「永遠の語らい」

  Um Filme Falado (A Talking Picture)

 (2004/05/10)


  

見る前の予想

 マノエル・ド・オリヴェイラ…この監督の映画は、僕にとって要注意だ。

 僕はこの監督の映画を、何度も切符を買って見に行っている。だが見た映画は一本もない。正確に言おう。どれもこれも、始まってアッと言う間に眠ってしまう。だから内容を覚えていない。まったく覚えていないのだ。

 元来、僕は映画なら何でも見たいクチだ。最初は僕はハリウッドの派手な大作だけ見たいのか…と思っていたが、大学の頃に怖いモノ見たさ(笑)で岩波ホールに通い始めてからは、意外に何でも見れるし、見たら面白いという事を発見したものだ。だからその当時は、映画は分け隔てなく見れるし、偏見はない…と思っていた。実際にはそうじゃないし、そんな事なんてあり得ない。よくそういう言葉を聞くが、それって何かの誤解だろうと今では思っているけどね。

 ともかく知らない国の映画だから…とか、アート系の映画だから…と言って抵抗を感じる事はないとは思っていた。

 だけど、そんな僕にもハッキリと例外があった。それがこのオリヴェイラとロシアのアレクサンドル・ソクーロフの映画だ。

 キライだとかつまらないとか…そういう感情はない。というより、見ていないから分からないのだ。見始めてもホンの数分で眠ってしまう。ソクーロフなど、NHKのテレビで作品を放送するというから見ていたら、そのままグッスリ眠ってしまった。あれって催眠術か何かなのだろうか?

 オリヴェイラもご同様で、何回も劇場には足を運んでいるのに、一回として見れたためしがないのだ。

 まずはオリヴェイラ日本初紹介の「アブラハム渓谷」。日本初紹介…ってだけで見たくなったし、ヒロインを演じる女優(レオノール・シルヴェイラ)が、アメリカのカレン・アレン(「レイダース/失われたアーク」など)を上品で知的にした雰囲気なのも気に入った。これって面白いかも…と期待して見に行ったんだよね。

 そして…内容はまったく覚えていない

 その次に公開の「階段通りの人々」も試したけど、やっぱり眠った。カトリーヌ・ドヌーブとジョン・マルコヴィッチという大スター共演だから目が覚めるはず…と挑戦した「メフィストの誘い」も、気づいたらラスト・シーンだった。マルチェロ・マストロヤンニの遺作だとの触れ込みの「世界の始まりへの旅」は…と言えば、老いたマストロヤンニの姿をおぼろげながら覚えているものの、お話となるとまったく記憶にない。…という訳で、ことごとく惨敗。ここから、もうオリヴェイラの映画は見るだけムダ…と、まったく足を運ばなくなった。

 そんな2004年春、またまたオリヴェイラの新作がやって来る。

 すると…僕は迷いに迷いながらも、この新作がなぜか気になって仕方がなかったんだね

 それまでは、いくら高齢(95歳!)の立派な監督の映画だろうと、世界中で絶賛されようと、眠っちゃうんだから仕方ないと切り捨てていた。それなのに、今回の新作だけは見捨てられない。

 劇場で見た予告編のせいなのだろうか。なぜだかは説明できない。ともかく、何か胸騒ぎがする。この胸騒ぎや予感ってのが映画ファンには大事なんだよね。今までコレで、どれだけ見るはずのない映画を見て、どれだけ拾いモノをしたか分からない。

 完全に諦めていたオリヴェイラ作品が、これだけ気になっているんだ。これはきっと、「見ろ」という神のお告げに違いない。僕は覚悟を決めて、劇場へと足を運んだわけ。

 

あらすじ

 今まさにポルトガルの港から、豪華客船が出航しようとしている。多くの人々に見送られながら港を出ていく船には、美しいレオノール・シルヴェイラとその幼い娘フィリパ・ド・アルメイダの母娘が乗っていた。シルヴェイラの夫はパイロットで、二人はインドのボンベイで彼と落ち合う事になっていた。わざわざ船を使って地中海を渡っていくのは、その途中でさまざまな国々を見て歩きたいから。歴史学の教授でもあるシルヴェイラは、これを機会に本でしか見た事のない歴史の舞台を実際に見たいと思っていたのだ。そしてまだ船がポルトガルから離れる前に、早速まだ幼い娘を相手にシルヴェイラの歴史の講義が始まる。

