「ロスト・イン・トランスレーション」

  Lost in Translation

 (2004/05/31)


  

ロスト・イン・コネクション

 フランシス・コッポラの娘ソフィア・コッポラが映画監督になった…最初そう聞いた時、あなたはどう思っただろうか? 僕の気持ちを正直に書かせてもらえれば…ゲ〜ッ、冗談よしてくれ(笑)ってのが本音だったと思う。そもそもソフィアとの出会いが、あの「ゴッドファーザーPART III」から始まったって事もあるけどね。

 コッポラのやたら身内びいきする体質は慣れっこになってたが、「ゴッドファーザーPART III」でこの娘ソフィアを引っぱり出したのにはマイッタよ。ウィノナ・ライダーに逃げられたからって、いきなりど素人…いきなり身内の自分の娘ってことはないだろう。実はソフィアってこれに先だって、「アウトサイダー」とか「ランブルフィッシュ」でチョイ役経験もしてたらしいが、それにしたってあくまでチョイ役。今回は映画の肝心要になる重要な役どころだ。そこにたまたま監督の娘だってだけで、ど素人の不細工な女がシャシャリ出る。やめて欲しいよねってのが僕の素直な気持ちだった。

 結果は…と言うと、実はそれほど彼女はジャマにはなっていなかった。不細工だったけどね(笑)。映画ファンとしては「ゴッドファーザー」シリーズにウィノナ・ライダーまで加わったら華やかさも増したのに…という残念な気持ちは残る。そのウィノナとソフィアだからねぇ。まだ今みたいにウィノナが壊れちゃう前だったから、可愛い子ちゃんスターと素人不細工女の違いはかなりキツかった。でも本当のところを言えば、この役がウィノナだったらいささかシラけたかもしれないとも思う。さすがにリアリティがなかったかも。ここは不細工なソフィアでかえって良かったのかもしれない…と、意外にも僕は感じたんだよね。

 それでもソフィアが映画界でキャリアを伸ばすのだけは勘弁してくれ…と、僕はマジメに思った。

 ところがこのソフィア、いつの間にかファッション・フォトグラファーとかになっちゃって、いかにも「クリエイティブ」な活躍を始めていたらしい。不細工な女が今度は才能で勝負って事なのだろうか。それにしたって所詮は親父の名前頼みと、正直言ってチャンチャラおかしい気持ちでいたわけ。

 だからソフィアが「ヴァージン・スーサイズ」で映画監督デビューを果たした時は、いいかげんにしろ…という気持ちで一杯。こういう女は七光りや八光りで、ショー・ビジネスやカルチャー・シーンに何かとはびこるんだよなぁ…と、不愉快で仕方なくなったんだよね。今度は才能だの実力だのって言い草で来やがったか。いかにも頭でっかちで口だけは達者な不細工女の言いそうな事だ。おまけにコネはあると来るからタチが悪い。周りもどうせヘイコラしてるんだろうて。それが分からなくて図にのぼせてるバカ女の映画なんぞ誰が見るものか。

 他の女性映画人がなかなかチャンスを得られずに苦労してるのに、30前の若さでホイホイと監督デビュー出来たというあたりも、僕にとってただでさえ不細工で印象の悪いソフィアのイメージをより一層悪くしていた。どうせフォトグラファーとしての名声も監督デビューも、親父がお偉いさんに電話一本かけたとか、親父の知り合いのお偉いさんが作品を見てやったとか、親父のパーティーにお偉いさんが来ていたとか、そんなところがキッカケだろう。世の中ナメ切ってるに決まってるぜ、こんな女は。

 ところがボチボチと劇場にかかりだした「ヴァージン・スーサイズ」の予告編は、意外にも「いい感じ」だったんだよね。

 トッド・ラングレンの懐かしい歌などの使い方もセンス良さそうだし、独特の美意識はあるようだし。な〜んとなく面白そうではないか。やっぱり不細工なだけに才能はあったのか(笑)?

 それで早速劇場に駆けつけて見た実物の映画は…。

 

ロスト・イン・フィルモグラフィー

 シブヤのいかにもなミニシアターで見た、「ヴァージン・スーサイズ」の感想やいかに?

 う〜ん。センスの良さは認める。独自の世界を創り上げているのも認める。楽曲の使い方なども堂に入ったものだ。ただねぇ…何なんだろう、このどこかひ弱なセンの細さというか脆弱さは。

 確かに感覚はいいんだろうね。カッコはいいんだよ。でも、それだけでは映画って何かが足らないっていう事なんだろうか。「ヴァージン・スーサイズ」がどんな映画だったかはすでに忘却の彼方だが、僕の印象は確かそんなもんだった。悪い映画ではない。だけど、騒ぐほどいい映画って程でもないんだよね。少なくとも一部マスコミでカネや太鼓でホメちぎった程ではない。なんかカッコよくキレイに破綻なくまとまってはいるが、僕の心には個人的に響くモノがない。具体的な言い方が出来なくて申し訳ないけど、それが本音だ。

 そういやこの映画でソフィアの「ガーリー」な感覚とやらがヨイショされたのも笑わせた。何だよ「ガーリー」って? あ、ガリ、あ、ガリ…ってシブがき隊の「スシ食いねえ」かよまったく(笑)。我ながら古い引用で気が退けるじゃねえか。とにかくそのへんの狙い目が、いかにもオトモダチに雑誌の編集者とかデザイナーとかフォトグラファーとかデルモとかがいっぱいいて、始終ギョーカイ人集まっての意見交換していそうな感じ。ヤな女だねぇ。おまけに不細工。

 そもそもこの「ヴァージン・スーサイズ」に、ジェームズ・ウッズやらキャスリーン・ターナーやら、ソフィアの格から言ったら到底起用できない大物がチャッカリ出てくるのが噴飯ものだった。やっぱり結局は親父なんだよな。

 考えてみればここまでケナす事もなかったとは思うが、この時点で僕の中では、ソフィア・コッポラって親父のコネでデカイ面する不細工な生意気女というイメージが固定してしまった(笑)。もう次の映画なんて撮るなって感じだった、ここだけの話。

 ところが性懲りもなくまた撮ったんだよね。しかも舞台は日本、東京だ。しかもしかも、今年のアカデミー賞の有力候補にまでなった。無視したくとも無視できない。さすがに才能あるのかも…と今度こそ思わずにはいられない。

 そうは言ってもイヤな予感はまたあった。

 今回の映画が日本を舞台にして、カルチャー・ギャップに悩まされるアメリカ男女を主人公にしたものと聞いて、何となく作品の方向性がチラついてきたんだよね。奇妙な国ニッポンを笑いものにしてからかった上で、ナンセンスな国でシンドイ目に合うアメリカ人を描く。…作品の狙いからすると、大なり小なり日本をからかった内容ではあるだろう。皮肉にシニカルに見つめた作品でもあろう。

 僕は映画でちょっとでも日本がからかわれたりオチョくられたりすると、我慢できずに激怒するほど愛国者ではない。だって正直言って、それじゃ外国映画は見れない。そして批判的に見られるのも、どこかそれが的を射ている部分があるからだろうと思う。それがうまいところを突いて、面白く描かれているならばいい。

 だが、あの生意気無神経傲慢女…かどうかは分からないが(笑)、そういうキャラに思われるソフィア・コッポラには言われたくない。傲慢な奴に傲慢とは言われたくないだろう? 無神経な奴に無神経呼ばわりはされたくないはずだ。そう思ったら、この「ロスト・イン・トランスレーション」ってヤバイ予感でいっぱいだ。得てしてその手の外国映画で描かれる日本って、一方的にバカにされたりケナされていたりする場合が多い。だが、例え今回の映画で日本文化の図星の部分を突かれたとしても、僕は「はい、そうですか」と受け入れる気にはなれない。

 今回この手の映画のありがちな傾向と、ソフィア・コッポラが本来持つ鼻持ちならない傲慢さが結びついちゃったらどうだろう?

 この映画、評判がいいってのもクセモノだ。当のアメリカ人は、イラクでの虐待問題見ても分かる通り、他国の人々へのデリカシーに徹底的に欠けている。日本人はと言えば、自分たちが他国人から批判されるのをこの上なく喜ぶ。この映画の評判の良さは、そんな鼻持ちならなさの証明である可能性があるではないか。

 決して油断できないぞ、いかに評価が高くたって。

 

ロスト・イン・トーキョー・シティ

 ビル・マーレイはハリウッドの映画スター。彼は日本での仕事のため、ここ成田の国際空港へとやって来た。成田空港は名前こそ「新東京国際空港」だが、実際の東京からは遙かに離れた場所。マーレイはクルマで揺られること数時間、ようやく彼が宿泊するホテルのある街…きらびやかな明かり瞬く新宿へとたどり着いた。そこはあたかも、「ブレードランナー」やその他の近未来SF映画に描かれたような超現実的な場所だった。

 たどり着いたホテルは超豪華な建物。そこで彼を迎える日本人スタッフとも顔を合わせる。だが、始めて訪れる街に初めて会う人々。マーレイは何となく落ち着かないものを感じる。ホテルには妻からのメッセージが届いていたが、それはマーレイが息子の誕生日を忘れた事を間接的に責めていた。そんなこんなで憂鬱な気分が助長されたのだろうか。時差ボケも手伝って、マーレイはその夜一睡も出来ない

 その頃同じホテルに、もう一人のアメリカ人が滞在していた。カメラマンの夫ジョバンニ・リビシに同行して来た、まだうら若い妻スカーレット・ヨハンソンだ。だが夫は仕事でずっと飛び回っており、彼女は一人で放って置かれたまま。うつろな気分でボケッとしているしかない。

 ろくに眠れずに翌朝を迎えたマーレイは、異邦人だらけの…実は本当の異邦人は彼の方なのだが…エレベーターの中で例のヨハンソンと目を合わせた。ほんの一瞥だけだが、かすかな笑みを彼女の表情に認めるマーレイ。

 だが日本人スタッフに連れられて出かけた撮影現場は、マーレイにとって決して愉快な場所ではなかった。彼の今回の仕事は、サントリーのウイスキーのCFに出演すること。タキシードに身を包み、満ち足りた表情で腰かけて、カメラに向かってグラスを傾ける。…ただそれだけのはずだ。ところがCFディレクターは何やら口からツバ飛ばして吹きまくる。おまけに通訳はほんのちょっとの事しか訳さない。おまけに演じてみると、ディレクターは頭から湯気を出して怒りまくる。どうも彼の思い通りいってないようだ。だが何がマズイのかが分からない。一体ディレクターは何を言ってるのか? 通訳は何を伝えて何を隠しているのか? そもそもディレクターは何を求めているのか? 分からないまま罵倒を浴びて、マーレイは困惑を隠せない。ただただ、ディレクターがこう言ってるのだけは分かる。「テンションを上げて!」

 一方ヨハンソンも一人で外出するが、何も収穫はない。ただ疎外感が増すばかりだ。

 

ロスト・イン・アドバータイジング・ピープル

 昔何かの映画雑誌で、大林宣彦がCFディレクターだった頃の逸話を読んだ事がある。

 この人は最初に劇場映画「ハウス」を撮った時、CF界のトップ・ディレクターの映画界進出…として騒がれたものだ。今では信じられないような話だが、当時はあくまでCFディレクターとして有名だった。そして当然のごとく、当時流行の海外スターを起用したCFも数多く手がけていた。

 その中に、チャールズ・ブロンソンを起用した男性化粧品「マンダム」のCFもあった。

 今でこそ「マンダム」はこの会社の社名だが、当時の社名は丹頂男性整髪料…だか何だか、とにかくチックとかポマードで知られた古色蒼然とした会社だった。そこが若い人向けに当時なりに「今風」男性化粧品を出して巻き返そうとした、その起爆剤が「マンダム」という商品だった。それが社名にまでなってしまった事だけをとってみても、いかにこの商品が売れたか分かる。もちろんそれは、このブロンソンCFが当たったからに他ならない。だってブロンソンって、当時メチャクチャ人気があったスターだからね。

 これはトランスポーター」感想文でも書いた事だけど、ブロンソンってまずはヨーロッパで人気が出たアメリカ俳優だった。「さらば友よ」「夜の訪問者」「狼の挽歌」「扉の影に誰かいる」「レッドサン」…と、この時代ヒット作が立て続けに続いた。彼が「バラキ」でアメリカ再上陸を果たして、「狼よさらば」というハリウッドでのヒット作を得るのは、もっと先の話だ。

 ともかくブロンソンはこの「マンダム」のCFに出演することになり、そのディレクターは大林宣彦と決まった。その撮影現場でのこと…。

 このCFの事は、僕もよく覚えている。カウボーイ・ハットを被ったブロンソンが、事務所の椅子にで〜んと座って…という映像に、「男の世界」という歌が高らかに流れる。そしてブロンソン自身によるキメ台詞、「う〜ん、マンダム!」

 まずは大林は、ブロンソンにこのように指示を出したらしい。「まずキミは大都会のオフィスに出勤してきた都会の男だ。だがキミの心の中には大西部が広がっていて…」

 するとブロンソンは最初は静かに聞いていたものの、すぐに通訳を介して言い返してきたらしい。「う〜ん、よく分からないなぁ」

 つまりブロンソンの言いたい事はこうだった。彼はこう言われれば出来る。この角度で右に振り向き、何秒後に三歩前に前進し、そこでジャンプしてここに着地しろ…と。それならば、彼は完璧に言った通りに出来る。なぜなら、彼はプロの俳優だから。だが都会人の心の中の大西部が云々…などと言われても、そんなものを演じる事は出来ない。

 なるほど、言われてみれば確かにそうだ…と、大林は大いに恥じ入ったというエピソードだ。

 考えてみれば、僕ら日本人ってのは論理的だったり具体的だったりするのが極端に苦手だ。打ち合わせとか会議をしていても、実際にどうするのか…という話になかなか行き着かない。だからムダに時間を空費する。

 その代わり、何だかやたらに自分の気持ち…とか抽象的な事ばかりしゃべるんだよね。

 僕は「ロスト・イン・トランスレーション」のCF撮影場面を見ていて、この大林のエピソードを思い出した。確かにこれは実際この通りかもしれないよ。

 

ロスト・イン・ストレンジャーズ

 マーレイは仕事から解放されても、困惑した気持ちを立て直せない。ホテルのラウンジで一杯やって気分をほぐそうと思っても、外国人ビジネスマンに捕まってホッとできずに退散するしかない。夜中に届く妻からのファックスも、その話題のズレっぷりから届く時間のズレっぷりまで、さらに一層の距離を感じさせずにはおかない

 その頃ヨハンソンは…と言えば、たまに夫リビシと一緒にいる時でも、彼にやたら馴れ馴れしい女優やら何やらが登場してドッチラケになってしまう。いつも一緒にいない夫が一緒にいる時も…いや、一緒にいる時だからこそ遠く感じてしまう

 マーレイの仕事はさらに続いて、今度は広告のためのスチール撮り。だがカメラマンの片言の英語はともかく、やたら007みたいに…などとピントはずれな指示が飛ぶのは勘弁してもらいたい。おまけにそれもロジャー・ムーアだ。ショーン・コネリーが一番だろう…と言っても、このカメラマンと来たら「ノー、ロジャー・ムーア」の一点張りだ。大丈夫なのか、このカメラマンは。先のCF撮影もそうだったが、このスチール撮りにも何とも言えない疎外感を感じずにはいられない。そうそう、ここでもバカの一つ覚えの合い言葉はこれだ。「テンションを上げて!」

 おまけに日本側スタッフは、何やらテレビ番組のゲストに出てくれと言い出す。冗談じゃない、こっちは早く帰りたいんだ。ところがエージェントはその仕事を受けろ…と言ってくる。何でこんな事になったのか。自分は世間的にそれなりに認められ、それなりの実績も残してきた男のはずだ。

 それが一体、こんな所でこんな連中と何をやっているのだ

 

ロスト・イン・MTV・ビジネス

 僕がこの映画の事を知って、その予告編ムービーをオフィシャル・サイトから見た時、真っ先に思い出したものがある。

 それは、ボブ・ディランのミュージック・ビデオだ。

 あれは今から何年前になるだろうか。たぶん1980年代のことだと思うが、もう定かではない。ともかく世の中はMTV全盛期の頃だと思っていただければ間違いない。

 その昔、ロック・アーティストやポップ・シンガーが、どいつもこいつもディスコ・ミュージックまがいの曲を出した時代があった。ローリング・ストーンズだってオリビア・ニュートン・ジョンだって、ジャクソン・ブラウンだってディスコっぽく変身。だが、そんな中でも一人孤高の道を行く男がいた。

 その名はボブ・ディラン

 ところが、そんなディランでも時代の波には勝てなかったのか、彼もついに世間で大流行のミュージック・ビデオを撮るハメになったんだよね。

 いや、正直言って今回話題にするシロモノが、果たしてディランの初めてのミュージック・ビデオかどうかは僕も分からない。ただ、それくらい彼とビデオって結びつきがたいものだった。だから、僕がある晩MTV番組をボケッと見ていてボブ・ディランのミュージック・ビデオに出くわした時、どれくらい驚いたのか想像してもらいたい。ただ問題は、ディランがビデオを撮ったという事だけではなかった。ただそれだけなら、これも時代だ…と思うだけで納得しただろう。

 実はこのビデオ、全編日本を舞台にしたものだったのだ。

 それも東京。大部分が夜の東京…新宿歌舞伎町やら怪しげな街を舞台に撮影された、何とも奇妙なドラマ仕立てのシロモノだった。ネオンぎらぎらの夜の街を、なぜかディランが彷徨うという設定。意味ありげな謎の女として、日本の女優・倍賞美津子まで出てきた。ナイトクラブやらストリップ劇場も出てきたように思う。ともかく何とも奇妙な出来映えなのだ。そのビデオが、何という題名の曲のビデオなのかはもう思い出せない。たった一回しか見てないからね。

 僕は歌を一聴するだけで意味が分かるほど英語に堪能ではない。それにしたって、ディランの歌が東京の事など一言だって話題にしていないのは明らかだった。何でこうなっちゃったんだろう? 今考えてみれば「キル・ビルVol.1」のハシリとでも言うべき雰囲気が濃厚だったが、見ていて何とも理解に苦しんだよ。

 それと言うのも、これを撮ったのがポール・シュレーダーだったんだよね。

 当時ミュージック・ビデオも氾濫しすぎてか、話題づくりに大物映画監督を引っぱり出すのが流行っていた。マイケル・ジャクソンの「スリラー」をジョン・ランディスが撮って成功したのも刺激になったのだろう。例えばブルース・スプリングスティーンの「ダンシング・イン・ザ・ダーク」…コンサートで歌っていたスプリングスティーンが、最前列の女の客に目をつけて舞台に引っ張り上げて、一緒に踊りまくるというあのビデオはブライアン・デパーマが撮った。同じスプリングスティーンでも「グローリー・デイズ」はジョン・セイルズの作品。他にもライオネル・リッチーの「オール・ナイト・ロング」はボブ・ラファエルソンの作品…とか、これは当時のトレンドだったんだよね。だからボブ・ディランをシュレーダーが撮っても不思議はない。

 そしてディランにとって運の悪い事に、シュレーダーは日本大好きな映画監督だった。

 そもそも弟レナードが、「太陽を盗んだ男」とか「男はつらいよ/寅次郎春の夢」とか「だいじょうぶマイ・フレンド」とか日本映画に関わっていたし、ポール本人も「MISHIMA」などを撮るくらいだったからね。だからディラン側からこの話を持ってこられた時、真っ先に日本で撮りたいと思ったのかもしれない。

 だけどディランと日本…どこに結びつきや必然があるんだろ(笑)?

 ハッキリ言うと、おそらくこの曲のビデオを日本で撮る必然性なんかないのだろう。それなのにシュレーダーの趣味で日本に連れてこられ、それも脚本家としての「タクシー・ドライバー」とか監督作品「ハード・コアの夜」とかでお馴染み、お好みの怪しげな夜の街に引っぱり出されるハメになった。そんなとこ、地元ニューヨークだってあまり行きたくはないだろうに。何が悲しくて異境のトーキョーまで出かけて、汚い裏町巡りをする事になったのか。

 このビデオでのディランは、終始浮かない顔をしていた

 元々芝居っけがある人ではない。おそらくそういう事はキライだろう。唯一役者として映画出演した「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」でも、何だか照れくさそうだったもんねぇ。だが、この時は単に照れくさかったからじゃないと思うよ。

 一体何でこんな知らない国まで来たのか。一体何でこんな事やってるのか。ディランはまったく納得出来てなかったんじゃないだろうかね。歌自体は彼がつくってるのだろうから、なおさらだろう。この歌ってこんな内容とはまったく関係ないのに、何でこうなるの?…ディランはずっとそう思ってたんじゃないか? そしてホントに困っていたと思う。何だかディランはイヤイヤやってたみたいだからね。

 本当は気心の知れたミュージシャンと、気ままにセッションでもやってるのが一番楽しいだろうに。何が悲しくて東京、何が悲しくて汚い裏町、何が悲しくて訳分からない日本語に囲まれ、何が悲しくて周囲は映像ビジネス関係者ばかり。しかも、やりたくもない下手な芝居をやらされて。オレはミュージシャンなんだぞ。…よせばいいのにMTVなんかに関わった事を、ディランは心底悔やんだのではないか

 「ロスト・イン・トランスレーション」の歌舞伎町のネオンとマーレイの浮かない顔を見ていたら、にわかにあの時のディランを思い出したよ。あのビデオ、もう一度ぜひ見てみたくなった。

 

ロスト・イン・オールナイト・パーティー

 そんなマーレイとヨハンソンが、ホテルのラウンジで顔を合わせた。彼らが席を並べて酒を酌み交わすのは、必然だったかもしれない。

 二人ともどこか疎外感を感じていた。二人とも歳は違えど、結婚生活に疑問を感じ始めていた。二人とも、夜眠れなかった。

 だからヨハンソンから外出を誘われた時、マーレイに断る理由などなかった。

 ヨハンソンには、この東京に知人がいた。片言ながら英語をしゃべる日本人たち。彼らに誘われて夜の街へ繰り出し、酒を飲みしゃべってカラオケを歌う。夜通し楽しんだ一夜。終始楽しかった訳でもなければエキサイティングだった訳でもない。我を忘れて騒いだ訳でもない。だが鬱屈したここ数日の中では、珍しくエンジョイ出来た一夜だった。少なくとも、いくらかは見知ったヨハンソンがいるってだけで違う。

 夜通し遊んだその夜の終わりに、ヨハンソンはグッスリ眠ってしまった。そんな彼女を部屋に置いて、マーレイは自分の部屋に静かに戻るのだった…。

 

ロスト・イン・ホテル・ルーム

 僕にはある時期、毎月一回ある地方都市に通う生活を続けていた期間がある。

 最後の頃にはその街の事も熟知するに至ったが、そうなったのもホントに最後の何回か。やっぱり自分の街とは勝手が違って、なかなか自由はきかなかったんだよね。まぁ、自分の街だってそれほど詳しくはないが…。

 その都市では、当然僕は毎回ホテルに宿泊していた

 夜になると、僕はいつも一人ぼっちだった。親しい人間は、夜には必ず帰ってしまった。そんなホテルの夜は、何とも言いようがない寂しさだったんだよね。

 見知らぬ街の慣れ親しみもないホテルの一室で、夜中にたった一人ぼっち。

 あの時の胸に迫る寂しさ…それは、その後しばらくして自分に降りかかる運命の予感だったんだろうか。それに対する不安だったんだろうか。それとも諦めだったのか。

 そういえば一番最初に勤めていた職場を辞めて、友人を頼ってロサンゼルスへ行った時も寂しかった。テレビをつけても英語しか聞こえない。誰も話し相手がいない。外に出てもクルマがないと身動き出来ないし、みんな英語しか話さないから会話にならない。その上で、日本に帰ってからの漠然とした不安もあった。

 仕事で無理やり中国へ行かされた時も寂しかった。絶対事の成り行きがオカシイと分かっていたからなおさらだった。一緒にいる日本人たちは、とても自分の味方とはいえなかった。むしろ中国人といた方が心が安まった。プレッシャーに押しつぶされそうになった僕は、自分の神経をマヒさせて何とかやり過ごそうとしていた。

 そんな…一人っきりのホテルの部屋

 その都度状況は違えど、確かにホテルの部屋ではいつも、僕は疎外感と不安と寂しさを感じていた気がする。

 考えてみると、僕はあの「行ったり来たり生活」をしていた頃に、事情があって東京でもホテルに何泊かした事があるのだ。だがそのホテルにいる間、勝手知ったる東京のど真ん中にいたにも関わらず、僕は終始やりきれないほどの寂しさを感じていた。

 さらにそのホテルの一室で…僕はそれまでで最も決定的な、疎外感と無力感を覚えたんだっけ。あれは苦い苦い思い出だ。僕はとんでもない道化者だった。その時、それが自分で初めて分かった。

 窓からは、眼下に広がる途方もない東京の街が見えていた。自分の街にいるのに、僕はたまらなく孤独だった。「ロスト・イン・トランスレーション」みたいに。

 

ロスト・イン・ホスピタル

 この映画の主な舞台となるホテル「パークハイアット東京」は、東京でも有数の繁華街・新宿にある。そこは喧噪溢れる新宿の中でも珍しく静かな一角だが、一歩JRの駅の方へ移動すればたちまちあの賑やかさに包まれる。

 新宿は僕の家から地下鉄で10分足らずで行ける場所だ。だから僕は、いつもこの新宿エリア中心で映画を見ている。「ロスト・イン・トランスレーション」も新宿で見た。昔、金城武主演の「不夜城」を見た時みたいに、異様なリアリティがあったよね。

 映画には、足をケガしたスカーレット・ヨハンソンが病院に診てもらいに行く場面がある。その病院も、何を隠そう僕にとってはお馴染みの場所だ。それは地下鉄丸の内線に乗って新宿から一駅、西新宿駅から下りてすぐの場所にある総合病院…その名を東京医科大学病院という。

 実はこの病院、僕にとってことにこの5年というものはやたらに縁があった。まずは1999年の冬に、父親が入院して手術した。その父が入院している最中の1999年も年末押し詰まった頃に、なぜか僕が鼓膜を破ってここに通ってる。確かその年末年始は旅行に出る事になってたんで、僕はえらく焦った記憶がある。何せ飛行機に乗らなきゃならなかったので、気圧の関係で鼓膜のキズはマズイんじゃないかと思ったからね。

 その後はちょっとご無沙汰だったけど、昨年2003年後半からは激しい胃痛(その時は胃だと思った)で検査、さらには今年2004年の初めも右足の激痛で検査…と、ここへ来てまたやたらにこの病院に世話になってるんだよね。

 その僕が具合悪くなったタイミングと、その時に常にこの病院に来ていた事を考えると、ますます奇妙な縁を感じずにはいられない。考えてみれば、この5年間の僕をずっと診てきた病院かもしれないんだよね。

 この病院で、僕はどれだけ待合室の椅子に腰掛けて、じ〜っと待ち続けたか分からない。父親の手術の時も待った。その後の自分の診察や治療の時でも、とにかくやたらに待たされた。あの映画のビル・マーレイみたいに座って待っていた。僕の時には、何かと構ってくる変なオバサンはいなかったけどね。

 とにかく待った。この病院は毎日毎日患者が殺到してすごい。だからとにかく待たされる。映画のスカーレット・ヨハンソンみたいに、すぐに診てもらえる訳じゃないんだよ。あれは病院にオベンチャラを使った映画のウソだ。

 とにかく待った。待った。待った。椅子に座ってじっと待ち続けた。その間、自分の人生の事とかいろいろ考えた。考えざるを得なかった。

 最初の父の入院と自分の鼓膜破りはともかく…昨年2003年より次々と僕の身に降りかかった災いは、いずれも原因はしかとは分からなかった。病名は分かっても、その病気になった理由は分からない。この病院とは関係なかったが、顔と首スジに出たジンマシンの理由も分からなかった。

 いや…本当のところ、僕にはその理由はとっくに分かっていた

 医者はいつの場合でも、ストレスだの精神的理由だの…と言っていた。僕もそれしかないだろうと思う。確かにいろいろと苦しめられた気がする。それがために眠れなかったりもしたからね。

 幸いな事に、その理由の一つは永久に僕の前から姿を消した。残る一つも、おそらくは近いうちに解決するだろう。いや、解決しないと困る。

 そんな憂鬱のあれこれを、僕は待ち続けながら考えていた。そんな気分は、あの消毒臭い空気と共に脳裏に時々蘇ってくるよ。

 東京医科大学病院の待合室の椅子…それはこの何年間かの間の僕の苦痛を、おそらく誰よりもよく知っているだろうね。

 

ロスト・イン・ザ・ミドル・オブ・ライフ

 この「ロスト・イン・トランスレーション」という映画、僕にとっては不思議な映画だった。

 確かに奇妙な日本人が描かれてはいたが、それは異邦人から見たらみなそんなモノだろう。僕の目から見たロスやニューヨークのアメリカ人も相当ヘンだった。ストレンジャーというのは、常にそんなものだ。

 笑っちゃうのはビル・マーレイ出演のCFのディレクター。何とも愚劣で品格のない様子が、僕らが頭に思い描く「ギョーカイ」人のそれと一致するあたりが見事だ。たぶんホントにああなんだろう。「テンションを上げて!」ってのがバカの一つ覚えってのも、いかにも日本の「ギョーカイ」くさいバカさ加減だ。こうなった以上、フランシス・コッポラが出演したサントリーのCFのディレクターの名前を公表したら笑えるのに。きっとそいつは今頃冷や汗かいてるんじゃないか。それを思えばさらに痛快だ。奴らはもっと痛い目に合った方がいい。もっとも「ギョーカイ」人など政治家同様、そんな自覚もないアホだろうが。

 それより何より、故郷から遠く離れてホテルという異空間に独りぼっちの人間の…この実感!

 僕はこの映画で、例によって例のごとく親父のおかげで「特権階級」に仲間入り出来たソフィア・コッポラという女の戯言を、またしても延々聞かされるのかと覚悟していたのだ。そんなお仲間連中と一緒にいれば自然と身に付く知識で、聞いた風なイケてるセンスを振り回しているのではないか。テメエ一人ですべてを熟知したかのごとき、傲慢かつ無神経な態度を見せつけられるのではないか。おまけにこういう連中は、自覚がないだけにタチが悪い。そんな自意識と自慢と借り物のセンスをペタペタ貼ったような作品を見せられる…考えただけでウンザリしてくるではないか。しかも、そんなモノを才能と勘違いして持ち上げるバカも必ずいるからイヤになるぜ…。

 ところが、実際の映画にあるものは「実感」だった。

 というか、「実感」だけしかないと言っていい。それ以外のモノはここには見出しにくいのだ。実はこの映画、ドラマらしいドラマはない。事件という事件が起きない。僕がストーリーをあまり書かなかったのも、書かなかったのではなく書けなかったのだ。二人のアメリカ人男女がポツンと東京にいて、寂しい思いを抱きながら知り合って、何となく一緒にいて…というだけ。実はこの二人は結ばれもしない。最後の最後にたった一度だけ口づけを交わす…ただそれだけ。

 でも、それだけだからこそ…それはかけがえのないものとして残る

 だから、これは恋愛映画でもない。彼にとっては彼女が、彼女にとっては彼が、その時一緒にいて欲しい人だった。ただ、それだけのこと…。それってホントにリアルだ。

 で、映画はとにかくひたすらこの主人公たちの寂しい気持ちを追っていく。そんな疎外感や寂寥感って、異境の地、自宅ではなくホテル、見知らぬ人々の中…だからこそ際だって感じるものの、実は僕らの人生に常に付き物だったりもする。ただ、この異境のホテル…という非日常的な場だからこそ、そんな事を改めて感じさせられるんだよね。そこで人は改めて、自分が独りぼっちだということを実感する。家族や恋人や友人がいようと何だろうと、結局は一人なのだ…と。

 「人生の半ばにして、自分は暗い森の中に迷い込んだ事に気づいた…」

 そんな時に、人間は何かに迷い込んだ不安感におののく。結局のところどんな他人も家族でさえも、自分の人生をほんの一時の間だけ通過する人間でしかない。そして気心の知れた人間に囲まれている時でも、本当に自分の気持ちやら置かれた立場やらを心底共有出来る訳ではない。自分の言葉さえ伝わっているかどうか分からない。相手の言っている事も本当のところは理解出来てない。「ロスト・イン・トランスレーション」とは、そんな人間が誰しも持つ「孤独の時」の事を意味しているのではないか。実は、人生には自分一人しかいないのだ。

 だけど…いや、だからこそ…人と人の出会いはかけがえのない貴重なものなのだと思い知る。

 そんな気分を描ききって、この映画の「実感」は尋常ではないよ。ヘンにドラマをつくり込んでないだけ、この映画のリアリティは真に迫っている。

 おそらくこの映画は、ソフィア・コッポラの実体験に即したものだろう。思い返してみれば、一時期フランシス・コッポラは日本に入り浸っていた時期がある。「影武者」の製作に関わったあたりがそれだ。あるいはアベル・ガンスの「ナポレオン」の上映などもあった。そんな時に、ソフィア・コッポラは父親と共に来日していたのかもしれない。だが父親は多忙で自分は一人ぼっち。自分の周りは鼻持ちならないし言葉も通じない日本のアホな「ギョーカイ」人の取り巻き。その時にイヤというほど味わった寂しさを、ソフィア・コッポラはここで再現したのかもしれない。そして、それは人生の真実がもっとも分かりやすいカタチで表出した瞬間だと悟ったのかもしれない。

 ここには、そんな彼女の「本音」の部分がかいま見える。

 だから僕は、この映画がすごく気に入った。ここには無神経で自慢げで自分を大したもんだと思い込んでいるタカビーな七光りアホ女はいない。実際に才能もあるしセンスも良いけれど、凡人とは違ったお高いところにいて、まるっきりシンパシーが沸かないVIPもいない。頭が良くて鋭い感覚の持ち主ではあるけれど、よそよそしくて取り付くシマのないような才人もいない。ただ自分が感じた寂しさと、そこから連想した人生の真実を、確かな「実感」を込めて語りかける一人の女性がいるだけだ

 そして、それが「実感」のこもったものならば、人間すべてにわたって普遍的なものでもあるはずだ。だから僕にも、この映画でソフィア・コッポラの言いたい事はよく分かった。僕はまるでソフィアその人と、あのホテルのラウンジで酒でも飲みながら話をしているような気になったよ。服にハンガーを通したみたいに肩をツッパらかすような事も一切なしで。だって、これは僕も昔からよく知っている気持ちだから。ソフィアも僕とまったく同じ事を感じていたって事なんだから。

 自分は孤独だ、四方八方何も見えず真っ暗だ…だから、そんな時には誰かにいて欲しい…。

 それはウソも隠しも気どりもない、人間本来の気持ちなんだよね。

 

 

 

 

 

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