「列車に乗った男」

  L'Homme du Train (The Man on the Train)

 (2004/05/10)


  

見る前の予想

 パトリス・ルコント…と来れば、これまた僕の大好きな監督だ。

 どこかお高く止まってるミニシアター、Bunkamuraル・シネマの常連ではあるけれど、僕はこの人の映画は結構気に入っている。何より理屈っぽいフランス映画の監督にして、回りくどい分からなさが少ない。映画の面白さを常に感じさせてくれる監督さんだ。全部の作品を見ている訳ではないが、この人の映画が日本で本格的に紹介されるようになってからは、大体ほとんどの映画は見ている気がする。

 しかもこの人、娯楽エンターテインメント映画から超シリアス映画まで、笑えるコメディから切ない悲劇まで、振り子のように行ったり来たりするのも何となく好みだ。次は何をやってくれるのかなと楽しみになる。

 ただし前作「歓楽通り」は、何となく泣き言めいたグジグジしたものを感じて、見る気にならなかったんだよね。僕は狭い台所でゴキブリ追い回しているような、発展性のないお話は苦手なのだ(笑)。

 ところが今度はちょっと違う。ルコント映画と来れば常連と言っていいジャン・ロシュフォールに、何とジョニー・アリディーを組ませたと来るから興味を持った。

 ジョニー・アリディーってイマドキの人は知らないだろうが、一言で言えばフランスのエルヴィスみたいな人だ。ちょっと日劇ウエスタン・カーニバルっぽいところもあるかな(笑)。いや、これじゃますます若い人には分からないだろう。元はシルヴィー・バルタンのご亭主と言っても分からないだろう。まぁ、エルヴィスっぽいロカビリーみたいな人だと言えば一番通りがいいかもね。僕だって曲をちゃんと聴いた事がないから、偉そうな事は言えないんだけどね。

 だけど、確かに一時代を築いたようなスターを持ってきて、ルコント映画のシンボルみたいなロシュフォールと組ませると来れば、ちょっと興味が惹かれるじゃないか。元々ルコントには、あのアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドを久々に組ませた「ハーフ・ア・チャンス」なんて快作があるからね。ルコントが彼の映画としては異色の大スターを起用した時は、きっと要注意に違いない。

 

あらすじ

 その男は列車に乗ってやって来た。

 そこは寂れた地方都市。列車に乗った男…ジョニー・アリディーはいい年して革ジャンを着た、見るからにヤサぐれた風貌をしていた。彼はさっそく夕闇迫る街の中を散策するが、商店街からしてうらぶれている。やっと見つけた薬局でアスピリンを手に入れるが、それは水がないと飲めない発泡剤だった。「チッ!」

 すると先ほど同じ薬局にいた一人の初老の男が、馴れ馴れしく近づいてくる。その男ジャン・ロシュフォールは、自宅で水をあげる…とアリディーを誘うのだった。

 その家は昔からまったく変化のないようなお屋敷。アリディーが驚いたのは、扉に一切カギをしていない事。ロシュフォールという男はこの家に一人で住んでいるようなのだが、一体何故にこれほど不用心なのか。

 ロシュフォールはアレコレと話しかけるが、アリディーはどう見たって寡黙な男。会話ははずむ訳がない。水をもらって薬を飲んだら、アリディーはサッサと家から出ていってしまった。一人取り残されて寂しそうなロシュフォール。彼はこの家での変化のない単調な暮らしに、いいかげん飽き飽きしていたのだ

 ところがアリディーもこの街の寂れ方には驚いた。街にたった一つのホテルは、シーズンオフで休業中。仕方なくロシュフォールの家に立ち戻ったアリディーは、ここに投宿する事を頼むハメになる。これにはロシュフォールも喜んだ。かくして相変わらず何だかんだと話しかけるロシュフォールを丁重に部屋から追い出し、荷物をベッドの上に広げるアリディー。

 その中には、やはり…と言うべきか、何丁もの銃があった

 さて翌朝、アリディーが出かけた留守を見計らって、ロシュフォールは部屋に入る。そして何を考えたかアリディーの革ジャンを着て、鏡の前でコワモテのガンマンのマネをする。「オレはワイアット・アープだ!」

 そんなアリディーの革ジャンのポケットからは、彼が若い日に撮った写真がこぼれ落ちる。それはアメリカ西部で撮影したもののようだった。ますますこの男、ロシュフォールが見込んだ通りの男だ…。

 さてその頃、アリディーは人けのない場所で、ある男たち二人と落ち合っていた。そいつらはどう見てもいかがわしい男たちばかり。アリディーはそいつらと何やら計画を企んでいるようだが、生憎ともう一人のメンバーが到着していない。

 さてロシュフォールは、元々が文学教師として暮らしてきた男。今は学校を引退して、自宅に生徒を招いて個人指導をしている身だ。妻を娶ることもなくこの家で過ごしてきた、日々何も変化のない人生。つまりは完全な書斎の人だ。

 そんなロシュフォールに、アリディーは意外にも部屋履きを履かせてくれ…と頼み込む。一匹狼としてさすらってきた男に部屋履きとはおよそ似合わないが、アリディーはどうも気に入ったようだ。こうしてどう見ても不似合いな二人の男は、おずおずとお互いの世界を共有し始める。アリディーがこの家に泊まるのは三日間。その最後の日…土曜日には、アリディー何やら用事があるらしい。好都合な事に、ロシュフォールもその土曜日に用事があった。「開いて閉じて…ちょっとした心臓手術があるだけだがね」

 そんなアリディーは、街の銀行にやって来た。実は彼はこの銀行に襲撃をかけようと狙っていたのだ。この日は下見のために立ち寄ったわけ。

 ところがそんなアリディーの背中に、何やら突きつけられるではないか。「手を上げろ!」

 それはあのロシュフォールの悪ふざけだった。しかもこの男、シャレにならない事を言うから始末に悪い。「私の望みを知っているかい? 銀行強盗さ!

 ロシュフォールはアリディーを馴染みの軽食屋に誘う。ところが生憎と店は込み合っていた。中でも若い連中が悪ふざけをして、一人がアリディーにドシンとぶつかるテイタラク。おまけに詫びもしない。

 「怒らないのか?」 アリディーのようなワルの雰囲気を漂わせる男が大人しくしているとは、ロシュフォールには解せない。だがアリディーは静かに答えるだけだ。あいつらは連れがいる。一人で何人もを相手にするのは、映画の中だけの事さ。昔なら有無を言わせず謝らせたけどな…。

 ところがロシュフォールは、あくまでこの事にこだわった。「ここで立ち向かえれば、私の第二の人生が始まる」

 そしてよせばいいのに、ロシュフォールは若者たちに向かっていった。

 「静かにしたまえ!」

 万事窮す。さてロシュフォールはどうなるか…と思いきや、その若者は元ロシュフォールの教え子ではないか。「先生のおかげで詩が好きになったんですよ!」

 こうして事なきを得て、アリディーの待つ席に戻ってくるロシュフォール。その表情は心なしか拍子抜けした様子だ。「第二の人生はオアズケだな」

 こうして二人の男は、図らずもますますお互いの世界に深入りをする。ロシュフォールは、アリディーがこの街に来た目的を知っていた。そしてアリディーの人生に憧れを露わにした。あげくの果てに、アリディーに拳銃の撃ち方を教わるロシュフォール。ところがそんなロシュフォールに、アリディーは詩の事を尋ねるのだ。ロシュフォールにとっては退屈な人生が、アリディーにはやすらぎのある毎日と思えたのか。

 そんな頃なかなか来なかった相棒が街にやって来た。今回のヤマに関わるメンツにいささか不安があった事も手伝って、計画実行をためらいつつあったアリディー。そんな彼も、これで計画を本気で進めねばならなくなった

 ところがロシュフォールの方はますますエスカレート。今まで十年一日のごとく髪をセットしてきた床屋で、突然ヘアスタイルを変えると宣言するのだ。「もっと短く、前科者とサッカー選手の中間ぐらいの感じで!」

 一方、アリディーはと言えば…ロシュフォールの留守中に、彼の生徒が訪れて来た。ロシュフォールは彼の来るのを忘れてスッポかしていたのだ。すると彼は生徒を帰すどころか、自分が教えてやると言い出した。ロシュフォール愛用のパイプをくわえ、文学について語るアリディー。何を思ったかアゴヒゲまでそり落とす。