 船はまずフランスの港町マルセイユへ停泊。母娘は船に縛られている可哀想な子犬に気づいた事から、屋台で魚を売っているオッサンと親しげに言葉を交わす。オッサンは港に往来する巨大タンカーが気に入らないようだが、インテリのシルヴェイラはこんなオッサンにも言わずもがなの言葉を言わずにはいられない。「でも、現代社会には必要なモノよ」

 そんなマルセイユで、一人のゴージャスな女が乗客に加わった。どうも金持ちか有名人らしい。

 お次の寄港地はイタリアはナポリ。ここの卵城を見て、またしてもシルヴェイラはウンチクを並べ始めた。この城の中には、セイレーンの卵が隠してある。それがあるうちはナポリも安泰だ…。やがて母娘は、有名なベスビオ山とかつての都ポンペイを見に行く事になる。

 ポンペイはベスビオ山の大噴火でアッという間に埋もれて、そのまま滅亡してしまった都だ。今では廃墟だが、そこには往事の繁栄の後も残されている。「どうして埋まったの?」「みだらな人々が住んでいたから、神様の罰が下ったの」「みだらってどんな事?」「悪い事って意味よ」「神様がみんなを殺したの?」「天罰だと言う人もいるわ。ともかく火山が爆発して、みんなが死んだのよ」「火山って?」…とお話はどこまでも止まらない。次々聞いてくる娘のアルメイダの疑問は子どもなら当然だが、それに瞬時にすべて答えるシルヴェイラはスゴイと言えばスゴイ。まるで言葉でテニスのマッチプレイをやっているようだ。ただし、よくよく聞いてみると時には投げやりな答えも混じっているから聞き逃せない(笑)。

 さてナポリでは、またしても一人の女のVIPが乗ってきた。

 船は行く行く。お次の停泊地はギリシャのアテネだ。かの有名なアクロポリスの丘の遺跡群を堪能。例によって母シルヴェイラが娘アルメイダ相手にウンチク垂れ流していると、なぜかギリシャ正教会の神父が近づいてきてアレコレと教えてくる。ただしそのやりとりはフランス語だから娘のアルメイダは飽き飽きしているはずだが、神父はまるっきり気にしない。ともかくそこでも語られるのは、どこが侵略しただの掠奪しただのって話。固有名詞が変わっても、内容はどこも大して変わりはしない

 アテネでは、またまた一人の女のセレブが乗り込んできた。

 さて次に船が停泊したのは、トルコのイスタンブール。今は巨大な博物館となっている建物は、当初はキリスト教の教会として建築され、その後イスラム教徒の征服によりモスクへと生まれ変わった。その相違は建物のあちらこちらに痕跡を残しているのだが、娘のアルメイダにとっては教会はどれも教会…としか思えない。

 さらにエジプトのカイロへ。もちろんエジプトと来ればピラミッドとスフィンクスだ。「これぞ文明」と持ち上げる母シルヴェイラに、娘アルメイダは「文明って何?」と鋭い問いをぶつける。これには分かったようで分からない答えを返した母シルヴェイラだが、娘アルメイダは奴隷をコキ使ってこんなモノを作った事が、そんなに素晴らしい事には思えない。そうなると、そこは大人の世界。そこはそれ、人類の歴史は理屈でないアレコレがあるの…などと、母シルヴェイラの答えも小泉首相の答弁よろしくめっきり怪しくなってきた

 途中、ポルトガルでは有名な俳優であるルイース・ミゲル・マントラが親しげに近づいて来て、母娘をいろいろ案内すると言う。男が連れていったのは、スエズ運河とそれが開通した時に出来たホテルだ。これまた大勢の人々がコキ使われて出来た運河…。

 その夜、船のレストランで食事をしていたシルヴェイラ=アルメイダ母娘は、同じレストランの一角に目を留めずにはいられなかった。レストランの他の客たちも同様だったろう。そこは船長のテーブル。船長ジョン・マルコヴィッチを囲んで、三人の女が席を並べている。その三人の女は、それぞれ途中の寄港地で乗船してきた有名人ばかり。マルセイユで乗船したフランス人女性実業界カトリーヌ・ドヌーブ、ナポリで乗船したイタリア人の元モデル=ステファニア・サンドレッリ、アテネで乗船したギリシャの歌手兼女優イレーネ・パパスという華やかな面々だ。これらの豪華なメンツが、それぞれの母国語で人生やら愛やら仕事やらを語り尽くす様は壮観と言えば壮観。ただし市井の人々からすれば、それなりに豊かな人生を手に入れた人々だから語れるいい気な話と思えなくもない。彼女たちにいちいち賛同して賞賛の声を惜しまない船長マルコヴィッチも、どこまで本音なのか分からない。ともかくその場の4人はそれなりにご機嫌だったのは言うまでもない。

 ところが船長マルコヴィッチは、今度はシルヴェイラ=アルメイダ母娘に目を付けた。そして二人を自分のテーブルに列席するように誘いかけるから驚くではないか。だが色よい返事をしないシルヴェイラ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて次の寄港地はアデンだ。ここで買い物に出かけるシルヴェイラ=アルメイダ母娘だが、実はマルコヴィッチ船長も秘かに買い物に出かけていた。

 その夜、再び自らのテーブルにドヌーブ、サンドレッリ、パパスの三大セレブを並べるマルコヴィッチ船長。今夜はさらに公約通りに、無理無理シルヴェイラ=アルメイダ母娘を引っ張って来た。それと言うのも、お子さんにお土産を買って来た…と言われちゃ無下には断れまい。船長が渡してくれたお土産は、アラブ娘の人形だった。これにはたちまちアルメイダも夢中だ。

 セレブ席は、シルヴェイラ=アルメイダ母娘を交えてさらに盛り上がる。文明論やら女の人生論やらさまざま。果ては歌手のパパスが一曲歌うというオマケ付き。

 うまいんだかヘタなんだか、いい曲なんだかつまらないんだか分からない歌をパパスが歌い終わる頃、船員たちからの報告を受けたマルコヴィッチ船長は、真っ青になってその場の人々に告げた。「時限爆弾が見つかった。装置を解除出来ない。合図があったら、みんな下船するように!」

 

見た後での感想

 まず、これは言いたい。今までちゃんと見ることが出来なかったオリヴェイラ作品だが、今回はついに完走出来た。当たり前の事だと言わないでいただきたい。これは僕には画期的な事なのだ。

 実はこの日、前の晩に寝不足だった事もあって、正直言って映画を見るまで眠かった。今日は止めた方がいいかなぁ…とは思ったものの、あえて強行して見に行ったんだよね。それというのも…もし眠るなら、それは体調云々関係ないと思ったからだ。例え睡眠タップリとっていたとしても、眠くなったら寝るだろう。逆に睡眠不足でも、眠くならなければ大丈夫なはずだ。この考え方は、今回に限っては正解だった

 全く眠くならない。ちゃんとお話も覚えている。それなりに退屈しないで見た。

 まずは船でどんどん旅をして、次から次へと舞台が変わるというのが退屈しない原因だったのだろうか? 確かにそれは言える。しかも行き先はどこも世界的な名所だ。僕も少しぐらいなら行きたいと思わないでもない場所が出てきて、そこにヒロインであるシルヴェイラのウンチクが重なってくる。本来ならこういうウンチクも「うるせえなぁ」としか思えないだろうが、今回はまるで観光ガイドみたいな役割を果たしているんだよね。風光明媚な場所を、ガイド付きで次々見せてくれる「観光映画」だ。

 それでも分かったようで分からないウンチク垂れ流されれば退屈するもの。おまけにこっちは世界史に詳しい訳でもない。ところがそこに娘が出てくるのがミソだ。見ている僕らがいちいち疑問を覚えるたびに、それを見計らったように「なんで?」と質問する。そうそう、それをオレも聞きたかった…と、その都度思うからね。それってこちらの知識が幼い娘並みって事なんだろうけどね(笑)。ともかく、だから飽きない。

 このあたりも、何となくNHK教育テレビあたりでやりそうな、社会科の教育番組もどきな感じだ。

 で、これって何かに似ているんだよね。一体何だっけ?

 もっと言うと、この母娘は行く場所行く場所でいろいろな人々と親しげに言葉を交わす。だけど、これが何だか不自然だ。マルセイユの屋台の魚屋のオヤジを思い出して欲しい。船に繋がれていた犬も奇妙だったが、この母娘はいきなりオヤジと親しげに語り合い、プライベートな事まで根掘り葉堀り聞き出す。おまけに港のタンカーに文句タラタラのオヤジに、「文明には必要なモノ」なんて説教までする。普通、初対面の人間がこんな事を言うか(笑)?

 アテネの神殿の前ではギリシャ正教会の神父が、ピラミッド付近ではポルトガルのプチ有名人の俳優が、船上ではマルコヴィッチ船長が、それぞれ親しげに話しかけて来て「ご一緒に」と誘う。アレって普通はどう考えても、男たちはシルヴェイラに下心アリアリってはずなんだけど、どうも映画はそうは描いていないようだ。男たちは単にヒロインに親切なだけみたい。下心を感じたのは僕のゲスの勘ぐりだろうか? アートな映画を見る時には、そういう下卑た考えは捨てないとダメか。でも、やっぱり何だか不自然だよな(笑)。あれなら、「娘は置いといて、ちょっとホテルで休んでいかないか?」と言って来る方がリアルだ。もしそうでなければ、あいつらはみんな挙動不審だよね。

 そして子どもなら何でも「なんで?」「なんで?」と聞いてくるのは分かるけど、あんなに世界史や文明やらにどん欲に興味を示すだろうか? 何となくわざとらしい。僕がシルヴェイラのウンチクに疑問を感じるたびに、ナイス・タイミングで娘アルメイダの質問が飛ぶってあたりがわざとらしいではないか(笑)。しかも子どもをそうそうは演出出来かねたのか、好奇心を持って質問しているはずの娘アルメイダが、質問の途中でソッポ向いたり下を見たり、退屈しているのがアリアリ(笑)。あの子きっと撮影中はつまんなかっただろうなぁ(笑)。

 で、退屈しないしそれなりに楽しめたとは言え、それってあくまで「教育番組」的に楽しめたんだよね。だというなら、あまりマトモな劇映画とは言えないんじゃないか(笑)。

 出てくる登場人物の言動もどこかわざとらしくて不自然ってあたりも、ますます教育番組っぽいではないか。わざとらしく登場人物が知り合ったり話しかけたり、やけに下心や欲得もなく親切だったりして…。それって子どもに分かりやすく…と考えてか、何となくわざとらしいクサい趣向を盛り込む教育番組めいているとは言えないか?

 これってやっぱり何かに似ているよね。一体何だっけ? え〜と…あれだ!

 晩年の黒澤映画、「夢」とか「八月の狂詩曲<ラプソディー>」とか「まあだだよ」のタッチに似てやしないか?

 このあたりの黒澤映画って、画面には力がこもっていて非凡なモノを感じるんだけど、なぜかお話にはついていけなかった。「夢」は最初のキツネの嫁入りとか雛祭りなどは物凄い絵を見せてくれて圧倒されるのに、途中から環境破壊やらを告発し始めるといけない。「八月〜」は田舎の夏休みの気分の出し方やら、ガキどもがおばあちゃんのメシに文句をつけるあたりは見事なのに、原爆について子どもたちが考え出すととたんに幼稚っぽくなる。街の中で原爆にちなんだ石碑を探すくだりなんて、悪いけど辟易してしまった。「まあだだよ」は、善意の先生と善意の教え子の、善意しか出てこない話だから言わずもがなだ。

 それらって人々の言動がいちいちわざとらしい。説教臭いし不自然だ。それって作り手に「啓蒙」してやろうって気があるからなんだろうね。年寄りって説教臭くなるのはそのせいだ。回りが自分より遙か年下ばかりになれば、それは「言ってやらねば」という気にもなる。自分以外の人間が自分より教養がないはず…と決めてかかっていたら、それが口調に出るのは当たり前の事なのだ。まして年柄年中ヨイショばかりされればなおさら。

 で、「言ってやらねば」と思ってつくる劇映画って、その「啓蒙してやろう」という意図において、子供向けの教育番組にどうしても似てくる。観客を自分と同程度の人間として見ない、自分より幼くて至らない劣った者と見なしながらつくる映画は、残念ながらガキ向け教育番組と同じレベルになってしまうのだろう。

 この映画も、結局は地中海名所巡りを通じての、西欧文明に関するウンチク話である事は間違いない。そこで行われた愚行やら文明の興亡を語っているのは、まさに人類のここまでの愚かさを言いたいのだろう。観客を「啓蒙する」気は十分とみた。

 それに加え、もっと別の意味での「老い」という問題はあるかもしれない。

 黒澤映画で言えば、実は往年のアブラの乗りきった作品群は、複数の脚本家チームによって練り上げられたものだった。それは「乱」まで続いたが、なぜか「夢」以降の晩年の三作品は、黒澤一人が自分で脚本を書いて演出されている。これは象徴的な事ではないだろうか。

 黒澤映画の脚本の凄さは、複数の脚本家が知恵を絞り抜いて、脚本の甘さを徹底的に排除する作り方だ。それでも甘さが残ってしまう事はあるが、とにかくこれは根気のいる作業には違いない。時として黒澤自身の考えが排除される可能性だってあるんだからね。

 ところが晩年の三作品は、「赤ひげ」以降の不遇な寡作家時代とは違って、制作スピードがえらく上がった。それは黒澤自身に「もう時間が残っていない」という焦りみたいなものがあったからではないか。確かに80代の高齢ともなれば、そう思うのも無理はないと思う。そうなったら、脚本家チームを集めて練りに練るなんて忍耐力のいる作業はやってられないかもしれない。結果、脚本はどこか一人よがりで独善的なものにもなるかもしれない。

 そして、「時間がない」…という思いは、映画のタッチに思わぬ影響を与えかねないのだ。

 映画の脚本や物語というものは、誰でも知っている通りウソで作り話だ。語りたい話、出したい人物、持っていきたい結論へと導くために、どこかで現実にはあり得ないウソをつく。だから本来は穴がある。どこかに無理があるものだ。あって当然なのだ。

 ところで前衛的な演劇ならいざ知らず、普通の劇映画の場合はその語り口の基本をリアリズムに置かねばならない。これは映画の持つ「記録性」という性質から、どうしてもそうなってしまうのだ。だから不自然に見せないための工夫がいる。脚本家や演出家はいつも苦心惨憺努力奮闘して、何とか脚本や人物や物語のウソ、不自然な部分を丸め込み、自然にリアルに見せる工夫をしている。映画とはそういうものだ。

 だが功なり名を遂げた著名で高齢な映画人の場合だったら、どうだろうか?

 ここから先は、異議のある人も少なくないだろう。だから一つの問題提起として読んでいただきたい。

 高名で評価が定まった大家…ならばその個性にも作家としてのスタイルにもファンがついているし、それなりに認められている。それさえ堪能させてくれればいいという向きもいるだろう。だから、多少の事はワガママもきく。客のレベルにわざわざ降りていかずに、客がオレについてこいの映画づくりも出来るかもしれない

 そんな大作家が語りたい事を持っていて、もう自分の残り時間が少ないと思ったら、回りくどい人物造型とか物語設定をするだろうか。リアリズムを追求するだろうか。それは一般観客がついていけるように、何とか劇映画としてのアリバイを持たせるためにする工夫だろう。そんな事をする必要がないし、しない事が認められているなら、面倒くさい手間など省こうとは思わないか?

 そうなると、設定や人物はわざとらしくもなるし、多少不自然でも目をつぶって物語やテーマに奉仕させるだろう。そして作家が語りたかった結論へと一心不乱に迫っていくだろう。それが作家のシンパやファン以外に受け入れられるかどうかは甚だ疑問ではあるが…。晩年の黒澤明に起きた事って、失礼ながらこういう事だったんじゃなかったかと思うんだよね。

 そして、それは95歳のオリヴェイラにも言えないか?

 この映画のどこか不自然でわざとらしい点…それは「様式的」と高級な言い方に変えてもいい。それらってのは、もう余計な事に手間をかけたくないし、それをやらなくても認めてもらえる…という老いた大家だけが許される境地ではないか。ハッキリ言って、僕はそれを全然素晴らしいとは思わないんだけどねぇ。だが映画雑誌や劇場パンフレットに溢れ返る「95歳とは思えない」「驚くほど若々しい」っていう評価は、ハッキリ言ってあまりにミエミエなオベンチャラにしか見えない。それはいくら何でもウソだろう(笑)。これはどう見たっておじいちゃんの作品だよ。

 今回の映画が退屈しなかった理由の一つには、やっぱりマルコヴィッチ、ドヌーブ、サンドレッリ、パパス…と並んだ壮観な国際スターの共演があるだろう。確かにそこは壮観だ。だけど…こんな事を言ったらお怒りを買うかもしれないしバカにされるかもしれないが、実はちょっと笑いそうになった。なぜならマルコヴィッチは英語、ドヌーブはフランス語、サンドレッリはイタリア語、パパスはギリシャ語…というように、それぞれが自分の母国語をしゃべって話が通じている設定なんだよね。たぶんこれって欧州の新体制とか、そう言った事の象徴なんだろうね。だけど僕らがそれを見たら、本来だったら笑っちゃうはずだ。

 大家のオリヴェイラ監督の映画だからマジメな顔して見なきゃと思ってか、東京の映画館ではみんな黙って見ていたよ。だけど、本当だったらアレっておかしいだろう。スピルバーグのドタバタ大作コメディ「1941」を思い出して欲しい。イ号潜水艦艦長の三船敏郎とオブザーバーのドイツ将校クリストファー・リーが、それぞれ日本語とドイツ語でしゃべり合って通じているおかしさ。あれはちゃんとギャグとして成立していたよね。だったら何でこれはギャグじゃないんだ(笑)?

 おそらくはこれって、非常に抽象性の高い物語…一種の寓話なり例え話なりのカタチをとった映画なのだろう。僕だって、映画は何でもリアリズムでなければならない…とは思わない。「グリーン・デスティニー」でミシェル・ヨーが空を飛んでも笑う場面じゃないと分かってる。「キル・ビルVol.1」でユマ・サーマンが悪漢を斬るたび血の噴水が飛んでも、別段驚きはしない。それは「そういう映画」だという段取り、前約束がちゃんと作り手と観客の間で出来ているからだ。その段取りのための手間を、作り手は決して惜しんではいない。

 ところが…悪いけどオリヴェイラは、それをちゃんとやっていないと思うんだよね。ここからが難しいところで、それらを観客の方から読みとって、理解しようとしなければいけないという映画というのもある。で、これはそういう映画なんだろうとも思う。

 それは僕も察したから、だから笑いそうにはなっても実際には笑わなかった。でも、笑う人がいても僕は責めないよ。そして笑った人をとがめるような批評家や映画ファンがいたら、そっちこそを非難したい。この映画は、大衆のためのメディアである映画として、やるべき事をやり切っているとは言えない。寓話や例え話だという約束事やムードの醸成を、きちんとやり尽くしてはいない。そういう事をいちいちやらない映画もあるだろうが、ともかくはこの映画にはそういう一面がある。

 こういう映画も「アリ」だという事は百も承知ながら、あまりにオリヴェイラ大絶賛、素晴らしい、完璧、これを分からない奴はバカだ…とまで鐘や太鼓でモテはやすと言うならば、僕はあえて苦言を呈したい。そこまでいい映画なのか?…って。

 …ってな事をずっとアレコレ言ってきたのは、ほとんど最終ロールを残すあたりまで映画を見ての印象だ。まぁ、そのあたりまで見れば、大抵の映画ってのは底が割れる。

 ま、退屈はしなかったし、いいんじゃないですか。

 そんなような事を思いながら、僕はスクリーンと向き合っていた。映画はおそらくもう終盤だ。ともかくオリヴェイラ映画を最後まで見れて良かったわい…と、すっかりタカをくくっていたその時…。

 僕のそれまでの考えを覆すような…「それ」が起こった!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対映画の後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 実は僕がシラジラした理由は、例のテーブル囲んでのセレブたちの会話にもあった。

 知性と教養ほとばしらせながらの大人の会話。それらの貫禄やら押し出しはさすがに天晴れとは思ったが、言ってる内容ってのはどうしたもんかなぁ…。宣伝チラシとかを見たらこの会話が圧巻とか書いてあったし、おそらくはみんな肯定的に見てるんだろう。だけどねぇ…何だかもっともらしくご立派には見えるが、結局は空疎なバカ話って気がしないかい?

 何だか高尚な話題をこねくり回せても、それって有名で金があって自由がきくからだろう。下々の人間にこんな事を言ってる余裕はあるまい。文明や国家に思いを馳せて、「今の我々みたいにみんなが独自の言葉で意志を通じさせられればいい」…なんて言い出すに及んでは、イヤミでしかないとは思わないか。そもそも船のレストランで他のお客もいる中で、船長のテーブルだけでいい気になってる「選民意識」がイヤらしい。バカ言ってるんじゃねえよって気になっちゃってさ。

 こう言っては物議を醸すかもしれないが、女たちがフェミ意識をチラつかせて、男が世の中動かしているからダメなんだ…みたいな事を言い出すに及んでは…また始まったという気持ちしかなかった。僕はご存じの通り男性中心主義の男だ。とてもフェミニストとは言えない。だからそう言うのかと思われてしまうだろうが…ここでセリフに出てきたように、女が男に取って変わったところで世の中が平和になるとはこれっぽっちも思ってない。もしそんな事を本気で思っているのなら、それこそ傲慢ってものだろう。思い上がった男たちとどこが違うのだ。傲慢な人間に平和はもたらせやしない。それは男女を問わないと思うよ。

 それを…ジョン・マルコヴィッチの船長と来たら、「素晴らしい!」「僕も賛成です!」とか、聞いてて歯が浮きまくるオベンチャラの嵐。あのねぇ、女はこの手の「進歩的」な男には気を付けないといけないんだよ。インテリ男が「女には敵いません」とか「女の方がエライ」とか言ってるってのは、結局は女のことを心底バカにしてるんだからね。あれはホメ殺しなの。全部大ウソよ。女のいない所では思いっきりバカにしてるのがこのタイプなんだよ。本当の女の敵は、自分たちをいい気分にさせてくれる男なの。男が言うんだから、これは間違いないからね。ゆめゆめ敵を見間違えないように。

 …というわけで、「西欧文明に思いを馳せながら、錚々たる人々が悠久の時を越えた会話を展開する」このくだりが、僕には噴飯モノにしか思えなかった。だ〜めだこりゃって感じだったんだよね。

 そしたら、「それ」が起こったのだ!

 いきなり時限爆弾が仕掛けられているという話…。てんやわんやの末、シルヴェイラ母娘は娘がアラブ娘の人形を船室に忘れた事から避難ボートに乗り遅れてしまう。それを知ったマルコヴィッチ船長はボートを引き返させようとするが、すでに時すでに遅し。

 そして、最悪の事態が起こってしまう…。

 これには驚いたよ。何しろ展開が急で予想外だ。誰がこんな事になると想像する? 突然の「らしくない」展開に、こっちも本気でビックリした。アート系の作品でポルトガルの巨匠オリヴェイラの新作に、「時限爆弾」とか「テロリスト」とか「パニック」とかが出てくるとは誰も思わないだろう。これはスティーブン・セガールの映画じゃないんだからね。そして、現金にも僕はパッと映画にのめり込んでしまった(笑)。

 エンディングでは、船の爆発場面が「タイタニック」ばりのCGで出てくる訳ではない。マルコヴィッチの表情のアップでストップモーションし、そこに大音響をかぶせて想像させるだけだ。だが、その衝撃度はスペクタクル映像を見せられるよりもデカい。凍り付くような戦慄。唖然呆然。それは、まるで僕らがテロに遭遇してしまったかのようでもある。ハッと息を呑んでしまう。

 そして…この一瞬で、文字通りそれまでのすべてが吹っ飛んでしまうのだ

 それまで僕らは、西欧が築き上げて来た歴史や文明…その栄光と空しさをも駆け足で見てきた。それも、もっともらしくもどこかよそよそしい母親のウンチクと、娘の素朴かつストレートな疑問がダブルでオマケ付きだ。

 さらに船長テーブルでの富も地位も名誉も築き上げた連中の、言ってる事は正しいのかもしれないが、まるで聞いている人の心には届かないような、頭の中でコチョコチョこねくり回しているような屁理屈大会。これらの人々がそれぞれの語学力を誇示するかのように駆使して、これぞ西欧社会のあるべき姿だとブチまくって自画自賛の結論めいたものまで導いていたその時…。

 良きも悪しきも、古きも新しきも、複雑も素朴も、歴史も現在も、天下国家も個人的感情も…何もかも、一切合切を爆弾が覆してしまうのだ。

 頭ん中、真っ白。

 ホントに頭の中は真っ白になっちゃうよ。それくらい、このエンディングは破壊力がある。それまでの人類の歴史がなんだらとか文明がどうしたとか、そんな事は何が何だったのか覚えていられないくらいショッキングだ。

