「あなたにも書ける恋愛小説」

  Alex & Emma

 (2004/06/07)


  

見る前の予想

 今、都内では一体何本くらいの映画が一年に公開されているのだろうか? ミニシアターが出来てから、映画の公開本数は劇的に増えたけれど、実のところ今でもますます増え続けているような気がする。まるで見切れない。どんな映画でも見なきゃいけない訳ではないし、そんなバカな事をしようとも思っていない。自分が見たい物だけに絞ろうとさえ決めたのに、それでも全然見切れないのだ。

 しかも、とんでもない映画が実に粗末な公開のされ方をする

 東京では去る5月の8日から、「ミッシング」というアメリカ映画が公開された。これ、コスタ=ガブラス監督の同名映画ではもちろんない。ケイト・ブランシェット、トミー・リー・ジョーンズという一流スターによる異色西部劇で、監督はロン・ハワードという豪華な布陣の作品だ。こんな映画が、都内ではたった一館の公開。ロン・ハワードの前作がオスカー受賞作「ビューティフル・マインド」である事を思い起こせば、この冷遇ぶりに驚かされるばかりだ。

 結局この映画はわずか2週間で公開を終えた。僕も見ることが出来なかったわけ。これには地団駄踏んだよね。面白そうじゃないか。僕はこの同じ映画館でまたまた都内一館だけの公開をする、次の上映作品を絶対見ようと決めた。

 だって、今度はロブ・ライナーの映画だよ。

 ロブ・ライナーと言えばいろいろな作品が思い浮かぶけど、一番一般に有名な映画なら「スタンド・バイ・ミー」とか「恋人たちの予感」ってところだろうか。実はこうした有名作品以外に、この人の良い映画がいっぱいあるんだけどね。

 そういやここ数年は確かにパッとしなかった気もするが、それでも新作がこんな冷たい扱いを受けなきゃならない人じゃない。

 しかも今回はヒロインがあのケイト・ハドソンだよ。どうしてそれが都内一館なのかねぇ?

 これは絶対見なければ。少なくとも僕だけは見なくちゃいけない映画だよ。

 

あらすじ

 書けない。とにかく、書けない

 作家ルーク・ウィルソンは汚い自分のアパートの一室で、ノートパソコンの画面を睨みながらうなっていた。しかし妙案は浮かばない。新作小説が一行も先に進まないのだ。

 しかもそんなウィルソンの弱り目に祟り目というか、キューバ・マフィアのチンピラ二人組がやって来て、ウィルソンを脅しまくるからたまらない。何と彼はこの怪しげな連中に多額の借金を抱えていた。その取り立ての日はとっくに過ぎていて、怒り狂ったチンピラ二人組が押しかけて来たというわけ。だが、売れるモノは何もない。しかも頼みの小説はまったく書けてない。これにキレたチンピラは、ウィルソン愛用のノートパソコンに火を付ける始末だ。何とか倍額返すから30日待ってくれ…と頼み込んだものの、何のアテもない。出版社の編集者ロブ・ライナーはそんな彼の境遇に同情しながらも、すでに相当額の前渡し金を支払った後。これ以上は原稿を受け取ってからでないと払えない。それにしても、愛用のパソコンなしでどうやって小説を書かねばならないのか。しかも30日で。

 かくしてウィルソンは奥の手を使った

 いかにも堅物っぽいスーツを着た一人の若い女ケイト・ハドソンが、ウィルソンの住むアパートへやって来たのは次の日のことだった。彼女は職業斡旋所から、法律事務所の仕事と聞いてやって来た速記者だった。だがウィルソンの汚いアパートを見れば、それがまるっきりのウソというのはミエミエ。しかも会うや否や、ウィルソンは空腹で気絶。さすがに倒れたウィルソンをそのまま捨て置かずに、部屋まで引きずっていくだけハドソンは優しいところがあったが、それでもこれ以上つき合うのはゴメンだ。そこを何とか…としがみつくウィルソンを「カラダ目当て」とさらに誤解。さすがにこれはマズイと、ウィルソンはすべてをブチまけた。「借金のために、たった30日間で小説を書かねばならない。それには速記者の手が必要なんだ

 だが借金の話でさらに怪しさが増すウィルソンを、ハドソンは振り払うように去っていってしまった。

 後にはガッカリしたウィルソンが一人残った。

 ところがハドソンはスカーフを彼の部屋に忘れて行った。それに、振り払うように去ったものの、その後ウィルソンがどうなるのか気になったのも確かだ。それに「作家」という彼の仕事も気になった。前の本をチラリと覗いてみると、その結末はなかなか気に入った。前の本は「結婚恐怖症の男」の話、今度の本は「恋に魂を吸い取られてしまう男」の話…だというのも面白そうだ。ウィルソンは結末から見るハドソンがちょっと気に障ったが、とにかくここは仕事を引き受けてもらいたい。こうして二人の商談は何とかまとまった。さぁ、仕事だ!

 書けない…。

 ハドソンは裁判所などで使う速記用タイプを置いて一日この部屋にいたけれど、題名ひとつ満足に出来ない。こりゃやっぱりムダなのか。この仕事は降りた方がよさそうだ…と彼女が帰ろうとすると、慌てたウィルソンは苦し紛れにアレコレと言葉をつぶやきだした。

 

 時は1924年。小説を書きたいと思っている大学教授ルーク・ウィルソンは、その資金稼ぎに保養地のセント・ジェームズ島へとやって来る。ここでフランス人の上流夫人ソフィー・マルソーの二人の子どもに、英語を教える家庭教師として雇われる事になったのだ。ところが途中の列車の中で知り合った男デビッド・ペイマーは、偶然にもこのマルソーを知っていた。だが彼女は実は金に困っていると言う。その彼女に金を貸しているのが、このペイマーという男。彼はマルソーに惚れ込んでいて、何とか結婚したいと願っているのだ。

 ところが当のウィルソン自身が、そのマルソーに一目会って惚れ込んでしまう…。

 

 「なに、これ?」と、タイプ中のハドソンは思わず叫ぶ。彼女はウィルソンが口述中も、何かと口を挟んでは意見するのだ。「何で彼女に惚れたの? キレイでセクシーでって、男ってそれだけ?

 彼女に言わせれば、ヒロインの設定にリアリティがないと言う。あるいは男がヒロインに惚れる理由が分からないとも。どうもそれってハドソンの公私混同の意見のように思えなくもないが、彼女に言わせれば「何で物語のヒロインって洗濯したりしないのか分からない」とのこと。だが、何かとハドソンが口を挟んでは物語が先に進まない。「僕は作家、キミは速記。それで頼むよ!」

 

 この家に雇われているスウェーデン人のメイド=ケイト・ハドソンが、何かと言うと妙な発音で彼に絡んでくる。このメイド…やっぱりドイツ人にしよう。うるさい変な女だ。ともかくウィルソンは、もうマルソーに夢中。彼女も彼に気がありそうだ。だけどカネがないからペイマーの求婚に落とされてしまうかもしれぬ。カネさえあれば。そこでなけなしの給金を握ってカジノへ行く。だがそれはせいぜいチップ二枚分にしかならない。しかも一瞬でスッてしまった。夢も希望もない。

 

 ともかく原稿は順調に進んでいった。ところがある朝ハドソンがやって来ると、気まずそうにしているではないか。何と彼女は昨夜の帰り、バスに乗ろうとして原稿をすべて水たまりに落としてしまった。それで原稿が読めなくなったと言うのだ。最初はまいったウィルソンだが、あまりにショゲるハドソンを見ると責める気がしない。自分も原稿をなくした事があるなどと言って、何とか彼女を慰めるのだった。そんな優しいウィルソンを、ハドソンも憎からず思い始める。仕事もさらに進んだ。

 

 突然、マルソーの祖母が亡くなった。彼女に莫大な遺産が転がり込む事になり、経済的な事で思い悩む事はなくなった。何も障害がなくなったマルソーとウィルソンは、ベッドで思う存分抱き合うのだった…。

 

 何とも安易な結末に、ハドソンはまたもブーイング。そもそも祖母の遺産頼みというのが不謹慎ではないか。こんな事では主人公に共感できない…とハドソンは嘆く。

 そして、ハドソンの指摘は的はずれなものではなかった。すべての障害がクリアになってみると、もはや物語を進める原動力がない。完全に煮詰まってしまったウィルソンは、これ以上部屋に座ってもムダ…と、ハドソンと共に外へ飛び出した。

 「仕事はどうするの?」「これも仕事!」

 街を散歩し、食事し、買い物をし…まるでデートのような一日を過ごすウィルソンとハドソン。夜になってハドソンの家の前まで送っていったウィルソンは、彼女に思わずキスをしようとする。今まさに二人の唇が触れようとした時…。

 「そうだ、ひらめいた!」

 ウィルソンは突然物語の解決策を思い付いたのだ。キスがオアズケになったハドソンも、ウィルソンが立ち直った事を喜ぶ。翌日より、二人は原稿のやり直しに取り組んだ。

 

 やっぱり祖母を殺したのは間違いだ。祖母を生き返らせ…もう一度死なせたが遺産がなかった事にして…いやぁ、もっと何か障害がないと…。

 そうだ、メイドのハドソンをアメリカ人にしよう。そしてマルソー、ウィルソン、ハドソンの三角関係にしよう。マルソーとの仲がうまくいかなくなった反動だって? そんなわけじゃない。とにかくウィルソンはハドソンにも惹かれるんだ。ハドソンもそんなウィルソンを愛する。

 

 そんな物語の改変を、ハドソンも喜んだ。これなら納得できる。こういう女に惹かれる男の話なら分かる。そんなこんなで物語はさらに進んだ。

 

 だがウィルソンはまだマルソーにも未練があった。どっちも捨てがたい思い。そこへ、ペイマーが明日にでもマルソーに求婚すると言うではないか。ここでウィルソンは最後の賭けに出た。胡散臭いスペイン人の高利貸し兄弟からカネを借り、カジノでのギャンブルに思い切って注ぎ込んだのだ。これが当たりに当たった。ガンガン勝ち進む。だがウィルソンがこれで最後の賭け…と勝ち金を全部差し出したとたん、勝利の運は消え去った。結局は全額スッて一文無しに逆戻り。彼には巨額の借金が残っただけだ。

 

 話はいよいよ佳境に入ったが、ウィルソンの借金の期限も後がなかった。そこを見計らったかのようにウィルソンの部屋に脅しに来る、例のキューバ・マフィアのチンピラ二人組。それも何とか追い返したが、ハドソンはこのチンピラを見て、小説のスペイン人の高利貸し兄弟のモデルだと即座に見破った。ならばマルソーにもモデルがいるはず…と察するハドソンだが、ウィルソンはあくまで空想の人物と片づける。ともかく時間がない。ウィルソンとハドソンは、本を一気に結末まで持っていこうとする。

 

 ウィルソンはカジノでの顛末をマルソーに報告するが、彼女は悲しみも同情もせずウィルソンを見放した。その時になって、ようやくウィルソンは理解した。マルソーはそんな女だったのだ…と。だが、今さら遅い。もう一度ハドソンにヨリを戻そうと頼んでも、もはや彼女も剣もホロロ。最後の最後になって、ようやく自らの愚かさを悟るウィルソンだった…。

 

 小説は完成。ホロ苦い結末だけど、悪くない物語だ。そしてウィルソンとハドソンの心も通い合った。いまや二人は、お互いが必要な人間だと知っていた。とりあえず速記用タイプで打った原稿を、さらにパソコンで打ち直すべく喜び勇んで帰宅するハドソン。今夜はきっと二人は結ばれるのだ。

 だがハドソンと入れ替わりに、ウィルソンのアパート前に現れた女が一人。その女は言葉のアクセントから分かるように、明らかに外国…フランス人だ

 それが小説のマルソーのモデルであることは、改めて言うまでもなかった!

 

僕にとってのロブ・ライナー作品の軌跡

 何と言ってもこの映画、僕にとってはロブ・ライナーの久々の新作という事に尽きる。

 かつてロブ・ライナーと言えば、僕の大のご贔屓監督だった。好きな映画がいっぱいあるからね。中でも今でも忘れられないのは、僕が最初に見たロブ・ライナー作品「シュア・シング」(1985)だ。

 実はこの作品はライナーの監督第二作。デビュー作「スパイナル・タップ」(1984)は日本では劇場未公開で、後年テレビで見たけれど架空のロックバンドの興亡を描いた佳作だった。ともかくそんな具合で、「シュア・シング」はまったく話題にものぼらないかたちで日本のスクリーンにかけられた。ところが、これが素晴らしかったんだよねぇ。

 「絶対やらせてくれる女の子」=「シュア・シング」を求めてカリフォルニアまでアメリカ横断を果たす男の子と、それにたまたま同行するハメになった堅物の女の子のロード・ムービーなんだけど、何とも笑えてホロリとさせる。「或る夜の出来事」以来のアメリカ映画の伝統が息づいた傑作なんだよね。この当時出てきたばっかりのジョン・キューザックの瑞々しさも見逃せない。今でもこの映画はオススメできる作品だ。この一作で、ロブ・ライナーの名前は僕の脳裏にバッチリ刻まれた。

 で、僕は続く作品を楽しみに待った。それが日本ではライナーの名前を決定づけた作品「スタンド・バイ・ミー」だ。これはスティーブン・キング原作だが、映画化された作品としては初めてホラー以外の作品なんだよね。

 お話はあえてここで紹介するまでもない有名なものだ。4人の少年の行方不明者を探しての「冒険行」を、主人公の追憶のかたちで描いた作品。ベン・E・キングの歌と相まって、日本でも大ヒットした作品だ。

 だが僕にはこの作品、ちょっと諸手を挙げて大歓迎とはいかなかった。悪い映画ではないのは分かる。だがキング作品本来が持つ「痛ましさ」のせいだろうか、これってどこか残酷でグロテスクなお話だよね。僕は「シュア・シング」で大好きになったライナーに、そういう作品を期待してはいなかった。それで気持ちがはぐらかされた気がしたのかもしれない。それでも大人になって作家になった主人公の少年の役にリチャード・ドレイファスが起用されているあたりには、「分かってるな」と改めて思わされたけどね。

 むしろ僕によりライナーらしさを感じさせてくれたのは、それに続く「プリンセス・ブライド・ストーリー」(1987)だ。

 筋書きとしては王子さま王女さまが活躍するおとぎ話…の形をとりながらも、この映画のミソはその物語がおじいちゃんが病気で寝込んだ孫のために聞かせてやる本の物語だと言うところ。最初はおじいちゃんの昔話なんて…とボヤいている孫だが、話を聞いているうちにどんどん夢中になっていく。だから途中で孫の声が割って入ったり、おじいちゃんと孫のやりとりが挟まったりする。おとぎ語自体も典型的おとぎ話と見えて、ちょっとパロディめいた現代的味付けがあったりする。言ってみれば「シュレック」的趣向のはしり…とでも言うか。この映画、配給のベストロン映画が消滅してしまった事もあって、今では日本ではお目にかかる事も難しいかもしれない。しかし一見の価値ある快作なんだよね。今ではショーン・ペンの奥さんになって名前の末尾に「ペン」と付けているロビン・ライト演じるお姫さまも楽しいが、何と言っても最高なのがピーター・フォーク演じるおじいちゃん。これもまた楽しいしジンとくる、アメリカ映画ならではの良さを持った作品だ。

 こうなるとライナー映画はハズシなし。次が大いに待たれたわけ。そんな僕の…別に僕だけじゃないだろうが…期待に応えて登場したのが、ライナー最大の代表作「恋人たちの予感」(1989)だ。この映画のことは、もはや説明不要だろう。レストランでのヒロインの傑作な「絶頂」演技でも有名だ。僕ももちろん大いに楽しんだ。メグ・ライアンが「ラブコメ」の女王などと言われトップスターになったのもこの作品からだし、実は日本にビリー・クリスタルの魅力がちゃんと伝えられたのもこの作品が初めてではないか。そう言った意味でも、かなり重要視すべき作品だよね。

 そんなライナーがまたまたスティーブン・キングと組む。しかも今回は本領である怖い話だ…と聞いて、僕はライナーならばやってくれるのでは…と楽しみに待った。出来上がった作品は、やっぱり期待を裏切らなかったんだよね。だってその作品「ミザリー」(1990)は、何と言っても僕の大好きなジェームズ・カーン主演の映画なんだからね。

 たまたま雪道で事故った人気作家が、狂信的ファンに拉致されて辛酸の限りをなめさせられる…。怖いんだけど、どこか笑っちゃう話。「スタンド・バイ・ミー」はたまたま僕の期待するものではなかったものの、やっぱりアレもこの作品も一筋縄ではいかない味わいだ。そして何より作家役にジェームズ・カーンってのがいい。普通カーンを起用するとなると、大概がタフガイやギャング役。まぁ、それはそれでイケてるんだけど、僕はカーンの本質ってもっとデリケートなものじゃないかと思ってる。だから僕は「イレイザー」でカーンを単純な悪役に使ってからは、シュワルツェネッガーにもイマイチな気持ちを持っているんだよね。「オマエ、てんで分かってねえな」…って(笑)。

 「第2章」で自らの分身役とも言える脚本家役を演じさせたニール・サイモン、「愛と哀しみのボレロ」でグレン・ミラーもどきのミュージシャンを演じさせたクロード・ルルーシュ。彼らはみなカーンの本質を見抜いていた。最近ではギャング役はギャング役だけど、コワモテだけでない味を引き出した「ドッグヴィル」のラース・フォン・トリアーもなかなかだった。ジェームズ・カーンって俳優は、起用する側にセンスを要求する役者なんだよね。

 で、やっぱりライナーは分かってた。タフガイのカーンが、太ったオバサンのキャシー・ベイツにいたぶり尽くされる皮肉。これはカーンでも五指に入るベスト・アクトではないか。ジョン・キューザックとかリチャード・ドレイファスとかジェームズ・カーンとか、デリカシー溢れる役者の味を活かせるのがライナーという監督の魅力なのだ

 …というのは、この人自身にすごくデリカシーがあるからだと思うんだよね。僕はそこに惹かれたんだと思う。

 そんなわけで、またまた絶好調だったライナー。続いてはやっぱり上げ潮のトム・クルーズ主演映画と来れば、こりゃ相手に不足はないと思う。しかもこの時期まだ修業時代のクルーズだから、大物ゲストを迎えてその胸を借りて…という形での主演映画を連発していた。「ハスラー2」はポール・ニューマン、「レインマン」はダスティン・ホフマン…と来た路線だ。で、この作品「ア・フュー・グッドメン」(1992)は、超大物ジャック・ニコルソンが共演と来る。

 軍事法廷を舞台にしたこの作品、軍隊モノ、法廷モノはアメリカ映画の十八番だからハズシはない。それなりに面白い。娯楽大作としてかなりの構えの作品にはなっている。こんな作品を任されるようになったライナーも大したもの…なんだろう。だが、僕にとってはあまり面白味を感じる映画ではなかった。それと言うのも…クルーズ、ニコルソンに加え、パセリみたいにくっついてきたデミ・ムーアも含め、どれもこれもあまりライナー的なデリカシーを感じさせる役者じゃないからなんだろうね。どうも僕はライナーって人、出てくる役者に左右される監督って気がする。

 そんなわけで興行的には成功したのかもしれないが、ライナー作品としてはイマイチの感が強かった「ア・フュー・グッドメン」。で、これを境にライナー作品は不調の一途を辿るようになる

 地味〜で何の印象も残っていない「ノース/ちいさな旅人」(1994)、マイケル・ダグラスが米大統領を演じる「アメリカン・プレジデント」(1995)…後者はなかなか楽しい趣向もあったように思うが、マイケル・ダグラスにしても相手役アネット・ベニングにしても、およそライナー的な役者には思えなかった。そんな違和感が最期まで拭えなかった気がするんだよね。そして途中で「ゴースト・オブ・ミシシッピー」(1996)という日本未公開作を挟む。すでに大物化していたライナー作品で未公開とは、これってよっぽどデキが悪かったか不発だったのか。僕もこの作品については何も知らない。

 考えてみると、僕はロブ・ライナーが好きと言いながら、このサイト開設以来一本もライナー作品を紹介していない。一本も公開されていないのか…というと、それは違う。たった一本、「ストーリー・オブ・ラブ」(1999)が公開されていた。だが、これがどうもいけない。

 ブルース・ウィリスとミシェル・ファイファーの夫婦がくっついたり離れたり…「恋人たちの予感」の監督にはうってつけの題材のように見える。だが、それは間違いだ。僕も期待して見てガッカリした。ウィリス、ファイファーともにライナー作品にはまったく馴染まない。あげく最後にファイファーが涙ながらに一席ぶって元のサヤに戻るものの、それにまったく説得力がない。一席ぶつ長セリフが、何だか藤山寛美の松竹新喜劇のヤマ場みたいなんだよね。そのせいか、この映画は関西圏では評判が良かったというのは余談だが(笑)、ともかくどうもボタンのかけ違いみたいな映画だった。今回こそはすっかりハズしちゃったな…と、僕も頭を抱えちゃったんだよね。

 そう考えたのは僕だけじゃなかったらしい。下手するとライナー当人もそうだったのかもしれない。この後4年の沈黙を守る事になって、今回の「あなたにも書ける恋愛小説」(2003)に至るわけだ。

 では、今回のこの作品、一体いかなる出来映えであろうか?

 

見た後での感想

 久々のロブ・ライナー作品。しかも近作はどれも今一つ。かつてあれだけライナー作品にほれこんでいた僕にとっては、砂を噛むような思いの作品が続いての長き沈黙だ。それでもライナー作品が公開となれば見に行かずにはいくまい。「ひょっとしたら…」という期待が、まだ僕のどこかにあるからね。

 細々とした公開の仕方も気にはなった。唯一期待が持てそうな部分は…と言えば、ケイト・ハドソンが主演ということ。実はただそれ一点のみだ。

 な〜んとなく、ハドソンってロブ・ライナー好みの女優さんって気がしないか?

 面白いけどわざとらしさがない、印象強烈だけど押しつけがましくない。そうそう、そうなんだよね。どうして最近のライナー作品ってイマイチかと言えば、前にも述べたようにキャスティングがハズしているから。トップスターならいいって訳じゃない。役者の持ち味に大きく依存するライナー作品には、その雰囲気に合った役者がどうしても必要なのだ。デリカシーのある役者が。

 その予想はピタリと当たった。

 ケイト・ハドソンがいいんだよ。彼女がとってもいい。まるで「恋人たちの予感」でメグ・ライアンがピッタリとハマった時を彷彿とさせた。そのメグ・ライアンが偉くなり過ぎちゃって身動きがとれなくなっちゃった代わりに、これからはハドソンがこのジャンルでいけるんじゃないか? 前の作品「10日間で男を上手にフル方法」も、お話はやや難アリだけど彼女は結構いい味出してたからね。彼女はすごくキレイって訳じゃないし、お高いわけでもない。気安くて人が良さそうでバカもやれそう。「あの頃ペニー・レインと」で光った時から、好感度は極めて高かったからね。

 そして相手役のルーク・ウィルソンがまたいい。知名度も何もまったくないが、この映画にはハマってるしハドソンとの相性もいい。実は僕が「チャーリーズ・エンジェル」とその続編「フルスロットル」を見て、唯一いいと思ったのが彼の出演場面だったんだね。彼のはにかんだような表情がいい。ヤバいお兄さんが絡んできても、彼だけは善人だと確信できる誠実さ。で、どこかデリカシーがある

 そうだ、ライナー映画にはデリカシーがなければダメなんだ!

 「恋人たちの予感」で大ヒットをかっ飛ばしたライナー。いきおい彼の作品となれば大スターが好んで出演したがった。トム・クルーズ、ジャック・ニコルソン、デミ・ムーア、マイケル・ダグラス、アネット・ベニング、ブルース・ウィリス、ミシェル・ファイファー…ハッキリ言おう。このスター連中のうち、どいつがデリカシーのある人間に見えるというのだ(笑)?

 やっぱりライナーはいくら大物になったからと言って、こんな何人もの人間を踏みにじって来た事がアリアリと伺えるような、大スター然としちゃった連中とツルんじゃ持ち味発揮出来ないんだよね。今回はちょっと失敗作続いちゃって、さすがのライナーも作品の規模を縮小せざるを得なかったのかもしれない。そのジリ貧さ加減がかえってプラスに転じたような気がするね(笑)。

 で、お話がまたいい。ストーリーを見ていただければ分かる通り、これはオードリー・ヘプバーンの往年の作品、リチャード・クワイン監督による「パリで一緒に」(1963)と同じネタではないか。

 締め切りに追われて慌てて劇映画シナリオを一本モノにしなくてはならない脚本家ウィリアム・ホールデン。書いてちゃ間に合わない口述筆記だとばかり、タイピストのオードリーが雇われてホテルの部屋で缶づめ。つくっているうちに諸般の事情からラブストーリーがサスペンスものへ…。面白いのは、執筆中の脚本のドラマにもホールデンやオードリーが出てきて、それぞれ役を演じること。その脚本の内外で、ホールデンとオードリーは恋に落ちる…。

 今回の映画がいかに「パリで一緒に」のパクりか、これでお分かりだろう。もちろんパクりは一向に悪くない。うまく、面白くいただいていれば言うことはない。

 しかもこのコンセプト、元々が「パリで一緒に」のオリジナルでもないのだ。実はこれ、「天井桟敷の人々」で知られる往年のフランスの巨匠、ジュリアン・デュヴィヴィエの1954年作品「アンリエットの巴里祭」のリメイクなんだよね。こちらは二人の脚本家が脚本を書いているうちに話が二転三転というお話らしいが、コンセプトはまるっきり同じはずだ。

 さらにはもう一本このネタをいただいた作品がある。それがやっぱりフランス映画だと言うのも、「アンリエットの巴里祭」を意識しているのは明らかだろう。その作品はフィリップ・ド・ブロカ監督の「おかしなおかしな大冒険」(1973)。サエない通俗小説家ジャン=ポール・ベルモンドがスパイ小説を書いているうち、ベルモンド自身や彼が秘かに恋している隣りのミヨちゃん的女子大生ジャクリーン・ビセットなどが作中に登場。ベルモンドが007もどきのスーパースパイ、ビセットがボンド・ガールみたいなセクシー美女に変身して、バカバカしくも壮大な大冒険を繰り広げる。この直前にビセットはトリュフォーの「アメリカの夜」に出演しているので、おそらくはフランスに出稼ぎついでにもう一本…という出演だったのだろう。両作とも配給が同じワーナー・ブラザースという事からも、それはおそらく間違いないと思われる。ともかく「リオの男」、「カトマンズの男」などの「男」シリーズでベルモンドの魅力を引き出した、フィリップ・ド・ブロカ監督の演出も快調。ビセットも可愛くてすごく楽しい映画だったから、見る機会があったらぜひご覧いただきたい。

 今回の「あなたにも書ける恋愛小説」では、「アンリエットの巴里祭」的趣向は極めてささやかだが、それでも創作中のウィルソン、それを速記用タイプで記述中のハドソンが劇中に登場。ウィルソンの作品のクサい設定にハドソンがケチをつけたり、あまりにアレコレうるさいハドソンをウィルソンが劇中のヘンなメイド役にしたり…と、虚実入り乱れてくるあたりが実に楽しい。また、劇中のメイドが最初はスウェーデン人、次にドイツ人、さらにスペイン人…と変わって、最終的にはハドソン本来のアメリカ人に戻るあたりはお約束だが、嬉しくなるのはそれらの別々の人種をケイト・ハドソンが演じ分ける事。これがなかなか笑っちゃうし、それぞれ本人も楽しそうにやってるあたり、なかなかハドソンも芸達者だねぇ。

 また劇中に出てくる「運命の女」としてフランスからわざわざソフィー・マルソーを引っ張ってきたのも、「アンリエットの巴里祭」への目配せなんだろうね。このへんもなかなかシャレている。

 さらにお話が進むにつれて、口述筆記していたハドソンは観客誰もが持つ疑問を口にする。では、マルソーの「運命の女」もモデルがいるはずだ。マルソーは一体誰なのか…?…

 今回の作品が優れているのはそこだ。

 最初ドラマはまったくの作りモノ…ハーレクイン・ロマンス的な趣向の物語だと思われた。そこにハドソンやウィルソンらのキャラクターが出てきても、単に二人の間に恋を芽生えさせ、盛り上げるための潤滑油的趣向だと思っていた。ところが、実は違うんだよね

 金の取り立てに来たキューバ・マフィアたちが“まんま”「金貸し」として小説に出てくるあたりで、観客も「これは本当にあった事なのでは?」…とハドソンと同様にようやく察する。ならばウィルソンのような男がギャンブルで大借金をつくり、あんなヤバい連中に追いかけられる…なんて「らしくない」事をしたのも説明がつくではないか。ようやく僕ら観客はここに至って、主人公ウィルソンがどんな男で、今まで何があったのか分かる仕組みになっているんだよね。そのための「アンリエットの巴里祭」的趣向になっている。この作品以前の同趣向の映画が、大概が楽しくバカバカしい趣向としてのみこの設定を用いている事を考えると、これはちょっと一ひねりした巧みな使い方なんだよね。

 これはうまい!

 脚本のジェレミー・レヴィンは、人生を何でも作品の中に放り込まずにはいられない「創作者」というものの本質を、見事にこの映画の中で描いている。それも高尚な物語や難しいテーマではなく、こんなにさりげなく楽しい形で。そのあたりが実に見事だよね。

 「創作者」の本音に迫るということは、そこで主人公ウィルソンの心の痛みもやんわりと描かれる事になる。そして、それを察するハドソンの胸の内も…こうなれば「デリカシーの人」ロブ・ライナー十八番の世界ではないか。

 実際のところ、僕もこのウィルソン同様な振り回され方をした事があるから、彼の気持ちはよく分かる。僕もすべてをつぎ込んで、草木も生えない状態まで追い込まれた事があるからね。ウィルソンもそんな傷ついた思いがあるからこそ、なかなか本音は見せない。彼が本音を少しづつ見せるのは、あくまで自分がつくった作品の中だけだ

 一方ハドソンの方の事情はほとんど描かれないが、彼女も自分の気持ちを露にしない人のように思われる。過去に何か傷ついた経験もあるような…そうなれば、なおさらライナーの持ち味が活かせるではないか。

 ここのところ、どうもかつての本調子が出せなかったロブ・ライナー。そんな彼が今回は久しぶりにいい味出せているのは、ケイト・ハドソンとルーク・ウィルソンというデリカシーに溢れた役者を手に入れ、お話にもそんなデリケートな人間の気持ちが描かれているからだ。どこか奥ゆかしく押しつけがましくなく、思いやりがあって慎み深くてユーモアがある…それこそが、「デリカシーの塊」ロブ・ライナーの世界ではないか。

 考えてみればライナーは自らの世界を、しばしば「物語を紡ぐ」…という形で語って来た。これには今回初めてこの僕も気が付いたよ。

 日本未公開のデビュー作「スパイナル・タップ」は、往年のロック・バンドを扱ったドキュメント映画の体裁。「シュア・シング」は物語全体が、旅が終わって学校へ戻ってきた時、主人公ジョン・キューザックが教室で読み上げた作文として集約される幕切れ。「スタンド・バイ・ミー」は作家による少年時代の追憶。「プリンセス・ブライド・ストーリー」はおじいちゃんが孫に読んで聞かせる本の物語だ。「恋人たちの予感」は劇中にさまざまなカップルの「証言」が挟まっていて、最後に物語全体が主人公カップルの「証言」だった事が示唆される。「ミザリー」には物語自体は出てこないが、虚構と現実の境界線を逸脱した狂気のヒロインと、それに翻弄される作家のお話だった。

 でも、それは当然の事かもしれない。ライナーもその映画の登場人物も、慎み深く思いやりのある「デリカシーの人」。「デリカシーの人」だからこそ、押しつけがましく何かを主張する事は出来ない。だから物語というカタチに託して、楽しませながらやんわりと人に伝えるのを好む。なるほど「ストーリー・オブ・ラブ」はしっくり来ないわけだ。エンディングで一方的にまくしたてるミシェル・ファイファーは、どう考えてもライナーのテイストには馴染むまい。

 「ア・フュー・グッドメン」以降このパターンが崩れて、そこからライナーの不調が始まったのだ。実はライナー自身も、こうした自分の資質について考えた事はなかったのではないか? そして今回は意識的にか無意識下か、いつの間にかあの自家薬篭中のネタを仕入れていた。

 言わばロブ・ライナー勝利の方程式、それが久々の成功に繋がったんだろうね。

 

見た後の付け足し

 そんなこんなでホンモノのマルソーまで登場。いまだマルソーに未練アリアリの様子を見たハドソンはウィルソンの元を去り、二人の恋も物語同様に暗礁に乗り上げる…という展開。それがどんな結末を迎えるのかは映画をご覧いただきたいが、説得しようにも見向きもしてくれないハドソンに奥の手を使って、ウィルソンが恋の始まり同様に小説の口述筆記のカタチで愛を伝える結末なんだよね。

 ただねぇ…それって正直言って、一旦離れたハドソンの心を再びつなぎ止めるようなモノだとは僕には思えない。このあたりの説得力の乏しさは、実はあの「ストーリー・オブ・ラブ」エンディングのミシェル・ファイファーの長セリフにも共通する点だ。その意味ではライナー、いまだ完全復帰とは至ってないのかもしれない。

 それでも僕は、この映画がすごく気に入った

 ロブ・ライナーらしさが全編に充満していたし、問題の「ストーリー・オブ・ラブ」とはハッキリと一線を画して、登場人物やら見る人やらに対するデリカシーが感じられたからね。それに終盤のウィルソンのこのセリフも気に入った。

 「モノ書きは、文章を通してしか自分の気持ちが言えない」

 その通りだと思う。だから僕も、こんな駄文を懲りもせずダラダラと書いているんだからね。

 

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME