「スイミング・プール」

  Swimming Pool

 (2004/06/07)


  

見る前の予想

 前にもどこかで書いたと思うんだけど、僕はフランソワ・オゾンってこんなに有名な人だとは知らなかったんだよね。

 日本初紹介の時には確かホームドラマというのを見に行って、ブラックなユーモア溢れるアクの強い作風が印象に残った。だが、ハッキリ言ってお話はよく分かってなかったと思う(笑)。それに、この男がそれほど大物になるとは思わなかった。ところがいつの間にか偉くなってたんだね。

 結局改めてオゾンの名前を聞くことになるのは、一昨年のまぼろし公開の時だった。でも、その時は「あの」オゾンと「この」オゾンが全然結びつかなかった。大体全然違う作風ではないか。僕の中ではまるっきり結びつかなかったわけ。

 そこへ追い打ちをかけるように8人の女たちだ。フランスの大女優大集合の観があるこの作品は、演劇的な色が濃厚なミステリ仕立てのミュージカル・コメディ(!)。ますます「あの」オゾン、「その」オゾン、「この」オゾンが結びつかなくなった。困っちゃったよね。世間はベタほめだけど、どこがどういいって分かってるのだろうか? 僕はそれなりに面白さを感じてはいたが、戸惑った部分も少なくなかったんだよね。

 ところがある人からフランソワ・オゾンの旧作を収めたDVDを借りて、何本か見る機会があったんだよね。そうしたら、ようやくこれらのバラバラなオゾン像が少しづつ結びつくようになってきた。ホントは「ホームドラマ」と同時に上映されていたこれらの旧作を、その時に見ていればピンと来たのかもしれないけどね。これは興味深い体験だったよ。

 それらのアレコレについては、僕の海をみる感想文を読んでいただければ分かるかもしれない。ともかく今のところ僕のオゾン観は、ゲイ的な視点(ミュージカルやショウ趣味もここから来ているのだろう)、ミステリへの造詣、そしてなぜか「海」が好き…という事だろうか。何だか漠然としたキーワードの羅列に終始して申し訳ないが、詳しく話せばキリがない。

 そして今回「スイミング・プール」がやって来る。

 片や「まぼろし」で劇的復活を遂げたシャーロット・ランプリング、片や「焼け石に水」以来オゾンの若きミューズらしいリュディヴィーヌ・セニエ。このオゾンとつながり深い新旧二大女優をかませた新作。それだけで興味深いと言えば興味深い。だがそれにも増して僕が楽しみだったのは、この新作は僕が見る事が出来た旧作「海をみる」に非常に近い作品ではないか…と思えたからだ。

 「海をみる」は感想文にも詳しく述べたが、人里離れた一軒家に閉じこもる女、そこを訪れる別の謎めいた女…という、立場もキャラも年齢も違う二人の女の激突で話が進む。お互いに興味と反発があって、片や自由奔放で片や少々閉鎖的かつ欲求不満気味、全編に充満するミステリー…と、どう考えても今回の作品と共通点が多いように思える。そして「海をみる」は、実にコワ〜い映画だった。

 そういえば、オゾン映画って僕が最初に見た「ホームドラマ」やこの「海をみる」あたりの怖さから、ここんとこの「まぼろし」、「8人の女たち」…と、かなり様変わりしているように思える。実際にオゾン映画をずっと追って来た人たちに言わせると、「まぼろし」と「8人の女たち」はそれまでとちょっと違った傾向の作品のようなのだ。

 個人的には「海をみる」の怖さをスゴイと思うし、「ホームドラマ」あたりは記憶も曖昧だがよく出来ていた印象がある。ただ「好きか?」と言われると難しい。どうもあまりに意地悪げな視点がちょっとねぇ…。別に登場人物を甘やかしてくれなくていいけど、あの冷たさってのは何となくどこか違うんじゃないかと思ったりしていた。ならば僕は「まぼろし」の方が共感出来る。

 …とすると、この「スイミング・プール」はどんな具合だろう? もし「海をみる」的なオゾンと「まぼろし」や「8人の女たち」的なオゾンがうまいことブレンドしていたならどうだ?

 ひょっとすると、かなり期待出来るのではないか?

 

あらすじ

 ロンドン。地下鉄に乗った主婦が、ペイパーバックのミステリ小説を読んでいる。ところが彼女は突然自分の正面に座った中年女の顔に注目。何と、彼女はその小説の作者シャーロット・ランプリングその人ではないか。だが、ランプリングは「人違いです」とにべもない。どう考えてもご本人なのにも関わらず、何か気に障ったか電車を降りてしまう。そしていきなり酒場へ出向いて駆けつけ一杯。

 ランプリングが次に出向いたのは、彼女が自作の小説を出している出版社。そこでは長らく彼女とつき合ってきた馴染みの編集者チャールズ・ダンスがいた。二人の仲は単に作家・編集者の関係とは思われない親密さではあるが、最近はダンスが新人作家にかかりっきりでどうも疎遠になりがちらしい。それがランプリングには面白くない。ダンスに「キミは手がかからないし、ヒット作は連発出来るし」とホメられたところで、どうせ自分をはぐらかすための戯れ言…と全然納得してない。ともかくは少々煮詰まり気味のランプリングだった。

 そんな彼女の様子を見てとったのか、ダンスは自分のフランスにある別荘へとランプリングを招待する。そこでしばらく静養すればいい。どうせたまに自分の娘が遊びに来る程度だ。週末には自分もそっちへ行くよ。…そんな言葉をかけられると悪い気はしない。ランプリングは早速フランス行きを決意する。

 どんより曇り空のロンドンと比べ、ここ南仏は晴天で何ともいい陽気だ。駅まで出迎えたのは、別荘の管理人のマルク・ファレールという気のいいオヤジ。たどり着いた別荘はなかなかに広々として、周りは美しい自然に囲まれ静かそのもの。庭には大きなプールがあるが、そこは現在使われずに黒いカバーに覆われている。

 こうしてランプリングの静かな別荘生活が始まった。

 静かなせいかロンドンでの苛立ちがウソのようだ。酒を欲しいとも思わない。もりもりと創作欲も湧いてきて、早速パソコンを持ち出して新作を書き始める。しごくご機嫌だ。

 だがそのご機嫌も長くは続かない。ダンスに電話するが、彼はいつ行けるか分からない…とはぐらかす。彼を待ちわびていたランプリングにとっては、これは少々アテはずれだ。失望は隠しきれない。

 おまけにある晩、何者かが別荘にやって来た

 それは若い娘だ。一体誰だといきり立ってみると、この娘リュディヴィーヌ・セニエはあのダンスの娘ではないか。逆にこう言われて、ランプリングは返す言葉がない。「アナタがパパの最新の獲物って訳ね」

 このセニエ、仕事がイヤになったからフラッと別荘を訪ねたと言う。しかもしばらくは居座ると言うではないか。頼みのダンスは来ない。おまけに静かな別荘で創作に専念と思いきや、思わぬ伏兵の登場…と、再び思いっきり不機嫌に落ち込むランプリングだった。

 しかもこの娘セニエが思いっきり自由奔放だから、これがまた頭に来る。食ったら食った飲んだら飲んだでやりっぱなし。夜中だろうが何だろうがデカい声で電話かけ放題。元々ネクラなイギリス女で性格的にも神経質なところへ来て、このテイタラク。何から何まで気に障りっぱなしのランプリングだ。

 おまけにこの娘セニエはプールからあの黒いカバーをはぎ取って、枯れ葉が浮かんでようとお構いなしで素っ裸で泳ぎ始めるではないか。それがまた、いかにも若さとはじける肉体を見せつけるような振る舞い。いささか枯れちゃった気分になっているランプリングには、そんなセニエが若い娘だというだけで腹立たしいのだった。ただ一つだけ気になったのは、セニエの腹にある手術跡…。

 セニエの方は屈託なくアレコレと話しかけるが、ランプリングは慇懃無礼にシャットアウト。お互い不干渉でいきましょ…と冷たく告げた。これには友好的に振る舞おうとしたセニエもカチン。せっかくご馳走を一緒に食べようと思ったのに…と反感ムキ出しへ一転した。

 夜になればなったで、そのたびに違う男を引っ張り込んでやりまくるセニエ。そんなセニエの振る舞いを、不愉快と思いつつも覗きたい衝動を隠せないランプリングだ。最初はセニエが引っ張り込む男にはシカト一辺倒だったランプリングも、いつしかそんな男たちに口をきくようになる。またセニエが夜な夜な連れてくる男たちに刺激されてか、ランプリングも行きつけのカフェの青年ジャン=マリー・ラムールが気になりだした。

 そうなると憎まれ口ではあっても、セニエにアレコレ言うようにもなるランプリング。そしてセニエがいない晩には、冷蔵庫のご馳走をコッソリと頂戴する。そんな彼女は、いつしかセニエが気になって仕方なくなった。ランプリングが自分のパソコンのハードディスク上に、「セニエ」名のフォルダをつくったのはその頃の事だ。

 ある日はプールサイドに脱ぎ捨ててあったセニエのパンティを拝借。さらには大胆さを増したランプリングはセニエの不在に部屋に忍び込むと、彼女の荷物をあれこれと探り出すではないか。そして彼女の日記を発見した。それらをむさぼり読むと、一心不乱に何やらパソコンで書き殴るランプリング。彼女は一体何を書いているのか?

 そんなある日、ランプリングはセニエを食事に誘う

 出し抜けの休戦。一体どういう風の吹き回しかは知らないが、ランプリングはセニエに優しく接し、さまざまな質問を投げかけた。そんなランプリングに、セニエもアレコレ答える。ダンスが女ったらしな事、セニエと母親を捨てた事、セニエの母親も小説を書こうとした事…。

 その夜を境に、ランプリングとセニエは交流を深めていった。酒を飲み、マリファナを吸い、おしゃべりに興じる。もっとも大概はランプリングが質問し、セニエが答える役だった。

 そんなある日、ランプリングの不在中にセニエが彼女の部屋に入る。セニエはランプリングの原稿を見つけ、食い入るように読み始めた…。

 そしてある晩、事態は急展開する。夜中にいきなりセニエが男を連れてきたのだ。それだけなら別にどうって事もないが、その男がランプリングも少々ご執心のジャン=マリー・ラムールだったから穏やかではない。セニエは一体何を思ったのか、このラムールを誘惑するんだかランプリングとくっつけようとするんだか、どうにも理解に苦しむ行動をする。だがラムールがランプリングに好意を見せ始めると、セニエとしては愉快ではなかったようだ。ランプリングが寝室に引き揚げた後は、プールで全裸になってグイグイとラムールに迫るセニエ。これにはさすがに面白くないランプリングは、プールに石を投げてフテ寝した。そんなランプリングの気配を察したラムールは、セニエの誘惑を突っぱねるが…。

 さて翌朝、セニエが全裸で眠る部屋をのぞき見たところ、そこにラムールの姿がない事に思わずニンマリのランプリング。

 ところが、ランプリングが笑っていられたのはそこまでだった。

 何とプールサイドに血痕が…しかも靴下も片方だけ見つかった。さらにはもう片方は暖炉の中で、しかも燃えかすとなって見つかったではないか。

 胸騒ぎがしたランプリングが例のカフェへ出向くと、本日は休業。何と朝寝坊したのか、ラムールが今朝はまだ来ないと言う。気になって隣村のラムールの家まで出かけたランプリングだが、家には誰もいなかった…。

 愕然としたランプリングが別荘に戻ってみると、ベッドにセニエが横たわっているではないか。しかも目覚めたセニエは何を勘違いしたのか、いきなりランプリングに抱きついて泣きじゃくる。「ママ、ママ!」

 ラムールの身に…そしてセニエの身に、一体何が起こったのか?

 

見た後での感想

 まずは冒頭の疑問の答え。新作「スイミング・プール」はオゾンの旧作「海をみる」と、共通点の多い作品なのか?

 イエス。

 先に挙げたさまざまな要素は、すべて今回の作品に当てはまる。そして「海をみる」が実に興味深い作品であったごとく、今回の作品もかなり面白い

 まぁ、乱暴な言い方をすれば、今回は海が出ない「海をみる」みたいな映画だ(笑)。暴言であるとは承知の上で言えばね。オゾンの海好きは相当なモノだと思うんだけど、今回は海はなくってプールしか出ない。その言い訳だろうか、セニエが「プールより海だよね」みたいな事をアレコレ並べ立てるのは笑った。あれってオゾンのファンへの目配せなんだろうか?

 ヒロインがどちらかと言うと受け身的、引きこもり気味ってのも共通性がある。それでいて内心では大胆になりたい、肉欲に溺れたい、オイシイ思いがしたいと願ってる。そのへんのスケベ根性まんまんなところも共通だ。そういやこちらはランプリングが冷蔵庫からセニエの食料を頂戴する場面が出てくるが、あのへんのセコさもあまり他の映画ではお目にかからないよね。お目にかからないけど、凡人がいかにもやっていそうな「小市民的」な悪事でもある。見てないからいいや…ってセコ〜い悪事。それを映画で見せられるとついついセコさに笑っちゃうけど、実は自分もそんな事やってるのに気づかされる痛い部分。オゾン映画ってこういうセコさ痛さがあちこちに仕掛けられているんだよね。そこらへんも「海をみる」と同じテイストだ。さらには、ヒロインが待っている男がいつになっても来ないってあたりも似ているよね。

 あとはヒロインにとって得体の知れない闖入者である若い女が、どうも過去に子どもを堕したらしい…という事が示唆されるあたりも、共通点と言えば言えないでもない。これって何かオゾンにとって意味のある設定なんだろうか?

 ただし「海をみる」は心底コワいし危ない映画だと思うけど、「スイミング・プール」にはそこまでの危なさはない。使っている女優もグレードアップし、「まぼろし」「8人の女たち」と作家的にもランクが上がって、ゴージャスになった「今のオゾン」らしい作品になった。いい意味で「娯楽大作」化した…とでも言える部分があるんだよね。

 加えて今回は二人のヒロインのキャラの違いに、ランプリングがイギリス女である事を巧みに利用している。イギリス女の…と言ってもあくまで外野の僕らの想像するものでしかないが…どこかしゃちこばってパサパサとしたネクラ・イメージを使って、新旧二人の女を対照的に味付けしているのがうまい。しかもランプリングというキャスティングが先か、それともヒロインの設定が先かは知らないが、イギリス女でミステリ作家というアイディアは実に絶妙だ。アガサ・クリスティに始まって最近ではルース・レンデルなど、イギリスの女流ミステリ作家には枚挙に暇がないからね。そのへんがミステリ好きのオゾンの趣味とピッタリとマッチ。どこを切ってもオゾンらしい(…と言うほど僕はオゾン作品を熟知している訳ではないが)要素が溢れ返る作品に仕上がったんじゃないだろうか。

 ともかく新旧二人の女が最初対立してとりつくシマのない状況になりながら、徐々に和解していく。その過程で頑なだったランプリングの方は、徐々にその肩を突っ張らせたような力みがとれていく。背伸びしていたセニエも、徐々に素直さを出していく。

 それだけならよくある女二人のドラマで、最後めでたしめでたし…って事になったりするんだろうが、この映画は違う。何しろどこか意地悪でひねくれたフランソワ・オゾンの映画だ。そしてやっぱり予想通り始まるんだよね、奇妙なミステリーが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 この映画のエンディングがどんな意味か…は、僕にもハッキリとは分からない。ただ事件が一段落してシャーロット・ランプリングがロンドンに戻った時に、僕らの前に現れる編集者チャールズ・ダンスの娘は、リュディヴィーヌ・セニエとは似ても似つかないフツーの娘だった…。

 ランプリングは南仏の別荘に赴いた時から、自分の創りだした虚構の中に入って行ったのかも知れない。そこで実際に存在しているダンスの娘の存在と、ランプリングの想像力がつくりだしたのが、あの娘セニエだったのか…。

 そう言われてみれば、この映画には奇妙なリフレインというかシンメトリー効果というか…ランプリングとセニエによる、繰り返しの描写とか対照的な構図が数多く見られる。プールで泳ぐセニエ、プールで泳ぐランプリング。相手の部屋に忍び込むランプリング、相手の部屋に忍び込むセニエ。男を引っ張り込んで誘惑するセニエ、男を引っ張り込んで誘惑するランプリング…。そもそもこれほど類似する描写を繰り返す事自体がリアルではない。様式的で「つくり事」めいている。

 しかもそれらは概ね、ランプリングがしたくても出来ない事をセニエがまずやって、その後をランプリング自身が追随する…という構図をとる。

 そこには、「創作者」というものの秘密が描かれているように思える。

 創作者がつくり出すフィクションというものは、100パーセント作り事としては生まれない。「ビッグ・フィッシュ」のホラ話ではないが、どこか核の部分に事実や真実が隠されている。ウソをつくにもヒントが要る。この映画では、そんな創作の秘密が描かれているように思うのだ。

 映画の最初、ランプリングは不機嫌で、どこかカサカサ乾いているようだ。多少何らかの望みを持っていたような編集者ダンスとの関係も、どうも暗礁に乗り上げているように見える。こんな自分と自分を取り巻く日常を変えたいと思うのは山々だが、それが簡単に出来れば苦労はない。どこか頑なになって殻をつくる自分の性格は百も承知。それでも、何かキッカケさえあれば…。

 そんな彼女が、南仏の別荘行きに飛びついた気持ちはよく分かる。

 だが、それだけでは足りなかった。もっと何か刺激が必要だ。自分が変わらざるを得なくなるような刺激が。

 その起爆剤として登場したのが、おそらくは編集者ダンスの娘セニエだ。

 その娘は「まんま」では起爆剤には足りない。だがその存在をテコにして、自分から刺激をつくり出す事は出来る。こうしてフツーの娘は挑発的なヤバイ娘へと変貌。しかもランプリングに代わって彼女の心の中の願望を実現する存在へと化けた。しかもセニエのおかげで、ランプリングはやろうとも思ってなかった事までやるハメになる。現に物語の終盤では埋めた死体を隠し通すために、管理人のジイサンを誘惑して全裸でベッドに誘う事までしなくてはならなくなった。

 いや…それってセニエのために渋々した事だったのか?

 心のどこかでランプリングはそうしたいと思っていたのではないか。実際にそれを暗示したイメージ・ショットも劇中に出てくる。頑なで柔軟性と大胆さに欠けるランプリング(…そして観客である僕らを含めた大抵の臆病な人々)は、なかなか自分からその願望を臆面もなく実現できない。だが、確固たる理由さえあれば言い訳さえ立てば、内なる願望を実現できるのだ。そのコッケイさと実感が、何とも秀逸ではないか。

 そういうセコさやスケベ根性やら願望やらカッコつけやら自己弁護やら言い訳やら…本音と建て前のギリギリの部分をズバリと見せるのが、フランソワ・オゾンの映画なんだよね。前から何度も題名を挙げている「海をみる」などという作品なんか、まさにそうだ。で、ここでもそんなランプリングのしょうもない願望と気取りとを情け容赦なく見せてくれる。ただし笑ってはいられない。それって僕らの本音でもあるんだからね。

 ただし今回は、そんなオゾンの語り口がちょっといつもと違って見えたんだよね

 いつもはそんな内なるしょうもない恥ずかしい願望と、それを隠したりコソコソ実現したり、そのための言い訳やウソをもっともらしく並べたりって主人公の言動が、実に冷たく遠慮ナシに辛辣に描かれていた。それは当然見ている僕らも同じって調子で描かれてるから、観客もオゾンからノド元に刃を突きつけられているわけだ。それは本当に目からウロコな体験だ。なるほど、かくも自分はセコい事を考え、意地汚く立ち回り、いじましくウソをつく臆病でウソつきな偽善野郎なんだ…と思い知る。

 でも、どうもスッキリしないんだよなぁ。なるほど…と思いながらも、膝を打つような合点がいかない。

 それは、登場人物も観客をも厳しく裁くオゾンが、自分の事はどう思ってるんだ…という事が明確になっていなかったからだろう。

 いや…ズバリ言えば、彼は自分だけはそんなコッケイさや偽善や臆病さから逃れていると思っていたのではないか?

 そう決めつけては気の毒かもしれないが、どうも人物に注ぐ眼差しの酷薄さが気になった。オゾンって自分だけ火の見櫓に上がって、一人で高みの見物をしているようないやらしさがあったんだよね。だから、なるほど…と思いつつ、感銘を受けたり共感するところまではいかなかったんだろうと思う。

 ところが今回はそこに隠し味が加わった。それは先に述べた「創作者」としての視点だ。

 しょうもない本音が暴かれるのはいつもの事。だが今回は、それを「創作者」としての視点が乗り越えていく。まずは創作された娘セニエが挑発し、それに乗ってランプリングが暴走していく。ハメをはずしていく。手かせ足かせをはずしていく。それは一見、以前の作品のヒロインたちの行動パターンと同じように見えながら、実は微妙に違うように思う。いじましく言い訳しながら、もっともらしい理由をつけながら願望を実現していく…という意地悪な見方ではなく、とにかく自分にとって折り合いのつくカタチで望みを満たしていくという前向きな見方になっていると思うのだ。

 これには絶対、オゾンの反省があると思うんだよね。

 それまでは人ごととして冷たく見下していた。自分は違うと突き放していた。だけど本当に自分の心の底を見つめてみたら、そんな人ごと扱いなんて出来る訳があるまい。自分だって同じくらいセコくて汚くてウソつきで偽善だろう。あるところでオゾンは、それを痛いほど思い知ったように思う。そうなったら、それまでみたいに人の事を情け容赦なくブッた斬るような描き方は出来まい。

 まして今回のヒロインは「創作者」だ。

 ヒロインが「創作者」として登場した以上、それはオゾン自身をある程度仮託した存在に違いない。そんなヒロインがどんどんボロボロな自分を見せていく。それはもう、かつてのように冷たく暴く視点ではあり得ない。どこか共感と同情を兼ね備えたもののはずだ。

 だからヒロインの「創作者」としての言い訳=セニエの存在…も、必ずしも偽善や辻褄合わせみたいに冷ややかには見据えられない。むしろそんなカタチでも自分が解放されるならいいではないか…と、前向きに受け取られるのだ。これはある意味で、オゾンが180度方針を転換したとも言えるんだよね。先程から何度も繰り返し引き合いに出している「海をみる」と見比べてみればますます際だつ。設定から展開に至るまで極めて酷似する両作だけに、この違いが鮮明になるのである。

 結局、南仏の別荘での虚実入り乱れての暮らしの果て、ババくさい服を捨てて明るい色の服を着るようになり、男を誘惑して、今まで描かなかったような自分のパーソナルな部分を吐露した作品を書き上げるランプリング。ロンドンに帰ったランプリングはビジネス・パートナーであり愛人でもあった編集者ダンスに対し、驚くほどの大胆さで関係解消を宣言する。そう。それまでは、何かうまくいってない…自分はいいように利用されているだけ…こんな事をしていても意味がない…そう分かっていても、何も出来ずにズルズルなし崩し的になっていた彼女だった

 それをスッパリと思い切れる事が出来るなら、どんな言い訳や辻褄合わせだっていいではないか…。

 僕は、こんなに他人に優しいオゾンを初めて見た気がするんだよね。そして、それはきっと彼自身がすごく痛い思いをしたからじゃないかと思うのだ。

 本当の痛みを知らなければ、他人に優しくはなれないからね。

 

 

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME