「恋愛適齢期」

  Something's Gotta Give

 (2004/04/12)


  

見る前の予想

 今年のオスカー主演女優賞にいきなりノミネートのダイアン・キートンには、正直言ってビックリした。最近はお母さん役やら奥さん役が専門になってきて、さすがに「アニー・ホール」も遠い昔だよなぁ…と感慨に耽る事しきりだったからね。それがいきなり主演賞候補。一体いかなる映画で…と思いきや、すぐに本作が日本に上陸した。題して「恋愛適齢期」。ふむふむ、なるほど…結構いい歳になっちゃった女性の恋愛模様ね。

 相手役に何とジャック・ニコルソンとキアヌ・リーブスとは豪華絢爛。しかもしかも、監督はナンシー・マイヤーズではないか。僕はこの人が元ダンナのチャールズ・シャイアと組んで脚本家をしていた頃のファンなのだ。ファミリー・ゲーム/双子の天使からは監督にも進出。するとこれがまた素晴らしいんだよね。だから今回のこの作品も大いに期待した。きっとよく出来たキャラと台詞が横溢する、ウェルメイド・コメディを見せてくれるに違いない。

 

あらすじ

 こと男というものは、なぜにあれほど若い女に目がないのだろう? 自分にちゃんと相手がいるとしても、街角で若い美女が闊歩するのを見かけると、ついついそれを目で追ってしまう。

 ここにもそんな男が一人。もう60を超えた堂々たる紳士ジャック・ニコルソンが、目下のお相手20代美女のアマンダ・ピートと共に海辺の別荘にやって来たところ。ここはピートの母親の別荘だが、この週末は不在なので二人だけの甘い時を過ごせるというわけだ。この日のために…という訳でもないが、ニコルソンもこの素晴らしいご馳走にまだ手をつけてなかった。これから思う存分あんな事こんな事を…。

 と思っていた矢先、そこに二人の中年女性がやって来たからたまらない。それはこの別荘の持ち主にしてピートの母親、有名な劇作家として知られるダイアン・キートンと、その妹フランシス・マクドーマンド。キートンは予定を変えて、この別荘で執筆に専念しようとやって来たのだ。

 ともかく二人はニコルソンを泥棒と間違え、警察に通報しようという構え。そこにピートが戻ってきたから泥棒の疑いは解けたものの、今度はこの親子ほどの歳の差がある娘の恋人に、キートンは唖然とせざるを得ない。

 「こりゃ泥棒の方が良かったかな」

 そんな気まずい雰囲気にニコルソンはサッサとこの場を逃げ出そうとするが、マクドーマンドはここで意表を突いた提案をする。

 「みんな帰らず一緒にいればいいじゃない!」

 かくして奇妙な顔ぶれの週末となったが、当然気まずさは拭い去れない。キートンはニコルソンがラップ・ミュージックのレコード会社のオーナーと知るや、「ラップなんて大嫌い!」と絡む始末。

 夕食の席ではニコルソンの素性に話が及ぶ。実はニコルソン、いまだ一度も結婚した事がない。そして常に若い女をお相手として選ぶプレイボーイとして、ゴシップ界では知られた存在だった。思わずフェミニズムを信奉する大学教授のマクドーマンドは、ここで自説を披露せずにはいられない。

 ニコルソンみたいに男は若い娘ばかり追いかけて、キートンみたいなステキな女性は毎晩独りぼっち…。

 手厳しく批判されたニコルソンは居残った事を後悔したし、独りぼっちなどと言われたくない事を指摘されたキートンは閉口。そんな晩のこと…。

 ニコルソンが心臓発作で倒れた!

 たちまち近くの病院に担ぎ込まれるニコルソン。若い医師キアヌ・リーブスの尽力のおかげか、何とか大事に至らずに済んだ。しかし、まだ本調子に戻るには時間がかかりそうだ。

 一方、リーブスはキートンの名を聞いて驚く。実はリーブスは彼女の戯曲のファンだと言うのだ。それどころかリーブスは何だかんだとキートンに話しかけて、彼女への関心を隠さない。これには妹のマクドーマンドも娘のピートも冷やかすことしきり。だがキートンはくすぐったそうな顔をしても、あくまで自分はもう歳だとマトモに受け取ろうとしない。

 さてニコルソンは完全回復まで時間がかかるため、キートンの別荘で療養することを余儀なくされた。コレはハッキリ言っていい迷惑ながら、キートンも病人には無理も言えない。娘のピートも他の連中も用事があるため引き揚げて、別荘にはキートンとニコルソンの二人だけ。これにはお互い当惑を隠しきれなかった。そもそも元からソリが合わない。そこへ来て、自分の名前すら覚えないニコルソンの態度は好感が持てる訳もない。そんなギスギスしたキートンの接し方には、ニコルソンとて面白く思うはずもないのだ。

 そんなキートンに、あの若い医師リーブスはいきなりストレートにアタックしてくる。デートのお誘いだ。これにはキートンもウキウキせざるを得ない。イソイソ出かけていくキートンの姿を見て、ニコルソンはなぜか妙な気分になってくるのを感じていた。

 それでも一つ屋根の下にいれば情が湧いてくるのか、いつしかキートンとニコルソンの間も急速に接近していった。どうしても女性との過度に深い関係を望まないニコルソンに、「自分が主導権を握れる関係を望んでいるのね」と指摘するキートン。それに対してキートンに、リーブスと「自分が主導権を握れる関係」を持て…と返すニコルソン。彼らはそんな軽口を叩ける関係になっていた。

 ある晩キートンが仕事しているパソコンに、真夜中のメールを送るニコルソン。二人ともパジャマ姿で夜食をつまもうという申し出だ。なぜかキートンもこの話に乗る気になっていた。キッチンにやって来た二人に、いい雰囲気が流れる

 だが、そこに娘のピートが戻って来たことから、二人の「パジャマ・パーティー」はいきなり中断される。そんな様子にピートは、二人の間に何らかの暖かい感情が流れていることを見て取った。

 実はピートも遅ればせながら、年齢差のある関係には限界があると悟り始めていた頃合いだった。彼女は母キートンにとんでもない提案をする。自分はもうニコルソンと別れるから、彼とつき合ってみたら?

 翌朝、ピートはニコルソンに別れ話を切り出した。ニコルソンもそれを自然なこととして受け止め、二人はキレイに別れることになった。

 やがて近くの海岸に、くだけた会話を楽しむキートンとニコルソンの姿があった。そんな自然な流れの中で、二人は結ばれる。これはニコルソン、キートン双方にとって意外な展開でもあった。しかも眠る時は一人で…がモットーのニコルソンが、この晩はキートンと共にベッドで眠った。そんな自分の変化に戸惑いながらも、好ましいものを感じ始めたニコルソン。キートンは彼に、関係が続いていたら自分の誕生日をパリで祝おうと提案する…。

 やがて全快したニコルソンは、キートンの別荘を去っていった。再会を約束して…。

 ところがそんなキートンの元に、娘のピートから緊急電話が入る。彼女の父、キートンの別れた夫であるポール・マイケル・グレイザーが、これまた若い娘のような女と再婚すると言うのだ。自分がニコルソンと付き合おうとしていた事などスッカリ棚に上げて動揺するピート。かくしてキートンはピートから頼まれ、元・夫グレイザーと婚約者の若い女とのディナーに同席するハメになる。

 ところがキートンはそのレストランで目撃してしまうのだ。ニコルソンがまたしても若い女を同伴している現場を…。

 

見た後での感想

 ナンシー・マイヤーズって元から好きな映画作家だって先に述べたよね。

 この人は元・夫のチャールズ・シャイアと組んで、「プライベート・ベンジャミン」などの楽しいコメディの脚本を書いてきた。シャイアが監督に進出してからは、その監督作「赤ちゃんはトップレディがお好き」「花嫁のパパ」(この二作はダイアン・キートン出演作)「アイ・ラブ・トラブル」の脚本も書いていたんだよね。

 そんなマイヤーズの方も「ファミリー・ゲーム/双子の天使」から監督に進出した…というのも先に述べた通り。このケストナーの「ふたりのロッテ」ハリウッド映画化作品がなかなか面白かった。実は元・夫のシャイアより、監督としては上じゃないかと思ったよ。それは次の監督作、メル・ギブソン主演のハート・オブ・ウーマンを見て、さらにハッキリしたんだよね。

 このマイヤーズって人の作品を見ると、僕はもう一人の女性監督の事を思い出してしまう。それはドイツのカロリーヌ・リンクだ。

 もちろん二人には何ら共通性はない。カロリーヌ・リンクはドイツでずっと活動してきた人だし、マイヤーズはハリウッド一辺倒。作家性…という一点で言えば、映画ファンにはあのリンクをマイヤーズごときと一緒にするなと怒られてしまうかもしれない。リンクの映画はミニシアターが似合う作家映画の体裁を持っているように思えるだろうし、マイヤーズはコメディ一筋。あくまでハリウッド流の話法で娯楽映画を作ってきた人だ。レベルが違うんだよ…と。

 だけど、リンクって典型的アートシアター系作家かと言うと、それはちょっと違うと思うんだよね。あくまでドイツ映画を撮り続けているから、日本では器としてミニシアターで作品が上映される事になる。だけど作品はあくまで娯楽映画…観客を楽しませる事を忘れていない。アメリカ資本の映画だって撮れる人だと思うし、むしろアメリカ映画の良質な部分を受け継いでいるような印象すらある。「ビヨンド・サイレンス」も「点子ちゃんとアントン」も「名もなきアフリカの地で」も、彼女の映画はどれもこれも見て楽しいんだよ。だからハリウッドが「名もなき〜」で彼女にオスカー外国語映画賞を与えたのは、しごくもっともだと思う。

 そして何より二人が共通すると思うのは、女性監督なのに…と言っては申し訳ないが、その人間に向けるまなざしがどこまでもフェアな事だ。

 あまりこう言っては何だが、女性監督にはあからさまにフェミニズムを振り回すタイプの人も少なくない。まぁまだまだ女性監督が少ない現状では、女の側からフェミニズムを前面に出す映画づくりも意味があるだろう。だが男性観客の僕としては、それらが決して愉快ではないのも正直な話だ。それは以前スパイク・リーが連発していた「黒人側からの主張」映画みたいなものだ。こっちは単に映画を楽しみたいだけだからねぇ。

 その点、マイヤーズもリンクも、彼女たちの映画にはそんな傾いた主張は見られない。いや…誤解してもらっては困る。別に彼女たちは「女だてらに男顔負けの」映画をつくる映画作家ではない。例えば「K-19」のキャスリン・ビグローみたいに、女性監督らしさを完全に消し去った映画を撮っている訳ではない。むしろ…これも誤解を恐れずに言えば、「女性ならではの視点」で映画をつくっているように見える。

 先ほどフェミニズムを振り回さない…とは言ったが、フェミニズムと無縁の映画を撮っている訳でもないのだ。むしろ彼女たちの映画には、フェミニズムの洗礼以降の人間観・社会観・家庭観が濃厚に見受けられる。それは両者がたまたま奇妙にも共通して取り上げたケストナー小説の映画化、「ファミリー・ゲーム」「点子ちゃんとアントン」を見てみればよく分かる。

 ケストナーは良心的な作家だったが、残念ながらずっと昔の旧社会の人だった。だから当然の事ながら男性中心的観点から作品を構築せざるを得なかった。それをマイヤーズ、リンクの両者は、物語における男女の関係に見事に現代的視点を注ぎながら映画化している。ここでの原作から映画への改変箇所を点検すれば、両者がいかにフェミニズムに対して敏感であるかがよく分かる。決してそういう視点をないがしろにしているのではないのだ。

 では、なぜ僕は彼女たちの作品にフェミニズムの臭みを感じないのか?

 それは彼女たちの映画が、女性からの一方的な男性への糾弾になっていないからだ。フェミニズムの主張は…と一面的に片づけては語弊があるが、しばしば女性からの主張を一方的に投げかける事になりがちだ。それはどうしたって、女性から見た男への批判や中傷や注文になりかねない。だから男の観客からすると、言いたい事は分かるものの辟易するのも正直なところなのだ。まぁ、どんな奴だって文句ばっか言われればゲンナリするし、プラカードみたいな映画を見せられたら、誰だってウンザリしちゃうよね。

 ところがマイヤーズとリンクの映画は、こうしたフェミニズムの洗礼以降の男女観を色濃く反映させながらも、それを一方的糾弾にはしない。あくまで彼女たちのフェミニズムは、人間が人間らしく生きる事への希求に繋がっている。だから時には男性の抑圧された事情にも理解を示す。女性の偏見や身勝手にも厳しい目を向ける。その上で男性の至らない点をキチンと批判し、女性の割をくっている部分はちゃんとありのままに引っ張り上げる。そのあたりのバランス感覚が、実にフェアなんだよね。

 実は先にケストナー文学を語った時に、時代が時代だったから男性中心主義…と言ったよね。それは確かにそうなのだが、それ以外を見て取ればケストナー作品ってのは実に人間に対する視点がフェアなんだよ。それは大人・子ども、貧しき者・富める者を問わず、人間全般にフェアだ。そんな作家がなぜ男女関係にだけは…などと揶揄しないでいただきたい。ケストナーとて別に女性を蔑視している訳ではない。現代の視点から見ると、ちょいと男女の関係に対してモノサシに合わない点が出てきてしまった…ぐらいに受け止めて欲しい。

 だからこの両女性監督がケストナー文学を映画化したのは、偶然とは思えない。彼女たちの資質のどこかに、ケストナーと相通じるフェアな部分があるのだろう

 そして観客を楽しませる過剰なほどのエンターテイナーである点も共通する

 今回の作品も、実にご機嫌なハリウッド恋愛コメディだ。その典型であるとさえ言える。そう言えば、古き良きアメリカ映画の良質な部分を今に伝える映画づくりって点も、マイヤーズ作品の特徴だ。繰り返して言えば、これは先に述べたカロリーヌ・リンクの資質にも言えることだよね。シャレた会話、小道具のうまい使い方(老眼鏡を一度ならず何度も使い切って、巧みに物語を進める語り口にご注目いただきたい)、生き生きとしたキャラクター、ヤマ場にはロマンス映画の王道・恋の都パリに舞台を持ってきてコテコテに見せてくれるあたり…どれをとっても一級品だ。

 そして注目すべきはジャック・ニコルソンの若い女の尻ばかり追いかけるプレイボーイの描き方。ここでマイヤーズは、そんなニコルソンをまるっきり批判していない。むしろ一方で若いキアヌ・リーブスにグラつくダイアン・キートンを出して、微妙なバランスをとっている。人間そりゃあ若い異性が手にはいるならば、そういう気にもなるかもねぇ…ってなイタズラっぽい視点で語っていく。大人の余裕なのだ。

 さりとて女性側からの視点もないがしろにしない。何よりニコルソンとリーブス…新旧いい男二人を両天秤というポジションにキートンを置くあたり、ちゃんと女性観客の需要に応えているではないか。これなら男もイヤミにならない、見事な女性賛歌と言えるよね。

 そんなダイアン・キートンは、この歳にして…と言ってはいけないが、「アニー・ホール」の頃から持っていたふんわりした個性が全開。久々に素晴らしいヒロインぶりで、キアヌ・リーブスならずともグラつきそうなステキな女性を演じて圧巻。ジャック・ニコルソンの男の魅力も、男なら誰しもこう歳をとりたいと思うダンディズムが漂う。それでいてアチャラカもいける楽しさ。恋に目覚めて涙してしまう…なんて意外な純情ぶりまで見せる大サービスぶりだ。やっぱり千両役者だよねぇ。

 さすがにこのニコルソンを前にすると、キアヌ・リーブスはメンコの数が一枚も二枚も足りない。だからハッキリ言ってここでのキアヌはあくまで脇の役割でしかない。ちょっとお気の毒な役柄だ。

 だけどこのキアヌやフランシス・マクドーマンドまでが脇…とは、何とも贅沢な映画ではないか。良くできたコメディはやっぱり役者が良くないと面白くない。その意味で、この映画は役者を楽しむ映画でもある。

 そしてマイヤーズという映画作家の見事さをもう一つ挙げれば、突拍子もない設定を何とかかんとか観客に納得させてしまう話術の見事さがある。

 そっくりの双子の姉妹が別れた夫婦の仲を再見する「ファミリー・ゲーム」、突然女心を感知できるようになったマッチョ男のてんやわんや「ハート・オブ・ウーマン」…どちらも設定としてはかなりムチャだ。だから脚本上でもかなり無理してつくっているように思える。それを、とにかくしゃにむに観客に納得させてしまう。あるいはそうした設定上、物語上の無理をうまく見せないように持っていく。そんな演出の馬力が結構あるんだよ。

 考えてみると、肉体関係はなかったにしろ娘の恋人と母親がデキてしまうという設定は、かなり強引だと言えなくもないよね。これをどんな観客にも共感出来るように見せるのは至難の業だ。ところがここではそれを、いささかムチャと言えなくもないが何とかやり遂げてしまっている。

 確かにそのせいなのか、結ばれる前後のキートン、ニコルソンの心情には、ちょっと観客から何考えてるのか見えない部分もなくはない。これは物語上の無理を見せないようにしながら、力業で持っていったが故のひずみみたいなものだろう。そこがこの映画のキズと言えば言える。

 だけど、それを何とかかんとかここまで持ってきてるのは、大したものだと言わざるを得ない。

 まぁ、いろいろ大げさに言っちゃったかもしれないし、これは単にハリウッド恋愛映画以上でも以下でもないかもしれない。別に主張がどうのって映画じゃないしね。でも、とにかく僕はこの映画をスッカリ楽しんだよ。

 

見た後の付け足し

 お話は、男って若い女ばっかりに目がいく…というところから出発しているから、いくら視点がフェアだとは言え、一見女性からの主張が勝っているかのようにも見える。だけどここで主張される「恋愛は歳じゃない」は、決して女の事ばかり言っているわけではない。ここでのニコルソンは若い女をお相手にしてきた男だが、実は彼は本当の恋愛に目覚めた事がなかった…という点がミソだ。

 そんな彼にも本当の恋愛に出会う瞬間がやって来る…それが今回の作品の最も言いたかったところだと思う。

 劇中でダイアン・キートンが語る台詞が如実に物語っている。「人は恋をするものよ。例えうまくいかずに傷ついても、それでも恋をする。それが生きていくって事なのよ

 もっと言えば、それは恋愛には限らない。何か自分が生きいきできる、輝く事をするって事じゃないだろうか。だとすれば、それは年寄りとか若いとかも関係ない。可能性を諦めないって事は、年齢に関係ないからね。

 人間はきっと変われる。いい方向に自分を持っていく事が出来る。やり直すのが遅すぎるなんてないって事が最も言いたかった事だろうと思うよ。

 だからそれを言ってくれたナイシー・マイヤーズは、まこと尊敬すべき女性のように思えるんだよね。

 

 

 

 

 

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