 で、テロってそんなものではないか…と、オリヴェイラは分かってる。

 良いこともある悪いこともある…ともかく西欧が長い間築き上げて、今も築きつつあるそんな諸々の文明ってものを、テロは一気にチャラにしかねない。この映画は最後の問答無用の一撃で、それを有無を言わさず観客に説得してしまうのだ。しかも、それというのは西欧が調子こいてバカ話を偉そうにしている間に仕込まれていた。その遠因は…いや、主原因は西欧にあった。そこまでが透けて見える。

 例えば母娘を破滅させる原因になったのがアラブ娘の人形であったこと、それを買い与えたのはアメリカ人の船長であること…などに、それぞれ暗喩が込められている可能性はある。船長のテーブルでのアレコレが、EUの象徴であると言うのは可能だ。だが、そんなこんなもラストの映像の暴力とでも言うべき一撃の前にはどうでもよくなる。そのくらい、ノドがカラカラに乾いてしまうくらいショックだよ。とんでもないものを見た気になる。

 それでいいのだ。とんでもない事になるんだよ…と伝われば。

 僕はここまでオリヴェイラの映画づくりを、やれ教育番組みたいだとか説教臭いとか、年寄りだから何かと億劫になったとか、言いたい放題言って来たよね。で、それって本来ならば、理由のない言い分ではないと思っている。実際そう見えるし、オリヴェイラ自身にもそういう傾向は、何らかのカタチで起きてきていると思う。

 だが、この衝撃のエンディングを見ると…それらをオリヴェイラは先刻承知のように思えるんだよね

 まず、すごいCGやホンモノの客船爆破とか…そんな事をしなくてもあのエンディングは衝撃的だというのがスゴイ。ハッキリ言って、これが「映画」なんだよね。100パーセント、どこを切っても映画。ユマ・サーマンが「死亡遊戯」トラックスーツを着て、ルーシー・リューと日本刀でやり合うのと同じくらい「映画」だ。映画ファンだったらコーフンせずにはいられないだろう。

 そしてさらにスゴイのは、ここまでの「何を寝言言ってるんだよ」とか「不自然じゃないの」とか「ウンチクうるさすぎ」とか…そういった諸々の事が、すべて折り込み済みだったらしいという事なんだよね。そうした観客にとって「アレレ?」と違和感を持つアレコレは、すべてこのエンディングのために了解済みの事だった。それって、またこの映画を引き合いに出すのもどうかと思うが、タランティーノが「キル・ビル」であんな盛大なハチャメチャをやった事と同じく「確信犯」の仕業だったのだ。それはシリアスなテーマを効果的に語るために必要だった。

 逆に言えば、だから映画に出てくる会話が寝言だとか、人物設定や展開がわざとらしいとか…そういう違和感を感じるのは正しい。そんな教育番組みたいにわざとらしくてチャチ、一部のセレブが偉そうにバカ話を話してタカビーとゴーマン丸出し…だけどそれなりに価値も歴史もあった西欧が、最後一気にドカンと爆破されてしまう…これってそういう映画なのだから。

 おまけにそれまでの描写がトホホだから、僕ら(少なくとも僕)はすっかり油断してしまう。まさか最後にこんな事になるとは思っちゃない。そもそもオリヴェイラの映画なんかで「ダイ・ハード」や「沈黙の戦艦」みたいな事が起きるとは誰も思わない。その隙を突いて来るから、僕らの受ける衝撃もデカいのだ。すっかり死んだフリしてお客を油断させた上で、チャッカリぴんぴんしてやがったんだよね。

 つまり…全部「わざと…」だったんだ(汗)。

 もちろん、これはオリヴェイラという映画作家にとって、一発しかきかない「瞬間芸」だ。

 それでも、自分という映画作家がどう思われているか分かっていなければ、決して出来ない「瞬間芸」だ。自分のような映画作家が、どんな風に映画をつくりがちだと冷静に分かっていなければ、決して選択しない「瞬間芸」だ。つまりは、すべてはオリヴェイラの手の内にあった。

 ったく…。どこまでもイヤなジジイだよ。

 この結論部分を除いて、今回の感想文は全面的に撤回だ。してやられたよ。最後の最後にうっちゃりだ。まるっきり予想もしてなかった。ホントにホントにムカつくぜ、オリヴェイラってジイサンには。

 今までこの人の映画が、どうして眠かったのか分からない。でも、ともかく…今回一本だけで、一筋縄ではいかないタチの悪いクソジジイって事だけは分かったよね。

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME