「ビッグ・フィッシュ」

  Big Fish

 (2004/06/07)


  

見る前の予想

 この映画の予告編やポスターは、かなり前から見ていたような気がする。ティム・バートンの新作。ユアン・マクレガー、アルバート・フィニーというバートン映画にしては異色な顔ぶれが出ている。予告編を見ると、サーカスの場面で周囲がピタッと制止している中をマクレガーが女の子に近づいていく場面とか、マクレガーがあたり一面黄色い花だらけのど真ん中に立っているとか、かなり幻想的な場面の連続。いかにもバートンらしいファンタジーに違いない。

 その頃はポスターにも「オスカー最有力!」なんてコピーが書かれていて、これは絵に描いたモチに終わってしまったものの、映画が観客の感動を狙った作品である事を伺わせている。少なくとも猿の惑星の繰り返しじゃないわけだ(笑)。

 そう、「猿の惑星」には少々戸惑った。つまらなくはなかったものの、ティム・バートンが何であれをつくったのかが分からなかった。「リメイク」じゃなくて「リ・イマジネーション」とか屁理屈をこねていたけど、僕はむしろアレにあまりバートン流のイマジネーションを感じなかった。実は彼の作品の中では、もっとも現実的で即物的な映画じゃないかと思ったんだよね。撮っている途中にバートンのオンナが代わったって事もあって、どうも何やら心境の変化があったんじゃないかとさえ感じた。

 ところがこの「ビッグ・フィッシュ」は、またしてもいろいろ幻想的な趣向が盛り込まれている。バートンはまたしても元に戻ったのか?

 ただ、見ていて何となく引っかかった

 ベタベタなユメいっぱい描写。今までに増して夢だらけって感じ。ティム・バートンらしい奔放なイマジネーションが溢れている…と言えば聞こえはいいが、何となく今回は、お花いっぱい…みたいな調子の場面ばかり目につく。そこへ来てまたぞろ子どもっぽい「夢サイコ〜」みたいな映画とくると、「いつまで退行現象を続けてるつもりなんだ」と言いたくもなる。少なくとも今までのバートン作品では、こんな「甘っちょろい」と思わせる印象はなかったよね。何なんだろう、このヤワな印象は?

 おまけにこの宣伝コピーだ。「人生なんてまるでお伽噺さ」

 分かるよ、言いたい事は。だけど、「まるでお伽噺さ」の「…さ」が何となく気に障る。妙に馴れ馴れしく同意を求めてくるような気色悪いものを感じさせるんだよね。別にバートンがこのコピーをつくった訳じゃないけれど、宣伝マンにこういうコピーをつくらせるようなムードみたいなものが、あの作品の中に内在しているのか。

 夢とかイマジネーションが売り物の映画作家だからって、そればっかりベチャ〜ッと全面展開されると不愉快なものだ。僕があんなに大好きだったスピルバーグだって、「どうせオレはピーター・パン・シンドロームだよ」と全開に開き直って「フック」つくったら、見るに耐えないシロモノが出来ちゃった。何でもほどほどって事があるんだよ。

 いや、夢とイマジネーションは結構なんだけど、その方向性ってモノが問題なのかもしれない。僕はこんなにイマジネーションがある、心の中に童心がある、だからつまらない現実なんか捨てて思いっきり幻想の中に浸るんだも〜ん…って、まるっきり現実逃避100パーセントでやられてもねぇ

 いやいや…現実逃避がダメな訳でもないんだな。元々映画ってみんな現実逃避だって言えばそうだ。だから現実逃避が悪い訳じゃない。夢や幻想に浸る事が悪いと言ってるわけじゃない。

 それを堂々とエラそうにひけらかすのがイヤなのだ

 夢やイマジネーションに浸るのは素晴らしい。だから、現実よりもそんなイマジネーションを選んだ「オレ」は素晴らしい。

 何と厚かましくも傲慢な考え方ではないか。それを「退行現象」起こしてるような「幼児発想」の奴から言われたら、「ふざけんな!」の一言も言いたくなるよね。

 だからこの映画に対しても、ちょっとばっかりこれまでのティム・バートン作品のようには、好意的に見れないのではないか…と感じていたんだよね。

 大体が、やっぱりあの「人生なんてまるでお伽噺さ」…ってのが良くないよ。オレにとっちゃ人生はまるっきり「お伽噺」でも何でもない、実に殺伐としたもんだったからね。

 

