「ディボース・ショウ」

  Intolerable Cruelty

 (2004/04/26)


  

今回のマクラ

 先日起きたイラクでの日本人拉致事件は、さすがに大騒ぎだったよね。

 結果無事解放となったから、まずはめでたし。日本人だけ助かればいいのか…という事はさておき、人が死ななかったのは正直言ってめっけものだったと思うよ。

 ところが助かった人質の人々が、早速イラクに留まりたい、戻りたい…と言い出したのは、さすがにちょっとマズかった。

 今回の事では、おそらく水面下で相当な働きかけがあったろう。外国の支援も受けたし現地の人々の尽力もある。そういう多くの人々の必死の努力の末の解放だと思われるだけに、喉元過ぎれば…的なこのタイミングでの発言には、さすがに多くの人が違和感を感じたはずだ。僕もハッキリ言ってこれはマズイんじゃないのとは思った。ちょっと置かれた立場が分かってないんじゃないか。

 ただね、僕は今回の事じゃ複雑な思いがあるんだよね。

 実は生還が決まる前から、日本国内では人質になった人々やその家族に非難ごうごうだった。その情け容赦なさに家族が倒れる一幕もあった。家族がマスコミを通じて国民に謝るってな事もあった。こんな事って珍しいんじゃないか。

 今回すごく驚いたのは、政府からマスコミ、世論までひっくるめて、みんな一気にこの人たちを公然と悪し様に言っている事だ。

 小泉首相やら川口外相やら福田官房長官あたりは、終始この人質家族たちに冷ややかだった。こいつらには、元々人間としてマトモな対応を期待しちゃいないけどね。そして拉致されていた時から、某雑誌を筆頭にしたマスコミが人質周辺の人々を攻撃し始めてもいた。おそらくそれらに乗っかっての、世論の冷たさじゃないかとも思うんだよね。

 それら某雑誌の記事等を斜め読みすると、人質のうち誰それが家族はガチガチ左翼系…とか、別の人質は大麻を吸った事があるとか、また別の人質は女房子どもを放ったらかしての行動…などと書き立てている。それらが事実かそうでないかは別にして、確かに人質たちのイメージはあまり芳しくはないらしい

 そうねぇ…そんな雑誌記事をいちいち真に受けはしないが、正直言って僕もあの人たちをヨイショする気はない。こんな事を言ったら怒られちゃうかもしれないが、元々ボランティア精神のカケラもない僕あたりだと、いささかあの手の人々は苦手なタイプなのだ。

 確かに正しい事を言ってるのかもしれないが、高校生から「劣化ウラン弾」云々と頭でっかちに理屈っぽく語られるのはちょっとねぇ。それよりは、まだセックスとか着るモノとかの話をされる方が血が通った人間らしくて気が楽だ。他の二人についても、ぶっちゃけた話をすればあまりお近づきになりたいとは思わない。あえてズバリと個人的な本音を言わせてもらえば…だよ。少なくともキレイ事にしてホメちぎる気にはなれない。だから今回こんなにみんながボロクソに言ってなければ、この僕が真っ先にチラチラ皮肉を言っているところかもしれない。

 ただ、今回の問題はちょっと違うんじゃないか?…と思わされるんだよね。

 例えば某雑誌あたりが人質周辺のプライバシーを書きたてた意図って何だろう? 確かにひょっとしたら好感が持てない連中かもしれない。だから…国に見捨てられて「見殺しにされても当然」…って事なんだろうか? あの記事の意味ってそういう事なのかい?

 そもそもこうした悪評って、どうも家族の人たちが政府に食ってかかったあたりから出てきたらしい。その言い方があまりに身勝手で傲慢…ってな受け取られ方をしたのかもしれない。でもね、肉親が殺されようって時に、キレない家族はないだろう。あなたは肉親の命がかかっている時に、自衛隊はイラクに残していい…なんて言えるかな? お国のために家族の命は捧げる…とでも言うのか? もしそうなら、そっちの方がよっぽど問題ではないか。小泉や川口や福田は、僕ら国民にそう言えと強要したいのか。だとしたら、おいでなすった正体見たり…という気がしてくるよ。

 人質の人やその家族に集中する非難…それは「お上には逆らうな」って事なんだろうか。僕はこれって絶対マズイと思うし、もしそれにみんなが賛同してるのなら、いささかヤバい事じゃないかと思うんだよね。

 そもそも今回のような事件は、予測できない事ではなかった。だから自衛隊を派遣しなきゃよかったのに…というのが本来の話の持っていき方だろうと思っていたら、どうも世の中妙な方向に話は流れていくから驚いたんだよね。確かにこんな時にノコノコあんな所に行った彼らは少々甘いし悪いよ。でも、本来語られなければならない事が放ったらかされて、ヘンな方向に一方的に話が流れていくのはいかがなもんだろう。

 その世論形成にマスコミが乗っているとすれば、これはちょっとゆゆしき問題だとも思うんだよ。深読みすれば、つい最近も某雑誌など田中真紀子の長女の話を書き立てて発禁騒ぎを起こしている。そんなこんなで焦っての、政府へのオベンチャラにゴマスリの大サービスか…と、イヤ〜な気分にもなってくるんだよね。これが奴らの言う言論の自由か。

 小泉首相などは終始「テロには屈せず」を言い続け、今回のこの決着で「自分は正しかった」と主張するのだろう。周辺の人間たちも、「首相のリーダーシップ」を賞賛する。だけどハッキリ言って、これでとんでもない事が起きてたら一体どうするつもりだったのだろう?

 そうなった時のための…あらかじめの「自業自得」イメージの形成だったとしたら…。

 そう考えると、僕はすごくイヤな気がするんだよ。オレたちは悪くない…って言い草だったらね。あいつら死んで当然だ…とかね。

 今じゃ政府周辺では、「自己責任」という言葉が一人歩きして盛んに語られている。止めたのに聞かない奴らは死んでも仕方がない…そんな事を政府周辺が、例えどうあれ自国民に向けて言っちゃっていいんだろうか? いろんな国からボランティアやジャーナリストは入って来てるはずだけど、それらの人々の国の政府はそんな事を公けに言うだろうか? 何はどうあれ自国民を守るのが国というものではないか。少なくとも「文明国」ではそうだ。これって政府の「自己責任」回避じゃないのかね?

 個人の「自己責任」…それがイコール公の「無責任」になるのはどういう事だ。

 中には某「与党」の悪代官ヅラの政治家など、「かかった費用を請求する」などと息巻いている始末。そんな事を言う国なんか、地球上のどこにもないよ。何だかあまりにセコくて貧しくて卑しい下劣な発想なんでイヤになるけど、これがまた結構世論に支持されているみたいで驚くよ。一体どこの国のトップが平気でこんな発言をするんだ。これがまかり通っちゃうのはせいぜい独裁政権の国ぐらいだろう。そんな非常識な発言に、ホントにみんなも賛同しているんだろうか? 街頭インタビューなどでも「自己責任」がないと憤る人々が後を絶たないが、そういう人たちって自分が「自己責任」を全う出来てると思っているのだろうか? あまり笑わせないでいただきたい。

 人質になった人たちは、ハッキリ言ってあまり好感が持てない連中かもしれない。さすがに僕もそう思わないでもない。だけど死んでいいとは思えない。自己責任が足らないかもしれないし、実際に考え方は甘いし分かってないとは思うが、だけど見捨てるべしとは思わない。かかった費用を請求しろとも思わない。だって彼らは無防備で安易な雪山登山をした連中とかとは違う。彼らは少なくとも遊びやお楽しみで行った訳ではない。その考え方はどうあれ、誰か他人のために行った事には違いないだろう。それを冷暖房が効いた部屋でヌクヌクやってる、僕らごときが悪し様に言う資格はないだろう。言わんや政府の人間が言うべきでもない。彼らがアメリカの言いなりになったツケが、こんなカタチで巡り巡って来てるんだからね。そもそも「金返せ」ってのは貧しすぎるだろう。そして「金返せ」と言うのなら、僕ら国民はもっともっと政府に対して「金を返して」もらいたい事が山ほどある。そんな「無責任」な政府が国民に「自己責任」を求めるなんざ、チャンチャラおかしいとは思わないか?

 それなのに政府のてっぺんからマスコミ…さらには国民に至るまで、みんなで寄ってたかってあの連中をボコボコにしてテメエが正しい事をしていると思っているとは…。みんなうまく乗せられちゃったんだろうか。僕にはこれって、もはや末期症状のように思えてならないんだよね。

 だって彼らは、いま無防備だ

 そして僕はこれって、例の鳥インフルエンザの浅田農産を連想してしまった。インフルエンザにかかった事がミエミエなのに、それを隠してニワトリを売り飛ばそうとしたあの事件。確かに彼らは悪い。おまけに病気を余計に蔓延させてしまう。大罪だと言ってもいい。

 当然お上からマスコミから国民から非難ごうごう。僕もとんでもない奴だとボロクソ言った覚えがある。

 ところが、その浅田農産の会長夫妻が自殺してしまった

 人が死んでしまってからこんな事を言うのは遅すぎると百も承知。だけど遅ればせながら、僕も頭を冷やして考えた。もし自分の養鶏場から鳥インフルエンザが出たらどうするだろう? もちろん素直にそれを申告するのがいいに決まってる。だけど…そうなったらニワトリはみんな殺さねばならず大損害が出る。一旦鳥インフルエンザの前科を持ったら、評判を取り戻すのは並大抵ではないだろう。イマドキの不景気な時に、これ以上の金銭的打撃は持ちこたえられないかもしれない。すでに経済的に追い詰められているのかもしれない。取引先にも迷惑がかかる。まして周囲何十キロという範囲の養鶏業者も被害を被る…となれば、果たして正直に申告するだろうか? 黙って売り飛ばしてしまおう…と魔が差して思わないだろうか? いい事だとは思わない。だけど僕らがあの浅田農産を非難出来たのは、たまたま自分が幸運にもその立場にいなかったからだ

 本来これって彼らがもっとラクに自己申告出来るようなシステムさえ出来ていれば、こんな事にはならなかったはずだ。だが養鶏業者が保護されるようなシステムは、きっとなかったんだろう。だとしたら…やっぱりここでも政府お得意の「自己責任」任せが災いしたと思うよ。

 そんな言わばどうする事も出来なかった会長夫妻を、それこそ政府からマスコミから国民に至るまでコキ下ろした。集中砲火を浴びせた。何のことはない。この僕も一緒に文句を言った。

 そして…殺してしまった

 無防備な人を、自分は安全な立場にいる事を良いことに、袋叩きにして殺した。この僕も殺した。僕らはみんなで寄ってたかって…罪はあるかもしれないが、死をもって罪を償う必要のない人間を二人も殺してしまったのだ。リンチにかけて殺してしまった。例えどうあれ、「人殺し」には変わりはない

 そして…いま、「イラク人質」の人々に非難の嵐。僕はね、もう小泉たちの片棒担いでこれ以上人を殺したくはないんだよ。他の人にも殺して欲しくはない。そして何があっても自分たちだけは安全な位置にいる、エラいヤツらを喜ばせたくない。

 何度も繰り返すけど、僕は申し訳ないが確かにあんまりあの「イラク人質」の人たちには共感していない。あの人たちを美化してヨイショする気もない。だけど…甘ったれてるし頭でっかちだしピントはずれで愚かではあっても、彼らには少なくとも理想のカケラぐらいはあっただろう。どこか偽善めいた臭いもするし好きになれない背景もあるかもしれないが、それでも何もやってない傍観しているだけの輩にとやかく言われる筋合いはあるまい。彼らとツルみたくもないしまるっきり支持したいとも思わない。取り巻きの連中もいけ好かない連中ばかりかもしれない。事ここに及んでもまったく反省してないアホかもしれないが、この件で非難をぶつけるのは僕らにはお門違いのはずだ。なぜなら彼らは、そこにどんな意図があったかは別として、確かに僕らが出来ない…やろうともしなかった本当の意味での「人道的支援」をしようとしていた。まして無為無策どころか、「国益」にもならない間違った政策をゴリ押しする政府の連中には、それを大いばりで非難する事など出来ないはずだよね。

 だったら、ただ黙っている事だ

 人質になってた人たちを、支持をしたいともすべきだとも言わない。だが僕らは、彼らを攻撃する立場にもないはずだ。だったら黙っていよう。オノレの器と置かれた立場をわきまえて静かにしていよう。気に食わなかろうが何だろうが、自分たちがとやかく言うのはスジ違いならば黙っていようではないか。人に「自己責任」なんぞを問おうと言うのなら、自らも「責任」ある態度を持つべきだ。それが真の良識というものだろう。

 少なくとも一番やってはいけないよね、無防備な人間を袋叩きにするなんて事は。そして何かをしようとした人間に、何も出来ないしやる気もない奴が冷笑を浴びせるなんて事は…。

 

見る前の予想

 コーエン兄弟の新作…と言えば、期待の作品ってことになるんだろうね。

 彼らのデビュー作「ブラッドシンプル」から見てきて、「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」でシビれて、僕のご贔屓監督の一人…いや、兄弟で映画をつくっているんだから二人か…になった彼らではあった。だけど「バートン・フィンク」でアレッ?…と違和感を感じてからの彼らの作品には、少なからず疑問を感じないでもなかった。

 うまい…確かにうまい

 元々映像のテクニシャン的な部分が大きかったコーエン兄弟だったんだけど、この辺りに来るとそのうまさのひけらかし方というか映画そのものの饒舌さがうるさくも感じた。そのイライラの頂点に達したのがオー・ブラザー!という事になるのだろうか。

 ところが前作バーバーでは、そんなテクニックのうるささが影を潜めた。饒舌なカメラの技巧、饒舌な人物設定、饒舌な台詞が控えめになった。そもそも主人公が無口な男、映像は抑えに抑えたモノクロというのも良かったのか、この映画は僕にとって久々にクリーン・ヒットとなったコーエン兄弟作品だったんだよね。

 それから待つことしばし。ようやくコーエン兄弟の新作がやって来た。主演には「オー・ブラザー!」に次いでのジョージ・クルーニーとアブラの乗りきったキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。期待と言えば期待、不安と言えば不安。

 果たして今回の新作は、凶と出るか吉と出るか?

 

あらすじ

 ご機嫌で豪邸に帰宅したテレビ・プロデューサーのジェフリー・ラッシュ。だが、彼は自宅前にプール清掃人の車が停まっているのに首をかしげた。彼の家にはプールがない。しかも妻は慌てて髪もクシャクシャなまま出て来るではないか。続いて出てきた問題のプール清掃人は、ペラペラと浮気の事実を語りだした。そうなるとたちまち修羅場。ラッシュは銃を取りだして撃ちまくる。妻はそんなラッシュの尻にエミー賞トロフィーの尖った先端を突き立てる。そんなこんなで妻はクルマで逃げ出すものの、ラッシュはなぜか不敵な笑みを浮かべている。さらにポラロイド・カメラで自分の尻の傷まで写すハシャギようだ。そう、これは離婚訴訟の格好の証拠になる

 アメリカの生活は、何から何まで訴訟の上に成り立っている。巨大な法律事務所に働く弁護士ジョージ・クルーニーは、結婚問題で抜群の能力を見せる弁護士だ。今までも相棒のポール・アデルスタインと共に、さまざまな戦果を挙げてきた。例のラッシュの妻も、このクルーニーの元に相談に訪れた。聞けばこの妻は圧倒的に不利な状況だ。それでも何とかします…と豪語するクルーニーには、何と言っても長年に培われた自信があった。例えどんな状況であっても、彼には依頼人のために配偶者から身ぐるみ剥がすだけの力があったのだ。

 さて一方、イケてる美女を連れてモーテルへシケこんだ紳士エドワード・ハーマン。彼が今にもイケない振る舞いに及ぼうという時、ビデオカメラを持った男がモーテルの部屋に乱入した。この男セドリック・ザ・エンターテイナーは、ハーマンの妻キャサリン・ゼタ=ジョーンズに雇われた私立探偵だった。絶対の浮気の証拠を確保したゼタ=ジョーンズは、しかしさほどショックは受けてはいないようだ。

 慌てたハーマンはこの道の専門家クルーニーの元へ駆け込んでくる。これまたどう考えてもハーマンが不利。それなのにこの男、とんでもない事をクルーニーに頼み込む。今は大事な事業に金が要る。別れる妻などにやる金は一銭たりとてない。あの女にビタ一文渡さないで済ませられないか?

 これを聞いたクルーニーは、困るよりむしろ奮い立った。「これは一つの挑戦ですな」

 早速クルーニーの事務所で、夫側妻側がテーブルについて最初の面談。ゼタ=ジョーンズは彼女の弁護士リチャード・ジェンキンスを従えてやって来た。そんなジェンキンスは、今までもクルーニーにコテンパンにやられてきた人物だ。今回の席でも、クルーニーはアレコレ口八丁でその場を完全に掌握しきってしまう。そんなクルーニーに、ゼタ=ジョーンズはなぜか微笑みかけた。クルーニーもまたゼタ=ジョーンズの美貌が心に残る。

 まずはクルーニー、何を考えたかゼタ=ジョーンズを呼び出した。それは彼女の魅力にまいったのか、それとも…。普通に考えればこれは弁護士として越権行為だ。それでもまるで平気…と余裕たっぷりなクルーニー。そんな彼にゼタ=ジョーンズも惹かれたのかどうか…。

 一方クルーニーは、例の探偵セドリックを抱き込んでいた。ゼタ=ジョーンズは家から夫ハーマンを追い出した後、猛犬を飼って誰も寄せ付けないようにしていたが、セドリックはそれでも中に忍び込んで何やらブツを手に入れた

 さて問題の裁判の日がやって来た。ガラにもなくピンクの服で同情を買うゼタ=ジョーンズ。そこに例のビデオが証拠物件として出てきたから、法廷の雰囲気は一気にゼタ=ジョーンズへの同情へと傾いた。ところがクルーニーは慌てず騒がず、新たな証人を出してきたからビックリ。それはゼタ=ジョーンズの過去に関わる人物だった。言うまでもなく、それはクルーニーが探偵セドリックに手に入れさせたモノ…ゼタ=ジョーンズの住所録の写しから得た情報だった。

 それはかつてゼタ=ジョーンズに男を紹介していた人物。彼女は「夫」とするべき、金持ちで頭が悪くて、おめでたい男をこの人物から教えてもらっていたのだ。そして、この人物がゼタ=ジョーンズに教えたのが、今回の夫ハーマンだった。

 元々金目当ての結婚…とバレてしまっては仕方がない。金のために結婚したはずのゼタ=ジョーンズは、この離婚で一銭も手に入れる事なく放り出されてしまう。仕方なく、同じように金目当ての結婚離婚を繰り返し、「離婚太り」した女友だちの屋敷に身を寄せるゼタ=ジョーンズ。しかしながら、そんな女友だちが折角得た金もロクに使って楽しめない現実に、複雑な思いを噛みしめずにはいられない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうは言ってもこのままクルーニーに完敗して、ゼタ=ジョーンズの気が済む訳がなかった。何を思ったのかゼタ=ジョーンズは、今は財産をむしり取られて路上の浮浪者と化したジェフリー・ラッシュを訪ねる。

 一方、裁判に圧勝して意気上がるクルーニーの方も、実は少々疑念が頭をもたげてきた。この大勝利に法律事務所のボスからはベタホメ。それはそれで喜ぶべき事なのだろうが、普段は事務所の奥深い部屋に籠もるこのボスと面会して、クルーニーは驚愕を隠しきれなかった。もはや数々の医療装置にカラダを縛られねば生きられない、法律知識と人間不信に凝り固まり孤独にただ生きているだけの老人。そんな怪物じみた男にホメられたところで、素直に喜べる訳でもないだろう。自分はああなりたくない…クルーニーがショックで落ち込んでいる折りもおり、ゼタ=ジョーンズが訪ねて来たと聞いて狂喜したのも無理はない。実は彼がゼタ=ジョーンズに魅せられていたのはウソではなかった。

 しかし彼女の訪問は、クルーニーに二度目のショックをもたらした。彼女は今度は石油王のビリー・ボブ・ソーントンを伴ってやって来たのだ。このソーントンと結婚すると言うゼタ=ジョーンズ。だが当のソーントンは教養や品などカケラもない男。どう見たって金目当てだ。ところがゼタ=ジョーンズの頼みとは他でもない。クルーニーに婚前契約書をつくってくれと言うのだ。

 婚前契約書…それは例え離婚しても財産分与を求めないという、言わば「真の愛の証」。つまりゼタ=ジョーンズは金目当てではなく、真の愛情からこの無教養なソーントンと結婚しようと言うのだ。これにはクルーニーも驚いた。驚きが過ぎた後には悔やしさが芽生えた。自分が惹かれたあのいい女ゼタ=ジョーンズが、みすみすあの下品なソーントンの妻になるなんて…。

 やがて訪れたゼタ=ジョーンズとソーントンの結婚式の日。相棒アデルスタインと参列したクルーニーは苦り切っていた。ところがお楽しみはこれからだった。結婚式の席上、ソーントンは「彼女への愛を証明すべく」例の婚前契約書をムシャムシャ食い始めたのだ。これにはクルーニーも恐れ入った。どう言いくるめたか知らないが、ともかくこれで離婚したら財産がゼタ=ジョーンズに転がり込んでくる。改めてゼタ=ジョーンズのしたたかさに舌を巻くクルーニーだった。

 それから数ヶ月が経って、相棒アデルスタインとラスベガスにやって来たクルーニー。ここベガスで結婚問題専門の弁護士総会が開かれる事になって、クルーニーはゲストとして招かれたのだ。ところがそのホテルでゼタ=ジョーンズを見かけるクルーニー。聞けば彼女はあのソーントンと離婚したと言う。ならば目的を果たして、巨万の富を手に入れたはずだ。だがその表情は冴えない。その夜ゼタ=ジョーンズと語り合いながら、クルーニーの胸中も穏やかではなかった。

 その夜、ホテルの部屋で悪夢に目覚めるクルーニー。夢にはあの事務所のボス…怪物と化した老人が現れた。ああなりたくない、ああなったらオシマイだ!…そんな時、彼の部屋の電話が鳴った。

 それは突然のゼタ=ジョーンズの呼び出しだった。駆けつけてみると、彼女も動転している。実はゼタ=ジョーンズの「離婚太り」の女友達が、病で急に亡くなったというのだ。金は手に入れたのかもしれないが、それを楽しむ事もなく孤独に死んだ友…それはクルーニーが漠然と抱いていた不安と重なって見えた。

 結婚だ!

 ここベガスでは結婚も離婚も思いのまま。彼はゼタ=ジョーンズの手をとって、簡易式場へ駆け込んだ。しかもクルーニーらしく、ちゃんと婚前契約書も忘れなかった。それは離婚しても彼女の財産には手をつけない…つまりクルーニーからゼタ=ジョーンズへの「愛の証」だった。

 だが初夜のベッドで、ゼタ=ジョーンズはその婚前契約書を破り捨てた。これぞ今度は彼女から彼への「愛の証」。感動したクルーニーは、ゼタ=ジョーンズと固く抱き合うのだった。

 翌朝、クルーニーは弁護士総会の壇上にいた。この道のプロ中のプロのクルーニーは、今回スピーチを頼まれていたのだ。だが壇に立ったクルーニーは、用意していたスピーチ原稿を破り捨てた。

 愛という言葉に、しばしば我々は冷笑で応える。だが我々弁護士は、愛が窮地に立った夫婦に、それを取り戻させる手伝いこそをすべきではないのか?

 「僕は今、恋している男だ。生まれて初めて無防備だ。でも、僕は愛を信じている

 予想外のスピーチにドギモを抜かれた参加者。だがそのうち共感の拍手が一人…また一人。しまいには万雷の拍手が彼を包んだ。もう悪どい離婚稼業から手を引き、人道的な仕事に就こうと決意するクルーニー。彼は生まれて初めてスッキリした気分でご機嫌だった。サッパリしたところでアデルスタインとバーで一杯…と思った矢先…。

 テレビにドラマが写し出されている。そこに出ている役者は…あのソーントンではないか? 奴は石油王ではなかったのか?

 イヤな予感にホテルの部屋へと駆けつけるクルーニー。案の定、ゼタ=ジョーンズは荷造りの真っ最中だ。そう、彼女はソーントンと結婚した訳ではなかった。だから離婚によって得た財産もなかった。そしてクルーニーとの結婚でつくった婚前契約書は破り捨てられた。だから今、彼女はクルーニーの財産を手に入れる権利を持っているのだ

 あまりにあまりの事で、呆然と立ちすくむしかないクルーニー。

 だがベガスから帰る飛行機の機上、ゼタ=ジョーンズはスチュワーデスに声をかけられる。「負けたんですね? 表情を見れば分かりますわ」

 ゼタ=ジョーンズはそれを否定せず、冴えない表情のまま答えた。「そう。そうかもしれないわね…」

 

見た後での感想

 何だかこのまま終わっちゃいそうなストーリー紹介だが、実はこの後も二転三転の展開がある。これまた抱腹絶倒の趣向満載。ここからは映画そのもので楽しんで欲しい。

 僕は先に、一時コーエン兄弟のこれみよがしの「うまさ」がイヤミになった…と言ってたよね。それが「バーバー」で一気に払拭されたとも。さて、この「ディボース・ショウ」はどうだったか?

 これ、結構楽しめる

 「バーバー」ではあの饒舌さが一掃されたと言ったが、ここでもコーエン兄弟は、デビュー当時から持っていた映像テクニシャンぶりを抑えている。あのカメラが語りに語るコテコテぶりがない。凝った台詞がポンポンと飛び交うのはいつもながらだが、それは当然だろう。なぜなら今回は往年のハリウッド・スクリューボール・コメディのスタイルを継承しているからだ。そこではシャレた会話が絶妙のテンポとリズムで飛び交うのがお約束。粋な会話が売り物のジャンルだ。コーエン兄弟は、そんなハリウッド伝統のジャンルをここに復活させているんだよね

 元々僕がコーエン兄弟に惹かれたのは、彼らがハリウッド=アメリカ映画の良質な部分の継承者として出てきたからだ。僕は子どもの頃、浴びるようにテレビで往年のアメリカ映画を見て育った人間だ。その善良さ、健全さ、理想主義、オーソドックスな語り口に惹かれた。それが僕の映画好きの発端となった。でも、その後アメリカ映画は変質して、かつての良質な部分も影を潜めた。それをどこか寂しく思っていたんだよね。

 ところがコーエン兄弟は、それを今の感覚と技術で焼き直して見せてくれた

 「ブラッドシンプル」「赤ちゃん泥棒」「ミラーズ・クロッシング」…と最初の3本に惹かれた理由は、絶対にそこにあると思っているわけ。往年の犯罪映画やらドタバタ・コメディを今の時代に巧みに焼き直した面白さがあるんだよね。それが「バートン・フィンク」からは悪しき「作家主義」みたいなものを見せ始めたもんだから、ちょっと失望しちゃったという事なんだろう。そうなると、それまで気にならなかった巧みな技巧もイヤミにしか見えない。奇をてらったような人物設定もいやらしく見える。

 そんな僕にとってのコーエン兄弟不毛の時代、唯一僕が気に入っている作品は「未来は今」だ。これはそれまでの作品に増して、コーエン兄弟がフランク・キャプラなどの往年のハリウッド・コメディを再現したような映画だ。巷の評判はイマイチだったけど、僕はこっちこそコーエン兄弟の本領だと今でも思っている。

 そういう意味で、「ディボース・ショウ」はこの「未来は今」以来の古典的ハリウッド・コメディ再生産の一作と言える。セックスを交えず、ポンポンとシャレた会話で展開する都会男女の恋の駆け引き。演じる二人、ジョージ・クルーニーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズは、今のハリウッドには珍しくボリューム感のあるスターの豪華さを感じさせる役者たちだ。残念ながらブラッド・ピットやジュリア・ロバーツではこうはいくまい。

 だから「ディボース・ショウ」は、ある意味でコーエン兄弟が原点に立ち戻った作品だと言える。だが、僕が気に入ったのはそれだけではない。

 それは、僕が先に語った「饒舌さを抑える」という点だ。

 カメラの動きなど、この映画の語り口はあくまで往年のハリウッド・コメディを再現するかのようにオーソドックス。当初からコーエン兄弟がやたら見せていた、派手なカメラワークはない。それはこの映画の一場面を思い起こせば分かる

 「愛」についての大演説をぶってご機嫌なクルーニー。相棒を伴ってバーに腰かけ、そこにあるテレビ画面にソーントンを見つけた瞬間…驚愕のあまり、クルーニーと相棒はお互い顔を見合わせ絶叫する

 これと同じ趣向は、「赤ちゃん泥棒」でも多用されていた。例えば赤ちゃんをさらった賊の二人組が、クルマで逃走中に赤ちゃんの不在に気づいて絶叫するワン・ショット。お互いの顔を大げさに見つめながら、同時に絶叫する趣向も「ディボース・ショウ」のくだんの場面と同じだ。そこでは確か遠近感が強調される広角レンズが使われ、目をむいて見つめ合い叫ぶ二人の顔がえらく誇張されて写されていた。それは言わば、「トムとジェリー」あたりのアメリカの連続活劇アニメにも似た構図と演出だ。早い話がマンガなわけ。

 ところがこの「ディボース・ショウ」では、同じ趣向で同じ演技が行われるにも関わらず、レンズも構図も極めて標準的なもの。あくまで二人の役者のオーバー・アクションなコメディ演技にとどまり、アニメ的演出まではいっていない。このあたりの抑えぶりが、これみよがしにひけらかす「うまさ」とは一線を画しているんだよね

 人物設定や場面設定の奇妙さも、最小限度にとどまる。クルーニーがしきりに歯を気にするあたりとか、クルーニーと相棒のやる気のないテニスコートでの場面あたりを見ればお分かりいただけるだろう。何が何でも受けをとろうといういやらしさがない。

 ジェフリー・ラッシュ、ビリー・ボブ・ソーントンなどといったクセ者役者がコテコテ芝居を見せてはいるが、演出にはむしろあの「濃さ」が影を潜めているのが印象的だ。むしろサクッと見せるサッパリ感の方が強い。

 それもこれも、「バーバー」という寡黙な作品でアク抜きしちゃった後だから…という事なんだろうか。

 

見た後の付け足し

 そんなこんなで「気に入った」…と僕は言ったけど、この映画ってコーエン兄弟の新たなキャリアの1ページになるようなものではない。面白いけど、見たらすぐに忘れそうだ。「バーバー」のようなズシンとくる重さもない。実に軽い。サクッと見せる…というのは自分ながら的を射た表現で、それ以上でも以下でもない作品だ。

 むしろコーエン兄弟としては、往年のプログラム・ピクチャーのようにつくったという事だろうか。数限りなく製作され、どんどん映画館で消費されていった作品。年間ベストテンなどに顔を出すこともなく、ただ映画館にふらりと足を運んだ観客を楽しませた作品。

 そういえば共通するテイストとして挙げた「未来は今」も、コーエン兄弟のキャリア上では大きい存在感を見せてはいない。そして気づいてみると、「未来は今」はジョエル・シルバー、この「ディボース・ショウ」はロン・ハワードと組んでいるブライアン・グレイザー…と、どちらもハリウッドの大物プロデューサーと組んだ作品だ。インディペンデントな立場にいる映画作家コーエン兄弟としては、これらはあくまで雇われ仕事という事なのだろうか。そのへんの気楽さが、作品の大きさにも反映されている。むろんここではそれはホメ言葉だ。ここにはそんな気楽さが生んだ肩の凝らない楽しさがある。どんな映画でも映画史を揺るがさなければならないって事もないだろう。

 それでもこの作品には、コーエン兄弟が「バーバー」を通過した痕跡みたいなものが認められるのだ。

 弁護士総会でスピーチをしなくてはならないクルーニー。だが彼は昨夜のゼタ=ジョーンズとの結婚で生まれ変わった気分になっていた。そこでシニカルな弁護士らしい態度をかなぐり捨て、ええカッコもせずに熱く語り出す。「愛を冷笑してはいけない!」

 そのクルーニーの姿は、昨夜のてんやわんやでヨレヨレ。無精ヒゲが生えて、ワイシャツもズボンからハミ出している。その姿、そして熱く語る様子は、まるでフランク・キャプラ作品「スミス氏都へ行く」のジェームズ・スチュワートあたりを思い出させる。語られている内容もそうだ。堂々たる理想主義。それこそイマドキでは冷笑される類の言葉だ。

 結局このスピーチは拍手喝采で迎えられるものの、その後クルーニーは冷水を浴びせかけられるようなハメに陥る。だから、このスピーチも滑稽と言えば滑稽なモノかもしれない。だけど映画は、決してこのクルーニーをバカにしてなんかいない。その後のクルーニーの顛末を笑いでくるみながらも、この主張までは笑い飛ばしていない

 考えてみると、コーエン兄弟はこれまで自分の作品の中で、声高にメッセージをうたい上げるような事はしてこなかった。何せ「うまさ」と「テクニック」の人たちだ。プロの弁護士が正義はどうあれ勝敗こそすべてであるように、彼らもメッセージよりテクニックの人だった。だから、そんなヤボなマネなどするまい。

 だが「バーバー」からは、明らかに彼らは「言いたい事」を持っているように思える。ただし「バーバー」ではあくまで密やかに…寡黙な表情と主人公がブツブツとつぶやくモノローグで、極めて控えめに語られていた。

 ならばこの「ディボース・ショウ」でも…「愛を冷笑するな!」はコーエン兄弟の大マジメな主張ではないのか?

 ただし、それを結論として高らかに主張するのは気が退ける。あくまでドラマはドラマとして、婚前契約書を小道具にシャレた展開でさりげなく出したい。でも…それでもこれだけは言いたい。だからこの弁護士総会のスピーチ場面で…後にオチは控えているけれど…主人公に思いっきり語らせてみたかったのではないか? これが映画の「結論」のカタチを取らなかったのは、コーエン兄弟の照れではないのか?

 「ディボース・ショウ」のクルーニーはスピーチでこう告白した。「自分は今、とても無防備だ」…と。

 冷笑的な態度をとるのは、ホントの気持ちを出して傷つきたくないからだ。本当の真心を出した時、人はしばしば傷つく。痛い目に合う。生き馬の目を抜く現実社会では、だから人は自分の本心を装ってしまう。なかなか心の内は見せられない。それが時として、男女に限らず人間同士に距離をつくり不幸にもする。「バーバー」の主人公も、ラストにはこうつぶやいたではないか。「この世では女房には言えなかった言葉も、あの世だったら言えるかもしれない」

 それまでは…むしろ「冷笑」する方だったコーエン兄弟。マジな態度をからかって、笑いモノにしたり高みの見物を決め込んでいたコーエン兄弟。それが「バーバー」「ディボース・ショウ」…と、極めて控えめに分からないように…何かを語り始めた。

 彼らがここで少しづつ本心を打ち明け始めたとすれば、それこそ最も注目に値いする「勇気ある行為」だと思うんだよね。

 

 

 

 

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