「きょうのできごと」

  A Day on the Planet

 (2004/04/05)


  

今回のマクラ

 みなさんは…自分のつき合っている恋人や、妻や夫の目を盗んで、浮気した事があるだろうか?

 いきなりムチャな話で恐縮だ。まずは自分の経験から言わねばならないだろう。まずは僕はした事がない…う〜ん。実は一度、ちょっとソレらしき事は…(笑)。あれを浮気と言えば浮気なんだろうか。相手から見たらそうなんだろうかなぁ。ま、したかもしれない(笑)。

 でも、その際どい経験を除いては、一度もしたことはないと言える。それは僕のモラルが高いからだと言えればリッパだが、残念ながらそうではない。僕にウソをつき通す自信がないからだ。

 僕はウソをつかないとは言えない。むしろウソをつきまくっていると言っていい。でも、それはウソをついた方が世の中うまくいくし、相手にとってもいいはず…と思っている時だ。テメエ勝手な論理かもしれないが、ともかく自分の良心が痛まない程度のウソならつく。

 だけど、例えば浮気…となれば、きっと僕は動揺しちゃうだろうなと思うんだよね。

 そしてバレるに決まってる。それを考えたら…そして、その後の修羅場や面倒くささ、そしてその後ずっと相手に弱みを掴まれそうなイヤ〜な感じを考えたら、そんなウソはつかずに済ませたいというのが本音なのだ。

 だけど、そういうウソがうまい奴は実にうまいんだよね。

 僕の知り合いにも、女出入りが激しくて、とにかく数をこなす奴が何人かいる。中にはウソがうまくもないのに数こなして、後でバレてこっぴどい目に合っている奴もいるが、その反面まったくウソをつき通して動じない奴だっているんだよね。

 僕は一度、そういう奴にウソの極意を聞いてみた事がある。これ以降はみなさんぜひ参考にしていただきたい(笑)。カップル円満、夫婦円満のためにもね。

 彼に言わせると、ウソというのはやっぱりどこまで言ってもウソだと言う。バカを言っている訳ではない。彼は作り事には限界がある…と言っているのだ。だから、まるっきりのウソはバレる。行ってもいない場所に行ったとか、やってもいない事をやったとか言うなというのだ。必ず実際にやった事、起こった事をネタにする。それが起こったのが別の場所だったとか、違う時だとかのズレなら許容範囲。それがリアルタイムな事なら、最も理想的だ。そんな真実、事実の中に、ほんのわずかのウソを混ぜる。ウソの割合は少なければ少ないほど良い。5割なんてもってのほかだ。彼の弁によれば、真実とウソの割合は7割5分がボーダーラインだと言う。これ以上混ぜたらマズイらしい。

 結局、どんなに巧妙にウソをついても、どんなにアレコレとアリバイ工作しても、絶対それにはホコロビが出来る。そうなるとそのホコロビを取り繕って、さらにウソを重ねなければならない。重ねるごとにウソは増量していく。だから少なければ少ないほどいいのだ。その程度がほんの微細なものなら、思い違いや誤解の領域で何とか事は片づく

 事ほどさように、作り事、作り話ってのは難しいらしい。

 さらに事実と違う事を意図的に言う時には、人間はどうしたって饒舌になる。何かから相手の関心を遠ざけ、別の何かに関心を向けようと画策するから、どうしたって不必要に何かを強調せざるを得なくなる。そうすると、どうしたって言わなくてもいいことを言ってしまう。

 それは勘のいい相手からは絶対に不自然だと悟られるし、よしんばそうでなくても、言い過ぎから自分で馬脚を表してしまう。つまりオウン・ゴール…自爆テロ(笑)をする可能性が高いと言うわけだ。

 ならば、どうするのが一番いいか?

 語らない。

 ともかく黙っている。トボける。シラを切り通す。これに勝るウソはない…と彼は言うのだ。なるほど、確かに出来れば何も言わないのが一番いいんだよね。

 昔の人の格言はやっぱり間違ってない。作り事には限界がある。やはり沈黙は金なのだ。

 …とは言っても、僕はそんなウソの極意を聞いてみたって、それを試してみようとは思わなかった。

 沈黙が金なのは分かった。だけど、それをやるにはそれなりの器っていうのがあるだろう。だけど、僕はそうじゃない。

 僕はそれでなくても饒舌だ。ウソでなくても言い過ぎで、それでいつも余計な事まで言って墓穴を掘っている。そんな人間が急にダンマリ決め込んだら、その方がよっぽど不自然だろう

 カニは自分の甲羅に合った穴を掘ると言う。僕もやっぱり、身の程をわきまえていた方が良さそうだよね。

 

見る前の予想

 この映画は、確か何か別の映画を見に行った時に予告編を見て、ちょっと気になったんだよね。

 まず出ている俳優たちが気になった。田中麗奈とか妻夫木聡に池脇千鶴…な〜んて顔ぶれを見れば、最近いろいろ話題になる事が多い、ちょっと面白い邦画のイメージが湧いてくるではないか。特に妻夫木と池脇は、あの素晴らしいジョゼと虎と魚たちを見たばっかりだったからね。何はともあれ気になった。

 しかもこれが集団劇だというところが、また気になった。僕は集団劇が好きだ…って事は、このサイトで繰り返し繰り返しバカの一つ覚えみたいに言っているから、みなさんも覚えているだろう。昔の「ナッシュビル」などのロバート・アルトマン作品から最近では「ラブ・アクチュアリー」に至るまで、僕は集団劇と来れば目がない。それを先に挙げたような気になる若手俳優たちが演じているのだ。これはちょっと面白いんじゃないの?

 しかも監督は行定勲だという。僕は邦画をあまり見ていないので、馴染みの監督さんなんかいない。それがイマイチ邦画の新作を次々見る気になれない所以でもあるのだが、この行定監督はGOをすでに見ている。あれも気持ちの良い青春映画だったし、何より娯楽映画のツボを押さえていた。ならばハズしはあるまい。

 そんな訳で、この映画は僕にしては珍しく、評判を聞く前に見る気になっていた邦画新作だった。結構楽しみにしていたんだよね。

 ただ、強いて難を挙げればこの映画の英語題名…というかサブ・タイトルというか、「A Day on the Planet」ってあのジム・ジャームッシュの「ナイト・オン・ザ・プラネット」のパクりだろう。折角面白そうなネタを仕込んでいるのに、そんなケチくさいパクりをやっているのは残念だ。それに何より、行定監督が意識のどこかにジャームッシュを置いているくさいのも気になる。だって行定監督って、「GO」一作で判断するのは何だが、どう見てもジャームッシュ系の作風と相容れるとは思えないもんね。

 それだけが、見る前の唯一の不安ではあった。

 

あらすじ

 クルマの中で夜更かしをしている若い男女三人。そのうち妻夫木聡と伊藤歩は幼なじみのダチ同士だ。後ろのシートで居眠りしているのは妻夫木の恋人・田中麗奈。伊藤は今、一人の二枚目の男の子に夢中。妻夫木はそんな彼女を「また始まった」とばかりに呆れて見ている。

 彼らはこれから京都へ行って、大学院に行くため新居を構えた友人・柏原収史の引越祝いをやらかそうというところ。場所はもちろん柏原の新居だ。

 一方、ここは大阪の雑居ビルの一角。一人の男・大倉孝二がなぜかビルとビルの間に挟まって立ち往生している。屋上にはレスキュー隊が待機して救出しようとしているが、ビルのオーナーは建物にキズ一つ付けるなと無理難題を言っているため手がつけられない。レスキュー隊員の中でもマジメそうな津田寛次だけが、挟まった大倉を気遣って何かと声をかけている。

 さらにお話変わって、近くの海岸。無表情な女子高生・派谷恵美は、クツを脱ぎ置き手紙をして海岸へと近づいていく。これは何やらヤバい雰囲気と思いきや、そんな彼女が我を忘れる出来事が起きる。何と海岸に、一頭の巨大なクジラが乗り上げているではないか。たまたま通りかかったサーファーの北村一輝もこれには唖然。しかもクジラはブワ〜ッと勢い良く潮を噴いた。何とこいつ生きているではないか!

 そんな事とはツユ知らず、柏原の一軒家に到着する妻夫木、田中、伊藤の面々。家にはすでに友人の石野敦士と三浦誠己、そして柏原の後輩・松尾敏伸も押しかけていた。早速ナベを囲んで酒盛りが始まる。

 この面々の中で、紅二点の田中、伊藤はいきなりパワー全開。田中が奔放に言いたい放題なのはいつもの事だが、問題なのは伊藤の方。実は伊藤が目をつけていた二枚目の男の子は、この席に連れて来られた後輩の松尾なのだ。彼女は周囲の目など省みず、あれやこれやと松尾に露骨に迫る。そんな松尾は実は彼女がいるようなのだが、伊藤に強気に出られると手も足も出ない。気弱で優柔不断で八方美人を絵に描いたような松尾なのだ。当惑した表情を隠しきれないものの、伊藤から逃れる事が出来ない。

