「オーシャン・オブ・ファイヤー」

  Hidalgo

 (2004/05/10)


  

今回のマクラ

 役者にとって、「当たり役」に巡り会う事ほど大切な事はないだろうね。

 ビッグ・スターには自らプロデューサーを買って出る人もいるし、中には監督兼任で演じる人だっている。だけど大半の役者は、演じる役に対しては受け身だ。そういう役を演じる話が回って来ない限り、「いい役」にはありつけない。また「いい役」というのは単にヒーローや善人役って訳でもない。その役者にピッタリとハマった役でないとうまくないのだ。

 役柄の幅が広い人もいるにはいるが、それでもホントにハマった役って少ないだろう。これがもしユニークな個性の俳優なら、ますます使い方は難しくなる。これはほとんど運みたいなもんだよね。で、それって演じるまでは「当たり役」かどうか分からないから、出会いは千編一隅のチャンスになるわけ。道理でスターになるのは難しいはずだ。

 古い話をすれば、オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」に出会わなければ、あれほど大スターにはならなかったろう。彼女はその後、どこかであの役のイメージを引きずっていたからね。おそらくはあの王女役が、プロデューサーたちに彼女の正しい使い方を教えたんだと思う。

 あるいはアーノルド・シュワルツェネッガーが「コナン・ザ・グレート」どまりだったら、あんな大スターにはなり得ない。当然政治家なんて夢のまた夢だ。「ターミネーター」という格好の役にありついてこそ、今日の彼があったわけだ。ただし、政治家が彼の「当たり役」かどうかは、はなはだ疑問だけどね。

 最近じゃ「アメリ」のオドレイ・トトゥもそうだろうね。で、こういう「当たり役」にありついた人はそれで万々歳かと言えばそうでもない。そこで一つのパターンは築かれた。それをどうやって維持するか、あるいはどこかに新味を加えて鮮度を保っていくか。エディ・マーフィーの最近の苦しさを見てると分かるだろう。本当に役者業の難しさを感じさせるよね。

 ならばこの人も、今後が大いに気になる人だろう。言うまでもない。長い間いろいろ出てきてはいたものの、今ひとつパッとしなかった彼…。

 「ロード・オブ・ザ・リング」三部作で一気に頭角を現した、ヴィゴ・モーテンセンだ。

 

見る前の予想

 「ロード・オブ・ザ・リング」で華も実もあるヒーローぶりを見せつけたモーテンセン。その彼がこれで一気にスターダムに突入する事は、誰しも疑わなかったはずだ。きっと彼を前面に出した一枚看板の主演映画がつくられるとは思ったよね。問題は、それがどういう作品になるか…だ。

 というのは、モーテンセンのそれまでがそれまでだったからね。

 確かにモーテンセンって役者、いろいろな映画に出てはいた。そういえばそんな役者がいたな…と思わされもした。だけど、強烈な印象ってのは持った事がなかったんだよね。

 「ロード・オブ・ザ・リング」で「おおっ」と注目させられた時も、こいつ誰だ?…と思ったくらいだからね。

 正直言ってそれまでの彼のキャリアでは、顔と名前が一致するのは「ダイヤルM」の間男役ぐらい。それも、もうその時の顔は忘れてる(笑)。とにかく線の細い男というイメージしかない。

 それは無理もないだろう。だって「ロード・オブ・ザ・リング」のDVDに入ってるメイキングのインタビューを見てみても、素顔で普段着の彼はまるでパッとしない。声は小さいし大人しいし、マジメだけど面白みのなさそうな男。派手さはまったくないしカリスマも感じられない。そしてとにかく線が細い。これじゃ注目されない訳だ。

 ところが、それが「ロード・オブ・ザ・リング」では大いに目立った。本人は派手なパフォーマンスをしないけれど、いやが上にもハミ出した。確かにアクションもあったしロマンスもあった。だけど彼自身は至って控えめ。それなのに、なぜか存在感に満ち満ちていたんだよね。リブ・タイラーと一緒にいても、彼の方が明かに格が上って感じ。これはどういう事なんだろうね。

 そんな彼が、今度は一枚看板の主演作に出る。だが「ロード・オブ・ザ・リング」であれだけ注目されたから…という、安心できる要素は彼にはない。そもそも「ロード〜」で何であんなに目立ったのかが、見ていた僕にも分からないのだ。今までとどこが違ったのだろう? 無精ヒゲを生やしていればいいのか?

 だから今回の主演作も、よっぽど周到に「ロード〜」の成功例を分析してかからないと、作品全体を支えきれるとは思えなかったのだ。そして、イヤな予感の方が先に立った。

 まず、チラシの絵柄が何だか「レイダース」とか「ハムナプトラ」みたいなのが気になった。そういう冒険活劇に彼は合っているのだろうか? 確かに無精ヒゲは生やせるだろうが、モーテンセンには決定的に陽性なヒーロー性が欠けている

 タイトルは「オーシャン・オブ・ファイヤー」。原題の「ヒダルゴ」ではさすがにキツいと思うが、それでもこの「ストリート・オブ・ファイアー」みたいなタイトルはいかがなものか。それとも「ロード・オブ・ザ・リング」のタイトルを連想させる、「なんとか・オブ・なんとか」ってパターンを踏襲しているつもりなのか(笑)。

 おまけに広告を見たら、“「ロード・オブ・ザ・リング」アラゴルン役 ヴィゴ・モーテンセン主演”…と来た。確かに「ロード〜」の彼だというのは宣伝の定石だ。だけど役名まで書かねばならないってのは、あまりないのではないか? 例えば「ナバロンの嵐」やら「ハノーバー・ストリート」に出た時の売り出し中のハリソン・フォードも、“「スター・ウォーズ」の”…とは書かれただろうが“「スター・ウォーズ」ハン・ソロ役の”…とまでは書かれなかったのではないか?

 この、あえて「アラゴルン役」と明記しなければならないあたりが、ヴィゴ・モーテンセンの線の細さを如実に現しているのではないか?

 

あらすじ

 まだ西部が未開な部分を残していた1890年代。クロスカントリー・レースを戦う男と彼の愛馬がいた。それは西部男ヴィゴ・モーテンセンと、マスタング種の「ヒダルゴ」。彼と愛馬は、先頭を走っていた男を一気に抜き去り、レースに勝利した。

 目的地の酒場で一人ささやかに祝杯を挙げるモーテンセンだったが、そこに先ほど抜き去った男が絡んでくる。「純血種が雑種馬に負けるなんて!」

 これがモーテンセンの怒りに火を付けた。彼は一発ガツンと男にお見舞いすると捨て台詞だ。「オレの事はともかく、馬の悪口は許さん!

 そう。モーテンセンと愛馬「ヒダルゴ」は、単に人間と持ち馬という立場を超えた、心を通わす関係だった。だから馬への侮辱となると、日頃大人しい彼も顔色を変える。

 そんなモーテンセンの元へ、騎兵隊の兵士がやって来る。彼はモーテンセンに一通の封書を託し、第七騎兵隊の野営地まで届けるように頼む。モーテンセンはその早駆けの腕前を買われ、普段から騎兵隊の伝令を頼まれていたのだ。そうなると、一休みなんかしていられない。

 第七騎兵隊の野営地ウンデッド・ニーへと駆けつけるモーテンセン。そこでは騎兵隊が先住民族のスー族を監視していた。モーテンセンの手紙には、反乱の兆しがあるのでスー族を武装解除させよ…と書いてあったが、彼にはそんな事を知る由もない。仕事を終えてその場を離れようとしたモーテンセンに先住民族の女が近寄ってくるが、彼はそれをすげなく無視して立ち去った。どうも女はモーテンセンを知っていたようだが、果たして彼は彼女とどんな間柄だったのか? はたまたさりげなく無視したのはいかなる理由からか?

 だが帰路の途中で「ヒダルゴ」がただならぬ気配を察知。イヤな予感に野営地へと立ち戻ったモーテンセンは、そこで信じられない光景を目にする。

 何とそこでは、スー族たちがことごとく虐殺されていたのだ。

 自分が届けた手紙が、結果的に彼らを全滅させてしまった。モーテンセンは取り返しのつかない思いに苛まれる。

 それからと言うもの、モーテンセンはワイルド・ウエスト・ショーの一員として道化に徹し、酒に溺れた自堕落な日々を送っていた。俊足の「ヒダルゴ」も宝の持ち腐れ。すっかりフテくされる毎日。

 ショーの一座の仲間には、かつての先住民族の酋長もいた。彼はショーの座長に直訴する。先住民族が大切にしてきたマスタング種の馬が、騎兵隊によって絶滅させられようとしている。これを何とか買い取ってもらえないか…。だが、座長がそんな頼みを聞いてくれる訳もない。そんな酋長の訴えを聞きながら、今さらながらに自らの無力を思い知らされるモーテンセンだった。

 そんな彼に転機をもたらしたのは、意外な異境からの訪問者だった。モーテンセンが籍を置く一座のショーを、アラブからの使者アダム・アレクシ=メールが見に来たのだ。アレクシ=メールは楽屋を訪れると、いきなり挑発的に誘いをかける。

 アラビアのアデンから広大な砂漠を経て、ダマスカスまでたどり着く…アラブで長い歴史を誇る「オーシャン・オブ・ファイヤー」なる大レースだ。アレクシ=メールはここにモーテンセンと「ヒダルゴ」を参加させるべくやって来たのだ。

 そう聞いても、へべれけのモーテンセンはイマイチ乗ってこない。そんな彼をアレクシ=メールはさらに挑発した。我々アラブの民は馬を誇りに思っている。オマエたちが「世界最速の名馬」を名乗っているのは思い上がりだ。だから堂々と勝負をかけてこい!

 あげくアレクシ=メールがまたぞろ純血だ雑種だ…と言い始めたから、モーテンセンの心の中はくすぶり始める。それでも「その気」になれないモーテンセンに、あの一座の酋長も火を付けた。「そのままではオマエは中途半端な奴でしかない」

 そんなモーテンセンに、一座の仲間たちもカンパを集めて応援した。かくして一念発起したモーテンセンは、一路アラビアへと向かう船へと乗り込んだ。

 ところがモーテンセンの行くところトラブルあり。船倉で荒くれの船員たちに「ヒダルゴ」がいたぶられているのに気づいて、モーテンセンは怒りのあまり大立ち回り。しかし多勢に無勢。あわや船員たちに袋叩き…のその時、何者かが銃で威嚇し止めに入った。

 「おやめ!」

 それは英国の貴婦人ルイス・ロンバート。彼女は年の離れた英国紳士マルコム・マクダウェルの夫を連れ、自らもこのレースに参加するべく船に乗っていた。彼女は幼少の頃から中東にも暮らした事があり、現地の勝手が分かる人物だった。しかも無類の馬好き。

 ともかく、船はアラビアの港に着いた。そこから長い行軍を経て、たどり着いたのは目指す出発点アデン。ここで一行を待ちかまえていたのは、今回のレースの主催者…酋長の中の酋長オマー・シャリフだった。実はシャリフ酋長、アメリカのカウボーイであるモーテンセンを心待ちにしていたフシもあったのだが…。

 このレースはアラブの社会では誇りをかけた大レース。実は外国人に門戸を開いたのは、今回が初めて。英国夫人ロンバートの愛馬を駆って参加するのも、現地のアラブ人の乗り手だった。だから他のレース参加者は、モーテンセンの参加を快く思ってはいなかった

 そんな他のレース参加者も、各人の思惑を秘めていた。まずはサイード・タグマウイ王子。彼はこのレースに優勝すれば、シャリフの娘ズレイカ・ロビンソンを妻に迎える約束を得ていた。また、彼の乗るアラブの名馬の威信も懸かっていた。だからこのレースに必死にならずにいられない。

 だが当の娘ロビンソンは、そんな王子の何番目かの妻などなりたくはない。閉鎖的なアラブ社会から自由になりたい希望を持っていた彼女は、馬の扱いも上手な活発な娘だった。息子をすべて失って残るは娘の彼女だけ…というシャリフも、彼女を目の中に入れても痛くないほど可愛がってはいる。だがそこはアラブ社会の大酋長。威厳ある男として毅然としていなければならない彼は、人前では娘の乗馬も許さず、彼女の事を「つまらない娘」と公言せざるを得なかった。

 そんなシャリフは、実は西部の伝説に夢中。西部の英雄伝を書いた本を秘かに読みふけり、モーテンセンに彼の拳銃を欲しいと懇願する。今回のモーテンセン参加も、そんな彼の願望の現れだった。

 さらに例の英国貴婦人ロンバート。彼女はこのレースで優勝すれば、アラブの名馬のタネ付け権を得る事になっていた。ならば何としても優勝せねばならない。そのためなら手段を選ばない覚悟もあった。そんな彼女は、一方でモーテンセンの男の魅力にも惹かれ始めていた。

 そんなこんなでレースの準備に明け暮れるモーテンセン。彼には今回のレース中世話を見てくれる、召使い役の男が付けられた。この男、実はある罪で捕まって、手を切り落とすかモーテンセンの世話役をやるかの選択を迫られたとか。ともかくヤケにおしゃべりで、口が減らないとはこの事。いかに今回のレースが過酷なものかを並べ立てるから、さすがにモーテンセンもウンザリする。まずは砂嵐、そして灼熱地獄、そして足を取られる流砂やらイナゴの大群…とても勝ち目はないよ。

 さらにモーテンセンは奴隷として売り飛ばされそうな少年を買い取り、この世話役の補佐をやらせる事にした。だが少年はそんなモーテンセンの思いをよそに、自由にしたとたんに逃げ出す。それでも少年は間もなくモーテンセンの元に戻ってきた。「他に行くところがない…」

 やがて、いよいよレースの日がやって来た。スタート地点では参加する男たちとその馬、さらに大勢の見物人が集まり、熱気と興奮が渦巻く。もちろんモーテンセンと「ヒダルゴ」も、スタートラインに立った。

 そして…シャリフの号令一下、砂煙を上げて各馬一斉に走り出した!

 

見た後での感想

 こういう映画は見てもらうに限る。だからストーリー説明はここまでにした。ここまでで出てこないのは、シャリフの一族の者ながら無法を欲しいままにする盗賊一味ぐらい。あとは大体の設定は説明したので、どんな映画かはお分かりいただけたと思う。

 まずは僕の見る前の予想のうち、一つは完全にはずされた。この映画、決して「レイダース」やら「ハムナプトラ」みたいな脳天気連続活劇ふうの作品ではない。もちろん肩の凝らない娯楽映画ではあるが、あんな徹底的に陽性でパッパラパ〜な映画ではない。どんな映画かと言えば、実はトム・クルーズの「ラスト・サムライ」みたいな映画だと言えば最も通りがいいだろう。

 アメリカ先住民族の虐殺に絡んで主人公が誇りを失っているあたり、そこに異境からの使者がやって来て、思わぬ未知の世界へといざなわれるあたり…設定は驚くほど「ラスト・サムライ」と酷似する。主人公が心を通わす別世界の人物として、まるで渡辺謙に呼応するようにオマー・シャリフが配されているのも符合する。

 言うまでもなく、挫折した人間の立ち直りや立場を異にする人物同士の連帯は、アメリカ映画が長く語り続けてきた十八番の演目だ。だからそこが似てくるのは当然としても、そのテコとなる設定に先住民族を持ってきたのは注目に値する。しかもそれで導き出されるのが、アメリカにとっての「異境」を舞台にしながらもアメリカの「故郷」である西部劇のテイストを基本に持つ…という一件矛盾した設定というところまで一致するのが面白い。この作品もまた、いまやハリウッド映画の王道としては再現不可能になった西部劇の、ちょっとひねったカタチでの再生産なのだ。このあたりは、後ほど詳しく語ってみたい。

 元々僕は、なぜか砂漠が出てくる映画は大好きだ。本当は砂漠の映画と、それとは対照的に雪と氷の世界が出てくる映画が好きなんだけどね(笑)。ともかくどんな映画でも、砂漠が出てくれば結構楽しめてしまう。だからこの映画は僕には最初から期待できた。

 この映画では過酷なレースの過程を通して、砂漠のいろいろな面が見られる。SFXを駆使した砂嵐あり、流砂にイナゴの大群あり…。しかもレースばかりでなく、途中で酋長の娘がさらわれるアクシデントまで出てくる。彼女を助け出すための大冒険が、活劇風味満点で嬉しいじゃないか。なかなかサービス精神旺盛な映画だよね。

 それと言うのも、監督したのは誰あろうジョー・ジョンストンだ。僕はこの作品を見る前に、彼が監督しているとは知らなかった。だからジョンストンの作品と聞いて、思わず膝を打ちたくなったよね。こりゃ面白いに決まってる!

 ジョー・ジョンストンと言うと、「ミクロ・キッズ」とか「ロケッティア」とか、特撮絡みのお子さまピクチャーの作り手だったんだよね。「ジュマンジ」もその系列だ。確かに面白いことは面白いけど、結局のところスピルバーグの亜流ぐらいの存在にしか思わなかった。

 それが一気に見る目を変えたのが、異色の青春映画「遠い空の向こうにを発表した時。これには驚いた。ロケット開発に執念を燃やす少年と、頑固な父親との関わりを描いた何とも瑞々しい作品だった。何よりジェイク・ギレンホールの主人公や友だちはともかく、父親のクリス・クーパーから女教師のローラ・ダーンに至るまで、人物を見つめる眼差しにデリカシーがあった。こんな映画がつくれる男だったんだ…と、すっかり見直したんだよね。

 ところがジョンストンがその次に取り組んだのが、ジュラシック・パークIIIと聞いたからガッカリ。何でまた元のお子さまランチ的世界に戻るのか。しかもすでに前二作で出涸らしになっちゃったようなシリーズの三作目。何が悲しくてこんな仕事を受けたのか分からなかった。

 でも…この「ジュラパIII」がいいんだよ。これには「遠い空の向こうに」よりも驚いた。大先輩スピルバーグをもってしても、一作目はともかく二作目「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」じゃまったくの子どもだましになっちゃった素材を、新鮮な息吹を吹き込んで蘇らせた。活劇としての面白さは言うまでもない。僕が感心したのは、またしても人物の描き方のうまさ。どう考えても理屈抜きのこんな娯楽作にして、登場人物がキメ細かく描かれている。中でも主人公のサム・ニールなんて、一作目では単なるマンガみたいな人物像だったのが、いつまでも大人になりきれずに来た男の「老い」の自覚まで感じさせて実に辛口に描いている。やっぱり「遠い空の向こうに」はマグレじゃなかったんだ。僕はすっかり感心しちゃったんだよ。

 だからそれに続くこの作品だって、大いに期待出来るに決まってる。

 そこでは、もっともアメリカ映画のヒーローらしからぬヴィゴ・モーテンセンが、アメリカ映画のヒーローの本流=カウボーイを演じているのが新味だ。

 でもこの手のカウボーイ像って、西部劇が滅びてしまった以降のアメリカ映画ではよく見かけるよね。例えば「ライト・スタッフ」でサム・シェパードが演じた超音速飛行機乗り。彼も荒馬を駆って駆ける、いささか時代遅れの西部男だった。最も近いところでは、「シービスケット」でクリス・クーパーが演じた初老の西部男だろうか。ジョン・ウェインが演じたようなあくまで陽性のカウボーイではない。どこか陰りのある孤高の男。今は伝説の中でしか生き得ない人物。確かにこれはモーテンセンならピタリだよね。

 だって「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンって、最初っからヒーロー然として出てくる訳ではない。王家の血こそ引いてはいるものの、先祖の因果から王座を省みない放浪の身。自ら王権を奪還しようなんて気はサラサラない。いざという時には頼りがいがあるが、自ら出しゃばって勇ましい言動は弄しない。しかも異民族の禁じられた愛に苛まれている。終始一貫して、どこか孤高の男。

 いやぁ、モーテンセンは見事だ。一枚看板の第一作に、これほどハマる役柄もないよね。しかもいい監督に巡り会えた。ジョンストンなら活劇の楽しさを見せるだけでなく、人物の性格に肉迫してデリカシーある映画がつくれる。このデリカシーという点でも、ジョンストンとモーテンセンは共通する味を感じさせるよね。

 孤高の放浪男にして、どこか漂う気品…とでも言うべきもの。それは威厳と言ってもいい。そこが凡百の西部のならず者や脳天気カウボーイとは違う。王を演じたモーテンセンが演じる所以とでも言える点だ。

 この映画ではそのあたりをモーテンセンのルーツに求めているのが秀逸だ。実は彼、先住民族との混血だった。この主人公であるフランク・ホプキンスなる人物は実在の人物らしいが、それが実際に混血だったかどうかは知らない。ともかくこの映画では、彼のルーツをそう設定して重要視しているのが面白い。

 「ラスト・サムライ」といいこの作品といい、アメリカ映画が屈折したカタチで西部劇の復権を図っているのは注目できるが、その根っこに先住民族を持ち込んでいるのはもっと興味深い。だって旧来の西部劇では、先住民族=インディアンは西部男たちの敵としてやっつけられていたものね。実際には西部に入り込んだ白人たちが、先住民族を排斥していった事になる。どう考えても相容れない両者のはずだ。それがこんなカタチで融合し始めたのは、いかなる理由からだろう。

 アメリカと言えば若い国…そのイノセントな部分が売りだったと思う。それは新鮮さ、大胆さ、快活さ…という美点でもあったが、ここのところに来てあまりいい部分とばかり思えなくなったのではないか。つまりは単純さ、単細胞さ、愚かさ…と言ったふうに。特にベトナム戦争以降はその傾向が強かったと思う。

 まして冷戦が終わって一人勝ち状態になってからは、ますますその傾向は強まった。今では世界中から鼻つまみ。そんな冷ややかな外側の視線を、さすがに脳天気なアメリカ人も感じずにはいられなくなったのかもしれない。9・11でやられた当初はヒステリックに走ったものの、単純ブッシュがイケイケドンドンでやり続けていられるほど、アメリカ人もバカばかりではないはずだ。

 だがアメリカイズムが西部魂だとするなら、それはどうしても先住民族をバンバン殺しまくった西部男たちにたどり着かざるを得ない。これがルーツとしたら、アメリカ人だって耐え難いだろう。そこで出てきたのが、「ラスト・サムライ」やこの映画…もっと言うと「ダンス・ウィズ・ウルブス」あたりから顕著になった、西部男と先住民族という相反するはずの両者のハイブリッドな結合というものなのではないか?

 アメリカの故郷…西部。それは西部男たちのものであると同時に、誇り高い先住民族のものでもあった。いささか手前勝手な論理も混ざっているだろうが、アメリカ人たちはその両者を自らのルーツとしたいんじゃないか。元々歴史と伝統がなくて、それがコンプレックスにもなっているアメリカ人だ。先住民族までがルーツとすれば、そんなアメリカにも伝統と先人の知恵がある事になる。だから本来は相容れない立場だった両者を、何とか折り合いつけるカタチで融合させたい。それが出来るのは、西部という風土そのものと生きる、孤高の西部男というシチュエーションだけだ。…昨今の屈折西部男像とは、そんなところから求められている気がするんだよね。

 この設定がまた、モーテンセンという俳優と実に合っている

 実は先住民族との混血、しかしそんな自分を隠し通してきた男。それが自分のルーツに目覚めていく…。それは過去の先祖の悪行から王座を避けていた男が、王たる自覚に目覚めていく…という「ロード・オブ・ザ・リング」の役柄にピッタリと合致する。また、そんな今回の主人公の有り様は、昨今のアメリカ人の心境とも一致するのではないか。

 だとすると、ここへ来てのモーテンセンの遅咲きな人気爆発には理由がある。時代がやっとモーテンセンという俳優に追いついたと言う事なのだろう。

 

見た後の付け足し

 この映画には映画ファンならではのお楽しみもある。それは懐かしい顔ぶれのゲスト・スターだ。まずは開巻まもなく、モーテンセンの競争相手としてC・トーマス・ハウエルなんて「あの人は今」的俳優が出てくる。実は、僕は見ていてまったく気づかなかったんだけどね。そのくらい、ただのオッサンになっちゃってた。あの青春スターがこれでは寂しい限りだが、こんなカタチで再会出来たのがちょっと嬉しかったのも事実だ。

 しかもほんのちょっとではあるが、マルコム・マクドウェルまで登場するではないか。これっていかなる経緯で出演する事になったんだろう。まったく予想してなかったから、これまた嬉しかったね。

 だが僕が一番喜んだのが、アラブの酋長役を演じるオマー・シャリフだ。

 オマー・シャリフと言えば、何と言っても「アラビアのロレンス」(1962)を挙げねばならないだろう。この映画での彼は、まさに鮮烈な登場と言っていい。さらにこの時の縁で、デビッド・リーン作品に連続起用。「ドクトル・ジバゴ」(1965)のタイトル・ロールを演じる事になったのも有名だ。エジプト人がロシア人を演じちゃうんだからスゴイが、こうして中東初…にして唯一の国際スターが誕生したわけ。

 それからというものは、アメリカを初めとする各国の映画に引っ張りだこ。「将軍たちの夜」(1966)ではナチス・ドイツ将校も演じれば、「マッケンナの黄金」(1969)では西部劇にも出ちゃう。ホントに何でもやっちゃう、やれちゃうスターになったんだよね。それと言うのも「ドクトル・ジバゴ」でロシア人までやっちゃったから、何でもアリになっちゃったんだろうけどね。それでもホントに伝説的な大スターだった。ハリウッドでも、英語国やキリスト教国以外の出身でこれほど大活躍した外国人スターっていないんじゃないか? 今の若いファンは知らないかもしれないが、この人ってホントにすごいスターだったんだよ。僕も子どもの頃は、この人の映画をテレビでイヤというほど見たもんだった。

 ただ、この人はそんな訳で仕事を選ばなかったのかもしれない。しかも元々個性が強いから、本当だったらやれる役って限られていたはずだ。そこで1970年代あたりからは、さすがのシャリフもいささか低迷期に入っていった。この時期ではブレーク・エドワーズ監督でジュリー・アンドリューズが共演した、恋愛仕立てのスパイ・サスペンス「夕映え」(1974)でのソ連軍人あたりが代表作になっちゃうんだろうか。

 テレンス・ヤングが監督した久々のオードリー・ヘプバーン主演作「華麗なる相続人」(1979)では柄にもなくイタリア人役(妻の役にはギリシャ出身のイレーネ・パパスという濃いキャスティング!)を演じるなど、いい役にありつけなかったり作品の質が低下したり、そもそも出演作が少なくなったり…。こうなると「ジバゴ」でロシア人までやらせてもらった事が良かったのか悪かったのか。今回の感想文では冒頭から「当たり役」の話をしたけれど、シャリフの場合は「ロレンス」のベドティン族長役はともかく、その次の「当たり役」が災いしたのかもしれないね。ともかくハッキリ言って落ち目だったんだよね。

 僕も何かの雑誌で見たけれど、実際この時期のシャリフって散々だったみたいだ。シャリフ自身が「いい脚本が来ない」と嘆いていたのを読んだ記憶がある。たまに仕事が来るかと思えば、あまりにひどい作品なので「つくるのをやめてくれ」と頼むくらいだ…って言ってたからね。そのせいか、財政的に苦しい時期だったとも聞く。

 近年ではポーランドのアンジェイ・ワイダ監督が撮った「悪霊」(またもロシア人役!)(1987)とか、ジョン・マクティアナン監督の古代アクション13ウォリアーズ(1999)あたりしか思い出せないが、どちらもごく小さい役でしかなかった。そのあたりからして、近年のシャリフは開店休業中みたいなものだったんだろう。

 それが…ここで一気に往年の大スター、オマー・シャリフがカムバックだ!

 中東の大酋長って言えば、シャリフには打ってつけの役ではあるだろう。だけどここのシャリフはそんなタイプ・キャスティングにも関わらず、実に生き生きと演じているんだよね。

 アラブの大酋長としての貫禄はもちろん大スターならでは。アラブ人は元々だからハマってて当たり前。しかもこの酋長、実に人間味がある。娘が可愛くて仕方なくて、人のいないところでは放任主義。だけどみんなの前では威厳を見せねばならない虚勢もある。

 一方酋長のくせに西部劇が大好きで、こっそり西部の話を書いた本を読んでいる。だからホンモノのカウボーイが来たら夢中になってしまう。何食わぬ顔をしながらも主人公の拳銃が欲しくて仕方なく、実は影ながら主人公を心の底で応援してもいる。最後には主人公に「相棒!」などと呼ばれるほど、男同士の心を通わせるに至る。これってシャリフでは近年一番の儲け役ではないか?

 何よりそんな人間味が、コッケイに笑い飛ばされずに愛すべきキャラクターと描かれているのがいい。ここでもジョンストン演出がシャリフのいい面を活かしているのだろう。そして、往年の大スターしか持てない貫禄と輝き。

 モーテンセンの確かな船出を目撃出来たのも良かったけど、僕にとってはオマー・シャリフ健在を実感出来たのが一番嬉しかったかもね。

 

 

 

 

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