「コールドマウンテン」

  Cold Mountain

 (2004/05/17)


  

今回のマクラ

 僕はメッセージ性の強い映画は好きではない。アレコレとゴチャゴチャ説教されているみたいだからね。

 だからいわゆる「反戦映画」ってのも好きではないのだ。

 世間でいうこの手のメッセージ映画って、結局何だかんだ言って面白くない。作ってる奴だけがいい気分になっているように思える。確かにいい事は言っているのかもしれない。だけど「いい事を言っている」というのと、「いい映画になっている」という事は別なんだよね

 リッパなメッセージを持つ映画をそれだけで無理にホメているのって、やっぱりオカシイ。つまらないんだったら、メッセージが正しかろうとどうだろうと関係ない。逆に言うと、面白ければ映画としてはアリなのだ。これを言ってはいろいろ問題があるが、レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」だってD. W. グリフィスの「国民の創世」だって、そこで語られている内容はホメられたものではない。だが映画としては優れていると言わざるを得ないのだ。

 大体メッセージ性が高いだけの映画を見て喜んでいる奴って、すでにそのメッセージに賛同しているような奴だろう。そんな奴を喜ばせて何の意味がある。僕はまったくその意味が分からないんだよね。

 映画という大衆的なメディアを使ってメッセージを発信するなら、むしろその相手は無関心な奴か、あるいはメッセージに反対の人間であるべきだろう。そういう冷たい反応しか持っていない連中を説得してこそ、メッセージを映画に込める意味もある。だから賛同者やシンパだけが喜んでいる映画って、僕はハッキリ言ってクズだと思っているんだよね。それはただのマスターベーションだ。

 どうせメッセージ映画をつくるなら、マスターベーションにならないモノをつくって欲しい。プロフェショナルなら、それをやるべきだろう。

 

見る前の予想

 この作品の事を知ったのは、今年のアカデミー賞レースを占おうとした時だろうか。ジュード・ロウが主演男優賞に、レニー・ゼルウィガーが助演女優賞に、それぞれこの作品を対象として名を連ねていたのだ。お話はどうやら南北戦争真っ直中の物語らしい。しかもしかも、出演作すべてが大当たりで話題になってしまう、いまやノリに乗ってるニコール・キッドマンも出演しているというではないか。さらに監督はアンソニー・ミンゲラ…って誰だっけ(笑)? 何だかエライ監督さんって気がする。そうだそうだ。「イングリッシュ・ペイシェント」の監督さんではないか。その後つくったリプリーはよく覚えているし、好きな映画だ。ならばこれもそれなりな映画なんだとは思うよ。

 

見る前の本音

 確かにこれだけのメンバーが集まってアカデミー賞にノミネートもされれば、それなりな映画ではあるんだろう。だけど…これってすごくいい映画、面白い映画だって気がするだろうか?

 しないよね(笑)。

 今さらオスカー候補を出しているくらいの事で、映画の優劣を判断するほどウブな映画ファンじゃない。そもそもオスカー受賞作が必ずしもいい映画、面白い映画ではない事は歴史が証明している。みんな「普通の人々」とか「ガンジー」とかって今でも覚えてる?

 そもそもこれっていかにもの「文芸大作」の佇まいを見せているが、そういう映画って凄く良かったためしは少ないとは思わないか? デートムービーや「とりあえず見ておかなくては」という映画にはなっても、あなたの「とっておきの一本」にはならないだろう。だから映画好きには絶対に「見ろ」と言わないけれど、さほど映画が好きでもない知人に「オススメは?」と聞かれたら無難にそのタイトルを告げる…大概がそんな映画だろう。

 いい映画っぽい作品ながら、全然胸に届かない映画って可能性が高いんじゃないか? なになに? たった一度キスした相手のために、命を賭けて戦場から故郷へ帰っていく男の話だって?