あらすじ

 その川には「主」と言われる大魚がいた。他の魚は釣り人の獲物となったが、「主」はそんなのとは訳が違う。それは大昔にこの地に逃げてきた盗人の成れの果てという伝説もあるが、定かではない。

 そんな魚を釣るなら普通のエサじゃダメだ。

 その男エドワード・ブルーム(ユアン・マクレガー)は、だから元・盗人に相応しいエサを竿から吊した。自分の金の結婚指輪だ。案の定、「主」はそのエサに飛びついてきたものの、すんでのところで逃げられた。指輪は「主」にとられたまま。これではエドワードも嫁さんに会わす顔がない。

 そこでエドワードは再び川に出向いて「主」にチャレンジ。やってきた「主」を羽交い締めにすると、ものすごい剣幕で怒鳴った。「僕の指輪を返せ!」

 すると慌てた「主」はプッと指輪を口から吐き出した。こうしてエドワードは、無事に指輪を取り戻す事が出来たわけだ。それは彼に息子が生まれた日のことだった…。

 そんな話を、繰り返し繰り返し話すエドワード。そりゃ確かに面白い話だ。だが聞かされる息子ウィルからしてみたら、毎度毎度の話。友達たちの前でもこの話を繰り返すエドワードに、息子ウィルはいささかシラケ気味だ。 夢中になっている他の連中を横目に、うんざりしてソッポを向きたくもなる。だがいい歳こいても父親エドワード(アルバート・フィニー)はホラ話ばかり。あげくの果てに息子ウィル(ビリー・クラダップ)が未来の妻ジョセフィーン(マリオン・コティヤール)を連れて来た時には、彼女にもそんなホラ話を聞かせる始末だ。彼女が話に夢中になっているのも面白くない。さらには結婚式の日に集まってくれた客の前でも一席ブチまくって注目を集めてた。これにはさすがに息子ウィルもついにキレたんだよね。

 話は面白いし社交性はあるしでいつも親父は注目の的。対して自分はつまんないその息子。だけどその面白い話の中身は…というと、どれも駄ボラとウソ八百ばかりとくるから、後塵を拝し続けて来た息子としてはイヤになる。しかも、そんな役割を長らく勤めさせられてきただけでウンザリなのに、またまた自分の結婚式にまでシャシャリ出てくる事はないだろう。

 こうして父と息子はしばらく音信不通が続いた。実家に電話しても、母親サンドラ(ジェシカ・ラング)が出てきて、本人同士は話をしないで済んだ。

 ところが、そんな父親が病の床に倒れたとの連絡が入る。フランスはパリにいた息子ウィルと妻ジョセフィーンは、慌てて故郷の街へと戻ってきた。こうして奇しくも父と子は久方ぶりに顔を合わす事になったのだった。

 だが、相変わらず父親はマイペースだ。「わしはこんなカタチでは死なん。昔、魔女に自分の死に方を見せてもらったからな

 まだ幼い少年の頃、町外れの寂しい廃屋に住む魔女(ヘレナ・ボナム・カーター)を訪ねて、死に方を見せてもらった話は、父親エドワードの十八番の一つだ。

 さすがに今回はウィルもホラ話にいちいち目くじらは立てなかったものの、また例のクセが始まったか…と呆れ顔。妻がすっかり父親のホラ話に感心しても、どうせ全部作り話と相手にしてなかった

 例えば…それはとてつもない大男の話だ。

 何をやらせても絶好調で町の人気者のエドワード。だが彼は、広い世間を見たいと思うようになっていた。折りもおり、町にとてつもない巨人が出現。勝手に人の家畜を奪っては、その物凄い食欲でモリモリ食ってしまう。これには町の人々は大いに困った。

 そこでエドワードは、自らが巨人と直談判しに行く事に名乗りを上げる。巨人は町外れの洞穴で原始人のように暮らしていた。最初は乱暴されるかと覚悟を決めたエドワードだが、巨人カール(マシュー・マグローリー)は予想に反して大人しい男。そこでエドワードはこう言った。「この町はキミには小さすぎる。大きな志を持つ僕にも小さい。一緒に町を出て広い世界を見よう!

 かくして町の人々に盛大に見送られたあげく、巨人カールとエドワードは町を後にした。ところが、あるところで道が二手に分かれる。片方はまっすぐ都会へ行く道、片方は途中お化けが出るとウワサの回り道。エドワードはどうしても「お化けの道」に行きたくなった。結局ここで彼らは二手に分かれ、先の道の合流点で落ち合う事になる。

 さて、案の定この道は何やら怪しげな道だった。苦心惨憺して道を先に進むと、いきなり開けた場所に出るではないか。

 そこには小ぎれいな街並み…ここはスペクターという町だった。

 町の入口に張ってある電線には、数多くのクツがぶら下がっていた。出迎えてくれた人々はみなニコニコしてやたら愛想がいい。しかも裸足だ。あのクツは彼らのモノだったか。このスペクターという町は居心地がよく、地面も足に心地よいからクツなど要らないと人々は言う。それにしても、どこか奇妙な町だ。

 エドワードはこの町で、かつて広い世間を見たいと出ていった詩人のウィンズロー(スティーブ・ブシェミ)と出会う。彼もまた、スペクターの町の虜となって居座った一人だった。だがエドワードには広い世間を見るという志があった。町の人々がみな嬉々としてダンスに興じる中、エドワードは一人スペクターの町を出ていく。それは、スペクターの町の人々には信じられないような衝撃をもたらした…。

 また、こんな話もある。エドワードが妻と出会った話だ。

 巨人カールと連れだっての旅の途中で、たまたま立ち寄ったサーカス。そこでカールは自分の運命と出会い、サーカス団の団長(ダニー・デビート)に雇われる事になる。だがエドワードもそこで運命と出会った。彼の妻となるべき娘(アリソン・ローマン)と出会ったのだ。その時、エドワードとその娘の間には、一瞬時間が止まった気がした

 だが彼女は帰ってしまい、エドワードは行方を見失う。そんな失意の彼の一縷の望みは、例のサーカス団の団長。サーカスに雇われてタダ働きで働けば、一ヶ月に一回、給料代わりに彼女の事を教えてやろうと言うのだ

 こうしてエドワードは彼女の事を一つづつ知っていった。彼女が大学に行くこと、彼女が水仙の花を好いていること…だが、そんな事では一向にラチが空かない。さすがにたまりかねたエドワードは団長と直談判。ちょっとした偶然も彼に味方して、彼女の居場所を知ることになる。

 彼女…サンドラの大学を訪ねたエドワードは、花屋という花屋から水仙の花を買い占め、それを敷き詰めてサンドラを呼び出した。これにはサンドラも大感激。実は彼女には婚約者がいたのだが、これまたうまい方向に事が転がって、エドワードはサンドラの夫となる事になった

 ところが運命は皮肉。エドワードに召集令状が届いた。かくしてやっと結ばれようという時に、またしてもサンドラと引き離されたエドワード。かくしてエドワードは朝鮮戦争へと出征していった。こうなると一日も早く故郷へ帰りたいエドワードは、わざわざ危険度の高い任務に好んで志願することになる

 というわけでエドワードがある晩落下傘降下したのは、北朝鮮の基地。それも兵士を慰安するためのショーが行われているステージの天井に降りたってしまった。ステージを見ると、歌って踊るは下半身一つに上半身二つという、ピンとジンという摩訶不思議な双生児姉妹(エイダ・タイ、アーリーン・タイ)。だがその魅惑のステージを見とれている訳にはいかない。エドワードは英雄的活躍で敵の秘密の設計図を盗み出すと、双生児ピンとジンの楽屋に忍び込む。そこでエドワードの出現に驚く双生児姉妹に向かって、彼は愛するサンドラへの思いをブチまけた。これで彼女たちに脱出に協力してもらう事になるわけから、エドワードの人を惹きつける力は大したものだ。かくしてエドワードは双生児姉妹と北朝鮮を脱出して地球を半周。彼女たちは最終的にマイアミのショービジネスで職を得た。

 だがそれはあまりにも長い不在だった。当然、軍はエドワードを死んだと見なし、サンドラは死亡通知を受けとって泣きの涙。そんな彼女の前にエドワードが戻ってきた瞬間は、まさにドラマチックな再会だった…。

 ドラマチック…確かにドラマチックだ。だけど、面白いかもしれないが作り話でしかない

 息子ウィルはやっと再び顔を合わせたこの機会にこそ、父親とのミゾを埋めたいと思った。そこで病床のエドワードに語りかけるが、エドワードは相変わらずのマイペース。またぞろいつものホラ話を繰り返す。これにはさすがにキレるウィル。「悪人でも善人でも、何でもいいから本当の姿を見せてくれ!

 だがそんな息子の言葉に、エドワードも苛立って答えるだけだ。「私はいつもありのままだ。それが分からないオマエが悪い!

 父と子はまたしても平行線。気まずい沈黙がはしる…。

 そんなある日、病床のエドワードに頼まれて部屋を片づけていたウィルは、ひょんな事から一枚の古い書類を見つける。それは何と…エドワードの死亡通知書。あの何度も耳にタコで聞かされた、ホラ話に出てくる死亡通知だ。「すると、あれは本当にあった事なのか?」

 すると母親サンドラは、ウィルを諭すように静かにつぶやいた。「あの人の言う事は、まったくの作り話ではないのよ…」

 

見た後での感想

 またしても、「いかにも」なティム・バートン作品…と先に言ってしまったが、おそらくはこの映画に接する誰もが、一旦は同じ印象を抱くかもしれない。

 そもそも過去のバートン作品も、「ビートルジュース」「シザーハンズ」「バットマン」「バットマン・リターンズ」…こう並べれば誰しも作品のスタイルと方向性が一貫していると認めざるを得ない。どこか子どもっぽくどこかダークで屈折した世界。それが行き着くところまで行き着いたかな…と思われたのが、「エド・ウッド」じゃないだろうか。

 妄想とも言うべき創作欲に駆り立てられて、猪突猛進に突き進む「史上最低の映画監督」を描いたバートンは、おそらくはここで完璧に自画像を描いている。で、彼なりにここで一つのオトシマエを付けたんじゃないかと思うんだよね。それが証拠に、バートン作品はここから大きく方向性を変えていくのだ。

 続く「マーズ・アタック!」は、これこそがまたまた子どもっぽいバートン作品…と見えるが、それにしたって悪ふざけやハシャギっぷりの度合いが今までの比ではない。何だか僕にとってはこの作品って、「子どもの時間」の終わりを自覚したバートンが、これを限りに最後の悪ふざけのし納めをしている感じに思えたんだよね。それゆえの無意味なオールスター、無意味な超大作仕様ではないか。

 それは次のスリーピー・ホロウを見て、さらに強くそう思われた。これもバートンらしい世界と言えば言える。だが過去の作品と比べると、何とも安定感があるではないか。それまでの作品は、どこかに痛々しく壊れた部分が覗いていた。だが「スリーピー・ホロウ」には、自信に溢れて余裕さえある、一種のプロフェショナリズムさえ感じられる気がするのだ。実際のところバートンの作品の中で、純粋にバートンらしい商業作品と言うか、バートンらしい大衆映画と言えるのはこの作品にとどめを刺すのではないか。この作品には、僕はかなり好ましい気持ちを持っているんだよね。

 そんな傾向に追い打ちをかけるのが、例の「リ・イマジネーション」版の「猿の惑星」だ。この映画こそ、まさにプロっぽい作品だろう。だがこの作品、正直言って出来映えについては疑問が残った。面白い事は面白いものの、これじゃ別にバートンが撮らなくてもいいのでは?…と思える作品と思われた。それと言うのも、バートンが「スリーピー・ホロウ」でかい間見せた自信や余裕、プロフェショナリズムが全面開花してしまったからじゃないかと僕は思ったりもした。

 で、こうなってくるとバートンみたいな人は苦しくなってくるんだよね

 それまでが言ってみれば特異な異端児らしさで売って来た人だ。それが子どもから大人になって特異性も中和されていった時、当然作品も変わっていかざるを得ない。だがそれは、それまで高い評価を得て来たレッテルをもはずす事になりかねない。そうなってみたら「ただの人」って事になりかねない。結構危険な賭けなんだよね。でも、人間っていつまでも子どもではいられない。バートンのように大成功した人なら、なおの事だ。

 そのあたりの事を、ティム・バートン自身も痛感してたんじゃないだろうか?

 バートンが今回の題材に、再び子どもっぽい「夢」とのガチンコ勝負、しかも父親と息子の穏やかならぬ関係…という自らの内なる「子ども」と対峙せざるを得ない物語を選択したのは、まさにそんなバートンの「今」を象徴する事件だと思う。しかも今回はいつもバートン作品を彩ってきた、玄人ウケしそうなダークな味付けも控えめ。モロに万人に受け入れやすい、子どもっぽい「夢」のど真ん中ストレート一本勝負だ。

 彼はここで、自分が今抱えている矛盾と真っ正面から向き直って対決しようと決めたんだろう。そこを超えなければ次はない…と思ったんだろう。これはある意味で、すごく潔い態度かもしれないんだよね。少なくとも僕は感心した。最初思っていたような後ろ向きな映画とは思えなくなった。夢にベタベタに溺れるファンタジーと見せかけながら、むしろ時折ホラ話に拒否反応を覚える息子にシンパシーを移しながら映画を語っているバートンに、それまでとは違う何かを感じたからね。

 少なくとも、この映画は「退行現象」なんかじゃないと思うよ。

 

見た後の付け足し

 確かにバートンお馴染みファンタジーのオンパレード。誰もがそう思うだろうし、僕もそう思って見ていた。だけど、実はよ〜く見るとそれは従来の彼の作品とは微妙に違っているんだよね

 あくまでウソ話、作り話の枠の中に収められている。…ここが今回のミソだ。言い換えると、実はこの映画ってファンタジーと同様にリアルな「現実」も描いているのだ。

 考えてみると、今までは夢ウツツの世界を映画にしていたようなバートン。実はちゃんとした「現実社会」を描いたのは、この「ビッグ・フィッシュ」が初めてなんじゃないか? その「現実」の中にウソ話が含まれるってカタチなものだから、一見そうは見えないんだけど。

 そう、この「ビッグ・フィッシュ」はむしろ意識的に「現実」を描いた映画だ。

 さらに彼の映画にして初めて、ファンタジーへの批判者が現れる。しかも、それは主人公あるいは語り部だ。これもまったく新しいキャラだろう。だからその「現実」パートだけ見ると、今までのバートン作品の中で最も「普通」な作品となっている。何をもって「普通」と言うのか…などとお叱りをいただくかもしれないが、例えばこれまでバートンが撮ってきた「ビートルジュース」とか「シザーハンズ」とかと、「あの頃ペニー・レインと」とか「ロスト・イン・トランスレーション」とか他の映画は明らかに違うだろう。

 従来のバートンらしさは劇中のファンタジー場面に封じ込めて、あくまで今までとは一線を画する「現実」路線の映画を撮ったと言うべきか…あるいは「現実的」作品ではあるがファンタジーを内包する事によって、従来からのバートン・イズムを継承したと言うべきか。ともかくこの映画は、バートンの作品歴の中で極めて特殊な位置づけとなる作品だ。

 年齢的な事もあろう、あるいは功成り名を遂げての心境の変化もあろう、作品を作り続けていく中での進化もあろう、あるいはプライバシーの変化もあるだろう…。ともかく純粋童心の世界でここまで来たようなバートンも、そのままでは行けなくなったのは間違いない。で、そこをどう通過していくが、人間的にも作家的にもバートンとして難しいところのはずだ。

 「マーズ・アタック!」のバカのし収めを経て、「スリーピー・ホロウ」で従来の路線を継承しながら無理なく成熟への道を選択出来たと思いきや、「猿の惑星」でその路線も怪しくなっていく…。僕はこれまでのバートンの軌跡を、そんな風に理解しているんだよね。それは、もう一人の「オトナコドモ」映画人、スティーブン・スピルバーグを追いかけて来たからこそ察せられる事なのだ。

 そういう意味でバートンにとっての「ビッグ・フィッシュ」は、大人映画への軟着陸の試みの一つではあるんだろうね。

 この映画では、現実に対してホラ話ばかりで対峙してきた父親を、息子はどうしても好意的に見る事が出来ない。だが最終的には、息子はそのホラ話を踏襲し発展させて、父親のあの世への旅立ちを彩ってやる。

 これって一見、「やっぱり夢を見ている方がいい」「現実だけ見てたらつまらない」…と言ってるように思えるよね。それだとバートンが、またぞろ夢やファンタジーへの退行現象を起こしているように思える。

 でも、僕はそれは違うと思うんだよね

 むしろ夢の全肯定…そんな退行現象とは一線を画していると思えてならない。現実より夢の方がいい…な〜んて事は言ってない。そんな考えとは180度違うと、確信しているんだよね。

 それはエンディングを見れば分かる

 父親の葬儀が開かれると、何と彼のホラ話の登場人物たちが続々と集まってくるではないか。それまでもチラホラと父親の話の中に「真実」がかい間見えてはいたが、ここではそうしたホラ話の「真相」が一気に明かされる。確かに話の「まんま」ではない。巨人はせいぜい大男、胴体がくっついた双生児姉妹はただの双子…だが、彼らは確かに存在した。

 これは何を意味しているのだろうか?

 すべてのホラ話には、いくばくかの真実が含まれていた。と言うより、それらの話の核には真実があった。…それって、夢やホラ話の素晴らしさを訴えるものではない。もっとハッキリ言おうか?

 息子はそれまでこう思っていたに違いない。父親のホラ話は確かに面白い。ワクワクする。だけどそれは、所詮はつまらない無味乾燥な現実をウソでごまかしたモノだろう…と。実際は素晴らしくも面白くもないから、そんな粉飾をして楽しく輝かしげに見せかけていたのだろう…と。

 ところが、それらがすべて「真実」だったとしたら…。少なくとも核心部分で「真実」を含んでいたとしたらどうだ?

 「現実」とは、それ自体が極めてエキサイティングなものだ…って事にはならないか? 

 退行現象ではない、夢の全肯定ではない。ティム・バートンはむしろ、「現実」そのものを完全に肯定しようとしているのだ。現実は素晴らしい、人生は素晴らしい。何が起きるか分からないほどエキサイティングだ…と。これは彼としては新しい展開だろう。

 作品的に完全に成功したかどうかはかなり微妙だ。バートンが意図したような事が実現出来ているかどうかも怪しい。例えば、最後には息子も父親を受け入れるものの、「オレを受け入れないオマエが悪い!」とホラ吹き親父に開き直られても困るよね。だから観客にちゃんと思いを伝えることが出来ているかは疑問だ、だがこの作品をつくる事で、バートンが何かを掴んだのは明らかだろう。少なくとも、映画の根底に「現実の人生は素晴らしい」とする意志が流れていることは間違いない。

 そして僕も、彼の意見には賛成だ

 確かに生きていればウンザリする事も少なくない。ホントにイヤになる事もある。まいってしまった事だってある。だが僕は、自分からこの世を降りる気はない。それではあまりに惜しい。人生には生きるに値するものがある。

 この僕が、いまだにこの世の中に生き長らえている理由はたった一つ

 人生には何があるか分からないからね。たった40年ばかり生きただけでも凄かった。ビックリする事ばっかりだったよ。それらを全部みんなに見せたかったね。ホントに信じられないような事が起きるんだよ。僕がそれらすべてをここで話したら、誰も信じてくれないかもしれない。そのくらい物凄かった。だから、たぶんこれからもスゴイ事があるに違いない

 それを見ずに終わるなんて、あまりにもったいないじゃないか。

 

 

 

 

 

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