「イン・ザ・カット」

  In the Cut

 (2004/04/12)


  

今回のマクラ

 あなたが男ならみんな身に覚えがあるだろう。あなたが女ならここから先はひょっとしたら知らないかもしれない。

 実は男というものは、みんな女が大嫌いだ

 根拠のない偉そうな態度が気に入らない。自分は正しいという尊大さが気に入らない。自分とは違う存在である相手に対する、度量の狭さが気に入らない。平気で小馬鹿にしたような振る舞いをする無神経さ、思いやりのなさが気に入らない。何考えているのか分からない、次から次へと繰り出される理不尽な要求が気に入らない。耐え難いと思う。

 だから男同士になった時、女の悪口を言わない男はいない。ここだけの話だけど、そうじゃない男がいたらお目にかかりたい。自分はそうじゃないと言う男がいたら、それはとんでもないウソつきだ。女には本当の事は言わないけどね。

 それでいて…。

 あなたが男ならみんな身に覚えがあるだろう。あなたが女ならここから先はひょっとしたら知らないかもしれない。

 男というものは、みんな女が必要だ

 同性愛の男はこの際除く。一般的に言って、男には女がなくてはならないものなのだ。それは好きとか愛してるとかいう度合いに収まるものではない。必要と言っても、性欲のせいというわけでもない。身の回りの世話をさせたいからというわけでもない。本当に切実に必要なのだ。女の存在がどうしても必要だ。それは酸素が必要なのと同じくらい必要なのだ。自分は酸素なんかキライで要らないって奴はいまい。

 自分の気持ちの潤いに、心を休めるために、気持ちの張りややり甲斐のために、何より心の支えとして、どうしても女にいて欲しいと思うのだ。女と一緒に何かを喜びたいと思う。女と何かを分かち合いたいと思う。女のために何かしてやりたいと思う。女を守りたいと思うし守って欲しいと思う。女がいないと耐え難いと思う。

 だから男同士になった時、女への思いを伺わせない男はいない。それを口に出したり態度に出したりだったら、しない男はゴマンといる。というか、それを出さない男が大半だ。だけど男には男の気持ちが分かる。どんな男も、自分の隣りには女がいて欲しいと願っている。女には本当の事は言わないけどね。

 何という矛盾。だけど真実だ。

 そんな時に、男はふと思い当たるのだ。

 昔、修学旅行での夜の事を、みなさんは記憶しているだろうか。男だったら大抵は先生の目を盗んで悪ふざけをしたあげく、それにも疲れると飽きる事なくエロ話に耽るものだ。さんざそんな卑わいな話に興じたあげく、ひとしきり下卑た笑いを上げた後で…実は男子連中みんながみんな、サッと我に返る時がある。その時、誰とはなく次のような事を言う奴がいるかもしれない。

 「オレたちが言ってたような事、別室の女子たちも言ってるのかな?

 そうかもしれない。いや、所詮はガキの自分たちなど及びもつかないほど、もっともっといやらしい話をしているかもしれない。きっとオレたちがビビるほど、ものすごくいやらしいに決まっている。そう考えた時、部屋中の男子がシュンとなったよ(笑)。

 そう、それと同じかもしれない。自分たちが漠然と感じていた苛立ちや不安や切実な気持ちは、女たちこそ自分たちに対してより強く感じているのかもしれない…と。

 

見る前の予想

 「ピアノ・レッスン」「ある貴婦人の肖像」「ホーリー・スモーク」と、堂々たる作品をつくり続けるジェーン・カンピオンの新作。そう来ると、映画ファンだったらぜひ見たい…と言いたいところだ。

 ただし、男の観客となるとそう単純ではない。見たら見たできっと感心もするだろうし面白くも感じるだろう。だけど、彼女の映画に漂う「女」臭がちょっとねぇ…。

 確かに彼女の映画はどこかフェミニズムが匂う。ただし、それがイヤという印象はこれまでの作品では感じられなかった。それなりに生でない料理の仕方をしているからね。だから見たらたぶん楽しめる。娯楽映画が楽しめるようには楽しめないが、それでも大いに興味深いだろう。だけど前の作品でも、見る前ってちょっと気が重くはなかったか

 それはフェミニズムというより、女の生理とでも言うべき雰囲気が濃厚だからかもしれない。「生理」と言っても月のモノではない。女ならではの体臭みたいなものが、作品全体にベットリとのしかかっているのだ。その濃さに、少々圧倒されないでもなかった。

 しかも、今回はヒロインがヒロインだ。

 それまでホリー・ハンターやらニコール・キッドマン、ケイト・ウィンスレットと、それなりに「いかにも」なトゥマッチな濃さを持った女優をヒロインに持ってきていた。それが今回は「ラブコメの女王」メグ・ライアンだ。そしてこれまでもそうだったけど、今回は一際セックスの臭いが濃厚だと言う。メグ・ライアンがジェーン・カンピオンとセックスの臭い充満する作品に出る。う〜ん、大丈夫なんだろうか…という思いと、だから見てみたいという気持ちが相反する複雑な心境。

 そういえば、「文芸大作」風の構えがあった「ピアノ」「貴婦人」と違って、前作ホーリー・スモークは、ちょっとヤバいところへ行っちゃった雰囲気もあった。今回も現代劇らしいが、そうなると同じようにヤバイのだろうか?

 やっぱり男の観客には、見る前にそれなりの覚悟がいる映画なんだろうか?

 

あらすじ

 ニューヨークに住むメグ・ライアンとジェニファー・ジェーソン・リーは、腹違いの姉妹だ。この二人はどこをとっても対照的な二人。胸をザックリ開けてピッチピチの肉感を強調する服を好むジェーソン・リーに対して、何となく地味でパサパサした印象のライアン。実際に女は愛嬌を実践…いや、実践しすぎで男出入りのトラブル続出のジェーソン・リーに対して、ライアンは近所の人にも満足に挨拶しない愛想のなさ。ジェーソン・リーは騒々しいストリップ・クラブの上のアパートに暮らしているのに対して、ライアンは静かで古風なアパートに住んでいる事まで対照的だ。

 そんなライアンは、黒人青年シャーリーフ・パグを連れて、昼なお暗いバーへとシケ込む…と言っても、別によからぬ振る舞いに及ぶ訳ではない。彼女は大学の英文学の教師で、パグはその教え子。ライアンはこうしてパグを呼び出しては、彼がキャッチしてきた新しいスラングを教えてもらう。「言葉」に敏感で興味を持っているライアンとしては、フレッシュな言葉に触れる貴重な情報源がこのパグなのだ。

 ところがそんなライアンがトイレに立った時、最初の出来事が起きた。トイレの奥で、女に口でサービスさせている男が一人。顔はしかとは見届けられなかったが、その男の手首には「スペードの3」のイレズミがあった。思わず息を呑みながらその様子を凝視せずにはいられないライアン。だが我に返ると、慌ててその場を逃げるように後にする彼女だった。席に戻ってみると、すでにパグは待ちきれなくなったかその場にはいなかった。

 独り寝の夜は寝苦しかった。ついつい昼間の出来事を反芻して、自らを慰めてしまうライアン。

 そんな翌日、ライアンのアパートを一人の男が訪ねてくる。最初は用心してなかなか扉を開けなかったライアンも、男の身分を確認すると渋々扉を開けた。男はマーク・ラファロというニューヨーク市警の刑事だ。

 実は彼女のアパートの裏手から、女のバラバラ死体が発見されたと言う。

 当然身に覚えのないライアンは、言葉を詰まらせるしかない。そんな折りもおり、彼女の電話に妙なメッセージが入ってくる。「いるんだろ? 電話に出ろよ。僕らはセックスをした仲じゃないか」

 それは彼女のアパートの外を徘徊する男ケビン・ベーコンが、携帯からかけてきた電話だ。確かにライアンは彼と何度かつき合った。だがその後はライアンがベーコンを持て余し、絶縁状態になっていたのだ。それでも飽きる事なく彼女の回りをウロつくベーコン。

 さて、例のバラバラ死体の主は、昨日ライアンがパグと立ち寄ったバーにいたと言う。何か覚えてないか…とさらにラファロ刑事は尋ねるが、ライアンの脳裏に浮かぶのはあの強烈なお口の恋人「ロッテ」…じゃなくって(笑)、お口でのサービス場面。さすがにそんな事を言う気分にもなれないライアンだった。

 ところがラファロ刑事はライアンの行く先に出没する。どうやら捜査の対象としてでなく、彼女に男として関心を抱いているようだ。

 そんな話を聞いたジェーソン・リーは、これはチャンスだとライアンにハッパをかける。それでなくても男に奥手のライアン、向こうからモーションかけてきたのなら行くっきゃないやるっきゃない。しかしライアンは、そんな土井たか子みたいな事を言われても腰が退けてる。そもそもジェーソン・リーは行き過ぎちゃって、目をつけた医者に何度も予約入れたりストーカーまがいの行為に及んだり。思わずライアンは、ジェーソン・リーに説教臭い言葉の一つも言いたくなる。「どうして恋をしている想像だけじゃダメなの? いちいちセックスしないで」…しかし、それは言うだけヤボというものだろう。

 結局何だかんだ言って、ライアンもジェーソン・リーの説得に応じた。ラファロ刑事のデートの誘いに応じて、ジェーソン・リーの派手めの勝負衣装に身を包んでいざ出陣。すると、ラファロ刑事がこれまた分かりやすいキャラで単刀直入にズバリ。「オレは君とつき合って、キスして、セックスだってやってあげる

 これには退いたのか、言葉を濁すライアン。そんな逃げの一手に、ラファロ刑事もちょいと目がないな…と醒めたのかもしれない。たまたまそこにやって来たラファロ刑事の相棒ニック・ダミチがやって来た事から、彼はライアンに背を向けて卑わいな冗談に興じてしまう。気分を害したライアンは、来るんじゃなかったと思ったかそのままバーから出て行ってしまった。

 ところがそれがマズかった

 突然暗がりから飛びかかる暴漢。いきなり抑え込まれたライアンは、必死の思いでこの暴漢を振り切った。そこへ通りかかったタクシーに体当たり。暴漢の魔の手からは逃れたものの、したたか打撲を負ってしまった。

 結局ラファロ刑事の世話になって帰宅する事になるライアン。さすがの事に気が動転したライアンは、勢いもあってかラファロ刑事と結ばれてしまう。そして、これがまた強烈な体験だった。久々に欲望が満たされて、ライアンはラファロ刑事との関係に溺れる自分を止められない。

 だが不安もあるにはあった。ラファロ刑事の手首には、あの「スペードの3」のイレズミがあったのだ。

 男が出来たのが喜ばしくはあった。だが欲望が自分のコントロールを超えてうずき出すのを止められない。しかも自分の身の回りには、あのベーコンが何かと徘徊している。何とか会う口実を探しているベーコンだが、ライアンとしては彼とのつながりを断ち切りたい。そんな彼女の態度を察してはキレかかるベーコン。彼の精神状態が不安定なのは明らかだ。

 「人生の半ばにして、自分は暗い森の中に迷い込んだ事に気づいた」

 地下鉄に乗っては、そこに書かれた広告や何がしかのフレーズに目を留めるのが習慣のライアン。今ではそれらが自分の現状を指し示す言葉に思えてきたライアンには、まさにこのダンテの地獄篇の一節がシャレになってなかった。そんなライアンはちょうど暴漢に再度襲われる恐れがあった事もあって、妹ジェーソン・リーのアパートに逃れる事にする。ちょっと冷静になりたかったのか、ライアンは行き先をラファロ刑事にも言わなかった。

 久々に姉妹二人の時間を持つライアン。彼女は自分の父親と母親のなれそめを語る。それはアイススケート場での事。父親はフィアンセ連れでスケート場にやって来たのだが、そこで母親に一目惚れ。速攻で求婚してしまうアリサマ。そんな関係が破綻したのもすぐだった。結局父親はその後何度も結婚を繰り返したが、母親はその痛手から立ち直れなかった…。

 それでも寂しさを覚えたのか、ついついラファロ刑事へ連絡をとるライアン。だがその時、ラファロ刑事は新たな殺人の現場捜査の真っ直中だった。今度はコイン・ランドリーに投げ込まれたバラバラ死体。またしても被害者は女で、その指に指輪がはめられているのもこの連続殺人の特徴だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなでラファロ刑事との関係を復活させるライアン。ラファロ刑事は彼女に本気になって来たのか、婚約を匂わせる事も言い始める。そうかと思えば彼女の欲望を焚き付けるだけ焚き付け、またある時はそんな彼女に「おあずけ」をくわせる。緩急自在…と言えばいいのか、結局何だかんだと翻弄されるライアンだった。

 そんな彼女に衝撃的な事件が降りかかったのは、ある日のこと。

 妹ジェーソン・リーのアパートを訪れたライアンは、いくら呼んでも出てこない彼女の部屋のドアを押す。すると、そこにはカギがかかっていない。恐る恐る部屋に入っていくと、何とベッドには血がベットリとついているではないか。さらに風呂場からは絶え間ない水の音。意を決してライアンが、風呂場の扉を開いてみると…。

 

見た後での感想

 実はジェーン・カンピオンの新作がサイコ・サスペンス仕立てだとは、見る前で迂闊にも気づかなかった。それもニューヨーク・オールロケによる本格的なもの。これには少々驚いた。この人がこんなジャンル映画に手を出すとは思わなかったからね。

 設定としては実にオーソドックスなサイコ・サスペンスだ。まぁ、それにはとどまらないのは毎度のこと、予想通りと言えば言える。でも、一応サスペンスとしての体裁はちゃんと持っているんだよね。

 元々どこか世間ずれしてないヒロインが、事件の渦中に巻き込まれるというのはこの手の作品の常道。この作品では妹のジェーソン・リーとの対比で、そのへんのヒロイン=ライアンのキャラクターもちゃんと早めに提示されている。

 興味深いのはカメラで、終始手持ちでフラフラと不安定な構図を見せつつ、ピントもどこか一カ所だけ合わせてあとはボケた画面…という凝ったもの。これはサスペンスとしての不安感を観客に抱かせるためのものでもあるが、まずはヒロイン=ライアンの不安定な精神状態そのものを見せるための仕掛けだろう。

 ヒロインが元々男に対して抱いている感情…何となくいっちゃいたいけどいけない、どこか怖くて自分から積極的にアプローチ出来ない、一旦関係を持てたら持てたでますます不安が高まる…というあたりも、サスペンスの道具立てとして見ればうまい。ただし本格的にサイコ・サスペンスと見ればこの映画はいささか一本調子で、その手の映画のファンにとっては食い足りないかもしれない。

 もっともカンピオンは、元々そのへんのところを盛り上げようという気もないみたいだ。むしろヒロインの人物像に迫りたかったというところなんだろう。だとすると、今度は妙にサイコ・サスペンスの常道をなぞったのが災いしたようにも見える。結果的に今回は、どこかどっちつかずの印象が付きまとう作品になってしまった気がするのだ。だから今までのカンピオン作品のように、観客にストレートにはアピールしないかもしれない。

 それでもこの映画、僕にはそれなりに興味深く見れたんだよね。

 メグ・ライアンって人はあのファニーな個性を抑えると、かなりパサパサした雰囲気に見えちゃうんだよね。でも、そのへんが今回の狙いだろう。パサパサしているけど…いや、パサパサしているからこそ、内面ではズブズブに潤いを求めてる。求めているのにそれを発散出来ない。それはそれまで一貫してきた、彼女の男性遍歴なり男性観がジャマしているからだ。

 まずは不実な彼女の父親がそれだ。その結果痛手を被った母親を見ていればこそ、ライアンは奔放な愛に身を委ねるのが怖い。たまたまつき合ってみた男ケビン・ベーコンも、実は壊れかかったアブない男だった。そんなこんなでライアンは男との関係を、どこか不安で忌まわしいもののように思い込んでしまう。やっぱり男ってアブない怖いと思い込んでしまう。彼女と対照的な妹ジェーソン・リーの奔放愛が、結局どれもこれも報われないらしい事も拍車をかける。こうしてライアンは、出来るなら男との関係には距離を置きたいと考えてしまうのだ。

 まぁ、これは分からぬでもない。元々決定的な他者である男と女の交わりには、多少なりともリスクは付き物だ。ヘタすればダメージをくらいかねない。だからイヤだ…となるのももっともな話かもしれない。

 だがそうは言っても、人間の本来の気持ちは悲しいかな抑えられない

 むしろ抑え込んでいるから、その気持ちが強くなる。ましてライアンは、どうも何を考えるのも理が勝ち過ぎている人間だ。商売柄か「言葉」に関心を持つのはいいけれど、何かと言えば言葉を持ち出して自分を考える彼女は、物事を筋道通った理屈で考えすぎる。だから抑え込んだ感情がハケ口を求めてうごめくのに当惑するし、一旦出口を見つけるとコントロールが効かなくなる。そんな制御不能まで行ってしまうから、またまた当惑する。人間って理屈通りにはいかないと、頭で分かっていても心と体が分かってない

 だから一度ちょっとでも相手に疑いを持とうものなら、それが勝手に暴走してしまう。考えなくてもいいところまで考えて、それが誤った結論を導き出してしまう。それもこれも、彼女が自分の理性や理屈を過信し過ぎて…というより、それを拠り所にし過ぎているからなんだよね。彼女は自分を守るための何らかのヨロイや砦を欲しがり過ぎるのだ。普段から免疫がないからこその、その臆病ぶり、暴走ぶり、うろたえぶりなのだ。ライアンがラファロ刑事に手錠をかけて、やっと安心して彼にのしかかるセックス場面は、そんな彼女の感情の象徴なのだろう。

 そして、それはどこか女全般に普遍的なモノにも見える。

 確かにこの映画は本来の意味でサイコ・サスペンスではない。あくまでそんな女の不安感と自分でつくった頭でっかちなヨロイについての映画なのだ。

 

見た後の付け足し

 この映画、タイトルは何と女のアソコの事を意味するらしい。「カット」とは、だから文字通り「割れ目」のことだ。

 「イン・ザ・カット」と来れば、英語が母国語でない僕らには何かもっともらしく響く。そこにハリウッドの大スター、メグ・ライアンの主演だ。変な映画ではあるまい。ましてジェーン・カンピオンの監督作品と来れば、ミニシアター映画の格調高さがイヤでも付いて回るだろう。だから映画館にも女たちがワンサカ押しかけて、決定的に少数派である男の僕はツラかった(涙)。

 だけどこの映画は、言ってみれば「オ××コの中」とでも言うべき題名が付いた映画なのだ。何だか「パンツの穴」みたいな、身もフタもない題名だとは言えないだろうか(笑)。ハッキリ言ってこの映画に詰めかける女性観客の多くは、「作家映画」という口実で堂々と「スケベ」を楽しみたい女たちだと僕は思っているが、さすがに「オ××コ」と題名を付けたら澄ました顔の女の客はまったく来なくなるだろうね(笑)。でも、実はこの作品のここんところを見逃しちゃいけないと思うんだよ。

 そしてカンピオン作品だから女、女した作品だろうと思うだろうし、実際カンピオン本人もそう言っているけど、実はそんなもんじゃない…と僕は思ってるんだよ。

 それはラファロ刑事が、妹の死に落ち込んだライアンを労るように風呂に入れてやる場面を見てみれば、何となく分かる。

 それまではラファロ刑事は、どちらかと言うと粗野で「男根」主義みたいな男くささムンムンで出てくる。「お〜らおら、なんだよオマエ、口じゃあ何とか言ってるが、カラダの方はこんなに正直じゃねえか」…な〜んて事は、どんな男でも大なり小なり女に戯れに言ってはみるものだ(笑)。だがこのラファロ刑事は、もっともっとマッチョな男くささが売り物。まずはいきなり初デートで「セックスしてやるぜ」ってな言い草だ。関係を持ってからも自信満々にライアンを翻弄する。だからこそ、恋愛ビギナーのライアンは大いに心かき乱され、あらぬ疑念まで持ってしまう。

 ところがこの風呂場の場面では、さすがに弱ったライアンを見て本音が出たのか、ラファロ刑事思わぬ言葉を口走るんだよね。

 「オマエの望み通りしてやりたいが、どうしたらいいか分からねえんだよな

 あげくちょっとした言葉のスレ違いで憎まれ口を叩くライアンに、ため息ついてこうも続けるのだ。

 「まったく女ってのはこれだ。いくらしてやっても満足しねえんだよな

 女を「男根」で意のままに操る男に見えたラファロが、ついつい吐いた弱音。結局彼も女の気持ちが計りかねて、ちょっと途方に暮れてるところがあるんだよね

 考えてみれば、ラファロ刑事のライアンの誘い方なんて、唐突過ぎて不器用と見える。いざデートに及んでのあのガサツなモノの言い方も、結局はちゃんとした口説きが分かってないから言っちゃったとは思えないか。おまけにそんな誘いをはぐらかされたら、スネて男のダチと話し始めるんだから中学生以前の発想だ。あげくこれまた不器用に、あまりに唐突に「婚約」なんて事を口走ってみたりする。前の結婚も破綻しているようだし、このラファロ刑事も本当は女との接し方が全然分かってない。むしろホントは不安で仕方がない。ただただ「男根主義」とでも言うべき変なマニュアルがあるからこそ、あんな素振りを見せてしまう。それってライアンがそうであるのと同様に、男なりの頭でっかちな振る舞いとは言えないか。何のことはない、ラファロ刑事だっていいかげん恋愛ビギナーである事では五十歩百歩なのだ。

 もちろん映画の最後に出てくる猟奇殺人犯に至っては、女との接し方に難があるのが当たり前(笑)。

 だとしたら女だけではない、男もある意味で不安で、どうしていいのか分からなくなっている。そこに変な先入観やらマニュアルがのしかかって、ますます身動きが取れなくなっていると思うのだ。それは今までの社会的な男女のポジショニングのせいかもしれないし、あるいは情報過多になっているせいかもしれない。個人個人で言えば、それぞれが受けたトラウマのせいかもしれない。それにしたって、身動き取れなくなっているのは女の専売特許じゃない。男だって同じようにそうなのだ。

 実はこの僕も、このあたりの事は人ごとではない。それは僕がかつて、「これは…」と思える関わりを女と持った時のことだ。それには万難を排して入れ込んだ。理屈も何もなく夢中になって溺れもした。その時は、確かに甘美なものだったよ。僕自身が「これでいいのだ」って納得出来てた。

 だけど、それが惨憺たる状況で終わりを告げた時には、虚脱感と共にこれからどうしたらいいだろう…って不安もあったんだよね。もう何も確固たるものを持てなかった。

 その後、別の女と関係を築こうとしても、何だか不安の方が先に立つ。「これは」と思った関係があのテイタラクとなれば、一体これからはどうすればいいのか判断つかなくなるじゃないか。あげく自分を守ろうとさえ思ってしまう。情けないかな、それが正直なところだったんだよね。

 「人生の半ばにして、自分は暗い森の中に迷い込んだ事に気づいた」

 実はその時には女の事だけでなく、仕事や生活全般に渡って行き詰まってしまった僕にとって、このダンテの地獄篇のフレーズは偶然にもついつい目に止まってしまった一節ではあった。だってシャレにならない言葉だったからね。だからこの映画でこのフレーズが引用された時、思わず僕はギクッとしてしまったよ。そして、そこで僕はこの映画の言いたい事が、何となく分かる気がしたんだよね。

 もし男も女も今の世の中ではそんな状況に陥っているとしたら、これは関係を築くのは容易な事ではない。築いたところで維持するのは大変だ。確かにリスクは付き物だけど、そればかり考えては進まない。アレコレ先入観を持って用意してコトに及んだところで、物事は予想もしない方向に発展するのが常だ。むしろそんな頑なな考えを持っていたら、変な方向に歪んで進んでしまうかもしれない。うまくいくものもいかなくなってしまう…。この映画はその事を言いたいんじゃないか?

 この映画のオープニングとエンディングの二回に渡って、あの有名な「ケ・セラ・セラ」が流れるのもこのあたりを考えればよく分かるではないか。「ケ・セラ・セラ、人生はなるようになる…」

 考えてみるとカンピオンの前作「ホーリー・スモーク」でも、彼女はこう言ってはいなかったか? ヘンテコな宗教に走るウィンスレット、自分がその洗脳が解けると過信するカイテル…いずれもしゃちこばった「信念」をありがたく錦の御旗に上げているけど、「信念」ってそれほどのもんなのかい? もっと適当でいいかげんなモノって考えた方が良くはないか? 一度もっと軽〜く考えてみたらどうだ?

 その意味で、僕はカンピオンの言いたい事って、実は一貫しているのではないかって思っているんだよね。「ホーリー・スモーク」での「信念」ってやつを、今度の映画の頭でっかちな「理屈」やら「理性」やら「マニュアル」やら…と言い換えてみればよく分かる。

 ボンクラな頭でチマチマ考えているヒマに、目をつぶってアソコで決めてみな!

 女性好みの格調高い作品の作り手、フェミニズムを大いに意識している映画作家ジェーン・カンピオンが、もし本気でこう言おうとしているなら上等じゃないか。その意気とタンカは大いに買える。こう言ったら女に怒られるかもしれないが、そんなカミシモ脱いで話せる奴こそオレたち男のダチになれる素質アリだ。僕らだってカンピオンを、男子専科のエロ談義に加えてもいい。いや、加えてもいい…なんて偉そうな事は言うまい。ぜひその教えを頭を垂れて請いたいよ。

 考えるな、感じろ…ってブルース・リーの教えじゃないが、これなら誰にだってよく分かる。頭じゃない、「オ××コの中」こそに真実があるのかもしれないからね。

 

 

 

 

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