 そんな松尾の様子を何やら言いたい表情で見つめているのは、長髪の石野だ。彼はどうもモテない男らしく、色男の松尾に対して羨みともひがみともつかない態度を隠さない。柏原は今日の主役のはずなのだが、ひたすら座を設けてみなを持てなす役割に徹している。そんなみんなをシニカルに一歩退いた距離から眺めている三浦。

 そのうち酔いが回った田中は、石野の長髪を散髪してやるとハサミを手にとってチョキチョキ。実は田中が散髪など出来ぬと分かってはいるものの、妻夫木は笑って見ているだけで止めようとはしない。伊藤の攻勢に当惑気味の松尾の表情を見ても、妻夫木はただ傍観しているだけだ。

 というのも妻夫木、田中と知り合うにあたっては、伊藤の尽力を借りた経緯があったからだ。言わば彼女に義理がある。この引越祝いに松尾を連れてきて伊藤と会うセッティングをしてやったのも、実はこの妻夫木だ。

 やがて石野の散髪は終わったが、案の定無惨な出来映え。鏡を見てないので平静を保っているが、見たら大騒ぎは必至だ。

 そんな飲み会の合間も、テレビにはあのビルの間に挟まった男・大倉と、海岸に打ち上げられたクジラのニュースが流れている。

 腹は減る、身動きはとれない。そのうち状況に進展がないのに飽きた報道陣や野次馬も帰ってしまう。泣き面にハチ、ヤケのヤンパチになった大倉は、大声で昔の中学校校歌を歌い出す。するとビル屋上で待機していたレスキュー隊員・津田が、驚いてヒョッコリと顔を出した。「あなたもあの中学の出身ですか?」

 何と津田は、大倉の中学校の先輩だった。

 海岸ではクジラの救出活動が続いていた。漁船で引っ張ったりブルドーザーで押したりも効果なし。今は付近の住民と、あの女子高生・派谷、サーファーの北村まで一緒になって綱引きの真っ最中。それでもびくともしない。周囲はテレビ・クルーやら野次馬で大混乱だ。そんな様子に呆れ顔のサーファー・北村まで、テレビのインタビューを受けると調子よくある事ない事しゃべってハシャギまくる。これには女子高生・派谷もシラけきった。

 やがて妻夫木、田中、伊藤はクルマで帰る。すると後に残された石野が自分の髪に気づいて、予想通りの大騒ぎだ。元々いろいろ女関係では泣かされどおしの石野。日頃から田中の自慢ばかりする妻夫木への羨ましい気持ちもあった彼は、飲み会の酔いも手伝ってモテモテ男の松尾にここぞとばかり絡む。何とかそんな石野をなだめると、今度は腹減っただの酒が欲しいだの勝手言い放題。結局、柏原は自転車で買い出しに行くハメになる。

 そんな買い出しの途中、柏原は久々に旧友の山本太郎と再会。やたらとハデハデになっていた山本に新居を知らせて別れる。だがその後で、柏原はクルマにはねられるという災難。運良く大事には至らず何とか起きあがったが、そんな彼の携帯電話に大阪に住む恋人からの電話がかかる。

 やがて柏原の旧友・山本は彼の新居に押しかけ、友人たちも連れてカニを食いに行こうと誘い出す。だが優柔不断男の松尾は、珍しく石野を振りきって帰った。実は松尾はここに来る前、恋人の池脇千鶴と動物園でデートの際に、優柔不断さが災いしての大喧嘩。それがずっと気になっていたのだ。

 一方、妻夫木たちも帰宅せずにクルマでブラブラ。妻夫木のかつての母校にやって来て、田中は彼の昔話を聞き出そうとする。昔話と言えば、妻夫木と伊藤のかつての同級生で不良だった男の話が出るが、彼らはそれがあのビルの間に挟まった大倉だとはまだ知らない。

 そんな妻夫木は、かねてからいずれ映画製作に乗り出すと豪語しながら、いつまで経っても実行しない男だった。

 そんな一同に、また新しい一日がやって来る…。

 

見た後での感想

 見ていて、登場人物たちの「ありがち」ぶりについつい笑ってしまう映画だ。

 メインはあくまで友人たちの飲み会とその顛末で、海岸のクジラとかビルの間に挟まった男はサイド・ストーリー的なもの。ひたすら夜を徹した飲み会やらクルマでのブラブラぶりが、ダラダラと繰り広げられる。このダラダラぶりが、昔僕も経験した若い頃の仲間との夜遊びを思い出させて懐かしくはある

 確かに妙に男の気を惹こうとした女とかいたし、女の事でキレる男もいた。まぁ、そのあたりでは何がしかの共感やら懐かしさを抱く人もいよう。笑っちゃうエピソードも少なくない。

 そんな一方で、打ち上げられたクジラやビルの間に挟まった男がニュース絡みで出てくるっていうのは…そして、それが最終的にすべての登場人物とリンクしてくるというのは、そんなありふれた日常がどこか突拍子もない事件と繋がっているという暗喩なのだろう。

 なのだろう…と極めて消極的な言い方で書いてしまったが、実はこの映画、僕には致命的な欠陥を持っているように思える

 まずは、そんな飲み会や夜遊びのダラダラぶり…その日常ありふれた描写の延々続くあたりだ。

 延々ダラダラが続くから退屈だと言うのではない。実は見ていて退屈はしない。それなりに芸達者な連中が揃っているせいか、細部にちょっとした笑いをまぶしてあるせいか、それはそれで見ていて面白い。それはそれでいいのだが、実は「共感やら懐かしさを抱く人もいよう」と言ってはみたものの、それが自分の実感とピッタリ重なり合うほどのリアリティは感じられないのだ。

 「ありがち」な設定、「ありがち」な人物、「ありがち」な台詞、「ありがち」なエピソードが連発して、確かにそういうモノを描こうとしているのは分かるが、だからと言ってそれが「あぁ、自分もこうだった」とまで痛感するほどにはリアルじゃない。面白くドラマを構築してはいるが、だからと言ってそれが映画を飛び出してこっちへ迫ってくるところまではいかないのだ。

 淡々日常描写を日常そのものとして描ききってこその、突拍子もない事件が日常とリンクしている…という仕掛けだろう。それがどうにも不発にしか感じられない。

 この映画には、これって何かを狙っているんだろうな…という小技があちこちに散見される。自転車でクルマにはねられた柏原が、本来のドラマならここで大事になるところを、何食わぬ顔で携帯電話を手にとって話し始める…という意表を突いた趣向。そもそもフェリーニの「甘い生活」ラストで海岸に打ち上げられた魚みたいに意味深なクジラとかも、それだけで何かを象徴しようとしているかに見える。淡々とした日常…というにはちょっと違う気がするんだよね。

 それに、劇中の中盤あたりで突然設定される、時系列の腸捻転

 柏原宅の飲み会の夜が一段落した後で、いきなり時間が冒頭に逆戻りする。これって僕が頭が悪いのかもしれないが、タランティーノ映画…例えば「パルプ・フィクション」あたりのように、単に映画の時系列をいじって見せただけなのか。それともドラマとして時間が本当にループしているのかが分からない。実際にループしているとすれば、それでもおかしくないような語り口なのだ。平穏なありふれた日常ってのは、こう同じように毎日毎日続いていくんだよ…みたいにね。そのへんが混乱したのは僕が頭が悪いからって気もしたけれど、僕はセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を見たって混乱しなかったよ。これは明らかに観客をミスリーディングしようとしているか、あるいはそのへんをちゃんと描ききれなかったかのどちらかだ。

 しかもそれのどちらであっても話法は混乱しているし、必然性には乏しい。唯一、本当に時間がループしているとすれば、先に述べたように「平穏なありふれた日常ってのは、こう同じように毎日毎日続いていくんだよ」…という事を表現する意図はあっただろうが。それにしたってこれは何だったのだろう。あまり効果を挙げているとは思えない。

 変わり映えしない日常って事こそが、確かに作者が言いたかった事なのだろう。重要人物の一人、妻夫木が映画を撮ると言いながらいつまでも撮らずにいるあたりも、そういう何も起きない日常が日々続いていくことを象徴させたように見える。だが、それは深読みすればそう見える…というだけであって、映画そのものがおのずからにじみ出させているものではない。

 しかも思わせぶりな仕掛けがあちこち散見されるだけに、何か意図があるのではないか…と必要以上に考えてしまうのだ。それも、ことごとく不発。これって一体何なんだろうね。

 それが災いしてか、今回の物語の中心に座るべき妻夫木のキャラクターが今ひとつ見えない。「ジョゼと虎と魚たち」では、中味スカスカになりがちな中庸キャラクターを、絶妙な実感を持って見せていた妻夫木なのに、今回はただのモラトリアム人間なのか…何を考えているのかまったく見えない。曖昧さを持たせたい、あるいは観客を何らかのカタチで誘導したくない…という意図があったことは、何となく察せられる。だからと言って、最後まで何だか分からない…ではマズかろう

 楽しい役者たちが楽しげにやっていて、それなりに楽しませてはくれるが…どうも映画の意図としては空回りしている気がするんだよね。

 

見た後の付け足し

 見終わってパンフレットを買ったら、行定監督が案の定コメントを寄せていた。今まで「ドラマ」をつくって見せて来たけど、日常ってわざわざドラマにしてつくらなくても豊かなモノじゃないか…。パンフレットには監督のコメントとしてではないが、他にも狙いめいたモノがいくつか書いてあった。小津映画のように、ジャームッシュのように…なるほどねぇ。

 やっぱりな…って感じ。

 やりたい事は分かる。ドラマをつくっていくって事は、限りなくウソをついていく事だ。コレと決めた結論に向けて観客を誘導すべく物語を構築していくと、途中でいろいろ無理が生じてくる。それって当然自然じゃないからね。それを力業でいくか、それともさらに緻密にウソを並べていくか…ドラマっていうのはそうやってつくっていくものだ。

 だが、本当はそんな事必要ないんじゃないか…それはドラマをつくってきた人間なら、誰しも一度は考える事だろうね。

 でも、小津とかのあの「一見淡々…」ってやつは、これはやるとなるとすごく難しい。語り口にそれなりのノウハウがなければ出来ない。しかも、それですら本当は「淡々」で「自然」なんかじゃない。かなり巧妙に力を加え、ウソを仕掛けてあの「淡々」「自然」が生み出されるのだ。むしろ、こちらの方がもっと力やウソが必要かもしれないのだ

 翻って行定監督って、「GO」一本で語るのは失礼と百も承知だが、果たしてそういう映画づくりに適った人だろうか。「GO」ってむしろ真っ当で王道な、ドラマと言えばドラマのメインストリートを走っているような、娯楽映画らしい娯楽映画ではないか。

 行定監督にそういう映画をつくる力がなかった…と言ったら失礼だろう。これはむしろ、行定監督という映画作家がそういう映画の作り手とは全く異なる…全く相容れない資質の持ち主だったということではないか?

 描けてないのではない。語れないのではない。むしろ何かを描こう語ろうとするのを避けているのだろうが、それにしては行定監督はやっぱりまだ描きすぎ語りすぎてしまう。だから淡々で自然…であるはずの日常の中のちょっとしたノイズが、何だか意味ありげな象徴や仕掛けに見えてしまう。そこで観客の深読みを誘ってしまうから、それが不発だったと見えてしまう。

 あるいは、「淡々」「自然」の中につくらなくてもいい象徴や仕掛けをつくってしまう。だけど今回は「描かない」「語らない」語り口を選択したから、それが舌足らずになってしまう。いずれにしても、どこか宙ぶらりんで中途半端な印象を与えてしまうのだろう。

 全然ダメかと言えばそうじゃないからこそ、これは明らかだ。あのダラダラな夜更かしをそれなりに楽しませて見せてしまうあたり、それこそが行定監督の資質なのだと言わざるを得ない。そもそも最初に目標とした狙いそのものが、彼には合っていなかったのだ

 例えば、この映画の中で最も「つくってる」と思われる部分…ビルに挟まった男のエピソードを見れば、それが端的に分かる。物語の途中途中で挿入される挿話の域を出ないから、どうしても舌足らずにはなっている。それでもヤバイ橋を渡っていた男が、たまたま陥っていた危機的状況で「先輩」と出会い、そこで新たな人生を見出すというストレートな展開を見せているではないか。そこには思わせぶりも意味不明も不発もない。語り口は今言ったように不完全燃焼ながら、それでもこの映画が言いたいことのようなものは見えてくる

 だからこの映画、文句は言ったし成功作とも思ってないが、ダメ映画…と切って捨てる気はしない。途中の挿話もそれなりに楽しませてくれるしね。そもそも、たぶん行定監督が意図したであろう狙いもキライじゃない。全然うまくいってないと思うけどね。

 ありふれた堂々巡りの日常が、ホンのちょっとした事から一歩踏み込んだ「明日」につながっていく事もある…。

 僕もそう信じたい。相も変わらず煮詰まった日常の中にいればこそ、自分の「明日」を少しでも肯定的に感じていたいからね。

 

 

 

 

 

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