 こりゃどう考えても絵空事にしかなりそうもない。ソコソコ「よろしいんじゃないですか」と言うくらいが関の山の映画だろうて。僕はハッキリ言って完璧にそう思っちゃったんだよね。

 

あらすじ

 1864年の夏、南北戦争も末期のヴァージニア州ピーターズバーグ。ジリ貧の南軍は北軍の軍勢に包囲されながら、野営地に足止めをくらっていた。

 その野営地には、故郷を去ること3年…戦いに疲れたジュード・ロウがいた。

 彼は故郷に残してきた女性がいた。今もこうしてその女の写真を肌身離さず持っている。その写真だけが心の支えだからだ。

 だが、そんな南軍兵士たちが知らない事が、今この地で進行していた。北軍が地面にトンネルを掘り、南軍野営地のすぐ下まで行き着いていたのだ。北軍はそのトンネルに膨大な量の火薬を運び込み、ここでの戦いに一気に決着を着けようとしていた…。

 そうとは知らぬ南軍兵士は、今朝は北軍も開店休業か…などと軽口を叩く。だがその頃北軍兵士たちは、すべて地面に伏せて身構えていたのだ。

 導火線に火が付けられる。火はどんどんトンネルを進んでいって…。

 ドッカ〜〜〜〜ン!

 大爆発と共に地面が盛り上がる。ものすごい爆風で南軍兵士は吹き飛ばされ、辺り一面死体の山が築かれた。阿鼻叫喚の渦。そんな中、北軍兵士が進軍して来るではないか!

 膨大な死傷者を出しつつ混乱から立ち直れない南軍兵士たちに、追い打ちをかけるような北軍の攻勢…と思いきや、爆発で出来た巨大な穴に突っ込んだ北軍の軍勢は、そこから出られず立ち往生。しかも後方から味方軍勢が押し寄せてくるため、ギューヅメ状態の穴の中は大混乱となった。

 これには南軍兵士も舌なめずり。穴でうごめく北軍兵士たちに向けて弾丸の雨あられ、大砲の砲弾さえ向けられるアリサマだ。中には何とか穴から登ってくる北軍兵士もいて、そんなうちの一人が少年兵ルーカス・ブラックを穴へと引きずり込む。

 それを見たジュード・ロウは、自ら穴に身を躍らせた。少年兵ブラックは彼と同郷とあって、今までも何かと面倒を見ていたのだ。だがそんなロウの奮闘空しく、少年兵ブラックは腹を刺されてしまう。

 それはどう見ても致命傷だ。戦いが一段落して野営地に横たえられた少年兵ブラックは、静かにロウにこう告げて息絶える。「一足先に故郷のコールドマウンテンに帰るよ…」

 懐かしいコールドマウンテン。そこがジュード・ロウの故郷だった。そしてそこで彼は、写真の女性ニコール・キッドマンと知り合った。彼女は今も、故郷コールドマウンテンで待っているはずだ。

 キッドマンは父親のドナルド・サザーランド牧師と共に、山奥の村コールドマウンテンへとやって来た。それを見かけたロウは、一目で彼女に惹かれてしまう。それはキッドマンとて同じ事だった。言葉はつれないお互いだったが、目と目は口以上に語っている

 急速に心が通い合っていく二人だったが、そんな折りもおり…戦争の嵐が二人を引き裂こうとしていた。ロウも南軍兵士として、南北戦争に出征することになっていたのだ。キッドマンもサザーランドもこの戦争気分には閉口していたが、ロウはじめ普通の村の住民たちにとっては当たり前の事。みんな喜んで出征する事になっていた。

 そんな中、ロウは家の古い楽譜を渡すのを口実にキッドマンに自分の写真を渡し、キッドマンも出征当日のロウに自分の写真を届けに来た。

 そして…長い長いキス

 こうしてロウは、故郷に思いを残しながら戦争へと出かけて行った。キッドマンの言葉を噛みしめながら。「お帰りをお待ちしています…」

 だが、それから3年。戦いから戻れるアテはない。戻れるとしたら、少年兵ブラックのように命を落とすしかない。

 そんなある夜、ロウは森に籠もった北軍兵士の寝込みを襲うという任務に就き、仲間を助けようとして首筋を撃たれた。

 高熱を発し、野戦病院で生死の境を彷徨うロウ。そんな彼に、故郷から届いた一通の手紙があった。病院で働く女性が彼に手紙を読んでやるが、意識朦朧のロウの耳には果たして手紙の内容が届いているのかどうか。