 最後の夜、ロシュフォールは長年の知り合いの女イザベル・プチ=ジャックを呼んでのディナー。なぜかここにアリディーも同席する事になった。無難な会話の食卓。アリディーはすぐに見て取った。ロシュフォールは長年この女が気になっていることを。それなのにまるっきり行動に出ていない事を…。

 そんなアリディーは、食事の席でズバッと切り出した。「彼はそんな話題には本当は関心がないぜ。彼の関心は、愛情とセックスだけさ

 当惑するロシュフォールとプチ=ジャック。この言葉が二人に感情のさざ波を立てたのかどうか…。

 食事の後、男二人はテラスで夜空を見ながら会話。ロシュフォールは今さらながらに感情を吐露した。「私は若いうちに人生を諦めてしまった…」

 だがそんなロシュフォールを、アリディーはいささか強引に励ます。「自分に自信を持て。自分の本当の姿をよく見るんだ!

 ロシュフォールはアリディーに金を貸す事を持ちかけるが、アリディーは乗らなかった。ロシュフォールは強盗を思いとどまってもらいたかったのだが、もう動き出したものは止まらない。それが彼の運命だった。アリディーは静かにロシュフォールに言った。「そんな事はいいから女を待たせるな」

 その夜ロシュフォールとプチ=ジャックは、ベッドで情事を持った。

 そして翌朝がやって来る。アリディーはロシュフォールが止めるのも聞かず、静かに家を去って行った。アリディーはそのまま仲間と落ち合って銀行へ。ロシュフォールは手術のために病院へ…。

 二人の男の、運命の日がやって来た

 

見た後での感想

 ルコント映画って見た時に、その都度その時の僕の心境とイヤなほどダブる。これは理屈じゃないんだよね。

 それってルコント映画が、どうも不器用な男のお話であることが多いからかもしれない。

 世の中とうまく折り合いをつけられない男…あるいはどこか大人になりきれない男。これが例えドロンとベルモンドであっても、同じようにどこか不器用な男であるところがルコント流だ。

 そんなイマイチうまくやっていけない男が、何かの機会に一念発起する。だけどそれまでがそれまでだから、思い入れがいささかバランスを崩している。そこにルコント一流のドラマが生まれる訳だ。最近でも橋の下の娘とかフェリックスとローラなんかその路線だろう。

 だが得てしてルコント映画って、男の独りよがりの思い入れになる危険性もある。少なくとも見る側がそう受け取りかねない部分があるんだね。「仕立て屋の恋」「髪結いの亭主」…あたりは最たるものだろう。実はそれにとどまらないようにつくっていても、そう見ようと思えば見える。中にはズッコケちゃって、そんな自己憐憫に陥っている作品だってある。

 ところが「フェリックスとローラ」は、そんなルコント路線から一線を超えたって感じがあったんだよね。

 大概ルコント映画の男たちが何かを奮起するのは、恋愛がモチベーションだ。それまで殻を破らず自分のパターンに閉じこもり、何の変哲もない暮らしを続けていた男が、「ここで会ったが百年目」の女の出現で一気にハジける。それまでの変化のない人生をかなぐり捨てる。だけど元々が不器用な男たちだから、そうは簡単に事は運ばない。どこか現実と折り合いがつかない男にとって、女はシビアーに究極の現実そのものだからね。こうして男たちは見事にバランスを崩す。行き着く果ては奈落の底へ一直線…。そこに殉教者的な悲愴な美学を醸し出させるのが従来のルコント流だった。

 ところが「フェリックスとローラ」では、途中までそんなパターンを踏襲しながらも最後にうっちゃりをかけた。最後の最後にスコ〜ンと抜けたようなエンディング。そこに僕は、ルコント映画の成長というか、新たな展開を見たような気がしたんだよね。

 ところが「歓楽通り」では、どうもまたしても男の殉教者的悲壮感で盛り上げているようだ。実際の作品は見てないから分からないが、見る前の予感はそうだった。だから僕は、ここから新たな展開が…と期待していたのに、なぜ?…と、あの映画を見る気になれなかったんだろう。

 で、今回の「列車に乗った男」だ。

 個性の強い二人の男優を組み合わせた…と来れば、「ハーフ・ア・チャンス」のドロンとベルモンドをまたまた持ち出すまでもなく、ルコントは何かやってくれるだろうと期待した。

 で、やっぱりいいんだよね

 ロックンロールを歌ってた頃から培ってきたワルな魅力のアリディーを活かしきっていて秀逸。そこに、どう考えてもミスマッチなロシュフォールを組ませたアイディアが見事だ。ワルで気ままで変化に富んだ暮らしに憧れてきた男と、いいかげん根無し草生活に疲れて安らぎが欲しい男。この二人の男がたった三日一緒に過ごす事で、二人の人生が交錯するという発想がうまい。

 特にロシュフォールはいかにもルコント映画的男として出てくる。今回は女が相手じゃないから、恋愛がモチベーションとはならない。だけどロシュフォールは、アリディーと彼の世界に憧れを持っている。そんな彼の存在が、自分を今までの殻から引っぱり出してくれるんじゃないかという期待がある。

 実は今までのルコント映画の恋する男たちも、女に恋したから…というだけでなく、そんな女との関係が自分の平穏無事なだけの人生を一変してくれるんじゃないかという、淡い期待みたいなものも持っているんじゃないかと思うんだよね。だからその女との関わりで自分とその生活がメチャクチャになっても、男たちは嬉々としてそれに殉じてきた。これが自分を変えてくれるはず…という気持ちがあるからね。そんな意味では、作品の方向性は今までと一致するんだよね。

 しかも今回は相手が女じゃないから、あくまでお互いの間に距離は存在したままだ。そしてロシュフォールが惹かれていくだけでなく、なぜかアリディーも徐々に影響を受けていく。だから自らを相手のために滅ぼすような、自滅的で殉教者的な結末にはならない。確かに昔は僕もああいった展開に酔いもしたが、今になってみると、それって単に不器用な男の独りよがりな思い…自己満足や自己陶酔に過ぎないって思えちゃうからね。だから今回の映画のクールな手触りが、僕にはとても好感持てた。

 これもまた、確実に「フェリックスとローラ」を通過したルコント作品なのだ。僕にはここにも、新たな成長や展開がかい間見えたよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 先にルコント映画は自分の心境とダブる…と書いたけど、今回もイヤって程ダブってしまった。もちろんアリディーにではない。ロシュフォールにだ。

 僕もどちらかと言えば変化を好まない男だ。実は着るモノも、常に同じようなモノを買ってしまう。出かける時も用意周到に考えてしまうから、いつも荷物はパンパンだ。引っ込み思案で何か新たな出会いとか新たな場を好まない。知らない人たちの前には、出来れば出たくないクチだ。

 でもそんな自分を、どこかつまらなく思ってもいる

 僕は本音のところ、そんな生活をちっとも心地よいとは思っていない。出来れば何かで打ち破りたいと思っている。時には誰かにそれを壊して欲しいと願ったり、自分でドカンとブチ壊したりもする。時に僕の人生に、何か大きな変化が訪れるのはそのせいだ。訪れるのではない、自分で招いている。だからロシュフォールが、あえて自宅にカギを付けてない理由はよく分かった。自分で自分を変えられないのなら、せめていつでもアクシデントが訪れるようにしておきたい…。

 僕の場合は自分から仕掛ける時もあったし、実際に大きな変化が何度もあった。それは僕にとって必然だったと思っているよ。

 だけど結局は…いつも元にいたところに戻ってしまう

 なぜか気づいてみると、変わり映えのしない自分の人生に戻っているのだ。どうしてなんだろう。やっぱり自分は変わらない。残念ながら、それは認めざるを得ないようだ。僕は自分とその人生に否定的な思いしか持てない。なのにそこから、結局一歩も離れる事が出来ないのだ。

 この映画ではエンディングが何とも奇妙だ。アリディーは強盗へ、ロシュフォールは手術へ。そして予想通り、二人はほぼ同時に死に見舞われる

 …と思ったら、死んではいない?

 そして、これはロシュフォールの脳裏のイメージなんだろうか? アリディーとロシュフォールは再会し、お互いの人生を取り替えっこする。そしてロシュフォールは荷物を持って、冒頭でアリディーが乗り込んだ列車の人となるのだ。

 これってどういう意味なのだろう?

 そう言えばこの映画、リアリズムという意味では奇妙だ。冒頭からアリディーがボトルネック・ギター、ロシュフォールがクラシックのピアノという具合に音楽がクッキリ色分けされているのと同様に、ロシュフォールが銃の撃ち方を教わればアリディーが詩を教わる、ロシュフォールが髪をワルっぽく刈ればアリディーが子どもに文学を教える…というように、あまりに図式的に両者をシンメトリーみたいに描いていく。ハッキリ言って不自然なほど図式的だ。リアルではない。

 もっと奇妙な描写もある。例えばアリディーが仲間と打ち合わせをした後、クルマに乗り込むくだり。場面の最後で、クルマは幽霊のようにスーッとその場から姿を消す。あるいはロシュフォールが立ち寄った床屋には、最初は床屋のオヤジがいないのにいきなりスーッと現れる。この描写は一体何を意味しているのか?

 考えてみると、いくら何でもロシュフォールみたいな男とアリディーみたいな男が、何がしかの接点を持ってつき合うのは不自然だ。ましてお互いの世界を取り替えようと試みるなんて、まずはあり得ないだろう。ロシュフォールがアリディーのワルな人生に憧れ、それを欲する事はあっても、アリディーがロシュフォールみたいな男に何かを求めることはあるまい。せいぜい薬を飲みたいから水をもらいに家に立ち寄る…それ止まりというのが自然ではないか。

 そうすると…ひょっとすると映画の冒頭でアリディーがロシュフォールの家を出ていくまでが現実で、そこからはロシュフォールの願望…一種の妄想ではないのか?

 ならばすべてが辻褄が合う。アリディーが銃を持っているのも、ロシュフォールのかくあって欲しいという願望だ。アリディーが銀行強盗を計画しているのも、こういう男ならやるだろうというロシュフォールの想像だ。そもそもロシュフォールが同じ銀行で強盗をしたいと願っていた事からして、偶然の符合ってことはないだろう。

 すべては命に関わるかもしれない手術を前にした、人生をやり直したいというロシュフォールの願望ではないのか?

 こう何でも理詰めで考えちゃったら、映画なんて面白くはない。だけどこの作品の場合には、ここのところが重要ポイントだと思うんだよね。ロシュフォールとアリディーが全く同時に生命の危険にさらされ、同時に息を吹き返すあたりのまるっきりイーブンな描写を見れば、それは明らかだ。

 ここでのアリディーは、ロシュフォールの願いを託された存在だ。彼の願ってやまない、だけど持つことの出来ない人生を持っている存在だ。

 そのアリディーが息を吹き返したロシュフォールの脳裏で、彼と人生を取り替えっこする…。

 その足でロシュフォールは、冒頭に出てきた列車に乗り込む。あんなに願っていた、自由な暮らしへの一歩を踏み出すのだ。

 考えてみると、あのルコント作品の分岐点とも言える「フェリックスとローラ」も、男が女に抱く幻想がテーマではなかったか。元々は女が築いた虚構ではあるが、幻想が幻想を呼び、男は勝手に悲壮感漂う妄想を膨らませていく。それが最後にすべて明らかになる事で、奇跡的なハッピーエンドを形づくっていた。

 ならば、これだってハッピーエンドだ

 すべてはロシュフォールの脳裏に生まれた虚構だったかもしれない。だが、変わりたいという気持ちは真実だ。ならば、実はそれこそが本当の彼なのだ。妄想上の存在ではあったが、あのアリディーだって言っていたではないか。

 「自分に自信を持て。自分の本当の姿をよく見るんだ!

 ならばアリディーの力を借りるまでもないだろう。彼がいなくても、もう大丈夫だ。一旦は死にかかったという事は、生まれ変わったとも言えるじゃないか。だったらロシュフォールは、もう過去に縛らなくてもいい。そして…きっと再出発をするために、自分を他の誰かに変える必要なんてない。妄想上のアリディーがロシュフォールのつまらない生活信条を一つひとつ肯定していくあたりは、それを意味しているんだろう。そう考えれば、列車に乗り込んだロシュフォールが、革ジャンなんか着てないで相変わらずのコートを着ているのも象徴的だ。

 本当の自分にこそ、その人の価値があるんだからね。

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME