「グッバイ、レーニン!」

  Good Bye Lenin !

 (2004/04/19)


  

見る前の予想

 この映画、昨年の東京国際映画祭で上映された時から評判がすこぶる良かった。お話が何と言っても面白そう。うまいところに目を付けたなぁと感心した。で、公開されたら案の定大ヒットだ。

 それはいいんだけど、いつになっても混み過ぎちゃって、とても見に行けない。何しろ上映一時間半前に行っても席が残り三つとかそんな具合だからね。そのうち僕もちょっとこの映画に対して、気が退けちゃったところがあるんだよね。

 というのは、確かに見たいことは見たいけど、それほどまでのものかなって事なんだよね。

 面白い事は面白いんだろう。きっと見ても満足するに違いない。だけどハッキリ言ってこのお話、耳にしたストーリーで面白さがすべて分かっちゃったと言えば分かっちゃったところがあるんだよね。

 これに限らず卓抜したワン・アイディアで見せちゃう映画ってのは、そのネタを割れたカタチで見に行ったら、その「面白い仕掛け」を確認するだけの作業になりかねない。もちろんディティールの良さとかうま味とかってのは、実物と接しなければ分からない。だけど映画の面白さの最大のところがその着想にあるような映画の場合、それを知っていて見に行ったら「なるほど〜」と感心するだけにとどまってしまう恐れがあるんだよね。そして見る前から何となくそれ以上のモノはそれほどなさそう…という予想もついてしまう。もちろん例外は数限りなくあるんだけどね。

 ともかくムチャクチャ混んでいるという事もあって、それほどまでにして見たい映画だろうか…と多少腰が退けてしまう気がしてきたわけなのだ。

 これが映画祭で何も知らずに対面するのならねぇ…だけどイマドキは大なり小なり、テレビスポットやら予告編やら、雑誌の紹介やらレビューやらで、内容を知っちゃって見ざるを得ないからね。そういう意味で僕らは、この「グッバイ、レーニン!」の一番面白い部分を知っちゃった上で見に行くことになってしまうわけだ。それでもサクッと見れたら「面白かった」となるだろうけど、何時間も待たされて一日棒に振った上で見せられるとなれば…そこまでして見たいもんかなぁという気にもなるもんだよね。

 まぁ、実は今回何となくスルッと見れちゃったからいいものの、それでも僕はそんな気分でスクリーンと向き合った事を認めなければならないね。

 

あらすじ

 壁が崩壊する寸前の東ベルリン。自分の息子が自由化を求めるデモに参加しているのを見て、社会主義一辺倒のお母さんは心臓発作。そのまま意識をなくしているうちに、いつの間にか壁は崩れ、ドイツは統一。西側資本主義がすごいスピードで流れ込んできた。そんな時にお母さんは意識を取り戻す。だがこれ以上ショックを与えたらどうなるか分からない。壁崩壊、ドイツ統一を知らせるなんてもってのほかだ。そこで息子は必死の思いで、お母さんに東ドイツがなくなった事を知らせないようウソをつこうとする。お母さんが寝たきりなのを良いことに、古着を持ち出し家具も古いモノを引っぱり出して、とにかく昔のままの生活が続いていると思わせる。果たして息子はウソをつき通せるのだろうか?

 …と、まぁそんなお話だ。あまりに簡単すぎるって? じゃあもうちょっと詳しく書くと…。

 

 

 

お話はもういい…という人は先に進む

 

 

 

あらすじその2

 ここは東ベルリン。この家の長男ダニエル・ブリュールの家庭が大きな曲がり角に立ったのは、1970年代のある日。東ドイツ人の宇宙飛行士ジークムント・イェーンが、時のアポロ・ソユーズのドッキング計画に参加して、東ドイツで初めて宇宙に飛んだ日のことだった。まだ幼かったブリュールの父親は、仕事で西ドイツに行ったまま帰って来なかった。イェーンが東ドイツを代表する英雄となった日、彼の父親は祖国東ドイツを裏切ったのだ。

 これは母親カトリーン・ザースにとっても痛手だった。ショックで口がきけなくなる母親に、ブリュールも姉のマリア・シモンも為す術がなかった。それでも立ち直って家に戻ってきた母親は、それまでとはどこか一変していた。

 夫を失った母ザースは、改めて社会主義と結婚したのだ

 熱心に社会活動に入れ込む母。その業績が認められ、勲章までいただくほどだ。母ザースにとっては、社会主義体制にシラけるという事はまったくなかった。

 そしてブリュールも姉シモンもいいかげん大きくなった1989年。

 ブリュールは立派な青年になり、テレビ修理屋で働いていた。姉のシモンは結婚して子どもまでつくりながら、離婚して家に戻ってきている。事件はそんなある晩に起こった。

 ブリュールが自由化を求めるデモに参加したのだ。とは言っても別にすごく政治意識があった訳ではない。この時代、もはや人々は社会主義の締め付けに飽き飽きして、ゴルバチョフのペレストロイカに始まる自由化、解放に望みを託していた。

 ブリュールはと言うと、このデモの最中に可愛い女の子チュルパン・ハマートヴァと知り合ってご機嫌。だが警官隊が行く手を阻み、デモの参加者は次々逮捕されていった。もちろんブリュールも。

 そんな彼の姿を、事もあろうに母ザースが目撃していた!

 あまりの事にショックを受けて、その場に倒れ込むザース。だが捕まって警察のクルマに乗せられたブリュールには、どうする事も出来なかった。

 釈放された彼を待っていたのは、母ザースが意識不明で重体という知らせ。

 ザースはそのまま眠り続け、折からものすごいスピードで進行していった、東ドイツの変化を見届ける事は出来なかった。壁の崩壊、資本主義の流入、東西ドイツの統一…それでも母ザースは眠り続けた。生活の変化はブリュールとシモンにも否応なしに訪れ、ブリュールは衛星アンテナの販売員に、シモンはバーガー・キングの店員へと転身。ブリュールはそこで西からやって来た映画オタクのフロリアン・ルーカスという友人を得て、シモンは店員仲間の男と家で同棲を始めた。

 そんな中、母ザースの見舞いは欠かさないブリュールだったが、それというのも病院にあの可愛い子ハマートヴァが偶然看護婦として働いていたからだ。彼女はロシアからやって来た見習いだった。ブリュールは母への見舞いにかこつけて、チャッカリ彼女と親しくなっていく。

 ところがそんな1990年、母ザースが突然息を吹き返す。嬉しいには嬉しい。だがブリュールには両手放しに喜べない事情があった。意識を取り戻したとは言え、いまだに心臓に爆弾を抱えるザース。医者はこれ以上ショックを与えたら危ない…とクギを刺した。ならば息子がデモに参加しただけで倒れた母のこと、東ドイツ崩壊など絶対に知らせるわけにはいかないではないか。

 病院に入れていたら、母ザースが真相を知るのは時間の問題だ。かくして一計を案じたブリュールは、自宅の部屋を母のためにあて、ここで自宅療養させる事にした。不幸中の幸いと言うべきか、母はベッドで寝たきりだ。ならば部屋の中で外の変化が分からないようにすればいい

 まずはお払い箱にした古い家具を部屋に戻す。母の前に出る時は、ブリュールもシモンも誰も彼も、東ドイツ時代のヤボ臭い古着を着せる。だが事はそんな程度では済まなかった。

 食料品すら東ドイツ時代のモノは市場から一掃されていた。スーパーにも商店にも、もっと見てくれのいい西ドイツ商品が溢れかえる。ブリュールは苦心惨憺、昔のビンをゴミ箱からあさってラベルを貼り替えるというアリサマ。

 誕生日には母ザースの旧友たちを招待してパーティーを開くが、皆には厳しく口止めしなけりゃならない。すっかりイマドキのガキになった子どもたちを呼んで、昔の清く正しい歌なんか歌わせたあげく、小遣いまでくれてやるハメになる。

 こんな状態に姉のシモンも恋人のハマートヴァもキレそうになるが、ブリュールはヒンシュク買いながらも無理やりウソをつきとおそうとする。彼は元々発作の原因を自分がつくり出したという、心の負い目もあったのだろうか。

 しかし、そんな奮闘努力も水泡に帰するかと思われる一幕があった。窓から見える建物の壁面に、でっかいコカコーラの広告が掲げられたのだ。こりゃ絶体絶命。

 ここでブリュールは奇策に出た。友人ルーカスの映画オタクぶりを見込んで、偽のニュースをビデオでつくり出す。何と東ドイツ当局がコカコーラの受け入れを交渉中…と大ハッタリをかましたのだ。これで母ザースが納得したかどうか。

 それでも次の危機がやってくる。ブリュールが居眠りをしているうちに、母ザースがノコノコとオモテに出てしまったのだ。そこで見たものは?

 東ドイツ時代には絶対にあり得ない西側のクルマの洪水。そしてヘリコプターで吊り下げられていくレーニン像…。それらを見た時、母ザースの胸中に去来したものは…?

 それでもブリュールは無理やりのウソを押し通す。今度は東ドイツが西ドイツ難民を受け入れる…というウソ八百ニュースだ。これも母ザースは信じたかどうか…。

 ある日、一家は母ザースを連れて、田舎の別荘へと遊びに行った。そこで母は何を思ったか、父の亡命の真相を語った。実は母ザースは、父の亡命を分かっていた。それどころか本当は先に父が出国し、後から母が子どもたちを連れて追いかける算段になっていた…とも。だけど母は出来なかった。結局亡命を諦めた母は、社会主義東ドイツにとどまり、運命を共にする事にした…。

 それを打ち明けて気が緩んだのか、その夜、母ザースの容態は急変。また病院へ舞い戻る事になった。いよいよ覚悟を決めたブリュールは、ある決心をするのだが…。

見た後での感想

 ハッキリ言って、この映画は見る前の予想と寸分たがわなかった。着想は抜群で面白い。まず、それは認めざるを得ないよね。

 善意のウソをつかねばならぬ主人公が、そのウソをどんどんつき通さねばならなくなる…というシチュエーションのコメディは、それこそ星の数ほどある。軽い気持ちでウソをついた…とか、ウソをつくつもりはなかったのにウソをついたとか、そのへんの違いはいくらかあるにしても、実際にこの設定の映画はやたらめったらあるよね。これって特に映画には多い設定じゃないだろうか。その理由は僕なりに考えがあるが、それについては後で語る。

 今回のミソは、その背景に東ドイツ崩壊を置いたところ。なるほど、これは非凡な発想だ。ストーリーは大概知っちゃって見た今作だけど、それでもやっぱり舌を巻かずにはいられない。うまい事考えたよね。

 だって社会主義体制から資本主義への移行って、それだけですごいカルチャー・ギャップじゃないか。しかも登場人物はみなすでに資本主義にさんざ親しんじゃってから戻ろうとするから、それだけで不自然でおかしい。社会主義自体の持つナンセンスさゆえに、当時には当たり前の事をやるだけでコメディになっちゃう。うまいこと考えたもんだ。

 だから建物の壁面のコカコーラの広告とか、スーパーから一掃されたかつての食料品とか、今では過去の遺物の小型車トラバントとかが、そのままギャグの小道具になる。ここは過去の東ドイツ時代の小道具やその他諸々を、丁重に集めた労力こそを認めるべきだろう。

 脚本も実にそのへんを押さえていて、東西統一後に主人公が衛星アンテナを売ったり、姉がバーガー・キングで働いていたりというのも皮肉が効いている。さらにお手柄が主人公の友人の映画オタクという設定で、彼がつくるウソのニュースがまた抱腹絶倒なんだよね。

 主人公を演じたダニエル・ブリュールの人の良さそうな風貌がまたいい。「遠い空の向こうに」や「ムーンライト・マイル」に出た全員のカタマリみたいなアメリカ俳優ジェイク・ギレンホールあたりをもっと屈折をなくしたような顔つきが、何が何でも善意のウソをつき通そうとする主人公を無理なく観客に納得させる。言ってみればかなりムチャな話だから、彼にリアリティがないと映画が成り立たない。だから、まずはキャスティングが大成功だと思うんだよね。

 そして見る前は知らなかったんだけど、何と「ルナ・パパ」「ツバル」で注目の旧ソ連女優チュルパン・ハマートヴァが出てるんだよね。前の二作は圧倒的な魅力だったけど、あれはかなり特異な役柄だった。だから目立つ事は目立ったけど、こういう役柄以外ではどうか…と正直思ってたんだよね。今回は実にフツーの女の子で、だけどやっぱりチャーミング。どうやら彼女の魅力はホンモノのようだ。

 だから見れば見たでやっぱり面白いし、感心もした。そういう意味で脚本・監督のヴォルフガング・ベッカーは大した人物なんだろう。これが長編映画第二作だというしね。

 ただし…こう言うのは実に酷なんだけど、やっぱり見る前の予想からあまり外れたものはなかった。と、言うより、かなりの部分がそのまんまだ。たぶんこの映画を見た観客の多くがそう思うんじゃないか。それで満足という人もいるだろうけど…。予想通りの笑い、予想通りのペーソス。だからもの凄く心揺り動かされたかと言えば、残念ながらそうはならないんだよね。

 もちろん、この映画は「着想」がすべてで、それ以外何もない…とは思わない

 主人公の母に対する思いやりの深さ、それゆえにさらにドツボにハマるおかしさ、価値観の変動が人々に与えたモノと奪ったモノ…そういったアレコレへの目配せもちゃんとある。演出・脚本の妙やら役者の良さやらも前述した通りだ。「アメリ」で有名になったヤン・ティルセンが再び手がけた音楽も聞きものだ(ただし、部分的には「アメリ」に使用した曲を再使用しているようだが)。

 だが、こういう「着想」に魅力の多くを負っている作品の場合、それに尽きると思われてしまうのは宿命かもしれない。実際には後述するようにそこから一線を画した部分もあるのだが、残念ながらちょっと見はそう思えないから気の毒だ。

 これはこの映画にとって幸福な事か、それとも不幸な事なんだろうか。うまい事やったな…と思いながらも、この映画の存在を知られたとたんに底が知れちゃうというのはツライ。本来ならばもっと笑いが爆発的に盛り上がるところなんだろうにね。結局観客は予想される面白さを確認するために、映画館に出かけるという事になってしまう。それでもそれなりに面白いから、それでいいと言えばいいんだけどね。

 これは映画の罪じゃないだけに、僕にはなおさらそう思えちゃうんだよね。

 

見た後の付け足し

 そうは言っても、僕はこの映画にちょっとした発見をした。で、そここそが、この映画の予想を超えた部分だと言える。そこは僕も結構気に入っているんだよね。

 それは、主人公のウソがエスカレートするくだり…彼がウソのニュースを流し始めるあたりだ。

 友人が映画オタクで、ビデオ機材などを持っているのをいいことに、主人公はいよいよ苦しくなったウソの上塗りをしようとする。最初はコカコーラの広告の言い訳という些細な事だ。ところが次には東ドイツが西ドイツ難民を受け入れるという、大げさに言ってみれば「歴史の歪曲」とも受け取れるねつ造ニュース。さらに主人公はいよいよ死期が間近になってきた母親に、何とか東西ドイツ統一を受け入れさせようとウソをエスカレートさせていく。

 東ドイツ書記長のホーネッカーを解任ではなく自ら辞任した事にして、次期書記長に何と主人公の憧れの宇宙飛行士ジークムント・イェーンを据えるのだ。

 これにはたまたま主人公が、宇宙飛行士イェーンそっくりのタクシー運転手と出会った…という伏線がある。ここが微妙なところで、この男が単にイェーンのそっくりさんで、主人公が自分の心の中でイェーン本人と思い込んでいるのか、それとも本当にイェーンなる宇宙飛行士が社会体制激変のゴタゴタの中でタクシー運転手に身をやつしているのか…映画はそのへんをハッキリさせていない(もちろんイェーンなる人物は実在のものだから、前者である可能性が高いとは思うが)。ともかくイェーンというおそらく向こうでは偶像的な人物をうまく使って、映画に不思議な説得力を出している。このへんの脚本の作り方はなかなか巧みだ。

 この宇宙飛行士…もどきのタクシー運転手は、ウソのニュースの中で書記長就任演説を堂々とぶつが、これがなかなか含蓄がある。そこでは人々の協調と融和が力強く語られるのだ。

 そもそも東ドイツが西ドイツ難民を受け入れる…という事からして、本来の社会主義体制では望むべくもない事だろう。実はもうこのあたりから、主人公のウソは単に母親の健康のため…という本来の意図を逸脱し始めている。彼はこれらのウソを、自分がつきたくてついているように見えるのだ。

 社会主義体制の東ドイツ、それは欺瞞と矛盾に満ちたものだったろう。だから資本主義に移行した以後にそれを再現しようとすると、もはやナンセンス・ギャグにしか思えない。

 だが、代わって登場した資本主義は完全無欠の素晴らしいものだったのかと言うと、これもそうではないだろう。安易な拝金主義が蔓延し、人が欲望とエゴに走り出したに違いない。決して世の中が完全に良くなったとは思えなかったはずだ。

 翻って、純粋に社会主義を信奉していた母親には、確固たる理想があった。自らも夫の後を追って亡命しようとしていた彼女は、それを断念した時に覚悟があったはずだ。ならばここで出来る理想を追いたい。そこに何らウソはなかった。それは実際には絶対に実現しっこない理想だったし無理もあったが、それでも信じていた彼女にはホンモノだった。現実の社会主義体制がどんなに歪なものだとしても、彼女はそこで理想を追求しようとしていたに違いない。

 主人公は母親のため…と始めた社会主義社会の再現の中で、いつの間にかそんな理想を共有し始める。旧来の社会主義東ドイツはどこかおかしかった。だけど資本主義もやっぱりおかしい。ならば、あるべき社会のカタチとは一体何だろう? 主人公はそれをウソのニュースのビデオの中で、何とか実現しようとしているように見える。本当はこうあるべきだった社会のカタチを、ウソのビデオの中で「現実」のごとくつくりあげようとするのだ。それがすごく感動的なんだよね。

 映画はここから、単に旧東ドイツや社会主義体制を笑い飛ばしてからかう映画を超えていく。実はここがこの映画のミソだと思うよ。それはただの東ドイツのオチョクリではなく、今この世界に生きている僕らも共有できる問題意識なんだよね。

 そして重要なのは、ここで映像によるウソが大きな意味を持ってくる事だ。

 主人公の友人が映画オタクだからこそ実現した大ウソ。映像だからこその虚構の「現実」。これって僕は、かなり映画ってものの本質を突いていると思うんだよね。

 映画ってのもウソを現実にするシステムだ。虚構=フィクションを創造する手段はいろいろあるが、映画ほどそれを「現実」にするモノはないだろう。しかも主人公はこの映画の中で、ウソをつき通すために食料品のビンのラベルを貼り替えたり古着を調達したり…あらゆる手段を試みる。それって実は何より、セットを建設したり衣装を揃えたりしてカメラの前…スクリーンの中に一つの「現実」を提示する、映画の製作過程に酷似してくるんだよね

 そう考えると、問題の主人公の友人が映画オタクだという設定も、単にウソのニュースをつくらせるための脚本上の工夫にはとどまらない気がする。現にこの友人、最後のイェーン書記長就任ニュースのビデオを主人公に手渡す時に、思わずこう口走るではないか。「これは会心の作品だ!」

 そして映画とは…しばしば現実逃避や夢の道具として否定的に語られはするが、何より理想の実現のための道具とは言えないか? 人はしばしば、そこであるべき自分や社会のカタチを見出しはしないだろうか?

 考えてみると、この前に僕が「善意のウソをつかねばならぬ主人公が、そのウソをどんどんつき通さねばならなくなる…というシチュエーションのコメディは、それこそ星の数ほどある」、さらに「これって特に映画には多い設定じゃないだろうか」…と書いたのも当然かもしれない。なぜなら、それこそ映画にうってつけの題材だからだ。映画の特徴をフルに活かした作品がつくれる。それって映画の機能そのものだからね。善意(…とばかりは言えないけれど)のウソを、観客に幸福感を味あわせるために本気になってつき通す。それこそが映画の本質だ。

 この映画は、確かに社会主義体制の崩壊に翻弄された人々の悲喜劇を描いた物語には違いない。だが何より、本当にあるべき世の中ってどういうものなんだろうと、世界の誰にでも考えさせてくれるお話だ。それが「映画」というカタチでつくられた事に、絶対の必然があった。

 だからこの作品は、「映画とは何か?」を僕らに指し示す一つの「映画論」としても、実に秀逸なものを持っていると思うんだよね。

 

 

 

 

 to : Review 2004

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME