いを、署名として集めようと思い立つ。友だちや村の大人の人たちも含め何人もの署名を集めたショーシェンは、それを持って映画スタッフの宿舎へとやって来る。

 だがリウ助監督はこれを見ても動かない。それどころか集めた署名を握りつぶしてしまう。こんなものが監督の目に入ったら、ショーシェンは即刻クビになってしまうからだ。だが、ショーシェンのやり切れない気持ちは残る。

 結局撮影日を迎えて本番を撮影するが、何度やってもショーシェンはこの台詞が言えない。これにはずっと彼を励まし続けたリウ助監督もキレた。監督も「最低の子役だな!」と捨て台詞。結局、村での撮影はすべて撤収と相成った。

 翌日、ロケバスは村を出ていく。それを見送るショーシェンの気持ちは虚ろだった。

 だがそんなショーシェンの目に、とんでもないモノが飛び込んで来た。自宅の庭先に、撮影隊が忘れていった露出計が置いてあるではないか。

 きっとスタッフはこれがなくて困っているに違いない。そう思ったショーシェンは、自転車に飛び乗り撮影隊を追いかけて行ったのだが…。

 

見た後での感想

 中国の僻地の寒村で、地元の素人の子どもを使っての撮影…というと、誰でもあのチャン・イーモウのあの子を探してが頭に浮かぶはず。僕もこの映画は、「あの子を探して」の撮影時を想像してつくられたんじゃないかと思うんだよね。

 というのは、野外上映会でかかる映画が同じチャン・イーモウの「キープ・クール」であったり、映画の後半で主人公の男の子が街を疲れ切って徘徊する場面があったり…チャン・イーモウと「あの子を探して」をかなり意識しているフシがあちこちに散見されるからだ。これが監督第一作のリー・チーシアンは、絶対にチャン・イーモウを意識している。たぶんこの予想は間違ってないと思うよ。

 で、この映画は、とにかく主人公を演じるウェイ・チーリン少年が抜群だ。

 寡黙なんだけど気持ちが伝わってくる。素朴なんだけど内面の繊細さも分かる。映画に出たくて抑えきれない思いも、だけど納得出来ない台詞を言えない気持ちも、見ている観客にはちゃんと理解できる。この子を見つけたのはお手柄だった。

 そんな抑えた表現は元々の演出プランから決められていたようで、この映画では「ここぞ」という場面では必ずカメラが思いっきり引いている。そんな引きの画面の中、台詞も聞こえない状態で、豆粒大の人物のアクションで感情を伝えようとする。そんな演出が何とも好ましい。見ていて好感が持てるんだよね。

 この主人公像も何とも生き生きして、全然「いい子」じゃない。勉強は嫌いで学校もフケる。好きな映画の事になると見境つかなくなる。ハッキリ言ってボンクラ(笑)。そして、「ついうっかり」で墓穴を掘る。それが何ともリアルなんだよね。

 惜しむらくは、少年が露出計をスタッフに届けようとしてどんどん苦難に陥っていくまでは身につまされるリアルさなのに、映画の最後の最後まで来たところで何とも詰めが甘いこと。最後、助監督が録画していたビデオテープが少年の元に送られてくる。それを学校の教室で再生して、そこに映る主人公や村の人々のスケッチ映像を見せていくくだりは…これってまたしても「ニュー・シネマ・パラダイス」あたりを意識していたのかねぇ? まさかねぇ? でも…じゃあアレって一体何のつもりなのだ? ハッキリ言って、映画の狙いがここでよく分からなくなる。流れている音楽もここだけベタ〜っと甘ったるくて違和感があるしね。

 そもそも、あのビデオのくだりで作者は何を見せたいと思っているのか? 僕はちっとも分からなかったよ。あれはたぶん、作者が終わらせ方に困っちゃったが故の苦肉の策じゃなかったか。あれさえなければいい映画なんだけどね。

 それでも大好きな映画のオモテとウラを見ることになる主人公、そして彼が露出計を届けに行く事で味わう「現実」の一端…にはリアルさがある。何とも言えないホロ苦さと、にも関わらずポジティブな希望も覗く結論が、実際に「夢いっぱいでもないが絶望ばかりでもない人生というもの」を、僕に改めて感じさせてくれたのだ。だから、それだけでも僕には見る価値のある映画だったよね。

 

見た後の付け足し

 そんな訳でエンディングには少なからず不満が残るものの、この映画の味わいは捨てがたい。映画ファンとしては映画中映画も堪能させてもらった。だが、やっぱり一番の収穫は主人公の少年。それも、そのあまりの「実感」ぶりだ。いやぁ、「実感」なんて生やさしいもんじゃない。

 こいつ、オレみたいだ。

 勉強やれと言われても映画が気になって手に着かない。というより、目先の夢中な事に気を取られ過ぎていて、やらなきゃいけないとされている事をやる気になれない。まずは夢中な事に手が伸びる。怒られるかもしれないとか、学校でマズイ事になるとか、そんな小賢しいところに考えがいかない。ともかく好きな事、夢中な事をやりたくて、他の事なんか眼中にない。映画に出たいとなったらなりふり構わないし、他の子どもを押しのける結果になって心を痛めても、それを諦めるかと言えばそうは出来ない。ガキと言えばガキ。でも止まらない。

 ところがあれほど熱望していた映画出演なのに、一つ納得出来ない事が生まれたら無視できない。このために助監督の人に尽力してもらったのに、自分もあれほど犠牲を払ったのに、ここぞというと一歩も退けない。もっと分別を持って目をつぶれ…と言われても、それが出来ない。自分の損になると分かっても、どうしようもないのだ。

 ホントにどうしようもないボンクラだよねぇ(笑)。

 だが実はこの僕も、思い返してみればこの少年と大差ないようなものだった。夢中になると手がつけられない。何かを望んだら手に入れるまで納得できない。学校でも職場でも、それで多大な迷惑をかけてきたと思う(笑)。それでも、僕はそういう性格だから…と諦めて来た。僕の事は誰にも止めようがないと自分でも思っていた。

 僕は本当に、夢中になると抑えられないタチなのだ。何よりそれを最優先にする。そうでない時はただ一つ。自分の流儀に合わない時だ。これは自分のやり方ではない、自分のやるべき事ではない…と一度思ったら、誰が何と言おうと従わなかった。それでどれだけ自分を危ういところに追い込んだか分からない。

 だから僕は、昔からいわゆる理性的な行動というものが出来ない。損得ヌキだ。そういう事では動かない事を美徳と思い込んでいる。現実的な考え方がハナっからない。だから今まで随分損もしてきたよ。バカにされても来た。

 女に夢中になった時には、危うく人生すべてを捨てそうになったからね。他のことはどうでもよかった。彼女さえあれば良かった。それで崖っぷちまで行った。僕はそういう人間だったんだよ。

 そして「ついうっかり」で墓穴を掘った。

 主人公の少年は良かれと思ってめざす村の石炭トラックに乗ったが、そこで気を緩めて居眠りこいたために、とんでもない遠くまで運ばれてしまう。あげく石炭の山に大事な露出計を埋められてしまう。それをスミだらけになって泣きべそかきながら、夜中に一人で必死に探しに探す。…あれはねぇ、何とも身につまされたよ。

 あれはオレだよ。

 ああいう絶体絶命な事が何度もあった。それも全部僕の不注意、僕の迂闊さから起きた事だ。甘かったんだよね。

 だから見ている間、ずっと僕は痛くてたまらなかった。

 苦難の旅の果て、ちょっとは「現実」をかい間見ることが出来た主人公。彼はその後、おそらくちょっと変わったはずだ。どう変わったかは、しかとは分からないが。

 僕も今まさに何度目かの人生の転機に差し掛かって、ここらでちょっとは自分の人生考え直さねばと思っているのだ。だからこの映画の主人公の変化を、僕もぜひ知りたいと思う。

 それは映画を見ていた僕にとっても、決して他人事とは思えないからね。

 

 

 

 

 

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