 それは案の定、キッドマンからの手紙だった。それも、かなり前に書かれた手紙だ。

 ロウたちの出征後、村はイヤなムードに包まれていた。男たちは戦いに出たまま帰って来ない。次々と届く戦死の知らせ。さらに故郷にはびこる義勇軍たちの横暴。元々は付近の地主で、それらを失ってからは世をすねたひねくれ者となっていたレイ・ウィンストンらが義勇軍を組織し、銃後の村を守ると称して幅を利かせていたのだ。

 しかも追い打ちをかけて不幸がキッドマンを襲う。父親サザーランドが突然この世を去ったのだ。心の支えを失ったキッドマン。そして彼女は生活の基盤も失った。屋敷も農園も荒れ果てた。近所のキャシー・ベイカーとジェームズ・ギャモン夫婦は、そんな彼女に同情して食料を分け与えたりするが、そんなものでは追いつかない。

 ロウ宛の手紙は、そんなキッドマンの本音で締めくくられていた。「お願いです。戦いはやめて。これ以上進軍するのはやめにして。今すぐ戻って来てください!

 その時、意識を失っていたはずのロウの目が、カッと見開いた!

 それから何とかキズを癒して体力を回復したロウは、黙って病室を抜け出した。キッドマンの頼みに応じて故郷に戻るために。

 脱走は銃殺刑…と承知の上で…。

 

見た後での感想

 実はお話はここからが本題だ。何と中盤からニコール・キッドマンを助ける田舎娘の役どころ、レニー・ゼルウィガーさえまだ出てきてない。だけど映画の訴えたい事は、もうすでにここですべて出ているんだよね。

 何でもかんでも時事的なこと、政治的なことに絡めて映画を見たいとは思わないが、この映画を見ていると昨今のアメリカの混沌を思わずにはいられない。もちろん、9・11以降のそれ、イラク侵攻以降のそれ…だ。この映画の原作がベストセラーで、それだから映画化されただけかもしれない。製作のタイミングがたまたま合ってしまったのかもしれない。だが、それにしたってこのタイミングでこの内容の映画を公開するのは、かなり勇気が要ったんじゃないだろうか。

 だって全編に渡って厭戦気分がベットリ濃厚に漂っているからね。

 まずは冒頭の南軍野営地の大爆破。その作戦自体も残虐この上なしだが、作戦成功とばかりに喜び勇んで突っ込んでいった北軍が、その穴にハマりこんで南軍に袋叩きに合うという悲惨な展開となる。相手の息の根を止めるためにやった事で、自分たちもボコボコにされる。このあたりの「人を呪わば穴二つ」とでも言いたくなる状況など、戦争の無益さを何より分かりやすく理屈ヌキで現してないだろうか

 この映画の特徴を分かりやすく説明するために、別の角度からこの映画を見てみたいと思う。それは、主人公たちを中心にした人間ドラマとしての側面だ。

 正直言って、たった一度のキスだけで別れ別れになった二人が主人公、お互いへの思いだけで極限状況を生き抜くという設定、しかもそれを演じるのがジュード・ロウ、ニコール・キッドマンという絵に描いたような美男美女カップルとくれば…。確かにロウもキッドマンもいい役者だ。だけどヨリによって二人揃っての美形という事になれば、どう考えても今日びのリアリズム中心の映画界ではシラジラしいだけの作品になってしまうのではないか? ラストなんてジュード・ロウがいかにもお約束的に命を落とし、キッドマンにはそのたった一回の契りで子どもが出来る…ってな、あんまりと言えばあんまりな展開になっちゃうからね。筋書きだけ見れば、典型的ハリウッド製のメロドラマ(…と言っても、僕は決してそれをキライではないのだが、あくまで作り物めいたシロモノの例えとして)になってしまうと誰でも思うのではないか?

 この映画に対しては、僕にはそんな懸念がずっとあったんだよね。

 …でハッキリ言うと、この主人公たちに共感できる人、彼らの気持ちを実感できる人って、おそらくこの世にはいないと思うんだよね(笑)。おそらくは感情移入出来ない人物像だと思う。

 まずは先に挙げたような浮き世離れした設定だけでアウトなのに、それを演じる二人が二人だからねぇ。

 そういやジュード・ロウとアンソニー・ミンゲラ監督というと、まずは前作「リプリー」が頭に浮かぶ。だけど誰しも胸に暗いコンプレックスを抱くマット・デイモンに共感を寄せても、テッカテカに輝いているジュード・ロウにシンパシーを抱ける奴はまずいないだろう。アレが自分だって思える奴はそうそういないよ(笑)。彼ってそんな役者なんだよね。

 それはニコール・キッドマンについても同じ事。「ムーラン・ルージュ」から彼女はいよいよ本領発揮してきたと言えるけど、あのヒロインって自分と同じって思う女なんているのか(笑)? いないよね。いたとしたら、僕はそんな女とつき合いたくない(笑)。

 彼らはそんな、共感や実感とは縁のないところで役を演じる事の出来るスターなのだ。

 美男美女ってのは、昔のハリウッドだったら重宝された。おとぎ話の世界だったからね。だけどアメリカン・ニューシネマの洗礼を経たアメリカ映画は、もうそこまでシラジラしくはなれない。だから個性派役者が台頭してきた訳だし、典型的美男美女俳優がなかなか出て来れなかったわけだ。イマドキのハリウッドで最もパワフルなキンキラ・スターですら、背が低くてちっともカッコよくないトム・クルーズってのは、そんな訳なんだよね。

 ところがロウとキッドマンは、イマドキの映画界で希有な、美男美女でありながら地位を確立しているスターなのだ。このあたりの事については、後でもうちょっと詳しく語る。

 さて今回、美男美女が理屈ヌキに出来るジュード・ロウとニコール・キッドマンが、堂々とキャスティングされた意味って何だろう。

 実はこの映画、主人公二人の別離と再会をストーリーの主軸としてはいるけど、その中味ってのは意外にカラッポだ。何しろ二人の馴れ初めと惹かれ合う過程、そして決定的な心の交歓は回想シーンでアッという間に描かれてしまう。その代わり、映画は戦争の悲惨さと空疎さ、それが人心にもたらす荒廃をジックリ見せていく。映画の尺数のうち大半がそこに注がれているので、二人の心の交流に割く時間があまりに少ないのだ。

 で、ここがミンゲラ監督の本音だと見た。

 彼はこの映画で、二人の「愛の奇跡」など見せようとは思っていない。それはドラマを展開していく口実に過ぎない。主人公を男女カップルにしてあるのは、戦争を戦場と銃後の両面から見せたいからだ。

 一応は話の前提としてロマンスがあるから、主人公カップルの男は戦争から戻って来ようとする。男が故郷に戻る過程は、そのまま戦争という名の地獄巡りになっている。そこではドサクサに紛れて肉欲に耽る者が現れ、ドサクサに紛れて困った者から金を巻き上げる者が現れ、ドサクサに紛れて人を裏切ってトクをしようとする者が現れ、ドサクサに紛れてそんな者たちも自らの思惑とは別に簡単に命を奪われ…主人公の男すら手を汚さずにはいられない。人の心も体も社会も荒廃している。その貧寒とした状況を、男が故郷に戻る過程でこれでもかこれでもかと見せていく。

 ハッキリ言って、これくらい意図がハッキリした反戦映画ってのも珍しいんじゃないか?

 病気の赤ん坊をかかえた未亡人ナタリー・ポートマンの家に、北軍兵士が押しかけてくるあたりがその典型だ。食欲と性欲を満たすために未亡人を脅す兵士たち。彼らは赤ん坊を寒風にさらしても平気だ。だがジュード・ロウの活躍で攻守逆転。唯一赤ん坊を心配していた若者兵士だけは、ロウによって命を奪われずに済む。だが憤った未亡人は、そんな最も善良だった兵士をも撃ち殺さずにいられない。理不尽だ。だが戦争という状況は、そんな怨みと殺しの連鎖をどんどんつくってしまう。死ななくてもいい人間が死んでしまい、殺さなくてもいい人間が殺しに手を染める。

 あるいは銃後の故郷で乱暴狼藉の限りを尽くす義勇軍の面々もしかり。平時なら勢いづくはずもない、むしろ鼻つまみな連中が、「愛国的」「軍国的」なエクスキューズの中で大いばりで悪行を遂行できる。

 そんなこんな…腐敗臭が漂う状況こそが「戦争」なのだ。

 この映画は、最近のハリウッド映画としては異例なほどに、そんな「戦争悪」を直接的にえぐり出している。それしか描いていないと言っていい。

 普通こういう映画だと、そんなメッセージ臭や政治臭がどこか鼻につく。つくっている側の良心的な姿勢とやらも偽善に思える。だから「良いこと」を言っていてもイヤミになってしまうものだ。

 あるいはメッセージを言いたいがための物語や登場人物…とミエミエになってしまって、どれもコレもがシラジラしくウソっぱちに見える。

 だがこの「コールドマウンテン」は、そうした偽善性から奇跡的に免れているように思える。それはなぜだろう。

 それが先に挙げた、美男美女スター=ロウとキッドマン主演…の効用ではないだろうか?

 まず、理由は全部で3つあると思う。その1つは、美男美女スターによる「問答無用」性だ。美男美女が主役である以上、彼らが恋に落ちるのは大衆娯楽映画としての「お約束」だ。美男美女によって演じられる主人公カップルの思いは、常人よりも強いに「決まってる」。たとえ不在の時が長くとも、二人の絆が切れる事など「あり得ない」。彼らは常人ではない。銀幕上で結ばれる事が運命づけられた美男美女のスターなのだから。多少息せき切って語られるこの映画のストーリーの、観客を段取りを持って説明する時間の乏しさを埋めて余りあるほど、彼らの「問答無用」性は絶対だ。この映画を見ているうち、ニコール・キッドマンがジュード・ロウを待たずに別の男に抱かれる事を心配した者などいるだろうか? この映画はそんな愛憎とか人間模様とか、そんなところに余計な時間を割くことが出来ない映画なのだ。だから二人の「問答無用」ぶりがどうしても必要だった。

 だが、それでは「反戦映画」(この言葉は大キライだが、ミンゲラ監督よろしく時間短縮のためにあえて使わせていただく)としてのリアリティを損なうのではないか?…という問いに対しては、だからこそのこの二人=ロウとキッドマンの起用だとあえて言いたい。これが理由の2つめだ。ただの美男美女スターでは恋愛気分の醸成のための説明不足や描写不足を補う事は出来ても、このシビアーな作品の中で説得力を持ち得ることは出来まい。だがロウとキッドマンなら可能だ。それはなぜか?

 美男美女俳優は今も昔もいる。だがそれで現在成功している人となると、実はかなり厳しいと言わざるを得ない。それはすでに前述した通りだ。どこかに外見的に欠点があるのがイマドキのスター。その中で、異様なほどテッカテカに美形で輝いていてスターとして成功しているロウとキッドマンは、実は現代のスターでも異例の存在と言っていい。

 おそらくは彼らにはリアリズムなど跳ね返してしまうほどの「何か」があるのだ。彼ら自身が、別の意味での独自の強靱で異質なリアリティを持っていると言うべきかもしれない。それは、市井の人には無縁のリアリティだ。逆に普通のリアリズムの中に無理に当てはめようとすると、彼らの個性が死んでしまう。

 ジュード・ロウが「A.I.」でセックス・ロボットを説得力満点で演じきった事、ニコール・キッドマンが「めぐりあう時間たち」で実在人物ヴァージニア・ウルフを演じる時に、ほとんど仮面のようなメイクで素顔を覆い隠さねばならなかった事を考えれば、何となく納得がいくのではないか?

 ジュード・ロウの「イグジステンズ」での役を考えてみよう。「スターリングラード」では平凡な兵士を演じていたではないか…とおっしゃる向きには、その平凡な兵士は隠そうとしても隠しきれないカリスマ性を持っていた事を思い起こしてみよう。あるいはキッドマンの「アザーズ」での役どころや、抽象性を押し進めるだけ押し進めた「ドッグヴィル」という作品のスタイルを思い出して欲しい。彼らがリアルな日常的人間を演じる事は、むしろ極めてマレだ。

 そしてこの映画では、観客に戦争のあらゆる局面を丸ごと見せたい…戦場と銃後に渡って広範囲に見せたいがために、主人公カップルは引き離されつつもお互いへの思いを放棄せず、なおかつ男の方は実際には不可能に近い過酷な旅をやり遂げる。恋に落ちるくだりやお互いを思うあたりの表現なら、単にパッと見で主役然とした美男美女スターでも出来るだろう。だが戦争というシビアな現実に説得力を持たせつつ、そのカップルの感情の状態を維持し続けるのは困難極まる。そして実現不可能に近い過酷な旅を、もっともらしく見せていくのもキツい。実はこれ、あまりに不自然な設定だ。それまで設定や展開に無理に無理を重ねているだけに、普通のリアリズムで描けば到底うまくは描けない。ウソっぽくシラジラしくなる。

 だが市井の凡人とは異なるロウとキッドマンの独自のリアリティさえあれば、これは可能なのだ。

 さらに追加すれば理由の3つめとして、美男美女の大スター主演のロマンス大作という、大量観客動員のためのエサと大衆映画としての外見が欲しかった。彼らが演じて見せてくれるなら、それだけで映画ファンの欲求はある程度満たされるはずだ。

 今回の映画でミンゲラ監督が描きたかったのは、おそらく「戦争」の愚かさ、残酷さ、悲惨さ、空疎さ…以外何もなかったのではないか? だが、それを真っ向から描いたのなら、おそらくは見るに耐えぬシロモノになりかねないだろう。見ていてウンザリするものになりかねないだろう。そもそも客なんか来る訳がないだろう。

 だがジュード・ロウとニコール・キッドマンという当代一の美男美女スターがロマンスを演じれば、それなりのボリュームと説得力はおのずから出てくる。画面にいるだけで出てくる。必要最小限度の描写で最大限の効果が期待できる。二人の関係はこの映画が戦争地獄巡りになるための原動力にもなるから、必然性がないという事にもならない。なるほど、この二人は映画にとって必要な存在だったのだ

 なおかつここでのロウとキッドマンは、戦争という異常事態を僕らに見せてくれる「観察眼」の役割も果たしている。狂言回しでもあり観客の「目」でもある。だとしたら、この二人のキャラが必要以上の個性や主体性や存在感で「主張」してはマズイではないか。そういう意味で、出てくるだけで後は何も要らない…それ以上何もする必要のないロウとキッドマンが必要だったと言える。

 さらに二人が戦争という地獄の中で殉教者めいて見えてくるあたりも、ある意味では狙いだったかもしれない。特に、ロウのヒゲづらにキリストを連想させるのはたやすいだろう。先にも述べたように、映画の最後にジュード・ロウが死んでしまうという設定は、見ている側としてそこに持っていくしかないだろう…と早々に底が割れてしまうような身も蓋もない結末だ。ハッキリ言ってひねりもうま味もない展開と言っていい。だがそれが殉教者的イメージをつくろうとしている結果なら、なるほどその結末はあり得る。ならば演じるのが常人ではないジュード・ロウなのも肯ける。誰が何と言おうと、キリストは常人ではあるまい。

 これは中盤に登場してくるレニー・ゼルウィガーと彼らを比較してみれば、さらによく分かる。役どころから言っても、ゼルウィガーはそこまでのカリスマは持ち合わせていない。もっと地に足の着いた個性の持ち主だ。だからまるで光り輝く宇宙人みたいなロウとキッドマンを横に持ってくると、むしろ彼女の真っ当な女優ぶりが際だつ。今回のオスカー受賞は故のない事ではない。おそらくは、これもロウとキッドマンの共演効果に他ならないと思うんだよね。

 それにしてもキッドマンの安定性はともかく、ジュード・ロウは今回の役でトクをしたね。ここまでキラキラの彼の個性を、ハリウッドは持て余していたところがあったみたいだし。「ロード・トゥ・パーディション」なんか見てたら、ロウってこのまま芝居がうまい若手クセモノ俳優として、まるでゲイリー・オールドマンみたいになっちゃうんじゃないかと心配したもんね。そんなちっちゃいところに収まっちゃつまらない。そこをうまく使ってみせたあたり、さすが「リプリー」で彼のキラキラぶりを十二分に発揮したミンゲラ監督らしいよね。

 考えてみるとこうした厭戦気分って、ミンゲラ監督は「イングリッシュ・ペイシェント」の時から描いていたような気がする。もうあの作品は忘却の彼方に行っちゃってるんで、ハッキリ断言できないけどね。

 ただしあの映画がどこかボンヤリしているのは、余計なリアリズム本位の人間ドラマがゴチャゴチャあるからとも言える。それはミンゲラ監督も痛感してるんじゃないか。そして彼にとって、事態はあの時より切迫していると感じられたんじゃないだろうか。他の寄り道なんかしてるヒマがない。だからこその、今回は直球ストレートみたいな戦争批判ぶりじゃないかと思えるんだよね。

 むろん巧者ミンゲラは、生硬な反戦映画なんかつくらない。声高にメッセージなんか連呼しない。それらしきセリフは、ゼルウィガーが放つ一言だけだ。「戦争なんて男たちが勝手に雨を降らせておいて、後から雨だ!って騒いでるだけよ」

 美男美女を狂言回しと地獄巡りの原動力に配して、あとはヒロインと故郷の豊かな自然の圧倒的美しさで、有無を言わせず「帰りたい」気分を醸成させてしまう。そして、次から次へと戦争が生んだ腐敗を積み重ねて見せていく。考えてみれば、この映画は堂々と脱走兵さえ正当化しているのだ。ハリウッドの一級娯楽大作にして、この過激ぶりには驚かされるではないか。

 と思ってエンド・クレジットを見ていたら、この映画ってイギリス・ルーマニア・イタリアの合作だった(今回はアメリカにかつての風景が失われた事から、ほぼ全編に渡ってルーマニア・ロケが行われたらしい)。なるほど純正アメリカ映画ではなかったんだね。この映画の戦争への批判のキッパリとした言い切り具合は、そのへんから来ているのかもしれない。

 そうは言っても、この映画にはアメリカ・ミラマックスの資本だって流れてる。ジュード・ロウはイギリス、キッドマンはオーストラリア出身ではあるけれど、いまやハリウッドの俳優と言っていい。これは実質上アメリカ映画には違いないんだよね。

 そしてそれが受け入れられ賞賛されているあたりに、ある程度は今のアメリカの気分が出ているように思える。それは僕らが受けていた印象より、多分に健全なものだと思うよ。

 ひょっとすると、それは今の日本よりもずっと健全なものかもしれない。

 

見た後の付け足し

 この映画では戦場の矢面に立たずに乱暴狼藉を働く義勇軍の連中の存在が、すごくクローズアップされていたよね。これはとても象徴的な事だと思う。前線で殺し合ったり破壊したりする以上に、戦争の悪しき部分は我々の日常の中にこそある…という例えだからね。実はその「芽」は、すでに我々の中に芽生えていたりもするから怖いのだ。

 戦争=有事というドサクサの中で「愛国的」とか「軍国的」とかってエクスキューズだけで、何でも正当化されてしまう。そんな中で、どう見てもゴロツキみたいな奴が本来持っちゃいけない権力を持ってしまったりする。そしてやりたい放題の無法を働く。ハッキリ言わせてもらうけど、あの「反日分子」なんて言ってた政治家も同じ事をきっとやるよ。って言うか、ああいう発言自体がもうすでに「それ」だよね。

 どう考えても理不尽な戦争ならば、荷担する価値はない。時には離脱もやむなし。ドサクサに紛れて悪行を正当化させる輩は、真に卑劣な人間だ。…この映画ではハッキリとそう描いている。この映画を見る日本の映画ファンだって、事の是非はともかく見ている間はそう思うはずだ。

 それがスクリーンを一歩離れると、なぜか自分の事としては考えられない。一体どうしてそうなるの? そこにこそ、今の僕らの問題点があると思うんだよね。

 

 

 

 

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